本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





斎藤真一

没年月日:1994/09/18

盲目の女旅芸人を描いた瞽女シリーズ等で知られる洋画家の斎藤真一は9月18日午後3時46分すい臓ガンのため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年72。大正11(1922)年7月6日、岡山県児島郡味野町(現、倉敷市児島味野)に生まれる。父藤太郎は軍人であったが、尺八の都山流の大師範であった。旧制天城中学に在学中に地元の大原美術館を見て画業に志す。独学で油絵を描くうち、同16年ころ岸田劉生の『美の本體』を読んで心酔。岡山師範学校二部を昭和17年に卒業し、同年東京美術学校師範科に入学する。翌年12月学徒出陣で入隊し、終戦後復学して同23年春に東京美術学校を卒業する。同年静岡市立第一中学校に赴任し、同年の第4回日展に「鶏小屋」で初入選。翌年岡山県味野中学校へ転任。同25年第38回光風会展に「閑窓」で初入選。同28年静岡県立伊東高校へ転任する。同34年外務省斡旋留学生としてパリへ留学。アカデミー・グラン・ショーミエールに学び、また藤田嗣治と出会う。スペイン、ドイツ、ベルギ一、イタリア等をめぐり、ジプシ一等流浪する芸人たちに興味を抱く。同35年に帰国。帰国にあたり藤田嗣治が与えた助言に従って翌36年青森県津軽地方を旅するうち、瞽女を知り、越後、信濃路のご女宿を訪ね歩いて瞽女シリーズを描く。同45年10年間制作し続けた作品を「越後瞽女日記展」として文芸春秋画廊で発表し、独自の主題、画風で注目される。同46年第14回安井賞展に「星になった瞽女≪みさお瞽女の悲しみ≫」を出品して安井賞佳作賞受賞。同48年著書『瞽女―盲目の旅芸人』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞する。同50年代からは自らを道化師に重ね合わせ、現代の孤独を描くシリーズ、画家の養祖母内田久野をモデルとし、明治期の吉原に取材したシリーズなどを描き、また、画文集『明治吉原細見記』『絵草紙吉原炎上』などを刊行。初期には西洋の伝統的な空間表現、陰影法を用いて静物画、人物画等を描いたが、渡欧により風景の中にデフォルメした人物が散在する主想的な画風に変化し、瞽女シリーズでは遠近法、陰影法を無視し、人物像にも大胆なデフォルメを加えた感傷的な画風を示した。平成5(1993)年長年の支持者であった仲野清次郎によって山形県天童市に財団法人出羽美術館分館・斎藤真一心の美術館が開館している。

伊藤継郎

没年月日:1994/09/17

新制作協会会員で、元京都市立美術大学教授の洋画家伊藤継郎は9月17日午前7時41分、老衰のため神戸市西区病院で死去した。享年86。明治40(1907)年10月15日伊藤粂太郎、津起の次男として生まれる。父は大日本紡績会社の重役を務めた。大正8(1919)年、天王寺第二高等小学校に入学、同10年福島商業学校に入学する。同12年、松原三五郎主宰の天彩画塾に入る。同13年福島商業学校を卒業。同年天彩画塾が閉鎖されるのに伴い、赤松麟作主宰の赤松洋画塾に入る。同15年同塾は赤松洋画研究所と改称。昭和4(1929)年赤松洋画研究所展に「池のある森」「網引き」を出品。同5年第17回二科展に「座像」で初入選する。同年兵庫県美術家連盟の設立に参加。同6年赤松洋画研究所展に「家族の園」「少女」を出品して、丹平賞受賞。この頃から鍋井克之を知り、信濃橋洋画研究所に通い始める。同年第5回全国西洋画展に「庭」「室内の会話」「裸婦」を出品して朝日奨励賞受賞。同10年第22回二科展に「ドヤドヤ(四天王寺の裸祭り)」「親子の行商人」「鳥籠を売る親子」を出品し特待となる。同12年二科会会友に推されるが、同16年同会を退き、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いにより第6回新制作派協会展に「デッサンA」「デッサンB」「デッサンC」「デッサンE」「デッサンF」「室内と女」「森と少女」「静物と子供」「子供の国」を出品し会員に推される。同19年8月満洲へ出征、同20年終戦と共にシベリアに抑留され、同21年復員。同22年より新制作展に出展を続ける。同23年芦屋市美術協会の設立に参加し、この頃より自宅アトリエで研究会を開いて、小磯良平、上村松篁らと交友する。日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。同36年鍋井克之の誘いにより京都美術学校(現、京都市立芸術大学)西洋画科教授となる。同年カンボジア、インドなど、東南アジアに旅行。同42年フランス、スペイン、ギリシア、イタリアへ、同44年イタリアへ旅行。同45年京都市立芸術大学を退職して大手前女子短期大学教授となる。同48年スペインへ、同52年フランス、モナコへ、同62年南フランスコルシカ島へ赴く。平成元年神戸サンパル市民ギャラリーで「伊藤継郎の世界」展、同3年梅田近代美術館で「伊藤継郎展」、同4年2月奈良そごう、3月神戸そごうで「伊藤継郎」展を開催。同5年、大阪府が設立を予定している現代美術館のために作品350点余りを同府に寄贈した。アトリエは昭和5年に建てた当時のまま残されていたが、平成7年1月の阪神大震災により倒壊した。日常的なモティーフを好んで描き、時に工芸的と評される重厚なマティエール、地味な彩色等に特色を示した。

