本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





西村愿定

没年月日:1993/10/18

読み:にしむらもとさだ  日展評議員、光風会評議員の洋画家西村愿定は、10月18日午前8時28分、肝臓ガンのため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年78。大正3(1914)年12月12日東京の小石川に生まれ、昭和14(1939)年、東京美術学校油画科を卒業、在学中から光風会、春台展等に出品し、同13年の第25回光風会展では、光風会賞を受けた。その後も、同展で各賞を受賞し、同16年に会友に推挙され、同21年に会員となった。また、戦後には同22年に銀座資生堂画廊にて初個展を開催したほか、同21年の第1回日展から出品をつづけ、同25年の第6回展では、「二人の女の構図」が特選となり、さらに第3回新日展の出品作「レゲンデ」が、菊華賞を受賞した。鋭角的なフォルムによる構成によって、独自の幻想の世界を描きつづけた。

山本日子士良

没年月日:1993/09/15

日展参与の洋画家山本日子士良は9月15日午前1時49分、胃がんのため東京都板橋区の都老人医療センターで死去した。享年82。明治43(1910)年9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。同45年父を亡くし、大正4(1915)年に大阪へ転居。同12年大阪市北区済美第二小学校尋常科を修了して高等科へ入学し、図画教師山口重慶に画才を見出されて画家を志す。同13年済美第二小学校高等科1年を修了して同年4月より私立浪速中学校に入学。昭和4(1929)年、同校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作教室で学ぶ。同9年第2回東光会展に「踏切番」を出品。同年東京美術学校を卒業。同年より翌年にかけて兵役につく。その後も東光会展に出品する一方、同11年文展鑑査展に「歌姫」で初入選する。同12年、上京して熊岡絵画道場で熊岡美彦の指導を受ける。同15年第8回東光会展に「水辺群像」「婦人像」を出品してY氏奨励賞受賞。同年の紀元2600年奉祝展に「ともだち」を出品。同16年第9回東光会展に「惑る老技師の像」「自画像」「甦生を誓ひ合へる三人兄弟像」を出品して東光会賞受賞。同年第2回聖戦美術展に「戦野のオアシス」「雪中の弾薬輸送」を出品して朝日新聞社賞、同年の第1回日本航空美術展には「一機還らず」を出品して陸軍大臣賞を受賞した。同17年東光会会友となる。また、同年中支方面へ従軍画家として赴く。同18年東光会会員となった。同19年第8回海洋美術展に「大漁」を出品して海軍大臣賞受賞。同年春より終戦まで中支方面に出征し、この間にアトリエにあった作品全てを焼失した。戦後は第2回日展に「白服のM子」で初入選して以降日展に出品したほか、東光会への出品も続けた。同25年第6回日展に「いこい」を出品して岡田賞を受け、同26年日展依嘱。同42年第10回改組日展に「忙中の閑」を出品して菊華賞を受け、同46年日展会員、平成2年日展評議員、同4年日展参与となった。戦後間もない同21年より同45年定年退官するまで東京都新宿区牛込仲之小学校で教鞭をとる一方で制作をつづけ、明快な色面で構成した女性像を得意とした。昭和29年より板橋区に住んでおり、同56年9月板橋区立美術館で「山本日子士良展」が開催された。年譜は同展図録に詳しい。

寺田竹雄

没年月日:1993/09/10

日本芸術院会員、二科会理事の洋画家寺田竹雄は9月10日午後5時21分、心不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年85。明治41(1908)年4月27日、福岡県糸島郡に生まれる。大正11(1922)年福岡県立中学修猷館を中退して渡米、昭和3(1928)年カリフォルニア州チーコ・ハイスクールを卒業、同6年カリフォルニア州美術専門学校を卒業、同年アートセンター美術協会会員、同7年サンフランシスコ・アート・アソシエーション会員、同8年ロスアンゼルス・アート・アソシエーション会員となる。同年より米国政府の壁画政策によってサンフランシスコ・コイト記念塔内に壁画を描き同9年カリフォルニア州壁画家協会の設立に会員として参加。同10年米国政府の依頼でカリフォルニア州サンタクララ郵便局内に壁画を制作。同年サンフランシスコ日本人美術家協会主事となった。同年10月帰国。同11年東京西銀座のコットンクラブに壁画を描き、以後も多くの壁画を制作した。同11年第23回二科展に「アメリカ風景」で初入選。以後同展に出品し、同13年第25回展に「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」を出品して特待。同15年同会会友、同20年会員となった。同23年第32回二科展で会員努力賞、同28年第38回展には「よろこび(フレスコ試作)」等で同賞を受賞。同44年第54回二科展に「熱い国の女達」「果物ワゴン」を出品して青児賞。同51年第61回同展には「アラビアの女」を出品して内閣総理大臣賞を受賞して、同53年二科会常務理事となった。同59年、第68回二科展出品作「朝の港」で日本芸術院賞を受賞し、平成2年に日本芸術院会員に任命された。この間、同31年より32年まで、アメリカ、メキシコ、欧州、中近東を訪れ、同40年にも渡欧している。女性像、風景を得意とし、力強い構図の明快な画風を示した。国立競技場、アサヒ・ペンタックスビル、佐久市市庁舎、第百生命本社、松竹本社等に壁画を描いたほか、新聞挿絵に筆を染めた。日本美術家連盟理事、国際美術連盟国内委員長等をもつとめ、美術家の国際交流にも尽力した。 二科展出品歴第23回(昭和11年)「アメリカ風景」、24回「時間と空間の制限」「レール」、25回「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」、26回「フェリーボート」、27回「地下道」「買出し」、28回「田園風景」「子供と山羊」、29回「憩時間」、31回(同21年)「街の女」「車内」「子供」、32回「街の女」「都会」「少女」、34回「裸婦」、35回「街」、36回「子供」「街」、37回「ユネスコ村」「サーカスの女」、38回「よろこび(フレスコ試作)」「貝殻のある静物(フレスコ試作)」「裸婦(フレスコ試作)」「ショウインドウをのぞく子供(フレスコ試作)」、「煙突の見える風景(フレスコ試作)」「再会(フレスコ試作)」「機械化された鳥(フレスコ試作)」「母子(フレスコ試作)」「防波堤(フレスコ試作)」「丘の上(フレスコ試作)」「顔(フレスコ試作)」、39回「ピアノの前の女」「三人の女」、40回(同30年)「街に生きる人々」、41回不出品、42回不出品、43回「メキシコ」「インドの家」「大地」、44回「沙漠地帯F」「沙漠地帯G」、45回「壁」「空から見た風景」「風景」、46回「マヤ(メキシコ)」「ハロ(メキシコの家)」、47回、48回「月光」「南の国」、49回「エトランジェー」、50回(40年)「アトリエの裸婦」「古いポスターのある壁」、51回「或る異国の港町」、52回「メキシコの女」、53回「古壁と入口」「がらくた屋の店番」、54回「熱い国の女達」「果物ワゴン」、55回(同45年)「夏の電車B」「夏の電車A」、56回「ポスターののある壁」「三人の女」、57回「楽屋」、58回「古都への想」、59回「果物屋は朝早く出かける」「シルクロードを行く」、60回(同50年)「重い荷物」「破戒」、61回「アラビヤの女」、62回「私の鳥たち」「鳩笛」、63回「洗濯する女(インド)」、64回「アフガニスタンの古い街」、65回(同55年)「フルーツワゴン」、66回「洗濯する女達(メキシコ)」、67回「川辺の母達」、68回「朝の港」、69回「港に近い小公園」、70回(同60年)「メキシコの果物ワゴン」、71回「泉」、72回「或る異国の港町の夜」、73回「Odalisque」、74回「アンティークショップの留守番娘」、75回(平成2年)「サーカスの人達」、76回「曲馬団の女王」、77回「ローラースケート」、78回「サーカス一家(未完成)」

