本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





北久美子

没年月日:2019/05/06

読み:きたくみこ  画家の北久美子は、5月6日、脳梗塞により死去した。享年73。青空を背景に精緻で色彩豊かな動植物を描き、現代の花鳥画ともいうべき油彩画によって知られた。 1945(昭和20)年12月に大阪府池田市で生まれ、大阪市に転居。高校在学中に絵画を志し、浪速短期大学(現、大阪芸術大学短期大学部)で鍋井克之に学ぶ。 66年、浪速短期大学美術科卒業。同年第20回記念二紀展に初入選し、以後毎回出品。73年、女流画家協会展初入選、以後毎回出品。74年、坂崎乙郎企画による個展開催(紀伊国屋画廊)。75年に二紀会同人に推挙され、80年より会員となる。86年、日本青年画家展優秀賞受賞。1989(平成元)年、「夢想植物園」が文化庁買い上げとなり、『北久美子作品集 夢想植物園』を刊行。1990(平成2)年、「夢想植物園…Y」で第33回安井賞展に入選、安井賞を受賞。文化庁芸術家在外研修員としてスコットランド、オランダ、フランスに特別派遣。95年、第49回二紀展文部大臣奨励賞受賞。同年、横浜市内に自宅・アトリエを構える(関東への移住はこれより早く、80年時点では東横線祐天寺駅の近く、その後、横浜市磯子区の古民家をアトリエとし、隣接する空き地の植物や鳥獣の姿に刺激を受けた)。個展の開催、グループ展への出品を重ねる。2005年、大阪芸術大学美術学科客員教授(油画コース)となり、08年より同教授。12年、長岡大学非常勤講師。同年『DOMANI・明日展45周年特別展示』に出品(国立新美術館)。16年、「北久美子」展開催(池田20世紀美術館)。

笠木實

没年月日:2018/08/27

読み:かさぎみのる  春陽会会員の洋画家笠木實は、8月27日に没した。享年98。 1920(大正9)年1月1日、群馬県桐生市に、市内でも有名だった魚問屋「魚萬」を経営し、さらに冷凍工場やバスやタクシー会社を経営していた笠木萬吉の次男として生まれる。はやくから美術に関心を寄せるようになり、桐生中学校在学中の1935(昭和10)年の夏休みに東京にあった西田武雄が主宰するエッチング研究所に通い、銅版画プレス機を購入した。同年12月、西田の紹介で同舟舎研究所に入所して田辺至の指導を受けた。37年、東京美術学校油絵科入学。同期には清宮質文、また一学年下には駒井哲郎がいて交友。同学校在学中から、日本版画協会、国画会展にエッチングを出品。41年12月、同学校を繰り上げ卒業。翌年6月には、桐生倶楽部(桐生市)にて個展を開催。同年7月には第3回日本エッチング作家協会展に出品。43年には、日本版画協会の会員となる。44年、45年とつづけて応召するが、同県下高崎の部隊に配属後に終戦となり除隊。戦後は、前橋市出身の南城一夫に師事し、油彩画に専念することをすすめられ、48年から南城と同じ春陽会に出品するようになった。また、49年には桐生美術協会結成にあたり副会長となり、同年開催の群馬美術展で知事賞を受賞。50年に上京して、岡鹿之助宅に寄寓。51年には春陽会賞を受賞、55年に同会会員となる。64年に武蔵野美術大学の共通絵画研究室に赴任して、以後1990(平成2)年に定年になるまで指導にあたった。68年に東京都小平市にアトリエを設けて転居、以後武蔵野の自然をモチーフに柔和な作品を描きつづけた。 2001年4月、渋谷区立松濤美術館にて「今純三・和次郎とエッチング作家協会」展が開催され、草創期の同協会の画家として青年期のエッチング6点が出品された。また12年12月には、和歌山県立近代美術館に寄贈した作品をもとに、コレクション展として「笠木實と日本エッチング研究所の作家たち」が開催された。17年6月には、桐生歴史文化資料館(桐生市)にて回顧展「笠木實の足跡と魚萬笠木萬吉」展が開催された。また、はやくから雑誌の挿絵、絵本のための絵を描き、若いころからスキー、釣り、山歩きを趣味としていたところから、画文集『魚狗の歌』(二見書房、1974年。96年に平凡社ライブラリーから『画文集 イワナの歌』として再刊)、『岩魚の谷、山女魚の渓』(白日社、1994年)等を残した。

村田省蔵

没年月日:2018/07/14

読み:むらたしょうぞう  日本芸術院会員の洋画家村田省蔵は7月14日午前1時8分、肝臓がんのため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年89。 1929年(昭和4)6月15日、金沢市上堤町に生まれる。生家は生糸問屋を営む。42年、金沢県立第二中学校に入学。44年海軍飛行予科練習生として滋賀航空隊に入隊する。45年の終戦により金沢第二中学校に復学。同年10月に金沢地方海軍付属海軍会館を石川県美術館として開催された第1回現代美術展を訪れて宮本三郎の作品に感動し、画家を志す。46年10月金沢美術工芸専門学校予科に入学し、洋画を専攻して高光一也、宮本三郎に師事。同校での同級生に鴨居玲がいる。49年第35回光風会展に金沢美術工芸専門学校の中庭に集う学生たちを階上から見下ろした「昼近き中庭」で初入選。また、同年、同作と並行して制作していた「診療室の女医さん」で第5回日展に初入選。50年金沢美術工芸専門学校(現、金沢美術工芸大学)洋画科卒業、引き続き研究科に在籍。同年第36回光風会展に「窓辺の女」を出品してムーン賞受賞。同年から小絲源太郎に師事。51年上京し、引き続き小絲の指導を受け、59年第45回光風会展に「渡船場」を出品して会友賞受賞。61年第4回日展に「河」を出品して特選受賞。65年3月日本橋三越で初個展開催。66年光風会を退会する。67年秋、横浜港からモスクワ経由でパリに渡り、ヨーロッパ、アメリカを訪れて68年に帰国。同年、第11回日展に「箱根新涼」を出品して菊華賞受賞。72年および74年にメキシコに旅行する。74年日展審査員となり75年に同会員となる。79年、フランス、スペインを旅する。81年訪中。82年イタリアへ、84年、アメリカ旅行。86年に北海道富良野を訪れ、以後、北海道シリーズを描く。1989(平成元)年、インドネシアのバリ島、イタリアのシチリア島へ旅行。90年から日展評議員をつとめる。93年新潟県長岡市岩室には稲架木の取材に訪れ、以後、稲架木のある風景を好んで描く。98年第30回日展に稲架木のある冬景色を描いた「春めく」を出品して内閣総理大臣賞受賞。2005年第37回日展にやはり稲架木のある冬景色を描いた「春耕」を出品し、06年に同作によって恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。同年12月に日本芸術院会員となる。07年に『村田省蔵画集』(北国新聞社)が刊行される。09年9月東京日本橋三越にて「村田省蔵 画業60年 傘寿記念展」を開催。11年5月北國新聞社主催により北國文化交流センターで「画業60年の軌跡」展を開催。12年イタリア、ボローニャに取材旅行。13年1月、郷里の石川県立美術館で「村田省蔵 画業60年の歩み」が開催され、1948年制作の自画像から2012年第68回現代美術展出品作「冬野」まで94点が展観される。年譜は同展図録に詳しい。金沢市が戦後、市民の昂揚のために設立した現代美術展には48年の第4回展から出品を続けたほか、00年に金沢学院大学美術文化学部教授、12年には同名誉教授となるなど、郷里の美術活動に長らく寄与した。初期には人物を主なモチーフとしたが、50年代後半から風景画を中心に描くようになり、67年の渡欧、72年のメキシコ旅行を経て、明るく豊かな色彩を特色とする都市風景画を多く制作した。80年代には北海道の大地を、90年代以降は稲架木のある景色を好んで、自然と人の営みが織りなす風景を描いた。没後の2019(令和元)年6月、石川県立美術館で所蔵作品27点を展観する「没後1年村田省蔵展-大地を描く」展が開催された。

