本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





木下義謙

没年月日:1996/07/16

読み:きのしたよしのり  洋画家で、一水会創立会員、女子美術大学名誉教授の木下義謙は、7月16日午後7時47分、心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。

三橋兄弟治

没年月日:1996/06/17

読み:みつはしいとじ  水彩画家で、水彩連盟理事長の三橋兄弟治は、6月17日午前9時40分、結腸がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の自宅で死去した。享年85。明治44(1911)年1月22日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれ、大正15(1926)年小学校高等科を卒業し、同年神奈川県師範学校に入学した。在学中の昭和4(1929)年、第6回槐樹社展に「妹の像」が初入選し、また同会同人の金沢重治を知り、以後指導を受けるようになった。翌年、同学校を卒業して小学校教員になるが、画家志望の念が強まり、翌年には教員をやめて上京、独立美術研究所などで学んだ。その間、同10年の第4回旺玄社展に「サナトリウムの一角」等が、また翌年の第23回二科展に「浴衣のルーちゃん」がそれぞれ初入選した。以後、再び教員となりながら、制作をつづけ、同15年の第9回旺玄社展に出品した「港」により第一賞をうけ、翌年には同会同人に推挙され、また紀元二千六百年奉祝展に「芝生に憩う少女」が入選した。戦後になると、創元会、日展、水彩連盟展などに出品をつづけ、同28年には、水彩連盟展の会員となった。しかし同30年には創元会会員を退き、同時に日展への出品も以後とりやめた。また、同27年頃より、水を使わずに絵具を堅い筆で紙にこすりつける描法をとりいれ、静物画や肖像画において点描風の温雅な画面をうみだすことに成功した。しかし、次第に構成的な表現に変化し、同33年頃からは、いわゆる「熱い抽象」の影響をうけて、抽象表現を試みるようになった。茅ヶ崎市の中学校の教員を辞した同39年から翌年にかけて、はじめてヨーロッパ旅行をした。この旅行を契機に、ヨーロッパの景色、風物に惹かれるようになり、同43年からは、ふたたび具象的な表現にかえった。その後は、たびたびスペイン、南仏を中心に取材旅行におもむき、その収穫として静謐な古都市の風景画の多くを水彩連盟展や個展で発表しつづけた。同63年、水彩連盟展の初代理事長に選出され、その翌年には60年におよぶ画業を記念して新宿小田急本店グランドギャラリーで回顧展が開催され、また平成2(1990)年にも、茅ヶ崎市、横浜市において約100点からなる「三橋兄弟治の世界展」が開催された。

斎藤三郎

没年月日:1996/03/18

読み:さいとうさぶろう  洋画家の斎藤三郎は、3月18日午前4時50分、多臓器不全のため埼玉県浦和市元町の自宅で死去した。享年78。大正6(1917)年5月10日、埼玉県熊谷に生まれる。父は橋梁技師で日本画もたしなんだ。東京物理学校(現、東京理科大学)在学中の一時期、本郷絵画研究所に通う。昭和15(1940)年物理学校を中退して第二次世界大戦に出征。戦地で画家になることを決意し独学で多くのデッサンを描く。同20年復員。同21年第31回二科展に「向日葵」が初入選し、以来同展に出品を続ける。同23年第33回展に「敗戦の自画像」を出品して特待、同25年に「信仰の女」を出品して二科賞を受け会友に推挙、同29年会員となる。同35年に会員努力賞、同36年にはパリ賞受賞により翌年フランス、スペインに遊学。昭和30年代には抽象画を描いたが、渡欧後はスペインの踊り子や風景をテーマに鮮やかな色彩で情熱的、華麗な世界を描き、大衆的な人気を集め続けた。同47年「セビージャの祭」で内閣総理大臣賞を受ける。平成2(1990)年勲四等瑞宝章受章。

