本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





飯田真

没年月日:2013/11/04

 日本絵画史研究者の飯田真は、11月4日、肺がんのため、岐阜県立多治見病院で死去した。享年54。 1958(昭和33)年12月23日、徳島県鳴門市に生まれる。77年3月東海高等学校を卒業し、78年4月名古屋大学へ入学、83年3月同大学を卒業し、同年4月名古屋大学大学院へ進学、85年3月同大学大学院文学研究科を修了した。85年4月から岐阜市歴史博物館の学芸員として勤務するが、1990(平成2)年3月に同館を退職。同年4月からは静岡県立美術館の学芸員として勤務し、98年4月から同館の主任学芸員、2007年からは同館の学芸課長となり、2013年3月に同館を退職した。 岐阜市歴史博物館では美術、静岡県立美術館では江戸時代の絵画、とりわけ18世紀から19世紀の浮世絵や文人画などを担当し、岐阜や静岡といった勤務地の地域に根ざした美術や絵画に関する堅実な展覧会を精力的に開催したが、その一方で、「ホノルル美術館名品展」など、海外にある日本絵画の里帰り展も意欲的に企画している。同様に、研究面では、名古屋大学在学中から専門としていた葛飾北斎をはじめ、歌川広重や小林清親といった著名な浮世絵師の研究を進めつつ、安田老山や平井顕斎、山本琴谷、原在正、原在中など、従来あまり注目されてこなかったような画家を積極的に取り上げ、その作品や表現の詳細な分析に基づいた真摯な資料紹介もおこなった。また、江戸時代絵画における風景表現の展開は、長年の研究テーマでもあり、展覧会・研究の両面を通じてアプローチし、特に富士山を主題とした実景表現への考察には優れた研究業績が多い。一方、静岡県立美術館では、同館の運営や、他館との連携協力といった事業にも意識的で、同館の主任学芸員や学芸課長時代には、学芸課の体制づくりなどにも大きく貢献した。 企画にかかわった主要な展覧会としては、岐阜市歴史博物館で「美濃の南画」(1988年3月~4月)、静岡県立美術館で「平井顕斎展」(1991年1月~2月)、「広重・東海道五十三次展」(1994年1月)、「描かれた日本の風景―近世画家たちのまなざし―」(1995年2月~3月)、「ホノルル美術館名品展―平安~江戸の日本絵画―」(1995年9月~10月)、「明治の浮世絵師 小林清親展」(1998年9月~10月)、「描かれた東海道―室町から横山大観まで、東海道をめぐる絵画史―」(2001年10月~11月)、「江戸開府400年記念 徳川将軍家展」(2003年9月~10月)、「富士山の絵画展」(2004年2月~3月)、「心の風景 名所絵の世界」(2007年11月~12月)、「帰ってきた江戸絵画 ニューオリンズ ギッター・コレクション展」(2011年2月~3月)、「草原の王朝 契丹」(2011年12月~2012年3月)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「北斎読本挿絵考」(『美学美術史研究論集』4、名古屋大学文学部美学美術史研究室、1986年4月)、「資料紹介 安田老山の絵画」(『岐阜市歴史博物館研究紀要』4、1990年3月)、「作品紹介 山本琴谷筆 「無逸図」」(『静岡県立美術館紀要』10、1993年3月)、「原在正筆「富士山図巻」をめぐって―江戸後期京都画壇における実景図制作の一様相―」(『静岡県立美術館紀要』13、1998年3月)、「原在中筆「富士三保松原図」について―江戸時代後期の富士山図をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』16、2001年3月)、「ロダンと浮世絵―『白樺』同人による浮世絵寄贈の経緯」(静岡県立美術館・愛知県美術館編『ロダンと日本』、2001年4月)、「日本文人画にみる点表現―池大雅を中心に」(静岡県立美術館編『きらめく光―日本とヨーロッパの点表現―』、2003年2月)、「谷文晁筆「富士山図屏風」について」(『静岡県立美術館紀要』19、2004年3月)、「歌川広重《不二三十六景》をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』22、2007年3月)、「《武蔵野図屏風》―静岡県立美術館所蔵作品の紹介を中心に」(『静岡県立美術館紀要』25、2010年3月)などがある。

ドナルド・フレデリック・マッカラム

没年月日:2013/10/23

 カリフォルニア大学ロサンジェルス校名誉教授で、日本美術史研究者のドナルド・フレデリック・マッカラムは、10月23日、前立線癌の転移による闘病後、自宅で静かに息をひきとった。享年74。 1939(昭和14)年5月23日、カナダ・ブリティッシュコロンビアのバンクーバーで生まれる。若いころはエジプト考古学に熱中し、57年に入学したカリフォルニア大学バークレー校では、中国学者のOtto J. Maenchen-Helfenの講義に触発されてアジア美術史の勉学に励んだ。62年学士号取得。ニューヨーク大学大学院に進学すると、アジア美術史家のAlexander Soperの指導のもと研究を進めた。彼は中国美術史をする予定だったが、当時は中国への渡航があまりにも難しい政治情勢であったため、専攻を日本美術史に変更。65年、J. D. R 3rd Fundを含めてさまざまな助成金を得て、博士論文の執筆のために日本に渡航。68年まで3年間の日本滞在中は、倉田文作、西川新次、久野健、清水善三、上原昭一、井上正ら日本彫刻史研究者との知遇を得、また66年には生涯のパートナーとなる宮林淑子と出会う。 69年UCLAの美術史学部に職を得て、在職期間中には学部長、UCLAの日本学センターの所長、UCLA東京スタディセンターの所長などを歴任した。73年、“The Evolution of the Buddha and Bodhisattva Figures in Japanese Sculpture of the Ninth and Tenth Centuries”をニューヨーク大学に提出し、博士号取得。当時日本国外ではほとんど知られていなかった9~10世紀の仏像に関する挑戦的な論考であった。同年には “Heian Sculpture at the Tokyo National Museum,” Part Ⅰと題し、71年に東京国立博物館で開催された《平安時代の彫刻》展の展評を発表。Artibus Asiae 35号に掲載されたこの展評が彼の最初の業績となった。その後、生涯を通じておこなわれた仏像研究は6世紀から19世紀の円空に至るまで非常に広範囲にわたり、古代日本に影響を与えた朝鮮半島の仏像についても論究し、地域的な広がりもみせた。研究対象も仏像にとどまらず刺青にまで及ぶ。Artistic Transformations of the Human Body(Marks of Civilization, 1988)に掲載された “Historical and Cultural Dimensions of the Tattoo in Japan” はその成果の一部として知られている。また日本国外で20世紀初頭の日本の近代洋画研究をはじめた最初期の研究者の一人であり、87年には “Three Taisho Artists: Yorozu Tetsugoro, Koide Narashige, and Kisida Ryusei” Paris in Japan:The Japanese Encounter with European Painting, St. Louis, 1987を公表。近代洋画家のなかでも松本竣介がお気に入りだったという。 彼は非常に教育熱心で、教えることを心より愛していた。いつも鋭いウィットと温かいユーモアとジョークにあふれた刺激的な講義が行われ、UCLAでは例年予定よりも多くの授業が開講された。博士課程の学生に対しては、厳しいながらも親身になって根気よく向き合った、実に面倒見のよい良き指導者であった。 UCLAで44年にわたり教鞭をとった後、2013(平成25)年6月に退職。その年の10月、彼のもとで学んだカンザス大学教授のSherry Fowler准教授らが「考古学・仏教・アバンギャルド:ドナルド・マッカラムの日本美術とのエンゲージメントを祝うシンポジウム」を企画し、研究者として指導者として卓越したキャリアを誇るマッカラムの業績を顕彰した。彼が学生に慕われていたことは、このシンポジウムをまとめたARTIBUS ASIAE VOL.LXXIV, NO.1, 2004に掲載される彼女の追悼文によく示されている。Sherry Fowler “Donald F. MacCallum(1939-2013),” Archives of Asian Art, Volume 63, Number 2, 2013, pp211-213も参照。 このシンポジウムの後、2週間を経ないうちに息をひきとった。 業績は論文等100編以上を数えるが、主要な著書には以下のものがある。 Zenkoji and Its Icon: A Study in Medieval Japanese Religious Art. Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1994 The Four …