川口雄男

没年月日:1993/09/01

日展参与の洋画家川口雄男は、9月1日脳こうそくのため神奈川県鎌倉市の額田記念病院で死去した。享年85。明治41(1908)年3月21日兵庫県姫路市に生まれる。昭和9年東京美術学校図画師範科を卒業し、神奈川師範学校に奉職した。創元会に所属し、戦前は新文展にも出品した。戦後は創元会展、日展を中心に制作発表を行い、同26年第7回日展出品作「ペテロとパウロ」で特選、朝倉賞を受け、翌年の創元会展では「受難のキリスト」で会員努力賞を受賞するなど、はやくからキリスト教を題材にした作品で知られた。その後も日展に委嘱出品を続け、同38年社団法人日展第6回では「復活」を出品し菊華賞を受賞した。同41年日展審査員をつとめ、翌年日展会員となる。この間、同35年にはフランス、イタリアを巡遊し、また同42年にはアメリカを訪ねた。昭和59年日展参与となった。

坂本幹男

没年月日:1993/06/30

読み:さかもとみきお  日展会員で、創元会会員の洋画家坂本幹男は、6月30日午後7時30分、腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年81。明治45(1912)年1月1日、熊本県玉名郡に生まれる。昭和9(1934)年、東京美術学校師範科を卒業、以後愛知県、群馬県、神奈川県で教職につき、同47年に退職した。また、画家としては同11年の文展に初入選、戦後は同22年の第3回日展から出品をつづけ、同35年の第3回改組日展では、「少女と鳩」が、同37年の「合奏」がそれぞれ特選となった。さらに創元会にも、戦前の同17年の第2回展から出品し、戦後も会員として出品をつづけた。日常の生活から取材したアンティームな情感を感じさせる作品を描いた。

佐田勝

没年月日:1993/06/24

読み:さたかつ  日本ガラス絵協会代表の洋画家佐田勝は6月24日午後1時24分、食道ガンのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年78。大正3(1914)年10月13日、長崎市に生まれる。幼少時、台湾、熊本、和歌山、北海道、姫路、東京などに住み、東京の攻玉社中学を卒業後、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事する。昭和14(1939)年3月同校を卒業、同年5月福沢一郎を中心とした美術文化協会結成に参加。戦時中の一時中断をはさんで同21年まで同人として出品するが、同22年からは自由美術家協会に会員として移り、同35年に退会し、美術グループ「同時代」を結成、同50年に解散するまで発表をつづけた。以後は無所属として、社会に関心を向けた独自の作品を描きつづけた。また、同14年から25年まで、芝浦工業専門学校(現在の芝浦工業大学)建築科で講師として、後に助教授として教鞭をとった。同26年には日本ガラス絵協会を創立した。ほかに、『美術用語辞典』(造形社、昭和40年)、『異端の画家たち』(共著、造形社、昭和44年)などの著作がある。

猪田七郎

没年月日:1993/06/18

読み:いのだしちろう  イノダコーヒー社長、二科会会員、京都文教短期大学名誉教授の洋画家猪田七郎は6月18日午後6時57分、食道がんのため京都市上京区の京都府立医大病院で死去した。享年75。大正6(1917)年11月3日、京都市上京区に生まれる。京都の私立第二工業高校を中退。二科会の洋画家錦義一郎に師事し、昭和23(1948)年第33回二科展に初入選。同33年同会会友に推挙される。同37年3月から5月まで欧米を旅行。同年第47回二科展に京都祇園祭りの鉾を描いた「鉾」を出品して会員に推挙された。同38年3月、約1カ月間の中南米、北アメリカの旅に赴く。同42年第52回同展に「惑る物語」を出品して会員努力賞を受賞。京都市展、関西総合美術展にも出品した。仏像、伝統芸能など、日本の伝統的なものに取材する作品が多く、昭和40年代からは舞妓を主に描いた。画面の背景空間を簡略にして主要なモティーフを大きくとらえ、コントラストの強い明暗表現を特色とする作風を示した。同38年に京都家政短期大学服飾衣裳科講師となって油彩画を教え、同40年同大教授となったほか、京都文教短期大学でも教鞭をとった。

中谷泰

没年月日:1993/05/31

春陽会会員で、元東京芸術大学美術学部教授の中谷泰は、5月31日午後8時40分急性腎不全のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した。享年84。本名は泰一(たいいち)。明治42(1909)年5月20日、三重県松阪市に生まれる。昭和4(1929)年、上京して川端画学校、ついで春陽会洋画研究所に学んだ。同5年の第8回春陽会展に「街かど」が初入選。同7年より同会に出品をつづけ、同13年には「楽園追放」他で春陽会賞を受け、同18年に同会会員となった。同17年頃には、春陽会の創立会員である木村荘八に師事するようになり、それは木村が没するまでつづいた。また、同14年の第3回新文展に「秋日」、同17年の第5回新文展に「水浴」をそれぞれ出品、特選となった。戦後は、春陽会にひきつづき出品をするほか、同26年の第4回日本アンデパンダン展にも出品し、日本美術会に入会した。同時期の作品は、家族や静物をモチーフにしたアンティームな画風であったが、同28年制作の「乳房」(第30回春陽会展)、翌年の「流田」(第2回平和美術展)をさかいに、農民、漁夫などの労働者とその生活を主題に、社会的な意識の強い表現主義的な作品を描くようになった。しかし、同30年に初めて炭坑町を、翌年には愛知県瀬戸市を訪れ、その風土に強くひかれるようになると、その画面からは社会性が退き、人間のたゆまぬ労働で作り上げられた炭坑のボタ山や陶土の採掘跡をモチーフに油彩画の堅牢なマチエールと造形性が追求されるようになった。とくに、同33年の第35回春陽会展出品の「陶土」(東京国立近代美術館蔵)、翌年の第5回日本国際美術展に出品し、同展優秀賞を受賞した「陶土」などの代表作が描かれた。同46年には、東京芸術大学美術学部教授に任命され、同52年まで勤めた。また、同63年には、三重県立美術館において初期から近作にいたる油彩画99点、水彩・素描58点、版画9点による初めての本格的な回顧展が開催された。平成5年の第70回春陽会展に出品した「村の往還」が最後の発表となった。

