戌辰会解散

1939年04月

川合玉堂を顧問とし児玉希望を中心とする戌辰会は、第十回展終了を機会に四月十五日左の声明を発して解散した。 「昭和三年創立したる戌辰会は、同十年末拡大強化を行ひ今日に至る。其の間展覧会を重ぬること十回、概ね所期の目的を達成したるものとし、更に後日の伸展に備ふるため、茲に解散す。右声明す。」

米国大統領に水彩画贈呈

1939年04月

故斎藤駐米大使の遺骨が米国軍艦アストリア号によつて礼送されることになつたので、外務省ではルーズヴエルト大統領の厚志に感謝の意を表するため、滝沢邦行に委嘱して水彩画全紙大の山桜図を作製、四月十七日同艦入港迄に完成し大統領に贈呈することとした。

蔦谷竜岬筆塚建立

1939年04月

故蔦谷竜岬の七回忌に当り野田九浦揮毫の墓石が建立されると同時に、正木直彦揮毫の筆塚が旧門弟らによつて小石川区戸崎町喜運寺に建設され、十月七日の忌日を繰上げ四月十五日法要をかねて除幕式が行はれた。

日伊文化の夕

1939年04月

日伊文化協定の締結を記念するため、日伊学会と国際文化振興会との共同主催により四月十五日夜九段軍人会館で日伊文化の夕が開かれ、美術研究所長矢代幸雄の講演その他が行はれた。

日本陶芸研究会結成

1939年04月

三月解散された東陶会所属の作家らによつて四月十一日日本陶芸研究会が結成され、左の宣言が発表された。 「陶芸の道は広く深い。が、而し粉骨砕心以つて、その域に通ずれば、遂に道は成るものだと思はれるのである。日本陶芸研究会の意図は、この域に到りたいがために外ない。(中略)今日の陶芸は、賑ふべくして賑ひ得ない如き情勢にある。が、一にこれも真実心の不足と、研究の欠くるところがあるからだと信じたいと思ふ。敢へて、我等は新東亜建設の大業に即して一層の堅忍努力を致さねばならぬ決意を固め、以つて本会の目的達成に尽さんとす。右、宣言する次第である。」

貿易局輸出工芸図案展開設

1939年04月

商工省では輸出工芸振興のため、賞金を定めて工芸図案を募集、展覧会を開催することとなり、四月十四日官報を以て貿易局輸出工芸図案展覧会規定及び第一回展覧会の要綱を告示した。

陸軍美術協会結成

1939年04月

事変開始以来美術家の従軍するもの二百余名に上り既に幾多の戦争画を生んでゐるが、これらの画家の間で一層軍部との連絡を密にし、美術家相互の親睦と国策への協力を図るため、陸軍省情報部の賛同を得て四月十四日陸軍美術協会が結成された。松井石根大将を会長とし、藤島武二を副会長とする。

報道美術協会結成

1939年04月

東京高等工芸学校図案科卒業の有志によつて、四月八日報道美術協会が結成された。

彫漆手筥御贈進

1939年04月

イラン帝国皇太子殿下御結婚奉祝のため、わが国から使節を派遣し四月九日そよかぜ号による親善飛行が行はれることになつたが、畏き辺りではこの使節に托して磯井如真作石楠花図彫漆手筥を御祝品として御贈進遊ばされることとなつた。この作は昨秋文展で特選となり宮内省御買上の栄を得たものである。

創工社解散

1939年04月

大阪における工芸団体創工社は三月二十五日総会を開いて解散を決議し、四月七日左の声明を発した。 「創立以来五星霜を重ね、この間数回のパンフレツトと三回の展覧会を開催し、一意研究に邁進し来つた吾が創工社も、今や大乗の見地と小乗の実功とに鑑み、茲に再出発を必要とし、一旦その結成を解くこととした。右声明す。    昭和十四年四月七日 創工社」

建築美術協会結成

1939年04月

建築家と美術家とが合体して壁画の活用などによる建築美の創造を目ざし、建築美術協会が結成された。今和次郎、国師嘉彦、内田厳、福田豊四郎本郷新、野口道方らが加はつてゐる。