西村千太郎

没年月日:1994/07/21

二科会会員の洋画家西村千太郎は、7月21日脳こうそくのため名古屋市内の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年3月12日名古屋市中区元場町三ノ切35(現中区大須3-18)に生まれた。横井礼二の指導する緑ケ丘研究所で洋画を学び、はじめ春陽会展へ出品したが第16回展から二科展へ出品、昭和28年第38回二科展に「過ぎたるは及ばず」で二科賞を受賞し、同36年二科会会員に推挙された。また、同42年-51年の間、名古屋造形芸術短期大学教授をつとめた他、自宅に研究所を設けるなど後進の指導にも尽力した。

水野富美夫

没年月日:1994/06/19

アフリカ在住の洋画家水野富美夫は現地時間の6月19日午前4時心不全のためケニアの首都ナイロビのナイロビ病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月20日東京芝に生まれる。昭和6(1931)年宮本三郎洋画研究所に学び、同21年白日会会友となり翌22年第23回同展で会友奨励賞受賞。翌23年同会会員となる。同25年第6回日展に「梅林」で初入選。同40年東南アジア、欧州等をめぐった後、エチオピアに滞在し、以後エチオピアの風景、女性を描き続ける。同42年一時帰国し野沢デパートで帰朝展を開催。同43年本格的にエチオピアに移住しアディスアベパに住んで制作し、白日会展に出品を続けた。同45年の大阪万国博覧会ではエチオピア館に特別出品。同61年からケニアの首都ナイロビに移り住み、同62年からは日本各地で「エチオピアの光と影」などと題して個展を開き作品を発表していた。

中川力

没年月日:1994/06/01

洋画家中川力は、6月1日急性呼吸不全のため東京都千代田区の杏雲堂病院で死去した。享年75。大正7(1918)年10月4日台湾高雄市に生まれる。本名力。大阪の盛器商業学校を中退後、大阪中之島洋画研究所に通い洋画家を志した。同17年応召し同21年に復員、翌年から一水会展に制作発表を行った。同24年、第14回一水会展に「裸婦」で一水会賞を、同年の第3回日展に「踊子」で特選をそれぞれ受けた。同29年渡仏しパリでアカデミー・ジュリアンへ通い、翌年サロン・ドラールリーブルに出品、同31年帰国した。同年一水会会員、日展依嘱となったが、同34年一水会、日展を離れ、以後無所属で制作発表を行った。同64年、求龍堂より『中川力画集』を刊行する。

