本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





桂ゆき

没年月日:1991/02/05

既製の枠組にとらわれず、自由な制作を求め、戦前から前衛美術運動の中心的画家の一人として活躍した洋画家桂ゆきは、平成2年5月からがんのため入院、療養中であったが、2月5日午後2時30分、心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正2(1913)年10月10日、東京都文京区に生まれる。本名雪子。父弁三は東京帝国大学教授をつとめる冶金学者。文京区誠之小学校を経て昭和元(1926)年東京府立第五高等女学校に入学し、この年から両親の勧めで池上秀畝に日本画を学ぶ。しかし、もとから油絵修学を希望していたため2年程で日本画修学をやめ、同6年第五高女卒業の年、洋画家中村研一に学び始める。同7年中村の紹介で岡田三郎助にも師事。同8年第20回光風会展に「庭」「海岸風景」「冬」を出品して初入選。この頃アカデミックな絵画に不満を持ち、同年、アヴァンギャルド洋画研究所に通い始める。同22年5月、海老原喜之助の勧めにより、銀座・近代画廊で当時まだ日本で紹介されていなかったコラージュによる個展を開く。同年第22回二科展に「祭」で初入選。同13年吉原治良、山口長男とともに、前衛・抽象画を目指す九室会を創立。翌14年第1回九室会展に「行進」「冠」を出品し、同年の第26回二科展には「源氏」「帆船」「郷土」を出品して特待となる。戦後は、同21年女流画家協会設立に参加し、同24年第3回同展に「静物1」「静物2」を出品して同協会賞を受賞。同25年二科会会員となる。同28年第2回日本国際美術展に、翌29年第1回現代日本美術展に出品。同30年第40回二科展に「おざしきの人達」「傘と靴」「鬼とゆかた」「おしゃれなゲジゲジ」を出品して会員努力賞を受ける。同31年渡仏し、6年にわたってフランス、アメリカに滞在。この間、同33年アフリカに渡り猛獣狩りなどを体験する。欧米滞在中、パリのポンピドゥー・センターで行なわれたインターナショナル・ウォアマンアート展、米国アリゾナ大学アート・ギャラリーでのインターナショナル・コンテンポラリィ・ペインティング展、ミラノのプレミオ・リソーネ展、米国第27回コーコラン・ビエンナーレ等に出品したほか、パリのイルス・ワレール・ギャラリーで個展を、米国ワシントンのグレス・ギャラリーで岡田謙三、川端実らとグループ展を開催。同36年帰国し、同年の第6回日本国際美術展に「異邦人」を出品し優秀賞を受賞。同年二科展を退く。同37年アメリカ、アフリカでの体験をつづった『女ひとり原始部落に入る』を出版。翌年この著作で毎日出版文化賞を受ける。同41年第7回現代日本美術展に「ゴンベとカラス」「よくばりばあさん」を出品し最優秀賞を受賞。翌年オーストラリア、ニュージーランドを旅する。その後も女流五人展、新樹会展などに出品。同55年山口県立美術館で「桂ゆき展」を開催。同60年東京INAXギャラリーで「紅絹のかたち」を題する個展を開く。戦前からコルク、新聞紙、レース等のコラージュによる前衛的な作品を発表し、戦後には痛烈な社会風刺とユーモアを含む制作を展開。昭和50年代には再びコルクを素材とし、コルクを巻紙状に細く棒状に巻いたものをコラージュして画面を構成する試みを行なった。同60年のINAXギャラリーでの作品は紅絹で人物大の釜、三角形や円などの単純な形の組み合わせによる狐やタヌキを制作。通常の「美術」の枠組にとらわれない自由な発想にもとづく作品は、常に既成概念を踏み破る革新性に満ちていた。平成3年、下関市立美術館で回顧展が開催された。

中川一政

没年月日:1991/02/05