村山密

没年月日:2013/10/22

 フランス在住の洋画家・村山密は、自宅があるパリ市内の病院で、10月22日がんのため死去した。享年94。 1918(大正7)年10月26日、茨城県行方郡大生原村大字水原(現、潮来市水原)に、父村山茂、母なみの次男として生まれる。村山家は江戸時代初期から続く地主で、祖父魁助は能書家でもあったことから、家には美術雑誌や複製絵画があり、6歳の頃にはすでに絵描きになると言い、10歳の頃には画家となってパリへ行くと両親にいっていたという。25年大生原尋常高等小学校(現、潮来市立大生原小学校)に入学。後に水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進から図画の指導を受け、在校中の1927(昭和2)年には茨城県行方郡小学校図画コンクールに出品、入賞している。31年同校を卒業し、茨城県立麻生中学校(現、県立麻生高等学校)へ入学するも、翌32年画家を目指して上京。出版会社を経営する親戚宅に身を寄せ、仕事を手伝う傍ら絵の勉強に励んだ。同じ頃、近所にあったイヌマエル教会に出入りするようになる。33年川端画学校の夜間部に通い始めるが、36年には画学校をやめ、春陽会洋画研究所に通い、石井鶴三、木村荘八、中川一政等に学んだ。この頃、イヌマエル教会にて受洗。洗礼名をヨハネとする。37年には体調を崩し一時帰京するが、翌38年に再び上京。検事局で勤務する傍ら、木村荘八の主宰する画談会に通う。39年、福島県出身で当時東京府庁に勤務していた渡邊ミツと、イヌマエル教会にて挙式。40年には前年にフランスから帰国していた岡鹿之助が春陽会の会員に迎えられ、同年4月の第18回春陽会展にて岡の滞欧作12点が出品された。村山は岡の作品に大変な感銘を受け、また画談会において岡が村山の作品を評価したことも手伝い、岡に師事するようになる。そのなかで村山は、近代的絵画の精神や近代的技法について、岡から具体的な指導を受けた。42年には第20回春陽会展に「花」が、第5回文部省美術展覧会(新文展)に「花」がそれぞれ初入選、以後春陽会展を中心に作品を出品し、49年には春陽会会友、52年には会員となっている。その間、43年には応召のため一時画業の中断を余儀なくされ、45年終戦の年には父茂が亡くなっている。 戦後の混乱もようやく落ち着いてきた54年、予てからの念願であった渡仏を果たし、パリ到着の翌日には、岡鹿之助、さらには旧水戸藩主の直系徳川圀順の紹介状を手に藤田嗣治を訪ね、以後毎日のように藤田のもとへと足を運んだ。翌55年、経済的な問題から帰国し、57年には日本橋三越において「村山密滞欧作品展」を開催。同じ頃四谷のイグナチオ教会に通いカトリックに入信している。59年、今度は定住を決意して再び渡仏。翌60年には藤田の紹介によりルシオ画廊でのグループ展に参加、以後も出品を続ける。61年にはトゥルネル画廊の代表アンヌ・マリと知り合い、翌62年同画廊にて第1回個展を開催。同年のサロン・ドートンヌでは初めて出品した「ノートルダム寺院」が初入選し、パリ16区主催風景画コンクールではド・ゴール大統領賞を受賞、翌63年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールでは「ノートルダム寺院(パリ)」を出品し、外国作家賞を受賞。この間、フランスを訪れた岡とともにブルターニュの僻村コーレルや、サルト県ソーレムのサン・ピエール修道院を巡り、岡が帰国した後の経済的・精神的苦境の際には、日本からの岡の手紙に非常に励まされたという。また、弟憲市は兄を支援するために銀座に画廊を開き、村山作品の販売を手掛けた。 春陽会や新文展に出品していたころの村山作品は、花や果物といった穏やかな静物画であったが、パリへと渡った後には、パリを中心とする風景画を多く描くようになり、風景画家としてその名が知られるようになった。色彩とフォルムの秩序を重視し、パレット上での混色を避けて色彩の純度を高める手法を採るなど、新印象派を自称する村山の作品は、印象派やキュビスムといった西洋絵画の技法と、日本人としてのアイデンティティとによって構成された現代フランス絵画であると評された。 69年にはアニエール展に「ケー・ブールボン(釣人)」を出品しグランプリを受賞、70年にはサロン・ドートンヌの会員となり、72年には同展陳列委員、さらに79年には審査委員となる。81年サロン・ド・オンフルールでウジェーヌ・ブーダン賞を受賞。同年フランス国籍を取得する。翌82年には再びアニエール展でグランプリを受賞。85年日本人で初めてサロン・ドートンヌのプレジダント・ド・セクション・パンチュール(具象絵画部門絵画部長)に任命され、翌86年にはサロン・ドートンヌの最高の栄誉ともいえるオマージュ展に日本人として初めて選出、「オンフルールの旧税関」「夜のノートルダム」「けし」「睡蓮」など18点が展示された。87年モナコ王室主催国際現代絵画展にて「ルーアンの聖堂」が宗教絵画特別賞を受賞。1991(平成3)年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章した。また、同年9月には茨城県潮来町名誉町民に任命され、11月には第27回茨城賞を受賞している。93年ルールド市主催の国際ジェマイユ・ビエンナーレでグランプリを受賞。95年にはフランス芸術院よりグランド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)を、日本国より勲四等旭日小綬章をそれぞれ授与され、97年フランス国家よりシュヴァリエ・ラ・ド・レジョン・ドヌール勲章を受章している。 フランスでは「ミュラ」の愛称で親しまれ、優秀な日本人画家をフランスに紹介し、フランス現代絵画を日本へ紹介するなど、両国の相互理解を深める上で大きな役割を果たした。

豊島弘尚

没年月日:2013/10/19

 洋画家の豊島弘尚は10月19日、肺がんのため死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月10日、青森県上北郡横浜町に生まれる。本名は豊島弘尚(としまひろたか)。40年教員をしていた父の転任で八戸に移り、少年時代を八戸で過ごす。52年に八戸高等学校を卒業し上京、翌年東京藝術大学に入学、在学中の56年に稲葉治夫、高山尚、渡辺恂三と新表現主義展(60年に新表現展と改称)を結成し、第1回展を新橋の美松画廊で開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻(林武教室)を卒業、安宅賞を受賞する。その後、銀座・サトウ画廊、村松画廊、ミキモトホール、日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース等で個展中心の発表を続ける。60年代には頭や人体の一部を切り取ったフォルムの中に、現代人の抱える不安や孤独を投影させた内面的な世界を表現していたが、74~75年文化庁在外芸術家派遣員としてニューヨーク、ストックホルムに滞在、その折に出会った北欧神話とオーロラの美しさに魅せられ、以後それらをモティーフとした壮大で幻想的な宇宙を描くようになる。76~87年は毎年1ヶ月パリに滞在。87~1989(平成元)、91、97年ストックホルムに滞在。93年東京を離れ、栃木県の那須高原にアトリエを建て移住。98年「空に播く種子(父の星冠)」により第21回安田火災東郷青児美術館大賞受賞。2002年に八戸市美術館で「豊島弘尚展―北の光に魅せられて」を開催。さらに同館では、没後の14年に八戸市へ遺族から400点を超える作品が寄贈されたのを機に、その翌年「豊島弘尚展 北の光と三つの故郷」を開催している。

やなせたかし

没年月日:2013/10/13

 漫画家、詩人、デザイナー、イラストレーター、絵本作家など多くのジャンルで活躍したやなせたかしは、10月13日心不全のため東京都内の病院で死去した。享年94。 1919(大正8)年2月6日東京府北豊島郡滝野川町(現、東京都北区)に生まれる。本名柳瀬嵩。自身は故郷については幼少期を過ごした高知県香美郡在所村(現、香美市)としていた。5歳のとき新聞記者だった父が32歳で亡くなり、父母の故郷高知県へ移る。小学校2年のとき母の再婚に伴い、以後伯父夫婦に育てられる。中学時代財布を落とし、15キロも歩いて帰宅途中、友人の母親からアンパンをもらったことが、後のアイデアとなる。1937(昭和12)年東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)に入学、40年田辺製薬宣伝部に入社、41年召集され、中国を転戦、実際の戦闘体験はなかった。終戦後、高知新聞社に入社、漫画を執筆。『月刊高知』にも4コマ漫画やイラストを掲載。47年妻となる小松暢子を追って上京、三越宣伝部に入社、また「漫画集団」に所属、しだいに漫画での収入が安定し、53年フリーとなる。54年ニッポンビール(現、サッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」、56年から『週刊漫画TIMES』では表紙などもてがけ活躍する。60年、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、それが縁で「手のひらを太陽に」を作詞(作曲いずみたく)する。64年から3年間NHKテレビ「まんがの学校」の講師を務める。66年処女詩集『愛する歌』(山梨シルクセンター[現、サンリオ])を出版。69年手塚治虫監督のアニメ「千夜一夜物語」の美術とキャラクターを担当、70年に虫プロでアニメ「やさしいライオン」を監督し、同作で大藤信郎賞を受賞する。73年『詩とメルヘン』を創刊し、30年間編集長を務める。同年「あんぱんまん」を『キンダーおはなしえほん』に掲載、当初書店販売はなく、幼稚園などへの直販だった。「あんぱんまん」は幼児からしだいに人気となり、88年「それいけ!アンパンマン」がテレビ放映へ、翌年文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞を受賞、1989(平成元)年からは劇場用アニメも制作された。また同漫画は90年日本漫画家協会大賞を受賞、さらに2009年、単独のアニメでは最多キャラクターを制作したことでギネス世界記録の認定を受ける。08年、やなせたかし展が山梨県立美術館ほか9館を巡回。70歳代からは病を抱えながらもそれまで以上にさまざまな活動を展開、92年から高知県が主催する「まんが甲子園」の審査委員長、2000年から日本漫画家協会理事長、12年からは会長を歴任した。 著作に『まんが入門』(華書房、1954年)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店、1995年)、「やなせたかしアンパンマンの心」『ユリイカ』(2013年8月臨時増刊)、没後の作品集に『やなせたかし大全』(フレーベル館、2013年)などがある。また、故郷の香美市に「やなせたかし記念館、アンパンマンミュージアム」(1996年開館)がある。

