本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





中村誠

没年月日:2013/06/02

 グラフィックデザイナー、アートディレクターの中村誠は6月2日、肺炎のため死去した。享年87。 1926(大正15)年5月9日、岩手県盛岡市に生まれる、生家はゴム長靴などを扱う中村ゴム店を営んでいた。幼少期に近所の薬局の店頭に飾られた資生堂化粧品のポスターに強く魅せられ、同社広報誌『花椿』の山名文夫による表紙画を模写した。33年岩手県立盛岡商業学校(現、岩手県立盛岡商業高等学校)に入学。美術部に所属、写真に興味を持ち、フォトグラムも制作する。同年秋には全国商業学校ポスター展で入選。同校在学中に生家の中村ゴム店が閉店。43年12月、同校を繰上げ卒業。44年4月東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科図案部に入学。主任は和田三造、担任は小池岩太郎で、2年生のときに軍の教育用図面を描く作業に動員される。46年「ニッポンルネッサンス・広告展」(日本橋・三越、主催は日本広告会)に出品。47年10月から資生堂宣伝部嘱託となり、翌年11月まで勤める。48年3月同校工芸科図案部を卒業。49年9月、資生堂に入社、宣伝部に配属。52年第37回二科展の商業美術部に出品。53年第3回日本宣伝美術会展に出品、特選を受賞、会員となる。以後68年の同会解散まで毎年出品。57年「資生堂香水」で第10回広告電通賞雑誌広告電通賞を受賞。60年ころ、写真家横須賀功光やデザイナー村瀬秀明と知り合い、新しい写真表現と印刷技術を駆使する広告制作に取り組む。63年「資生堂海外向け企業ポスター」(コスチュームは三宅一生、写真は横須賀功光)で日宣美会員賞受賞。また同年、ADC金賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞して、新時代のアートディレクターとして一躍注目を浴びる。66年同社の夏用化粧品「ビューティケイク」のキャンペーンでモデル前田美波里を起用し、「太陽のように愛されよう」というコピーがヒットし社会現象となる。70年「モナリザ百微笑展」(銀座一番館ギャラリー)で福田繁雄と50点ずつの作品を展示、翌年から「ジャポン・ジョコンダ」展としてパリ装飾美術館で開催、その後アメリカをはじめ十数カ国に巡回される。76年第6回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで「資生堂ネイルアート・資生堂フラッシュアイズ」が商業部門で金賞受賞。資生堂では宣伝部デザイン課長(1962年から)、宣伝部制作室長(1969年から)、宣伝部長兼制作室長(1977年から)、役員待遇宣伝部長(1979年から)、役員待遇宣伝制作部長(1982年から)、常勤顧問(1987年から)を務める。資生堂を離れた後はフリーのグラフィックデザイナーとなり、自然やエコロジーをテーマにした作品を多く発表した。93年紫綬褒章受章。それまでの山名文夫らによって作られた繊細なイラストレーションによる資生堂のイメージを刷新、時代を先導するブランドイメージを確立し、戦後の日本広告界やグラフィックデザイン界を牽引してきたアートディレクターとして位置づけられる。 作品集に『富嶽三十六景・江戸小紋と北斎』(凸版印刷、1972年)、『紀信と玉三郎』(凸版印刷、1973年)、『中村誠の仕事―アートディレクションとデザイン』(講談社、1988年)がある。観光文化交流センター「プラザおでって」開館にあわせて、全作品193点とコレクション200点を盛岡市に寄贈、2000年に同館の柿落としとして「中村誠ポスター展」を開催。2008年7月に萬鉄五郎記念美術館で回顧展を開催。国際グラフィック連盟(AGI)会員、東京ADC委員、JAGDA理事を歴任。「日本のポスター100年」展(銀座松屋、1968年)、グラフィックイメージ72(東京セントラル美術館、1972年)、グラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74(東京セントラル美術館ほか、1974年)などの企画展で作品が展観された。

森郁夫

没年月日:2013/05/30

 帝塚山大学名誉教授で歴史考古学を研究し、特に瓦研究の第一人者でもあった森郁夫は胃癌のため5月30日に死去した。享年75。 1938(昭和13)年2月25日、名古屋市に生まれる。60年3月、國學院大学文学部史学科卒業後、64年4月、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部、71年には飛鳥藤原宮跡調査室に着任。85年4月 京都国立博物館に転出、学芸課考古室長として着任し、1995(平成7)年3月まで勤務した。同年4月、帝塚山大学教養学部(現、人文学部)教授として着任、97年4月に帝塚山大学考古学研究所長を兼務。98年1月 「古代寺院造営の研究」で國學院大學より博士(歴史学)の学位を取得した。2004年4月には自ら設立に尽力した帝塚山大学附属博物館の初代館長に就任。10年3月、帝塚山大学名誉教授に就任した。和歌山県文化財センター理事長、三河国分寺整備委員会委員長、日本宗教文化史学会評議員などを務めた。 國學院大学では大場磐雄に師事し、当初は地鎮や鎮壇具に関する研究を始め、処女論文「密教による地鎮・鎮壇具の埋納について」(『佛教藝術』84号)を発表。66年、出土遺物のうち瓦を担当する奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部考古第三調査室に着任したことを受け、本格的に瓦の研究を始めた。平城京や飛鳥宮・藤原京、その寺院跡等での豊富な調査経験を踏まえ、瓦に留まらず、京内の土器の研究も進めた。84年には三都土器研究会を立ち上げ、99年には古代の土器研究会として発展、会長に就任している。京都国立博物館に在任中は「畿内と東国」展(1988年)、「平城京」展(1989年)、「倭国」展(1993年)など精力的に考古分野の特別展を企画、開催した。特に「畿内と東国」展は全国及び朝鮮半島までの瓦を概観した古代瓦に関する初めての大規模な展覧会であり、古代瓦の持つ歴史的価値を多くの人に知らしめた。古代における瓦生産は当時の最先端の技術であり、寺院造営を表象するとの主張は『瓦と古代寺院』(六興出版、1983年)、論文集『日本の古代瓦』(雄山閣出版。1991年)などの著書にまとめられ、その後の瓦研究ひいては古代史研究に大きな影響を与えた。晩年、その集大成として『日本古代寺院造営の研究』(法政大学出版局、1998年)を出版。没後も遺稿を纏めた『一瓦一説』(淡交社、2014年)が出版されている。 帝塚山大学に移ってからは、同考古学研究所、同附属博物館の設立に奔走。研究所を拠点として歴史考古学研究会などを主宰し、ここから多くの瓦研究者が育っていった。さらに同研究所においては市民大学講座も定期的に開催したほか、一般向けの著作も多く、法隆寺夏季講座の講師を長年務めるなど一般市民への文化財理解の普及にも努め、多くの古代史ファンに慕われた。

鳥山健

没年月日:2013/05/05

 大阪市にギャラリー白(はく)を開廊し代表取締役を務めた鳥山健は5月5日17時30分、大阪市内の病院で死去した。享年90。 1922(大正11)年11月1日、福岡県筑紫郡那珂村(現、福岡県福岡市博多区)に生まれた。関西学院大学社会学部卒業。大阪市内の自宅で出版社を立ち上げ、高校の国語のサブテキストの製作・販売に携わる一方、1967(昭和42)年、大阪市中央区今橋に開設された今橋画廊の企画責任者となる。今橋画廊では、現代美術家を若手、ベテランを問わず紹介するとともに、デザインや陶芸、染織、書などの分野で新しい表現を模索する作家にも積極的に門戸を開くなど、古くから「ものづくり」が盛んで、美術の概念的枠組みが緩やかな関西の風土に根ざした独自の企画を展開した。 79年10月、有志5名で有限会社ギャラリー白を設立して代表取締役となり、大阪市北区西天満の千福ビル2階に同名の画廊を開設、今橋画廊時代の運営方針をより明確に打ち出す。また、80年代初頭に関西の若い作家の間で台頭しつつあった絵画復権の動き、表現主義的への回帰を敏感に察知し、YES ARTなどの企画展を開催して、ミニマル、コンセプチュアルな方向性に行き詰まり活路を模索していた東京の現代美術界に衝撃を与え、全国的に注目される存在となる。以後、80年代から90年代にかけて、関西の最先端の美術動向のよき理解者、支援者として、多くの才能を東京のみならず国際的な舞台へと送り出した。企画展のテキストの書き手に関西の若い学芸員や研究者を登用し、批評家の育成に心を配ったことも特筆される。 2002(平成14)年2月、ギャラリー白をいったん閉廊するが、同年9月に同じ西天満の星光ビル2階で再開廊。03年9月には3階にギャラリー白3を増設し、最晩年まで関西の現代美術に関わり続けた。逝去した年の11月17日には、大阪キャッスルホテルで「鳥山健さんを偲ぶ会」が催され、関係者約200名が参集して、故人の業績や人柄に思いをはせた。