富岡惣一郎

没年月日:1994/05/31

読み:とみおかそういちろう  独自の白色を基調とする作品で、国際的に知られた新制作協会会員の洋画家富岡惣一郎は5月31日午後7時15分、急性腎不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年72。大正11(1922)年1月8日、新潟県高田市南本町2-12に生まれる。昭和14(1939)年新潟県立高田商業高校を卒業。同29年第18回新制作協会展に初入選。同35年より40年まで三菱化成工業株式会社のアートディレクターをつとめる。同36年第25回新制作協会展に「淡いもの」「黒いもの」を出品して新作品賞受賞。同37年同展に「黒い点B」「赤い点A」を出品して新制作協会賞受賞。また同年第5回現代日本美術展に「黒い線」を出品してコンクール賞を受賞する。同年第7回サンパウロ・ビエンナーレに「永久の流れ」を出品してサンパウロ近代美術館賞受賞。同年アメリカに旅行し個展を聞く。同40年より米国ニューヨークに住んで制作。同40年メキシコへ、同41年カナダ・アラスカへ、同42年カナダへ旅行。ニューヨーク滞在中は中間色を用いた平面性の強い抽象画を描いたが、異国にあって自らを育んだ、国土に根ざす制作が、国際的にも意味を持つことを認識する。同47年日本に帰国して三重県熊野に居住。翌48年1月より京都に住んで古くから描かれてきた日本の風景に取材して制作を始める。やがて画題を自らの郷里越後を含む雪国の風景にもとめるようになり、とりわけ雪の白さの表現に執着。トミオカ・ホワイトと賞称される、特殊な白絵具を大型のベインティングナイフで入念に塗り込んだ重厚なマティエール、その上に施された黒い線描で、墨絵風の閑寂な画風を築いた。同48年国立京都国際会館で、京都・熊野シリーズを展観する個展を聞いた後、同49年銀座和光及び札幌松坂屋で北海道シリーズを、同50年銀座和光で北海道東北シリーズを展観して、以降毎年和光で個展を開催。同59年「White No.1」で東郷青児美術館大賞受賞。平成3年新潟県八海山麓にトミオカ・ホワイト美術館が開設され、作品400余点が収蔵された。京王プラザホテルのステンレスエッチング壁画「雑木林」(昭和47年)、上越市庁館アルミエッチング壁画「雪国」(同51年)、長岡市図書館アルミエッチング壁画「雪国」(同61年)等公共施設への大規模壁画も制作。作品集に『富岡惣一郎白の世界」(同63年)等がある。

国松登

没年月日:1994/04/18

読み:くにまつのぼる  国画会会員の洋画家国松登は4月18日午前4時4分、心筋梗塞のため東京都千代田区の駿河台日本大学病院で死去した。享年86。明治40(1903)年5月6日北海道函館に生まれる。昭和2年上京して帝国美術学校西洋画科で学ぶが、同校在学中の昭和6年に同郷の洋画の洋画家三岸好太郎に出会い、のち師事する。同7年道展に出品、同8年第3回独立美術協会展に「池」で初入選。同展には同12年まで出品をつづける。同13年より国画会に出品し始める。同14年帝国美術学校を卒業、また同年第14回国画会展に「薔薇と少女」を出品して国画褒状を受賞。また同年第3回文展に「雨霽るる」で初入選。同15年第15回国画会展に「ぶろんど」を出品して岡田賞を受け、同年会員となる。同20年全道展を設立し、創立会員となる。同34年北海道文化賞(芸術部門)を受賞。同36年欧米を訪れる。同52年札幌市民芸術賞を受賞。同57年北海道新聞社主催により、札幌で「画学55年回顧展」を開催する。その後間もなく「自のない魚」シリーズを描いたが、同30年代後半より「氷人」シリーズを描ぎ始め、白、緑、青など寒色系を基調とする清涼感のある色調で、情緒豊かな作風を増した。北海道立近代美術館で「風魔の心象-国松登展」を開催。同61年北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞した。画集に『国松登画集』(同52年)がある。