渡辺正

没年月日:1993/05/27

読み:わたなべただし  独立美術協会会員の洋画家渡辺正は、5月27日午前9時35分、胆管がんのため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年65。昭和3(1928)年5月14日、山形県西村山郡に生まれる。同23年、山形師範学校卒業、同30年武蔵野美術学校卒業、この年の第23回独立展に初入選する。また、同33年に初個展(東京銀座、ルナミ画廊)開催。同46年、及び翌年の第39、40回独立展において奨励賞を、さらに41回展では「二つの影」により独立賞と海老原賞を連続受賞する。その後も同展において受賞をかさね、同58年には同会会員となる。また、同51年の第12回現代日本美術展、同63年の第17回日本国際美術展にも出品した。代表作には、独立展に出品をつづけた「靜炎」のシリーズがあり、鮮やかな色彩のグラデーションによる明快な構成ながら、土着的な情念を感じさせる抽象絵画を残した。没後の平成6年6月には、郷里の山形美術館において「抽象の世界:渡辺正遺作展」が開催された。

猪熊弦一郎

没年月日:1993/05/17

新制作派協会創立会員の洋画家猪熊弦一郎は、5月17日東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。国際的な抽象画家として知られた猪熊は、明治35(1902)年12月14日香川県高松市に生まれた。本名玄一郎。大正10年香川県立丸亀中学校を卒業後上京、本郷洋画研究所へ通い、翌年東京美術学校西洋画科に入学した。美校の同期生には、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、山口長男らがいた。一時、病を得て休学したが、同14年から藤島武二教室に学ぶ。翌15年片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構え、同年の第7回帝展に「婦人像」で初入選したが、この年再び健康を害したため東京美術学校は中退した。昭和2年、美校の同期生岡田、荻須らと上杜会を結成、また、帝展、光風会展に制作発表を行い、同4年第16回光風会展で光風賞を、第10回帝展に「座像」で特選をそれぞれ受けた。同6年光風会会員、同8年第14回帝展に「画家」で再び特選を受ける。同10年新文展発足に反対する有志と第二部会を組織し第1回展に「海と女」を発表したが、翌11年第二部会の新文展参加に反対し同会を脱退、光風会も退会し、小磯、佐藤敬、中西利雄ら同志と新制作派協会を結成し、第1回展に「二人」「馬と裸婦」を出品した。同13年渡仏し、同15年までの滞在の間、サロン・デザンデパンダン展に出品、また、この間ニースにアンリ・マチスを訪ねその指導を受け、藤田嗣治とアトリエを共にしたりした。同15年藤田、荻須らと同船し帰国、第5回新制作派協会展に「黄色い葉」「S氏の像」などの滞欧作を発表、以後、半具象によるモダニズム絵画の旗手として画壇をリードするに至る。一方、同15年には中国文化親善のため佐藤敬と南京方面に派遣され、同17年に陸軍省派遣画家となり、寺内萬次郎とフィリピン戦線に赴いた。戦後は同21年の第10回展から新制作派協会展に出品した他、美術団体連合展に毎回出品、日本国際美術展、現代日本美術展(第6回展に「ENTRANCE A」で国立近代美術館賞)にも第1回から出品した。同26年慶応義塾大学学生ホール及び名古屋丸栄ホテルホールの壁画制作で、第2回毎日美術賞を受賞する。また、同26年の第1回サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年米国ピッツバーグ市のカーネギー美術館における国際美術展に出品したのをはじめ、以後しばしば海外の国際展に参加した。同30年パリに向う途次立ち寄ったニューヨークに魅せられ、同地にアトリエを構え、翌年からニューヨーク・ウィラード画廊の所属画家となる。以後20年間ニューヨークを足場に制作活動を展開、この間に半具象のモダニズム絵画から幾何学的構成による抽象へと転じ、明るい色彩と単純な点や線による明快な構成に独自の作風をうち立て、戦後を代表する抽象作家の一人となった。同48年脳血せんを患ったため、同50年にニューヨークのアトリエを閉じ、翌年からは冬期をハワイで静養につとめた。夫人を亡くしてからの晩年は「顔」のシリーズに意欲を燃やし、人間の表情を曼陀羅風の構成で描いていた。戦後の作品に「猫と住む人」(第1回日本国際美術展)、「WALL STREET」(同41年、新しい絵画彫刻展、ニューヨーク他)、などがある他、JR上野駅コンコース壁画「自由」、東京会館ロビー壁画(モザイク)及び電灯装飾をはじめ数多くの公共空間の仕事にも従事し、また「小説新潮」の表紙絵でも親しまれた。なお、没後平成5年6月11日東京・青山葬儀所において、脇田和を葬儀委員長に新制作協会葬が執り行われた。 略年譜1902 12月14日 猪熊八太郎、マサエの長男として高松市に生まれる。本名玄一郎。1921 3月:香川県立丸亀中学校(現丸亀高等学校)を卒業、上京し、本郷洋画研究所に通う。1922 4月:東京美術学校西洋画科に入学。(同期生に牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、等)まもなく病気のため休学し帰郷。1924 上京し、美校の1年下のクラスに再入学(2年生)。代々木の駒場に住む。1925 4月:藤島教室において藤島武二に師事。1926 5月:片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構える。10月:第7回帝展に「婦人像」初入選。この年再び健康を害し東京美術学校西洋画科を中退。1927 大分市のきむら画廊で最初の個展を開く。3月:岡田謙三、荻須高徳等と「上杜会」を結成。10月:第8回帝展「眠れる女」入選。1928 10月:第9回帝展に「赤き服の少女」入選。1929 2月:光風会第16回展で光風賞を受賞。10月:第10回帝展に「座像」特選。1930 2月:光風会会友となる。この頃より「弦一郎」と号す。10月:第11回帝展に無鑑査として「コンポジション」を出品。1931 2月:光風会会員となる。7月:田園調布にアトリエを移す。10月:第12回帝展に「二人」入選。1932 10月:第13回帝展に「画室」入選。1933 10月:第14回帝展に「画室」特選。以降帝展無鑑査となる。1934 10月:第15回帝展に無鑑査として「ピアノの前」を出品。1935 7月:新帝展に反対し不出品の盟を結んだ旧帝展第2部無鑑査の有志と第二部会を組織する。10月:第二部会第1回展に「海と女」を出品。1936 7月:第二部会の新文展参加に反対して同会を脱退、また光風会からも退会する。同月25日、志を同じくする、小磯良平、佐藤敬らと新制作派協会を結成する。その後脇田和、鈴木誠も加盟する。11月:第1回新制作派協会展を開く。「二人」「馬と裸婦」を出品。1937 12月:第2回新制作派協会展に「昼」「黄昏」「夜」を出品。1938 5月:靖国丸で渡欧、主としてフランスに滞在し、イタリア、スイスなどに旅行する。滞欧中にサロン・デザンデパンダンに2回出品。また、ニースにアンリ・マティスを訪ね指導・助言を受ける。1939 藤田嗣治と共にアトリエを構えるなど渡仏中の日本人画家と交友。「パークの子供達」「葉をくわえた女」「ホテルクロマニヨン」などの作品を描く。戦争避難のため藤田嗣治夫妻とドルドーニュ州レゼジーに疎開する。1940 パリ空襲のさなか「マドモアゼルM」を描く。この作品はフランス滞在最後の作品となる。6月:欧州大戦の難を避けて白山丸で藤田嗣治、荻須高徳らと共にマルセイユを出発。アフリカを経て8月横浜着。9月:第5回新制作派協会展に滞欧作品「黄色い葉」「S氏の像」「白い鳩」「絹の首巻=葉を持つ女」(宮城県美術館蔵)を出品。中国文化視察のため佐藤敬と南京方面に派遣される。10月:紀元2600年奉祝美術展覧会に「女と木の葉」を出品。1941 9月:第6回新制作派協会展に「長江埠の子供達」「ジプシーの子供達」「ルロットのある風景」「二人」を出品。