京都の美術家勤労隊結成
1944年01月京都日本画家連盟では一月七日平安神宮で勤労報国隊の結成式をあげ、つづいて陶芸、染織、漆芸、金工等の工芸作家百名も翌八日平安神宮に集つて美術作家勤労報国隊を結成した。
京都日本画家連盟では一月七日平安神宮で勤労報国隊の結成式をあげ、つづいて陶芸、染織、漆芸、金工等の工芸作家百名も翌八日平安神宮に集つて美術作家勤労報国隊を結成した。
戦局のすすむにつれて国内の戦時体制は次第にきびしくなり、美術界も殆ど戦争を中心として動いた観があつた。戦争の記録画や南方の風物画が展覧会の主流となり、工場や農村の写生画がこれにつぎ、その外では歴史画の傾向がいちじるしく目立つた。これとともに各種の献画運動、軍事や産業人に対する慰問援護運動が活?であつた。恒例の秋の美術シーズンも本年は院展、二科、一水会と由緒ある展覧会がいづれも停止し、情報局から「美術展覧会取扱要綱」が発表されて、美術報国会主催共催以外の一般展覧会は情報局の承認を要することとなり、二科会をはじめ解散する団体も多かつた。年末になると空襲も頻繁となつて自然美術界も不活動の状態に陥り、文展も本年は休止して「戦時特別展」がこれに代つて開催された。
野間奉公会昭和十八年度野間賞授賞式は十七日小石川区音羽町大日本雄弁会講談社講堂に於て挙行された。(美術賞)竜村平蔵(美術奨励賞)曽宮一念、沢宏靭、建畠覚造、(挿絵奨励賞)樺島勝一であつた。
天皇、皇后両陛下には五日宮中千種の間及び豊明殿に於て海軍記録画二十点(日本画八点、油絵十一点)を親しく天覧並びに台覧あらせられた。
昭和十六年七月統制により第一次統合を遂げて発刊されつつあつた国画、新美術、生活美術、日本美術、旬刊美術新報、美術文化新聞の八誌は情報局の指示により十月中発行にかかる雑誌を最後として廃刊することになり十九年一月号を創刊号として日本美術出版株式会社より専門、一般両種の雑誌を発刊することとなつた。
仏教美術の信仰的制作や仏師の指導共栄圏各地の仏画仏像復興につとめる目的で仏教美術協会が設立され、顧問に日本画部安田靫彦、小林古径、中村岳陵、荒井寛方、太田聴雨他二十余名委嘱した。
昭和十一年に創立された日本漆芸院は今回美術及び工芸統制協会が設立され、漆芸部もその第四部に包括されることとなり総てその運営は同協会四部に於て実行されることになつたので新時局に即応する為解散した。
会津出身の美術人は此の度、郷土文化引いては日本文化に貢献せんとの意気で「会津美術人会」を結成した。
長野県県庁商工課内に同県在住及び出身の工芸、美術、輸出向美術生産業各家により組織され工芸美術の進歩発達を図る「長野県工芸美術協会」が結成した。
欧米的技術法の輸入等により乱された美術に自己批判を加え美術精神、並びに技術の錬磨を目的として西本白鳥により新生美術協会が結成された。
泰国では文化使節団を我が国に派遣することになつたので我が国からは鷹司信輔を団長として我が国芸術界の一流人で組織した使節を送ろうと国際文化振興会が交渉中。又建築、美術方面の交換教授団の派遣も計画検討されている。
彫刻並びに邦画の研究を目的として赤堀信平、渡辺光徳等を同人とする興国美術院が結成された。
昭和十二年川路柳虹の創立した国民芸術研究所は此の程使命を達成し解散した。
故竹内栖鳳夫妻の一周忌法要が栖鳳の命日に当る廿三日黒谷本房に於て行われた。
近代の唯物無神の芸術思想を排し、日本美術の振興を期する為河口楽土を主宰に日本風景画院が創立された。
戦争必需物資の金属資源の動員の為回収すべき物件を調査審議する為商工省内に特殊回収銅物件審査委員会が設置された。
大日本工芸会を発展解消して成つた日本美術及工芸統制協会では我が国産業工芸の技術伝承を目的として全国の産業工芸各分野の人々を集めて産業工芸懇話会を創立した。
全日本彫塑家連盟は時局に鑑み発展的解散をなし、文化面は日本美術報国会、資材面は日本美術及工芸統制協会として再発足した。
各美術家団体の活躍しつつある時菅楯彦、尾竹国観、古城江観、生田花朝等の無所属作家が、国家有為の規格に参劃し又各個の連絡統一機関とする為無所属日本画家連合を結成した。
皇太子殿下御誕生記念日本近代美術館の敷地につき宮内省より赤坂離宮前記念公園として臨時に市で依託管理している約四千坪の地を貸下げの内意を拝した。同美術館は建坪二千坪地下二階を持つ近代日本式建築とする予定。