鈴木雅也(三代鈴木表朔)

没年月日:2013/10/07

 漆芸家の鈴木雅也は10月7日午後10時47分、京都市左京区の病院で死去した。享年81。 1932(昭和7)年2月26日、父貞次(二代表朔)の長男として京都市中京区に生まれる。生家は祖父の初代表朔(1874-1943)、父の二代表朔(1905-1991)と続く京塗師の家系。幼い頃から父に塗りの基本を学び、44年に京都市立美術工芸学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校、学制改革のため卒業時の校名は京都市立日吉ヶ丘高等学校)漆工科に入学。卒業制作では第1席(学校賞)を受賞。50年に同校を卒業後、東京芸術大学美術学部に入学。漆芸科では松田権六らの指導を受け、家業である伝統的な塗りの仕事とは異なる表現を学ぶ。53年、卒業制作の「こでまり草の図・棚」を第9回日展に出品し、在学中に初入選を果たす。さらに専攻科に進み55年修了、日展を中心に出品、入選を重ねる。64年第3回日本現代工芸美術近畿展で京都府知事賞、66年京展で市長賞を受賞。68年、漆の新たな表現の可能性を目指し、京都にて伊藤祐司、服部俊夫(現、峻昇)らとともに若手の漆芸作家によるグループ「フォルメ」を結成、実験的な創作に取り組む。72年第11回日本現代工芸美術展で「オブジェ 連鎖するかたち」が現代工芸賞、翌73年の第5回日展で「連鎖するかたち」が特選となる。凹凸をつけた透明なアクリル樹脂の胎に不透明な漆を塗り重ね、両方の素材の特性を活かしたもので、新素材による斬新な視覚効果をねらった漆造形は高く評価された。77年、明日をひらく日本新工芸展で「森の函」が箱根彫刻の森美術館賞を受賞、翌78年には京都市芸術新人賞を受賞。この頃から抽象的な造形作品は、次第に自然を題材にした具象的な作品へと変化し、古典的な画題を現代の感性で再解釈し新たな表現を追求した。明るい色調の彩漆を何度も塗り重ねた上に、蒔絵、螺鈿、卵殻を組み合わせ、光や波、咲き誇る花々などを大胆にデザイン化した作品が多い。一方で棗や香合などの伝統的な器物や道具類の制作も続けた。88年京都府立文化博物館の新築にあたり、歴史展示室の造形演出作品の企画および制作を担当。1989(平成元)年には30年間の代表作を収録した『繚乱の漆芸 鈴木雅也作品集』(ふたば書房)を出版。92年三代表朔を襲名。93年第3回日工会展に「透胎 こすもすのはこ」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、圓山記念日本工藝美術館にて「繚乱の漆芸・鈴木雅也の世界展」を開催。96年に京都府文化賞功労賞、98年に京都市芸術功労賞を受賞。2011年第43回日展で「函・風光る」が内閣総理大臣賞となる。日展参与、日工会代表、京都工芸美術作家協会理事長などを務め、後進の育成にも尽力した。主な所蔵先は東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ヴィクトリア&アルバート美術館(イギリス)、シアトル美術館(アメリカ)など。

堂本尚郎

没年月日:2013/10/04

 洋画家の堂本尚郎は10月4日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年3月2日、京都市下京区下河原町(現、京都市東山区下河原町)において、父堂本四郎、母恵美子の間に長男として生まれる。父の四郎は日本画家・堂本印象の弟で、同居していた印象には幼い頃より非常にかわいがられたという。40年3月清水尋常小学校を卒業、同年4月に京都市立美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)絵画科へ入学する。病気による休学や太平洋戦争激化にともなう学徒勤労動員を経て、45年3月同校を繰り上げ卒業。同年4月京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科へ入学した。在学中の48年には第4回日本美術展覧会(日展)に日本画「畑のある丘」を出品、初入選する。以後ヨーロッパへ留学する55年まで、伯父印象についてヨーロッパ旅行へ出かけた52年の第8回展を除いて毎年入選を果たし、51年には「蔦のある白い家」で、53年には「街」で特選を受賞している。 49年京都市立美術専門学校日本画科を卒業、研究科に進級。51年に大阪・高島屋で開催された現代フランス美術展サロン・ド・メ日本展を見て、同時代のフランス最先鋭の表現に強い衝撃を受けた。翌52年には京都市立美術専門学校研究科を修了、新聞社の特派員として渡欧する伯父印象に随行して初めてヨーロッパを訪れた。半年の間イタリア、フランス、スペイン各地の寺院や美術館を巡り、パリではグランド・ショミエールに通ってデッサンや油絵を学び、「モンマルトルの坂道」「女」など初めて油彩画を制作。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、ミケランジェロの天井画「創世記」を見て衝撃を受け、自らの制作活動に対して疑問を抱くようになる。帰国後はフランス留学を志す一方で、日本、延いては東洋を改めて見つめなおすことに力を注いだ。 54年フランス政府の私費留学生試験に合格、翌55年フランスへと旅立つ。このときの費用は留学があくまで短期間であり、帰国後は日本画家として活動することを暗黙の前提として、父四郎と印象が出資したものであったが、乾燥したパリの地での日本画制作に限界を感じ油絵に転向。今井俊満や高階秀爾、芳賀徹らと親交をもち、当時パリの地で絶頂を迎えていたアンフォルメル運動の主導者であるミシェル・タピエとも知遇を得、自身もその渦中に身を投じた。そんな中、57年のはじめ頃、腎臓結石を患い手術を受け、麻酔から目覚める際に周囲のすべてがホワイト・アウトするかのような感覚を経験する。自ら「白の中の白」と呼ぶこの体験から、堂本は白の表現を追求するようになり、「アンスタンタネイテ」などの一連の作品を制作、同年11月にスタドラー画廊において開かれた個展で、パリ画壇への華々しいデビューを遂げた。こうしたフランス画壇での成功や、伯父の印象自身が抽象画へと傾倒していったことから、堂本のパリ滞在は結局10年余りにも及ぶこととなった。 58年にはパリ国立近代美術館が新しく制定した外国人画家賞でグランプリを獲得、受賞作はパリの日本人画家の中で最も日本的であると評され、翌59年には前衛美術のみによるビエンナーレ、第11回プレミオ・リソーネ国際美術展において第2位特別賞を受賞した。また、58年にはデュッセルドルフで、59年にはニューヨークとローマで個展を開催。翌60年5月には、東京・南画廊において日本での初個展を開き、同月に東京都美術館で開催された第4回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞、その存在が日本においても広く認められることとなった。しかし一方で、アンフォルメルが西欧文化の積み重ねの上に出来上がったものであることを意識するようになり、日本人である自分自身の文化とはなにかを模索するようになる。そうして生み出された「二元的なアンサンブル」シリーズは、あたかも屏風のような二連画形式を採用し、モノクロームの色面をしばしば撥ねやしたたりを伴いはしご状に反復することで構成された作品であったが、すでにタピエの許容範囲を超えていたため、彼が顧問を務めるスタドラー画廊とも契約を解除されてしまう。このような難局のなかにおいて、「二元的なアンサンブル」は車の轍の跡を連想させる「連続の溶解」シリーズへと展開され、63年の第4回サン・マリノ・ビエンナーレ展〈アンフォルメル以後〉で金メダルを、翌64年の第32回ヴェネチア・ビエンナーレではアルチュール・レイワ賞をそれぞれ受賞、アンフォルメル後の新しい抽象絵画の可能性を示すものとして受容された。66年3月よりほぼ一年間、個展準備のためにニューヨークに滞在し、翌67年9月、パリのアトリエを閉鎖し日本へ帰国する。帰国後は円を主な構成要素とし、「惑星」「流星」など天体に関係するタイトルの付けられた一連の作品が発表された。同じ頃、水で溶解する素材が心地よかったとして、画材をアクリル系の絵具へと変えている。円を用いた作品は、70年代から80年代にかけて「蝕」「宇宙」「連鎖反応」といったシリーズで引き続き制作され、次第に波打つ水面を連想させる画面へと展開されていく。この間、75年9月に伯父印象が亡くなり、同年11月に生地京都での初となる個展を開催した。 86年ごろには、不規則な漣状のパターンに正方形や長方形が重ねられた「臨界」シリーズが開始され、2004(平成16)年からはカンヴァスに油絵具を垂らすオートマティズムの手法で制作された「無意識と意識の間」シリーズが開始された。 83年、国際ポスター展においてユネスコからの依頼で制作した「Peace」が平和賞を受賞、同年フランス政府から芸術文学文化勲章(シュバリエ)を授与され、88年には第11回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。91年、京都国立近代美術館の活動を支援する目的で発足された財団法人堂本印象記念近代美術振興財団(2003年解散)の理事に就任。95年には秋の叙勲で紫綬褒章を授与され、96年にはフランス政府からレジョン・ドヌール章シュバリエを、01年には同じくフランス政府から芸術文学文化勲章(オフィシエール)をそれぞれ受章。03には秋の叙勲で旭日小綬章を授与され、07年文化功労者に叙せられた。 食事をとるように絵を描き、描かずにいられるような人間は真の芸術家ではないと語ったという堂本は、半世紀以上にわたる制作において、断絶を繰り返しながら次々と新しい表現に挑戦した前衛の画家であった。画家の堂本右美はその娘である。