1942 3月:陸軍省派遣画家の一人に選ばれる。ニューグランドで朝日新聞社主催の南方派遣画家壮行会に出席。フィリッピン戦線に寺内萬治郎と共に取材のため派遣される。9月:第7回新制作派協会展に「B17の残骸」「飛行機の残骸」「戦争の後(コレヒドール)」「マニラ港」を出品。1943 6月:新戦場従軍画家26名の中に選ばれ、小磯良平とビルマに派遣される。8月:第8回新制作派協会展に「篭を頭にのせる女」「椅子によれる女1」「椅子によれる女2」「南の子供」を出品。1944 3月:東京都美術館で開かれた陸軍美術展に「○○方面鉄道隊」(泰面鉄道建設)「肉迫」を出品。腎臓を煩い千葉医科大学病院に入院、手術を受ける。その後、神奈川県津久井郡吉野町に疎開する。藤田嗣治、荻須高徳、佐藤敬、中西利雄、脇田和らも同地に疎開する。1946 6月:日動画廊で開かれた新制作派協会会員展に出品。9月:第10回新制作派協会展に「二人」「N氏の像」「初秋」「山と樹」「裸婦」「楽器と女」「緑陰」を出品。1947 6月:第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に出品。田園調布美術研究所を開設する。(昭和30年3月閉鎖)9月:第11回新制作派協会展に「二人」「立てるダンスーズ」「窓」「丸い顔の娘」「扇を持つ女」を出品。1948 9月:第12回新制作派協会展に「正面裸婦」「窓と裸婦」「緑衣」「横たはる裸婦」「臥裸婦」を出品。1949 9月:第13回新制作派協会展に「コレクショナーK氏の像」「赤い服と猫」「黒い鳥と海」「箱の中の小猫」「青い服」「皿の上の猫」を出品。また建築部に出品した「敷物」が入選。1950 1月:現代美術自選代表作15人展(読売新聞社主催)に「赤い上着」(香川県文化会館蔵)「葉をくわえた女」(同)「娘と葉」「箱の中の小猫」「婦人と猫」を出品。9月:第14回新制作派協会展に「バレリーナ夢想」「六つの顔」「絵を描くN氏」を出品。イサム・ノグチが来日、親交を結ぶ。昭和24年から昭和25年にかけて名古屋丸栄ホテルにおいて大ホールの壁画「愛の誕生」を制作。1951 1月:慶応義塾大学学生ホール壁画、名古屋丸栄ホテルホール壁画に対して第2回(昭和25年度)毎日美術賞を贈られる。9月:第15回新制作協会展に「立てる群像」「座せる群像」を出品。10月:第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1951年秀作美術展(朝日新聞社主催)に「座せる群像」を出品。12月:津田山商工省技術研究所において上野駅中央ホールの壁画「自由」を制作、完成す。12月27日除幕式。1952 5月:サロン・ド・メに「猫と二人の子供」「子供と猫」「坐れる二人」を出品。5月:第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「猫と住む人」を出品。9月:第16回新制作協会展に「猫によせる歌」を出品。また、建築部に家具デザイン「寝椅子」を出品。アメリカ、ピッツバーク市のカーネギー美術館における国際美術展に「猫と花」を出品。1953 5月:第2回日本国際美術展に「からす」を出品。東京八重洲口に壁彫を制作。9月:第17回新制作協会展に「人と猫No.1」「人と猫No.2」「猫と鳥」「魚と猫」「鳥と猫」「猫達」「子供・猫・魚」を出品。また建築部に「サイドテーブル」「テーブル」「椅子」「アケサイドテーブル」を出品。1954 5月:第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「鳥と遊ぶ子供達」を出品。(5/4~6/12)6月:ブリヂストン美術館において近作展を開く。「猫達C」「鳥・猫・子供・魚」「二匹の猫B」等を出品。9月:第18回新制作協会展に「鳥・人・魚」「四匹の猫」を出品。1955 5月:ニューヨークのブルックリン美術館における第18回国際水彩画ビエンナーレに出品。5月:第3回日本国際美術展に「馬と道化」を出品。10月:勉強のためパリに向う途中に立ち寄ったニューヨークの街に惹かれ、以来20年間同市にアトリエを構え創作活動を続ける。ピッツバーグ美術展に出品。1956 4月:ニューヨークのウィラード画廊において新作の個展(第1回)(4/3~28)を開き「埴輪」等を出品。以来ウィラード画廊の所属作家となる。5月:ボストンのコルドヴァ美術館において個展(5/13~6/19)を開く。アメリカ水彩画展に出品。ニューヨーク・リンカンセンターのジャパントレードセンターで開かれたジャパン・インフルエンス・イン・モダン・ハウス・デザイン展に出品。夏:メキシコを旅行する。1957 7月:現代の美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「コレクショナーK氏」(1949年作)を出品。8月:ヴェネズエラのカラカスで、11月プエルトリコのデゴ・ディボギャラリーで個展を開く。ニューヨークにおいて、日米協会運営委員を帰国するまで続ける。また、ニューヨークの日本総領事館の顧問(文化交流)、日本貿易振興会(JETRO)の顧問(文化交流係)を委嘱される。1958 ボストン近代美術館におけるニッポニズム展(現代日本作家展)、シンシナティ美術館におけるアメリカの2世紀展、ピッツバーグ国際美術展にそれぞれ出品。香川県庁舎(丹下健三設計)に四面の陶画、ニューヨーク高島屋に壁画、日本航空ニューヨーク支店に室内装飾(金属による噴水)を制作する。1959 1月:東京国立近代美術館における戦後の秀作展に「コレクショナーK氏」を出品。1月:インディアナポリスのジョン・ヘレン美術館の現代アメリカ水彩画展、ブルックリン美術館における国際ビエンナーレに出品。9月:第5回サンパウロ・ビエンナーレに「極地設立」「極」等、7点を出品。フィラデルフィア美術館においてB.D.Bernstein夫妻のコレクションによる猪熊弦一郎展を開く。1960 日米親交100年祭のカタログをデザインする。12月:エール大学のアートギャラリー展に出品。1961 5月:第6回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「太陽の環境」を出品。第42回ピッツバーグ国際美術展に出品。ニューヨークギャラリー展に出品。9月:第25回新制作協会展に「作品(赤)」「作品(茶)」を出品。1962 10月:メアリー・ワシントン大学展に出品し賞を受ける。1963 5月:第7回日本国際美術展に「無重力」を出品。10月:メアリー・ワシントン大学展で前年の受賞を記念し、イノクマルームが設けられ、「御神楽」等15点を特別出品。1964 ニューヨークにおいて朝日生命ビルにモザイク壁画「愉快な散歩」を制作。5月:第6回現代日本美術展に「ENTRANCE-A」(国立近代美術館賞受賞、東京国立近代美術館蔵)「ENTRANCE-B」(神奈川県近代美術館蔵)を出品。グッゲンハイム美術館に作品「UN TITLED」(1963~64年作)が収蔵される。10月:第43回ピッツバーグ国際美術展に「BIRTH OF GRAY」(1962年作)を出品。1965 4月:サンフランシスコとニューヨーク近代美術館主催の新しい絵画彫刻展(1966年にかけて巡回展を開く)に「WALL STREET」200号(現在サンフランシスコ美術館蔵)を出品。5月:10年ぶりに帰国する。5月:第8回日本国際美術館に「都市計画」を出品。10月:東京の国立近代美術館における在外日本作家展に「Confusion and Order」(東京国立近代美術館蔵)「夜祭」を出品。1966 3月:ニューヨークに帰る。5月:第7回現代日本美術展に「都市概念」「都市配分」を出品。この年に開場した新帝国劇場(谷口吉郎設計)のロビーにステンド・グラス「律動」を制作。ほかに彫刻的オブジェ「熨」及びライティングのデザインを行う。また、大阪のアメリカンビル(吉村順三設計)にも二つのオブジェ(噴水彫刻・壁画彫刻)を制作。第1回ジャパン・アートフェスティバルに出品。ニューヨーク近代美術館に作品「SUB WAY」(1966年作)が収蔵される。9月:第30回新制作協会展に「PARAD(A)」等を出品。1967 5月:第9回日本国際美術展に「桃色の地図」を出品。