利根山光人

没年月日:1994/04/14

読み:とねやまこうじん  造形芸術に幅広く活躍し、メキシコ美術研究でも知られた美術家利根山光人は、4月14日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年72。大正10(1921)年9月19日東京都世田谷区深沢町3-525に生まれた。本名光男。昭和18年9月早稲田大学文学部(国漢科)を卒業、学徒出陣した。在学中から美術研究会に所属し、川端画学校に学んだ。戦後の同24年読売アンデパンダン展に出品し、同26年の第3回同展出品作「雨」「風」で本格的に画壇にデビューした。また、同25には自由美術展へも出品、同27年にはタケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29から翌年にかけ佐久間ダムの工事現場へ入り、その体験から「佐久間ダムに寄す」(同30年)を制作発表し、一躍注目を浴びた。はやくから社会性を題材に行動的な制作を行った。同30年開催のメキシコ美術展に感動し、同34年以来しばしばメキシコを訪問、とくに古代マヤ文明に大きな啓示を受け、その後、マヤ文明の古代文様に現代のイメージを重ねる独特の作風を鮮烈な色彩のうちに展開した。この聞のメキシコに取材した作品に「太陽の神殿」(同41年)などがある。また、シケイロスらとの交友によって大壁画制作へも向い、JR横浜、東北新幹線北上駅などの壁画を手がけた。同37年には日墨文化交流に尽力した功績によって、メキシコ政府からアギラ・アステカ文化勲章を受章する。同46年、前年携わった聖徳学園川並記念講堂の緞帳「無限」で多田美波とともに建築美術への功績により吉田五十八賞を受賞、同50年には、活力ある文化批評を内蔵した幅広い造形芸術に対して日本芸術大賞を受けた。無所属の作家として画壇とは無縁な一方、同51年には音楽家の夫人とともに自宅に「アルテ・トネヤマ」音楽・絵画研究所を設け、美術教育に尽力し、またアトリエを開放して一年おきに個展を開催した。「ドン・キホーテ」シリーズや版画「ヒロシマ・ナガサキ・南京シリーズ」に見るように、精力的な制作活動の根底には、一貫して戦争体験に基づくヒューマニズムが底流しているところに利根山芸術の大きな特色があった。晩年の作品に「天馳ける」(平成2年)などがある他、千葉県松戸市の聖徳学園には、壁画「伝統」(昭和48年)をはじめ、20年以上にわたる作品群が残されている。作品集に『装飾古墳-利根山光人スケッチ集』(昭和51年)など。

榎戸庄衛

没年月日:1994/04/12

読み:えのきどしょうえ  洋画家の榎戸庄衛は、4月12日午後3時50分、急性肺炎による急性心不全のため茨城県東茨城郡大洗町大貫町の自宅で死去した。享年85。榎戸庄衛は、明治41(1908)年9月20日、茨城県西茨城郡岩瀬町に生まれ、大正14(1925)年、県立笠間農学校本科を卒業。その後上京して、昭和7年、太平洋美術学校洋画科本科を卒業する。翌年、第14回帝展に「母と子」が初入選。さらに同17年の第5回新文展に入選した「秋果豊収」が特選となり、翌年の第6回新文展に「九龍壁(北京)」(茨城県近代美術館蔵)を招待出品。以来、同24年の第5回日展「浴後」まで、官展に出品をつづけた。一方、同16年には、安宅安五郎、大久保作次郎、鈴木千久馬等が結成した創元会に参加、翌年には会員となって出品をつづけた。同24年、同会を退会、新たに牛島憲之、須田寿、有岡一郎とともに立軌会を結成、同34年の第11回展まで出品をつづけた。画風は、戦前の手堅く、平明な描写によるものから、戦後は様式化した具象表現へと変わり、さらに抽象表現主義的な形態の解体がすすみ、一切の団体に属することがなくなってからは、士俗的な記号を中心に独自の抽象表現を築いていった。そうした作品は、所属する会派をこえて選抜される選抜秀作美術展(朝日新聞主催)や、日本国際美術展(毎日新聞社主催)などに、たびたび出品された。また、同40年には、茨城県から、第2回茨城文化賞を受けた。

上島一司

没年月日:1994/03/30

読み:かみじまいつし  奈良教育大学名誉教授で日展評議員の洋画家上島一司は、3月30日午前11時38分、敗血症のため奈良市六条町の西の京病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月25日高知県香美郡上人佐山田町山田1452に生まれる。昭和19年9月東京美術学校師範科を卒業。寺内萬治郎に師事する。同19年より中学校教師を務めながら制作を続け、戦後の同22年第3回日展に「未亡人」で初入選し、以後日展に出品を続ける。同24年光風会会員となる。同26年東京学芸大学助教授となる。同31年大丸百貨庄で個展を開催。同35年渡欧し、同年帰国して大丸百貨店で滞欧作を発表。同42年奈良教育大学教授となり、また同年奈良市佐紀町にアトリエを設ける。同43年光風会を退く。同年資生堂で個展を開催。同56年現洋会を結成。同60年奈良教育大学を退く。同大学名誉教授となる。同63年日展評議員となった。また同53年より大学美術教育会副理事長をつとめるなど、美術教育にも尽力した。人物画を好んで描いた。

