本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





倉田三郎

没年月日:1992/11/30

東京学芸大学名誉教授の美術教育者、洋画家の倉田三郎は、11月30日心不全のため東京都武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年90。INSEA(国際美術教育学会)第4代会長をつとめるなど美術教育に功績のあった倉田は、明治35(1902)年8月21日東京市牛込区に生まれた。東京府師範学校(青山師範学校)本科を経て、東京美術学校師範科へ進み、大正15年卒業した。在学中から中央美術展、二科展等に出品、同13年からは春陽会展に出品を続け、また、同年麓人社同人画会を結成した(昭和9年解散)。卒業の年、愛媛県師範学校教諭となり赴任、二年後に東京府立第二中学校へ転じた。昭和11年、第11回オリンピック・ベルリン展へ出品、同年春陽会会長に挙げられる。戦後は同24年東京学芸大学教授に就任、以後、美術教育における中心的存在として活躍し、同33年のバーゼル第10回国際美術教育会議日本代表をつとめたのをはじめ、美術教育に関わる国際会議及び研究のため約40カ国を歴訪した。一方、文部省の教材等調査研究中高委員、教育教員養成審議会委員、大学設置審議会専門委員などの政府委員も歴任した。同41年、東京学芸大学を定年退官し同大学名誉教授の称号を綬与され、また、同年のプラハ国際美術教育会議において、INSEA会長に選出された。この間、制作発表は春陽会展の他、九夏会(昭和9年結成)、個展等において行なった。同57年、多摩信画廊で「倉田三郎画業60年傘寿記念展」が、同62年には青梅市立美術館で「倉田三郎代表作展」が、平成3年にはたましん歴史・美術館開館記念「倉田三郎展」がそれぞれ開催された。著書に『バルカン素描』(昭和31年)、『造形教育大辞典』(編著、同32年)、『木村荘八・人と芸術』(同54年)などがあり、美術教育に関する論文も多数ある。

久保守

没年月日:1992/11/29

独自の詩情の漂う画風で知られた東京芸術大学名誉教授の洋画家久保守は、11月29日午後3時10分、呼吸不全のため静岡県沼津市の聖隷沼津病院で死去した。享年87。明治38(1905)年2月27日、札幌区に生まれる。同45年札幌区立北九条尋常小学校に入学し、大正3(1914)年同区立西創成尋常小学校に転校。同7年同校を卒業して北海道庁立札幌第一中学校に入学。課外クラブで林竹次郎に師事し、また三岸好太郎、俣野第四郎らを知った。この頃の作品には草土社の影響が見られる。同12年札幌第一中学校を卒業し、画家を志して上京。本郷絵画研究所、ついで川端画学校に学び、同13年東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助教室に学び、また石井鶴三の指導を受けた。昭和2(1927)年第5回春陽会展に「森の家」で初入選する。同4年生涯師とあおぐこととなった梅原龍三郎の知遇を得る。同年3月東京美術学校を卒業。翌4年3月渡仏し、アカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ一方、ルーヴル美術館でヴェラスケス等古典絵画の模写を行なう。また、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペイン等を訪ね、同年冬、カーニュで片山敏彦、中村博と共同生活を送った。同6年春イタリア各地を巡り、フレスコ画の質感に共感を覚え、後の制作への一指針を得た。同年10月帰国。まもなく北海道美術協会会員となる。渡仏中も春陽会展への出品を続けていたが、帰国の翌年、梅原龍三郎の勧めにより同会を退いて国画会に参加。同年の第7回国画会展に「巴里サン・ミシェル橋」「ノートルダム・ド・パリ」等滞欧作10点を出品して同会会友に推される。同12年、同会の会友制が廃止されたのに伴い国画会同人となる。同13年第2回新文展に「かんな」を初出品し入選。後、同14年第3回新文展に「群鶏」、同15年紀元2600年奉祝展に「甕」、同16年第4回新文展に「石庭」、同18年第6回新文展に「三つの林檎」を出品するなど、国画会の他に官展にも出品した。この間、同17年第6回佐分賞受賞。同18年国画会会員となり、同19年6月東京美術学校油画科講師、同年8月同科助教授となった。戦後は国画会の他に日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展に出品。同48年以降は国際形象展に招待出品した。同41年東京芸術大学教授となり、同47年停年退官、同年5月国画会をも退き、以後は団体に属さず、個展、国際形象展、在住地の世田谷美術展等に出品。同57年から毎年、東京日本橋三越で「久保守展」を開催した。同59年東京芸術大学名誉教授となる。同60年11月、静岡県伊東市八幡野立土にアトリエを建てて転居。同61年6月、郷里の北海道立近代美術館で「形象のソリスト-久保守展」が開かれ、初期から昭和50年代までの作品が展示された。初期には自然を再現的に描写する写実的作風を示し、滞欧期には人物画も多数描いたが、昭和30年代に入ると、静物画、風景画が多くなり、人物は幾何学的形体にデフォルメされて画面の一構成物として登場するようになった。色彩も梅原が初期から認めた独自の調和を持つパステル調の明るく淡雅なものへと変化した。代表作に、画家が少年期から好んだ音楽に関連する題材を描いた「残響」等がある。

