山本日子士良

没年月日:1993/09/15
分野:, (洋)

日展参与の洋画家山本日子士良は9月15日午前1時49分、胃がんのため東京都板橋区の都老人医療センターで死去した。享年82。明治43(1910)年9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。同45年父を亡くし、大正4(1915)年に大阪へ転居。同12年大阪市北区済美第二小学校尋常科を修了して高等科へ入学し、図画教師山口重慶に画才を見出されて画家を志す。同13年済美第二小学校高等科1年を修了して同年4月より私立浪速中学校に入学。昭和4(1929)年、同校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作教室で学ぶ。同9年第2回東光会展に「踏切番」を出品。同年東京美術学校を卒業。同年より翌年にかけて兵役につく。その後も東光会展に出品する一方、同11年文展鑑査展に「歌姫」で初入選する。同12年、上京して熊岡絵画道場で熊岡美彦の指導を受ける。同15年第8回東光会展に「水辺群像」「婦人像」を出品してY氏奨励賞受賞。同年の紀元2600年奉祝展に「ともだち」を出品。同16年第9回東光会展に「惑る老技師の像」「自画像」「甦生を誓ひ合へる三人兄弟像」を出品して東光会賞受賞。同年第2回聖戦美術展に「戦野のオアシス」「雪中の弾薬輸送」を出品して朝日新聞社賞、同年の第1回日本航空美術展には「一機還らず」を出品して陸軍大臣賞を受賞した。同17年東光会会友となる。また、同年中支方面へ従軍画家として赴く。同18年東光会会員となった。同19年第8回海洋美術展に「大漁」を出品して海軍大臣賞受賞。同年春より終戦まで中支方面に出征し、この間にアトリエにあった作品全てを焼失した。戦後は第2回日展に「白服のM子」で初入選して以降日展に出品したほか、東光会への出品も続けた。同25年第6回日展に「いこい」を出品して岡田賞を受け、同26年日展依嘱。同42年第10回改組日展に「忙中の閑」を出品して菊華賞を受け、同46年日展会員、平成2年日展評議員、同4年日展参与となった。戦後間もない同21年より同45年定年退官するまで東京都新宿区牛込仲之小学校で教鞭をとる一方で制作をつづけ、明快な色面で構成した女性像を得意とした。昭和29年より板橋区に住んでおり、同56年9月板橋区立美術館で「山本日子士良展」が開催された。年譜は同展図録に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成6年版(334頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山本日子士良」『日本美術年鑑』平成6年版(334頁)
例)「山本日子士良 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10462.html(閲覧日 2024-04-20)

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