日伊文化協定公布

1939年03月

日伊両国間の文化的協力に関する協定が、三月二十三日東京で有田外相とアウリチ伊国大使とにより調印され、同二十八日附官報を以て公布された。協定は左の四条よりなる。 第一条 締約国ハ其ノ文化関係ヲ堅実ナル基礎ノ上ニ樹立スル為努力スベク且之ニ付最モ緊密ナル協力ヲ為スベシ 第二条 締約国ハ前条ノ目的ヲ達成スル為学術、美術、音楽、文学、演劇、映画、写真、無線放送、青少年運動、運動競技等ヲ通ジ両国間ノ文化関係ヲ常ニ増進スベシ 第三条 前条ノ規定ノ実施ニ必要ナル細目ハ締約国ノ権限アル官憲間ノ合意ヲ以テ決定セラルベシ 第四条 本協定ハ署名ノ日ヨリ之ヲ実施スベク締約国ノ一方ハ十二月ノ予告ヲ以テ本協定ヲ廃棄スルコトヲ得 なほ調印と同時に発表された外務省声明によれば、本協定に即応し両国の権限ある官憲は取あへず左の諸事項を協議決定することになつてゐる。 一、両締約国の一により提案せらるべき文化協力に関する発議考究の為の委員会の設置、二、両国の文化的接近に資すべき新なる文化施設の設置及既存の此の種文化施設の維持並拡充、三、本協定の指導精神に遒由し且追て協定せらるべき範囲に於て行はるべき両国学校教科書の補正、四、政府派遣留学生に対する便宜供与、五、教授並に学生交換の増進、六、両国の一に於て文化的活動に従事する者に対する相互推薦、七、青少年団による交驩の増進、八、図書、雑誌の交換、九、両国の文化的接近に資すべき一般並専門的文献翻訳の相互奨励、一〇、芸術文化交換、一一、映画交換、一二、交換放送、一三、運動競技並に厚生運動による交驩、一四、観光事業による交驩

美術記者連盟結成

1939年03月

美術雑誌の代表者十余名は三月二十一日東京府美術館食堂に会合、協議の結果美術記者連盟を結成し左の声明書を発表した。 「皇国の芸術文化興隆発展のため適切なる連絡と協力を目的とし美術記者連盟を結成し新日本文化創造運動に寄与せんことを期す」

ブルーノタウト追悼会

1939年03月

わが国の建築及び工芸界に多くの貢献をのこし、旧臘イスタンブールで逝去したドイツ建築家ブルーノ・タウトを追悼するため、有志の発起により三月十六日一つ橋学士会館で晩餐会が開かれ五十余名の出席があつた。

戦没勇士の胸像製作

1939年03月

満州事変及び今事変に抜群の武勲をたて護国の華とちつた勇士達の胸像を刻んで後世に伝へようと、東京美術学校出身の石原昂等七名の彫刻家により昨年末報国芸術会が結成されたが、北村西望の指導、遊就館長渡辺少将その他の後援を得て製作に着手、倉永辰治少将、加納治雄少々、南郷茂章少佐、梅林孝次大尉、西住小次郎大尉、大山勇夫大尉、荒木克業大尉の七名の胸像原型を完成し、三月十九日遺族らの内覧に供した上最後の仕上げをなし遊就館に献納することになつた。

橋本関雪渡支

1939年03月

皇軍の姿を日本画に描かうとして橋本関雪は三月十三日神戸発中支に向つて旅立つた。

レオナルドダヴインチ賞

1939年03月

昨年イタリア中亜極東協会が設定し、その取扱ひを日伊学会に委嘱して募集した第一回レオナルド・ダ・ヴィンチ賞の懸賞論文は、年末の締切までに美術に関するもの三篇、その他合計十篇が集り、爾来審査中であつたが、三月六日最終の審査員会で美術研究所嘱託隈元謙次郎の「明治初期に来朝せるイタリア美術家とその功績」に授賞することを決定し、同十五日イタリア大使館で授賞式が行はれた。

日独文化の夕

1939年03月

ベルリンの日本古美術展覧会が二月二十八日から開かれたのに呼応して、日独文化協会主催日独文化の夕が三月四日明治生命館講堂で開かれ矢代美術研究所長、秋山帝室博物館鑑査官の講演等が行はれた。