平田寬

没年月日:2013/09/14

 美術史家の平田寬は、9月14日膀胱がんのため、福岡県宗像市の自宅にて死去した。享年82。 1931年(昭和6)1月3日、佐賀県唐津市に歯科医師平田亨(とおる)、小波(さなみ)の次男として生まれる。佐賀県立唐津中学校(旧制)を経て48年官立福岡高等学校(旧制)入学。この年の旧制高校入学者は学制改革により、翌49年3月をもって学籍が消滅、改めて新制大学を受験することになっていたが、平田は肺の病を得て療養生活に入る。53年、九州大学文学部入学。文学部への入学については父から強い反対を受けたと後年述懐している。57年九州大学文学部哲学科卒業(美学・美術史専攻)、同大学院に入り、59年文学研究科修士課程修了(同)、62年博士課程単位取得退学(同)。62年九州大学文学部助手(美学・美術史研究室)。同年同郷の古舘均(まさ)と結婚。九州大学在学中、中国芸術論の谷口鉄雄教授のもと、平田も中国画論を研究し、初の公表論文は60年の「謝赫の品等論の形式」(『美学』43号)、以後64年の「姚最の伝記よりみたる「続画品」の成立の問題」(『哲学年報』25)まで、3本の中国画論の論文を発表した。一方で、在学中に哲学の田邊重三教授の「生の哲学」の講義に強い影響を受け、田邊の導きによりカトリックの洗礼を受けた。この哲学的基盤と信仰は終生続いた。 64年4月、奈良国立文化財研究所美術工芸研究室に転任、70年4月同美術工芸研究室長を経て、翌年九州大学に転出するまでの7年間、南都を中心とする仏教絵画を中心に研究する。この間、作品調査を精力的に行い、「元興寺極楽坊智光曼荼羅(板絵)のX線調査」(『奈良国立文化財研究所年報』、1966年)を初めとして、調査に基づく作品研究論文を多く著した。また、当時の所長・小林剛の影響を受け、森末義彰「中世における南都絵所の研究」に啓発されて『大乗院寺社雑事記』を史料的に研究するなど、美術研究における史料研究の重要性を意識する。 71年4月、九州大学助教授に転任(文学部美学・美術史講座。教授は谷口鉄雄)。78年同教授となり、定年退官まで勤める。九州地方に残された美術作品の調査を行うと同時に、ひきつづき南都絵画の研究も行うが、九州大学転任後数年の頃、奈良や京都に赴いて仏画の調査をすることが難しくなっていたこともあり、絵仏師研究を史料の体系的な研究から行うことに着手する。奈良国立文化財研究所時代、彫刻作家の史料的研究で大きな業績を成していた小林剛から、我が国の絵仏師の実態が不明であることを教示されたことが機縁であり、「眼前の仏画の諸相に目を奪われて…花を見て樹を見ず、樹根の生命や地下の水脈のことに心が至らなかった」ことに気づいた、と回想している(『絵仏師の時代』後書)。この方向が、彫刻について小林剛が行ったことを仏画について行った平田の業績の大きな柱のひとつとなった。「絵師 僧となる」(『美学』106、1976年)を初めとして、史料から読み取れる絵仏師の業績はもとより、その消長や体制の変化を仔細に読み取り、時代の所産としての絵画作品の史的変遷、さらにはそこから美的表現の質とその変遷までを視野に入れた多くの論考を発表した。また、論考のみならず、「宅間派研究史料(稿)」(『哲学年報』44、1985年)を初めとして、その源泉となる史料そのものを整理し、研究者が共有できるものとして多く学会誌上で提示したことも、平田の学問的態度の一端を表すものであろう。これら数多くの史料およびその研究は『絵仏師の時代』(中央公論美術出版、1994年)にまとめられている。 作品研究も南都仏画のみならず、「良詮・可翁と乾峯士曇」(『仏教藝術』166、1986年)など、室町水墨の絵画史的意義にまで関心が及び、史料にもとづく歴史的研究を踏まえながらその変遷の中にあった作品の造形性に視野を及ぼす多くの論考を発表したが、これらの多くは『絵仏師の作品』(中央公論美術出版、1997年)に収録されている。 また、菊竹淳一とともに、九州・山口地方の作品の実地調査にも精力を注ぎ、調査データ、写真の整理蓄積を研究室の財産として行い、またこれによって学生の実地教育を行うことが大きかった。『九州美術史年表(古代・中世篇)』(長崎純心大学学術叢書4、九州大学出版会、2001年)は、これらの調査によって得られた資料を含む、美術工芸全般におよぶ広範な史料をまとめた800ページを超える大著である。 教育者としても力を尽くし、美術史を目指す者のみならず、常に親しく学生に接してこれに心を注ぐこときわめて大きく、説くことしばしば学問領域を超え時に数時間に及んだ。 88年九州大学文学部長、94年九州大学を定年退官、同名誉教授、同年長崎純心大学教授、2003年同大学を退職。 88~93年文化庁文化財保護審議会第一専門調査会(絵画・彫刻部会)専門委員、85~87年学術審議会専門委員、地方においては64~70年奈良市史編集審議会調査委員、70~80年同専門委員、70~71年奈良市文化財審議会委員、九州に転任後も、福岡県文化財専門委員を初めとして九州・山口各地の県、市、美術博物館の委員をつとめること多く、また宗像市史、津屋崎町史、福間町史などの編纂委員会で専門委員として地方史編纂に寄与した。 96年博士(文学)九州大学。『絵仏師の時代』により、94年国華賞、95年Shimada Prize(島田賞)、96年日本学士院賞。2002年勲二等瑞宝章。04年講書始の儀にて御進講。 美術史学会(1975~93年委員)、美学会(1977~92年委員)、九州藝術学会、密教図像学会、民族藝術学会所属。 著作は上記にまとめられたもののほか、これに収められなかった共著や作品紹介等も多い。経歴と業績が一覧できるものに、九州大学退官時の「平田寬先生 年譜・著作目録」(1994年、九州大学文学部美学美術史講座)、「平田寬 略歴とことば」(2013年、逝去時、次男・平田央(ひさし)氏編、晩年の短文やインタビュー記事を含む)がある。また折々に書かれたエッセイ風の文をまとめたものに『ふうじん帖―美術史の小窓』(中央公論美術出版、1996年)がある。 平田の学問的態度は、史料と実作品に基づく学問的正確さを期することにはとりわけ厳しくかつ細心であったが、目指すところは、単に手堅い業績を積み上げることにあるのではなかった。その根本には「美は多様の統一である」という哲学があり、研究は、作品を成り立たしめている多様な側面をみちとして、美の「直観」に能うかぎり「接近」しようとすることであり、視線の先は、美のひとにおける意義や美術史のありかたといった根底的問題に遠く向かっていた。その哲学的論を表だって発表することは少なかったが、『絵仏師の時代』、『絵仏師の作品』、『九州美術史年表』の「序言」および「後書」には、その思想の一端が濃密に語られている。このような基盤に西洋哲学におよぶ広い教養があったことは、九州大学における講読演習をE.ジルソンの『絵画と現実』、J.マリタンの『芸術家の責任』、同『芸術と詩における創造的直観』などのフランス語原典によって行ったことにもあらわれている。西洋哲学のみならず、東西のことに古典を重んじ、また幸田露伴、明恵、西行を愛した。 必ずしも健康に恵まれていたわけではないが、むしろそれだけに諸事努めることにきわめて意志的で、一般的な事柄についても強い意見を開陳することも多かった一方、内省的でもあり一面的既成的安易さをもってものごとを理解したとする態度をきわめて嫌った。 長崎純心大学を退職後は、表に出ることは少なかった。13年、体調を崩し、がんであることが判ったが、あえて積極的治療をせず自宅で静養することを選び、最期は夫人、家族にみとられながら感謝の言葉を述べて静かに亡くなったという。蔵書は九州大学に寄贈された。均夫人との間の2男の父。

日野耕之祐

没年月日:2013/09/03

 洋画家の日野耕之祐は9月3日、死去した。享年88。 1925(大正14)年4月9日、福岡県に生まれる。1948(昭和23)年日本美術学校洋画科卒業、林武に師事する。同校在学中に時事新報社に入社して美術を担当、その後産経新聞社に移り美術記者として活躍。その一方で絵画制作も続け、58年第44回光風会展に「道」「丘の家」を出品しプールブ賞を受賞、63年会員となる。62年、評論家の柳亮や田近憲三らの応援を得て具象研究会を発足、機関誌『具象』を発刊するなど、抽象が主流であった現代美術への抵抗を示す。62年第5回新日展に「河口」が初入選。以後日展にも出品を続け、67年第10回新日展で「落合晩秋」、70年改組第2回日展で「北の海」が特選を得て、76年会員となる。師の林武への共感からペインティングナイフを多用した重厚なマティエールを基調に、何の変哲もない自然や室内の一角を黄で描き出した作品、そして青を主色とする具象的な心象構成へと画風を展開させた。76年日展傘下の日洋会発足にあたり運営委員となる。83年に洋画と日本画の両方を対象として発足した上野の森美術館大賞展には企画の段階から参加し、その審査員を毎回務める。1989(平成元)年より高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門選考委員を務める。94年彫刻の森美術館で「日野耕之祐1950-1994展 新しい具象への熱い軌跡」が開催。98年には永年の美術評論家・洋画家の活動に対して文化庁長官表彰を受けた。 主な著書は以下の通りである。『美術記者十五年』(日本美術社分室、1962年)『具象ノート』(美術報知社、1964年)『東京百景』(三彩社、1967年)『美を訪ねて』(日本美術社、1971年)