管洋志

没年月日:2013/04/10

 写真家の管洋志は、4月10日大腸がんのため死去した。享年67。 1945(昭和20)年7月9日福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。 日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。また母校日本大学の客員教授、ニッコールクラブ顧問などを歴任し、後進やアマチュア写真家の指導にあたるとともに、2000年日本写真家協会の常務理事に就任、企画担当として同協会主催の「日本の子ども60年」(東京都写真美術館、2005年、以降海外各地を巡回)、「生きる―東日本大震災から一年」(富士フォトギャラリー新宿、2012年、仙台およびドイツ・ケルンに巡回)などの企画運営に尽力した。 死去の翌年、長く顧問を務めたニコンサロンで遺作展「一瞬のアジア people and nature in harmony」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、2014年)が開催された。

加藤重髙

没年月日:2013/04/09

 陶芸家の加藤重髙は、4月9日午前10時50分、ぼうこうがんのため自宅で死去した。享年85。 1927(昭和2)年4月26日、愛知県瀬戸市窯神町に加藤唐九郎ときぬの三男として生まれる。15歳になる42年頃から、陶芸家として活躍していた父・唐九郎の助手として作陶を始め、愛知県立窯業学校を卒業した45年頃からは個人作家としての活動をも開始した。陶技は、愛知県瀬戸地域の伝統的な技法である灰釉・鉄釉・志野・織部・黄瀬戸を中心に、信楽や唐津など幅広く、58年の第1回新日展に「織部壺」で初入選を果たし作家としてデビューした。65年には第4回日本現代工芸美術展に入選し、翌年の第5回展では「流れ」を出品し工芸賞を受賞。66年の第9回日展では「刻文方壺」で特選・北斗賞を受賞し、翌年には、前年(昭和41年度)の活躍に対して日本陶磁協会賞を受賞した。またその間、63年から始まった陶芸公募展の第1回朝日陶芸展に「湧く」を出品して入選し、以降、69年の第7回展まで連続入選。65年の第3回展、66年の第4回展、68年の第6回展では受賞を果たし、70年の第8回展では審査員を務めた。68年には広島県宮島町役場に初の陶壁を設置した。71年以降、公募展や団体展の出品をすべてやめて個展を中心とした活動に切り替え、茶碗や花生、水指などの茶陶を中心に発表。とくに86年までは、ほぼ毎年のように陶壁を制作し、数多くの作品を残したことから、陶壁の作家としても知られた。1998(平成10)年、名古屋市芸術特賞を受賞し、翌年には受賞記念の個展を名古屋で開催した。 加藤重髙の活動は、日展を活動の場とした70年までの第1期(日展時代)と、公募展や団体展での発表をやめた71年から父・唐九郎がなくなる85年までの、すなわち唐九郎の作陶活動を支えたアシスタント時代の第2期、唐九郎の没後の86年から亡くなる2013年までの第3期にほぼ大別できる。第1期では公募展や団体展を意識した大形の作品を数多く手がけた。作品は、土を巧みに扱いながら素材感を最大限に生かしたもので、スペインの画家ジョアン・ミロが唐九郎を訪ねた際、唐九郎よりも重髙の作品に興味を示し、その才能を高く評価したというエピソードが残っている。第2期は、自身の創作性を一切おもてに出すことのない助手として父の作陶を支える一方で、個展を発表の場として茶陶を中心に、建築の壁面を飾る陶壁も数多く制作した。そして第3期は、日展時代に培った土への探究をさらに強く打ち出した刻文による表現を確立させて、叩きの技法を用いた迫力ある作品を生み出すとともに、父の影として培った茶陶の造形を独自に発展し展開させた。なかでも、鼠志野に見られる独特の釉色が生み出す独自の世界は、重髙芸術の真骨頂ともいえるものである。また最晩年は、朝鮮唐津にも力を入れて、独自の造形観を見せつけた。

山口昌男

没年月日:2013/03/10

 文化人類学者の山口昌男は3月10日午前2時24分、急性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。 1931(昭和6)年8月20日北海道美幌町に生まれる。美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現、北海道網走南が丘高等学校)を50年3月に卒業。同年4月から青山学院大学文学部第二部に入学し、在学中に展覧会と古書店に頻繁に訪れる。51年、東京大学文学部に入学。同学年に作曲家となる三好晃、美学者となる宇波彰らがいた。在学中は展覧会や演奏会に通い、毎週日曜日に黒田清輝の甥で光風会の画家であった黒田頼綱にデッサンを学ぶ。また、東京大学駒場美術研究会で磯崎新らと交遊する。55年坂本太郎の指導のもと、卒業論文「大江国房」を提出して同国史学科を卒業。同年4月から61年3月まで麻布学園で日本史を教える。同学園での教え子に川本三郎、山下洋輔らがいる。57年に東京都立大学大学院に入学し、社会人類学を専攻。60年、修士論文「アフリカ王権研究序説」を提出して同学大学院社会研究科社会人類学専攻修士課程を修了し、博士課程に進学。63年10月からナイジェリアのイバダン大学社会学講師となる。66年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所講師、翌年助教授となり、通称「AA研」と呼ばれた同研究所を拠点に、69年に「文化と狂気」を『中央公論』に、「道化の民族学」を『文学』に連載、「王権の象徴性」(『伝統と現代』)、「失われた世界の復権」(『現代人の思想 第15巻 未開と文明』解説)を執筆して注目される。70年6月から「本の神話学」を『中央公論』に連載。71年に『アフリカの神話的世界』(岩波新書)、『人類学的思考』(せりか書房)、『本の神話学』(中央公論社)を出版。同年9月にパリ高等研究院客員教授となり、レヴィ・ストロースのゼミで「ジュクン族の王権と二元的世界観」と題して発表する。73年、「歴史・祝祭・神話」を『歴史と人物』に、「道化的世界」を『展望』に掲載。74年、『トリックスター』(ポール・ラディンほか著、晶文社)に解説「今日のトリックスター」を掲載。77年「文化における中心と周縁」を『世界』に掲載し、また、同年、『知の祝祭』(青土社)を刊行する。これらの著作で述べられた「中心と周縁」理論や、道化に社会秩序をかく乱する役割を見出す「トリックスター論」などは、70年代以降の思想界を牽引するものとなり、山口と同じく青土社刊行の『現代思想』や『ユリイカ』で活躍し、構造主義や記号論なども紹介した中村雄二郎とともに、西洋近代的知の体系への懐疑を促す大きな力となった。1989(平成元)年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長となり、94年に同研究所を定年退職。この間の92年、電通総研で「経営の精神文化史研究会」発足に尽力。94年静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授および中央大学総合政策学部客員教授となる。また、同年、フランスのパルム・アカデミック賞受賞。95年、晩年の大著となる『「挫折」の昭和史』、『「敗者」の精神史』を岩波書店から刊行。97年に札幌大学文化学部長、99年同学長となった。同年2月、銀座の画廊「巷房」で「越境の人 山口昌男ドローイング展」、10月丸善京都河原町店ギャラリーで「山口昌男ドローイング展」を開催。同年、山口の描いたスケッチ1500点から100点を掲載した『踊る大地球 フィールドワーク・スケッチ』(晶文社)を刊行。2011年文化功労者となった。幼少期から漫画をはじめ、視覚芸術に強い興味を抱いていた山口は、60年代からアフリカ彫刻に関する論考を行い、70年代以降は学際的研究が盛んになる中、周縁や祝祭といった自説の観点から美術に関して多くの考察を残している。日本の思想界全体に西洋的な知的枠組みの再考を促し、既成の学問領域の横断から生まれる新たな思考を提起し、美術についても狭義の「美術」の枠組みにとらわれず、また、美術史学とは異なる方法によって美術や視覚芸術に関わった人々についての調査・論考を行った。大著、『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)は、日本人の全員が「敗者」となった45年に次いで日本に多くの「敗者」をもたらした明治維新に着目し、久保田米僊ら美術家も含む「敗者」、すなわち佐幕派に属する個々人が、新たな体制がつくられていく中でどのように生きたかを丹念に記し、日本近代の精神の複層性を浮き彫りにするとともに、日本近代美術史に新たな視点を提示した。死去の約二ヵ月後、『ユリイカ』2013年6月号で「山口昌男-道化・王権・敗者」と題する特集が組まれ、山口の弟子である高山宏と中沢新一による追悼対談ほか、多くの関係者による追悼の論考が掲載された。年譜と著作目録は同誌に詳しい。