平野遼

没年月日:1992/11/24

九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65。昭和2(1927)年2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同8年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。3年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同14年戸畑男子高等小学校を卒業。3歳で母を、同15年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。同20年除隊後戸畑に帰るが、同24年に上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同24年第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。同26年第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第17回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。同31年第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、同32年第21回同展に水彩画「飛べない蝶」を出品して2年連続して佳作賞を受け、同33年同会会員に推される。同34年第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。同37年、第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となった。同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。昭和61年12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)等がある。文章もよくし画文集『地底の宮殿』等の著書がある。

志村計介

没年月日:1992/11/13

洋画家で独立美術協会会員の志村計介は、11月13日肺炎のため横浜市中区の病院で死去した。享年89。明治36(1903)年10月11日横浜市に生まれる。大正14年旧制第二高等学校理科を卒業、昭和2年から同6年までの間、川端画学校、太平洋画会研究所に学んだ。その後、高畠達四郎に師事し独立展へ出品、同13年の独立第8回展に「夏の静物」で独立賞を受賞した。戦後も独立展に出品し、同23年独立美術協会会員となる。同35年から翌年にかけて渡仏する。また、同51年日伯美術連盟理事となり、翌年同連盟を代表し渡伯しリオデジャネイロでの日伯合同展開催に従事した。国際形象展招待の他、横浜美術協会顧問もつとめた。作品に「水辺裸婦」(昭和13年)、「樹立ち」(同38年)、「箱根風景」(同49年)などがある。

高田力蔵

没年月日:1992/10/31

春陽会会員で西洋の名画の模写でも知られた洋画家高田力蔵は、10月31日午後10時25分、腹膜炎による心不全のため東京都板橋区の帝京大病院で死去した。享年92。明治33(1900)年10月18日、福岡県久留米市に生まれる。川端画学校に学び石井柏亭に師事。この頃フランスの画家アルベール・マルケに私淑する。昭和2(1927)年第14回二科展に「岬端風景」で初入選。以後同11年まで連年入選。同11年ベルリン・オリンピック芸術競技に出品し銅賞を受けた。同12年渡仏し、パリのアカデミー・グランショーミエールに学ぶ。また、ルーヴル美術館で古画を模写し、同13年パリ日本美術家展にアングルの「泉」、ブリューゲルの「乞食の群れ」の模写を出品して日本大使館より奨励賞を受ける。同14年第二次世界大戦勃発のため米国を経由して帰国。同15年春陽会会員となる。同17年、日本の祭礼を主題とするシリーズ制作にとりくみ、同17年「相馬の野馬追い」、同18年「鹿島神宮御船祭」、同19年「福岡県大善寺鬼夜祭」を描いて春陽会に出品する。同20年4月、戦火で東京のアトリエを焼失して郷里久留米に疎開。大分県の九重山飯田高原、久住高原の自然に魅せられて連作を制作。同33年東京三越本店で個展を開き九重山群の諸作を展観する。同37、39年にも同店で個展を開き、皇居周辺の風景画を展示。同40年2度目の渡仏をし、ルーヴルで古画を模写するとともに同42年ジャック・マレシャルに油絵修復技術を学んだ。同年モスクワ、レニングラード、キエフ等を経て帰国。同46年仙台市の依嘱でイタリアへ渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある「支倉常長」像を模写した。その後も、同47、52、54、56、57年に渡仏して古画の模写を行なった。平成2(1990)年、昭和13年から描き続けてきた模写作品の所蔵品のうち20点を東京都北区に寄贈。これを機に、「北区北とぴあオープニング記念 第1回西洋名画模写作品展」が開催され、翌3年に北区北とぴあで「第2回西洋名画模写作品展」、同4年に北区滝野川会館オープニング記念として「第3回西洋名画模写作品展」が開かれた。手がけた模写作品には、石橋正二郎の依頼によるジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」、ターナーの「雨・蒸気・速力」、アングルの「トルコ風呂」、北区に寄贈したレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」等がある。昭和51年より日本美術家連盟委員、同61年より平成元年まで同連盟監事をつとめた。