浅野弥衛

没年月日:1996/02/22

読み:あさのやえ  画家浅野弥衛は、2月22日午前6時45分、脳梗塞のため三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年81。大正13(1914)年10月1日、三重県鈴鹿市の参宮街道に面した、江戸時代から煙草の仲買商を営んでいた旧家の長男として生まれた。昭和7(1932)年、中学校を卒業後、職業軍人となり、同年満州に渡り、翌年帰国したとされる。この頃から絵筆を手にするようになり、また戦後詩人として知られるようになる津市在住の野田理一(1907年生まれ)と親交するようになり、野田の所有していたヨーロッパの画集や雑誌から、欧米の新しい芸術運動を知った。しかし、未知の表現も、彼にとって「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』1971年3月13日)と回想しているように、後に独自の抽象絵画にむかう姿勢を、すでにしめしていた。本人の回想によれば、「昭和十三年か、十四年か、」に美術創作家協会に初出品し、「上野の美術館」に自作である「モノクロームの小さい作品」を見るために上京した、としている。(「ふるさと」、『朝日新聞』1961年1月17日)しかしながら、この初出品については、改称する以前の自由美術家協会展の第2回展(同12年)から第4回展(同15年)までの出品目録では確認できず、また改称後に上野で開催された第5回展(同16年)の出品目録は未見のため、確認できていない。戦争中は、三度応召し、戦後の同25年に鈴鹿信用組合理事となり、また美術文化協会会員となった。同28年、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組され、その代表理事に就任、同34年まで勤め、その間、昼間は銀行での勤務、帰宅後の夜に制作をする生活がつづいた。同38年、美術文化協会を退会。その後、名古屋、東京、三重県内での個展を毎年開催しながら、制作をつづけた。その独自の抽象表現を築いたのは、1950年代後半からで、乳白色の画面をひっかいた無数の鋭い線によって表現され、ナイーブだが、独特の叙情的な小世界をつくりあげていた。この線を主体にした表現は、その後も一貫して追求され、徐々に評価をたかめていった。同62年から平成2(1990)年まで、愛知県立芸術大学の客員教授をつとめ、翌年には三重県民功労賞を受賞した。歿する直前の同8年1月に、郷里の三重県立美術館において初期から近作にいたる約250点によって構成された回顧展「浅野弥衛展」が開催され、自らの資質に沿いながら制作をつづけてきたこの寡黙な抽象画家の全貌が紹介された。

中村善種

没年月日:1995/12/26

読み:なかむらよしたね  独立美術協会会員の洋画家中村善種は、12月26日正午、肺気しゅのため京都市左京区の自宅で死去した。享年81。大正3 (1914)年2月15日、和歌山市に生まれ、昭和13(1938)年に和歌山師範学校専攻科を卒業、この年の第8回独立美術協会展に「カンナと糸杉」が初入選、同協会会員の森有材に師事した。同17年の第12回展に出品した「竹」、「栗鼠」によって独立賞を受賞。戦後もひきつづき同展に出品し、同24年に会員となった。同41年の第34回展に出品した「作品A」、「作品B」によってG賞受賞。この時代には、一時象形文字や甲骨文字をヒントにした土俗的な抽象表現を試みていた。同49年に京都市立芸術大学教授となり、同56年から平成6年まで大手前女子大学教授として指導にあたった。昭和59年、京都府文化賞、同61年には京都市文化功労賞、さらに翌年には和歌山市文化賞を受賞した。同60年に『中村善種画集』を刊行した。近年、都会の一隅の情景、あるいはそのかたすみに、おきすてられた事物がモチーフとなり、それらをプリズムのなかで交錯させたかのように虚実を織りまぜながら構成し、現代的な心象風景にしたてた作品を毎回出品していた。

黒田久美子

没年月日:1995/12/21

読み:くろだくみこ  光風会会員、女流画家協会設立会員の洋画家黒田久美子は12月21日午前9時10分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。大正3(1914)年8月11日父生野源太郎、母初恵の長女として東京都小石川に生まれる。鉄道局員であった父の転任により仙台、名古屋、東京と転居。この間大正末年のころ名古屋第二師範附属小学校在学中に絵画に強い興味を抱くようになる。昭和4(1929)年金城女学校を病気のために休学中に遠山清に油画、パステル画を習う。翌年名古屋市展にパステル画「バラ」で入選。同年病気のため金城女学校を中退する。同6年中村研一に入門し、翌7年中村の紹介により岡田三郎助の女子研究所に入る。同8年第20回光風会展、および春台展に初入選。以後同展に出品を続け、同11年春台展に「鎧戸前」を出品して受賞。また、同年新文展鑑査展に「タイプライターのある静物」で初入選する。同12年洋画家黒田頼綱と結婚。同14年第26回光風会展に「庭」を出品して三星賞を受賞。翌年第27回同展に「しき松葉」を出品してI氏賞を受賞し会友に推挙される。また同年紀元2600年奉祝展に「夏の日」を出品。以後光風展、新文展に出品を続け、同20年敗戦後の光風会復興に参加して同会会員となる。同21年春に開催された日展に「二月の日」、同年秋の第2回日展に「ひがん花咲く頃」を出品し、同24年まで日展に出品を続けるが、翌年より日展を退く。この間同22年三岸節子らとともに女流画家協会を設立し同会会員となる。同35年第14回女流画家展に「タぐれの病院」を出品して船岡賞受賞。花や人形を配した静物画を好んで描き、対象の形態をデッサン風に捉える黒い輪郭線を完成作に生かし、緑、青、空色、赤などの原色で画面を構成して明澄な画風を示した。団体展のほか、同25年を皮切りに資生堂ギャラリーで3度、日本橋丸善画廊で2度個展を開催し、同32年から13固にわたり高島屋で黒田頼綱・久美子二人展を開催した。同56年からは世田谷美術館での世田谷展にも毎年出品している。著書に『静物の描き方』(昭和35年、アトリエ社)、『パステル画風景の描き方』(同46年アトリエ社)などがあり、同60 年「黒田頼綱・黒田久美子画集』(フジアート)を刊行している。