日本洋画界の最長老で文化勲章受章者中川一政は、2月5日午前8時3分心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去した。享年97。70余年に及ぶながい画業をとおし、ひたすら独自の作風を追求し現代の文人画家とも称された中川一政は、明治26(1893)年2月14日東京市本郷区に警視庁巡査中川政朝の長男として生まれた。同45年錦城中学校を卒業、翌大正2年から1年半兵庫県芦屋市に滞在、この間、雑誌『白樺』を愛読し聖書に親しんだ。また、芦屋滞在中の同3年8月頃から独学で油絵を描き始め、同年10月に帰京後、巽画会第14回展に「酒倉」を出品し入選した。これは、審査員であった岸田劉生の推賞によったという。翌4年早々に代々木時代の劉生を初めて訪ね、3月の巽画会第15回展には「監獄の横」他2点を出品し椿貞雄とともに最高賞にあたる二等銀牌を受賞、10月の第2回二科展には「幼児」他を出品、また、草土社の第1回展となった現代の美術社主催第1回美術展覧会に「自画像」他を出品し、同じく出品した劉生や木村荘八らと草土社を組織し同人となった。草土社展へは、同11年第9回展で終了するまで出品を続けた。草土社結成前後から劉生との交渉が深まり、劉生を通し武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知った。ただし、画風は当初から劉生の影響の強いいわゆる草土社風ではなく、独自の抒情性をたたえたものであった。同10年、第8回二科展に「静物(薬瓶の静物)」などで二科賞を受賞、同年有島武郎の推薦で詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版した。翌11年、小杉放庵、梅原龍三郎らによる春陽会結成に際し、劉生、木村荘八らとともに同会客員として招かれ、翌年の第1回展から出品を続けた。この間、一時ゴッホに傾倒し同14年訳書『ゴオホ』を出した。昭和2年、小杉放庵の肝入りによる老荘会に加わり、以後中国の古典に親しむ。同6年には麹町倉橋邸で最初の水墨画展を開いた。また、同3年に片岡鉄兵『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を担当したのをはじめ、同8年には尾崎士郎『人生劇場青春篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆、一方、『武蔵野日記』(同9年)『庭の眺め』(同11年)などの随筆集を刊行しすぐれた文才も示した。戦前は、同13年から18年の間、第5回展をのぞき新文展の審査員を依嘱される。戦後は春陽会展の他、美術団体連合展、秀作美術展などで新作発表を行う。同23年には武者小路らとともに生成会同人に加わり、雑誌『心』を創刊した。同28年ニューヨークを経てブラジルへ赴き、翌年ヨーロッパを巡遊して帰国した。また、同33年、39年には中国を訪れる。同33年、ピッツバーグ現代絵画彫刻展に「イチゴと赤絵の鉢」を出品、同42年には『中川一政画集』(朝日新聞記)を刊行した。同50年文化勲章を受章する。初期の日本的フォーヴィスムの画風から、次第に時流を超えた自己の絵画世界を展開し、簡潔明快で清朗な独自の作風をうちたてた。油彩具のほか岩彩もしばしば試み、また、書や陶芸も手がけた。戦後の作品に「マリアの国」(昭和34年)、「尾道展望」(同37年)などがあり、歌集に『向う山』、随筆集に『香炉峰の雪』他がある。 年譜明治26年2月14日 東京市本郷区中川政朝の長男に生れる。父母とも金沢の人で、政朝は上京後、警視庁巡査となる。明治36年東京府下巣鴨村字向原に転居。巣鴨監獄の近くであった。明治40年3月 本郷区誠之高等小学校を卒業。明治45年3月 錦城中学校を卒業。大正2年この年兵庫県芦屋市斎田家の客となり、滞在一年半に及ぶ。『白樺』を愛読し、また熱心なキリスト教信者であった斎田家の人々の影響で聖書に親しむ。大正3年8月 この頃から油絵をかき始める。10月 東京に帰り、巽画会第14回展に「酒倉」を出品、入選する。「酒倉」は審査員岸田劉生が推して入選したことを後に知った。大正4年1月 「霜の融ける道」を描く。この頃画家への志望を強め、はじめて代々木時代の岸田劉生を訪ねる。