事変記念絵はがき
1939年06月事変二周年記念日の七月七日に際し陸軍省では各方面に配付すべく記念絵はがきを作製した。向井潤吉作「上海戦の想出」、吉田傅作「武漢空爆行」、福田豊四郎作「銃後の田園」の三枚一組である。
事変二周年記念日の七月七日に際し陸軍省では各方面に配付すべく記念絵はがきを作製した。向井潤吉作「上海戦の想出」、吉田傅作「武漢空爆行」、福田豊四郎作「銃後の田園」の三枚一組である。
山元春挙の七回忌に当り、生前主基風俗御屏風揮毫拝命の記念として設けられた茶席穂露に於て、六月十、十一日遺墨並に遺愛の余技品を展列、同時に山元清秀により第一席大津市盧花浅水荘、第二席山口家別邸、第三席土橋家別邸に於て追福茶会が催された。
東京美術学校の同窓会の組織ができたため、同趣旨の東台邦画会はその名義を解消し同窓会日本画分科会を設立することになつた。
イタリア政府主催により、今秋十月ローマで園部香峰の作品四十点を展観することになつた。
文部省では諸学振興委員会内に芸術学部を設け六月一日附を以て左記十一名を昭和十四年度芸術学部臨時委員に任命又は嘱託した。尚十月十八日から四日間第一回芸術学会を開き諸種の研究発表を行ふこととなつた。 文部書記官本田弘人、東京帝大教授斎藤勇、同藤懸静也、同大西克礼、京都帝大教授成瀬清、東北帝大教授阿部次郎、九州帝大教授矢崎美盛、東京美術学校長芝田徹心、東京音楽学校長乗松嘉寿、美術研究所員矢代幸雄、?谷温、西脇順三郎
美術記者連盟は六月五日例会を開き協議の結果左の声明書を発表した。 「東京府美術館常議員及び常議員会は今日の美術界の諸情勢に鑑み不適任と認む、よつて我々は常議員の改選及常議員会機構の改革を要望す」
小堀鞆音の供養塔が門下の革丙会によつて府下北多摩郡神代村の深大寺に建立された。塔は台石から高さ六尺の五輪塔で、中に門下生の写経及び故人愛用の印章筆墨などを納め、五月十日嗣子小堀安雄、門下安田靫彦、小山栄逹ら十二名が列席埋経式を営み、同十五日関係者参集盛大な追善供養を営んだ。
さきに独立美術協会を脱退した福沢一郎は、同志三十九名と共に美術文化協会を結成し、五月十七日発会式をあげた。
大阪の工芸団体創工社は先月解散したが、その後これに代る新団体として五月六日形象工芸美術会が結成された。
四月三十日開会されたニユーヨーク万国博覧会日本特設館の公式開館式は、五月六日関係者を招待して盛大に行はれた。
二科会員鍋井克之は満州及び北支の絵画教育調査を主な目的とし、約二ヶ月の予定を以て五月七日出発した。
文展出品の彫塑家で所属団体をもたぬ人々のために、藤井浩祐、吉田三郎らを幹事として文展第三部作家協会が組織され、六月東京で第一回展を開くこととなつた。
昨年国展に出品された清水多嘉示作「海の荒鷲」は、高さ八尺八寸の銅像として中村精七郎から海軍省に寄贈され、海軍館の芝生に建てられることとなつた。
大阪府工芸協会では府、市その他との連合主催により従来産業工芸展を開催し来つたが、時局に鑑みてこれを革新充実せしめ、本年より新に大阪工芸振興展覧会を開設することとなつた。この展覧会は春秋二回とし春季には美術工芸展を、秋季には産業工芸及び図案展を開くこととするもので、出品者は大阪府在住者及び大阪府工芸協会会員に限つてゐる。
荒木十畝は皇軍慰問と美術による日満支提携に貢献せんとして、四月二十九日門司発渡支した。先年日支両国間に展覧会を開いた東方絵画協会の事業を再開する希望である。
本年度佐分賞受賞者は同賞委員会で銓衡の結果、図画会同人倉田?及び二科会会員島崎鶏二の両名に決定四月二十二日佐分宅で授賞を行つた。
健全な小国民文学の創造を目的として、少年文学作家及び挿画家らが同会を結成し、四月二十日第一ホテルで発会式をあげた。
絵画彫刻の両部よりなる主線美術協会は、両部の円満なる協議の下に四月十八日絵画部を解散し、彫刻のみの団体として存続することとなつた。
優れた工芸品の輸出振興による報国を目的とし、大阪の工芸作家らによつて工芸美術輸出報国会が結成され、四月十七日創立総会が行はれた。発起人は山本笙園、黒岩淡哉、越田尾山、中島豊次、島野三秋、大国寿郎、安原祥窓、入江来布、杉田禾堂、柴崎風岬の十名、会員約三十名である。