角浩

没年月日:1994/03/30

読み:かどひろし  新制作協会会員の洋画家角浩は3月30日午前11時3分、心不全のため東京都港区の北青山病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月17日茨城県目立市に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助、藤島武二に師事。同校在学中の同6年第18回光風会展に「静物」で初入選。同7年第2回独立美術協会展に「女の子」で初入選する。同8年同校を卒業、同12年渡仏しアカデミー・グラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学び、サロン・ドートンヌに入選。オトン・フリエツの推薦によりサロン・チュイレリー無鑑査となる。同14年第二次大戦勃発により米国を経由して帰国、戦後の同25年新制作派協会に移り、同年第14回同展で新作家賞を受賞。同28年同会会員となる。同37・38年アメリカを訪れ個展を開催。同46年アフリカ、ヨーロッパ、インドへ旅行。同54年日伯国際展のためフ守ラジルを訪れ、フランシスコ・コマンドール勲章を受章する。同55年東京渋谷の東急本庄にて画業50年展を開催。同58年郷里の広島県立美術館で個展を開催した。昭和10年代の滞仏中は軽快な筆致で色彩豊かな作品を制作したが、同30年代の渡米の後、光沢のある絵具をベインティングナイフで施し、ギリシャ神話、ドンキホーテ、サーカスなどを主題に幻想的な画風を示した。またトキワ松学園女子短大造形美術学科教授として教鞭をとり、同48年より同科長をつとめたのち同大学名誉教授となる。自らの制作を「ネオ・クラシカル・ロマンティシズム」と称し、透明感のある暗色の背景から、白を基調とするそティーフが浮かび上がる独自の画風を示した。

牧野正吉

没年月日:1994/03/23

日本水彩画会顧問の洋画家牧野正吉は、3月23日午後9時7分、老衰のため東京の済生会中央病院で死去した。享年88。牧野は、明治38(1905)年8月2日、栃木県今市市に生まれ、大正14年、東京府青山師範学校本科を卒業、教職に就くかたわら、石井柏亭、赤津隆助、加藤静児に師事しながら日本水彩画会展に出品をつづけ、昭和3年には、同会の会員となる。同14年には、石井相亭が主宰する双台社の創立会員となり、同16年には、前年の中国大陸での写生をもとに、「大陸風景水彩画展」と題して最初の個展を開催(上野松坂屋)。戦後も、同29年に創元会会員になるなど、教職のかたわら創作活動をつづけ、とくに尾瀬沼の自然を題材にした水彩画を多く発表し、それらをもとに同48年には、画集『牧野正吉水彩作品集 尾瀬の四季」を発行した。

米倉寿仁

没年月日:1994/03/18

美術文化協会の創立会員で、サロン・ド・ジュワンを主宰した洋画家米倉寿仁は、3月18日午前11時2分、呼吸不全のため埼玉県所沢市の所沢緑ケ丘病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月19日、山梨県甲府市錦町に生まれる。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学した。昭和6年、第18回二科展に「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が初入選。また、福沢一郎と知己になり、同10年、第5回独立展に「窓」が初入選。翌年、画業に専念するために教職を辞して、上京。この頃より、いち早くシュルレアリスム的な表現をとりいれ、社会意識の強い作品を描くようになる。「ヨーロッパの危機」(原題「世界の危機」、同11年、山梨県立美術館蔵)「モニュメント」(同12年、第7回独立展出品、同美術館蔵)、「破局(寂滅の日)」(同14年、第9回独立展出品、東京国立近代美術館蔵)など、暗転する時代を表現した代表作が描かれている。同13年、創紀美術協会の創立に参加、さらに翌年、美術文化協会の創立会員となる。戦後は、同26年に、美術文化協会を退会して、翌年美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会によりながら、作品を発表した。