村上肥出夫

没年月日:2018/07/11

読み:むらかみひでお  画家の村上肥出夫は、7月11日、岐阜県下呂市の老人福祉施設で 敗血症のため死去した。享年84。 1933(昭和8)年12月19日、岐阜県土岐郡肥田に生まれる。45年、警察官だった父の定年により、実家のあった岐阜県養老郡養老町に戻る。48年、同県養老郡高田中学校を卒業、卒業後さまざまな仕事をしながら、ゴッホに憧れて絵を独学する。53年に画家を志望して上京、コック見習い、サンドイッチマンなどの仕事をしながら絵を描きつづけた。61年4月頃、銀座並木通り路上で自作を販売していたところ、彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介で兜屋画廊社長西川武郎を知り、以後西川の援助で都内にアトリエを持つことになり制作に専念。62年5月、毎日新聞社主催第5回現代日本美術展に、「タワー」、「九段」の2点入選。同年12月の第6回安井賞候補新人展(会場、東京国立近代美術館)に「タワー」、「本郷」が出品され、最終審査まで残るが受賞には至らなかった。63年2月、「村上肥出夫油絵展」(銀座、松坂屋)開催、150点余りの新作を出品。同展は、名古屋市、大阪市にも巡回。同展を契機に、新聞雑誌に取り上げられるようになった。同年4月から8月、パリに遊学。64年4月にはニューヨークに旅行。同年11月、「村上肥出夫 油絵・素描展 巴里・紐育・東京を描く」展(銀座、松坂屋)を開催、油彩画100点、素描・水彩画50点余りを出品。見いだされた「放浪画家」  、「放浪の天才画家」などとジャーナリズムで再び評されるようになった。71年6月、「村上肥出夫新作油絵展」(銀座、松坂屋)開催。この個展に際し、すでに村上作品を数点コレクションしていた川端康成は、「構図の整理などに、多少のわがままが見えるにしても、豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う。」(「『村上肥出夫新作油絵展』に寄せて」)と評した。72年、パリに滞在して制作、同年のサロン・ドートンヌに出品して銀賞受賞。79年、岐阜県益田郡萩原町の下呂温泉近くに自宅アトリエを構え、東京より移住。1997(平成9)年2月、自宅アトリエ一棟が全焼、98年3月失火により自宅居間が焼ける。この火災による精神的なショックにより体調を崩し、岐阜県高山市の病院に入院。2000年以降、毎年、兜屋画廊をはじめ各地の画廊で展覧会が開催され、04年9月には、「村上肥出夫と放浪の画家たち―漂泊の中にみつけた美」展が大川美術館(群馬県桐生市)にて開催。また、16年4月には、「村上肥出夫―魂の画家」展が東御市梅野記念絵画館にて開催された。 60年代、ジャーナリズムから一躍脚光を浴びて美術界に登場したが、抽象表現主義やダダ的な前衛美術の興隆のなかで、新たな具象表現を模索する流れを背景に、純粋でいながら大胆な表現をつづけた独創の画家だった。生前には、エッセイ集『パリの舗道で』(彌生書房、1976年)があり、また池田章監修・発行『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』(2016年)、ならびに同画集『補遺小冊子』(2016年)、『補遺小冊子2』(2019年)、『補遺小冊子3』(2021年)が刊行されている。

宮崎進

没年月日:2018/05/16

読み:みやざきすすむ  多摩美術大学名誉教授の造形作家宮崎進は5月16日心不全のため死去した。享年96。 1922(大正11年)2月15日、山口県徳山市(現、周南市)に生まれる。1928(昭和3)年徳山尋常高等小学校に入学。35年に岸田劉生の画友であった徳山在住の洋画家前田麦二(米蔵)の指導を受け、油彩画を学ぶ。芝居小屋に出入りする前田の影響で地域の舞台の書割、大道具等も手掛ける。38年、上京して本郷絵画研究所に入り、39年日本美術学校油絵科に入学して大久保作次郎、林武らの指導を受ける。42年、同校を繰り上げ卒業して応召し、外地勤務を希望してソ満国境守備隊に所属。45年8月に東北満州の鏡泊湖付近に野営中に終戦を迎え、ソ連軍によって武装解除し、同年12月にシベリア鉄道にて移送される。以後、各地の収容所を転々とする中で、抑留生活3年目頃から美術品の模写や肖像画の制作を行う。49年12月に徳山に帰還。宮崎はシベリア抑留について「ここにあった絶望こそ、私に何かを目覚めさせるきっかけとなった。生死を超えるこの世界で知った、人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私をつき動かすものである」と記している(『鳥のように シベリア 記憶の大地』岩波書店、2007年)。50年に広島、長崎を訪れる。51年に上京して雑誌のカットなどを描く。56年寺内萬治郎に師事し、57年第43回光風会展に「静物」を出品。同年第13回日展に「静物」を出品。以後、これら二つの団体展に出品を続ける。59年第45回光風会展に「〓東」を出品してプールブー賞受賞。60年の同会に「〓東A」「〓東B」を出品して光風会賞を受賞、同会会友に推される。61年第5回安井賞候補新人展に「〓東」を出品。63年第49回光風会展に「廃屋」を出品し、同会会員に推挙される。65年6月、資生堂ギャラリーにて初個展を開催し、「石狩」「さいはて」など16点を出品。同年11月、第8回新日展に「祭りの夜」を出品して特選受賞。同年第9回安井賞候補新人展に「北の祭り」「祭りの夜」を出品。67年第10回安井賞展に「見世物芸人」を出品し安井賞を受賞。この頃の作品は祝祭的な場の中に刹那的で漂泊する人間をとらえたものが多い。72年4月第58回光風会展に「よりかかる女」を出品。同年7月に渡仏し74年10月までパリを拠点にオーストリア、スイス、ノルウェー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、チェコスロバキアなどを巡遊。この渡欧は、多くの西洋美術作品に触れ、人体や光の表現について捉えなおす契機となった。72年より日展への出品をせず、73年より光風会へも出品せず77年に同会を退会して無所属となる。以後、個展やグループ展で作品を発表。77年第16回国際形象展に「おどる女」を出品し、以後、80年まで同展に出品を続ける。79年第1回「明日への具象展」に「ラブリーガール」を出品し、以後84年まで出品を続ける。同年、ソ連各地を旅行。風景画や抑留を主題とする作品は50年代から継続的に描かれていたが、80年ころから主要なテーマとなり、「TORSO」など多様な材料を用いた重厚なマチエールの作品が制作されるようになる。86年9月池田20世紀美術館にて「宮崎進の世界展」を開催し、「さいはて」「冬の光」ほか54点を出品。76年から多摩美術大学講師となって後進を指導し、1992(平成4)年に退任し、以後、客員教授を務める。同年6月に同学美術参考資料館にて「宮崎進 多摩美術大学退職記念」が開催される。93年、ニューヨークのアルファスト・ギャラリーにて「宮崎進」展を開催し、ニューヨーク、ワシントン、ボストンなどアメリカ東海岸を訪れる。94年「漂う心の風景 宮崎進展」を下関市立美術館ほかで開催。95年小山敬三賞を受賞し、「小山敬三賞受賞記念 宮崎進展」を開催。97年、京都市美術館にて「シベリア抑留画展」を開催。98年芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学附属美術館館長となり、99年に同学名誉教授となった。2004年第26回サンパウロビエンナーレ国別参加部門に日本代表として「シベリアの声」という主題のもとに「冬の旅」「泥土」ほか12点を出品。抑留体験を畳み込んだ重厚な質感を持つ力強い作品で注目される。05年8月、周南市美術博物館にて「宮崎進展 生きる意味を求めて」、14年4月神奈川県立近代美術館にて「立ちのぼる生命 宮崎進展」が開催された。郷里の周南市美術博物館に初期から晩年まで200点を超える作品が収蔵されており、宮崎は09年4月から没するまで同館名誉館長を務めた。

中根寛

没年月日:2018/01/17

読み:なかねひろし  点描による穏やかな風景画で知られた洋画家の中根寛は1月17日に死去した。享年92。 1925(大正14)年3月26日愛知県額田町(現、岡崎市)に生まれる。1939(昭和14)年旧制岡崎中学校2年生を修了して岡崎師範学校に入学し、44年の9月に卒業予定であったが、前月の8月に陸軍宇都宮飛行学校に入所。1945年除隊し、郷里に戻り小学校教師となる。49年東京藝術大学美術学部油画科に入学し、上京して同郷の荻太郎を頼り、荻のアトリエに住む。大学では硲伊之助、寺田春弌、2年生から安井曾太郎、伊藤廉に師事。52年3月に安井が辞任したため、同年4月から後任となった林武に師事する一方、小磯良平、山口薫、牛島憲之の指導を受ける。53年東京藝術大学美術学部油画科を卒業。卒業制作によって大橋賞を受賞。54年、母校に新設された美術学部専攻科に進級し、55年に同科を修了して同学美術学部副手となる。57年同美術学部教務補佐員、58年同助手となる。美術団体展出品に否定的でグループ展を奨励した林武の教えを受けて団体展には出品せず、59年に同学の若手画家によって黒土会を結成し、毎年日本橋髙島屋で展覧会を開催。同展には第1回展に出品した「腕を組む」(1957年)から65年の第7回展出品の「かげ」まで、人体を主要なモチーフとし、暗色を塗り重ねた重厚な作品を出品し続ける。60年第3回国際具象派美術展に「コンポジション」を招待出品し64年まで出品を続ける。62年第5回現代日本美術展に「こかげ」で入選。63年東京藝術大学美術学部専任講師となる。63年から77年まで国際形象展に招待出品。64年第8回安井賞候補新人展に人体と動物で構成した「星」を出品し、70年の第13回まで同展に出品を続ける。68年日動サロンにて初めての個展を開催。69年東京藝術大学美術学部助教授となる。69年に半年間、ヨーロッパ・エジプトを研修旅行。70年7月から8月まで北ヨーロッパ、71年3月から4月までスペインに旅行。多数の西洋の古典絵画を実見し、西洋絵画の奥深さと多様性を知るとともに、自然と調和した人の営みが窺える町や村の景観に魅かれる。これ以降、風景画を中心に描くようになる。また、師の林武のように油絵具を混ぜあわせ、塗り重ねる画法から、点描のように絵具を並べる画法へと変化する。75年、訪中美術家代表団の一員として初めて中国を訪れ、以後80年までほぼ毎年中国に取材旅行。また、同年12月から76年1月までインド、ネパールを旅行。76年スイスへ、77年ヨーロッパへ取材旅行。78年東京藝術大学美術学部教授となる。79年3月日本橋髙島屋、4月大阪髙島屋にて「中根寛展」を開催。84年に伊藤廉記念賞が開設されるとその選考委員となり、1993(平成5)年の最終回まで毎回選考に当たる。86年東京藝術大学美術学部長となり、90年に退官して名誉教授となる。93年郷里にある岡崎市美術館で「中根寛自選展」が開催され、また、同年5月に母校の藝術資料館で「中根寛展」が開催された。2000年9月に『中根寛画集』(求龍堂)が刊行され、同月から11月まで「中根寛画業50年展」(朝日新聞社ほか主催)が髙島屋(日本橋、横浜、京都、大阪なんば)、松坂屋美術館(名古屋)を巡回した。生涯、美術団体に所属せず、東京藝術大学で美術教育に携わりつつ制作を続けた。少年時に郷里で三河湾を見下ろす景色に親しみ、風景画でも俯瞰する構図を好んだ。「その社会に参加していない異国の景色を描いていると、後ろめたさはつきまとう」(「中根寛・画論を語る」『アートトップ』129)という言葉にあらわれるように、描く対象と自らの関わりを重視した。1990年代以降は、北海道の湿原、浅間山、富士山、瀬戸内などの景色を広やかに俯瞰する構図で描いた優品を残している。

