貿易局工芸品輸出振興展開設

1939年08月

商工省では昭和二年制定の工芸展覧会規定、及び昭和八年制定の貿易局輸出工芸展覧会規定を廃止し、新に貿易局工芸品輸出振興展覧会を開設することとなり、八月二十五日附官報でその規定を告示した。

吉住部隊戦争記念画

1939年08月

武漢三鎮の攻略戦に赫々たる武勲をたて帰還した吉住良輔部隊長は、七月五日参内して軍状奏上の際畏くも拝受した御下賜金を最も有効ならしむるため、部下諸部隊の戦功を永久に記念すべく中支戦線における戦闘の場面十二を選び、陸軍美術協会に委嘱して清水登之向井潤吉鶴田吾郎瀬野覚蔵、長坂春雄、高光一也の六画家の人選を決定、三十号の油絵各二点の製作を依頼し、完成の上は各部隊に配布して永く保存することとなつた。

観光ポスター募集

1939年08月

国際観光局ではさきに海外宣伝用のポスター図案と日本風景絵はがき用写真とを募集、七月末締切つたが、応募作品ポスター二八〇点、絵はがき七〇組につき審査の結果八月十六日入選者を決定した。ポスター入選者は一等大阪朏泰蔵、二等一席名古屋坪井正男、二席福岡西本茂、三等一席福岡堀田光雄である。

松方コレクシヨン海外で売立

1939年08月

松方幸次郎蒐集の欧州絵画は千数百点の大蒐集を成し、大正十一年その中の千余点を将来、一部を公開して以来わが国における西洋画の貴重な蒐集として注目されたが、昭和二年金融恐慌のため十五銀行に担保物件として蔵されて来た。その間前後七回に亙つて売立られ、右の中約二百三十万円は散迭してゐるが、なほ約二百七十万円のものが残されてをり、その外ロンドンの某銀行倉庫に数百万円のものがあるといはれる。十五銀行ではこれらを外貨獲得のため一括して近く国外で売立てることになつた。

満州国美術展

1939年08月

第二回満洲国美術展覧会は八月一日新京西広場小学校(第二部西洋画、第三部美術工芸及彫刻)、八島小学校(第一部東洋画、第四部法書)を会場として開会された。審査の結果第一部大臣賞一、特選四、佳作九、第二部大臣賞一、特選四、佳作一二、第三部大臣賞一、特選四、佳作六、第四部大臣賞一、特選四、佳作九点が選ばれた。なほ本年度わが国から審査を依嘱されて渡満したのは野田九浦梅原竜三郎の両名で、大臣賞受賞者は左の通りである。 第一部「作業」(新京)栗山博 第二部「祭の女」(新京)白崎海紀 第三部「銅製香炉」(奉天)山田甲子雄 第四部「隷書」(新京)王光烈

長流画塾慰問画献納

1939年07月

川合玉堂の長流画塾では病床にある将兵慰問のため、玉堂初め各人一点づつ作品を製作、合計八十八点が完成したので、七月二十九日陸軍省に献納した。

工芸指導所関西支所設置

1939年08月

工芸指導所では大阪の出張員事務室を閉鎖し、八月一日より大阪市西区江の子島に関西支所を設置して輸出雑貨の積極的改善並に指導に当らしむることとなつた。

ドイツへ現代日本画寄贈

1939年08月

今秋ドイツのナチ党大会に出席のため渡独する藤原銀次郎は、現代日本画の代表的作家の作品六十一点を携行、同国に寄贈することとなり、八月五日の出発に先ち同一日東京美術倶楽部で展観した。これらの作品はかねて岡部長景子爵の主宰する尺貫法存続聯盟に、同運動援助のため各作家から寄贈されたものである。なほその他に川端竜子原作「潮騒」を高島屋がつづれ織りに複製した壁かけをヒトラー総統に贈ることとなつた。