いわしげ孝

没年月日:2013/03/06

 漫画家いわしげ孝は、3月6日病気のため死去した。享年58。 1954(昭和29)年12月31日鹿児島県鹿児島市に生まれる。本名岩重孝。鹿児島県立鹿児島工業高校を経て、二松学舎大学卒業。70年『週刊少年ジャンプ』の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選し、翌年同誌に掲載されデビューする。その後、高校生ながらも、集英社の手塚賞に「スクラップ」、「ブルースを歌う少女」が佳作入選するが、学業を優先し執筆活動を控え、大学へ進学する。78年第2回小学館新人コミック賞に「忘れ雪」が選ばれ、本格的デビューを果たす。80年の短篇「土用前」では、鹿児島男子高校生3人と先生、東京からきたその彼女がおりなす一夜の出来事をコミカルに描き、いわしげが得意とした男子の「恥」を朗らかに捉えている。同年創刊直後の『ビッグコミック』に「ぼっけもん」を連載、上京男子の都会での青春成長物語が大ヒットとなり、第31回小学館漫画賞を受賞する。その後、ボクシングを描いた『二匹のブル』(ここまで岩重孝名義、瀬叩龍[雁屋哲]原作、全10巻、小学館、1988年)、高校を飛び出し南米にエルドラドを求める探検活劇『ジパング少年』(全15巻、小学館、1989年)、自身の体験を活かした10年半にわたる柔道漫画『花マル伝』と『新・花マル伝』(両者合わせて38巻、小学館、1993年~2003年)は、中学からのライバル同士が世界大会で決勝を戦うという、代表作のひとつとなる。「ぼっけもん」の大人編とも言える『単身花火-桜木舜の単身赴任・鹿児島』(全5巻、小学館、1993年)『上京花火-花田貫太郎の単身赴任・東京』(全7巻、同、2013年)を『ビッグコミック』に連載していたが、後者は2010(平成22)年には病気のため休載、再開後の12年2月分が絶筆となった。他に、『まっすぐな道でさみしい種田山頭火外伝』(講談社、2003年)、『青春の門-筑豊篇』(五木寛之原作、同、2005年)などがある。

二川幸夫

没年月日:2013/03/05

 建築写真家、編集者の二川幸夫は、3月5日腎盂がんのため死去した。享年80。 1932(昭和7)年11月4日大阪市に生まれる。大阪市立都島工業高等学校で建築を学び、早稲田大学文学部に進む。美術史を専攻し56年に卒業。在学中、同大学教授で建築史家の田辺泰の示唆を受けて飛騨高山の古民家を訪れ、これをきっかけに日本各地の民家の撮影に着手した。約7年にわたって続けられた取材は、57年より『日本の民家』(文・伊藤ていじ、美術出版社、全10巻、1957-1959年)として刊行され、59年に第13回毎日出版文化賞を受賞。以後、建築写真家として古典的な建築物から現代の建築家の作品まで、国内外の多様な建築の撮影を重ねた。70年、建築専門の出版社「A. D. A. Edita Tokyo」を設立。企画・編集・撮影をてがけた『フランク・ロイド・ライト全集』(全12巻、1985-1991年)や建築写真誌『GA(Global Architecture)』(77号まで発行、1970-1999年)など数多くの書籍、雑誌を刊行する。その多くは日英併記であり、上質な写真によって海外の建築を紹介するとともに日本の建築を国際的に発信するうえで大きな役割を担った。 建築空間を的確にとらえる写真家としての確かな技量に加え、安藤忠雄の初期作品をいちはやく評価し、その後長く撮影を続け作品集を作るなど、現代建築に関する造詣の深さ、見識の高さで知られ、その写真は記録としてだけでなくすぐれた批評としても機能し、建築界に影響を与えるものであり続けた。出版活動も含めた活動は国際的にも評価され、75年アメリカ建築家協会(AIA)賞、85年国際建築家連合(UIA)賞、1997(平成9)年日本建築学会文化賞など国内外から多くの賞を受けた他、97年に紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章している。 死去の直前、国内の美術館としては初の個展となる「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」(パナソニック汐留ミュージアム、2013年、青森県立美術館に巡回)が開会し、講演会を行うなど、最晩年まで精力的な活動を展開していた。

ドナルド・リチー

没年月日:2013/02/19

 映画評論家、映画作家のドナルド・リチーは2月19日に東京都内の病院で死去した。享年88。アメリカに生まれ、日本で70年近くを過ごし、日本映画を欧米圏に積極的に紹介し国際的な評価を高める地歩を築いた。2004(平成16)年に旭日小綬章を受章した。 1924(大正13)年4月11日アメリカ合衆国オハイオ州のリマに生まれる。少年時代から映画に関心を持ち、映画館で映画を多数見て過ごした。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年米国公開)を見たのが契機となり、8mmフィルムで自分でも作品を作り始める。リマ中央高校を卒業後、アルバイトをしながらヒッチハイクでアメリカ各地を巡り、終戦直後の1946(昭和21)年、22歳の時に米国進駐軍文化財部のタイピストとして来日した。東京で47年から49年まで「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」紙の映画批評欄を担当。アメリカに帰国してコロンビア大学に入学、54年に大学を卒業した後、再び来日。54年から69年まで「ジャパンタイムズ」紙の映画批評を担当した。59年には映画評論家ジョセフ・アンダーソンとともに『The Japanese Film:Art and Industry』を出版。これは英語による日本映画についての統括的な最初の研究図書となった。そのため、欧米圏の多くの映画研究者から日本映画研究のための必読書と目された。また、61年にはカンヌ映画祭での溝口健二監督回顧上映に協力し、同年のベルリン映画祭では黒澤明監督特集、63年の小津安二郎監督特集の企画・上映の責任者を務め、日本映画を積極的に欧米へ紹介。現在では国際的に評価の高い、日本映画黄金期の監督を知らしめる礎の一端を担った。そうした貢献に対して63年には日本映画海外普及協会(ユニジャパン・フィルム)、日本映画製作者連盟から表彰を受け、同年から69年まで日本映画海外普及協会の顧問を受け持つこととなる。69年から73年にかけては、ニューヨーク近代美術館の映画部門キュレーターに就任し、日本映画の特集や、アメリカ実験映画についての巡回上映を世界各地で行うなど、意欲的な活動を継続。『小津安二郎の美学』『黒沢明の世界』など日本映画に関する多くの研究書を著した。83年には川喜多記念映画文化財団より日本映画への文化的貢献に対して第一回川喜多賞を受賞した。英語圏でのリチーの多数の映画評論・著作物は日本において2015年現在ではまだ翻訳がなされておらず、その評論活動の全容が伝えられているとは言えない。今後、国外から見た当時の日本映画を知る方法のひとつとして、また、映画そのものへのリチーの深い考察を検証する材料としても翻訳が待たれるであろう。 リチーは一方で8mmフィルムや16mmフィルムによる実験映画、映像作品の制作も続け、62年に監督した『戦争ごっこ/Wargames』がベルギーのクノック・ル・ズート国際実験映画祭、メルボルン映画祭で入賞。64年には飯村隆彦、大林宣彦、高林陽一らとともに実験的な個人映画を制作・上映するグループ「フィルム・アンデパンダン」の活動に参加し、実験映画勃興期において日本の映画作家らの中で果たした役割も大きい。リチーのその他の映画作品では65年に監督した『Life』が世界各国で公開され、ニューヨーク近代美術館に永久コレクションとして映画フィルムが収蔵されたほか、『熱海ブルース/Atami Blues』(サウンド編集版1967年)、『五つの哲学的童話』(1967年)や、黒澤明監督についての映像作品『映画監督:黒澤明』(1975年)など多数あり、映画作家としての活動も旺盛であった。 加えて、リチーは映画以外のジャンルにおいても評論・教育・創作活動を行った。出身である米国文学については50年に『現代アメリカ芸術論』、56年に『現代アメリカ文学潮流』を日本で出版し、54年から59年まで早稲田大学でアメリカ文学について講義を持った。その一方で、映画以外の創作として自身で小説を書き、演劇の戯曲を書き下ろしたほか、日本の伝統芸能である歌舞伎、能の脚本・演出も行った。『日本の伝統1 いけばな』(伊藤ていじと共著、1967年)『日本への旅』(1981年)など日本文化についても盛んに論じ、さらには美術、音楽、版画といった多岐にわたる分野に関心を持ち、多彩な評論・創作を展開した。映画評論を中心としながらもある種の百科事典的な活動が特徴でもあったと言えるだろう。没後、その執筆原稿はボストン大学の資料保存センター(Howard Gotlieb Archival Research Center)に寄贈された。

