板谷波山

没年月日:1963/10/10
分野:, (工,陶)

陶芸家、日本芸術院会員、文化勲章受賞者板谷波山は10月10日直腸ガンのため自宅で死去した。享年91才。
略年譜
明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。
明治15年(1882) 7月、父善吉没す。
明治18年(1885) 下館小学校卒業。
明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。
明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。
明治23年(1890) 東京美術学校に入学。
明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)
明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。
明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。
明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。
明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。
東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。
明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。
ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。
明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。
明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」
明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。
明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」
東京勧業展審査員となる。
大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。
マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。
東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」
このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。
大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)
大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。
大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。
大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」
大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』
大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」
大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」
大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」
大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)
大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」
大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。
工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」
昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)
昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)
昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」
昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)
昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)
昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)
昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)
昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)
昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。
昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)
昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)
昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」
昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)
昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)
昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)
昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)
昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)
昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)
昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)
昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)
昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)
昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)
昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)
昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)
昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)
昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)
昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)
昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)
昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)
昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)
昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」
昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(138-139頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「板谷波山」『日本美術年鑑』昭和39年版(138-139頁)
例)「板谷波山 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9003.html(閲覧日 2024-10-05)

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