折原久左ヱ門

没年月日:2018/02/01
分野:, (工)
読み:おりはらきゅうざえもん

 金工の造形作家折原久左ヱ門は、2月1日心不全のため死去した。享年86。
 1931(昭和6)年7月18日、山形県南村山郡南沼原村(現山形市南沼原)の農家に3男7女10人兄弟の7番目、次男として生まれる。46年、山形師範学校予科(現、山形大学教育学部)に入学するが、51年、同校を中退し東京教育大学に入学する。ここで講師として指導にきていた商工省工芸指導所の職員で、クラフトデザイナー、金工作家であった芳武茂介に鉄板の絞り、鍛金技法を学び、一枚の鋼鈑を叩くことによって複雑な形を作り出すことができる鍛造に魅力を見出すようになる。55年、東京教育大学を卒業し福島大学の助手となり、その翌年第12回日展出品の「鉄花器」が初入選する。58年、北海道学芸大学岩見沢分校の助手として北海道に移り、62年、北海道学芸大学(現、北海道教育大学)函館分校の助教授を経て74年、北海道教育大学の教授となる。折原自身この函館が気に入り、東京という中央志向よりも地方での制作や教育を続けることを志向してこの地に定め、新日展、北海道の全道展を中心に作品を発表する。68年からは日本現代工芸美術展への出品を始め、制作の幅を広めていくようになる。56年の日展初入選の鉄花器から60年代初期の作品は折紙の形を取り入れた直線的に折り曲げた構成、また尖鋭感のある造形であり、60年後半からは扁壷のような円形を基調とした花器なども制作するようになる。しかし、長年の金属を打ち叩くという行為は聴覚に障害を及ぼすようになるようになり、70年代から技法を溶接や鋳造へと変えることとなった。粘土から形を作っていくことは鍛金と比べて容易であったと後に述懐し、また溶接は複雑な造形作品を生み出していく。それまで鉄だけであった材料もブロンズ、アルミニウム、黄銅、白銅などと多彩になり、作品の表現の意図によって使い分けるようになる。
 84年、第16回改組日展で、「連作―祭跡―」で文部大臣賞を受賞、86年に前年の17回日展出品作「祀跡」で日本芸術院賞を受賞する。その後、制作のテーマは「結の空間」、「接(つなぎ)」、「祀」、「道標」へと展開していく。「結の空間」は人間関係が弱そうに見えても実は強いものであるということを、黄銅を用いて紐を結んだ形で表現したものである。「接」は、社会は単純に一つのことだけで成り立っているわけではなく、いろいろな関係が複雑に絡みあっていることを表現したものであった。「祀」は人がつながり集まる中で、人は安心のよりどころとして心の中でおまつりをするとして、それを造形化したものであった。「道標」は氏自身の設定している人生を進んでいることを表わしたと述べている(「折原久左エ門展 金属造形―創造の軌跡」北海道立函館美術館、2011年)。
 また、大形のモニュメント作品も手がけており、「青史の道標」(1988年、函館市千代台公園・1991年、野村證券高輪研修センター)、「祭祀」(1994年、函館市グリーンプラザ)、「波遊」(1993年、洞爺湖ぐるっと彫刻公園)、「北国に躍る友がき」(1975年、富良野)など北海道に多くの作品を残す。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(497-498頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「折原久左ヱ門」『日本美術年鑑』令和元年版(497-498頁)
例)「折原久左ヱ門 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995616.html(閲覧日 2024-04-19)

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