高田誠

没年月日:1992/10/24

文化功労者で日展理事長、一水会運営委員等をつとめた洋画家高田誠は、10月24日午後2時37分、肝不全のため浦和市の市立病院で死去した。享年79。大正2(1913)年9月24日、埼玉県北足立郡に生まれる。同15年埼玉県立男子師範付属尋常高等小学校を卒業して、埼玉県立浦和中学校に入学。在学中、跡見泰、相馬其一の指導を受け、昭和4(1929)年、第16回二科展に「浦和風景」で初入選し早熟な画才を示した。翌5年安井曽太郎を訪ね、以後安井に師事。同6年浦和中学校を卒業。同年、安井の紹介で二科技塾に入り、熊谷守一、安井曽太郎、石井柏亭、山下新太郎、有島生馬らの指導のもとに学んだ。二科展には同11年第23回展まで出品したが、同年12月に安井らによって一水会が創立されると同会に参加。翌12年第一回展から一水会を中心に活躍した。同13年第2回一水会展に「山村秋日」「中綱湖」「湖畔秋色」「磐悌山」を出品して一水会賞受賞。同16年一水会が新文展にも参加することとなり、同年の第4回新文展に「秋の静物」で初入選。同17年第5回新文展には「松原湖辺」を出品して特選となった。戦後は日展、一水会展を中心に制作を発表。同21年第8回一水会展に「信濃路」「静物」を出品して同会会員となり、また、同年の第2回日展に「山の貯水池」を出品して特選を受賞した。日本国際美術展、現代日本美術展にも第1回展から出品。同33年社団法人日展の発足に伴い日展会員となり、同37年日展評議員となる。また同35年一水会運営委員、同36年埼玉県美術家協会会長となった。同43年第11回社団法人日展に「雑木林のある雪景」を出品して文部大臣賞受賞。同44年春、一ケ月あまり欧州を巡遊。同47年、前年の第3回改組日展出品作「残雪暮色」によって日本芸術院賞を受賞。同53年文化庁創設10周年記念功労者として表彰され、また日本芸術院会員に任命される。同58年より3年間日展理事長をつとめ、同62年文化功労者に選ばれた。風景画、静物画を多く描き、昭和10年代に中間色による点描でリズミカルな画面を構成する作風に移行した。戦後は写生にもとづきながらも、対象の形、色彩に意図的な改変を加えて明朗なリズムと調和を画面にもたらす傾向が強まった。昭和30年より42年まで埼玉大学教育学部美術科講師、同55年から同62年までは玉川大学客員教授をつとめ、美術教育にも尽くしたほか、同51年より安井曽太郎記念会の理事・評議員となって安井賞の運営に尽力した。同54年『高田誠画集』(大日本絵画巧芸美術刊)が刊行され、同60年「高田誠展」(朝日新聞社主催)が開かれており、画歴はそれらに詳しい。