松樹路人

没年月日:2017/12/19

読み:まつきろじん  独立美術協会の画家松樹路人は12月19日、肺炎のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年1月16日、北海道留萌支庁苫前郡に生まれる。本名路人(みちと)。小学校教員であった父の任地によって転居し、33年佐呂間の武士尋常小学校に入学、その後、女満別尋常高等小学校に転校する。1940年北海道立網走中学校に入学するが、翌年一家で上京。東京府立第十五中学校(現、都立青山高等学校)在学中に小林万吾の主宰する同舟舎絵画研究所に通う。44年東京美術学校油画科に入学し、45年から梅原龍三郎に師事。同年、三浦半島の長井にある武山海兵団に配属される。49年に東京美術学校を卒業し、梅ヶ丘中学校の図工教諭となり、53年まで勤務。この間の50年、連合国要人の夫人によって運営されていたサロン・ド・プランタンの第2回展に原爆と浮浪児を描いた「失われた世代」を出品して第3席に選ばれる。また、同年の第18回独立美術協会展に「S町の酒場付近」で初入選。53年第21回独立展に褐色系を基調色とし、人体を簡略な形でとらえ、着衣の女性像の背後に二人の男性像を描いた「三人」、および「秋」を出品してプールブー賞受賞。同年、網走中学校の先輩で独立美術協会会員であった居串佳一と出会い、交遊を始める。この頃、アンドレ・ドラン、ゲオルグ・グロス、ベン・シャーンに共感を抱く。54年第22回独立展に「家族」「行ってしまった小鳥」を出品して独立賞受賞。57年から60年3月まで鴎友学園女子高等学校教諭を務める。60年独立美術協会会員となる。この頃、「具体的なかたち」を求めて苦悩しつつ、人体を幾何学的形体に還元してから再構成し、白を背景に用いた作品を描く。64年、それまでの自作への不満から、初期以降の大作十数点を自ら焼却。これを機会に、少年時代から惹かれていた藤田嗣治の画風に学んだ静物画を多く描くようになる。66年から71年まで女子美術大学非常勤講師としてデッサンを指導。69年、第37回独立展に白いタイルを背景に、植物や陶器などを配置した「タイルの静物」を出品する。70年第5回昭和会に「木の実の静物」「車輪の静物」を出品して昭和会賞を受賞したほか、前年の独立展出品作「タイルの静物」ほかを第13回安井賞展に出品。同年、武蔵野美術大学講師となり、71年、同助教授となる。また、同年、東京都稲城市に転居しアトリエを構える。この家は「別れ道の白い家」(1977年)のモチーフとなり、その後も画中にしばしば登場することとなる。73年第16回安井賞展に白いタイルを背景に赤茶色のドラム缶と瓶などを描いた「ドラム罐」ほかを出品して佳作賞受賞。同年ヨーロッパに旅行しパリ、ローマ、トレドを訪れる。77年、武蔵野美術大学教授となる。79年、独立美術協会の有志と十果会を設立し、以後同展に出品を続ける。81年、前年の第48回独立展出品作「わが家族の像」(1980年)などにより第4回東郷青児美術館記念大賞受賞。また、同年第3回日本秀作美術展に横向きの少年とボクサー犬を描いた「少年とボクサー」を出品し、以後、2003(平成15)年第25回展まで同展に連続して出品。80年代半ばから、ポール・デルヴォー、ジョルジュ・デ・キリコなどシュール・レアリスムの作家の作風を取り入れる。86年イギリスへ旅行。87年、前年の第54回独立展出品作「美術学校―モデルの一日」により第5回宮本三郎記念賞受賞。同年、「第5回宮本三郎記念賞 松樹路人展」が開催され、学生時代の作品から独立展、十果会展等の出品作を中心に70点が展観される。また、同年より長野県茅野市蓼科のアトリエで秋の独立展に向けた制作を行うようになる。91年第41回芸術選奨文部大臣賞受賞。97年武蔵野美術大学を退任。98年『ミュージアム新書18 松樹路人-はるかへの想い』(苫名真著 北海道立近代美術館編)が刊行される。2002年に郷里北海道にて「北方風土記回顧録―地平線の彼方へ 松樹路人展」(網走市立美術館)、2011年に制作拠点のひとつであった茅野市にて「松樹路人展 終わりなき旅」(茅野市美術館)が開催される。年譜は同展図録に詳しい。「職人のようにひたすら描く」という言葉を好み、幼年期を過ごした北海道の広大な大地と空、清澄な空気を愛して、それらを絵画空間に表した。一貫して具象画を描き、日常生活に身近なものに取材して、70年代からは家族や自画像を主要なモチーフとしつつ、構成力の強い作品を描き続けた。

中野淳

没年月日:2017/03/23

読み:なかのじゅん  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の中野淳は3月23日、急性心臓死のため死去した。享年91。 1925(大正14)年8月22日、東京府の両国に生まれる。1938(昭和13)年に安田学園中学校に入学、在学中から油絵を描きはじめ、川端画学校洋画部でデッサンを学んだ。43年に同中学校を卒業すると、川端画学校、本郷洋画研究所に通った。同年11月、第2回新人画会展で松本竣介の出品作「運河風景」(出品時の題名であり、現在の「Y市の橋」東京国立近代美術館蔵である)に感銘を受ける。その後、知人の紹介で松本竣介のアトリエを訪ね、以後親しく批評などを受けるようになった。47年、戦後再開した第21回国展、第11回自由美術展、第31回二科展にそれぞれ初入選した。同年、松本竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事を手伝った。48年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後64年まで、同展に出品をつづけた。57年7月、モスクワで開催された世界青年学生平和友好祭国際美術展に参加、出品した「風景」によってプーシキン美術館賞受賞。64年、自由美術家協会を退会し、退会した画友たちと主体美術協会創立に参加。79年、武蔵野美術大学教授となる。86年7月、東京富士美術館にて約70点からなる「中野淳展」を開催。同年9月には、『中野淳画集』(アートよみうり)を刊行。1994(平成6)年1月、主体美術協会を退会、新作家美術会を結成。同会は、後に新作家美術協会と改められ、2016年の第23回展まで毎年出品をつづけた。同年、第9回小山敬三美術賞を受賞、7月に受賞記念展を日本橋高島屋で開催。95年9月、同大学退職を記念して「中野淳教授作品展」を同大学美術資料図書館にて開催。99年8月、『青い絵具の匂い―松本竣介と私』(中公文庫、中央公論新社)を刊行。 長い画歴のなかで、その時代ごとの思潮に敏感に反応しながら画風を変えていったが、堅実な写実表現に徹して、油彩画の構成、技法等の骨格を見失うことはなかった。それは青年期に出会った松本竣介や戦後知己となった岡鹿之助からの教えを守ったためであろう。松本竣介との交流については、上記の本に詳しく回顧され、貴重な記録となっている。また、同書の続編として企画されながら、没後に刊行された『画家たちの昭和―私の画壇交流記』(中央公論新社、2018年3月)も、中野の画家として生きた時代の私的な記録として貴重な内容となっている。