嶋本昭三

没年月日:2013/01/25

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった嶋本昭三は1月25日、急性心不全のため兵庫県西宮市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年1月22日、大阪に生まれる。関西学院大学文学部在学中に、新制作協会の大住閑子と出会ったことをきっかけに絵を描き始める。大住の上京後は、同会の増田雅子に学ぶ。47年、増田の紹介により、画家吉原治良の門下となる。関西学院大学を卒業する50年頃、新聞紙を貼り合わせたキャンヴァスに穴を開けた作品を制作し、その斬新さを吉原に高く評価される。このころから、吉原門下生たちのリーダー的な役割を果たす。53年、大阪市立豊崎中学校に美術教員として着任。54年、吉原門下の作家たちの作品を海外に発信するための雑誌を制作する際にも、印刷機の入手や作業場所の提供など、中心的な役割を果たした。雑誌名は嶋本の提案した「具体」という名称が採用され、具体美術協会が発足。以降、具体美術協会の中心メンバーとして、主要な具体展すべてに参加。55年7月の「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」(芦屋公園)では、トタンに穴を開けた作品。同年10月、東京の小原会館で開催された第1回具体美術展には、上を歩くことができる体験型の作品を出品。翌年2月には、ポロックをはじめとする海外の作家へ雑誌『具体』を発送する作業も担当。同年の「野外具体美術展」では、上を歩く作品を再度出品するとともに、「大砲絵画」を制作。この手法をヒントに、10月の第2回具体美術展では、絵具を詰めた瓶を投げつけて描く手法を初めて用いる。以降、嶋本にとって主要な制作方法のひとつとなる。62年、グタイピナコテカ開館に際して行われた連続個展シリーズで、最初の個展を担当。69年、関西女子学園短期大学専任講師(1971年助教授、74年教授)。70年の大阪万博では、お祭り広場で「1000人の花嫁」のアート・プロデュースを担当。72年の吉原の死去によって具体美術協会が解散する前年に退会するまで、中心メンバーとして活躍した。 75年、アーティスト・ユニオンに参加。翌年、同会の事務局長に選出。このころから、メール・アートを本格的に行うようになり、国際的なネットワークが構築されていく。80年、アーティスト・ユニオンがアート・アンアイデンティファイド(AU)に改名した後も、同会の運営を担う。86年、「大阪姉妹都市まつり」にイタリアの芸術家G・A・カヴェリーニを招待した際に、自らの頭を剃り上げ、メッセージを書き込むヘッド・アートを初めて行う。これはのちに海外の雑誌や新聞に大きく取り上げられる。1989(平成元)年、被差別部落の人々とともに、鴨川の河原に「へ」の字を描いた模造紙を一万枚並べるプロジェクトを実施。91年、宝塚造形芸術大学教授に就任。92年、ペインティングした廃ビルを崩壊させる「タイム・ラック」を、翌年には人間を十字架に磔にするパフォーマンスを行う。このころから、裸体の女性による女拓の制作を始める。同年、障害者の芸術祭のアート部門実行委員長を務め、94年には、日本障害者芸術文化協会会長に就任。また、85年に来日した、メール・アーティストで元原爆製造関係者である原子物理学者バーン・ポーターと交流を持ち、95年には彼によってノーベル平和賞に推薦される。98年には、ロスアンジェルスのMOCAを皮切りに世界を巡回した「Out of Actions:Between Performance and Object」展に穴の作品を出品し、ケージ、フォンタナ、ポロックとともに第1室に展示された。同年には、早い時期にアメリカで具体を紹介したアラン・カプローとともに、台湾でパフォーマンスを行った。その後も、世界各地の具体展においてパフォーマンスを披露するとともに、自身の個展も活発に行う。タピエ以降、具体の作家たちの多くが絵画へと傾倒していく中、パフォーマンスやメール・アートなど独自の路線を追求していった嶋本の活動が、結果的に、具体の名を世界に知らしめる役割を担ったと言えるだろう。 主な受賞には、95年に井植記念館文化賞、99年に紫綬褒章、2000年に兵庫県文化賞(現代美術)などがある。主な著書には、『芸術とは、人を驚かせることである』(毎日新聞社、1994年)、『ぼくはこうして世界の四大アーティストになった』(毎日新聞社、2001年)がある。

