川合玉堂午餐を賜ふ

1940年11月

畏き辺りでは紀元二千六百年祝典に際し文化勲章を賜つた川合玉堂並びに佐々木隆興両氏(西田、高木氏欠席)を正午霞ヶ関離宮に召させられ、我が国文化興隆の功労者として午餐を賜はつた。

照宮内親王殿下帝室博物館及び奉祝展台臨

1940年11月

照宮内親王殿下には、十一月十六日女子学習院の御学友九十名と共に上野公園帝室博物館へ成らせられ、特別陳列中の正倉院御物を御覧遊ばされ、次いで東京府美術館に開催中の後期奉祝美術展に成らせられた。

日東美術院創立

1940年11月

美術に於ける肇国精神の発揚、日本画の海外進出等を目的として園部香峰等により創立された日東美術院は、十一月二十一日上野精養軒に発会式を行つた。

三井洋画コレクシヨン開設

1940年11月

男爵三井高精はその蒐集せる日本現代洋風画、及び近代西洋画を展観する為、麹町区平河町に三井洋画コレクシヨンを開設、十一月二十一日開館式を催した。年数回陳列替を行ひ、毎週一回定期的に公開する筈である。

第三部会改称

1940年11月

文展改組に際し結成された第三部会は十一月十日皇紀二千六百年祝典に際し「民族彫塑」の創造と建設を旨として国風彫塑会と改称、此の月公募に依る第一回展を開催した。

上野会創立

1940年11月

東京市内に於て発行する日刊新聞社美術担当記者を会員とし、相互の親睦と指導的立場に於て美術界の事象を検討する目的を以て十一月十日「上野会」が結成された。

美術団体連盟創立

1940年11月

美術団体相互間の連絡を図る目的を以て一水会、二科会、東光会、独立美術協会、旺玄社、大平洋画会、光風会、春陽会、新制作派協会を役員団体として美術団体聯盟が創立され、十一月七日初総会を挙行した。後図画会を除き、白日会、日本版画協会、日本水彩画会、第一美術協会、春台美術会、美術創作家協会、美術文化協会が加盟した。

川合玉堂文化勲章を授けらる

1940年11月

畏き辺りでは紀元二千六百年の式典に際し、佳年の御慶びを広く一般にもわかたせ給ふ思召から十一月十日の式典当日、文化風教其他社会事業、殖産興業等各方面の功労者二百五十七名に叙位、叙勲、文化勲章授賜、褒賞下賜の御沙汰あらせられた。其中文化勲章は日本画壇の長老帝室技芸員、帝国芸術院会員川合玉堂をはじめ、科学、文学方面の学者四氏に授けられた。その授与式は同日賞勲局総裁室で行はれた。

跡見玉枝筆「御駒繋ぎ桜」奉納

1940年11月

日本画家跡見玉枝は紀元二千六百年奉祝と明治神宮鎮座二十年祭奉祝との心をこめ、明治天皇に御縁りある東京府下南多摩郡多摩村の「向の岡」の桜の古木を縦二尺五寸、横三尺の画面に謹写し、十月二十七日明治神宮へ奉納した。

新版画会設立

1940年11月

新しき版画運動を起すため旭泰宏等に依り新版画会が十一月三日結成され展覧会を開催することとなつた。

直土会更新

1940年11月

建畠大夢門下の同会は「時代の核心を把握し健全なる彫刻芸術の発展を期し」てその更新を声明し、十一月五日発会式を挙げた。猶ほ公募展を開催することとなつた。

「明治神宮鎮座絵詞」完成奉納

1940年10月

明治神宮鎮座二十年祭は十一月一日から四日迄厳かに執行されたが、これに先立ち十月三十一日御本殿の奥深く「明治神宮鎮座絵詞」が奉納された。この絵詞は鎮座祭奉仕の光栄に浴した一条宮司、鈴木権宮司の発願にかかり、磯田長秋が絵を担当、去る十一年六月謹写を完了、その詞書が結了、五巻に収められたものである。

黒田子爵記念美術奨励資金買上

1940年10月

同資金委員会では本年度の買上として奉祝展出品中より長原坦作「牡丹」を選定買上げ、大礼記念京都美術館へ寄贈した。

日本商業美術協会解散

1940年10月

大正十五年創立後商業美術確立の運動に努め来つた日本商業美術協会は国内体制の変化に処する為、再出発の前提として十月二十四日総会の決議に依り解散した。

工芸美術作家協会創立

1940年10月

工芸美術家相互の連絡協調に依り工芸美術の振興を図り、以て国民文化を昂揚し、併せて輸出工芸の発展に資する為、工芸美術作家協会が創立され、十月二十五日丸の内永楽クラブに於て発会式を挙行した。

松岡映丘筆「明治神宮舞楽之図」奉納

1940年10月

松岡映丘筆「明治神宮舞楽之図」の所有者東京日々新聞社は、紀元二千六百年記念及明治神宮鎮座二十周年記念として同図を明治神宮へ奉納することとなり、十月二十四日奉納奉告式を執行した。

日本挿絵画家協会結成

1940年10月

従来の挿画倶楽部を解消し、挿絵芸術及び挿絵文化に関するあらゆる部門を包含して新しく日本挿絵画家協会が生れ、その発会式が十月八日東京会館に於て催された。(名誉会長)鏑木清方、(会長)石井鶴三、(顧問)小杉放庵、菊池寛外十二名。

藤田嗣治満州より帰る

1940年10月

昭和十四年ノモンハンの草原に展開された近代科学戦を描く為陸軍省嘱託として渡満中であつた藤田嗣治は十月十三日帰国した。

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