本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





松本哲男

没年月日:2012/11/15

 日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

宇佐美直八

没年月日:2012/10/25

 江戸時代より続く表具所である宇佐美松鶴堂八代目当主の宇佐美直八は10月25日、肺炎のため死去した。享年86。 宇佐美家は天明年間(1781~88)に初代直八が西本願寺前において同寺直属の表具所として創業。以来、西本願寺御用達として展開した。代々当主は「直八」の名跡を名乗る。その宇佐美家の二男として1926(大正15)年1月27日に誕生、「直行」と命名。立命館大学工学部卒業。七代目「直八」のもとで装潢技術の研鑽に励んだ。1946(昭和21)年、西本願寺国宝襖絵の修理に従事。59年3月、国指定の文化財(絵画)を修復していた7工房が結集し、装潢技術の向上をはかると共にそれらに付帯する事業を行うことを目的として「国宝修理装潢師連盟」が設立された際、これに「宇佐美松鶴堂」として加盟。74年には宇佐美松鶴堂を個人商店から株式会社に移行させて代表取締役に就任。80年には京都国立博物館内に設置された文化財保存修理所の開設にともない、その一角を工房として使用するとともに、運営委員を委嘱される。翌年には桂離宮解体修理工事のうちの表具工事を担当する。この年10月には75年の先代死去のち空き名跡となっていた「直八」を八代目として襲名。82年には京都国立博物館文化財保存修理所修理者協議会会長に就任する(~1993年)。1990(平成2)年3月には(財)京都府文化財保護基金より永年の文化財修理に対して功労賞を受賞。同年11月には地方の文化振興に対する功労で文部大臣賞を受賞する。95年5月、国宝修理装潢師連盟理事長に就任(~1999年5月)。96年4月29日春の叙勲に際し、勲五等双光旭日章の栄誉を受ける。代表的な文化財修理として西本願寺飛雲閣壁画、厳島神社平家納経、建仁寺風神雷神図屏風がある。著書に『京表具のすすめ』(法蔵館、1991年)。

宇佐美圭司

没年月日:2012/10/19

 画家で、武蔵野美術大学、京都市立芸術大学等で教授として教鞭をとった現代絵画家の宇佐美圭司は、10月19日食道がんのため福井県越前町の自宅で死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月29日、大阪府吹田市に生まれる。幼少期を和歌山県和歌山市で過ごした後、58年大阪府立天王寺高等学校を卒業、同年に上京、東京藝術大学受験を目指した。しかし受験に向けた素描、油彩からはずれた抽象化された繊細なドローイング、油彩画を描くようになり、不定型なフォルムが画面をおおい尽くすアメリカ抽象表現主義の影響を感じさせながらも、青年らしい繊細さと鋭さがあるオールオーヴァーな平面作品を製作するようになる。63年には南画廊で初個展開催。66年、初めてニューヨークを訪れる。以後、72年までたびたび同地に滞在した。現代美術の潮流が、抽象表現主義から、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ等を中心に、ネオ・ダダ、ポップアートへと伝統的で形骸化した「絵画」という形式に対する懐疑と否定を主張する表現を前にして、決定的な影響を受けた。そうした転換期にあって画家自身が、たびたび以下のように述懐するように、一枚の報道写真のイメージがその後の創作にとって大きな要素となった。「1965年、アメリカ各地で黒人暴動があり、『アメリカの暑い夏』と言われた。私の絵に使用している形はロスアンゼルス郊外のワッツ地区のもので『ワッツの暴動』といわれた報道写真から抜け出してきたのである。(中略)私はその写真に強くひきつけられた。街路樹、看板、襲撃を受ける店、道いっぱいに広がる群衆。私はその風景をなかば抽象化して『路上の英雄』というシリーズの作品を発表した。それ以来記号化した人間の形は、私の作品のかわらぬモチーフになってきた。」(「思考空間」、『思考空間 宇佐美圭司 2000年以降』カタログ、財団法人池田20世紀美術館、2007年10月-08年1月)以後、画面のなかの人型が、軽快な色面としての記号として反復、変容しながら、感情表現を排した一見概念図ともみられるような構成をとる絵画をシリーズとして制作するようになった。 68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館)で大原美術館賞受賞。69年、J.D.ロックフェラー三世財団より奨学金を受ける。72年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館出品。81年、多摩美術大学芸術学科助教授となる。1989(平成元)年、第22回日本芸術大賞受賞。翌年、武蔵野美術大学油絵科教授となる。91年、福井県越前海岸に「海のアトリエ」を作る。92年、セゾン現代美術館(長野県北佐久郡軽井沢町)他にて「宇佐美圭司回顧展」開催。93年、『心象芸術論』(新曜社)を刊行、翌年同書掲載の「心象スケッチ論 宮澤賢治『春と修羅』序 私註」により第4回宮澤賢治奨励賞を受賞。96年、武満徹とのコラボレーション「時間の園丁」制作。2000年から05年まで、京都市立芸術大学教授を務める。01年6月から10月まで、「宇佐美圭司・絵画宇宙」展を開催。10代の初期水彩作品から近作まで251点から構成された回顧展となった(福井県立美術館、和歌山県立近代美術館、三鷹市美術ギャラリー巡回)。02年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。07年10月から08年1月には、池田20世紀美術館(静岡県伊東市)において「思考空間 宇佐美圭司 2000年以降」を開催。2000年以降制作の水彩、油彩の大作22点によって構成された展覧会となる。12年3月から6月まで、大岡信ことば館(静岡県三島市)において、新作2点を含む41点による「宇佐美圭司 制動(ブレーキ) 大洪水展」が開催されたが、前年の東日本大震災以後ということを強く意識した同展が生前最後の展覧となった。13年10月から12月まで、セゾン現代美術館にて「没後一年 宇佐美圭司」展が開催された。 アメリカ現代美術がもっとも熱気と変革の思想をはらんだ時代である1960年代から70年代のアメリカ現代美術の影響をうけながら、独自の絵画思考を深めることができた美術家であった。その点からも、同時代の日本の現代美術の展開を回顧するうえで欠くことのできない作品を数多く残した。それらの作品においては、記号化され、シルエットのように平面化された人間の形は、現代における人間存在の危機的で象徴的な記号(フォルム)として変容、変化しつつも、画家にとって終生にわたるモチーフ、あるいは表現、構成の要素であった。 さらに多くの著述のなかで記された芸術論は、絵画の歴史をふりかえることで深められた思考として、すぐれた現代美術論ともなっている。また晩年にいたる展開は、文明論的なスケールの大きさを感じさせる旺盛な創作に挑んでいた。 なお、主要な著作、作品集は下記にあげるとおりである。『絵画論―描くことの復権』(筑摩書房、1980年)『線の肖像―現代美術の地平から』(小沢書店、1980年)『デュシャン(20世紀思想家文庫〈13〉)』(岩波書店、1984年)『記号から形態へ―現代絵画の主題を求めて』(筑摩書房、1985年)『心象芸術論』(新曜社、1993年)『絵画の方法』(小沢書店、1994年)『20世紀美術』(岩波書店、1994年)『絵画空間のコスモロジー―宇佐美圭司作品集 ドゥローイングを中心に』(美術出版社、1999年)『廃墟巡礼―人間と芸術の未来を問う旅』(平凡社、2000年)