渡辺恂三

没年月日:2013/08/12

 洋画家の渡辺恂三は8月12日死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月2日、東京市(現、東京都区部)に生まれる。幼少期は算数や理科が得意だったため科学者になるつもりで、兵器の絵を描き、木を削って飛行機を作り、戦争に舞台にした長編マンガも制作していたという。東京都立戸山高校在学中から絵画を制作、阿佐ヶ谷洋画研究所や新宿・コマ劇場裏辺りにあった研究所に通う。このころ、風間完や赤穴宏が好きで、大学一浪の時には朝倉摂の紹介で、赤穴と会っている。また日本国際美術展などで目にしたベン・シャーンと国吉康雄にも影響を受けた。東京藝術大学に入学後、56年銀座・村松画廊で初個展を開催。同年第20回新制作協会展に3点を初出品し「ユダ」「ヨブ」が入選、旧約聖書から題材をとり、デフォルメした人物群像で人間の不条理を描く。同年東京藝術大学同期の稲葉治夫、高山尚、豊島弘尚とグループ展「新表現」を結成し第1回展を開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同年第21回新制作展で「策謀」により新作家賞を受賞(1958年第22回展は「仏滅」「南無」で、61年第25回展は「記憶の裏側」で同賞受賞)。このころ題材をキリスト教から仏教へ移行するとともに、支持体にベニヤ板を用いたり、紙粘土や木版の反古紙、麻紐などを用いたミクストメディアの表現を試みる。60年第4回安井賞候補新人展に「法螺」「噂」を推薦出品。61年第1回丸善石油賞に「賢者の論点」を出品。62年第2回丸善石油賞で「内訌」が佳作賞を受賞。63年9月第3回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)に「内訌」「人格」などを招待出品。60年代に入ると、支持体に厚塗りした紙粘土を引っ掻くなど非具象の作品を展開。63年新制作協会会員に推挙される。64年第15回記念選抜秀作美術展に「死んだ子の年をかぞえる」を招待出品(1966年にも招待出品)、他に第6回現代日本美術展の招待部門に「論争を積む」「世上騒然」(後者は課題作「東京オリンピック」特陳、1965年、66年、68年、69年にも招待出品)、現代美術の動向展(京都国立近代美術館)、今日の作家展’64展(横浜市民ギャラリー)などに出品。また同年中国生産力及貿易中心(台湾)で講師を務めるため、初めての海外渡航をする。このころ、晩年まで展開してゆくペン状の描具による線と明るい色面、歪んだ形態の女性像などによる戯画調の作品スタイルを確立。67年第1回インドトリエンナーレに「人間幾何」「ロンド」を出品。69年第5回国際青年美術家展において「車の中で」でストラレム優秀賞第1席を受賞。同年文化庁芸術家在外研究員として渡仏、滞在中にパリ、ギャルリー・ランベールで個展を開催。72年、東京造形大学を退職、再度渡仏(1981年まで)。72年より日本橋・春風洞画廊で個展を開催。76年サロン・コンパレゾンに出品(1978年、80年にも出品)、カンヌ版画ビエンナーレ、リト部門第1位賞受賞。80年日本秀作美術展に出品(以後1985年、88年、93年、2001年、03年にも出品)。85年、具象絵画ビエンナーレ(1987年、89年にも出品)。86年池田20世紀美術館に回顧展「渡辺恂三の世界」を開催。その他の企画展として、埼玉県立近代美術館10周年記念展「アダムとイブ」(同美術館、1992年)、日本の美術・よみがえる1964年展(東京都現代美術館、1996年)、旅―異文化との出会い(国立新美術館、2007年、文化庁芸術家在外研修制度40周年記念)などに出品。1998(平成10)年京都文化功労賞受賞、2001年第14回京都文化賞受賞、04年京都文化功労者顕彰。11年第75回記念新制作展の展覧会委員長を務める。第二次世界大戦以後の現代絵画を、技術拡散と様式混交の「マニエリスムの絵画」と捉えて絵画制作に取り組み、初期作品から晩年まで技法の実験と変遷を繰り返しながら、自身の表現を追求した。 著編書に『新・技法シリーズ デザインスケッチ』(美術出版社、1966年)、挿絵にバリー『ピーター・パン』(集英社、1966年、母と子の名作童話24)、山本太郎詩集『スサノヲ』(筑摩書房、1983年)、絵本に『こっぷこっぷこっぷ』(福音館、1995年、こどものとも.0.1.2 7号、かみじょうゆみこ文)、論文に「表示方法に於ける透視図法の実際的問題に就て」(『千葉大学工業短期大学部研究報告』第2巻第2号、1963年、協力:赤穴宏、川口泉、佐善明)がある。千葉大学工業短期大学部工業意匠科助手、同大学工学部工業意匠学科助手、東京造形大学美術学科助教授、京都市芸術大学美術学部教授、宝塚造形芸術大学教授で教職を務めた。

森浩一

没年月日:2013/08/06

 考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一は8月6日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年7月17日大阪市に生まれる。45年3月大阪府立堺中学校卒業、46年4月同志社大学予科入学。考古学を専攻できないことと日英の地理的共通性への関心などから49年4月同志社大学英文科三年に編入し、51年3月同科卒業。同年4月大阪府立泉大津高等学校教諭となる。55年4月同志社大学大学院文学研究科修士課程に入学し、57年同課程修了。同年4月同博士課程に入学するが翌58年中退。65年8月泉大津高等学校教諭を退職し、同志社大学文学部専任講師となる。67年4月に助教授となり、72年4月教授就任。1999(平成11)年3月同志社大学を退職し、同名誉教授となる。 氏は小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚め、その情熱は生涯変わらずに続いたが、研究に対するその姿勢は、自身の純粋学問的好奇心から調査・研究に取り組むのであって金銭や社会的な見返りを求めるものでない、というものであった。方法論として遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学はもちろんのこと、文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野を背景とした既成の権威や学説にとらわれない自由な発想によって、古墳時代を中心とした古代史の総合的理解に精力的に取り組んだ。遺物や遺構研究の先に遺跡や地域の歴史解明という明確な方向性が設定されていたために、関西を拠点としながらも地域史の視点を重視し、「東海学」、「関東学」といった歴史研究のための地理的な枠組みを提唱して様々な研究や成果の普及活動にも努めた。 大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査には、大阪府和泉黄金塚古墳や奈良市大和6号墳、また大阪府黒姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中での手弁当による緊急発掘調査が多く、後に取り組む、いたすけ古墳保存運動などを含め、遺跡遺物の記録や保護にも多大な功績がある。主導した数多くの重要な発掘調査記録以外の主要な業績としては、窯跡出土須恵器編年の構築、三角縁神獣鏡国内産説の提示、陵墓被葬者の探求とその公開運動などがあり、幅広い学問的関心と視野の広さから生み出されたその著作物とその内容は多様で、監修・編著を含む著書264冊、論文292編、新聞寄稿118編に上る。また交流した研究者・文化人は多岐にわたり、その研究姿勢に影響を受けた考古学者も多い。熱心な教育活動によって数多の若手研究者を育成したことは、死去後に刊行された追悼論集や特集に寄せられた寄稿の数が如実に示している。この他、若手や在野研究者の成果発表の場としての古代学研究会と機関誌『古代学研究』の創設でも功績が高い。 民間の研究者、すなわち氏の自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯叙勲褒章を受けなかったが、同じ姿勢を貫いた人物を顕彰した賞であるとして、2012年、唯一第22回南方熊楠賞(人文の部)を受賞している。