深見公道

没年月日:1992/10/18

洋画家で主体美術協会の創立会員深見公道は、10月18日気管支閉そくのため神奈川県足柄下郡湯河原の湯ケ原厚生年金病院で死去した。享年70。深見は大正11(1922)年1月18日、福岡県久留米市に生まれた。福岡県立中学明善校を経て、東京美術学校油画科へ進み、学徒出陣のため昭和19年9月卒業した。戦後間もなく、朝日新聞社、ついで西南女学院に勤務ののち上京する。はじめ自由美術家協会に出品し、同31年同協会会員に推挙されたが、同39年森芳雄らとの主体美術協会結成に参加し創立会員となる。以後、同展を中心に制作発表を行うとともに、三月会展(日動画廊、同46-50年)、九州人脈展(同51年)、国際形象展(同58、59、61年)などに出品、また美術ジャーナル画廊(同55年)、下村画廊(同56年)、東急本店美術画廊(同54-平成4年)などで個展を開催した。この間、同32年に門司バプテスト教会で洗礼を受けた。また、同40-55年の間、和泉短期大学で、同55-65年の間は玉川学園女子短期大学でそれぞれ教授をつとめた。作品に、「冬山」(同50年)、「山湖」(同63年)、「真鶴の丘」(平成2年)などがある。没後、平成5年1月に東急本店美術画廊で遺作展が開催された。

福沢一郎

没年月日:1992/10/16

洋画家で文化勲章受章者の福沢一郎は、10月16日肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年94。昭和初年にわが国へシュール・レアリスム絵画を導入したことで知られる福沢は、明治31(1898)年1月18日、群馬県北甘楽郡に、福沢仁太郎の長男として生まれた。福沢家は富岡の旧家で、祖父は富岡製糸場に関係し製糸業を営み、また富岡銀行を興した事業家であった。父仁太郎は明治学院で島崎藤村と同窓で、家業を継いだが西洋の事物に明るくハイカラな人物であったという。県立富岡中学校から第二高等学校英法科へ進み、在学中ドイツ語教授登張竹風に芸術に対する感化を受け、また、彫刻に興味を抱き彫刻や油絵を独習した。大正7(1918)年、二高を卒業し東京帝国大学文学部へ入学したが、次第に大学から遠ざかり、朝倉文夫に入門し彫刻を学んだ。同10年、朝倉らの蛮呶羅社彫刻展に出品、翌11年には本にアトリエを設け、同年の第4回帝展彫刻部に「酔漢」が入選した。同13年彫刻研究を目的に渡仏、木内克、森口多里らと親交する一方、エコール・ド・パリの空気に触れるなかで、次第に絵画への関心を強めていき、同年のサロン・ドートンヌに「ブルターニュ風景」が入選した。同14年夏から高畠達四郎、中山巍と同じアトリエ部落(ロンヌ街32番地)に住み、以後6年間を過す。この間、はじめシャガールの作風にひかれたが、昭和4(1929)年頃から、デ・キリコ、マックス・エルンストの作品に強い刺激を受け、シュール・レアリスムのコラージュの手法を用いた作品を制作し始めた。同4年、第16回二科展に中山巍の推薦で、「シーン」「横たわる女」など10点が特陳され、また、1930年協会会員となる。同5年、独立美術協会結成に高畠、中山らの勧めで参加し、翌年の第1回展に、「科学美を盲目にする」「よき料理人」など、エルンストのコラージュ技法に影響を受けた作品37点が特別陳列され、大きな反響を得た。同年帰国し、第2回展以後、独立展でシュール的手法による社会批判、社会諷刺を強めた作品を発表する。同9年、満州(中国東北部)に清水登之、鈴木保徳と遊び、このとき得たモチーフによる作品、第5回独立展出品作「水泳群像」、第6回同展「牛」あたりから、諷刺的内容を離れて、劇的な主題、自己の思想性を大画面に象徴化する方向へと転じた。同14年、第9回独立展に「洪水」1、2を出品したが、4月に独立美術協会を退会、5月に麻生三郎、古沢岩美、寺田政明ら、独立や二科のシュールレアリスム、抽象主義の前衛的傾向を持つ同志と美術文化協会を結成、翌15年の第1回展に「鳥」「苦力群像」を発表した。しかし、美術文化協会結成後、その月次例会に特高刑事がしばしば出入するなど活動が監視され、翌16年4月5日、超現実主義者は共産主義者なりとの嫌疑で世田谷署に連行され、10月10日まで同署に拘置された。戦後は美術文化協会展に引き続き制作発表を行ったのをはじめ、同21年には美術界の民主化を目ざして結成された日本美術会の発起人として名を列ね、また、翌年には日本アヴァンギャルド美術家クラブの結成にも参加した。しかし、同24年の第9回展に「新緑」を出品したのを最後に美術文化協会を脱退し無所属となり、日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)、秀作美術展などに作品を発表した。同27年、文化自由委員会の日本代表として国際フェスティバル参加のためパリへ赴き、その後スペインを旅行、翌年にはサンパウロへ渡り8ケ月間滞在し、翌29年早々からメキシコに5月まで滞在したのち6月に帰国した。帰国の年の第1回現代日本美術展に「アマゾンの人間たち」を出品する。同31年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。同32年、第4回日本国際美術展に「埋葬」を出品し日本部の最優秀賞を受け、同37年の第5回現代日本美術展では「黒人霊歌」で国立近代美術館賞を受賞した。この間、同29年に美術文化協会建て直しのため再入会したが、同32年には再び脱会する。同40年にはニューヨークに滞在しハーレムの黒人たちをモチーフに精力的に制作、この前後、画面は朱、緑、黄、黒などの線条による強烈なものとなった。同46年からは、ダンテの『神曲』からのモチーフによる作品、さらに、日本の地獄説話からのモチーフによる地獄絵の制作へと向い、アクリル絵具を用いた色彩は朱を中心に更に強烈となった。同47年には東京駅中央口にステンドグラス「天地創造」を制作する。同49年、東京セントラル美術館で個展「厭離穢土欣求浄土」を開催、また、同年開館の群馬県立近代美術館に初期から近作に至る46点を寄贈した。同53年、国立国際美術館で「地獄絵・福沢一郎の世界」展が開催される。この間、昭和35年に多摩美術大学教授に就任、同37には女子美術大学教授を兼ね後進の指導にあたり、同43年には多摩美術大学学長事務取扱もつとめた。同47年、富岡市名誉市民の称号を受け、同53年には文化功労者に選任される。平成2年、多摩市にワンマン美術館である東京国際美術館が開設され、翌3年には文化勲章を受章した。80歳を越えても各地に大壁画を制作し、活発な新作発表を行った。画集に『福沢一郎画集』(求龍堂、昭和44年)、『福沢一郎作品集』(小学館、同62年)などがある他、新聞、美術雑誌等への執筆は昭和6年以来すこぶる多い。なお、年譜、文献に関しては、「福沢一郎展」図録(群馬県立近代美術館、世田谷美術館、昭和63年)に詳しい。