童林社壁画献納

1939年07月

童林社同人の共同製作になる「城信義追悼聖戦壁画」は陸軍へ献納され、七月二十六日東京美術学校講堂で献納式が行はれた。

輸出工芸振興委員会設置

1939年07月

商工省では輸出工芸の振興に関する重要事項を調査審議する為、新に輸出工芸振興委員会を設置することとなり、七月二十日の官報を以てその官制が公布され、又同日附で委員及び幹事が任命された。商工大臣を会長とし、松島外務省通商局長、村瀬商工次官、永田商工省化学局長、寺尾貿易局長官、堀貿易局第一部長、国井工芸指導所長、片岡国際観光局長らの外、永井松三、岸田日出刀その他計二十名を委員とする。尚右に伴ひ従来の工芸審査委員会官制は廃止された。

ベルギー国際人形展出品計画

1939年07月

今秋十一月ベルギーの首都ブルユクセルで国際人形展が開かれることとなつたので、国際文化振興会ではわが国の古代から現代に及ぶ人形を代表すべき出品物を選定出陳することとして準備に着手した。この出品は八月二十三日から五日間展示されたが、後欧州の急変せる事態によつて発送を中止した。

国画会彫塑部同人脱退

1939年07月

国画会彫刻部同人全員及び出品者有志計八名は、絵画部と芸術上見解の相違を理由とし七月四日左の声明を発して同会を脱退、その中清水多嘉示を除く全部は新制作派協会に参加した。その為国画会は彫刻部を解消し、又新制作派協会は新に彫刻部を加へたこととなつた。 「我国に於ける造型芸術の本格樹立のため、一致協力して参りました国展彫刻部の我々はその芸術行動を更に鮮明にし、新しきジエネレエシヨンの確立に邁進すべき段階に到逹いたしました。この彫刻部の芸術意慾は国展絵画部の趣味的芸術の没時代性と、既に相容れざるところであります。組織に於けるこの矛盾を清算すべく、茲に十三年の友誼を切つて彫刻部同人及び出品者有志一致して脱会する事になりました。右声明いたします。」 なほ新制作派協会が同日発した声明は左の通りである。 「新制作派協会は今日まで、新正なる純粋芸術の樹立と芸術行動の一元化に向つて一意邁進して来ましたが、更に明確なる意識を以て芸術の本質たる新しき空間に於けるモニユマンタル芸術の確立を期すべき段階に到逹してゐると信じます。偶々国展の彫刻家有志とその芸術意慾を同じくし、協力一致せば其の成果の甚大なることを共に確信し、ここに統合体となる事を声明する次第であります。」

中村不折作品寄贈

1939年07月

中村不折は過般開催した大平洋画会展に回顧特別陳列した自作の中から「廓然無聖」「小雨の渡し」「始制文字」「桂樹の井」「盧生の夢」「焼芋和尚」等十六点を文部省に寄贈した。

川端竜子渡支

1939年06月

川端竜子は大陸策連作の画材を得るため、海軍嘱託画家として五月半以来中支各地を巡歴、六月二十七日帰着した。

国吉康雄授賞

1939年06月

開会中のサンフランシスコ万国博覧会美術館現代世界の部で六月二十八日審査の結果、アメリカの部では二科会員国吉康雄の「ソフア上の風見その他」が絵画彫刻を通じて第一位を獲得、賞金千ドルを授与された。

日本医家美術協会結成

1939年06月

絵筆をとる医学博士二十七名によつて六月十八日日本医家美術協会が結成された。八月第一回展を開く予定。

巴里日本美術家展

1939年06月

パリ在住の日本美術家によつて巴里日本美術家協会が設立され、旧臘日本大使及び仏国文部大臣後援の下にベルネーム・ジユーヌに於て第一回展を開いて多くの反響を得たが、その第二回展が六月二十七日から三週間ギヤルリー・シヤルパンテイエで開催され、絵画、彫刻、工芸に亙り五十二名の出品があつた。

事変記念絵はがき

1939年06月

事変二周年記念日の七月七日に際し陸軍省では各方面に配付すべく記念絵はがきを作製した。向井潤吉作「上海戦の想出」、吉田傅作「武漢空爆行」、福田豊四郎作「銃後の田園」の三枚一組である。

日独文化連絡協議会設置

1939年06月

昨秋締結された日独文化協定に基づき、東京及びベルリンに日独文化連絡協議会が設置され六月十七日両国政府は東京協議会委員長として日本側外務省文化事業部長三谷隆信、ドイツ側日独文化協会主事ワルタードーナート博士以下合計十名の常任委員を任命、外務次官官舎で同協議会発会式をあげた。

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