片山利弘

没年月日:2013/01/09

 グラフィックデザイナーの片山利弘は1月9日(現地時間)、食道がんのため、米ボストン郊外の自宅で死去した。享年84。 1928(昭和3)年7月17日、画家片山弘峰の次男として大阪府に生まれる。53年永井一正、木村恒久、田中一光とデザインの研究会「Aクラブ」を結成。同年からフリーランスのデザイナーとして活動、日本宣伝美術会会員となる。このころ第2回記録映画の会「忘れられた人々と安部公房特別研究報告」(大阪・大手前会館)の告知ポスターのデザインをきっかけにして、幾何学的な基本形態(エレメント)とその規則的な変形・配置(システム)による制作手法に取り組む。50年代後半、亀倉雄策らが主催する「21の会」に参加。60年日本デザインセンターに入社、東京に転居。このころ桑沢デザイン研究所講師を勤める。63年から3年間、スイス・ガイギー製薬会社の招待を受け、バーゼルに滞在、同社でデザインを担当。65年にバーゼル、ハーマン・ミラーで個展を開催し「Visual Construction」シリーズを発表、ヴィンタートゥール、ベルン、ジュネーブへ巡回。同年、ペルソナ展(銀座松屋)に参加。スイス滞在中に、現地のデザイン雑誌『GRAPHIS』114号(1964年)に小特集で取り上げられ、また同誌124号(1966年)では表紙を飾る。66年バーバード大学カーペンター視覚芸術センターの招聘を受け、アメリカのボストンへ移住、同センターで教育とデザインを担当、以後およそ30年にわたって同大学デザイン研究科の学生を指導。68年アメリカ・グラフィック・アート協会の招待による個展をニューヨークで開催、同年ボストン、カナダ・トロントでも個展を開催。70年東京プラザ・ディックで個展「Square + Movement」を開催、マグネット付きのエレメントを金属パネルの支持体に配置することでイメージを多様に変化させる観客参加型の作品を発表。75年ボストン市の地下鉄のための環境デザインを担当、地下鉄駅に4×13.5mの壁画を制作。同年、ボストン市のArt Asia ギャラリーで個展を開催、「Topology」シリーズを発表。77年オーストリアのウィーンで芸術家協会主催による個展を開催。80年代以降、日本国内の建築家らとのコミッションワークを数多く取り組み、赤坂プリンスホテル「Homage to the crystal(大宴会場の壁面彫刻)」(1983年、建築設計は丹下健三・都市・建築設計研究所)、大原美術館新館ホール「レリーフ彫刻+石壁」(1991年、建築設計は浦辺設計、石の仕事は和泉正敏)、松下電器産業・情報通信システムセンター「ロビーのランドスケープデザインと彫刻」(1992年、建築設計は日建設計、石の仕事は和泉正敏)、JT本社ビル「銅版によるレリーフ/ホワイエ壁面、回廊壁面」(1995年、建築設計は日建設計)などを手掛けた。1990(平成2)年からはハーバード大学カーペンター視覚芸術センターのディレクターを務め、95年に退官。 作品集に『片山利弘作品集』(鹿島出版会、1981年)、著書に『ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教室:4-8カ月間のグラフィックデザイン演習』(武蔵野美術大学出版部、1993年)、『Graphic design―ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教授グラフィック・デザイン教室』(京都造形芸術大学、2009年)、共著に『12人のグラフィックデザイナー』第3集(美術出版社、1969年)、メキシコの詩人オクタビオ・パスとの詩画集『3 notations/rotations』(ハーバード大学カーペンター視覚芸術センター、1974年)などがある。またグラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74ワード+イメージ(東京セントラル美術館ほか、1974年)、1976年現代ポスターの展望〈私はだれ〉展(池袋・西武美術館)などの企画展で作品が展観された。

渡辺力

没年月日:2013/01/08

 インダストリアル・デザイナーの渡辺力は、1月8日心不全のため死去した。享年101。 1911(明治44)年7月17日、東京に生まれる。1936(昭和11)年、東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)木材工芸科卒業。卒業後、群馬県工芸所にて勤務し、当時同所に招聘されていたブルーノ・タウトのアシスタントを務める。40年、母校・東京高等工芸学校嘱託となり、設計製図を講義。その間、「整理棚」(1942年)等を制作し、木工家具のデザインを手がける。43年、東京帝国大学(現、東京大学)農学部林学科選科(森林利用学)修了、同大学助手となり、航空研究所へ出向。45年3月に徴兵を受け、横須賀で入隊。同年5月末、山形県に移り、神町海軍航空隊近くの駐屯地で終戦を迎えた。49年、渡辺力デザイン事務所を設立し、独立。戦前から建築雑誌の編集部に出入りしていた関係で、建築家との交友があり、デザイナーとして独立後は清家清設計「うさぎ幼稚園」(1949年、現存せず)や「宮城教授の家」(1953年、東京)などの家具を担当している。傍ら、新制作協会展(東京都美術館)で「挟み材による家具」(1951年、新建築賞受賞)、新日本工業デザイン展(毎日新聞社主催)で「ヒモイス」(1952年)、第11回ミラノ・トリエンナーレで「テーブルとスツール(通称トリイ・スツール)」(1957年、金賞受賞)など、自身のデザインを精力的に発表していく。「ヒモイス」は、当時規格材として輸出されていたナラ材を用いて、座面と背もたれにはひもを組み、構造的にも、素材・仕上げの点からも簡素に無駄なくまとめられ、大量にかつ安価に生産できるデザインとして注目された。籐家具の山川ラタン製作の「スツール」は、夏の家具というイメージが強かった籐を一年中使えるものとした。渡辺の椅子のデザインは、日本の伝統的な建築や道具に見られる形を想起させ、これにより渡辺は、戦後の国際的なデザインシーンにおいて、日本を代表するデザイナーの一人に数え上げられるようになる。52年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)発足にともない、理事に就任。53年、国際デザインコミッティー(現、日本デザインコミッティー)の設立に参画。56年には、工業デザイン視察団として渡米し、ヨーロッパを経由して帰国。インダストリアル・デザインが日本に根づき、発展する過程で重要な役割を担った。56年、松村勝男、渡辺優とともにQデザイナーズを設立(Qは「良質の仕事(Qualitatsarbeit)」を念願してつけられた)。59年、加藤達美、菱田安彦、勝見勝らと財団法人クラフトセンタージャパンを創立。66年、東京造形大学室内建築科の開講に尽力、開講後は教授に就任し、後進の育成にも意を注いでいる。産業が成熟してくる1970年代以降は、服部セイコーのクロックシリーズ「小さな壁時計」(1970年)といった身の周りの製品から、第一生命ビル(現、DNタワー21、日比谷)の「ポール時計」(1972年)にみる公共空間、企業の役員室や、軽井沢プリンスホテル南館(1982年)をはじめとする、大規模なホテルの室内インテリアもデザインした。76年、紫綬褒章受章。1991(平成3)年、第19回国井喜太郎産業工芸賞受賞。2000年以降は、セイコーウオッチから腕時計の新作を発表するなど、60年余り第一線で活動した。学究肌で、デザイン活動の傍ら、家具、インテリア、建築に関する執筆も多数。著作には、『素描』(建築家会館、1995年)、『ハーマンミラー物語:イームズはここから生まれた』(平凡社、2003年)がある。 渡辺のデザイン思想は機能主義に貫かれており、徹底して産業の立場から「工芸」を考えてきた。その思想の具現化にあたって基本となっているのは、室内に点在する椅子であり、家具である。機能的で健康な生活を実現するための家具を空間のなかに配し、室内を起点として、建築へと創造空間を拡げていくその手法によって、装飾を極力省きつつ、格調を備えた時計やインテリアで、日本の生活空間に合ったデザインを幅広く手がけ、独自の地歩を築いた。

大谷幸夫

没年月日:2013/01/02

 建築家で東京大学名誉教授の大谷幸夫は、1月2日午後0時10分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。享年88。 1924(大正13)年2月20日、東京市赤坂区(現、東京都港区)に生まれる。東京帝国大学第一工学部建築学科を1946(昭和21)年に卒業後、同大学院特別研究生として丹下健三研究室に所属、51年満期退学後も60年まで同研究室にて研修。56~64年東京大学工学部建築学科非常勤講師、64年から同都市工学科助教授、71~84年同教授。83年から千葉大学工学部建築学科教授を兼任、1989(平成元)年同定年退官。この間、61年に設計連合を設立、67年大谷研究室を発足し、その代表として設計活動を行った。 丹下研究室に所属した15年の間に、広島平和記念公園及び記念館(1955年竣工)、旧東京都庁舎(1957年竣工)など、丹下健三の初期の代表作品にコンペ段階から実施設計・監理までを通じて携わり、その右腕として大きな役割を果たした。 独立後間もない63年に設計競技で最優秀賞を獲得した国立京都国際会館(1966年第Ⅰ期竣工)では、日本の文化的伝統と現代建築としての国際性の共存、あるいは自然との関係から導き出される建築形態、といった構想のもと、印象深い造形意匠と機能配置の合理性を見事に両立させてみせた。また、その後の四期にわたる増築過程(1971~2001年)をも通じて、基本単位としての建築が集まることで総体としての都市を構成するという大谷の方法論を実践する場となり、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選にも選定されている。 大谷は都市計画家としても数多くのプロジェクトを手掛けたが、川崎市河原町高層公営住宅団地(1972年第Ⅰ期竣工)に見られるように、市民が主体として参画できる都市のあり方を模索すると同時に、課題設定から導かれる必然的形態への指向が顕著であったといえる。このため、沖縄コンベンションセンター(1987年)や、歴史的建造物を内包する千葉市美術館・中央区役所(1995年)のように、時にかなり癖の強い形態意匠も含めて作風の幅が広いことも大谷の特徴である。 56年に「五期会」を結成して建築設計組織の変革を主張し、のちには「都市政策を考える会」の代表として政策提言を行うなど、社会との関わりにおいても活発に発言・行動した。83年には「金沢工業大学北校地の一連の作品」で日本建築学会(作品)賞を受賞、97年には「建築と都市の総合的把握に基づく一連の設計活動・社会的活動・建築教育における功績」で日本建築学会大賞を受賞した。 文化財保護審議会専門委員会委員(1974~80年)、厚生省生活環境審議会委員(1978~86年)、建設省建築審議会委員(1981~87年)、日本建築学会理事(1970~72年)、同都市計画委員会委員長(1975~80年)、日本建築家協会理事(1971~76、1984~86年)、日本都市計画学会評議委員(1978~84年)等を歴任。 上記以外の主な受賞歴等として、2001年勲三等瑞宝章受章、2002年日本建築家協会名誉会員など。主な著作に、『空地の思想』(北斗出版、1979年)、『大谷幸夫建築・都市論集』(勁草書房、1986年)などがあり、代表的設計作品は『都市的なるものへ―大谷幸夫作品集』(建築資料研究社、2006年)に収録されている。

