丸山晩霞南洋へ旅行

1940年03月

丸山晩霞は南洋興発会社の依頼を受け、南洋の風物を主題とする献納画の下絵写生の為、約一箇月に亘り南洋群島を視察、三月十九日帰国した。

シドニー日本品展国内展示会

1940年03月

濠洲シドニーに於て、予て日本純国産品の展示会が計画されてゐたが、貿易組合中央会、日濠協会、国際文化振興会の協力により蒐集された資料が三月二十七日現地発送に先立ち高島屋本店に於て展示された。これは文化資料と一般国際品に分けられたが、前者には日本の風物を示す版画、光筆画の現代画家の作品、古代風俗を示す鏑木清方の文展出品作「春の愁ひ」、江戸時代小袖等があり、後者はその主旨として美術的工芸ではなく、日本人が普通に使用してゐる布帛、陶磁器、硝子工芸、金属工芸、七宝、木工品等であつた。

橋本関雪渡支

1940年03月

曩に「両面愛染明王」「待機」「柳蔭洗馬」の下絵を終つた橋本関雪はこれ等を完成する為三月八日長崎出帆渡支した。

野田九浦「聖地絵巻」献上

1940年03月

野田九浦は昭和十年十月秩父宮同妃両殿下に扈従して日向の国一帯に亘る皇祖神武天皇の御聖跡の地を巡拝した折の写生を完成すべく五年間努力してゐたが、此の度完成、三月十五日秩父宮殿下へ献上の光栄に浴した。絵は天、地、人、全三巻三十一図より成り、各巻縦一尺四寸、長さ一丈五尺である。

駐日伊太利亜大使ジヤチントアウリツチ帰国

1940年02月

昭和八年赴任以来八年の間日伊両国の文化親善に貢献するところ多大であり、又日本美術の愛好家として知られたジヤチント・アウリツチ駐日伊太利亜大使は解任帰国することとなり、日伊学会主催にて二月二十三日華族会館に於て送別会が催された。

「伊太利亜海外発展展覧会」出陳資料展示

1940年02月

ナポリ市開催「伊太利亜海外発展々覧会」出陳の為日伊学会に於て蒐集せる近世初期より現代に至る日伊文化関係資料の写真を二月二十三日華族会館に於て展示した。

東洋美術国際研究会の設立

1940年02月

世界に於ける日本及東洋美術の研究を進め、美術上の国際聯絡及協力を図り併せて日本文化の海外宣揚及国際親善に貢献せんが為文部、外務両当局の後援のもとに東洋美術国際研究会が設立され、二月二十日華族会館に発会式が催された。差し当たつて美術研究所に同会事務所が置かれたが、その予定事業は一、講演会及展覧会の開催並に連続講義の開設、二、外国人の研究及見学指導、三、著述、編纂、翻訳、出版並に定期刊行物の発行、四、海外研究機関との聯絡及協力、五、海外に対する出版物の頒布、六、其他適当と認められたる事業等である。尚その役員は(会長)侯爵細川護立、(理事長)伯爵樺山愛輔、(常務理事)児島喜久雄、男爵団伊能矢代幸雄柳宗悦(以下略)である。

越後工芸美術界結成

1940年01月

旧来の越佐工芸美術会を解消し、新に新潟県出身の工芸美術家に依り越後工芸美術会が結成された。

造形美術学会創立

1940年01月

批評家横川毅一郎は美術文化の諸研究発表のため、造形美術学会を設立した。

大光会設立

1940年01月

東光会の大阪支部として大光会が設立され、斎藤与里の指導のもとに洋画の研究発表を行ふこととなつた。

日伊文化連絡協議会第一回打合会開催

1940年01月

日伊文化協定に基き予て準備中であつた同協議会第一回打合会を一月二十七日外務次官官舎に於て開催し、協定の精神に則つて学術、文学、美術、映画、ラヂオ其他による文化交換の具体化に邁進することとなつた。

日本刺繍院創立

1940年01月

刺繍工芸の芸術探究と、基礎建設を目的として京都に日本刺繍院が創立された。

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