今道友信

没年月日:2012/10/13

 東京大学名誉教授で哲学者・美学者の今道友信は10月13日、大腸がんのため死去した。享年89。 1922(大正11)年11月19日、東京に生まれる。41年、旧制成城高等学校入学。安部公房、小野信彌、河竹登志夫らと知り合い、校友会誌『城』に「タルソの明るい星―聖パウロの神学―」(1941年)「アウグスチヌスの認識論」(1942年)を寄稿する。42年、教員たちと衝突し退学処分となる。43年、旧制第一高等学校入学。当時の校長安倍能成による自由な校風のもとで学ぶ。また、学外では上智大学のイエズス会修道院に通いカトリックについて勉強を続ける。45年、法学部への進学を望む父を説得し、東京大学文学部哲学科に入学。出隆に師事。同時期には、後に哲学者となる平林康之、山本信、茅野良男、熊谷直男、大森荘蔵、所雄章のほか、渡邉恒雄や森本哲郎が在籍していた。戦争がはげしくなる中、今道は戦時特別受業学生に選ばれて徴兵を免除され、大学に残って勉学に没頭する。48年、東京大学文学部卒業。53年、東京大学大学院特別研究生修了。55年、ヨーロッパに渡り、ヴュルツブルグ大学やパリ大学で講師を務める。56年9月、ヴェネツィアで行われた戦後最初の国際美学会で「美学の現代的課題」と題した発表を行い、国際的な評価を得る。58年に帰国し、九州大学文学部助教授に着任。62年、東京大学文学部助教授。68年、ドイツの大学での講義をもとに『Betrachtungen uber das Eine』を執筆。中国哲学史を体系的に論じた本書は、原稿段階でシュルティエ賞による出版助成を得て、東京大学文学部より刊行された。同年には『美の位相と芸術』も刊行しており、これらを以て教授に任ぜられる。また、この年には国際美学会副会長にも選出されている。73年、ヴァルナで行われた第14回世界哲学大会の基調講演で、民族や国家単位の倫理ではなく、人類全体の生圏(エコ)全体に及ぶ普遍的な倫理体系を目指す新しい倫理学「エコエティカ」を提唱。これは今道のライフワークのひとつとなる。82年、哲学美学比較研究国際センター設立。83年に東京大学を退官する際には、これを記念して『美学史論叢』が刊行された。その後も、放送大学、清泉女子大学、英知大学(のちに聖トマス大学と改称)などで教鞭をとるかたわら、精力的に研究・執筆をつづける。86年、紫綬褒章。1993(平成5)年、勲三等旭日中綬章。2003年、『ダンテ『神曲』講義』でマルコ・ポーロ賞。30年以上前の『美の位相と芸術』の続編として刊行された『美の存立と生成』で、07年に和辻哲郎文化賞。 確かな文献学的研究に裏打ちされた広範な知識は、古代ギリシア・ラテンから現代におよぶ西洋哲学のみならず東洋の思想にまで及び、その知識に基づいた独自の形而上学的思索による体系的研究によって多大な業績を残した。欧米での知名度が日本のそれを上回るとさえ言われるほどに国際的な哲学研究の舞台でも活躍し、国際美学会副会長、パリ哲学国際研究所所長、国際形而上学会会長などを歴任した。教育者としては、古典の文献学的研究の重要性を徹底し、現在の日本の美学界を牽引する優れた研究者たちを輩出した。また、『美学史研究叢書』(全7輯、1971~82年)、『講座美学』(全5巻、1984~85年)の編纂によって美学および美学史の研究状況の全体像を示し、その後の美学研究者にとっての礎石となる仕事を成した。上記以外の主な著作『同一性の自己塑性』(東京大学出版会、1971年)『美について』(講談社現代新書、1973年)『アリストテレス』(講談社、1980年)『東洋の美学』(TBSブリタニカ、1980年)『現代の思想 二十世紀後半の哲学』(日本放送出版協会、1985年)『西洋哲学史』(講談社学術文庫、1987年)『エコエティカ 生圏倫理学入門』(講談社学術文庫、1990年)『知の光を求めて 一哲学者の歩んだ道』(中央公論新社、2000年)『出会いの輝き』(女子パウロ会、2005年)『超越への指標』(ピナケス出版、2008年)『中世の哲学』(岩波書店、2010年)『今道友信わが哲学を語る』(かまくら春秋社、2010年)