牛尾武

没年月日:2012/12/31

 日本画家の牛尾武は12月31日、虚血性心不全のため死去した。享年57。 1955(昭和30)年3月3日、兵庫県神戸市に生まれる。本名武司。神戸芸術学林日本画科で学び76年卒業、神戸在住の日本画家昇外義に師事する。76年兵庫県展優秀賞、78年兵庫県日本画家連盟展県知事賞、79年兵庫県日本画家連盟展最優秀賞を受賞。79年に上京し、84~87年上野の森美術館絵画大賞展、85・88年東京セントラル美術館日本画大賞展に出品。85年の第3回上野の森美術館絵画大賞展では「澄秋」で特別優秀賞を受賞。1989(平成元)年には茨城県石岡市の華園寺本堂障壁画を制作。90年の銀座・資生堂ギャラリー個展〈線の蘇生〉では、北海道に取材した風景を中心に発表、繊細な線描と墨を主とする淡い色彩による豊かな画趣が一躍注目を浴びた。さらに91年第11回山種美術館賞展で「晨響(銀河と流星の滝)」により優秀賞を受賞。同年東京を離れ和歌山県田辺に居を移し、熊野をテーマに紀伊半島の自然美や風景を描く。95年には四曲一双屏風を中心とする大作による「牛尾武新作展 遥かなる原郷」を箱根・成川美術館で開催。99年には田辺市高山寺の薬師堂障壁画を制作。2004年から空海をテーマに高野山や四国、京都、奈良、さらには中国に至るゆかりの地に取材し、04~13年の4度にわたり成川美術館で作品を発表。10年には世界遺産熊野本宮館、11年には南方熊楠顕彰館で「残響の熊野」と題して田辺と熊野の風景作品を発表。同地域の芸術・文化振興に大きく貢献したことが評価され、没後の13年に田辺市文化賞が贈られた。

神山明

没年月日:2012/12/24

 彫刻家で東海大学教授の神山明は、12月24日心不全で死去した。享年59。 1953(昭和28)年1月20日東京都生まれ。75年東京藝術大学美術学部工芸科デザイン専攻卒業、77年同校大学院美術研究科デザインの基礎造形及び理論専攻修了。76年第11回神奈川県美術展に出品。79年に初個展を白樺画廊(東京)で開催。以後個展は、85年コバヤシ画廊(東京、以後4回)、87年エスェズギャラリー(島田画廊、東京、以後5回)、1994(平成6)年ギャルリーユマニテ(東京・名古屋、以後6回)などで開催。企画展ではびわこ現代彫刻展、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品。81年第2回ヘンリー・ムア大賞展で佳作賞、85年エンバ賞美術展で優秀賞、87年第18回現代日本美術展で佳作賞を受賞。88年第8回ハラアニュアル(原美術館)、89年第20回サンパウロ・ビエンナーレ、90年「作法の遊戯・90年春・美術の現在」(水戸芸術館)、92年「はこで考える」(北海道立旭川美術館、伊丹市立美術館)、2002年「東日本‐彫刻 39の造形美」(東京ステーションギャラリー)、10年「創造と回帰 現代木彫の潮流」(北海道立近代美術館)などに出品した。 80年代中頃から展開した立体作品は、杉材を組み合わせオイルステインで塗装し、作者が好んだ三日月の形を組み入れた風景彫刻である。家屋や劇場、神殿、または灯台のようであり、既視感をくすぐる構造物だった。ドールハウスや建築の模型をも思わせるが、内部も緻密につくりあげ、工作少年の故郷といえるような原風景がそこには表れていた。2006年からは紙を用いた白い立体とレリーフも展開し、人体や静物の形が暗示され、08年の「世界のはじまり、世界の終り」では40個あまりの舟型の上に柩のような人型が並び、作者の新たな造形力を見せた。11年心臓の大病を患ったことが、その後の制作に影響した。 教員歴では、東京藝大の助手、非常勤講講師、埼玉大学と東京大学の非常勤講師をはじめ、85年東海大学教養学部芸術学科専任講師に就任、90年より同助教授、96年より同教授を務めた。また2000年から1年間パリ国立高等装飾学校に学んだ。450余点を収録した作品集『AKIRA KAMIYAMA WORKS 1984-2012』(私家版、2012年)がある。

中沢啓治

没年月日:2012/12/19

 漫画家中沢啓治は、12月19日肺がんのため広島市内の病院で死去した。享年73。 1939(昭和14)年3月14日広島県に生まれる。国民学校1年生のとき被爆、日本画家の父、姉、弟と死別する。江波中学卒業後、看板業に就く。61年上京、一峰大二のアシスタントとなる。63年「スパーク1」を『少年画報』に発表、デビューする。65年、辻なおきのアシスタントとなる一方、月刊の少年誌に読み切りを発表していく。66年母が亡くなり、被爆体験をもつ殺し屋の漫画「黒い雨にうたれて」を描くが、『漫画パンチ』に掲載されたのは2年後だった。〈黒いシリーズ〉などを青年誌に続けるうちに、73年25号より『週刊少年ジャンプ』に「はだしのゲン」の連載が開始(第1部は1974年39号まで)される。同誌の創刊編集長長野規の説得に応じて連載を始めたが、広島への原爆投下による惨劇を少年誌に掲載することは当時としては異例なことであった。主人公の少年のコミカルな表現をもって、本来のテーマである「踏まれても踏まれても強く生きる麦なれ」が基礎にあったこそ成功したといえよう。新聞記事や単行本化、海外への翻訳(英語版は1978年)、ノベライズ化、アニメ化や実写映画化されるうちにこの漫画は、被爆体験を描いた貴重な資料として注目をあびるようになる。スポーツ漫画として『広島カープ物語』(全2巻、汐文社、1994年)などを発表、映画監督作品に「お好み八ちゃん」(1999年)がある。2002(平成14)年に谷本清平和賞受賞。09年からは白内障のため漫画執筆活動は途絶えた。11年に原画や単行本など10500点余りが、広島平和記念資料館に寄贈された。 著書に、『「ヒロシマ」の空白 中沢家始末記』(日本図書センター、1987年)、『「はだしのゲン」自伝』(教育史料出版会、1994年)、『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、2012年)がある。またカメラマンの大村克巳によるノンフィクション『「はだしのゲン」創作の真実』(中央公論新社、2013年)、ドキュメンタリー映画に「はだしのゲンが見たヒロシマ」(石田優子監督、2011年)がある。