島田章三

没年月日:2016/11/26

読み:しまだしょうぞう  日本芸術院会員の洋画家、島田章三は11月26日、すい臓がんのため死去した。享年83。 1933(昭和8)年7月24日、神奈川県三浦郡浦賀町に浦賀ドックのインテリアデザイナーであった父英之の三男として生まれる。40年大津尋常小学校(現、横須賀市立大津小学校)に入学するが43年に肋膜炎となり休学。同年、祖父の住む長野市に疎開。45年、横須賀に帰り、46年大津国民学校高等科に入学。在学中に佐々木雅人、金沢重治、熊谷九寿に絵を学び、神奈川県内の絵画コンクールで受賞を重ねる。49年横須賀高等学校に入学。52年に同校を卒業し東京藝術大学進学を志して川村伸雄のアトリエに通う。54年東京藝術大学油画科に入学。1年次は久保守、2年次は牛島憲之、3年次は山口薫、4年次は伊藤廉に師事。在学中の57年、柱時計を胸に抱き、顎に釣り合い人形を乗せた上向きの女性を描いた「ノイローゼ」で第31回国画会展に初入選。以後、同展に出品を続ける。同年10月サヱグサ画廊で「林敬二・島田章三二人展」を開催、12月には福島繁太郎の推薦によりフォルム画廊にて初個展を開催する。58年東京藝術大学油画科を卒業。同期生には後に前衛作家として活躍する高松次郎、中西夏之、工藤哲巳、具象画家の橋本博英、林敬二、油画修復家となった歌田眞介、山領まり、パルコのポスターで一世を風靡した山口はるみらがいる。同年、専攻科に進学し、第32回国画会展に「ひるさがり」を出品して同会会友となる。60年、同学専攻科を卒業。61年第35回国画会展に抽象化された形体と重厚なマチエールによる「うしかなし」「とりたのし」を出品して同会会員となる。同年第5回安井賞候補新人展に「うしかなし」「とりたのし」で入選。61年、大学の同級生であった田中鮎子と結婚。66年、新設された愛知県立芸術大学に恩師伊藤廉に請われて講師として赴任。67年第11回安井賞候補新人展に馬と母子を描いた「母と子のスペース」、牛に乗る女性を描いた「エウローペ」を出品して前者により安井賞を受賞。68年愛知県在外研究員として渡欧しパリを拠点にスペイン、イタリアにも巡遊。古典から現代まで広く西洋美術に接し、特にピカソ、ブラック、レジェなどキュビスムの作家らが「絵を思考している」ことを知り、「形態を再構成していく立体派を、日本人の言葉(造形)で翻訳してみたいものだ」と考え、色面・線・画肌を軸に再考。また、西洋の芸術運動がその地の生活に根ざしたものであることを知り、自らの身の回りの日常に取材してかたちを生み出す「かたちびと」のテーマへの契機を得る。69年9月に帰国し、愛知県立芸術大学助教授となる。79年藤田吉香、大沼映夫ら10名の洋画家で「明日への具象展」を設立して同人となり、同年の第1回展に「炎」「波」を出品する。同展には84年まで毎年出品。80年、「島田章三自選展」を丸栄スカイルおよび東京銀座の和光で開催。また同年、「炎」(1979年)などの作品により第3回東郷青児美術館大賞を受賞し、東郷青児美術館にて展覧会を開催する。同年アメリカへ、83年ブラジルへ旅行。また、同年池田20世紀美術館にて「島田章三の世界展」を開催。1990(平成2)年、前年の第63回国画会展出品作でブラックの名が記された鳥の絵を画面上部中央に配した室内人物画「鳥からの啓示」により第8回宮本三郎記念賞を受賞。同年愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任。92年同学教授を退任し、96年に名誉教授となり、2001年から07年3月までは同学学長を務める。99年、前年の第72回国画会展出品作「駅の人たち」により第55回日本芸術院賞を受賞し日本芸術院会員となる。04年文化功労者となる。07年4月から10年12月まで愛知芸術文化センター総長を務める一方、07年から11年3月まで郷里の横須賀美術館館長を務める。1950年代以降、前衛的な表現が次々と生み出される中で、島田は「表現とは形にならないものから形をつくるもの」(『島田章三』、芸術新聞社、1992年)と語り、古賀春江、香月泰男、山口薫らによる「形をリリシズムで扱う、日本に芽生えた、モダニズムの仕事」(同上)を引き継ごうと試みた。93年5月に郷里の横須賀市はまゆう会館で「島田章三展」、99年に三重県立美術館ほかで「島田章三展 かたちびと」、11年に愛知県美術館、横須賀美術館で「島田章三展」が開催されている。11年の展覧会図録には詳細な年譜と作家自身による作品解説が掲載されている。著書に『島田章三画集』(求龍堂、1980年)、『S. Shimada essays & pictures』(大日本絵画、1984年)、『島田章三 かたちびと』(美術出版社、1988年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1992年)、『島田章三』(アートトップ叢書、芸術新聞社、1992年)、『島田章三:現代の洋画』(朝日新聞社、1996年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1999年)、『ファイト:島田章三画文集』(求龍堂、2009年)がある。

堀越千秋

没年月日:2016/10/31

読み:ほりこしちあき  スペインを拠点に活動した画家の堀越千秋は10月31日、多臓器不全のためマドリードで死去した。享年67。 1948(昭和23)年11月4日、東京都文京区駒込千駄木町に生まれる。祖父は日本画家滝和亭に師事した画家、父も小学校の図工の教師であった。69年東京藝術大学油画科に入学、田口安男のテンペラ画の授業を受ける。また在学中に解剖学者三木成夫による美術解剖学の講義に感銘を受け、その理論・思想は以後の堀越の画業のバックボーンとなる。73年大学院に進学、その年8ヶ月間にわたりヨーロッパを放浪、とくにスペインの地に魅せられる。プラド美術館ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」を模写した。75年東京藝術大学大学院油画専攻修了。翌年スペイン政府給費留学生として渡西、マドリードの国立応用美術学校で石版画を学ぶ傍ら、テンペラ画等の様々な技法に挑戦。80年最初の個展をマドリードのエストゥーディオ・ソト・メサで開催。82年に帰国し、日本で初めての個展(東京、セントラル絵画館)を開催。84年にニューヨークに約一ヶ月間滞在、ソーホーでニューペインティングに刺激を受け、制作上の転機となる。奔放な筆致と明るい色使いで、抽象と具象の入り混じった世界を描いた。1995(平成7)年頃より埼玉県児玉郡神泉村(現、神川町)に居を構え、スペインと日本を往来するようになる。03年からは同村に“千秋窯”を拵え、焼き物に興じた。03年、装丁画を担当した『武満徹全集』(全5巻、小学館)が経済産業大臣賞を受賞、ライプチヒの「世界で最も美しい本コンクール」に日本を代表して出品される。05年絵本『ドン・キ・ホーテ・デ・千秋』(木楽舎)刊行。07年から16年まで、ANAの機内誌『翼の王国』の表紙絵を連載。また07年以降、世界的なフラメンコの踊り手である小島章司の舞踊団のための舞台美術を手がけるようになる。14年スペイン国王よりエンコミエンダ文民功労章を受章。旺盛な文筆活動でも知られ、フラメンコ専門誌『パセオフラメンコ』への連載(1986~2012年)をはじめ新聞・雑誌にエッセイを多数執筆。『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』(主婦の友社、1991年)、『スペイン七千夜一夜』(集英社文庫、2005年)、『絵に描けないスペイン』(幻戯書房、2008年)、『赤土色のスペイン』(弦書房、2008年)等の著作がある。14年3月から16年11月に『週刊朝日』に連載された古今東西の名品をめぐるエッセイ「美を見て死ね」は、没後の17年にエイアンドエフより単行本として刊行された。フラメンコで歌われるカンテの名手としても著名で、逝去の際、スペインの新聞はカンテ歌手の死と報じられている。生前より企画されていた画集は18年に『堀越千秋画集 千秋千万』(大原哲夫編集室)として刊行された。

塗師祥一郎

没年月日:2016/09/21

読み:ぬししょういちろう  雪深い北国を描いた風景画で知られる日本芸術院会員、日展顧問の洋画家塗師祥一郎は9月21日、病気のため死去した。享年84。 1932(昭和7)年4月24日、石川県小松市に陶芸家塗師淡斉の長男として生まれる。誕生間も無く父の仕事のため埼玉県大宮に転居するが、戦況悪化により小松に疎開。47年北国現代美術展に「静物」を出品して吉川賞を受賞し、画家を志す。50年金沢美術短期大学に入学。同学に集中講義に来ていた小絲源太郎に出会う。52年に第8回日展に「展望」で初入選。同年第38回光風会展に「構内」「いこい」で初入選。同年、大学を卒業し、大宮に転居して小絲源太郎に師事する。62年第48回光風会展に瀬戸の採土場に取材した「土」を出品しクサカベ賞受賞。63年光風会会友となる。64年から約10年間、ほぼ毎年丸善画廊で個展を開催。60年代後半から北国の集落や雪景を描くようになり、66年第52回光風会展に「北の町」を出品して光風会会友賞を受賞、同年同会会員となる。同年第9回日展に「雪景」を出品し特選受賞。67年フランス、スペイン、イタリアを2ヶ月間かけて巡遊。それまで憧憬を持って見ていた西洋の風景画に描かれているのが日常的風景であったことを知り、日本の風景を描くことの意義を確認する。同年光風会を退会し、翔陽会を結成して、第1回展から10回展まで出品を続ける。71年第3回日展に越後の集落を描いた「村」を出品して特選受賞。翌年から日展出品依嘱となり、77年日展会員となる。同年、岡田又三郎らを中心に設立された日洋展に参加し、87年同会常任委員となる。82年第14回日展に「待春の水辺」を出品して日展会員賞受賞。1990(平成2)年日展評議員となる。97年第29回日展に雪深い山間の集落を描いた「山村」を出品して文部大臣賞受賞。2003年、前年の第34回日展出品作「春を待つ山間」で日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員となる。05年フランス国民美術協会の招待によりルーブル美術館のカルーゼル・ド・ルーブルで作品を展示。2007年より埼玉県美術家協会会長を務めた。74年からほぼ毎年上野松坂屋で「塗師祥一郎洋画展」を開催し、82年、89年、09年には三越で展覧会を開催している。また、没後間もない16年10月4日から16日まで、埼玉県立近代美術館で同館所蔵品による「塗師祥一郎追悼展」が開催された。『塗師祥一郎画集1947―2006』(求龍堂、2006年)が刊行されている。