室井東志生

没年月日:2012/10/05

 日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

上平貢

没年月日:2012/09/30

 京都工芸繊維大学名誉教授で元京都市美術館長の上平貢は9月30日、鳥取県内の病院で死去した。享年87。 1925(大正14)年8月20日、広島県呉市に生まれる。1951(昭和26)年に京都大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業し、同大学文学部の助手を務める。元々日本美術史を志望していたが、美学の理論研究を進めるうちにイタリア美術、とくにルネサンス美術を研究の対象とする。その一方で子供の頃から書を本格的に学び、また京都大学在籍中には森田子龍ら前衛的な書家が同大学の井島勉や久松真一に書の理論を求めて出入りしていたこともあり、書の評論も手がけている。57年から京都市立美術大学で専任講師、66年より助教授を務め、その間65・66年度イタリア政府留学生としてフィレンツェ大学文科哲学部美術史研究室で、とくに彫刻家ティーノ・ディ・カマーノについて研究。68年から京都工芸繊維大学工芸学部で助教授、73年より教授を務め、1989(平成元)年に退官し名誉教授となる。その間84~86年には同大学附属図書館長も務める。退官後の89年に京都市美術館館長となり2004年まで奉職、同館の別館開館(2000年)にも尽力した。一方で89~94年に宝塚造形芸術大学教授、94~01年嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学)の学長を務め、01年の嵯峨美術短期大学退職とともに同大学名誉教授となる。また91年より意匠学会会長、96年より財団法人京都市芸術文化協会理事長、02年より特定非営利活動法人文字文化研究所副理事長(05年より理事長)、04年より京都市文化芸術振興条令策定協議会会長を歴任。この間、03年には京都市文化功労者の表彰を受け、04年には京都で社会貢献活動をし、顕著な功績のあった個人を顕彰する第19回ヒューマン大賞を受賞している。主要著書に『フィレンツェの壁画 保存と発見』(岩崎美術社、1973年)、『レオナルドと彫刻』(岩崎美術社、1977年)がある。

森秀雄

没年月日:2012/09/20

 エアブラシによる写真のような画面で青空を背景とする人物像を描いた洋画家森秀雄は9月20日、大腸がんのために死去した。享年77。 1935(昭和10)年7月27日、三重県鈴鹿市江島町に生まれる。父は伊勢型紙の彫り師であった。59年東京藝術大学絵画科油画専攻を卒業。小磯良平に師事した。学生時代、塗り重ねによる重厚な絵肌の油彩画の制作が不得手であると認識し、写真を画面に写し取り、エアブラシで着色する方法の研究を始める。62年第12回モダンアート協会展に「SAKUHIN「P」」を出品して奨励賞受賞。63年、第13回同展に「美学の裏側」を出品して新人賞受賞。66年、モダンアート協会を退会し、翌年から一陽展に出品。67年、リキテックス絵の具の輸入を高松次郎とともに奨励し、絵の具を画面に吹き付けるためのスプレーガンの改造を北伸精器と重ねる。同年第13回一陽展に「PARALLEL-オンナ」、「PARALLEL-赤の帯」を出品して一陽賞受賞。68年、第14回一陽展に「SUN WARD SUN WARDS (彼女とバラと)」「LISING SUN(彼女とバラと)」を出品して一陽会会友となる。69年、紀伊国屋画廊にて個展「偽りの青空」を開催。エアブラシによる写真のように平滑な色面で、青空を背景に人体石膏像を描く「偽りの青空」シリーズは、材料・技法の新しさと斬新な表現で注目された。69年第15回一陽展に「青の広告(白による)」「青の広告(青による)」を出品して、同会員に推挙される。70年から76年までジャパンアートフェスティヴァルに出品。同展は70年には米国のグッゲンハイム美術館他で、71年はリオとミラノで、72年はメキシコとアルゼンチンで、73年は西ドイツほかで、74年はカナダで、75年はオーストラリア、ニュージーランドで、76年は米国で開催された。74年、日本国際美術展(毎日新聞社主催)に招待出品して優秀賞を受賞。80年、青空と波立つ海を背景に左胸部が破損したミロのヴィーナスの像をエアブラシによって再現的に描いた「偽りの青空-蘇えるヴィーナス」で第23回安井賞特別賞受賞。81年、「10人の画家たち展」(神奈川県立近代美術館)に「偽りの青空」シリーズの6点を出品。84年、池田20世紀美術館で「森秀雄 青の世界」展を開催。87年、第10回東郷青児美術館大賞を受賞。88年には池田20世紀美術館に800号の壁画「My Dream(一碧湖)」を完成させる。画面にスプレーによって絵の具を吹き付けて白い雲の浮かぶ青空を背景に石膏像のような人物像を描き、フォトリアリズムとシュールレアリズムを融合した画風を示した。その作風は、同様の傾向を示した三尾公三の作品とともに、広く受け入れられたが、高度成長が進み、都市に高層ビルが林立する一方で、軽薄短小な傾向が評価され、人間性が疎外されていった1960年代後半からの日本社会を反映しているようでもある。2001(平成13)年にはニューヨークのウエストウッドギャラリーで個展を開催。翌年にはジャパン・インフォメーション・カルチャー・センター(ワシントンDC)で日本大使館主催による個展「偽りの青空」を開催した。05年、東京芸術劇場にて「森秀雄展 偽りの青空」を開催。06年、一陽会代表となる。10年には中国美術館にて同館主催の個展「偽りの青空 森秀雄」展が開催され、国際的にも知られた。