9月:第31回新制作協会展に「BLUE CITY」を出品。10月:第44回ピッツバーグ国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。ニューヨーク、チェスマンハッタン銀行に作品「歌舞伎No.2」(1958年作)「CITY PLANNING-E」(1964年作)、「CITY COMPOSITION」(1966年作)が収蔵される。1968 5月:第8回現代日本国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。1969 3月:帰国する。5月:猪熊弦一郎展(毎日新聞社主催、毎日美術賞の受賞者を対象とした個展)を東京高島屋で開く。(5/27~6/1)9月:第33回新制作協会展に「驚くべき風景B」を出品。1970 2月:文化庁優秀作品買上として「驚くべき風景B」が買上げられる。(東京国立近代美術館蔵)12月:大阪万国博美術館に招待出品する。1971 2月:フィラデルフィア・ミューゼアム・オヴ・シビックセンターで開かれたジャパン・アート・フェスティバルで「猪熊弦一郎の芸術」を紹介される。5月:帰国(第3回目)する。8月:シルクスクリーン展をムカイ・ギャラリーで開く。東京会館のロビー壁画(モザイク)及び、電灯装飾を制作する。1972 7月:小田急ハルク画廊で開かれた新制作協会スペースデザイン部グループ展に「AIR OF NEW YORK」を出品。10月:グッゲンハイム美術館に作品「LANDSCAPE AZ」が収蔵される。1973 東京国立近代美術館(1/5~2/17)及び、京都国立近代美術館(9/24~11/14)に開かれたアメリカの日本作家展に「風景CX」(京都国立近代美術館蔵)等を出品。グッゲンハイム美術館の「20年間のアメリカ作家展」に出品。10月:日本に帰る。11月:ニューヨークに帰るにあたり新制作協会の会員と送別会を開いた席上、脳血栓により倒れる。1974 9月:第38回新制作協会展に「二つの岸A(黄)」等を出品。1975 5月:健康を害し、ニューヨークでの活動が困難となったので、アトリエを閉じるためニューヨークへ赴く。9月:ニューヨークを離れ、ハワイで静養する。9月:第39回新制作協会展に「LANDSCAPE-D」「Landscape E」を出品。1976 9月:第40回新制作協会展に「RAINBOW Z1」「RAINBOW Z2」を出品。昭和51年の冬から避寒のためハワイで静養をする。1977 9月:第41回新制作協会展に「角と丸BX」「角と丸CW」を出品。1978 9月:第42回新制作協会展に「丸角都市」「地図でない地図」を出品。1979 3月:東京国立近代美術館の評議員となる。4月:第1回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図でない地図」を出品。6月:箱根の彫刻の美術館にモザイクによる大壁画(音の世界=10m×5m)を制作。6月21日、胃潰瘍のため東京女子医大で手術を受ける。9月:第43回新制作協会展に「地図の中の日曜日」「花嫁のスケジュール」を出品。1980 3月:第2回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図の中の日曜日」を出品。9月:第44回新制作協会展に「絵の中に住む絵」(香川県文化会館蔵)「透明なる都市」を出品。11月:勲三等瑞宝章を受章。1981 3月:第3回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「絵の中の絵」を出品。9月:第45回新制作協会展に「宇宙は機械の運動場No.1」「宇宙は機械の運動場No.2」を出品。9月:朝日生命ギャラリーで開かれた、現代日本絵画の流れ展に出品。(ポーランドに巡回)1982 2月:ホノルルのアカデミー・オブ・アートにおいて個展を開く。(2/5~3/7)3月:第4回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「観客のいないサーカスB」を出品。9月:香川県文化会館において回顧展を開く。第45回新制作協会展に出品。1983 4月:第5回日本秀作美術展に「エネルギッシュな対話」を出品。9月:第47回新制作展に「星からの手紙ラブNo.1」「星からの手紙ラブNo.2」を出品。1984 6月:第6回日本秀作美術展に「宵の遊詠都市」を出品。9月:第48回新制作展に「遊泳する窓」「宇宙胚胎」を出品。1985 6月:第7回日本秀作美術展に「宇宙胚胎」を出品。9月:第49回新制作展に「窓と星座」「形の対話」を出品。1986 5月:第8回日本秀作美術展に「形の対話」を出品。9月:第50回新制作展に「通信衛星」「銀河旅行」を出品。1987 5月:第9回日本秀作美術展に「銀河旅行」を出品。7月:和光ホールで小説新潮の表紙絵原画展を開く。(18日~25日)9月:第51回新制作展に「太陽は待って居る」「原始鳥と機械」を出品。パリ・サントル・ジョルジュ・ポンピドゥーで行われた前衛の日本展に出品。10月:丸亀市が市制90周年事業として猪熊弦一郎美術館の建設を発表。ギャラリーミキモトで個展を開く。(30日~11月10日)香川県立丸亀高等学校図書館壁画「風車と太陽」を制作。1988 1月:妻文子死去。6月:第10回日本秀作美術展に「太陽は待って居る」を出品。9月:香川県県民ホールの壁画「21世紀に贈るメッセージ」緞帳「太陽と月の住むところ」を制作。香川の置県百年を記念して香川県へ作品100点を寄贈。第52回新制作展に「太陽と原始鳥」「ポートレイトの会話」を出品。10月:地下鉄半蔵門線三越前駅のホーム壁画に、壁画「創造の街」36面を制作。版画集「惑星通信88」を制作。11月:3日香川県文化功労者として香川県より表彰される。1989 3月:パリ・グラン・パレ美術館で開催されたSAGA89展に「惑星通信88」を出品。6月:第11回日本秀作美術展(読売新聞社主催)に「顔(FACES)10」を出品。9月:第53回新制作展に「三つの言葉」「三つのヴィーナス」を出品。1990 6月:第12回日本秀作美術展に「二つのヴィーナス」を出品。9月:第54回新制作展に「鳥達とヴィーナス」「鳥達の日記帳」を出品。1991 3月:25日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ゲートプラザ壁画「創造の広場」除幕式、美術館定礎式。丸亀市名誉市民証を授与される。5月:香川県多度津町町民会館ホール緞帳「明日に生きる」の原画制作。6月:第13回日本秀作美術展に「鳥達の日記帳」を出品。第55回新制作展に「顔・犬・鳥」を出品。11月:22日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が落成する。開館記念猪熊弦一郎展を開催、60点出品。12月:20日第1回よんでん芸術文化賞を受賞する。日本アイ・ビー・エム本社ビルに壁画「極点」を制作。1992 3月:横浜パシフィコの第1回NICAF(国際コンテンポラリーアートフェア)に出品。5月:所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する旨の文章を認める。以降、順次丸亀市猪熊弦一郎美術館に搬入。6月:第14回日本秀作美術展に「顔・犬・鳥」を出品。9月:ギャルリーMMGにて猪熊弦一郎モノタイプ展開催。第56回新制作展に「顔達の祭日」を出品。11月:猪熊弦一郎画集「FACES」刊行。卆寿記念猪熊弦一郎リトグラフィ集「顔ファミリー」発行。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて猪熊弦一郎卆寿記念心友イサムノグチとともに展を開催、25点出品。1993 1月:祝90祭猪熊弦一郎展に対して第34回毎日芸術賞を授けられる。5月:17日逝去、90歳。6月:第15回日本秀作美術展に「ロボット・顔・犬」を出品。9月:川崎市第三庁舎市民ホール壁画「ロボット誕生」落成。第57回新制作展に遺作9点が出品される。(本年譜は「猪熊弦一郎遺作展」-丸亀市猪熊弦一郎現代美術館-図録所収年譜によった。)