石川滋彦

没年月日:1994/03/07

新制作協会会員の洋画家石川滋彦は3月7日午前9時8分、腎不全のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。享年84。明治42(1909)年10月14日、東京都麹町区麹町4丁目5番地に洋画家石川欽一郎の長男として生まれ、少年期を湘南ですごす。昭和2(1927)年東京美術学校西洋画科に入学し岡田三郎助に師事。同校在学中の同4年第10回帝展に「湖畔の丘」で初入選。同7年同校を卒業して研究科に進学し、同11年に同科を終了する。同13年第2回新文展に「信濃の鍛冶屋」を出品して特選となり同14年第3回新文展には「迷彩する商船」を出品して2年連続特選となった。同14年光風会会員となる。戦中は海軍報道班員として南方に赴く。同22年光風会から新制作派協会に移り同年会員となり以後同展に出品。同27年日本の貨物船に乗り世界一周旅行をし、以後たびたび海外へ赴く。海や船を愛し、アムステルダム、ヴェネチア等水辺の風景を好んで描き、同61年「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念賞を受賞。明るく爽やかな緑色を基調とする穏健な画面を示す。同60年東京セントラル絵画館で、平成4(1992)年日動画廊で個展を開催。作品集に『石川滋彦・人と作品』(昭和50年刊)があり、著書に『日曜画家の油絵入門』(昭和37年実業之日本社刊)がある。また昭和17年東京帝国大学工学部講師、同22年学習院大学講師をつとめたほか東海大学教養学部などでも教鞭をとった。

大内田茂士

没年月日:1994/02/01

日本芸術院会員で、示現会理事長、日展常務理事の洋画家大内田茂士は、2月1日午前5時54分、多臓器不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年80。大内田は、大正2(1913)年9月24日、現在の福岡県朝倉郡朝倉町に生まれ、福岡県立朝倉中学校を卒業後、上京して、昭和12年新宿洋画研究所に入り、鈴木千久馬に師事する。同18年に第6回新文展に初入選、また翌年、第四回国展に出品した「壺など」により国画奨学賞を受ける。戦後は、同23年創立の示現会に会員として参加、また同26年の第7回日展に出品した「室内」により、特選・朝倉賞を受ける。同38年の第6回日展では、審査員をつとめ、翌年会員となる。同59年、第16回日展に出品した「秋の卓上」により、内閣総理大臣賞を受け、さらに同63年の第19回日展に出品した「卓上」により、日本芸術院賞恩腸賞を受ける。平成2年、日本芸術院会員となり、また同4年には、示現会理事長に就任した。洗練された色彩表現と、適度にモチーフのフォルムを平面化したアンティームな作品を多く残した。

福島金一郎

没年月日:1994/01/31

二科会理事の洋画家福島金一郎は1月31日午前8時30分、心不全のため東京都大田区の木村病院で死去した。享年96。明治30(1897)年12月16日岡山県勝田郡勝間町字勝間田704に生まれる。大正4(1915)年岡山県立勝間田農学校を卒業し、同15年神戸仏語学校を卒業、同年第13回二科展に「風景」「堂徳山風景」「海の見える庭園」で初入選。大阪信濃橋研究所で小出楢重、鍋井克之に師事し、上京後はアテネ・フランセでフランス語を学ぶ一方、太平洋画会研究所に通う。昭和3(1928)年フランスに渡り、アカデミー・ランソンでピシエールに師事、後ボナールの教えも受ける。同4年サロン・ドートンヌに「街」で初入選、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品する。同3年帰国。同10年第22回二科展に「樹下」「五月の森」「田園」を出品し特待となり、同12年第24回同展に「畠」「緑の風景」「山の家」を出品して同会会友に推される。同14年、第26回同展に「山村」「鹽屋風景」「海辺の庭」を出品して推奨となる。同16年第28回展に「海の見える叢」「山の家」を出品して同会会員に推される。その後も二科展に出品する。共にフランスの画壇でも活躍。同35年サロン・コンパレゾン出品のため渡仏し約1年間滞仏。同40年第50回二科展に「すてきな橋」などを出品して、会員努力賞受賞、同41年渡仏、同48年第58回同展に「公園の人々(B)」「公園の人々(A)」「リュクサンブール公園」を出品して、青児賞を受ける。同51年サロン・ドートンヌ会員となる。同56年第66回二科展に「公園の人々」「パリの街角」を出品して、内閣総理大臣賞を受賞した。公園など人の集う場所の情景を好み、明るい色調を示した。