清水善三

没年月日:2012/07/16

 京都大学名誉教授で、日本彫刻史研究者の清水善三は、7月16日、虚血性心疾患のため京都市内の自宅で死去した。享年81。 1931(昭和6)年5月13日、静岡県浜名郡鷲津町(現、湖西市)に生まれる。50年愛知県立豊橋時習館高等学校卒業、同年京都大学文学部に入学。大学2年の時に結核にかかり、4年間の休学を余儀なくされた。その病床で出会ったのが仏像であったという(「ひと 新世紀 仏の顔」『京都新聞』1985年12月19日)。京大教養部で教鞭をとっていた、インド美術史を専門とする上野照夫の「美学はやるな。飯が食えんぞ」という口癖を乗り越えて、58年に同大学院文学研究科修士課程(美学専攻)に進学。芸術の自律的原理および芸術の自律的研究方法を追求した植田寿蔵を師とする井島勉、文化財保護委員会や奈良国立博物館等を歴任し、平安初期彫刻と室町水墨画など多ジャンルにわたる研究をおこなった蓮實重康のもとで、仏教美術を学んだ。くわえて学生時代には、当時、京都国立博物館学芸課に勤めていた毛利久に調査手法を学び、また京大文学部で「平安初期密教美術」を講義していた佐和隆研の授業に出席し、佐和のお伴で醍醐寺をはじめとする全国各地の調査に加わったという。 63年京大大学院文学研究科博士課程(美学専攻)単位取得満期退学、68年4月京都精華短期大学助教授に着任。71年4月に京大文学部助教授、79年11月学位論文『平安彫刻史の研究』を提出。翌年に教授となり、着任より24年間にわたって後進の指導に従事した。1995(平成7)年3月に定年退官。退官後は、さらに東海女子大学文学部教授(2002年まで)、文化庁文化財保護審議会第一専門調査会専門委員(2000年まで)を務めた。 清水の彫刻史研究は、彫刻様式の発展過程を跡づける様式論と史料読解にもとづく仏師論に大別され、またいち早く「場」の問題(仏像と空間の関係)に言及したことも特筆される。清水の様式論は、当時、優美性や情緒性などの印象批評的な評言で語られることの多かった彫刻史への批判に発し、彫刻の様式の概念を明確に規定して、その様式概念にもとづいて彫刻史全体を体系化しようとするものであった。作品のもつ固有の特質・視覚的造形的な本質・内的な形式を見極め、美術の固有の歴史を解明しようとする京大美学の学風を色濃く受け継ぐもので、様式論を完全に美学的に昇華させた点に特色がある。一方、様式史の対象とならないとみなされた、個々の彫刻がもつ特殊性(尊格や図像の相違、作者の違い等)にも目配りをしており、仏師と仏師組織に関する研究が、様式論を補完する役割として展開されることになったと想像される。 立体物としての彫刻がもつ「物理的量」と、それに独自な彫刻的手法をほどこすことによって造形化される「視覚的量」の関係を彫刻の「様式」と規定し、時代様式として完成しているものについては両者の一致がみられ、過渡期においては両者に齟齬が生じるという独特の彫刻史観は、仏像の美的価値の構造を客観的に真摯に追究しようとした清水の到達点であった。 主著に『平安彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1996年)、『仏教美術史の研究』(同、1997年)があるほか、解説・書評等多数。大宮康男による追悼文「清水先生の思い出」(京都大学以文会『以文』57、2014年)より、誠実温厚な人となりがうかがわれる。

大場松魚

没年月日:2012/06/21

 蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)の大場松魚は6月21日午前11時5分、老衰のため石川県津幡町のみずほ病院で死去した。享年96。 1916(大正5)年3月15日、石川県金沢市大衆免井波町(現、金沢市森山)に塗師の和吉郎(宗秀)の長男に生まれる。本名勝雄。1933(昭和8)年3月、石川県立工業学校図案絵画科を卒業、父のもとで家業の髹漆を学ぶ。43年3月、金沢市県外派遣実業練習生として上京し、金沢出身の漆芸家で同年5月に東京美術学校教授となる松田権六に師事。内弟子として東京都豊島区の松田宅に寄宿して2年間修業を積み、松田の大作「蓬莱之棚」などの制作を手伝った。45年3月、研修期間終了のため金沢に帰り、海軍省御用のロイロタイル工場に徴用されるが、徴用中に「春秋蒔絵色紙箱」を制作し、本格的な作家活動に入る。終戦後、同作品を第1回石川県現代美術展に出品して北国新聞社賞を受賞し、金沢市工芸展に「飛鶴蒔絵手箱」を出品して北陸工芸懇和会賞を受賞。46年2月の第1回日展に「蝶秋草蒔絵色紙箱」を出品して初入選。同年10月の第2回日展に出品した「槇紅葉蒔絵喰籠」は石川県からマッカーサー(連合国軍最高司令官)夫人に贈呈されたという。48年の第4回日展に「漆之宝石箱」を出品して特選を受賞。52年6月から翌年の9月にかけて第59回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御太刀箱)を制作。53年の第9回日展に「平文花文小箪笥」(石川県立美術館)を出品して北斗賞を受賞。このころから後に大場の代名詞となる平文技法を意識的に用い始める。56年の第3回日本伝統工芸展に出品して初入選。57年の第4回日本伝統工芸展に「平文小箪笥」を出品して奨励賞を受賞。同年は第13回日展にも依嘱出品し、これが最後の日展出品となった。58年の第5回日本伝統工芸展に「平文宝石箱」(東京国立近代美術館)、翌年の第6回展に「平文鈴虫箱」を出品して、ともに朝日新聞社賞を受賞。66年11月、金沢市文化賞を受賞。73年の第20回日本伝統工芸展に「平文千羽鶴の箱」(東京国立近代美術館)を出品して20周年記念特別賞を受賞。59年に日本工芸会の正会員となり、64年に理事、86年に常任理事に就き、87年から2003(平成15)まで副理事長として尽力した。60年以降は同会の日本伝統工芸展における鑑審査委員等を依嘱され、また86年から03年まで同会の漆芸部会長もつとめた。64年8月より67年5月まで中尊寺金色堂(国宝)の保存修理に漆芸技術者主任として従事。72年5月から翌年の3月にかけて第60回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御櫛箱・御衣箱)を制作。こうした機会を通じて古典技法に対する造詣を深めつつ、蒔絵の分野の一技法であった平文による意匠表現を探求して独自の道を開いた。平文は、金や銀の板を文様の形に切り、器面に埋め込むか貼り付けるかして漆で塗り込み、研ぎ出すか金属板上の漆をはぎ取って文様をあらわす技法である。大場の平文は、蒔絵粉に比して強い存在感を示す金属板の効果を意匠に生かす一方、筆勢を思わせるほど繊細な線による表現も自在に取り入れ、これに蒔絵、螺鈿、卵殻、変り塗などの各種技法を組み合わせて気品ある作風を築いたと評される。77年2月に石川県指定無形文化財「加賀蒔絵」保持者に認定され、78年に紫綬褒章を受章、そして82年4月に国の重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定された。漆芸作家としての人生を通して金沢に居を構え、多くの弟子を自宅工房に受け入れ、地場の後継者育成に尽力した功績は大きく、研修・教育機関においても、67年4月から輪島市漆芸技術研修所(現、石川県輪島漆芸技術研修所)の講師、88年から同研修所の所長をつとめ、77年4月には金沢美術工芸大学の教授に着任、81年3月の退任後(名誉教授)も客員教授として学生を指導した。