東松照明

没年月日:2012/12/14

 写真家の東松照明は、12月14日肺炎のため那覇市内の病院で死去した。享年82。 1930(昭和5)年1月16日愛知県名古屋市に生まれる。本名・照明(てるあき)。50年愛知大学経済学部に入学。写真部に入部し、カメラ雑誌の月例公募欄への応募などの制作活動とともに、52年の全日本学生写真連盟の結成に向けた活動にも携わる。54年同大学を卒業、上京し『岩波写真文庫』の特別嘱託を経て、56年よりフリーランスとなる。59年奈良原一高、川田喜久治、細江英公らと写真家の自主運営によるエージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。65-69年多摩芸術学園写真学科講師、66-73年東京造形大学助教授。72年沖縄に移住、那覇および宮古島に約2年にわたって滞在後、帰京。86年に心臓のバイパス手術を受け、87年療養を兼ね千葉県一宮町に移住。1998(平成10)年に長崎市、2010年からは沖縄市に移り住んだ。 『中央公論』誌に発表した「地方政治家」(1957年)などの一連のルポルタージュが評価され、57年度日本写真批評家協会賞新人賞を受賞、61年には土門拳とともに撮影にあたった『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』(原水爆禁止日本協議会、1961年)により同作家賞を受賞するなど、第二次世界大戦後に出発した新世代の写真家の旗手として早くから注目された。60年代には在日米軍の存在を通して戦後社会を見据えた「占領」や、消えゆく日本の原風景としての「家」、被爆地長崎をテーマとした「NAGASAKI」など、同時代の日本社会の根底を深く掘り下げる一連の作品にとりくみ、評価を確立する。67年には自ら出版社「写研」を設立、写真集『日本』(1967年)、『おお! 新宿』(1969年)、機関誌『KEN』(1970-1971年)などを刊行、また66年より日本写真家協会主催の「写真100年」展(1968年)に編纂委員として参加、同展をもとに刊行された『日本写真史1840-1945』(平凡社、1971年)の編集、執筆にも携わるなど多彩な活動を展開した。 米軍基地への関心から60年代末よりたびたび沖縄を取材で訪れ、沖縄の返還後には長期滞在し、沖縄の風土に日本の原風景を重ね見た写真集『太陽の鉛筆』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社、1975年)を発表。同書により毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。こうしたとりくみを通じて関心を同時代の社会から日本の基層文化へと広げ、また70年代後半にはそれまでのモノクロ中心からカラー中心へと転換するなど、沖縄滞在は一つの転機となった。帰京後74-76年には、宮古島で現地の若者と自主学校「宮古大学」を運営した経験を踏まえ、荒木経惟、森山大道らとWORKSHOP写真学校を開設・運営。この活動はその後の写真家による自主運営ギャラリーなどの活動の源泉の一つとされる。以後80年代にかけては、引き続き沖縄に取材した「光る風――沖縄」(撮影1973-1991年、写真集『日本の美 現代日本写真全集第8巻 光る風 沖縄』、1979年)、「京」(1982-1984年)、「さくら」(撮影1979-1989年、写真集『さくら・桜・サクラ120』、ブレーンセンター、1990年)などのカラー作品を発表。また81年には実行委員会形式の写真展「いま!! 東松照明の世界・展」が日本各地を巡回した。80年代後半から千葉県一宮町の海岸などで撮影された「プラスチックス」(撮影1987-1989年、個展1989年)、「インターフェイス」(撮影1991-1996年、一部先行作品の撮影は1966、1968-1969年。個展1996年)など、俯瞰構図で被写体を直截的に捉えつつ、抽象性を帯びたカラー作品を発表する。 90年代にはメトロポリタン美術館(1992年)、東京国立近代美術館(1996年)、東京都写真美術館(1999年)などで数多くの新作展や回顧展が開催され、2000年代に入ると「長崎マンダラ」(長崎県立博物館、2000年)以後、沖縄(2002年)、京都(2003年)、愛知(2006年)、東京(2007年)において、「マンダラ(または曼陀羅)」と題し、従来の発表の文脈を解体し、撮影地ごとに新たな視点で作品を編成し直した展覧会を開催。また海外で本格的な回顧展(「Shomei Tomatsu:Skin of the Nation」2004-2007年に、ニューヨーク、サンフランシスコ他、欧米5都市を巡回)が開催され、09年には「東松照明展:色相と肌触り 長崎」(長崎県美術館)、11年には「東松照明と沖縄:太陽へのラブレター」(沖縄県立博物館・美術館)、「写真家・東松照明全仕事」(名古屋市美術館)が開催されるなど、戦後の日本におけるもっとも重要な写真家の一人として、晩年にはその仕事への評価が進められた。95年に紫綬褒章、05年に日本写真協会賞功労賞を受ける。 三度にわたって写真集が刊行され、その後も撮影にとりくんだ「NAGASAKI」シリーズに典型的なように、東松はしばしば一つの主題を繰り返しとりあげ、また晩年には過去の作品をくり返し再検証し、新たな構成で発表を重ねた。こうした写真を「過去の時間」と「現在進行形の時間」という二重の時間性において問い直す営為を通じて、同時代に対して常にアクチュアルな問題提起を試みる姿勢は、文明論的な批評性を持つ視点のとり方や、独特の造形・色彩感覚にもとづく映像美とともに、東松の写真家としての仕事を特徴づけるものであった。作品はもとより、発言や行動を通じても同時代及び後続の世代に大きな影響を与えた。死去後の13年5月には『現代思想5月臨時増刊号 総特集東松照明 戦後マンダラ』が刊行された。

三輪壽雪

没年月日:2012/12/11

 萩焼の陶芸家で重要無形文化財保持者(人間国宝)の三輪壽雪は12月11日、老衰のため死去した。享年102。 1910(明治43)年2月4日山口県萩市で生まれる。本名は節夫。生家は代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯でもあって家督を継いでいた次兄の休和(1970年に重要無形文化財「萩焼」保持者の認定を受ける)を助け、陶技を学んだ。以後、独立までの約30年間、作陶の修業に打ち込み、陶技の基礎を築いている。その期間中ではあったが、1941(昭和16)年には三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子の千歳山窯に弟子入りする機会を得ることがあり、それ以後自己表現としての茶陶の制作を志向するきっかけをつかむこととなった。 55年に雅号を「休」と称して作家活動を開始し、57年には日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選する。また、60年には日本工芸会正会員となり、十代休雪と並び高い評価を受けている。彼の作風は、萩焼の伝統を受け継ぎながらも独自の感覚を吹込んだもので、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。とくに釉薬の表現に新境地を開拓し、藁灰釉を活かした伝統的な萩焼の白釉を兄休雪と共に革新させ、いかにも純白に近いような、いわゆる「休雪白」を創造した。「休雪白」のように白釉を極端に厚塗りする技法は古萩にはなく、いかにもモダンなスタイルでもある。この「休雪白」を用いて「白萩手」「紅萩手」「荒ひび手」といった、独特の質感を呈する豪快かつ大胆なスタイルを創成させている。 67年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ十一代休雪を襲名。76年紫綬褒章、82年には勲四等瑞宝章を受章、83年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙とされる。その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003(平成15)年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。壽雪はいわば近代萩焼の革新者であり、それまで注目されなかった桃山時代の雄渾なるスタイルを現代に甦らせることで、現在美術としての萩焼を創出させたのである。その業績は、美濃焼における荒川豊蔵、唐津焼における中里無庵、あるいは備前焼における金重陶陽らに、匹敵するものであろう。しかし、じつのところは、あまり器用な作陶家ではなかったようだ。「不器用は、不器用なりに。茶碗の場合はの。器用すぎてもいかんのじゃ、これは。茶碗の場合はの。器用すぎるほど、土が伸びてしまっていかんのじゃ。やっぱし技術的には稚拙なところが、多少はあるほうが茶陶、茶碗としては、好ましい雰囲気のものになるわけじゃ」と本人は語っている。