3月 巽画会第15回展に「監獄の横」「霜の融ける道」「少女肖像」を出品、このときの最高賞である二等賞銀牌を受賞した。10月 第2回二科美術展覧会(三越呉服店旧館3階)に「幼児」「弟に与ふる自画像」「春光」を出品、現代の美術社主催第1回美術展覧会(銀座、読売新聞社楼上)に「秋の丘の道」「自画像」「デッサン(鉛筆)」「監獄の横」を出品。このとき出品した岸田劉生、木村荘八らと草土社を組織して同人に加わり、この展覧会を草土社の第一回展とした。劉生との交渉次第に深くなり、また劉生を介して武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知る。大正5年4月 草土社第2回美術展覧会(銀座、玉木美術店楼上)に「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」を出品。11月 草土社第3回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「酒倉」(1914年作)「監獄の横(1)」(同)「霜の融ける道」(1915年作)「習作」(同)「春光」(同)「監獄の横(2)」(同)「山の麦畑(未成品)」(1916年作)「自画像」(同)「うすく曇った日の風景」(同)「素描風景」(同)を出品。大正6年2月 岸田劉生鵠沼に転地する。劉生の鵠沼時代は大正12年9月の大震災まで続き、この間しばしば劉生を訪ね、時には1カ月ぐらい泊りがけで遊びに行った。4月 第4回草土社展覧会(京橋橋際、玉木商会楼上)に「風景」(1916年作)「素画-けぶれる冬」「けぶれる冬」「監獄之横(1)」「静物(1)」「静物(2)」「監獄之横(2)」「静物(3)」「横堀肖像」「素画-久保君の顔」「素画-原野の道」「素画」を出品。9月 第4回二科美術展覧会に「風景」を出品。12月 第5回草土社展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「うすく曇った日の風景」(1916年作)「風景」(同)「監獄之横(1)」(1917年作)「監獄之横(2)」(同)「夕日落つる踏切」(同)「風景(鵠沼)」(同)「野娘(エチュード)」(同)「少女」(同水彩)を出品。大正7年9月 第5回二科美術展覧会に「冬」「夏」を出品。12月 草土社第6回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「冬」(旧作)「静物」「暮春の景色」「練兵場となりし城跡」「スケッチ(1)」「スケッチ(2)」を出品。大正8年3月 同人雑誌『貧しき者』を創刊する。発行所は中川方「貧しき者社」である。武者小路実篤や千家元麿らも寄稿し、月刊で10号ぐらい続いた。9月 第6回二科美術展覧会に「暮春の景色」「下板橋の川辺(冬)」「監獄裏の日没」を出品。12月 第7回草土社美術展覧会には出品を中止した。大正9年4月1日-15日 神田裏神保町6、兜屋画堂において個人展覧会を開催、このとき会場を訪れた石井鶴三を知る。9月 第7回二科美術展覧会に「静物(1)」「静物(2)」「自画像」「草枯れし監獄の横」を出品。12月 草土社第8回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「肖像断片」「冬の路傍」「自画像」「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」「静物(1)」「静物(2)」「静物(3)」「初冬の道」「池袋の麦畑」「男の肖像」を出品。大正10年2月 詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版する。有島武郎の推薦と叢文閣主人の好意で実現した。9月 第8回二科美術展覧会に「静物」「静物」「静物小品」を出品し、二科賞を受賞する。この年画室を新築する。大正11年1月14日をもって春陽会成立し、木村荘八、岸田劉生、椿貞雄、万鉄五郎、斎藤与里らと招かれて客員となる。大正13年第2回展のとき客員制を廃した。