中村一郎

没年月日:1993/05/11

読み:なかむらいちろう  日展評議員の洋画家中村一郎は、5月11日午後5時43分、急性呼吸不全のため岡山県玉野市の市民病院で死去した。享年74。大正7(1918)年10月1日、岡山県玉野市に生まれる。昭和26(1951)年、第7回日展に初入選、同32年の第13回展では、「熱処理工場」が特選となった。同32年から翌年にかけて渡欧、その折に取材した作品をもとに同34年に最初の個展(東京、日本橋画廊)開催。同52年には、日展審査員となり、翌年から会員となった。また、長年にわたる功績に対して、同48年に岡山県文化奨励賞、同63年には岡山県文化賞を受賞した。風土に根ざした重厚なマチエールの風景画を多く残した。

深沢紅子

没年月日:1993/03/25

一水会常任委員、女流画家協会創立会員の洋画家深沢紅子は3月25日午前6時、心筋こうそくのため山梨県南都留郡山中湖村の別荘で死去した。享年90。明治36(1903)年3月23日、岩手県盛岡市に生まれる。父四戸慈文、母キヌ。大正8(1919)年盛岡高等女学校を卒業。12歳頃から日本画を学んでいたことから、同年女子美術大学日本画科に入学する。同10年日本画科から洋画科に転じ岡田三郎助に師事。同12年同校を卒業。同年同郷の洋画家深沢省三と結婚する。同14年第12回二科会に「花」「台の上の花」で初入選し、以後昭和5年まで同展に参加した。昭和2(1927)年、師岡田三郎助の紹介で和田三造による日本標準色協会の創立に参加し、以後2年間、標準色の選定に加わった。同12年有島生馬、安井曽太郎らによる一水会の創立に参加して以後同展に出品を続ける。同16年第5回同展に「スカーフの女」を出品して一水会賞受賞。同20年郷里岩手に帰り、盛岡短期大学美術部、岩手美術研究所等で美術指導にあたる。戦後もしばらく盛岡にとどまり、同21年に一水会が再結成されるとこれに参加して同年会員となる。同24年第11回同展に「姉妹」を出品して会員優賞受賞。同27年同会委員となった。この間の25年から女流画家協会にも出品する。同30年東京に移り、同年より同43年まで自由学園で講師として美術指導に当たった。同36年日米交歓美術展に「農婦」を招待出品。同年ソビエト日本美術展に「木の実のかんむり」を招待出品する。女性や花をモティーフに、明るく柔かい画風を示した。同54年6月、類焼によりアトリエが全焼し、アトリエ所在作品全てを焼失した。代表作に「立てる少女」(昭和34年作東京国立近代美術館蔵)、「さんさ踊」(岩手県都南村役場蔵)、「まり」(日本医科大学蔵)、「雫石あねこ」(岩手県庁蔵)などがある。