秋元清弘

没年月日:1995/12/15

読み:あきもときよひろ  日展評議員の洋画家秋元清弘は、12月15日午後6時、呼吸不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年73。大正11(1922)年10月3目、現在の東京都中野区本町に生まれ、昭和15(1940)年東京府立第六中学校を卒業、東京美術学校油画科に入学、田辺至に師事した。同19年に同学校卒業。戦後は、同23年から高校の美術教師をしながら、創作活動をつづけ、同30年の東光展にて奨励賞をうけ、同32年同会会員となった。また、同31年の第12回日展に「海辺」が初入選、以後毎回出品をつづけ、同40年の第8回日展では「室内」が特選となり、同46年の改組第3回展でも「青い服」が再び特選となった。以後日展には、無鑑査、委嘱出品をつづけ、同55年に会員となった。平成6(1994)年に日展評議員となった。

舟木徳重

没年月日:1995/12/09

読み:ふなきのりしげ  日展評議員の洋画家舟木徳重は、12月9日午前5時、肺がんのため東京都東村山市の東京白十事病院で死去した。享年77。大正7(1918)年1月18日に東京は日暮里町に生まれ、昭和17(1943)年に東京美術学校油画科を卒業。同年の第29回光風会展に「自画像(夏)」が初入選。戦後も同会に出品をつづけ、同23年の第34回展に「S君」、「静物」を出品、光風賞を受賞、翌年から会員となり、同会の評議員をつとめたのち、同41年に退会。一方、日展には、同21年の第2回展から出品し、同27年の第8回に、コスチュームの女性を手堅い描写でまとめた「黒衣」が入選、岡田賞を受賞。以後、無鑑査、出品委嘱による出品をつづけ、同39年に会員、同51年に評議員となった。平成5(1993)年の第25回展に、ナイーヴな表現ながら、陽光に映える半島が黄色に描かれ、空も海ものどかなひろがりが感じられる「春の海」が最後の出品となった。

西尾善積

没年月日:1995/12/04

読み:にしおよしづみ  日展参与の洋画家西尾善積は、12月4日午後3時45分、呼吸不全のため東京都練馬区の東海病院で死去した。享年83。明治45(1912)年4月10目、京都市に生まれ、昭和14(1939)年に東京美術判交油画科を卒業、在学中の同13年の第2回新文展に「肘つく女」が初入選。藤島武二、川島理一郎に師事。同18年の第30回光風会展に「ジャンパーの老人」、「新聞を読む」が入選、光風賞を受賞。戦後も、同会の会員として審査員、評議員などをつとめ、同45年に退会。一方、同22年の第2回日展に「モデル」が入選、特選となり、以後同26年の第7回展から同32年の第13回展まで、日展に出品委嘱。同33年から35年まで、フランスに留学。帰国後は、日展において審査員、評議員をつとめ、平成5(1993)年に参与となった。平成元年の第21回展に明るい色彩と童画的な表現による「ポポリ展望」を出品、そして翌年の第22回展に出品した「永遠の都(ローマ)」が同展への最後の出品となった。

井上長三郎

没年月日:1995/11/17

読み:いのうえちょうざぶろう  自由美術家協会会員の洋画家井上長三郎は11月17日午前2時20分、呼吸不全のため千葉県流山市の東葛病院で死去した。享年89。明治39(1906)年11月3日、神戸市浜崎通り4丁目に生まれる。同41年両親とともに大連に移り、大正13(1924)年4月まで大陸で過ごす。この間同11年に『回想のセザンヌ』を読み、啓発されるとともに絵画に興味を抱くようになる。帰国後、東京谷中の太平洋洋画研究所に通L¥中村不折に師事。鶴岡政男、靉光らと交遊する。昭和元(1926)年、第13回二科展に「風景」で初入選。翌年1930年協会展に「習作(風景)」を出品して奨励賞を受賞。同年第14回二科展に「樹下清流」を出品する。以後両展に出品を続け、同5年第5回1930年協会展に「森の道」を出品して再度奨励賞を受賞。同年太平洋画会研究所が閉鎖されることとなり、同所を退く。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「森」「厓」を出品して「森」で独立美術協会賞を受賞。同10年同会会員となる。同13年夫人とともに渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに入りデッサンの研鎖に勉める。この間、セザンヌ生誕100年記念展を見、その制作がプッサンらの古典絵画を基礎として継承していることに触発された。同15年イタリア旅行ののち帰国し、同年美術文化協会に参加。同18年太平洋洋画研究所時代の友人であった靉光、鶴岡政男、松本竣介らとともに新人画会を結成。同年第4回美術文化協会展に出品した「埋葬」が軍当局の検閲により撤去され、同年9月の決戦美術展に靉光との共作「漂流」を出品したが「敗戦的」という理由から展示1日にして撤去される。同19年山梨県北巨摩郡へ疎開。同21年日本美術会の創立に参加し、同会の主催による日本アンデパンダン展に出品。また、同22年新人画会が自由美術家協会と合流したため、同会へも出品する。同25年からは読売新聞社主催の日本アンデパンダン展にも出品。「葬送曲」「東京裁判」など社会批判を含む作品を発表して注目された。一方この頃から堅実な構成力を示す静物画を描き始めている。同26年東京日本橋高島屋で「井上長三郎作品展」を開催。同27年第1回展より日本国際美術展に、同29年第1回展より現代日本美術展に出品。同30年代半ばから、激しくデフォルメさせた人体の構成による諷刺性の強い作品が制作されるようになり、同41年から「紳士シリーズ」が始められた。同55年、在住作家として板橋区立美術館で「井上長三郎展」が開催された。西洋絵画に継承される古典を認識し、自らに流れ込む東洋絵画の古典を国際化した現代に生かすべく試み、形を明確にすることを重視し、色彩の使用を自ら制限して制作する姿勢を保った。『井上長三郎画集』(昭和50年、時の美術社)、『画論集 井上長三郎』(同51年、中央公論事業出版)などが刊行されているほか、画集『靉光』(昭和40年、時の美術社)を執筆するなど画友霊靉光、松本竣介などについての著述もある。