11月 草土社第9回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「静物」「初夏川畔」「初夏川畔」「厨房静物」「厨房静物」(以上油絵5点)、「白描居留地図(画箋)」「白描居留地図(画箋)」「赭墨小品」(画箋)」(以上日本画三点)を出品。草土社は第9回展で終る。大正12年4月 『白樺』第14年4月号に詩八篇を発表。5月 春陽会第1回美術展覧会(上野公園、竹の台陳列館)に「椿花」「静物小品(其1)」「静物小品(其2)」「静物(其1)」「春暖」「居留地図」「厨房静物」「村の景色」「隅田川」「静物(其2)」を出品。10月28日 伊藤暢子と結婚する。暢子の兄に舞踊家ミチオ・イトウ、舞台装置の伊藤熹朔があり、俳優千田是也は弟である。仲人は野上豊一郎、弥生子夫妻であった。大正13年第2回春陽会展(三越呉服店)「村娘」「村娘(クロッキー)」「中禅寺湖」「二月」「風景」「修善寺温泉」「薄日さす景色」「素描(中禅寺湖)」「素描(行人坂)」「素描(湖畔)」大正14年4月 中川一政訳『ゴオホ』アルスから出版される。ひところゴッホに傾倒しその影響をうけた。9月 巣鴨の画室を引払い東京市外和田堀之内村永福寺隣に移る。第3回春陽会展「静物(其4)」「静物小品(其1)」「野娘」「肖像(其2)」「肖像(其1)」「中禅寺」「静物(其1)」「静物(其2)」「静物(其3)」「静物小品(其2)」「湯ケ原」大正15年4月 『中川一政画集』をアトリヱ社から出版。5月 第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に「上水べり」「春の川辺」を出品。上野公園に新築された東京府美術館の落成を記念して開催された。第4回春陽会展「静物小品」「晩春新緑」「初夏水流」「静物」「うすれ日」「野川」「夏景」昭和2年9月 小杉放庵の肝入りで「老荘会」という集りができ、週1回田端の放庵邸で漢学者公田連太郎翁に中国古典の講議を聞く。荘子からはじめて、詩経、文選、易経の大半を、昭和20年爆撃をうけるまで続けた。石井鶴三、木村荘八、岡本一平、かの子夫妻、岸浪百草居、美術記者の外狩素心庵、田沢田軒、金井紫雲などが常連であった。翁の漢字に対する深い学殖とすぐれた労作に第32回(昭和36年度)朝日文化賞が贈られた。第5回春陽会展(東京府美術館)「花(3)」「同上(4)」「うすれ日」「チューリップ」「浅春」「花(1)」「花(2)」昭和3年6月 7月にかけて片岡鉄兵原作『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を執筆する。第6回春陽会展「信濃川岸」「冬山」「上水べりA」「同B」「山村早春」「山間早春」「山」昭和4年9月 春陽会洋画研究所麹町区内幸町幸ビルディング4階に開設される。第7回春陽会展 「山村春」「生ける人形挿絵」(6点)「歳晩帖(忙中閑人、旅の宿、川国境を為す、仲秋初月、修善寺桂川、山間春浅、独異郷に在り、漁村雨後、山村春宵、窓前他国山、山田猟人来る、黒部渓谷鐘釣)」「郊外」「静物小品」昭和5年6月 『美術の眺め』をアトリヱ社から出版。第8回春陽会展 「朝の道」「冬山の眺め」「枯山」「煙霞帖(煙霞如是好、山中春望、時春雨寒、偶海村月、我愛日本国、海村春望、春自遠方来、能解閑行有幾人、山間日永、漁樵同時)」昭和6年5月 麹町、倉橋藤治郎邸において最初の水墨画個展を開催。9月 佐藤春夫とともに文芸雑誌『古東多方』の編集に携わる。第9回春陽会展「煙霞帖追補 前山薇也肥」「煙霞帖追補 二月入斧之時」「煙霞帖追補 波浮港」「山家花」「城山」「山裏春(鉛筆淡彩)」「葉桜(岸田国士さしゑ)」「屋上庭園(同)」「頼母しき求緑(同)」昭和7年8月 『原色版セザンヌ大画集第3巻静物』(中川一政編輯解説)アトリヱ社から出版される。第10回春陽会展 「閑行帖(夜半春雨過、誰知山中春、扇面漁樵、身賎知農事、山従人面起、秋風何処至、円窓秋山、能解閑行有幾人)」「夜久野」「日坂」「川奈」「山の刈田」昭和8年2月 『美術方寸』を第一書房から出版。