斎藤忠

没年月日:2013/07/21

 考古学者で元東京大学教授、大正大学名誉教授の斎藤忠博士は7月21日、老衰のため死去した。享年104。 1908(明治41)年8月28日生まれ。生後ほどなく仙台市に移る。1926(大正15)年3月宮城県仙台第二中学校卒業、同年4月第二高等学校文科甲類入学、1929(昭和4)年4月東京帝国大学文学部国史学科入学、32年3月卒業。卒業論文題名は「本邦古代に於ける葬制の研究」。考古学を学ぶため、同年6月黒板勝美の紹介で京都帝国大学文学部考古学研究室に移り、濱田耕作の斡旋で同大学文学部副手に就任。33年年6月、奈良県史蹟名勝天然記念物調査嘱託となり県内の遺跡調査に従事、12月には朝鮮古蹟研究会研究員として有光教一とともに慶州の古墳調査に参加する。京都帝国大学文学部副手併任のまま34年5月に朝鮮総督府古蹟調査及び博物館嘱託の辞令を受け、慶州博物館陳列主任となる。慶州では皇吾里109号墳・14号墳などの調査を、また石田茂作とともに扶餘軍守里廃寺の調査に参加する。37年12月には京城の総督府博物館勤務となり、引き続き軍守里廃寺や平壌の上五里廃寺調査などを行った。 40年5月、文部省史蹟調査嘱託として東京に戻り、47年9月には文部技官に任命される。戦時中から戦後にかけては全国各地の史蹟調査やその現状変更要望への対応等を行ったが、この頃保護に尽力した史蹟には北海道モヨロ貝塚、福山城、福岡県王塚古墳といった重要遺跡がある。48年4月に設立された日本考古学協会では幹事に選任され、50年8月の文化財保護法施行に伴う文化財保護委員会の設置に従い保存部記念物課に初代の文化財調査官として任命された。この時期には国営調査の責任者あるいは地方自治体調査の団長や顧問などとして、愛知県吉胡貝塚・秋田県大湯環状列石・岩手県無量光院跡・日光男体山頂遺跡・信濃国分寺遺跡・下野薬師寺跡・静岡県賤機山古墳・平城宮跡・山口県見島ジーコンボ古墳群・福岡県志登支石墓など多くの発掘調査を行っている。 55年5月に戦前の半島での遺跡研究の成果などにより東京大学文学博士学位を授与された(学位論文「新羅文化の考古学的研究」)。また53年以降には文化財調査官のまま東京国立博物館学芸部考古課、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長を歴任し、各地の大学にて教鞭を取った。さらに65年4月には文化財調査官との兼務で(1966年3月まで)、東京大学文学部教授に就任した。69年3月に東京大学を退官し、翌70年4月大正大学教授就任、83年3月に定年退職した。大学勤務以降は国(宮内庁書陵部委員会委員ほか)や地方自治体委員など多くの役職に就くが、大正大学退職前年の82年4月に就任した静岡県埋蔵文化財調査研究所所長の職は、2008(平成20)年3月に100歳で退任するまでの26年もの間務めることとなった。 これら一連の業績により、78年に勳三等瑞宝章を授与され、また死去により天皇・皇后両陛下より祭粢料を賜った。 氏の学問的足跡は中学生時代の遺跡調査に始まり、大学での文献史学専攻を挟んで、その後再び考古学へと至る80年を優に超える長きにわたる。またそのフィールドは戦前の朝鮮半島各地での調査から、帰国後の日本全国に活動の場を広げた数多くの遺跡に及んでいる。こうした経歴や多くの人々との交流を基にした氏の研究成果は幅広く、それに裏付けられた著作物は700編を凌駕し、単著の単行本は90冊を数える。こうした氏の業績について簡潔にまとめるのは困難であるが、美術史に関連するものを上げれば、日朝壁画古墳についての研究や、半島の古代および高麗時代寺院や文様〓などの仏教美術研究、また中国の寺院史研究といった、日中韓の文化交流に関する研究などが注目される。さらに生涯を通じた文化財の保全活動や日本考古学史に関する多くの著作も重要な事績である。

平松譲

没年月日:2013/07/21

 日本芸術院会員の洋画家平松譲は7月21日、急性肺炎のために死去した。享年99。 1914(大正3)年4月13日、東京都三宅島三宅村大字神着29に生まれる。1929(昭和4)年に尋常小学校を卒業して上京し、豊島師範学校に入学。在学中、池袋駅近くにあった能勢亀太郎の主催する能勢洋画塾に学び、伊藤清永、関口茂らと交遊する。33年の夏に三宅島に帰郷した際に描いた「樹下」を同年の第14回帝展に出品して初入選。34年3月、豊島師範学校を卒業し、同年4月に近衛歩兵第四連隊に短期現役兵として入隊したのち、教職についた。能勢亀太郎が白日会に出品していたことから34年第10回白日展に「静物」を出品し初入選。以後、白日会創立会員の中沢弘光に師事する。官展には初入選後、出品していなかったが、36年新文展鑑査展に「床上静物」で入選する。37年第14回白日展に「静物」「石膏のある静物」を出品してクサカベ賞受賞。翌38年第15回白日展に「緑蔭」を出品して佐藤賞受賞。41年、第4回新文展に「公園」で入選。44年白日会会員となる。戦後は白日展のほか日展に第1回展から出品し、50年第6回日展に「南窓」を出品して特選となる。画面左に白い洋装の女性の坐像が描かれ、その隣にたくさんの果物の載った籠と白百合を活けた花瓶の載ったテーブル、背後の窓から緑豊かな庭が描かれた同作は「明るい光と鮮麗な色彩との交響」と批評家和田新によって評された。54年第30回白日展に「少年」等を出品して白日会記念賞受賞。57年東京銀座松屋にて初個展を開催。63年に渡欧し約6ヶ月ヨーロッパ各地を巡る。帰国後、教職を辞す。65年に梅津五郎、菅野矢一らと「穹会」を創立し、新宿の画廊アルカンシェルで開催された第1回展に「彫刻の群像」「シャルトルの教会」を出品した。67年第43回白日展に「ノルマンディー古寺」「三宅島の春」「三宅島溶岸(ママ)地帯」等を出品し中澤賞受賞。翌68年日展会員となる。82年日展評議員となる。85年第17回改組日展に「南風わたる」を出品して文部大臣賞受賞。1991(平成3)年第23回改組日展に東京湾越しに臨んだ東京タワーを鮮やかな赤で描いた「TOKYO」を出品。92年、この作品によって日本芸術院賞を受賞。95年第71回白日展に「東京湾岸」を出品して内閣総理大臣賞を受賞し、また、同年日本芸術院会員となった。1930年代には静物をよく描いたが、40年代から人物を主要なモティーフとするようになる。窓辺でくつろぐ着衣の女性を好んで描き、室内の家具や卓上静物、窓外の植物などでのモティーフなどで画面が充填される画風を示した。1980年代に入ると風景画が多くなり、鮮やかな色彩と激しい筆触、画面上部まで島や建築物等のモティーフが配される構図を特色とした。2013年9月26日正午から白日会主催による「故平松譲さんを偲ぶ会」が開催された。【主要展覧会出品略歴】帝展第14回(1933年)「樹下」、鑑査展(1936年)「床上静物」、日展第1回(1946年)「母と子供」、5回(1949年)「爽朝」、6回(1950年)「南窓」(特選)、10回(1954年)「ひととき」、新日展1回(1958年)「ギターを持つ女」、5回(1962年)「閑日」、10回(1967年)「若い人たち」、改組日展第1回「花と子供」、5回(1973年)「南の島」、10回(1978年)「島の五月」、15回(1983年)「犬吠崎初冬」、17回(1985年)「南風わたる」(文部大臣賞)、20回(1988年)「雨上がる」、23回(1991年)「TOKYO」(日本芸術院賞)、25回(1993年)「丘陵を拓いて」、30回(1998年)「島の切り通し」、35回(2003年)「はまひるがお咲く」、40回(2008年)「ふる里の磯」、45回(2013年)「丘の美術館」

村岡三郎

没年月日:2013/07/03

 彫刻家の村岡三郎は、7月3日肺炎のため滋賀県大津市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年6月25日、大阪市に生まれる。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)に学ぶ。45年九州の航空隊に配属、「特攻」要員として終戦を迎える。47年に同中学校を卒業。50年、大阪市立美術研究所彫刻部を修了。同年3月、第1回関西総合美術展覧会に出品、同年9月、第36回二科展に初入選。二科展には、以後67年の第52回展まで出品を続けた。65年10月、第1回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「作品(冬眠中)」(材質:金属、ゴムその他)を出品、K氏賞受賞。69年10月、第3回同展(同会場)に「自重」(材質:ポリエステル)を出品、大賞を受賞。71年10月、第4回同展でも「ゲル化(硬化)」(材質:F.R.P.)によって再びK氏賞受賞。また69年8月に、信濃橋画廊(大阪市)にて「砂」と題した初個展を開催。以後、個展、ならびにコンクール形式の展覧会、または現代美術を紹介する各地の美術館の企画展に出品を重ねた。 77年5月、「ホヴァリング」(空中停止)と題して個展(信濃橋画廊)を開催、自らの落下中の姿を撮影した写真映像と、ドローイングや鉄を素材にした作品によるインスタレーションを試み、コンセプチュアルアートとして評価された。83年10月、「熔断1380°C×6000」を信濃橋画廊の個展で発表、溶断した鉄棒を展示して溶断する身体と時間を意識化さることを試みた。この溶断、溶接の行為は、以後村岡にとって重要な表現のひとつとなった。86年7月から翌月にかけて、中国新疆ヴィグル地区に赴き、タクラマカン砂漠を旅行。この時の体験は、その後の制作に大いに影響を与え、特にこの地の岩塩を得たことから、鉄、硫黄とともに塩もその後の表現の要素に加わった。87年11月、第4回牛窓国際芸術祭―彫刻と空間(会場、岡山県牛窓町)に、「牛窓・7つの酸素」を出品、酸素ボンベを初めて作品に組みいれた。70年代から80年代にかけて、村岡の作品は、元素的な素材を取りあげて、溶接、熱、振動の痕跡を作品化、もしくはインスタレーションとして提示し、自然、身体、宇宙、生命等を強く意識した創作活動をつづけた。 1990(平成2)年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレに遠藤利克とともに日本館に出品(日本のコミッショナーは美術評論家建畠晢)、国際的にも注目された。97年11月、東京国立近代美術館にて「村岡三郎展 熱の彫刻―物質と生命の根源を求めて」を開催(同展は、翌年3月まで京都国立近代美術館を巡回。)80年代から90年代までの近作を中心に28点を出品。同展の成果により、99年1月に第40回毎日芸術賞を受賞。 青年期にあたる戦中、戦後の時期の苛烈な体験から、内面に虚無を抱えこむことなく、また情緒性や感傷を一切排し、科学、物理学の原理的な理論を援用しながら、自らの死生観と想像力を元素的な物体を素材にして表現した特異なアーティストであった。身体性、観念性と即物性を力技で作品化した点から、日本の戦後美術から現代美術においてユニークな位置を占めている。なお創作活動と並行して、81年から滋賀大学教育学部教授として勤め、93年3月に退官。続いて同年4月より2002年まで京都精華大学芸術学部教授を勤めた。没後、2013年7月、京都精華大学(会場、同大学ギャラリーフロール)にて「故 村岡三郎先生 追悼展示」が開催された。