杉全直

没年月日:1994/01/23

読み:すぎまたただし  元東京芸術大学教授の洋画家杉全直は1月23日午前4時55分、脳こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年79。大正3(1914)年3月26日、東京都品川区東大井4丁目に父寅二、母ちくの次男として生まれる。父方の家系は代々九州秋月藩の御藩医であった。同10年大井尋常小学校に入学するが、同13年父の死去により姫路にある母方の実家に移住する。昭和元(1925)年姫路市城東小学校を卒業、同2年同校高等科を修了して旧制姫路中学校に入学。在学中、同校の美術教師で帝展出品者であった飯田勇に絵を学ぶ。同7年同校を卒業して上京し、小林万吾の主宰する同舟舎に通う。同8年家族とともに浦和に移住。同年東京美術学校油画科に入学する。同校では小林万吾に師事。同11年第23回二科展に「蓮池」で初入選。同13年東京美術学校を卒業。同年の第8回独立美術協会展に「蝕まれた街」「時の悪戯」で初入選。同14年兵役につくが、同年の第9回独立展に「鏡(映像)」「頒歌」を出品し、独立美術協会賞を受賞する。同年より同22年まで美術文化協会展に出品。同23年モダン・アート協会が設立されると同展にも第1回展より出品する。同28年美術文化協会を退会。現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、同33年第3回現代日本美術展に「窪んだ空間A・B」を出品して優秀賞受賞。同34年第5回日本国際美術展に「湧く」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。初期にはシュール・レアリスムに学び、人体を中心として画面を構築していたが、戦後、抽象絵画の試みを経て、同35年ころ、自らの歩みを六角形「きっこう」をめぐる試みであったとする認識から「きっこう」のシリーズを制作し始める。同36年第6回日本国際美術展に「きっこう」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。同年第6回サンパウロ・ビエンナーレにも「眼」「作品」など12点を出品する。同37年第31回ヴェネチア・ビエンナーレ(コミッショナー・今泉篤男)に「きっこう」「きっこう2」など10点を出品。同38年第7回日本国際美術展に「無音」を出品して優秀賞を受賞する。同40年9月渡欧し翌年7月帰国。同43年多摩美術大学油画科教授となるが、同48年教授を辞任。同52年母校の東京芸術大学油画科教授となる。同55年同校退官にあたり東京芸術大学陳列館・大学会館展示室において6月30日より7月12日まで「東京芸術大学退官記念展-1938~75杉全直展」を開催する。同展などにより一貫した抽象表現の追求を示したことにより、同56年にはいって、同55年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。同56年東京芸術大学を定年退官する。同62年回顧的な内容を持った「杉全直展」を姫路市立美術館、東京のO美術館で開催した。年譜、参考文献等は同展図録に詳しい。

斎藤長三

没年月日:1994/01/01

武蔵野美術大学名誉教授で独立美術協会会員の洋画家斉藤長三は1月1日午後10時55分、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年83。明治43(1910)年9月6日山形県酒田市漆曽根に父興一郎、母たけの三男として生まれる。北平田小学校を経て大正12(1923)年県立酒田中学校([日制])に入学。同校美術教師で水彩画家であった井口亘のすすめにより山本鼎著『由画の描き方』等を手引きに油絵を描き始める。昭和3(1928)年同校を卒業。同4年東京高等工芸学校に入学し、永地秀太に師事。同校在学中の同5年第5回1930年協会展に「母子」で初入選。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「自画像」で入選し、以後同展に出品を続ける。同7年東京高等工芸学校を卒業。同年糸園和三郎らと同人展プルミエ洋画展を開催。同9年グループ「飾画」を結成する。同10年第5回独立展に「馬車の到着」「五反田駅「わが旅への誘い」を出品しD賞受賞。同年の同展に出品された海老原喜之助の「曲馬」にひかれて海老原を訪ね兄事する。同11年独立美術協会に会友制度が導入されるに伴い同会会友となる。同15年第10回独立展に「市井風物A・雪」「市井風物B・月」「市井風物C・川」を出品して岡田賞受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「働く少年たち」を出品する。同16年独立美術協会会員となり、同年9月より自由学園講師となる。戦後も独立展に出品する一方、秀作美術展、日本国際美術展、現代日本美術展等に出品。同31年武蔵野美術大学教授となり、また日本大学芸術学部講師となる。同35年10月東京八重洲の大丸デパートで「斉藤長三作品展」を開催。同39年第32回独立展に「山麓の村」「高原の村」を出品してG賞受賞。同48年郷里の山形美術博物館で「斉藤長三画業展」を開く。同54年より独立美術協会会員10人をメンバーとする十果会にも出品。同56年イタリアを訪れ、主にフィレンツェに滞在する。同年9月武蔵野美術大学美術資料図書館で「斉藤長三教授作品展」が開かれる。同57年同校を退職し同名誉教授となる。平成5(1993)年2月「ねりまの美術93」として深沢紅子と二人展を開催した。画歴、参考文献は同展図録に詳しい。昭和初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、同10年代には労働者のいる風景を多く描くようになり、同20年代後半から30年代にかけて抽象美術が隆盛した時期には対象の形態、色彩に画家独自の改変を加え、白を基調とする抽象化された風景を描いた。同40年代からは華麗な色調の風景画を描き続けた。