向井潤吉

没年月日:1995/11/14

読み:むかいじゅんきち  行動美術協会創立会員で民家を描く画家として知られた洋画家の向井潤吉は11月14日午前5時30分、東京都世田谷区弦巻の自宅で急性肺炎のため死亡した。享年93。明治34(1901)年11月30日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は代々宮大工に従事し、潤吉の父才吉は東本願寺の建築にもたずさわったほか、職人を抱えて輸出向け刺繍屛風や衝立の制作をも行っていた。大正3(1914)年京都市立美術工芸学校予科に入学するが、在学中に油彩画に強い興味をいだき、同校を中退して画業を手伝いながら関西美術院に学ぶ。沢部清五郎、都鳥英喜に師事。同8年関西美術院での友人たちと麗日会を開催。また同年第6回二科展に「室隅にて」で初入選する。同9年5月に上京して新聞販売店に住み込み、新聞配達の仕事をしながら川端画学校に通う。同年第7回二科展に「八月の鉢」が入選。同年京都に帰り、翌年春大阪高島屋呉服店図案部に勤務し始める。同年12月京都の歩兵第38連隊に入営するが2ヶ月で除隊し、再び高島屋に勤務する。翌15年第13回二科展に6年ぶりに「葱の花」を出品して入選し、本格的に画家を志した。昭和2年秋、シベリア経由で渡欧し、アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通う。翌年サロン・ドオトンヌに出品する。同5年1月帰国。滞欧中にドイツ・イタリア・スペイン・オランダなどを訪ねている。帰国の年、京都大毎会館で個展を開いたほか、東京、大阪、京都の画廊でも個展を開催。同年の第17回二科展に「力土達」等11点を特別出品し樗牛賞を受賞、同8年同会会友、同11年会員に推挙される。同12年秋中国に個人の資格で従軍し翌年5月中村研一らと上海に赴き上海軍報道部の委嘱により記録画を作成する。同13年大日本陸軍従軍画家協会設立とともに同会会員となり、同14年陸軍美術協会の結成に伴い同会会員となる。同15年紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、同年昭和洋画奨励賞を受賞する。同16年二科会評議員となる。また同年国民徴用令により報道班員としてフィリピンに赴く。同18年ビルマ方面に従軍して同19年8月に帰国する。戦中に日本の民家の図録を見てその美に注目し、終戦後は民家を描き続けようと志し、同20年秋に新潟県川口村をモティーフとした「雨」を制作して以後、終生民家を描いた。終戦まもなく再興した二科会には参加せず、行動美術協会を結成してその創立会員となる。以後行動展を中心に、日本国際美術展、現代日本美術展、日本秀作美術展などにも出品。同34年再度渡欧し10ヶ月ほど滞在。同41年訪中日本美術家代表団の一員として訪中し北京、上海、蘇州などを訪ねる。同49年3月京都府立文化芸術会館で民家を描いた作品約50点による自選展を聞いたほか、5月には東京銀座のセントラル美術館において初期からの画業を90点でふりかえる「向井潤吉還流展」を開催。翌年横浜高島屋で「向井潤吉民家展」を開催し70余点を展示する。昭和8年から世田谷区弦巻町に居住し、同57年同区名誉区民となった。同61年世田谷美術館において「向井潤吉展」を開催、年譜、参考文献などは同展図録に詳しい。平成4年自宅兼アトリエとともに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置された。同年「向井潤吉アトリエ館開館記念展 郷愁と輝き・向井潤吉と民家」が開かれている。その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを写実的にとらえ、失われていく景観を描きとどめた。スケッチによってアトリエで完成させる方法をとらず、現地での制作を重視した。描かれた民家は北海道から鹿児島まで1500に及ぶ。