富成忠夫

没年月日:1992/09/25

読み:とみなりただお  画家として活動する一方で植物を被写体とした写真を撮り続け、「植物写真」の分野を確立した富成忠夫は、9月25日午後0時15分、東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年73。大正8(1919)年8月17日、山口県下関市に生まれる。昭和17年東京美術学校油画科を卒業し、同22年自由美術家協会会員となった。同展には「アイロンをかける女」(同25年第14回)、「室内」(同26年第15回)、「黒い屍」(同27年第16回)、「ジャズ」(同28年第17回)、「崩壊」(同30年第19回)等を出品したが、同32年第21回展に「老いたユニコーン」を出品後同会を退く。同33年からは美術グループ「同時代」の活動に同45年まで参加。その後は写真の仕事に傾き、植物写真家として活躍した。代表作に写真集『森の中の展覧会』があり著書に『日本の花木』『野草ハンドブック』等がある。「週刊朝日百科・世界の植物」の編集委員をもつとめた。

朝比奈文雄

没年月日:1992/08/13

洋画家で日展評議員の朝比奈文雄は、8月13日肺炎と心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正3(1914)年10月20日東京都新宿区に生まれる。昭和7年から小絲源太郎に師事し油絵を学び、光風会展に出品した。戦後は光風会展、日展を中心に制作発表を行い、同24年の第5回日展に「画室静物」で特選、同年の光風会展に「お茶時」で岡田賞、同26年の光風会展に「永代橋」で南賞をそれぞれ受けた。同32年、最初の個展を東京・銀座求龍堂で開催する。同35年改組第1回日展に「黒い門」を出品し、第1回菊花賞を受賞。同37年第5回日展に審査員をつとめ、翌年から同39年にかけて渡欧。同39年日展会員となる。のち、日展評議員。