野田健郎

没年月日:1993/12/19

日展会員の洋画家野田健郎は、12月19日午後3時56分、心不全のため熊本市の済生会熊本病院で死去した。享年72。大正10(1921)年10月29日、北海道旭川市に生まれる。本名健郎。昭和14(1939)年川端画学校を修了。同19年東京美術学校油画科を卒業する。同29年第13回創元展に「静物」で初入選するとともに第10回日展にも「静物」で初入選。同年より熊本県立荒尾高校に勤務する。同30年第14回創元展に「花とラッパ」「ヴァイオリンと壷」を出品して受賞し、同会準会員に推される。同31年第15回創元展に「鶏のある静物」を出品して準会員賞を受賞し同会会員に推挙される。同年大牟田市民会館で第1回個展を開催。同42年熊日ホールで「野田健郎自選展」を開催。同年熊本県立済々黌高校に転勤となる。また同年第1回渡欧。同46年再び渡欧し、オランダ、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャをめぐり、以後同47、48、50、58、59年にも渡欧。同46年第3回改組日展に「運河の午后」を出品して特選、同50年第7回改組日展に「広場」を出品して再び特選となり、同51年日展会友となった。同52年第1回日洋展に出品、また、同年熊本大学教育学部講師となる。同53年創元会を退会。同54年取材のためアラスカを訪れる。同58年日展会員となり、同62年には新日洋会の設立に参加した。初期には静物画を多く描いたが、後に街の一角に取材した作品を好んで描くようになった。対象を色面でとらえ、細かい色面によって画面を構成するのを特色とした。同60年熊本日日新聞社主催「野田健郎展」、同63年「熊本の現代作家」展(熊本県立美術館)に主要な作品を出品している。

松井正

没年月日:1993/10/25

二科会常務理事で大阪芸術大学名誉教授の松井正は、10月25日心不全のため兵庫県西宮市の上ケ原病院で死去した。享年86。本名正一。明治39(1906)年12月14日広島市に生まれる。大正12年県立広島工業学校電気科を中退し、翌13年大阪へ出、小出楢重に入門、赤松麟作画塾へも通ったが小出の信濃橋洋画研究所開設とともに同研究所へ移った。昭和2年第14回二科展に「樹間展望」で初入選し、以後同展へ出品を続け、第20回展「夏の日」が特待を受け翌昭和10年二科会会友となり、同16年第28回展に「人々」を出品し二科会会員に推挙された。この間、昭和13年には第5回佐分賞を受賞した。また、小出没後中之島洋画研究所(信濃橋作画研究所を改称)で教えたのをはじめ、大阪市立美術研究所などの講師をつとめた。戦後も二科会会員として活躍し、同25年第35回二科展に「二科三十五人衆」を出品、会員努力賞を受け、同40年第50回展には「好評と云う名の看板」で第1回青児賞を受賞した。同36年二科会理事に、同58年社団法人二科会常務理事にそれぞれ就任する。一方、同39年に大阪芸術大学教授となり後進の指導にあたり、美術学科長などをつとめ同63年退職、翌年同大学名誉教授の称号を得た。また、同49年には大阪芸術賞を受賞した。同63年大阪芸術大学塚本記念館・芸術情報センター展示ホールで「松井正画業70年記念展」を開催、二科展出品作を中心に49点が展示された。二科展への出品作には、他に「瓦焼風景」(20回)、「メルカード」(53回)、「カッパドキヤ」(63回)、「占師の庭」(67回)などがある。

to page top