若松光一郎

没年月日:1995/11/07

読み:わかまつこういちろう  新制作協会会員の洋画家若松光一郎は11月7日午前6時、急性心不全のため死去した。享年81。大正3(1914)年8月8日福島県いわぎ市常盤湯本三函179に生まれる。福島県立磐城中学に学び、東京美術学校入学を志して同7年に上京。川端画学校に入り、同校顧問であった藤島武二宅へ赴いて直接師事する。昭和8(1933)年東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事して同13年に同校を卒業する。在学中の同12年第2回新制作派協会展に「人物」で初入選。以後同展に出品を続け、同16年第6回同展に「石の村」「巌」「船」を出品して新作家賞を受賞。同18年同会協友となる。同19年召集により入隊。同年第9回新制作派展戦時美術展に「五月」「つりぼり」「緬羊の小屋」を出品して岡田賞を受賞。同27年から29年まで結核のため療養。病気が回復し始めたころから湯本の自宅で絵を教え始め、同会を「ユマニテ会」と名付けて、ユマニテ展を毎年間崖する。同31年第20回新制作展に「小田炭坑A」「小田炭坑B」「石炭をはこぶ女」を出品して同会会員となる。同48年7月から3週間ヨーロッパ旅行。同56年春にもヨーロッパへ赴く。初期には油彩によって人物、風景、静物を描き、対象の再現描写にとどまらず、形態を簡略化して構築的な制作を行った。1960年代に入ると、抽象表現へと移行し、油彩のみならず、和紙、日本画の顔料などを用い、時にコラージュをも含む独自の技法による作品が制作されるようになった。同60年いわぎ市立美術館で「若松光一郎―半世紀の歩み」展が開催されており、年譜、作風の展開については同展図録に詳しい。

和田徹

没年月日:1995/09/06

読み:わだとおる  立軌会同人の洋画家和田徹は9月6日午後7時44分胃静脈りゅう破裂のため死去した。享年72。大正12(1923)年1月24日東京都港区麻布市兵衛町2-36に生まれる。本名嘉之(よしゆき)。東京市中野高等無線電信学校を卒業して昭和16(1941)年、旭石油株式会社船舶部に入社。同19年に入営し、21年復員。同22年より24年まで角浩の主催する近代絵画研究所に学び、同25年より猪熊弦一郎の主催する純粋美術研究室に学ぶ。同年読売アンデパンダン展に出品。同26年第15回新制作展に「築港」で初入選。同28年第17回展から19回展まで、また同33年第22回展より24回展まで出品するが、同36年に同会を退会する。このころから版画家菅野陽に銅版画を学ぶ。同37年および39年養清堂画廊で銅版画展を開催。同40年イスラエルハイファ美術館版画展に銅版画を出品する。同41年第10目安井賞展に出品。同44年立軌会展に招待出品して以後同会に出品し、同45年会員となる。主な個展に同52年大阪大丸本店、同58年東京新宿の小田急百貨店、同60年および62年に日本橋三越、同63年および平成3年東京渋谷東急本店、同4年横浜高島屋、同7年上野松坂屋での油彩展がある。海にちなむモティーフを好んで描き、静謐な画風を示した。

小林数

没年月日:1995/07/29

読み:こばやしかず  独立美術協会会員の洋画家小林数は、7月29日午後3時、呼吸不全のため千葉県船橋市の自宅で死去した。享年79。本名数雄(かずお)。大正5(1916)年、北海道稚内市に生まれ、林武に師事、昭和17(1942)年の第12回独立展に「花」が初入選、戦後も再び同展に出品をつづけ、同33年の第26回展に出品の「静物」によって独立賞を受賞、翌年の第27回展でも、「金魚と鳥の静物」、「黄壷と裸婦」によって再度独立賞を受け、同会会員にとなった。同36年、フランスに留学、翌年帰国して、同42年の第35回展では、「ヨットのある風景」、「真鶴半島」によってG賞を受賞した。平成6(1994)年には、同会の会員功労賞をうけた。同7年の第63回展には、遺作として「太束崎」を出品されたが、その画風は、フォーヴ的な解釈による明快な色彩と意志的な輪郭線によるもので、近年はスケールの大きい半島風景や山岳風景を描きつづけていた。

