「明治神宮鎮座絵詞」完成奉納

1940年10月

明治神宮鎮座二十年祭は十一月一日から四日迄厳かに執行されたが、これに先立ち十月三十一日御本殿の奥深く「明治神宮鎮座絵詞」が奉納された。この絵詞は鎮座祭奉仕の光栄に浴した一条宮司、鈴木権宮司の発願にかかり、磯田長秋が絵を担当、去る十一年六月謹写を完了、その詞書が結了、五巻に収められたものである。

工芸美術作家協会創立

1940年10月

工芸美術家相互の連絡協調に依り工芸美術の振興を図り、以て国民文化を昂揚し、併せて輸出工芸の発展に資する為、工芸美術作家協会が創立され、十月二十五日丸の内永楽クラブに於て発会式を挙行した。

日本商業美術協会解散

1940年10月

大正十五年創立後商業美術確立の運動に努め来つた日本商業美術協会は国内体制の変化に処する為、再出発の前提として十月二十四日総会の決議に依り解散した。

松岡映丘筆「明治神宮舞楽之図」奉納

1940年10月

松岡映丘筆「明治神宮舞楽之図」の所有者東京日々新聞社は、紀元二千六百年記念及明治神宮鎮座二十周年記念として同図を明治神宮へ奉納することとなり、十月二十四日奉納奉告式を執行した。

藤田嗣治満州より帰る

1940年10月

昭和十四年ノモンハンの草原に展開された近代科学戦を描く為陸軍省嘱託として渡満中であつた藤田嗣治は十月十三日帰国した。

日本挿絵画家協会結成

1940年10月

従来の挿画倶楽部を解消し、挿絵芸術及び挿絵文化に関するあらゆる部門を包含して新しく日本挿絵画家協会が生れ、その発会式が十月八日東京会館に於て催された。(名誉会長)鏑木清方、(会長)石井鶴三、(顧問)小杉放庵、菊池寛外十二名。

高木背水謹写

1940年10月

明治天皇御尊像展観 洋風画家高木背水は 明治天皇御尊像を謹写し別格官幣社佐嘉神社へ奉納することとなつたが、これに先立ち皇紀二千六百年奉祝の意を以て十月八日より同十七日まで上野公園内桜亭に於て展観した。

今尾景年十七回忌

1940年10月

元帝室技芸員故今尾景年の十七回忌が十月五日京都東山の南禅寺法堂に於て行はれた。

幸野楳嶺胸像除幕式

1940年10月

京都市立絵画専門学校及美術工芸学校に於ては、十月二日その創立建議者の一人たる幸野楳嶺の胸像除幕式を絵専校校庭に於て行つた。これはその門弟たる竹内栖鳳川合玉堂、清水六兵衛其他門弟に依り組織された凌雪会及び同校関係者により計画され、同校出身の彫刻家建畠大夢に依つて製作されたものである。

川端竜子新京美術院々長就任

1940年10月

満洲国新京特別市は十月一日附を以て新京美術院の開設を決定した。院長には川端竜子が就任した。同院には院長一名、主事一名、研究員(講師)若干名等を置き、其の第一期計画として将来満洲国美術界の中堅たるべき研究生の指導養成事業に重点を置くこととなり、東京に同院東京分室を新営し、選抜されたる第一年度研究生十四名を次年度より留学せしむることとなつた。

日本人形芸術作家連盟結成

1940年09月

日本人形芸術作家聯盟は、伝統的人形美術の保存並に建設を旨とし、且つ相互間の親和を計り以て新体制に即する文化の為に貢献するを目的として鹿児島寿蔵寺に依り改組結成された。

世紀美術創作協会結成

1940年09月

西山翠嶂門の京都在住日本画家今尾景春等七名に依り、新しき世界観に立脚し日本芸術の世界史的使命を目標とし、九月世紀美術創作協会が結成された。

京都彫塑家連盟設立

1940年09月

京都府在住の彫塑家に依り自粛向上発展を図る目的を以て京都彫塑家聯盟が結成された。

新東亜産業美術連盟結成

1940年09月

商業美術家協会片柳忠男を中心とし図案家協会、広告聯盟、広告クラブ等を聯合し、九月二十四日新東亜産業美術家聯盟が結成された。

日伯文化条約の締結

1940年09月

ブラジル国リオ・デ・ジヤネイロに於て九月二十三日日伯文化条約が締結された。その内容は曩に締結された日伊文化協定とほゞ同様である。

宮本三郎渡支

1940年09月

陸軍省嘱託として北支方面に従軍することとなつた洋画家宮本三郎は、九月十五日発渡支した。

ハンガリーに於ける日本児童絵画展出品画内示

1940年09月

ハンガリー文部省の依頼に依り国際文化振興会に於ては同国首府ブタペスト初め各地で催される日本小学教育展覧会に出陳する小学生の作品の蒐集を終り、九月十九日同会講堂に於て展示会を開いた。

to page top