福沢一郎独立展脱退

1939年04月

独立美術協会にあつて前衛派の代表的作家と見られてゐた福沢一郎は四月五日左の声明書を発表して同会を脱退した。同会では協議の結果彼を除名処分にし、又同志に告ぐとの声明を発してその立場を明かにした。 「画壇は今日戦争といふ大きな現実体験や苦悩の間に、そして後に生ずるであらう我々の熾烈な絵画精神の誕生に対して、余りにも無関心であります。我々がこれに対する認識や熱情を持ち、そしてその為に真に在野性を主張出来る展覧会を遂行する事は、絶対に必要であります。これにはまた綜合的な芸術各部門の協力が望ましく、それによつて一層輝しい成果を収める事が出来るでせう。不幸にして小生は、現在の環境に在つて、以上の目的に適ふ何事も為し能はぬことを痛感するに至りました。そこで今回第九回展を最後として独立美術協会を脱会し、更に適切な組織の下に、明日の絵画を目指して倍旧の努力をしたいと思ひます。脱会に際して一言声明します  四月五日 福沢一郎

緑巷会結成

1939年04月

新構造社を脱退した神津港人は、新に洋画団体緑巷会を組織した。五月第一回公募展を開く予定。

東京市記念事業計画

1939年03月

東京市では紀元二千六百年記念事業として左の三大計画をたて、三月三十一日その要綱を発表した。その一は宮城外苑整備で、御親臨台の設置、十万人を容れる広場の造営、肇国記念物の設置、和田倉門、渡櫓及び和田倉橋の復原、記念角櫓設置、造園及び道路の改良、記念噴水の設置などを含み予算二百五十万円。整地労働は市民の勤労奉仕による計画である。その二は新東亜建設大展覧会並に東京大会で、明年九月一日から十二月十日まで上野不忍池畔及び竹の台を会場とし、肇国館、文化館、産業館、交通館、防共館、都市館、陸軍館、海軍館、美術館その他を設け、又日満支の諸団体代表一千名参加の新東亜建設東京大会を開く等である。その三は東京市民体力強化で、予算千五百万円を以て綜合大競技場、中央体育館、綜合厚生運動場、市民厚生道場、市民厚生体育研究道場、近隣厚生運動場、厚生運動公園の建設を五カ年計画によつて完成せんとするものである。

陶磁器試験所創立二十周年記念式

1939年04月

陶磁器試験所が創立されてから二十周年に当るので四月四日その記念式をあげ創立以来の勤続者瀬戸試験場長赤塚幹也、図案技手田川基一、絵付技手井本半次郎の表彰を行つた。

東陶会解散

1939年03月

東京在住の陶芸家によつて組織されてゐた同会は、創立満十五年を機に三月三十一日次の宣言を発表して解散した。 「本会は創立以来茲に十有五年を閲したり。この間多大の努力を重ねたるの故を以て漸く所期の目的を達成したり。然れども本会員各位の成熟と多面的なる努力とは今後愈々華かなる発展を約するものたるや必せり、本会は茲に一段の発展を望まんがために会を解き以て諸賢の躍進に備へんとす。敢へて解散を宣言する所以なり。」

日本工芸品海外展示会

1939年03月

日本輸出工芸連合会の主催による第六回海外展示会は、アルゼンチン首府ブエノスアイレスで三月三十一日から二週間開かれた、展示品は漆器、陶器、木工、金工等約八百点で、南米における展示会は今回が最初である。

「八鉱之基柱」建設の計画

1939年03月

宮崎県では紀元二千六百年記念事業として、皇祖発祥の聖地を記念する高塔「八鉱之基柱」(あめつちのもとはしら)を建設する計画をたて、日名子実三に設計を委嘱中であつたが三月二十三日その模型が完成した。方十五間の基壇の上に高さ百二十尺の塔が建てられるものである。

ローマ万国博に参加

1939年03月

昭和十七年四月に開かれる予定のファシスト施政二十周年記念ローマ万国博覧会に参加招請をうけた政府では、旧臘来関係当局間で協議中であつたが、三月二十七日予算約五百万円を以て正式参加することに決定した。

to page top