畑中純

没年月日:2012/06/13

 漫画家で東京工芸大学教授の畑中純は、6月13日腹部大動脈瘤破裂のため東京都の病院で死去した。享年62。 1950(昭和25)年3月20日福岡県に生まれる。68年小倉南高校卒業後、上京し東京デザインカレッジ漫画科に入学するが、同校は倒産。さまざまなアルバイトをしながらマンガを描き続ける。74年一枚漫画集『それでも僕らは走っている』を自費出版。77年『話の特集』に一枚漫画「月夜」の連載でデビューする。木版画の肌合いをいかした画面は独自の味わいを持ち、自分の絵は他人に触らせず、アシスタントを使わない作画を通した。畑中といえば、79年『週刊漫画サンデー』に連載した「まんだら屋の良太」であり、10年間にわたる人気漫画となった。単行本は53巻(実業之日本社)にのぼる。北九州と思われる温泉郷九鬼谷を舞台に、旅館の息子良太17歳と幼なじみの月子を中心に、芸者、ヤクザ、ストリッパー、物書き、役者らが繰り広げる艶笑譚。九鬼谷は作者が敬愛した宮沢賢治のイーハトーブから想を得たユートピアであり、一話完結の構成はエログロ・ナンセンス、さらに古今東西の名作を渉猟した千夜一夜的な豊饒さをもった傑作となった。81年同作で日本漫画家協会賞受賞。 初期作品集に『田園通信』(日本文芸社、1986年)。他に『百八の恋』(全8巻、講談社、1990年)、『オバケ』(全4巻、講談社、1992年)、『愛のエトランゼ』(全2巻、主婦と生活社、1992年)、『玄海遊侠伝 三郎丸』(全15巻、実業之日本社、1993-96年)など多数。宮沢賢治原作で絵本『どんぐりと山猫』(筑摩書房、1997年)、『セロ弾きのゴーシュ』(響文社、2005年)がある。著書に『1970年代記「まんだら屋の良太」誕生まで』(朝日新聞社、2007年)、『「私」畑中純 まるごとエッセイ』(文遊社、2008年)なども発表した。2007(平成19)年より東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授を務めた。

深瀬昌久

没年月日:2012/06/09

 写真家の深瀬昌久は、6月9日脳出血のため東京都多摩市内の老人養護施設で死去した。享年78。1992(平成4)年に新宿ゴールデン街の行きつけの店の階段から転落、脳挫傷により障害を負い、以降、療養を続けていた。 1934(昭和9)年、北海道中川郡美深町に生まれる。本名昌久(よしひさ)。実家は祖父の代から写真館を営む。家業の手伝いとして早くから写真に触れ、高校時代にはカメラ雑誌公募欄に作品を投稿するようになる。56年日本大学芸術学部写真学科を卒業、第一宣伝社に入社。64年日本デザインセンターに転職、67年に河出書房写真部長に就任するが翌年同社が倒産し退社、フリーランスとなる。 第一宣伝社に勤務していた60年に初個展「製油所の空」(小西六ギャラリー、東京)を開催。翌61年個展「豚を殺せ!」(銀座画廊、東京)を開催。芝浦の屠畜場で撮影したカラー作品と、妊婦のヌードや死産した嬰児などを撮影したモノクロ作品からなる二部構成の展示で注目され、以降、『カメラ毎日』などに作品を発表するようになる。63年に出会い64年に結婚した鰐部洋子(1976年に離婚)をモデルとし、演出された状況での撮影、日常生活や旅先でのスナップなど、さまざまな場面で彼女をとらえた写真による一連の作品は、この時期の深瀬の仕事の中核を成し、71年に出版された最初の写真集『遊戯』(映像の現代シリーズ第4巻、中央公論社)や『洋子』(ソノラマ写真選書、朝日ソノラマ、1978年)などに結実する。74-76年東松照明、荒木経惟ら6人の写真家がそれぞれ教室を開講するWORKSHOP写真学校の設立に参画、講師を務める。74年には「New Japanese Photography」展(ニューヨーク近代美術館)、「15人の写真家」(東京国立近代美術館)に出品。 76年から82年にかけて『カメラ毎日』に「烏」と題する連作を断続的に連載。76年開催の個展「烏」(新宿ニコンサロン、東京他)で第2回伊奈信男賞を受賞。86年、同連作による写真集『鴉』(蒼穹社)を出版。また71年に『カメラ毎日』に連載した「A PLAY」のために撮影を行ったことをきっかけに、実家の写真館のスタジオで肖像写真用大型カメラを使って家族を撮影する仕事を約二十年にわたって継続し、写真集『家族』(アイピーシー、1991年)にまとめた。87年には病床の父とその死を記録した作品による個展「父の記憶」(銀座ニコンサロン、東京他)を開催、後に写真集『父の記憶』(アイピーシー、1991年)にまとめる。故郷への旅と自らの分身のような烏を中心的なモティーフとした「烏」連作と、故郷の家族をめぐる一連の作品に区切りをつけたのち、90年代初頭に深瀬の仕事は、自分の姿を画面の一部に写し込んだ旅のスナップ「私景」の連作や、入浴する自分を水中カメラで撮影した「ブクブク」、飲み屋で出会った客と舌を接触させて撮影した「ベロベロ」など、自分自身の存在をさまざまなかたちで見つめる仕事へと展開していった。これらの作品からなる92年の個展「私景 ’92」(銀座ニコンサロン、東京)の数か月、転落事故に遭い、写真家としての活動は中断された。 92年、伊奈信男賞特別賞(ニコンサロンでの計10回の個展に対して)、第8回東川賞特別賞(写真集『鴉』、『家族』他一連の作家活動に対して)をそれぞれ受賞。

織田廣喜

没年月日:2012/05/30

 日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去した。享年98。 1914(大正3)年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居する。1929(昭和4)年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務。31年から同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選する。32年に上京し34年に日本美術学校絵画科に入学。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治、林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行う。39年日本美術学校西洋画科を卒業。1940年第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選。43年、徴用により横川電機製図部に入る。45年の終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描く。46年、100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続ける。49年第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となる。翌50年第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得た。51年、二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚。52年、第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞。54年第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続ける。60年に初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国。62年にも渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。62年、第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続け、72年に同展同人となる。66年4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作する。68年第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。70年、73年にも渡仏。80年11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催される。82年3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催される。1995(平成7)年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれた。96年碓井町立織田廣喜美術館が開館。2003年フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章。2006年二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任した。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがある。