天田昭次

没年月日:2013/06/26

 日本刀で重要無形文化財保持者である天田昭次は6月26日死去した。享年85。 1927(昭和2)年8月4日、新潟県北蒲原郡本田村本田(現、新発田市)に刀匠天田貞吉の長男として生まれる。本名誠一。37年、父貞吉は死去したが、父の3回忌に訪れた東京の刀匠で日本刀復興運動の提唱者でもあった栗原彦三郎昭秀の誘いを受け、40年小学校卒業するとすぐに上京し、昭秀が設立した日本刀鍛錬伝習所に入門する。最初の作刀は52年、第二次世界大戦後、制作を禁じられていた日本刀の復興を図るため、昭秀が日本政府から許可された「講和記念刀」のうちの3口で、その1口に「昭聖」と銘を切った。その頃伊勢神宮の式年遷宮御神宝大刀の制作依頼が兄弟子にあたる宮入昭平にあり、その助手として奉仕した。54年、文化財保護委員会から日本刀の制作承認を受け、新制度のもとで作刀を行うようになる。55年、財団法人日本美術刀剣保存協会が主催した第1回作刀技術発表会に出品、93名出品中の8位で優秀賞を受賞、57年の第3回、58年の第4回展でも優秀賞を得ている。58年、それまで使用していた鉄では理想としていた相州正宗や貞宗など鎌倉時代の古名刀の域には達しないとして、その元となる製鉄から行わなければならないと考え、自家製鉄の本格的な研究に取り組んだ。しかし60年病により作刀、研究活動は停滞することとなる。68年恢復して作刀を開始し、自家製鉄による作品を第4回新作名刀展(作刀発表会から改称)に出品し、奨励賞を受賞した。70年、第6回展では名誉会長賞、72年に同展の無鑑査に認定され、財団法人日本美術刀剣保存協会より小形製鉄炉の研究で第1回薫山賞を受賞した。77年第13回新作名刀展に無鑑査として出品し、無鑑査を含むすべての出品者の最高賞である正宗賞を受賞した。78年、新潟県無形文化財保持者に認定され、85年、新作名刀展で2度目の正宗賞を受けた。1990(平成2)年、全日本刀匠会理事長に就任し、現代刀匠の技術向上、育成に努めた。97年、国の重要無形文化財保持者に認定され、99年、勲四等旭日小綬章を受章する。 天田昭次の作品は太刀、刀、脇指、短刀で、伊勢神宮神宝では直刀も製作している。特に鍛えは自家製鉄による鍛肌の美しさを強く出し、刃文は相州伝の明るく冴えた大乱れが多く、また山城伝の直刃を得意としており、正宗賞受賞作も直刃であった。また理論家としての著述も多く、76年、「自然通風炉による古代製鉄復元法実験」(『鉄と鋼』)、2004年『鉄と日本刀』(慶友社)の著書を発表している。

秋山忠右

没年月日:2013/06/25

 写真家の秋山忠右は、6月25日肺炎のため死去した。享年72。 1941(昭和16)年3月17日東京都品川に生まれる。早稲田大学政治経済学部を経て、64年東京綜合写真専門学校研究科を卒業。写真家石元泰博に師事する。65年にフリーランスとなり、同年、東京綜合写真専門学校の同期で、同じく石元に師事していた佐藤晴雄と共同制作した「若い群像」を発表。この作品により65年の第二回準太陽賞を受賞。同作は広角レンズを使用し雑踏の中で都会の若者の存在をとらえたもの。佐藤とはその後も共同制作を続け、社会的な視点に立ったさまざまな作品を雑誌、展覧会などで発表した。 個人としての作品も精力的に発表、主な写真集に小説家北方謙三と組んで冷戦末期の東西ヨーロッパやカリブのカーニヴァル、アフリカ、東南アジアなどを取材した『国境流浪』(平凡社、1990年、のち京都書院より上下巻で文庫化、1998年)、20世紀最後の10年を迎えた首都の様相を空撮によって記録した『空撮大東京』(昭文社、1991年)、現代農業に従事する多彩な人々を取材した『farmer』(冬青社、2000年)、東京郊外国道16号線沿いの犯罪現場跡を取材した『ZONE-郊外・事件の記憶』(日本カメラ社、2004年)などがある。個展での発表も多く、1998(平成10)年にはニコンサロンでの長年の展示活動に対し、伊奈信男特別賞を受賞した。 またコマーシャル撮影も手がけ、91年ACC全日本CMフェスティバル・テレビCM部門優秀賞、92年カンヌ国際広告祭(現、カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル)入賞などの受賞がある。 70年より長く母校である東京綜合写真専門学校の講師を務め、2001年には同校を運営する学校法人写真学園の理事に就任した。

西大由

没年月日:2013/06/20

 鋳金家の西大由は6月20日、急性心不全により死去した。享年90。 1923(大正12)年5月25日、福岡県築上郡に生まれる。1941(昭和16)年、東京美術学校工芸科鋳金部入学、高村豊周、丸山不忘、内藤春治に師事する。在学中の43年から45年まで兵役に就き、戦後学校に復帰する。47年東京都練馬区石神井町にアトリエを構え、同年「春之意香炉」を第3回日展に出品、初入選する。48年同校を卒業し、岐阜県多治見市の多治見製作所鋳金技師となる。53年、東京藝術大学美術学部助手となり、同年から薬師寺東塔水煙及び月光菩薩台座の修理に従事する。55年、第11回日展で「青銅壺」が特選、翌年無鑑査となった。61年社団法人第4回新日展で「泪羅に立つ」が菊華賞を受賞し、翌年会員に推挙される。63年第6回高村光太郎賞を受賞する。69年、東京藝術大学美術学部助教授、78年に教授となる。作品の公募展での発表は51年の第7回日展から、88年の改組第20回日展まで、日展が中心であったが、1989(平成元)年から日本伝統工芸展に出品するようになる。その間、79年には日本新工芸連盟創設に参加し、86年まで出品している。86年には、日本丸、海王丸の船首像を制作した。91年に東京藝術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。 作家としての制作活動のほか、日本金工の歴史、古代鋳造技術の研究も行い、64年から80年まで東大寺大仏の鋳造と補修に関する技術的研究を続け、同校の紀要にその成果を発表した。また88年、文化庁文化財保護審議会専門委員を務める。2000年、勲三等瑞宝章を受章した。 作品は青銅あるいは朧銀による壺や花入れなど伝統的な形象に、色上げの工夫を行い、また鳥や動物、果実など自然からのモチーフを抽象化して表現し、極限まで単純化した造形には独特の抒情性を醸成している。

村瀬雅夫

没年月日:2013/06/20

 美術評論家、日本画家の村瀬雅夫は6月20日死去した。享年74。 1939(昭和14)年1月16日、東京市世田谷区(現、東京都世田谷区)経堂に生まれる。間もなく、千葉県に移住し、幼年期、少年期を千葉市で過ごす。千葉県立第一高等学校を卒業後、59年、東京大学文学部入学。在学中に横山操、石崎昭三に師事して日本画を学ぶ。61年、62年に青龍社展に出品したという。63年東京大学文学部東洋史学科卒業、読売新聞社に入社。福島支局勤務を経て、長く本社文化部で美術担当記者として務める。85年から読売新聞夕刊で連載「美の工房」(全50回)を担当。在職中から無所属の日本画家として、銀座・飯田画廊、ニューヨーク・日本クラブギャラリー、東京セントラル画廊などで生涯18回の個展を開催した。1989(平成元)年、50歳の年に、読売新聞社の文化次長で定年退職を迎える。明治大学講師、福井県立美術館館長、渋谷区立松濤美術館館長を歴任。著書に『野のアトリエ』(桃源家、1989年)、『美の工房―絵画制作現場からの報告』(日貿出版社、1988年)、『横山操』(芸術新聞社、1992年)、『「芭蕉翁月一夜十五句」のミステリー 『おくのほそ道』最終路の謎』(日貿出版社、2011年)、『庶民の画家南風』(南風記念館、1977年)、編著書に『川端龍子 現代日本の美術13』(集英社、1976年)、『川端龍子 現代日本の美術4』解説(集英社、1977年)、『現代日本画全集 第14巻 奥田元宋』(集英社、1983年)、『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン 5 平山郁夫/前田青邨』(瀧悌三と責任編集、集英社、1986年)がある。