井手宣通

没年月日:1993/02/01

日本芸術院会員で文化功労者の洋画家井手宣通は2月1日午前6時15分、呼吸不全のため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年81。明治45(1912)年2月1日、熊本県上益城郡御船町に生まれる。大正7(1918)年御船小学校、同13年熊本県立御船中学校に入学。中学3年の頃画家を志し、昭和5(1930)年東京美術学校に入学。石膏デッサンを長原孝太郎に、人体デッサンは小林万吾に学んだ後、藤島武二教室に進学。同8年小絲源太郎を知り、師事することとなる。同年第20回光風会展に「コスチューム」で、第5回第一美術協会展に「女」で初入選。また、同年の第14回帝展に「漁夫と子供」で初入選し、以後官展への出品を続ける。同9年第21回光風会展に「兵士と馬」を出品してK夫人賞受賞。在学中から早熟な画才を示した。同9年から「坊也」と号する。同10年東京美術学校西洋画科を卒業し、同校彫刻科に再入学。北村西望、朝倉文夫の指導を受ける。同年第22回光風会展に「子供と馬」を出品してF氏賞受賞。翌11年光風会会友、同14年同会員に推される。同15年東京美術学校彫刻科を卒業するのを機に「坊也」の号を廃する。同年第27回光風会展に「子供二人」を出品して佐分賞受賞。同17年海軍報道班員としてジャワ、ボルネオ、セレベス、シンガポール等へ赴く。同19年大使館嘱託として南京、蘇州、上海に滞在。同20年中国から帰り、翌21年伊豆にアトリエを構え、第2回日展に「斜陽」を出品して官展に復帰する。同22年朝井閑右衛門らと新樹会を創立した。同30年より31年まで渡欧、同37年日展に「野馬追」を出品するが、この制作にあたり福島県原町市の相馬野馬追祭を見たことから、日本の伝統的祭りに興味を抱き、以後祭りを好んで描くようになった。同39年第7回社団法人日展に「賀茂祭」を出品して文部大臣賞受賞、同40年第8回日展に出品した「千人行列」に対し、同41年日本芸術院賞が贈られた。同41年光風会を退会する。同44年日本芸術院会員に就任するとともに日展理事となる。同52年日洋会を創立して運営委員長に就任する。同54年1月、胃潰瘍で入院後、熱海で静養し、のち熱海にアトリエを建てたため、この地に取材した作品が多くなる。同58年日本経済新聞社主催による「画業五十年井出宣通展」を東京の日本橋三越で開き同年『井出宣通画集』を発行。平成2(1990)年に文化功労者に選ばれ、同3年日展理事長となった。晩年は大規模な建築装飾も手がけ、昭和56年横浜駅東口に陶板画「横浜の詩」を制作したほか同59年大阪駅のアクティ大阪誕生記念「大阪の過去 現在 未来」(ドイツ製アンティック・グラスによる制作)と、アルミキャストによる「世界にひらく大阪」をルイ・フランセン、角卓と共同制作した。鮮やかな色彩、活達な筆触を特色とする活気ある画風を示した。帝展・新文展・日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「漁夫と子供」、15回「子供」、第二部会第1回展(同10年)「子供と馬」、文展鑑査展(同11年)「湖畔」、第1回新文展(同12年)「砂丘」、2回「蒼空の話」、3回「兵の子供達」、4回「協力」、5回不出品、6回「ジャワ踊り」、戦時特別美術展(同19年)「農民」、1回日展(同21年春)不出品、2回「斜陽」、3回不出品、4回「真鶴風景」、5回「夏の伊豆多賀」、6回「和歌の浦」、7回「みかん畑」、8回「四谷風景」、9回「横浜」、10回(同29年)「強東風」、11回不出品、12回「古城の朝」、13回「日照雨」、第1回社団法人日展(同33年)「初港」、2回「高西風」、3回「涼夜」、4回「蔵王堂」(吉野山)、5回「野馬追」、6回不出品、7回「賀茂祭」文部大臣賞、8回「千人行列」、9回「祇園祭」、10回(同42年)「火祭」、11回「御車車」、第1回改組日展(同44年)「春日おん祭」、2回「斎王」(葵祭)、3回「古都の祭」、4回「管弦祭の物語」、5回「天草殉教祭」、6回「風流傘」(葵祭)、7回「薪能」、8回「旗祭」(相馬野馬追)、9回「古都名月」、10回(同53年)「達陀」(お水取り)、11回「馬で来た花嫁」、12回「梅雨晴れ」、13回「熱海夕景」、14回「瞬花開宴」、15回「虹立つ」(同58年)、16回「飛雲」、17回「東海旭日」、18回「かたらい」、19回「彩雲駿河湾」、20回(同63年)「颱風一過の朝」、21回「楠若葉の二重橋」、22回「横浜のハイカラさん」、23回「日本のまつり京都葵祭」、24回「関越道を行く」、25回(平成5年)「月渡る」

蛯子善悦

没年月日:1993/01/31

読み:えびこぜんえつ  国画会会員、サロン・ドオトンヌ会員でフランス在住の洋画家蛯子善悦は1月31日午後3時30分、急性骨髄機能不全のため、パリのオテル・デュー病院にて死去した。享年61。昭和7年(1932)年1月17日、北海道椎内市に生まれる。終戦とともに函館市に移住。北海道在住の画家田辺三重松、橋本三郎に学んで絵を描き始める。同32年武蔵野美術学校を卒業し、同36年第35回国画会展に「風(白)」で初入選。同37年第36回国画会展に「将軍」「貴婦人」を出品して国画賞を受け、同39年同会会友、同40年同会会員となった。同年現代日本美術展にも出品する。同44年安井賞展に出品。同47年渡仏して帰国するが、同49年再渡仏し、以後パリに住んで制作した。同51年よりサロン・ドオトンヌに出品を続け、同52~55年および57年にはサロン・デ・ザンデパンダンにも出品。同60年サロン・ドオトンヌ会員となった。日本では同56、58、62年に日動サロンで、60年、平成2年に日動画廊で個展を開き、パリでは同59、61年および平成元年にギャラリー・ジョエル・サランで個展を開催したほか、札幌、大阪等で個展を開いた。柔らかい光のふりそそぐ海の風景や室内の静物を好んで描き、淡灰色を帯びた白を基調とし、用いる色彩の数を限って、彩調の交響する明るく洒脱な画風を示した。

高橋庸男

没年月日:1993/01/15

読み:たかはしつねお  元多摩美術大学教授で、日展会員、一水会常任委員の高橋庸男は、1月15日午後7時35分、腹膜炎のため神奈川県横浜市緑区の緑協和病院で死去した。享年94。明治31(1898)年10月20日、東京に生まれる。川端画学校を修了後、昭和2(1927)年、第14回二科展に初入選、同10年まで同展に出品をつづける。同12年の第1回一水会展から出品をつづけ、戦後の同21年には同会会員となり、同28年には同会委員となった。また21年からは、日展にも出品をはじめ、同37年、57年には審査員をつとめた。同展には平成2年の第22回展まで出品をつづけた。なお、同29年から43年まで多摩美術大学教授として指導にあたった。その画風は、静物画を中心に、明るい色調で、平明ながら堅実な写実を主体とするものであった。