清野恒

没年月日:1995/07/20

読み:せいのつね  トキワ松学園横浜美術短期大学名誉教授でモダンアート協会名誉会員の洋画家清野恒は7月20日午後8時58分、脳こうそくのため川崎市多摩区の自宅で死去した。享年84。明治43(1910)年12月8日山形県上山市鶴脛赤山700に生まれる。本名恒太郎(つねたろう)。昭和10(1935)年早稲田大学文学部西洋史科を卒業。在学中に二科展に出品し、大学卒業の年、米国を経由して渡欧。パリでフェルナン・レジェに師事する。同12年サロン・ド一トンヌに出品。滞欧中、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、オランダ、ベルギーなどを訪れる。同14年に帰国し、自由美術家協会に参加する。戦後は同28年第3回モダンアート協会展に「森1」「森2」「いえ」「家」等を出品して同年同会会員となる。同32年より山形大学講師となる。同38年毎日国際美術展に出品し、翌年より国際形象展に毎年出品する。同42年ヒマラヤに写生旅行し、山中のラマ廟で生活する。以後しばしばヒマラヤを訪れ、インドなど周辺各地にも赴く。「エトルスク」「シェルパの舞」「祭」、また同62年第37回モダンアート展出品作「ベナレスのガード」等、ヒマラヤを中心に来訪地の風景風俗に取材した作品を多数制作。同41年よりトキワ松学園横浜美術短期大学で教鞭を執り、絵画、色彩学を教授した。同40年日動画廊で、同43、46年日本橋三越で個展を開いており、また山形美術館、東京都渋谷のギャラリー・ジェイコ等で回顧展が聞かれた。

立花重雄

没年月日:1995/06/04

読み:たちばなしげお  日展会員の洋画家立花重雄は、6月4日午前6時、肝不全のため福岡県田川市の病院で死去した。享年75。大正9(1920)年1月18日、福岡県飯塚市に生まれ、中央美術学園で学んだ。昭和39(1964)年の第7回日展に家々の屋根が折り重なるようにつづく光景を荒い筆致と豊かなマチエールで描いた「家並」を出品、特選となり、翌年の第8回展では、無鑑査で「家並」を出品した。同58年の第15回展に「古都」を、同60年の第17回展に「裏町」をそれぞれ委嘱出品した。同62年の第19回展では会員として、「裏町」を出品、独特の厚塗りのマチエールがさらに深まっていった。平成7年の第27回日展に重厚なマチエールによる暗い海面に浮かぶ一隻の白い舟が印象的な「高島」が遺作として出品された。

河野日出雄

没年月日:1995/05/23

読み:こうのひでお  現代童画会名誉会長の洋画家河野日出雄は、5月23日午後7時、糖尿病のため神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去した。享年73。大正11(1922)年6月1目、父の赴任地であったソウル市に生まれ、日本大学芸術科予科を修了した後、日本美術学校油画科を卒業。角浩に師事。戦後、二科展をはじめ各団体展に出品をはじめるが、昭和26(1951)年に病気のため、療養生活をつづけることになった。その聞に、出版物に童画を描きはじめた。同43年に一陽会展に出品、同45年には同展にて特待賞を受け、同49年に会員となった。同51年には、イラスト、デザインを描く商業美術の作家たちにも、絵画を描く機会をあたえることを目的に、現代童画会を創立、その発起人となり、第1回展から出品をつづけ、同54年に同会会長となり、あわせて一陽会を退会。同59年には、神奈川県藤沢市の画廊で、妻こうのこのみ、長男りうのすけ、長男の妻りえの四人による最初のファミリー展を開催、平成4(1992)年からは、これを「ファンタスティックの世界展」として、各地で毎年開催していた。

泉茂

没年月日:1995/05/11

読み:いずみしげる  大阪芸術大学名誉教授の画家・版画家の泉茂は5月11日午後6時24分、食道がんのため大阪市阿倍野区の病院で死去した。享年73。大正11(1922)年1月13日大阪市東区玉堀町570番地に生まれる。昭和14(1939)年大阪市立工芸学校図案科を卒業し、大丸百貨屈に勤務する。同20年より銅版画制作を始める。同23年ころ同百貨店を退職し、画業に専心する。同26年大阪デモクラート美術協会を結成し、同年より、27、28年に大阪デモクラート展に出品するが、同31年同会は解散。こうしたグループ活動をする一方、同24年梅田画廊での初めての個展以来、画廊での個展で制作を発表する。32年第1回東京版画ビエンナーレ展に出品し新人賞受賞。この頃より抽象作品を制作。以後36、45年に同展に出品する。同32年より現代日本美術展に出品。同34年ニューヨークにわたり、後パリへ移住する。同33年より同42年まで日本版画協会会員となる。同35年頃より版画だけではなく、油彩画も制作し始める。同39、40年パリ近代美術館で、開催されたサロン・ダール・サクル展に出品。同40東京国立近代美術館での「海外在住作家展」、ニューヨーク近代美術館での「日本の新しい絵画彫刻展」に出品する。欧米滞在中は同34年ニューヨークのプラット・アートセンターでの個展、同37年ニューヨークのミチュー画廊での個展、同40年ストックホルムのボーマン画廊での個展、同41年パリのコナンク画廊での個展など各地で個展を開催。同43年に帰国する。帰国後は吹き付け技法による油彩画のほか、銅版画、シルクスクリーン、リトグラフなど多様な技法を用いて抽象的な作品を制作し、同45年には大阪フォルム画廊、同46年には藤美画廊で個展を開催し、以後毎年画廊で個展を聞く。日本国際美術展、朝日秀作展などにも出品した。また、同45年より大阪芸術大学教授となり、後進の指導にあたった。作品集に『画業・泉茂』(平成元年)がある。