朝鮮総督府美術館竣工

1939年03月

総督府では始政二十五周年記念事業として綜合博物館建設を計画中の所、時局のため工事中止のやむなきに至つたが、その中着工中であつた美術館のみは引続き工を進め、この程竣工した。鉄筋コンクリート造、六五〇坪、工費十四万円で、本年から鮮展その他展覧会場として使用されることとなつた。

イタリア陸軍に油絵贈呈

1939年03月

三月十日の陸軍記念日を期してわが陸軍から、事変当初以来よせられたイタリア陸軍の好意を感謝する意味で、向井潤吉作の油絵「突撃」(十二号)を贈ることとなり、三月九日参謀本部で樋口少将からイタリア大使官附武官に贈呈された。

パリ、ポスター展出品

1939年02月

四月パリで国際観光ポスター展が開かれるので、わが国からは国際観光局出品の堂本印象作「春日神社」、新井康弘作「霊峰富士」、鉄道省運輸局出品の畠山錦成作「踏む大地漲る力」、京都府観光課出品の竹中良吉作「雪の平安宮」、木本繁堂作「新緑の京都」の五点を送ることとなつた。

児童絵本粛正

1939年03月

内務省図画課が昨秋以来着手した児童の読物である漫画、絵本等の粛正については、一月中発売禁止としたもの九件、二月は皆無の好成績を示すに至つたが、製作者側では自粛のため東京大阪両市の同業者を中心として日本児童絵本出版協会を設立し、非常時下児童読物の改善に努めることとなつた。

乾神社創社

1939年02月

大阪在住の南画家矢野橋村は同志を集め、二月二十三日新団体乾神社を創立した。「南画の基礎の上に立ち、将来日本画の大道を拓き、新時代の芸術を建設せんとす」るものである。

パリにおける日本舞踊展

1939年02月

パリの国際舞踊博物館で五月一日から二箇月間日本舞踊展覧会が開かれることになり、国際文化振興会では出品物の選定に協議を重ねた結果、舞台模型、舞踊人形、舞台図、小道具、衣裳、面、レコード、楽譜、三味線、番組、筋書、ポスター、その他日本舞踊を示す絵画、写真、映画に亙つて選択を完了、二月二十日同会で展示会を行ひ近く発送することになつた。尚展覧会終了後右出品物は同館に寄贈されることとなつた。

平安朝風俗の聖母像

1939年02月

四月ローマで開かれる万国カトリック婦人大会にわが国からも代表が出席するが、この大会に際して各国からローマ教皇に献上する聖母像を、わが国では日本画家小関きみ子が選ばれて製作に当り、三尺に六尺の画面に平安朝風俗の聖母像を描いた。

紐育万国博出品物発送

1939年02月

四月開かれるニユーヨーク万国博覧会のわが国からの出品物はいづれも完成したので、最後の発送に先ち二月九日から四日間東京府美術館で国内展示会を開いた後、同二十二日発送した。

昭和洋画奨励賞授賞

1939年02月

昭和十三年度の成績による本年度の同賞受賞者は、二月十三日委員会に於て銓衡の結果、新制作派協会員内田巌及び二科会員岡田謙三の二名に決定、同二十日賞金各六百円を贈つた。

大阪美術懇話会設立

1939年02月

大阪府情報部の斡旋によつて二月三日在阪の画家、彫刻家ら約二十名が府庁に集り、府当局者と共に種々懇談協議を重ねた結果、大阪を中心とする美術家の団体として大阪美術懇話会を設立することとなり、委員を設けて規約の作製その他準備を重ねてゐたが、二月二十一日同会の設立を決定した。その趣旨は「会員相互の時局に処する信念を固くし美術の振興と文化の向上に努め以て美術報国の使命を全うせんとする」にある。

版画を米国へ

1939年02月

米国百二十六校の美術科研究室から成る世界版画研究会から吉田博宛に、今年度の研究を近代日本版画と決定したからその代表として作品百二十六枚と製作過程を示す木版を送られたいとの依頼があつたので、之に応じて製作送付することとなつた。

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