布施悌次郎

没年月日:1992/07/14

洋画家で元太平洋美術会会長の布施悌次郎は、7月14日脳こうそくのため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年90。明治34(1901)年10月1日宮城県仙台市に生まれ、大正14年仙台東亜学院専門部英文学部を卒業、上京後翌年太平洋画会研究所へ通う。太平洋画会展へ出品を続け、昭和3年太平洋画会賞を受け会員に推挙され、同6年には太平洋画会委員となった。戦後の同32年、太平洋画会が太平洋美術会と改称され同会委員、翌年から太平洋美術学校教授をつとめる。のち、太平洋美術会会長。

別府貫一郎

没年月日:1992/07/13

洋画家で新世紀美術協会委員の別府貫一郎は、7月13日東京都青梅市の青梅慶友病院で死去した。享年92。戦後間もなく日本美術会委員長もつとめた別府は、明治33(1900)年6月19日佐賀県藤津郡に生まれた。大正7年台北第一中学校を第四学年で中退、上京後同10年から2年間川端画学校に通い藤島武二の指導を受けた。同15年第4回春陽会展に「淡水」等5点を出品し春陽会賞を受賞する。昭和4年から同8年までイタリアに滞在し、帰国の年の第11回春陽会展に「ヴィルラ・ノォヴァの眺め」等23点の滞欧作が特別陳列され、昭和洋画奨励賞を受けた。同年、春陽会会員に推挙されたが翌9年退会する。同10年から翌年にかけ再渡欧、帰国後滞欧作「フィレンツェ」等10点が特陳され国画会会員となる。同年、文展招待展に出品し、以後新文展にも無鑑査出品した。同15年国画会を退会する。戦後は、同21、22年の日展委員、同25、26年の読売新聞社主催アンデパンダン展委員をつとめたのをはじめ、同26年10月には日本美術会委員長に選出され同28年までつとめた。その後、一線美術会、新世紀美術協会に所属した。

増田正三郎

没年月日:1992/06/22

行動美術協会会員の洋画家増田正三郎は6月22日午前2時43分、肝不全のため兵庫県三田市の平島病院で死去した。享年54。昭和13(1938)年1月15日、兵庫県西宮市に生まれる。兵庫県立鳴尾高校を卒業、河野通紀に師事し、同33年第13回行動展に「建物」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年第21回展に「作品う」「作品あ」を出品して奨励賞を受け、会友に推挙される。同50年シェル美術賞展に入選。同53年第33回行動展に「青い画用紙」を出品して会友賞受賞。同54年安井賞展に出品。翌55年第35回行動展に「五つの立方体」を出品してF記念賞を受け、会員に推挙された。同年渡欧。同63年インドへ、翌64年中国へ旅する。同50年代中葉までは、破れた布、紙などをモティーフに写実と空想を織りまぜた画風を示したが、50年代後半から幾何学的構成へと傾斜し、青い色面による「青の世界」のシリーズ等を制作した。平成2(1990)年個展「青の世界」(画廊ぶらんしゅ)を開催。没する同4年には西宮市鳴尾会館に陶板壁画を制作している。西宮美術協会会員で、同会副代表もつとめ、西美芸術文化協会会員でもあった。

杉本亀久雄

没年月日:1992/06/12

洋画家でモダンアート協会創立会員の杉本亀久雄は、6月12日敗血症のため大阪市住吉区の大阪府立病院で死去した。享年71。大正9(1920)年6月19日奈良市で生まれる。大阪府立住吉中学校を経て昭和19年関西学院大学を卒業する。卒業後毎日新聞社に入社、同41年まで在職し、大阪本社学芸部美術記者をつとめたが、同年9月画業に専念するため同社を退社した。この間、はじめ自由美術家協会展に出品し、同24年自由美術家協会会員となったが、翌25年、同協会の村井正誠ら抽象系作家が分離独立して結成したモダンアート協会に創立会員として参加、以後同展への出品を続けた。また、同41年には第1回目の個展を東京・日動サロンで開催、翌年には大阪・梅田画廊で個展を開き、その後隔年おきに日動画廊本・支店で個展を続けた。モダンアート協会展への出品作に「アッシジ遠望」(第15回)、「砂漠」などがある。なお、夫人は作家の山崎豊子。