田中忠雄

没年月日:1995/04/26

読み:たなかただお  武蔵野美術大学教授で洋画家の田中忠雄は4月26日午後10時40分老衰のため東京都東久留米市学園町の自宅で死去した。享年91。明治36(1903)年11月27日札幌市に生まれる。父は札幌組合基督教会(現北光教会)の初代牧師であった。西創成村地在学中に俣野第三郎、第四郎兄弟と交遊して絵画に興味を持ち、また、北海道大学に赴任してきた有島武郎を知る。大正3(1914)年、父の転任により神戸へ移り、湊山小学校に転校する。同5年兵庫県立第二神戸中学へ入学。学友に小磯良平、東山新吉(魁夷)などがいる。同9年兵庫教会で洗礼を受ける。同10年第二中学を卒業して、京都高等工芸学校図案科に入学するが、油彩画への興味を捨てがたく独学。同13年同校を卒業して上京し、東京市技手として都市計画にたずさわる。一方、夜は本郷絵画研究所に通う。同14年絵画に専念すべく東京市技手をやめ、6月に第2回白日展に「静物」「ゑびすの風景」で初入選。そののち本郷絵画研究所から新設された湯島自由画室に移り、前田寛治に師事する。同15年第7回中央美術展に「郊外の理髪屋の坂路」「冬の駒込風景」で入選、第13回二科展に「夏樹の陰」で入選する。昭和2(1927)年第8回中央美術展に「黒服を着けたるN子」を出品して中央美術賞を受賞。同年より1930年協会展にも出品する。同5年渡仏し、アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通う一方、ルーブル美術館での模写を行う。滞欧中、スペイン、オランダ、ベルギーなどに旅行し、同7年10月帰国。同8年第20回二科展に「昼食」「メロン売」「パンを切る老人」など労働者を描いた作品を中心に滞欧作を特別出品する。同年より建築設計で生計を立てつつ油彩画制作をする。同10年宮本三郎等の奨めにより新美術家協会に入る。同12年第24回二科展に「コワイヤー」「小憩」を出品して特待となり、同14年同会会友となる。同15年建築設計を打ち切り満州へ赴く。同年第28回二科展に「北満林業地」「首都近き耕地」を出品して会友賞受賞。同17年上海毎日新聞の招きにより満支へ赴き、農民と語る兵士を描いた「麦の話」を第29回二科展に出品して同会会員となる。同18年国民総力決戦美術展に「元帥に誓う」を出品して朝日新聞賞を受賞。同年第6回新文展にも「採鉱」で入選する。同19年軍需省の企画による美術推進隊に加わり炭坑、製鉄所、飛行機工場などを訪れて絵画による慰問を行った。同20年、空襲により住宅、所蔵作品等をすべて失い札幌に疎開する。敗戦後まもなく、向井潤吉らに行動美術協会結成への参加を誘われ、田辺三重松とともに参加し、行動美術北海道支部を設立する。また、全道美術協会の結成にも参加する。こののち行動美術展、全道展を中心に制作を発表。同23年上京ののちも、全道展への出品は続いた。戦後間もないころからキリスト教関係の物語主題を主に描くようになり、同35年ウィーンで行われた第3回国際造形美術家会議に出席するため渡欧。帰路、中部フランスやスペインでロマネスク美術を見、イスラエルにも赴いた。同36年武蔵野美術学校が大学に昇格するにともない同大教授となった。同42年キリスト教視聴覚会議に出席するため韓国に渡る。同40年寝屋川市役所の壁面装飾、同41年東京本郷のルーテル学生センターの壁面装飾、同43年青山学院初等部礼拝堂のステンド・グラスのデザインを担当するなど、建築装飾も多数行った。同46年夏に渡欧しブルターニュ地方のキリスト教遺跡に感銘を受ける。同49年武蔵野美術大学を停年退職し、名誉教授となる。これに先立って、同48年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「田中忠雄教授作品展」が開催されている。同年カトリック、プロテスタント、聖公会所属の美術家によるキリスト教美術協会を結成する。同50年北海道秀作美術展に「荒野に伏す」を出品して道立美術館賞受賞。同52年中国旅行。同46年広島流川教会礼拝堂のステンド・グラス、同50年神戸女学院デブォレスト記念館のステンド・グラス、同51年鹿児島城南教会の各礼拝堂のステンド・グラスなど教会のためのステンド・グラス制作、同52年横浜北YMCAのスイミング・プール壁面の線彫画等、公共建築の壁面装飾の仕事も続けた。著書、画集に『名画に見るキリスト』(保育社 1969年)、『田中忠雄聖書画集』(教文館 1978年)などがあるほか、主要展覧会に同59年北海道立近代美術館、東京セントラル美術館での「求美の使徒-田中忠雄展」がある。初期には自然主義的写実を基本とし、労働者や風景を好んで描いたが、戦後はキリスト教関係の物語を主な主題とし、初期キリスト教美術、モザイク画の研究などをもとに、簡略化した形体、原色を多用した鮮やかな色調、時に一点消失遠近法を無視した空間構成を持つ物語性豊かな作品を描いた。略歴、参考文献などは「求美の使徒-田中忠雄展」図録に詳しい。