田中田鶴子

没年月日:2015/12/08

読み:たなかたづこ  茫漠とした空間や円をモチーフに抽象表現を展開した洋画家、田中田鶴子は12月8日、老衰のため死去した。享年102。 1913(大正2)年6月6日、朝鮮の仁川に田中秀太郎、ハツ夫妻の間に次女として生まれ、16歳まで中国・青島で育つ。14年までドイツの租借地であった青島は、同年日本の占領下となり、22年中国に返還された。ドイツ風の街並みに日本人や中国人が入り混じる環境に、純粋な「ほんもの」への憧れが募ったという。またしばしば郊外の荒地へ出かけ、岩肌の連なる風景に深い安堵感とふるえるような永遠からの語りかけを覚えたという。青島高等女学校卒業後、16歳になる年に東京の大学へ進学する兄について上京し、はじめて本物の歴史的精神文化に触れる。能文楽や歌舞伎に熱中し、禅寺で座禅を体験した。その一方で女子美術学校へ入学、保守的な雰囲気に馴染めず1学期で退学する。1935(昭和10)年2月第3回旺玄社展へ「老女像」を出品、翌年1月の第4回展へは「自画像」「秋の静物」をそれぞれ出品。36年10月多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)に女子部が発足し、翌37年第1期生として入学した。この年の夏休みには北京を訪れ、心にかかっていた本物の中国文化に初めて触れる。38年9月第25回二科展に「秋」で初入選を果たし、以後第29回展(1942年)まで出品した。39年第7回旺玄社展へ「夏の庭」「冬日」「画学生の像」「林間秋」を出品、旺玄社賞受賞。翌40年第8回展へ「支那骨董店」「支那の葬式」を出品、会友に推挙される。また同年より1年間、多摩帝国美術大学にて助手を勤めた。この頃の作品には風景を写実的に描いたものが多く、生まれ育った中国の風景なども題材としている。43年9月銀座・資生堂にて初個展開催。同月第8回新制作派展に「人物」「春の庭」を出品、以後第25回展(1961年)まで出品を続けた。戦中は工場での勤労奉仕や女流美術家奉公隊の活動に参加する。45年3月10日、空襲で自宅が焼失、そのときに体験した「炎の円の中心に。何の音もしない。しんとした無の世界」が後の制作に影響を与えた。その後は友人宅を点々としながら制作を続けたという。また戦後には田園調布純粋美術研究室で猪熊弦一郎、脇田和らの指導を受け、デッサンを学んだ。45年12月第1回日本女流美術家協会展(日本橋三越)へ「落葉松の林」「野の花」を出品。翌46年11月現代女流画家展(北荘画廊)へ出品。このときのメンバーに日展や奉公隊で活躍した人々が加わり、47年2月女流画家協会が発足、同年7月第1回女流画家協会展がアンデパンダン形式で開催され、「童女」「金柑と唐辛子」「卵の静物」を出品する。第3回展(1949年)へは「人物」「踊り子(B)」「踊り子(A)」を出品して婦人文庫賞を受賞するが、次第に会の性質が友好的な人間関係重視へと傾き、第6回展(1952年)出品を最後に退会する。他方48年第12回新制作派展へ「踊り子」「踊り子」「踊り子」「森」を出品し岡田賞受賞、第14回展(1950年)では新作家賞を受賞し、第16回展(1952年)で新制作協会賞、第18回展(1954年)において会員に推挙された。53年1月第4回選抜秀作美術展に「作品」(1952年、新制作展)が出品される。以後第8、12、13回展にも選抜。54年ニューヨークのブルックリン美術館での日仏米抽象展へ、翌55年スミソニアン・インスティテュート主催の国際展へそれぞれ出品。また56年第2回現代日本美術展へ「時間A」「時間B」を出品、翌57年第4回日本国際美術展へ「変身」を出品する。以後前者へは第7回展(1966年)まで、後者へは第8回展(1965年)まで毎回出品した。50年代の作品では、内にある心象風景を外部に存在する具象的な形を借りるなどして表現していたといい、方形や線、円による構成的な画面の作品や、浮子の写生をもとにしたという「浮標」(1955年、第19回新制作展)などが制作された。 60年1月サトウ画廊にて個展開催。従来の構成的な画面からマチエールで語ろうとする方向への変化を示した。以後画面は茶褐色を基調とした色彩のなかに、漠とした奥深い空間を見せるようになる。同年5月第4回現代日本美術展へ「無I」「無II」を出品、女性初の優秀賞となる。61年ニューヨーク・グッゲンハイム国際美術賞展へ出品。同年サンパウロ・ビエンナーレへ「ミクロコスム」連作を出品し、62年にはカーネギー国際展へ出品。国際的に活躍した。他方61年の第25回新制作展への出品を最後に同会を退会、以後個展やグループ展などで作品を発表する。61年2月東京画廊、63年7月京都・青銅画廊、79年1月第七画廊、81年9月フマギャラリー、1988(平成元)年5月ストライプハウス美術館、同年9月日本画廊にて個展を開催。日本画廊では92、96、2005年にも個展を開く。また「田中田鶴子・カズコ カヤスガ マシューズ展―「砂」と「炎」からのレポート―」(ストライプハウス美術館、1988年)、「桜井浜江・田中田鶴子・桜井寛 三人展」(三鷹市美術ギャラリー、2006年)、「画家のかたち、情熱のかたち―桜井浜江 高島野十郎 田中田鶴子 ラインハルト・サビエ―」展(三鷹市美術ギャラリー、2010年)などのグループ展へ出品した。 他方60年11月より跡見学園女子短期大学にて教鞭を執り、87年3月まで勤務。その間70年には教授となり、77年から84年まで生活芸術科長を務めた。また学生の研修旅行に同行してエジプトを訪れたのを機に、中近東の砂漠へ何度も足を運んだ。82年スペイン・バルセロナ工科大学ガウディ研究所に招待され、同地に6ヶ月滞在、ガウディ建築などを見て回る。 作品は黒一色の画面にブロンズ粉で円を描いた「時間―17」(1979年、個展・第七画廊)頃から、中近東の砂漠に想を得た「円」シリーズへと展開、さらに80年代後半頃からは楕円と線の連作へと発展していく。また2000年代には多く白地をバックに黒、青、赤、金といった色彩が織り成すリズミカルな画面の連作が制作された。

横尾龍彦

没年月日:2015/11/23

読み:よこおたつひこ  洋画家の横尾龍彦は11月23日、膀胱がんのため死去した。享年87。 1928(昭和3)年9月7日福岡県福岡市に生まれる。霊感者の母のもと、少年期の神秘体験が後の制作活動に多大な影響を及ぼす。母の勧めもあり東京美術学校(現、東京藝術大学)に入学し、一級上の加山又造と交遊。50年同大学日本画科を卒業後、キリスト教神学を学ぶ。63年第27回新制作協会展(日本画部)に「癩者の家」を出品するも、この頃より日本画から油彩へ転向。65年、シトー会修道院より奨学金を受け渡欧、パリに一年間滞在し、中世ロマネスク、ゴシックの美術を研究。66年東京銀座の青木画廊で個展開催、横尾と同年生まれで同名の評論家澁澤龍彦が同展に「インク壷のなかの悪魔」と題する一文を寄せ、懇意になる。72年、ローマに滞在。73年芸術出版社より『横尾龍彦画集 幻の宮』を刊行。75年からは古典油彩技法研究のため、ベルギー、ドイツへ旅行、ウィーンに滞在。77年ドイツ、スペインにてボッシュに傾倒、北ドイツのヴォルプスヴェーデに滞在。78年、深夜叢書社よりエクリチュール叢書として『横尾龍彦作品集』刊行。同年、美学者の高橋巌が鎌倉で行なっていたルドルフ・シュタイナー研究会に参加。また鎌倉三雲禅堂の山田耕雲に師事し、以後禅の世界に傾倒、それまでのデモーニッシュな幻想画から東洋の瞑想と西洋の神秘主義の融合を探求するようになる。79年から翌年にかけて『毎日新聞』連載小説の井上光晴「気温10度」の挿画を担当。80年ドイツへ移り、オスナブリュックに居住。85年ケルン郊外に居住。1989(平成元)年、東京サレジオ学園の聖像彫刻で第14回吉田五十八賞(建築美術の部)を受賞。93年秩父市黒谷に、翌年ベルリン郊外にアトリエを開設。94年世界救世教タイ国サラブリ神殿建築関連美術・壁画・石彫の制作、監督を担当。98年、春秋社より画集『横尾龍彦1980-1998』を刊行。同年、宗教学者鎌田東二の趣旨に賛同し東京自由大学の設立に参画、初代学長を務める。2000年スロバキアのプラスティスラバ市立美術館で個展を開催、また横尾の提案により芸術シンポジウム「現代美術のグローバリゼーションと民族のアイデンティティ」を催し、翌年北九州市立美術館での個展開催にあわせ同テーマのシンポジウムを行なった。2004年、ベルリン市主催により、シャルロッテンブルグ宮殿で個展開催。10年、ドイツの出版社Kerber Verlagより画集『TATSUHIKO YOKOO 1988-2010』が出版される。15年11月に東京のキッド・アイラック・アート・ホールで帰国記念展「みちすがら」を開催、あらためて日本を拠点に活動を始めた矢先の死となった。