赤澤英二

没年月日:2012/05/23

 美術史家の赤澤英二は5月23日、心不全のため死去した。享年82。 1929(昭和4)年6月22日東京府に生まれる。54年東京大学農学部水産学科卒業後、57年3月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年4月東京大学大学院人文科学研究科(美学美術史専攻)修士課程に入り、翌58年6月中退。同年7月東京学芸大学教育学部助手、65年4月講師、68年4月同大学大学院教育学研究科造形芸術学担当、同年6月助教授、76年4月教授。93年3月東京学芸大学を定年退官、5月同大学名誉教授号授与。この間、84年4月から88年3月まで同大学学部主事(第4部長)、1991(平成3)年4月から93年3月まで同大学教育学部附属野外教育実習施設長を務める。95年4月実践女子大学文学部教授に就き、2000年3月同大学を定年退職。 日本中世美術史、ことに室町時代水墨画史、とりわけ雪村周継の研究で多くの業績を残した。また各地の寺院所在中世絵画の調査を精力的に行ったことも特筆される。 60年に「応永詩画軸研究1応永詩画軸の前提」(『東京学芸大学研究報告』1巻11号)、「詩軸と詩画軸」(『美術史』40号)を発表。室町時代水墨画研究の基本問題を追及する姿勢を明らかにした。「応永詩画軸研究」は、「2詩画軸画題考」(1961年)、「3山水画構図論」(1963年)と続けて基本問題を追及する一方、「「李朝実録」の美術史料抄録(一)~(五)」(『国華』882~898号、1965~67年)を発表して中世美術史の分野ではじめて朝鮮美術史料をとりあげ、今日では当然となった東アジアを視野に収めた中世絵画史研究の必要性を提起するなど、後年の幅広い研究姿勢を早くから表している。最晩年の論文も「室町水墨画と李朝画の関係」(『大和文華』117号、2008年)である。 赤澤の業績の視野は広かったが、特筆される業績のひとつは、室町の代表的な画人である雪村周継の研究を一貫して進めたことにあった。「雪村の人物画における様式展開の一つのケース―用墨法の問題に関連して」(1975年)を初めとして多くの論文を発表し、85年『国華』の雪村特集号では編集と執筆の中心となるなど研究を進め、2003年にはその集大成である『雪村研究』(中央公論美術出版)を刊行した。これは、生没年など不確定な要素の多かった雪村の伝記について有力な仮説を提示し、模作などを含む百点に及ぶ作品を精査して、様式や落款印章の形式の比較検討を経た編年を試みた大著である。さらに2008年には人物評伝『雪村周継―多年雪舟に学ぶといへども』(ミネルヴァ日本評伝選)を著した。 また大きな業績のひとつは「地方寺院伝来の中世絵画調査」をテーマとして精力的な実地調査を行い、多くの資料の発掘・顕彰を行ったことである。調査は71年から95年までで北海道を除く全国44府県の350ヵ寺、調査作品は1,100点以上に及んだ。調査により発見された優れた作品を「海西人良詮筆仏涅槃図について」、「徳報寺蔵宗祇像について」、「室町時代の絵師「土蔵」詩論」などとして数多く発表。さらに長年にわたるこれらの成果は、その中から279点155ヵ寺1神社2博物館の作品を選択し収録した大著『日本中世絵画の新資料とその研究』(中央公論美術出版、1995年)、及び数多くの涅槃図の作例を通観することによってその図像の展開を論じた『涅槃図の図像学―仏陀を囲む悲哀の聖と俗千年の展開』(中央公論美術出版、2011年)に多くの図版とともにまとめられた。幅広い実作品を互いに連関させながら学術的に紹介したこれらの成果は、今なお日本美術研究上貴重な資料である。『新資料とその研究』の後序「模倣から引用へ」では、仏画と漢画の「模倣性」と「引用性」によってその展開をみる赤澤の日本絵画史観が記されている。他方、その精力的な実地調査は文化財行政に寄与し、結果として、赤澤によって見出された多くの文化財が各自治体や国の指定となった。福井・本覚寺蔵仏涅槃図や愛知・冨賀寺蔵三千仏名宝塔図などが国指定重要文化財となったのも赤澤の学術論文によって世に知られたことによる。 共著、報告書を含む著書に上述のほか『日本美術史』(共著、美術出版社、1977年)、『日本美術全集16室町の水墨画』(共著、学習研究社、1980年)に始まる11本、主要論文は室町水墨画、雪村に関するものはもとより「縄文前期筒型土器・口付土器」(『国華』854号、1963年)や「十五世紀における金屏風」(『国華』849号、1962年)などをも含む69編におよぶ。 他方、東京学芸大学の教育学部という場にあって、教育活動にも力を注いだ。とくに4年間にわたる学部主事の時代には、88年からの新課程の設置に伴う学部再編に尽力し、この結果、既成の教員養成課程に加えて環境、国際、情報などをふまえて学校教育以外の分野でも社会貢献できる人材養成の過程が造られ、これは広く基本モデルとなった。 小金井市文化財専門委員、同専門委員会副議長、小金井市文化財審議会会長、国華賞選考委員、文化庁文化財買取協議会委員等を務めた。小金井市市政功労表彰(1983年)、東京都功労者表彰(1996年)、正四位叙位・瑞宝中綬章受章(死亡叙位叙勲)。美術史学会、美学会に所属。道子夫人との間の3男の父。