小松崎邦雄

没年月日:1992/12/28

一水会会員の洋画家小松崎邦雄は12月28日午前10時1分、心不全のため浦和市立病院で死去した。享年61。昭和6(1931)年、東京、日暮里に生まれる。同25年東京芸術大学油画科に入学。安井曽太郎、林武らに師事。同29年同科を卒業して同大油絵専攻科に進学。卒業制作「群像」は芸大買上となり、安井賞を受けた。同年第16回一水会展に「群像」で初入選する。同31年芸大油絵専攻科を修了。同大大橋賞を受賞し、また、同年の第18回一水会展に「仁科の岬」「ピクニック」に出品して一水会賞を受け、翌32年一水会会員に推された。同33年第20回一水会展に「野の群像」「人と馬」を出品して1賞、同35年同会第22回展に「トーテム」「落ちる人」を出品して会員優賞を受賞。同37年より国際具象派美術展、同38年より安井賞展に出品した。同41年渡欧しヨーロッパ各国を巡遊して帰国。同42年一水会会員展10回展記念賞を受賞した。同43年12月より翌年12月までユネスコ・フェローシップ奨学金を得てイタリア、フランス、オランダ、イギリスに留学、その後、北欧、北米、メキシコ等を巡遊する。同44年第4回昭和会賞、同57年東郷青児美術館賞を受賞。平成3年暗色の背景に舞妓7人を描き出した「稲穂のつどい」で第9回宮本三郎記念賞を受賞した。初期には人物群像を、つづいて牛、人形、風景と数年間ひとつの主題を集中して研究し、次の段階へと展開する足跡を示し、晩年は舞妓を主に描いた。陰影表現や光の効果をいかし、実在の対象を再現的に巧みに描きながら、絵画世界に非現実的夢幻感を導く独自の画風を示した。東京芸術大学講師、NHKテレビ油絵入門講座等、教育・普及面にも尽くしたほか、新聞小説挿絵、芝居のどんちょう等多方面に活躍した。

後藤よ志子

没年月日:1992/12/21

二紀会委員、女流画家協会委員の洋画家後藤よ志子は12月21日午前2時20分、すい臓がんのため東京都品川区の関東逓信病院で死去した。享年65。昭和2(1927)年4月3日、外交官であった父の赴任地中国の青島市に生まれる。同18年、青島日本高等女学校を卒業。同年帰国して共立薬科大学に入学する。在学中に絵を独学するが、結婚により一時制作から遠ざかる。同30年代に再び制作を始め、同33年第12回二紀展に「島の岩肌」で初入選。同34年「花のある岩」で第13回女流画家協会展に初入選する。土のように素朴な盛り上がった絵肌を工夫して注目され、同38年女流画家協会会員、同40年二紀会同人となった。同40年と41年に渡欧し、同41年第20回女流画家協会展に「街・ロンドン1」を出品して船岡賞、同44年第23回同展に「遺跡のある街」を出品して甲斐仁代賞受賞。また、同年第23回二紀展に「ピアッツァのある街」「アティックス・オディオン」を出品して同人賞、同46年第25回二紀展に「寺院のある街2」を出品して再び同人賞を受けた。同47年安井賞展に「寺院のある街1」を出品して、女性では初めて佳作賞を受賞。同年第26回二紀展に「古城のある街」「イワンの街」を出品して鍋井賞を受けた。同50年第1回日仏現代美術パリ展でフランス・ソワール賞受賞。同年第29回二紀展に「都市」を出品して菊華賞を受賞した。同51年第2回日仏現代美術パリ展でビブリオテーク・デザール賞受賞。同56年第35回二紀展に「回想の街1」「回想の街2」を出品して文部大臣賞、平成2(1990)年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞した。堅牢な石造の西洋建築が立ちならぶ都市景観を★観する視点からとらえるのを好み、建築物の稜線が織りなす幾何学的で規律あるリズム、青灰色、緑灰色、褐色等のおさえた色調、独自の質感を特色とする静謚な画風を示した。

田中良尊

没年月日:1992/12/21

示現会監事、筑波大学芸術学系教授の洋画家田中良尊は、12月21日肺炎のため千葉県習志野市の病院で死去した。享年60。田中は昭和7(1932)年10月18日、長野県北佐久郡に生まれ、同32年東京教育大学教育学部絵画学専攻科を卒業した。示現会展へ出品し、卒業の年の第10回示現会で十周年記念奨励賞を受賞、同34年示現会会員に推挙された。同41年メキシコへ留学、シケイロスのもとで学び、メキシコ国立博物館壁画制作にも参加した。日展へも出品し、同43年の第11回日展に「メキシコの市場」で特選を受賞する。同44年、東京・銀座の望月画廊で個展を開催。同54年には筑波大学芸術学系教授に就任し、後進の指導にあたった。同59年、示現会監事となる。メキシコを題材にした作品が多く、「メキシコのメルカド」「オワハカの市場」「街のセントロ」「マーケット裏」「ひとだまり」などの作品がある。

執行正夫

没年月日:1992/12/05

読み:しぎょうまさお  モダンアート協会会員の洋画家執行正夫は、12月5日午前10時36分、肺がんのため東京都小平市の昭和病院で死去した。享年66。大正15(1926)年3月7日、静岡県浜松市に生まれる。文化学院美術科を卒業して昭和27(1952)年第2回モダンアート展に「母と子(1)」「母と子(2)」で初入選。以後同展に出品をつづけ、同30年第5回同展に「路上」「魚の歌」「枯葉」を出品して協会賞を受賞。同32年同会会友、同34年同会会員となった。この間、同27年から30年まで読売アンデパンダン展に出品。また、同31年第1回シェル美術賞展で佳作賞受賞。同34年、35年の安井賞展に入選する。同39年から40年までフランスに留学し、パリ国立美術学校に入学してシャプラン・ミディ教室に学ぶ。帰国後もモダンアート展や個展を中心に制作を発表する一方、名春中央病院(名古屋)、恩田第二病院(松戸)、愛川町文化センター(神奈川)、シアトー本部(バンコク)等にモザイクで壁画、床絵等を制作している。多摩美術大学講師としてモザイク壁画を指導したほか、九州産業大学、武蔵野美術短期大学でも教鞭をとった。初期には具象画を描いたが、昭和30年代には抽象画へと転じ、幾何学的形態の色面、色点によって画面を構成する装飾的な画風へと展開した。

藤井二郎

没年月日:1992/12/03

洋画家で二科会理事の藤井二郎は、12月3日心筋こうそくのため兵庫県西宮市の自宅で死去した。享年86。明治39(1906)年7月11日大阪市に生まれ、大正13年大阪商業学校を卒業、翌年から川端画学校、ついで信濃橋洋画研究所に学んだ。昭和2年、第14回二科展に初入選、翌3年渡仏しパリでグランド・ショミエールに通うなど研究を重ねた。同7年帰国し、同年の第19回二科展に滞欧作が特別陳列された。同16年二科会会員となる。戦後も再建された二科会に所属し、二科展を中心に制作発表を行い、同25年の第35回展に「花と壁掛」他で会員努力賞を、同46年の第56回展に「坐る道化師」で青児賞を、同54年の第64回展に「マリオネット」で文部大臣奨励賞をそれぞれ受賞した。二科展への出品作には、他に「芸人酒場」(第52回展)などがある。また、この間、神戸山手女子短期大学芸術科教授をつとめた。

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