一木平蔵

没年月日:2015/11/14

読み:いちきへいぞう  人間の営みが大地に残した痕跡を描き続けた洋画家一木平蔵は、11月14日肺がんのため死去した。享年91。 1923(大正12)年12月26日福岡県八幡市に生まれる。1930(昭和5)年八幡市立平野小学校に入学。同校2年生の時に画家になる希望を抱く。36年平野小学校を卒業し、八幡市立花尾高等小学校に入学、在学中に市販の教本などによりデッサンを独学。38年同校を卒業して安川電機株式会社に入社。44年産業報国美術展に水彩画2点を出品し、特選受賞。45年4月から8月末まで陸軍航空教育隊(松江航空隊)に入隊し、8月に復員。46年2月頃から小倉市の米軍24師団図書館付イラストレーターとして勤務。5月第1回西部美術協会展に「花器」「風景」を出品、同年10月の第2回同展に「静物」、47年第3回同展に「風景」を出品する。48年第4回同展に「大門風景(小倉)」を出品して西部協会賞受賞。同年結婚し、古米家に入籍。妻の生家が古書店であったところから中国の唐宋元明名画集などに触れて東洋画に興味を抱く。49年第5回同展に「静物A」「静物B」「風景」を出品。同年第5回福岡県美術協会展に「風景」を出品して県議会議長賞受賞。51年古米平蔵の名で第15回自由美術展に「牛頭骨A」「牛頭骨B」を出品し、入選。52年12月上京。同年第16回自由美術展に「筑豊」を一木平蔵の名で出品。以後、一木平蔵の名で同展に出品を続け、56年自由美術家協会会員に推挙される。58年11月福岡市岩田屋で個展開催。60年第4回安井賞候補新人展に「狭められた大地B」「流触A」を出品。62年第16回日本アンデパンダン展に「足のある木」、63年第17回同展に「断片1」「断片2」「断片3」「断片4」「断片5」「断片6」「断片7」「断片8」、64年第18回同展に「種子だけになった風景」「花」を出品。67年第31回自由美術展に「浮遊する家」「浮遊する断片」を出品して自由美術賞受賞。69年ソヴィエト、ヨーロッパ、西アジア、インドなど十数か国を訪れ、レンブラントなどヨーロッパの古典絵画に触れる一方で、古代にメソポタミア文明の栄華を誇った西アジアが空と大地の壮大な空間となっていることに強い印象を抱いた。70年第34回自由美術展に「ある風景A」「ある風景B」を出品。71年6月福岡市博多大丸にて「一木平蔵帰国報告展 残闕のバビロン」展を開催。同年第35回自由美術展に「蒼き傷蹟の風景」「のび上った風景」を出品。75年第1回東京展に「砂漠から蒼い風景への回想」を出品。以後、東京展に出品を続ける。82年北九州市立美術館でそれまでの画業を回顧する「一木平蔵」展が開催された。同展図録には50年代から自由美術協会に注目してきた評論家針生一郎が寄稿し、50年代の半抽象的風景画から、海外経験を経て、明るく単純化された色調と流動的形体による風景画へと展開した一木の作風を振り返り、戦後日本の目まぐるしく芸術概念や様式が変化した中にあって「足もとの一点にたちどまっているようにみえて、歩一歩粘りづよく深化と展開を目指してきた作家たち」のひとりとして一木を評価している。85年10月から2ヶ月ほどヨーロッパ旅行。88年『一木平蔵の素描』(美術出版社)が刊行される。初期から眼前の物が時の流れの中で変遷していくこと、現代文明によって自然が奴隷化していることを表現する作品を描いたが、69年の海外渡航以後、色調が明るくなり、伸びやかな抽象的フォルムによる作風へと展開した。【自由美術展出品略歴】第15回(51年)「牛頭骨A」「牛頭骨B」、第20回(56年)「二人の大工(B)」、第25回(61年)「狭められた大地」、第30回(66年)「風景」、第35回(71年)「蒼き傷蹟の風景」「のび上った風景」、第40回(76年)「廃棄大地の中で」「オリエントの廃屋」、第45回(81年)「大地の跡」「風景の跡」、第50回(86年)「遺構の前に立つ人」、第55回(91年)「遺構回想」「遺構に立つ人」、第60回(96年)「風景の跡A」「風景の跡B」、第70回(2006年)「翔べない風景」、第75回(2011年)「風景襍描」、第79回(2015年)「風景の弔い」

森本草介

没年月日:2015/10/01

読み:もりもとそうすけ  端麗な写実絵画で知られた洋画家森本草介は10月1日、心不全のため死去した。享年78。 1937(昭和12)年8月14日森本仁平、久子の長男として父の赴任先であった朝鮮全羅北道全州府に生まれる。43年父の転任のため東京都足立区小台町に転居。44年母の郷里岩手県一関町に疎開し、同年4月に一関町立一関国民学校初等科に入学するが、同年秋、父の赴任先である黄海道海州府に転居。45年終戦を朝鮮半島で迎え、徒歩で京城に到り、京城から引き上げ船で山口県仙崎港を経て、一関町に帰着。一関国民学校初等科2学年に編入。50年3月一関市立一関小学校を卒業して、同市立一関中学校に入学。51年9月上京し、墨田区立堅川中学校に編入。53年同校を卒業し4月に墨田区立墨田川高校に入学、56年に同校を卒業。自由美術協会の画家であった父の影響で画家を志し、阿佐ケ谷美術研究所に学び、58年に東京藝術大学絵画科に入学。61年伊藤廉教室に入り、同年安宅賞受賞。62年東京藝術大学絵画科を卒業し、専攻科に進学。63年第37回国画会展に「聚」で初入選し、以後、同展に出品を続ける。64年3月、東京藝術大学油画専攻科を修了し、4月に同学美術学部助手となる。同年の第38回国画会展に「閉ざされた碑(B)」「閉ざされた碑(C)」で入選。65年第39回同展に「逆光」「碑(B)」を出品し、国画賞受賞。66年第40回同展に「沈む風景」「赤の碑」を出品し会友に推挙される。68年第42回同展に「響」を出品し、同会会友最高賞であるサントリー賞受賞。69年第43回同展に「逆光」を出品し、同会会員となる。同年、東京藝術大学の同世代のグループ十騎会の結成に参加し、以後同展に出品を続ける。70年第5回昭和会展に「貝とリボンのある静物」を招待出品し昭和会優秀賞受賞。71年東京から千葉県鎌ヶ谷市に転居。76年フランス旅行。77年最初の個展となる森本草介展を東京の日動サロンで開催。79年第18回国際形象展に「卓上の構図」「果物と少女」を出品し、以後85年まで同展への出品を続ける。また、同年第22回安井賞展に「午後の翳り」を出品。84年、『森本草介画集』(講談社)刊行。85年第1回具象絵画ビエンナーレ(神奈川県立近代美術館ほか)に「華」を出品。1989(平成元)年1月と10月にフランスへ取材旅行。92年フランスへ取材旅行。94年奈良県立美術館で開催された「輝くメチエ 油彩画の写実・細密描写」展に「朱」(1981年第55回国画会展出品)、「青衣の婦人」(1992年第66回国画会展出品)等、自選による11点を出品。95年『森本草介画集』(求龍堂)が刊行される。学生時代に50年代60年代の抽象画隆盛期を体験し、半抽象的な作品を描いたが、60年代末から写実的で静謐な具象絵画を描くことの追求が始まる。70年代には「昼」(1976年第50回国画会展出品)、「卓上の構図」(1979年第18回国際形象展出品)など、静物を知的な構図に収めて写実的に描く作品が中心であったが、80年代からセピア色を基調とする裸婦や着衣の女性像が主要な作品となった。風景画のほかは自然光を用いず、好みの効果が得られるよう照明を調整し、人物画では後姿や伏目がちな表情を好んで、写実的でありながら虚構の世界を描いた。フェルメールやアングルなどの西洋古典絵画に学び、筆跡を残さないすべらかなマチエールを特色とした。作画の合間に散策とピアノ演奏を楽しみ、画題にも「響き」「間奏曲」「調べ」など音楽に関連するものがある。画家は「私の絵はリアリズムとは違う」「ものを再現しようとしているのではなく、詩を描きたい」「人間存在の不思議とか、その奥にかくれている精神だとか、即物感に興味があるのではない」と語っている(『アート・トップ』143)。自らの生きる時代を「美術運動は多分無力な時代」と認識し、「個人が信じる自己の感性を掘り下げ、深め、みがく行為だけが有効」(同上)と考えて、自然との静かな対話を画面に表した。2010年ホキ美術館開館記念特別展に「横になるポーズ」(1998年)ほかが出品され、11年には同館で森本作品約30点が常設展示されることとなった。12年に『光の方へ 森本草介』(求龍堂)が刊行されており、詳しい年譜が掲載されている。