横尾茂

没年月日:2012/05/03

 自由美術協会会員の画家、横尾茂は5月3日午後1時40分、肝不全のために死去した。享年78。 1933(昭和8)年5月16日、新潟県東頚城郡浦川原村横住に生まれる。53年に上京し、働きながら56年4月に文化学院に入学して山口薫、佐藤忠良に学ぶ。60年3月に同校を卒業後、大森絵画研究所で人体デッサンを中心に研究。61年、第25回自由美術展に「野」で初入選。64年第28回同展に「遊歩」「帰路」を出品して佳作作家に推薦され、翌65年に同会員となる。74年第38回同展に「季の唄」「あひるちゃん」を出品して自由美術賞を受賞。同年には石彫「がんこもの」も出品している。日本画郎で行われる自由美術協会の井上長三郎、山下菊二、一木平蔵らによるグループ展に幾度も参加し、76年10月同画廊で初めての個展を行った。77年に線描による山水画のような背景にふたりの少女の顔をデフォルメして描いた「里のひろみとうちのはあちゃん」と、同じく線描による風景画「雨季」を出品し、前者で第20回安井賞を受賞。同作品について審査員であった本間正義は、油彩画でありながら「白描的な味わいで」「素朴でユーモラスな土俗的なにおいを発散しているところが、なんとも愉快である」と評している。79年第1回「明日への具象展」に「裾野」を出品。80年の第2回同展には「よこたわり」を、81年第3回同展には「里へ御出座の大威徳明王」を出品。85年に郷里の新潟浦川原にて「横尾茂の世界 雪と土とそしてふるさと」展を開催。88年にも浦川原芸術祭で「横尾茂と郷土の作家達展」を開催する。身近なモティーフに取材しながら、変化の激しい現代社会の表層を穿つ作品を描き、再現描写的な対象の把握を踏まえ、曲線を多用した有機的なかたちにデフォルメする独自の画風を示した。1950年代から、支持体に絵の具を塗り重ねていく油彩画技法に疑問を抱いており、70年代には塗り重ねた絵の具層を削る絵づくりが行われるようになった。学生時代に様々な技法を学ぶ中で、立体造形において粘土をつけていく塑像よりも彫りこんでいく彫像制作の作業に共感しており、絵の具層を削る技法は、「本質的なものだけを現出させる東洋の美学」に通ずるものと位置づけていた。郷里の浦川原区に横尾茂ギャラリーが開設されている。自由美術展出品略歴25回(1961年)「野」(初入選)、28回(1964年)「遊歩」「帰路」(佳作賞)、38回(1974年)「季の唄」「あひるちゃん」(自由美術賞)、40回(1976年)「おてんば」、45回(1981年)「望郷」「姉妹」、50回(1986年)「淡雪」、55回(1991年)「女の視線」、60回(1996年)「やだな娘」、70回(2006年)「悪夢(9.11)」

成瀬不二雄

没年月日:2012/04/26

 日本の洋風画研究者成瀬不二雄は4月26日、死去した。享年80。 1931(昭和6)年10月16日、福岡県福岡市に九州帝国大学仏文科教授成瀬正一の長男として生まれる。東京の森村学園小学校を卒業して、神戸甲南学園中学に学び、同高校を1年にて修了し神戸大学文学部に入学。53年3月神戸大学文学部芸術学を卒業し、翌54年3月同大学文学専攻科を終了。同年5月から神戸市立神戸美術館(後の神戸市立南蛮美術館)の嘱託となるが、同年11月に退職して神戸大学文学部芸術学助手となる。61年4月大和文華館学芸員となり、学芸係長、同課長、学芸部長を経て、同館次長となった。神戸大学在職中は、「ボードレールの詩的世界の成立とアングル及びドラクロアの影響について」(『近代』14号、1956年4月)、「ボードレールの詩「灯台」についての序説」(『近代』17号、1956年12月)、「ルーベンスとボードレール」(『近代』18号、1958年1月)、「レンブラントとボードレール」(『近代』19号、1957年5月)、「ゴヤとボードレール」『神戸大学文学会研究』(18号、1959年2月)に見られるように、ボードレールとそれに関わる美術家について研究を行っていたが、大和文華館に入った後、日本における西欧美術の受容を対象とするようになり、「桃山時代童子肖像画の一資料」(『大和文華』44号、1966年12月)、「日本洋画のあけぼの・秋田蘭画」『(美術手帖』283号、1967年6月)など、その後のライフワークとなる洋風画に関する論考が発表されるようになった。秋田蘭画における西洋的な空間表現の受容を論じ、近景を画面の前面に大きく描き、中景を水面などのモティーフとして、遠景を小さく描く特色ある構図を「近像型構図」と名づけてその系譜を跡づけ、また富士山が描かれた洋風画を悉皆的に調査し、実景と比較することによって、司馬江漢ら近世の洋風画の絵師たちが西洋風の写実を学びながらも、絵になる構図を求めて富士山を実景とは異なる位置に描いていることを実証するなど、洋風画史に大きな足跡を残した。それと並行して、従来、日本文化の近代化という文化史的側面から見られる傾向の強かった洋風画の美術的価値への理解を広めることに寄与した。1993(平成5)年、『国華』1170号掲載の「司馬江漢の肖像画制作を中心として-西洋画法による肖像画の系譜」によって第5回国華賞を受賞。97年3月に大和文華館次長を退職し2年間同館嘱託として在職、99年4月に九州産業大学大学院芸術研究科教授となり、洋風画史を講じた。晩年の著作となった『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)、『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)、『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)、『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)、『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)は半世紀近い調査研究の集大成となっている。主要著書『東洋美術選書 曙山・直武』(三彩社、1969年)『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(坂本満・菅瀬正と共著、小学館、1970年)『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(集英社、1977年)『江戸の洋風画』(小学館、1977年)『百富士』(毎日新聞社、1982年)『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)

影丸穣也

没年月日:2012/04/05

 漫画家影丸穣也は、4月5日膵臓癌のため死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月3日大阪府に生まれる。本名久保本稔。中学卒業後自動車整備会社に勤めるが、体調を崩し退社。貸本漫画を読み、独学で作画を研究する。久保本稔名で57年単行本『怪獣男爵』(あたみ書房)でデビューする。以後、大阪の貸本漫画で活動し、貸本漫画誌『影』に発表の頃には影丸譲也のペンネームを使用。後に「穣也」とする。61年「拳銃エース」を『冒険王』に発表、少年誌にデビューする。63年上京。影丸の名前が有名になったのは68年『週刊少年マガジン』で連載した横溝正史原作の「八つ墓村」である。横溝の小説では「悪魔が来りて笛を吹く」(『東京スポーツ』)も手がけ、こちらは映画の画面を漫画に起こしている。また高校で番を張り、不良で剣の使い手氷室洋二が繰り広げる教師や大人たちとの抗争から少年院での闘いまでを描いた「ワル」(真樹日佐夫原作、『週刊少年マガジン』、70年4/5合併号から73年2号)は、異色の学園ものとなった。つづいて梶原一騎の原作で極真空手の創始者大山倍逹の半生を描いた実録漫画「空手バカ一代」(『週刊少年マガジン』)を先発のつのだじろうの後を受けて、73年48号から77年52号まで作画、この連載は空手ブームを巻き起こした。NHKの番組「プロジェクトX」や大河ドラマ「義経」などの漫画化も手がけた。全体的には梶原一騎原作が多く、劇画調といえる黒い画面にハードボイルドなストーリー、いわゆる「男っぽい」硬派な作品を得意とした。