大屋美那

没年月日:2013/06/18

 フランス近代美術史研究者であり、国立西洋美術館主任研究員の大屋美那は、松方コレクション研究のため訪れたフランス・パリで急性骨髄性白血病を発症し、6月18日聖ルイ病院で急逝した。享年50。 1962(昭和37)年7月27日、中央公論社の編集者尾島政雄の長女として神奈川県藤沢市に生まれる。81年4月学習院大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学、88年3月同大学大学院人文科学研究所(哲学専攻)修士課程を修了。同年11月静岡県立美術館学芸員となり、「ピカソ展」(1990年)、「栗原忠二展」(1991年)などを担当、鈴木敬初代館長のもと学芸員としての活動の素地を固める。1992(平成4)年美術館連絡協議会の海外研修派遣制度によりテキサス大学オースティン校モダニズム研究所へ派遣され、セザンヌ研究の大家リチャード・シフ所長のもと研鑽を積む。帰国後の93年、同館の別館・ロダン館の設立準備に参加する一方、ロダン研究の第一人者ジョン・L.タンコックと共同で国際シンポジウム「ロダン芸術におけるモダニティ」を企画し、94年10月、静岡県立美術館を会場にヨーロッパ・アメリカ両大陸のロダン研究者を一堂に集める稀有な機会を実現した。このときに出会ったオルセー美術館彫刻部門学芸員アンヌ・パンジョーやロダン美術館学芸員アントワネット・ル・ノルマン=ロマン、マサチューセッツ工科大学名誉教授ルース・バトラー(所属はいずれも当時)らとは終生親交を深めることになる。1995年、全国美術館会議により組織された阪神・淡路大震災被災美術館支援活動では訪問調査の一員として活躍した。1996年静岡県立美術館退職。1997年国立西洋美術館客員研究員となり、松方コレクションにおけるロダン彫刻作品調査に取り組み、その成果を「松方コレクションのロダン彫刻に関する調査報告」(『国立西洋美術館研究紀要』4号所収、2000年)として発表した。 2001年4月国立西洋美術館に主任研究官として採用され(2006年度以降は主任研究員)、学芸課絵画・彫刻第二室を経て、07年同課版画素描室長、2010年より同課研究企画室長を務めた。その間、06年3月にロダン美術館とオルセー美術館の協力を得て「ロダンとカリエール」展を実現、国立西洋美術館での開催後に巡回したオルセー美術館で国際的評価を得た。08年から09年まで国立西洋美術館在外研究制度により上述のル・ノルマン=ロマンが所長を務めるフランス国立美術史研究所(INHA)の客員研究員としてパリに滞在し、松方コレクション形成に関与したリュクサンブール美術館長(後にロダン美術館初代館長)レオンス・ベネディットの資料調査など、フランス国立美術館資料室、ロダン美術館資料室ほかで精力的な調査活動を行った。帰国後の10年2月、松方幸次郎と交友しコレクションの指南役ともなった英国の画家に焦点を当てた「フランク・ブラングィン」展を実現、それまで殆ど顧みられることがなかった画家ブラングィンを近代美術史に明確に位置づけたと同時に、松方幸次郎との交友関係を実証的に検証した功績により、11年第6回西洋美術振興財団賞学術賞を受賞した。 展覧会企画を手がける一方、美術館のコレクションの充実にも力を注ぎ、ジョヴァンニ・セガンティーニ「羊の剪毛」(旧松方コレクション)、ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」(ともに油彩作品)、フランク・ブラングィン「共楽美術館構想俯瞰図、東京」(水彩素描作品)をはじめとする数々の作品購入を担当した。また彫刻コレクションの収蔵展示環境の刷新にも取り組み、近年展示される機会の稀であったロダンやブールデルの作品を一堂に集めた「手の痕跡」展(2012年)に結実させるなど、美術館の現場で働く学芸員としての本領も発揮した。11年頃より担当した個人コレクター橋本貫志の大規模な指輪コレクションの一括寄贈に際しては、国立西洋美術館にとって新分野となる装飾美術の作品収蔵・管理体制の構築に尽力した。 美術館での公務の傍ら、12年から他界するまでジャポニスム学会理事を務め、また学習院大学、日本大学、東京大学、慶應義塾大学、日本女子大学、放送大学で講師を務めるなど、学会活動・教育活動に従事した。一貫してフランス近代彫刻、松方コレクション研究に取り組み、急逝する直前にはフランス近代の彫刻家カルポーについての研究論文を脱稿している(「ジャン=バティスト・カルポーと1850-60年代のローマ」『ローマ──外国人芸術家たちの都』所収、没後の2013年10月に刊行)。また静岡県立美術館時代以来親交の深かったバトラーによるロダンの評伝の翻訳にも着手していた(出版計画は共訳者らに引き継がれることになり、翻訳・刊行作業が今も続けられている)。なお、13年6月22日発行のフランスの主要紙『ル・モンド』に訃報記事が掲載され、フランス側の美術関係者からも追悼の意が寄せられた。 論文集として『大屋美那論文選集──印象派、ロダン、松方コレクション』(2014年)、また主要業績をまとめたものに『国立西洋美術館研究』18号(2014年)所収「大屋美那・国立西洋美術館主任研究員 業績目録」(『大屋美那論文選集』に再録)がある。

十四代酒井田柿右衛門

没年月日:2013/06/15

 陶芸家で色絵磁器の重要無形文化財保持者の十四代酒井田柿右衛門は、6月15日午前8時45分、転移性肝腫瘍のため佐賀市内の病院で死去した。享年78。 1934(昭和9)年8月26日、佐賀県西松浦郡有田町に、酒井田渋雄(のちの十三代酒井田柿右衛門)とツネの長男として生まれる。襲名までの本名は正(まさし)。多摩美術大学日本画科に進み、絵画的な構想力や描画技術の基礎を習得。58年に卒業すると帰郷し、祖父・十二代柿右衛門と父が復興させた「濁手(にごしで)」の製陶技術とともに、とくに祖父からは絵具の調合と絵付け技術を、父からは素地の成形と焼成技術を受け継いだ。作品としての発表は66年からで、一水会と西部工芸展に入選し、陶芸家としてデビューした。翌年には一水会で一水会会長賞を受賞。68年からは日本伝統工芸展にも入選を果たし、その後も日本伝統工芸展をはじめ、一水会や西部工芸展、さらには佐賀県展や九州山口陶磁展等で実績を積む。70年にはヨーロッパに旅行して各国の美術館や窯業地を視察。また、柿右衛門初期におけるオランダ貿易と東西交通や、在欧作品と〓製品についても見聞を重ねた。71年日本工芸会正会員。この年、柿右衛門製陶技術保存会の「柿右衛門(濁手)」技法が重要無形文化財の総合指定を受け、76年には技術保持団体として認定。同年、東京で初の個展を開催した。82年7月、父・十三代柿右衛門の死去にともない柿右衛門製陶技術保存会の会長に就任、同年10月には十四代柿右衛門を襲名した。84年日本陶磁協会賞受賞。86年には第33回日本伝統工芸展で「濁手山つつじ文鉢」が日本工芸会奨励賞を受賞した。この頃より海外において十四代柿右衛門展の開催機会が増え、「濁手」と呼ばれる独特の白素地に、赤絵を基調として草花を描いた作品の評価が高まりをみせる。1992(平成4)年の第39回日本伝統工芸展では「濁手蓼文鉢」が二度目となる日本工芸会奨励賞受賞し、色絵磁器の陶芸家としての地位を確固たるものとする。翌年には国際陶芸アカデミー(IAC)名誉会員となる。60歳を過ぎたころより、地元陶芸団体等において要職に就き、後進の指導とともに、地域の陶磁文化発展のために力を注ぐ。98年、長年にわたる国際文化交流の功績により外務大臣表彰、99年には濁手の伝統的技法の伝承に努め、地域の文化発展と向上に貢献したことにより文部大臣賞表彰を受ける。その後も、作家として濁手を中心とした創作活動と、技術保存会会長として様式美の継承の両立をはかり、2001年には父も受けることがなかった重要無形文化財「色絵磁器」の保持者に認定された。05年、旭日中授章受章。06年には有田町名誉町民の称号を受けた。十四代柿右衛門は、柿右衛門家の当主として、祖父と父が再興を成し遂げた「濁手」の技術を継承する。と同時に、独特の白地と柿右衛門伝統の赤絵を効果的に用いた優美な絵付と模様構成により独自の作風を築き上げ、濁手の新たな境地を切り拓いた陶芸家であった。

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