中西勝

没年月日:2015/05/22

読み:なかにしまさる  「芸術家である前にまず人間でありたい」と語り、生命の力強さを見つめ続けた洋画家、中西勝は5月22日、慢性呼吸不全増悪のため死去した。享年91。 1924(大正13)年4月11日、貿易業を営む中西信、一江夫妻の間に、四人兄弟の次男として大阪市城東区野江に生まれる。幼少から絵を好み、中西家所有の貸家に住んでいた日本画家に頼んで制作のようすを見せてもらったりしていたという。1937(昭和12)年3月大阪市城東区榎並小学校卒業。中学でははじめ剣道部に所属したが、級友の勧めで美術部に転部、油絵を描き始める。他方中之島の洋画研究所で田中孝之介等に学び、彫刻家・保田龍門のアトリエへ通いデッサンの手ほどきを受けた。42年3月大阪府立四條畷中学校(現、大阪府立四條畷高等学校)卒業。翌43年東京美術学校(現、東京芸術大学)を受験するもトラブルに巻き込まれ失敗、4月帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科へ入学する。また川端画学校へも通った。この頃の作品にはさまざまな画風が混在し、多様な西洋の画家から学び試行錯誤していたことが窺われる。44年学徒動員にて中支派遣軍の部隊に配属、任務地となった河南省南部の山奥で過酷な生活を送り、ひそかに陣地を離れるも追手に捕らえられ後方へと送られた。その後病気となり入院、終戦後の45年9月から半年余り湖北省の俘虜収容所で過ごし、46年5月博多港より帰国した。 同年7月大阪・難波の精華小学校内に設置された大阪市立美術館付設美術研究所へ開所当時から通いはじめ、田村孝之介、小磯良平等に指導を受ける(1949年まで在籍)。47年3月帝国美術学校西洋画科卒業。49年4月神戸市立西代中学校の図画教員となり、神戸市垂水区塩屋町に移り住む。同年杉田絹子と結婚。また神戸にて田村孝之介と再会、第二紀会出品を強く勧められ、同年10月第3回二紀展へ絹子夫人をモデルに描いた「赤い服の女」と終戦直後の三宮界隈の闇市場にたむろする戦災孤児等を描いた「無題」を出品、二紀賞を受賞する。以後65年から70年までの世界一周旅行期間中をのぞき、毎回出品。他方、西村功、貝原六一、西村元三朗等神戸洋画界の若手とともに49年に新神戸洋画会(後にバベル美術協会と改称)を結成、年2、3回の発表を行うなど精力的に活動した。50年10月第4回二紀展へ「人間荒廃」「女性薄落」を出品、同人に推挙される。52年10月第6回展へ「去来」「GAOGAO」を出品、同人努力賞。また「去来」にて同年12月第1回桜新人賞受賞。同月7日妻で二紀会同人の絹子が逝去。またこの年、田村孝之介が神戸市灘区の自宅に六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。中西は教師として後進の指導に当たった。53年4月神戸森女子短期大学講師(63年神戸森短期大学教授)。54年6月柿沼咲子と結婚する。同年10月第8回二紀展へ「夏・母子」「煙突掃除夫」「人間の対話」を出品、委員に推挙された。56年5月第2回現代日本美術展へ「黒い太陽に於ける群像」「負わされた群像」を出品、第3、4、6回展にも出品する。57年5月第4回日本国際美術展に「祭典」を出品、第5、7回展にも出品した。63年神戸・元町画廊(10月)と東京・文藝春秋画廊(11月)にて個展を開催。同年第1回神戸半どん文化賞を受賞する。50年代から60年代前半にかけ、中西の画風は大きく変化する。初期の作品では、戦後を生きる人々を暗めの色調で表現していたが、徐々にキュビスム風の人物や、デフォルメされた人や魚、鳥などの生き物、さらには抽象的な形態によって画面が構成されるようになっていく。また52年の「去来」以降、中西が数多く残した母子像が描かれはじめる。 65年10月咲子夫人とともに世界一周旅行へ出発。ロサンゼルスに6ヶ月滞在し、翌年4月同地にて個展を開催する。その後車にてアメリカ、カナダ、メキシコ等をめぐり、68年4月渡欧、ヨーロッパ各地を訪れた後にモロッコへ渡り、8ヶ月滞在。「ベルベル族の母子」(1969年)など、たくましく美しい母子像が制作された。その後再びヨーロッパ大陸へと戻り、69年8月リスボンで個展開催。70年4月ロシアに入り、モスクワよりシベリア鉄道にてユーラシア大陸を横断。同月7日に横浜港に到着した。旅行より持ち帰った油絵や水彩、デッサンなどは1000点以上にのぼり、そのすべてが具象画であったという。同月神戸学院大学人文学部美術専任教授となる(1995年名誉教授)。また10月と11月には、「私は外へ出て見た」と題した個展を神戸・相楽園、大阪・梅田画廊にて開催。71年10月第25回二紀展へ「砂漠の黒い男」「大地の聖母子」を出品、黒田賞受賞。さらに「大地の聖母子」で翌年3月、第15回安井賞を受賞した。72年10月第26回二紀展へ「黒い聖母子」「座す」を出品、文部大臣賞受賞。74年兵庫県文化賞、76年神戸市文化賞をそれぞれ受賞。また75年8月には二紀会理事となる。77年4月夫妻でフランスを来訪。この頃より風景や日常の生活の様子を描いた「棲まう」と題した作品が描かれはじめる。80年10月第34回二紀展へ「棲う(帰途)」「棲う(トルテヤを造る女達)」を出品、菊華賞受賞。87年5月同会常任理事となる。80年代半ば頃より、画面が明るく華やかになり、「天の調」(1984年、第38回二紀展)など天空世界を意識した作品が表れはじめる。さらに90年代に入ると、「花歩星歩」(92年、第46回展)など、人物を主体としつつ、「花」や「華」をタイトルにつけた作品が多く描かれるようになる。1992(平成4)年第46回神戸新聞社平和賞。同年11月文化庁地域文化功労者。94年12月には回顧展「中西勝の世界展」(池田20世紀美術館)が開催された。翌95年1月阪神・淡路大震災にて罹災。余震の続く中で制作された「楽隊がやって来た(1.17)」(1995年)は、もともと楽しげな作品として描かれはじめたものであったが、震災に対する不安から、完成作は暗く不気味な画面となった。他方復興募金のためにテレホンカードの原画を描き、緊急支援組織アート・エイド・神戸に副委員長として参加、また兵庫二紀の仲間たちとともに巨大な壁画を制作するなど、復興へ向けて積極的に活動した。2009年「中西勝展」(神戸市立小磯記念美術館)開催。13年二紀会名誉会員となり、15年10月第69回二紀展へ「華まばたき」が出品された。

庄司栄吉

没年月日:2015/02/07

読み:しょうじえいきち  日本芸術院会員の洋画家庄司栄吉は肺炎のため2月7日に死去した。享年97。 1917(大正6)年3月20日大阪に生まれる。生家は東南アジアから亜鉛を輸入し、酸化させて白色粉を生産する工場を経営しており、家業の関係で転居が多く、小学校高学年から中学校3年生まで奈良に居住。1935(昭和10)年、大阪外国語学校フランス語部に入学。同校在学中に赤松麟作の主宰する赤松洋画研究所に通い、38年に大阪外国語学校を卒業して東京美術学校油画科に入学。池袋パルテノンと呼ばれた椎名町に下宿し、41年、文展出品を目指していた制作中であった「庭にて」の下絵を見てもらうため、藤本東一良の紹介で寺内萬治郎を訪ねて以後、寺内に師事する。同年第4回新文展に「庭にて」で初入選。42年第5回新文展に「F嬢の像」で入選。同年、第29回光風会展に「M嬢の像」で初入選し、レートン賞受賞。同年10月に美術学校を繰り上げ卒業となり、44年に海軍教員としてセレベス島に派遣される。46年復員し、しばらく大阪に居住。47年寺内萬治郎の勧めで上京し、同年の33回光風会展に「読書」「小児像」を、第3回日展に「バレリーナ」を出品。50年光風会に「室内」「母の像」を出品してO氏賞受賞、翌年同会会員に推挙される。52年、当時の神学の権威であった熊野義孝(1899-1981)をモデルとした「K牧師の肖像」によって日展特選及び朝倉賞受賞。56年第42回光風会展に「画室の女」「青い服の肖像」を出品して南賞受賞。58年藤本東一郎、渡辺武夫、榑松正利らと北斗会を結成し、第一回展を東京銀座・松屋で開催し、以後毎年同展に出品を続ける。58年第1回新日展に「人物」を委嘱により出品。同作品は対象を色面に分割してとらえる方法で描写され、それまでの穏健な再現描写を踏まえた画風の展開が見られる。翌年の第2回新日展出品作「家族」はバイオリンを弾く少女を囲む群像を簡略化した人物描写でとらえており、音楽を奏でる、あるいは聴く人物像というモチーフとともに、晩年まで続く作風を方向付ける作品となっている。67年日展にチェロを弾く男性を描いた「音楽家」を出品して菊華賞受賞。70年日展審査員。71年日展会員。81年第67回光風会展に長いドレスの女性とギターを持つ男性を並立するように描いた「踊子とギタリスト」を出品して辻永賞受賞。86年日展評議員。同年12月資生堂ギャラリーにて個展。87年第19回日展に弦楽カルテットを描いた「音楽家たち」を出品し文部大臣賞受賞。2000(平成12)年3月に日展出品作「聴音」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞し、同年12月に日本芸術院会員となった。赤松麟作、寺内萬治郎を師と仰ぎ、穏健な再現描写を基盤とし、穏やかな色の筆触を重ねて対象を浮かび上がらせる作風で音楽家や踊り子などを描いた。【新文展出品歴】新文展第4回(1941年)「庭にて」(初入選)、第5回(1942年)「F嬢の像」、1943年、44年は不出品【日展出品略歴】第1、2回不出品、第3回(1947年)「バレリーナ」、第4回不出品、第5回(1949年)「室内」、第6回「画室の父」、第7回「坐像」、第8回「K牧師の像」(特選・朝倉賞)、第9回「婦人像」、第10回(1954年)「青衣少女」、第11回「赤い服の女」、第12回「腰掛けた女」、第13回(1957年)不出品【社団法人日展】第1回(1958年)「人物」、第5回(1962年)「耳野先生像」、第10回(1967年)「音楽家」(菊華賞)【改組日展出品略歴】第1回(1969年)「作曲家」、第5回(1973年)「白鳥」、第10回(1978年)「すぺいん舞踊家」、第15回(1983年)「舞踊団の人たち」、第19回(1987年)「音楽家たち」(文部大臣賞)、20回(1988年)「ギタリスト」、第25回(1993年)「ピアニスト」、第30回(98年)「調弦」、第35回(2003年)「ヴィオロニスト」、第40回(2008年)「聴音」、第45回(2013年)「セロ弾き」【改組新日展出品歴】第1回(2014)年「演奏家」、第2回(2015年)「バレエ団の人たち」(遺作)