和多利志津子

没年月日:2012/12/01

 現代美術をはじめ多彩な展覧会活動をつづけているワタリウム美術館長の和多利志津子は、12月1日心不全のため死去した。享年80。 1932(昭和7)年9月23日、現在の富山県小矢部市に生まれる。服飾デザインの仕事を経て、自宅を改装して72年12月、ギャラリーワタリ(現、渋谷区神宮前)を開く。以後、88年10月まで、国内外のアーティストの個展を開催。とりわけ、ドナルド・ジャッド(1978年2月)、ナム・ジュン・パイク(同年5月)、ソル・ルウィット(1980年3月)、ロバート・ラウシェンバーグ(1981年1月)、アンディ・ウォーホル(1982年3月)、ヨーゼフ・ボイス(1984年5月、同展はナム・ジュン・パイクとの二人展)、ジョナサン・ボロフスキー(1986年9月)等、70年代から80年代の欧米の先端的なアーティストを日本に招聘しながら積極的に、また先駆的に紹介した。そうした海外のアーティスト達との交友の一端については、『アイ ラブ アート 現代美術の旗手12人』(日本放送出版協会、1989年)のなかで記されている。なかでも、ビデオ・アートの先駆者であったナム・ジュン・パイク(1932-2006)とは、パイクの生涯にわたり個人的にも深く交友し、現代美術から思想、哲学にわたり語り合うことがあったという。 1990(平成2)年5月、同画廊の敷地にワタリウム美術館が竣工(設計は、スイス人建築家マリオ・ボッタ)。以後、ここを拠点に活動をつづけ、現代美術ばかりでなく、建築家、詩人、写真家等の多彩な人物をとりあげて展覧会を開催した。美術館建設にあたっての経緯や、その後の活動については、和多利恵津子、浩一共著『夢見る美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』(日東書院、2012年)で詳細につづられている。美術館の運営では、創設当初は国際展のキューレターの経験をもつハラルド・ゼーマン、ヤン・フート、ジャン=ユベール・マルタン等をゲストキューレターとして依頼し展覧会を開催して注目され、その後から逝去するまでジャンルを問わず様々な企画を展覧会として開催した。 画廊経営から私設美術館の運営にわたる和多利の一貫した姿勢は、アーティスト等注目した人物その人に直接会って交渉し、話し合いを通じて理解を深めることから始めている点に特色がある。その姿勢は、日本文化への関心から歴史上の人物をとりあげる際にも発揮され、研究者等の助力を得ながらも、長年にわたって独自に調査を重ねながらその人物への理解と共感を深めることで展覧会を開催している。そうしてとりあげたなかには、岡倉天心(「岡倉天心展 日本文化と世界戦略」、2005年2月-6月)、南方熊楠(「クマグスの森 南方熊楠の見た夢」、会期:2007年10月-08年2月)、ブルーノ・タウト(「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」、会期:2007年2月-5月)等がある。特に岡倉天心については、研究者ばかりではなく、他分野の専門家を招いて独自に研究会を10年間にわたり主宰して準備にあたった。この岡倉天心展にあわせて、同美術館監修により『岡倉天心 日本文化と世界戦略』(平凡社、2005年)が刊行されたが、同書の「あとがき」の冒頭で「もし、今も生きているならば、私は、きっと岡倉天心に恋している、そんな架空な夢をみています」と率直に記していることからも、その人物像を、従来の学術研究とはことなった情熱的な視点から独自に形づくろうとした。既成の評価にこだわることなく、つねに新しいアートとアーティストをはじめとするクリエイティヴな人間に関心を抱きつづけ、自らの美術館という場で紹介したことは評価される。 没後の13年1月23日に同美術館でお別れ会「夢みる 和多利志津子」が開かれ、交友のあった各界から多数の参加者があった。さらに、『アートへの組曲―追悼・和多利志津子』(同美術館企画・発行、2013年9月)が刊行された。なお同書には、国内外の交友のあったアーティストをはじめとする多数の追悼文の他に、ギャラリーワタリ並びにワタリウム美術館の展覧会記録が収録されている。

田中淡

没年月日:2012/11/18

 建築史家で京都大学名誉教授の田中淡は11月18日午前2時49分、多発性骨髄腫のため死去した。享年66。 1946(昭和21)年7月23日、神奈川県に生まれる。65年私立武蔵高等学校を卒業後、横浜国立大学工学部建築学科に入学。69年に卒業後、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻に入学。71年に修了後、博士課程に進むが、同年に中退して文化庁文化財保護部建造物課文部技官に任官。74年に退官し、京都大学人文科学研究所助手として本格的な学究の道に入る。85年京都大学人文科学研究所助教授。1994(平成6)年同教授。2010年同定年退官、同大学名誉教授。 81年から1年間、南京工学院建築研究所客員研究員。また、京都大学にて教鞭を執る傍ら、ハイデルベルク大学、国立台湾大学の研究所の客員教授をはじめ、他大学での非常勤講師、研究機関での客員研究員等も務めた。 戦前の関野貞や伊東忠太らによる現地踏査によって開始された日本人専門家による中国建築史研究は、戦中にかけての村田治郎、竹島卓一らによる研究をもって久しく中断していた。田中自身の言葉を借りれば、以後「絶学というに等しい情況」にあったわが国での中国建築史研究を単独で切り開き、戦後におけるその第一人者として学界の誰もが認める存在であり続けたのが田中淡であった。彼は、1930年代に梁思成らが設立した中国営造学社以来の中国人研究者たちが伝統としてきた現地での遺構調査を主体とする研究手法が不可能に近いという、外国人研究者に課された大きな制約条件を、文献史料の博捜・活用と、急増する考古学的新知見の積極的参照という新たな方法論をもって克服していった。そして、その方法論ゆえに、建築実物遺構が現存しない唐代初期より以前の時代を主な研究の対象とし、「中国建築史のすでに佚われて伝わらない本流の歩みと、その強固な伝統が形成されたさまざまな背景的要因」を蘇生させることに力を注いだ。 87年に、それまでの研究成果をまとめた「中国建築史の基礎的研究」で東京大学より工学博士号を取得。1989(平成元)年には、学位論文の主要部分をなす各論文を収録した『中国建築史の研究』(弘文堂)を刊行する。これより以後は、庭園史に関する論考が次第に多くなるが、建築史においても庭園史においても、中国の大きな歴史の全体像の中に各時代や各地域にみられる表現を定置しようとする視点が貫かれていた。そのような巨視的思考態度は、日本の中世新様式の一つである大仏様の源流に関する考察や、先史以来の日本固有とされる建築技法を中国南方に残る「干闌式」と呼ばれる建築との関連でとらえた論においても共通するが、各論文や訳書に付された詳細な注釈にも表れる精緻さをもって提示されるところに田中の面目躍如たるものがあった。 平城宮跡をはじめとする史跡における古代建築復元に検討委員として助言したほか、西安での大明宮含元殿遺址保存修復事業にもユネスココンサルタントとして参加した。 81年、「先秦時代宮室建築序説」で第10回北川桃雄基金賞、92年、「中国建築史の研究」で第5回濱田青陵賞受賞。 上記以外の主な著作に、『中国古代科学史論続篇』(共編著、京都大学人文科学研究所、1991年)、『中国技術史の研究』(編著、京都大学人文科学研究所、1998年)、『世界美術大全集 東洋編 第二巻~第九巻』(共著、小学館、1997-2000年)、『中国古代造園史料集成-増補 哲匠録 畳山篇 秦漢-六朝』(共編、中央公論美術出版、2003年)などがあり、主著の中国語訳である「中国建築史之研究」(南天書局、2011年)も台湾で出版されている。また、アンドリュー・ボイド『中国の建築と都市』(鹿島出版会、1979年)、中国建築史編集委員会編『中国建築の歴史』(平凡社、1981年)、劉敦楨『中国の名庭-蘇州古典園林』(小学館、1982年)など訳書も多い。

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