中川幸夫

没年月日:2012/03/30

 生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション《鏡の中の鏡の鏡》を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

川上貢

没年月日:2012/03/20

 建築史家で京都大学名誉教授の川上貢は3月20日午前10時45分、大阪府高槻市内の病院で肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年9月6日大阪府に生まれる。1946(昭和21)年京都帝国大学工学部建築学科に入学。49年に卒業後、同大学院の特別研究生として村田治郎に師事、53年に京都大学工学部講師、55年に助教授、66年に同教授となる。88年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より1990(平成2)年まで福井大学工学部教授、同年より95年まで大阪産業大学工学部教授を歴任。 京大助教授時代の58年に、「日本中世住宅の研究」にて同大より工学博士号授与、翌59年には同論文に対して日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 近世の書院造より以前の、実物遺構が現存しない鎌倉・室町時代の住宅建築の平面形式とその空間の具体的使われ方を歴史史料に現れる記述の分析を通じて解明するとともに、寝殿造から書院造に至る支配階級の住宅の変遷過程を初めて提示した学位論文は、『日本中世住宅の研究』(墨水書房、1967年)として公刊され、建築史学にとどまらず関連学会からも基本文献として評価されることとなった。実物遺構の調査に基づく研究としては、学部生当時から禅宗寺院の塔頭建築の意義と構成の考究に力を注ぎ、その成果は『禅院の建築』(河原書店、1968年)として刊行されている。 後年には、近世や近代の建築調査を主導することを通じて、多くの建造物の文化財指定、保存に貢献したほか、教育や学会活動の面でも大いに活躍した。76年から94年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務めたほか、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。さらに、日本建築学会の理事、監事や、87年より89年の間は建築史学会会長を務め、学会の発展に貢献した。94年より財団法人京都市埋蔵文化財研究所所長として、また98年より2006年まで財団法人建築研究協会理事長として、考古学調査や文化財建造物の保存修理にも指導的役割を果たした。これらの業績により03年に旭日中綬章を受章、10年には「日本建築史に関する研究・教育と建築文化遺産保存活動の功績」にて日本建築学会大賞を受賞した。 上記以外の主な著作に、『室町建築』(日本の美術199 至文堂、1982年)、『近世建築の生産組織と技術』(編著 中央公論美術出版、1984年)、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988年)、『近世上方大工の組・仲間』(思文閣出版、1997年)などがあり、調査報告書の執筆や編集も数多く担当している。

杉岡華邨

没年月日:2012/03/03

 かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨は3月3日午前1時16分、心不全のため奈良市の県立奈良病院で死去した。享年98。 1913(大正2)年3月6日、奈良県吉野郡下北山村に生まれる。本名正美。1933(昭和8)年奈良師範学校(現、奈良教育大学)本科、34年専攻科を卒業後、郷里の尋常高等小学校に赴任。そこで習字の研究授業を命じられたのを機に書道に取り組み、40年に師範学校中学校高等女学校習字科教員免許状を取得(文検合格)。同年より書家辻本史邑のもとで本格的な書の勉強を始める。41年より奈良県立葛城高等女学校、43年より郡山高等女学校で勤務。この頃、国語学・国文学者の吉澤義則の著作『日本書道隨攷』や『日本書道新講』『日本国民書道史論』等から強い影響を受けてかなの道へ進むことを決意し、46年より尾上柴舟に師事、東京へ稽古に通い、柴舟が心酔する粘葉本和漢朗詠集を学ぶ。日展へは三度の落選を経て51年第7回日展に「はるの田」が初入選、その後も二度の落選を経験し、恒常的に入選するようになったのは54年第10回展の「平城京」以降と、40歳を過ぎての遅いデビューであった。57年に尾上柴舟が没すると日比野五鳳に師事し、五鳳のもとで寸松庵色紙、継色紙、西行系の古筆を学ぶ。翌年第1回新日展で西行の筆勢を彷彿とさせる「香具山」、61年第4回新日展で大字かな制作に取り組んだ「鹿」がともに特選・苞竹賞を受賞。65年より哲学者久松真一のもとに通い、思想的指導を受ける。76年日展評議員となり、78年改組第10回日展で「酒徳」が文部大臣賞、83年には「玉藻」により日本芸術院賞を受ける。広く和漢の書法を研究、とくに平安朝のかな書法を極め、宗教的精神や美学、文学的背景も含めた豊かな素養に基づき、流麗典雅で格調高い書風を確立した。84年読売書法会発足に伴い創立総務、85~88年日本書芸院理事長を務める。1989(平成元)年芸術院会員となる。95年文化功労者となり、2000年文化勲章を受章。この間の98年に回顧展「かな書の美 杉岡華邨展」を松屋銀座・心斎橋大丸で開催。この頃日本画家の中路融人との合作を手がけるようになり、同回顧展にも「最上川」を出品。同年奈良市制百周年に際し作品を寄贈したのを機に、2000年奈良市杉岡華邨書道美術館が開館、館長に就任する。01年奈良市名誉市民に推される。06年に脳梗塞で倒れるも翌年には回復、その後も制作を続け、日展には11年第43回展への「妹思ふ」まで出品、翌12年1月の「近江京感傷」が絶筆となる。13年に松屋銀座・高島屋大阪店で開催の生誕100年記念展を心待ちにしながらの死であった。 旺盛な創作活動とともに一貫して教育、研究にも携わり、48年より大阪第一師範学校教官、50年大阪学芸大学(現、大阪教育大学)専任講師、59年助教授、70年教授となって長らく後進の指導に努め、81年名誉教授となる。この間51年より文部省内地研究員として京都大学文学部に留学し、美学美術史、中国文学史、さらに平安朝文学にあらわれた書のあり方を研究。その後も研究心は尽きず、源氏物語にみられる書の研究をライフワークとし、07年に『源氏物語と書生活』(日本放送出版協会)を上梓した。その他の主要著書は以下の通り。『かな書き入門』カラーブックス(保育社、1980年)『古筆に親しむ かなの成立と鑑賞』(淡交社、1996年)『書教育の理想』(二玄社、1996年)『かな書の美を拓く 杉岡華邨・書と人』(ビジョン企画出版社、1998年)

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

 ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

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