江見絹子

没年月日:2015/01/13

読み:えみきぬこ  日本絵画史上、先駆的な抽象表現を試みた女性画家の江見絹子は1月13日、心不全のため死去した。享年91。 1923(大正12)年6月7日兵庫県明石市二見町に生まれる。本名荻野絹子。1940(昭和15)年3月兵庫県立加古川高等女学校卒業。翌年から43年まで、後に二紀会会員となる洋画家伊川寛の個人教授を受け、45年から49年まで神戸市立洋画研究所に学ぶ。この間の48年7月から50年9月まで神戸市立太田中学校に勤務。49年第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に神戸市から横浜市に転居。50年第5回行動展に「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞受賞。51年第6回同展に暗い背景の中に群像を描いた「夜の群像」を出品して新人賞受賞、会友推挙。52年第7回行動展に臥裸婦と座す群像を組み合わせた「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し「むれ(2)」で行動美術賞受賞。同年女流画家協会展に「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し、同会会員となる。53年第8回行動展に「三立婦」を出品し、行動美術協会で初めての女性会員となる。53年11月渡米。54年2月にアメリカ・カリフォルニア州サウサリトで個展を開催し「むれ(2)」等を展示。後、ニューヨークを経てヨーロッパに渡り、55年8月までパリを拠点にヨーロッパに滞在。ルーブル美術館に通い、西欧絵画を研究する一方で、当時パリで隆盛していたアンフォルメル様式や抽象絵画にも触れた。54年南欧を旅行し、ラスコーとアルタミラの壁画を見て衝撃を受け、「芸術とはなんであるか」を深く考えたことを契機として、作風が大きく変化し、対象を簡略化した形体でとらえる半抽象へと向かう。55年秋に帰国。56年8月シェル新人賞展に黄褐色の背景に茶色のフォルムを配した抽象画「生誕」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。58年第2回シェル美術賞展に「象徴」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。同年アメリカ・ピッツバーグのカーネギー研究所で開催された第41回ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「錘」を出品。60年第4回現代日本美術展に「リアクション1」「リアクション2」を出品、以後、5,6,7,9回同展に出品する。61年第6回日本国際美術展に「作品」を出品し、以後第8回展まで出品を続けた。61年神奈川県女流美術家協会を創立。62年第5回現代日本美術展に「作品Ⅰ」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。同年6月第31回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に杉全直、向井良吉、川端実、菅井汲とともに出品。日本の女性作家として初めての同展参加となった。同展に出品された「作品」「作品1」~「作品7」は、57年頃から行っていた、自作の油絵を池に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸した絵具を用いる方法で制作され、抑えた色調と重厚なマチエルを持つものであった。ヴェネチア・ビエンナーレ後は鮮やかな色彩が用いられるようになり、75年から86年までカンバス上にテレピン油ないし溶かした絵具を流す技法を取り入れて、画材の性質に委ねる表現を画面に取り込んだ。この頃、江見は「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」(『現代美術家大百科』茨城美術新聞社、1980年)と語っており、形と色によって画面に動きや光が宿る制作を続けた。1991(平成3)年、横浜文化賞受賞。96年3月「江見絹子自選展」(横浜市民ギャラリー)、2004年4月に「江見絹子展」(神奈川県立近代美術館)、10年11月に「江見絹子」展(姫路市立美術館)が開催されており、04年、10年の展覧会図録に詳細な年譜が掲載されている。

辰野登恵子

没年月日:2014/09/29

読み:たつのとえこ  画家で、多摩美術大学教授の辰野登恵子は、9月29日、転移性肝癌のため死去した。享年64。 1950(昭和25)年1月13日、長野県岡谷市に生まれる。68年3月、長野県諏訪二葉高等学校を卒業、同年4月東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。72年3月、同大学を卒業、同年4月同大学大学院美術研究科油画専攻に進む。74年3月、同大学院修士課程修了。 在学中から、ポップアート、ミニマルアートの隆盛に敏感に呼応しながら、無機的なフォルムの連続のなかに不意にあわわれる差異や断絶を表現した作品(シルクスクリーン等)を発表していた。その後、1980年代から絵画表現に取り組み、絵画の平面性を意識しつつ、断片的で、かつ具体的なフォルムに依拠しながら現代「絵画」の可能性を切り開いていった。その表現とは、当時のニュー・ペインティングの流行とは一線を画して、ミニマルアート以後硬直化した平面表現に、「絵画」を構成する線やフォルム、色彩の持つ本来の豊かさと深さを提示するものであり、新鮮な衝撃をもって注目されるようになった。84年11月、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 メタファーとシンボル」展に出品。(同展は、国立国際美術館に巡回)。1989(平成元)年、ゲント市立現代美術館(ベルギー)で開催の「ユーロパリア ’89ジャパン現代美術展」に出品。94年2月、ゲストキューレターにアレクサンドラ・モンローを迎え、企画された横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」展(Japanese Art after 1945:Scream against the Sky)に出品(同展は、米国ニューヨークのグッゲンハイム美術館、並びにサンフランシスコ現代美術館を巡回。)同年、第22回サンパウロ・ビエンナーレ(日本側コミッショナー:本江邦夫)に遠藤利克、黒田アキとともに出品。95年9月、東京国立近代美術館にて「辰野登恵子 1986-1995」展を開催。10年間にわたる絵画作品39点等による個展を開催し、現代における「絵画」表現のひとつの指針を示すものとして評価された。翌年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。2003年、多摩美術大学客員教授となり、翌年から同大学教授となる。12年8月、国立新美術館にて「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展を開催。翌年、第54回毎日芸術賞受賞。 90年代以降、華やかな色彩と重厚なテクスチャーに支えられた大画面の空間に、球体、矩形、波形等、きわめてシンプルなフォルムの連環を大胆に描き続けていたが、その背後にはプライヴェートなイメージの増幅、変容ばかりではなく、現代美術、あるいは平面表現の動向に対する批判的、戦略的な造形思考と意図がこめられていたといえる。しかも新作においては、つねに新しい試みが示され、今後の可能性を大いに期待されていた。没後、追悼する展示が、下記にあげるように辰野作品を所蔵する公立美術館等で数多く開催された。こうした現象は、美術関係者にとどまらず多くの人々が、辰野の作品に現代における「絵画」表現の可能性を見出しつつ、現在の美術の側から問い直しを促したものであり、いかにその早逝が惜しまれたことがわかる。「辰野登恵子追悼展」(市立岡谷美術考古館、長野県岡谷市、2015年3月6日-5月10日)「トリコロール 辰野登恵子展」(Red and Blue Gallery、東京都中央区、同年9月1日-10月17日)「所蔵作品展 辰野登恵子がいた時代」(千葉市美術館、同年7月7日-8月30日)「MOMASコレクションⅢ 特集展示 辰野登恵子-まだ見ぬかたちを」(埼玉県立近代美術館、同年10月10日-2016年1月17日)「辰野登恵子 版画1972 1995」展(ギャラリー・アートアンリミテッド、東京都港区、2015年12月5日-2016年1月15日)「MOTコレクション コレクション・オンゴーイング 特別展示:辰野登恵子」(東京都現代美術館、2016年3月5日-5月29日)「辰野登恵子 作品展」(ツァイトフォトサロン、東京都中央区、同年3月15日-5月7日)「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展(BBプラザ美術館、兵庫県神戸市、前期同年7月5日-8月7日、後期8月9日-9月19日)「宇都宮美術館コレクション展 特集展示 辰野登恵子 愛でられた抽象」(宇都宮美術館、同年7月31日-9月4日)

永田力

没年月日:2014/07/27

読み:ながたりき  画家の永田力は、7月27日腎臓がんのため死去した。享年90。 1924(大正13)年、長崎県に生まれる。中学卒業後、画家を志し上京、同舟舎に学ぶ。1943(昭和18)年中国東北部に渡りシベリヤ経由でパリをめざすが、一時昭和製鋼所報道班(自筆別文献では「満洲製鉄」とも)に務める内、応召がかかる。敗戦後ソビエトで抑留生活を送る。収容所では馬の毛で筆をつくりロシア兵を描いたという。復員後の48年上京する。53年風間完らと「エンピツの会」を結成、東京の美松画廊で3年続けグループ展を開催。57年日本天然色映画の設立に参加。その後、岩谷書店発行の雑誌『宝石』編集部で働きながら絵画制作を続ける。公募展では、49年第20回第一美術協会展に「街」、「駅前」、「議事堂風景」(第一美術賞受賞)を出品。51年には総会に改革案を提出するも否決されることで退会し、第15回自由美術展に「風景」を出品し会員になる。同展には67年まで出品。この間、メンバーの自由美術家協会から主体美術協会への分裂騒動のなか、自由美術の事務局を担っていたため、退会を遅らした事情がある。その後、アークラブに属し、無所属となる。国際展では57年第1回アジア青年美術家展でフライシュマン賞を受賞。スイスのグレッフェン・トリエンナーレ、ドイツのライプチッヒ世界風刺画ビエンナーレ等に出品。60年『図解された洋画の技法集 別冊アトリエ』64を上梓する。水上勉の小説『飢餓海峡』(62年、『週刊朝日』連載、講談社さしえ賞受賞)の挿絵をはじめ、『オール読物』や『週刊新潮』等でも挿絵を寄稿した。63年、67年、69年、70年、72年、73年、75年、79年と8回東京の南天子画廊で個展を開催。1995(平成7)年に東京のギャラリーミキモトで個展を開催。ピエロや芸人たちをモチーフに、人間の孤独、悲しみの情感を描くことに取り組んだ。96年から芸術研究をジャンル横断的に行なう「東方藝術思潮会」を主催した。

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