金光松美

没年月日:1992/05/11

米国ロサンゼルス市居住の洋画家金光松美は、5月11日肺ガンのため同地で死去した。享年69。金光は広島市出身の移民を父に、米国ユタ州オグデン市に生まれ、3歳で帰国し日本で教育を受け、旧制中学校卒業後の昭和15(1940)年再び渡米した。ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで国吉康雄らに学び、第二次大戦中は欧州戦線に従事し、レジエなどに師事した。戦後、墨絵と抽象画を融合した独自の画風に向い、1950年代以降抽象表現主義の旗手の一人としてニューヨークで活躍、また、1950-60年代初めにかけてジャックソン・ポロックやデ・クーニングらと交友した。1962年、ニューヨーク近代美術館の「十四人のアメリカ人」展の一人として出品する。1960年代に入り、フランス、イタリア、ハワイ、サンフランシスコと巡り、1965年にロサンゼルスに移り、リトル・トーキョーの自宅を拠点に創作活動を展開した。作風は次第に東洋的、叙情的な抽象画へ向い、また、リトグラフ制作にも力を注いだ。1967年の国際青年美術家展で日本文化フォーラム賞を受賞。代表作に「白と黒」(ニューヨーク近代美術館蔵)などがある。1983年までカリフォルニア州立大学バークレー校で教えた。

菅谷邦敏

没年月日:1992/05/05

読み:すがやくにとし  日展評議員、光風会会員の洋画家菅谷邦敏は、5月5日正午、呼吸不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年79。大正3(1914)年2月2日、栃木県栃木市に生まれる。昭和11(1936)年中央大学法学部を中退。川崎市富士電機株式会社に務めるが、同20年から小絲源太郎に絵を学び、同21年第1回日展に「人形ノアル静物」で初入選。以後日展に出品を続け、同22年第3回展に「飾棚」を出品して特選、同25年第6回日展に「雨」を出品して再び特選を受賞した。また、同22年第33回光風会展に「ギヤマンのある静物」で初入選するとともに光風賞を受け、同年同会会員となった。同36年渡欧し翌年帰国。同年の第5回社団法人日展に「飛行機雲」を出品して菊華賞を受賞。同40年日展会員、同57年同評議員となった。初期には静物画を中心に制作したが、後、風景画を多く制作するようになり、雪景、水のある風景などを描くことを好んだ。

尾田龍

没年月日:1992/05/01

読み:おだりゅう  国画会会員の洋画家尾田龍は5月1日午前9時12分、急性心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年85。明治39(1906)年8月21日、兵庫県姫路市に生まれる。大正14(1925)年姫路中学を卒業して上京。川端画学校に学び、翌15年に東京美術学校西洋画科に入学するが、当初は文学や演劇に熱中した。昭和3(1928)年より川島理一郎の金曜会に出席する。同4年、進学とともに絵画に専念し、同年の第16回二科展に「朝の聖堂」で初入選。同年1930年協会展にも「虚墟」「工事場」で入選し、第1回国際美術協会展に「雨後」「麦畑」を出品して国際美術協会賞を受けた。翌5年にもこれらの会に出品。同6年東京美術学校を卒業する。同7年東京市一橋高等小学校美術教師となり、以後59歳で姫路西高校を退くまで長く教職にあって画業を続けた。同12年まで二科会に出品したが、翌15年より国画会に参加、同19年同会会友となった。同20年戦火を避けて帰郷。同21年第20回国画会に「塑像」「菩薩像」を出品する一方、姫路市展開設委員となり、その第1回展に「菩薩頭」「明月」「門」を出品して姫路市長賞を受けた。以後、同展と国画会展を中心に活動。同27年国画会会員となる。同28年富士製鉄株式会社(同45年新日本製鉄となる)の季刊誌に表紙絵を依頼されたことから製鉄に取材した作品を描くようになり、同33年第32回国画会展に「製鉄所の人々(熔鉱炉)」「製鉄所の人々(平炉)」を出品して以降「鉄をつくる」を主題に連作を続け、同42年に至った。同42年中近東、ヨーロッパ、同43年ケニア、タンザニアを訪れ、同51年にはソ連を経由して英、西、ベルギー等を旅した。この間、同44年姫路文化賞、同50年兵庫県文化賞を受賞。同48年より同57年まで姫路学院女子短大教授をつとめた。同54年大阪日動画廊で「尾田龍画業50年記念展」、同61年に姫路市立美術館で「画業60年 尾田龍展」、同年姫路のヤマトヤシキ百貨店で「傘寿記念 尾田龍の世界」展が開かれており、画集に『アフリカスケッチ 尾田龍』(昭和45年)、『尾田龍画集1982』(車木工房出版 同57年)、自叙伝に『春風秋雨』(同61年)がある。