多賀谷伊徳

没年月日:1995/04/24

読み:たがやいとく  洋画家多賀谷伊徳は4月24日午前10時55分、脳血栓のため北九州市八幡区西の萩原中央病院で死去した。享年77。大正7(1918)年4月1日、福岡県遠賀郡芦屋町21-12に生まれる。遠賀郡芦屋町立山鹿小学校を経て福岡県立東筑中学校に入学し、同校在学中に前田寛治の友人であった叔父の影響もあって独学で油彩画を始める。昭和11年、第1回九州美術協会展に出品。同13年第2回主線美術展に「海」で初入選。同年同郷の寺田政明を頼って上京し、いわゆる「池袋モンパルナス」の一員として靉光、麻生三郎、松本竣介、井上長三郎らと交遊し、また、瀧口修造をはじめ、福沢一郎、阿部展也、斎藤義重らシュールレアリスムの画家たちを知る。同14年第9回独立美術展に「気穴持つ生物」で初入選。同年福沢一郎等が創立した美術文化協会に参加。同年秋、大刀洗飛行隊に航空気象兵として入隊。同15年第1回美術文化展に「飛朔する前」「朱い実のある樹」を出品する。この頃、台湾に配属となる。同16年、同年創刊の「台湾文学」に詩、挿し絵を発表し、臺陽展に「岩に咲く花」を出品する。同17、18年も戦地から美術文化展に出品を続ける。同18年除隊。同19年第5回同展に「アラカンへ」「仏門(森の廃小乗寺)」を出品し、美術文化賞受賞。同21年美術文化協会会員となる。同22年前衛美術家が集まり日本アヴァンギャルド美術家クラブが結成されることとなると、これに加わり、同会が有楽町のアニー・パイル劇場内の図書館で行った常設展に出品して、米国コレクターに注目される。同24年第1回読売アンデパンダン展に出品。以後同28年第5回展まで出品を続ける。同27年第12回美術文化展に「踊(倭人)」「西風(倭人)」を出品し、同会を退会。同29年、末松正樹とともに渡欧し、パリで個展を開く。また、サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル展にも出品して、同年帰国。同30年銀座松屋で個展を開き、滞欧作を発表。同年岡本太郎の招きで二科会に参加し第40回同展に「濁」「人」「集(お能より)」を出品する。同33年有田市岩尾対山窯で磁器壁画の制作に成功し、以後陶板壁画、陶器の制作にも興味を抱く。同35年再度渡欧し、個展を聞き、翌年オランダ、ベルギ一、ドイツ、スペイン、イタリア、ギリシャ、エジプト等を巡って帰国する。同年岡本太郎とともに二科会を退会。以後、個展を中心に制作を発表する。同41年第3回目の渡欧。パリで個展を開いた後、アメリカ、メキシコを巡遊して帰国。その後も2、3年おきに渡欧し、パリを中心に個展を開催する。同49年2月2日自宅裏に「タガヤ美術館」(総面積600平米、高さ9m、3階建)を開設して、自作ならびにルネサンス期から現代までのヨーロッパ版画を展示する。同52年『多賀谷伊徳作品集』(三彩社刊)を刊行。同年自宅近くに開窯し、「姫窯」と命名する。画業を始める時期からシュールレアリズムの傾向を帯びた抽象表現を行い、「珊瑚礁」「仏門」等、実際の景観を抽象化してとらえる作品から、抽象表現を通じて「青い太陽の幻想」などの内的イメージや概念を象徴する作品、および「作品」等と題する純粋に造形的主題のみを追求した抽象画の制作へと展開した。北九州市庁舎の陶器壁画「船と太陽」、芦屋町庁舎の陶器壁画「海日輪」など公共建築のための大規模な制作も多く行っている。昭和54年に北九州市立美術館で「多賀谷伊徳展」が開催されており、年譜、関係文献については同展図録に詳しい。

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