胡桃沢源人

没年月日:1992/03/23

読み:くるみざわげんじん  日展参与で東光会関西支部長をつとめた洋画家胡桃沢源人は、3月23日午前1時15分、老衰のため長野県松本市の親類宅で死去した。享年89。明治35(1902)年8月6日、長野県松本市に生まれる。本名源市。大阪美術学校西洋画科に学び、同校在学中の昭和3(1928)年第9回帝展に「小犬」で初入選。翌4年同校を卒業ののち斎藤与里に師事した。官展に出品を続ける一方、斎藤与里らが創設した東光会展に同7年の第1回展から参加し、同年同会友、同10年同会員となった。同16年第4回新文展に「秋苑」を出品して特選、翌年第5回同展に「鳥禽舎」を出品して再度特選を受賞。同33年日展会員となる。大阪市立美術研究所講師として後進を指導するとともに、同39年4月に開校した浪速芸術大学の美術科教授をつとめ、美術教育にも尽力。花や小動物をモティーフに、平面性を強調した明るい画風を示した。

栢森義

没年月日:1992/03/04

読み:かやもりよし  新世紀美術協会創立会員の洋画家栢森義は3月4日午前6時10分、肺しゅようのため東京都小金井市の自宅で死去した。享年90。明治34(1901)年11月9日、新潟県南蒲原郡に生まれる。本名政義。大正10(1921)年新潟県立三条中学を卒業して上京し、本郷洋画研究所に入る。岡田三郎助に師事。同15年第1回1930年協会展に入選。昭和2(1927)年第8回帝展に「浴後」で初入選。同3年第9回帝展に「赤い布を持つ婦人像」,同4年第10回帝展に「ピアニストN嬢」で入選する。同8年第20回光風会展に「食後」「食事」「若き婦人」「肖像」を出品して光風賞受賞。同9年第15回帝展に「K氏座像」で入選。同11年文展鑑査展に「微風」で入選する。新文展には同12年第1回展から出品し、同15年紀元2500年奉祝展に「緑蔭」を出品。この間の同13年光風会会員となる。翌16年の第5回新文展には「緑苑肖像」を無鑑査出品。同17年戦時特別展に「国土豊穣」を出品する。戦後は同22年第3回日展に「窓際」を出品し同24年第5回展まで日展に出品したほか、光風会展にも出品したが、同25年双方から退いた。同31年和田三造、大久保作次郎らが中心となって創立することとなった新世紀美術協会展に第1回展から参加。同34年第4回同展に「眠りオルガン」を出品して黒田賞、同51年第21回展では「いたち」で大久保賞、同53年第23回展では「愁夜曲」で和田賞を受賞した。初期には人物を配して季節の移りゆき等を表わし、写実を重視した作風を示したが、戦後は写実から離れ色や形の面白さを追求した詩的な画風へと展開した。昭和35年頃からガラス絵も描いており、明快な色調、平面的な画面構成の試みがなされている。平成3年、次男で画家の栢森琢也の編集になる『栢森義画集』が刊行された。

深谷徹

没年月日:1992/02/27

洋画家で日展評議員、創元会常任委員の深谷徹は、2月27日東京都千代田区の病院で死去した。享年78。大正2(1913)年11月22日群馬県前橋市に生まれる。本名徹。昭和8年群馬師範学校を卒業し教職に就いたが、その後上京し日本大学へ進み、同15年中退し再度郷里で教職についた。戦後再上京し、同28年渡仏、翌年までパリでグラン・ショミエールへ通い、同29年からはスペインへ転じマドリッド美術学校でフレスコ画を修め、翌30年帰国した。創元会展、日展に出品し、同27年の日展に「とりかごのある静物」で特選となった他、日仏具象派協会を結成し同31年第1回展を開催、また同年国際具象派協会展に参加した。同40年の日展出品作「集落」で日展菊華賞を受賞。風景画、静物画をよくし、晩年は郷里の風景をモチーフに多く描いた。

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