3月 7月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場春青篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 二科会第20回展を記念する回顧作品陳列室に「静物」(1921年作)を出品。第11回春陽会展 「冬田之畔(遠州菊川)」「信濃之道」「白い壁」「山家秋(水墨)」「人生劇場挿画」(10点)昭和9年10月 『武蔵野日記』を竹村書房から出版。第12回春陽会展 「春浅」「霜の山」「山川呼応」昭和10年2月 六潮会第4回展(日本橋、三越)に招かれて「春眺秋望冊」を特別出品。六潮会は日本画家中村岳陵、山口蓬春、福田平八郎と、洋画家中川紀元、牧野虎雄、木村荘八に批評家外狩素心庵、横川毅一郎を同人とする研究団体であった。3月 東京府美術館10周年記念現代綜合美術展覧会に「冬田之畔(遠州菊川)」(1933年作)を出品。第13回春陽会展 「芭蕉屏風」昭和11年5月 『庭の眺め』を竹村書房から出版。第14回春陽会展 「白百合花」「富士川」「富士川べり」「山川冬晴」「冬川」「早梅」「覉魂」「身辺屏風」「人生劇場挿画」(11枚)昭和12年2月 小川芋銭、小杉放庵、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと墨人会倶楽部を結成。4月 大阪朝日新聞社主催明治大正昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)に「山川呼応」(1934年作)を出品。6月 墨人会第1回展(大阪、朝日会館)に「金魚」「水辺蛙」などを出品。8月 春陽会講習会のため1カ月間台湾へ行く。11月 春陽会洋画研究所閉鎖される。12月 尚美堂主催第1回春陽会日本画展(銀座、三越)に「一茶屏風(二曲一双)」「雪中梅」「我が家に鯉のゐるぞ嬉しき」その他を出品。第15回春陽会展 「鷲津山」「一茶小屏風」昭和13年4月 9月にかけて尾崎士郎原作『石田三成』(都新聞連載)の挿絵を執筆。6月 墨人会第2回展(上野、日本美術協会)に「俳諧屏風」を出品。9月 『顔を洗ふ』を中央公論社から出版、第2回文部省美術展覧会(新文展)第2部審査員を依嘱される。第16回春陽会展 「三月海」「入江(2)」「入江(1)」昭和14年3月 満州、北支に旅行する。5月 12月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場風雲篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 第3回新文展第2部審査員を依嘱される。10月 第3回新文展に「樹の下の子供」を出品。11月 石原求龍堂主催中川一政扇面画展(銀座、三昧堂)に、扇面画20点を出品。第17回春陽会展 「春曇」「牧の郷」「窓外山川」「石田三成挿画(1-6)」昭和15年8月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会委員を依嘱される。10月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「樹の上の少年」を出品。12月 藤田嗣治、石井柏亭、小杉放庵、石井鶴三、木村荘八、鍋井克之、津田青楓らと「邦画一如会」を結成。第18回春陽会展 「安良里(1)」「安良里(2)」昭和16年3月 邦画一如会第1回展(日本橋、三越)に「万葉屏風(二曲半双)」を出品。8月 第4回新文展審査員を依嘱される。10月 大札記念京都美術館秋季特別陳列に「風景」を出品、第4回新文展に「新劇女優」を出品。第19回春陽会展 「安良里」「椅子の女」「九州の春」昭和17年2月 銀座、資生堂において第2回水墨展を開催。9月 11月にかけて中山義秀原作『征婦の詩』(中部日本新聞連載)の挿絵を執筆。10月 『美しい季節』を桜井書店から出版。12月 『一月桜』を大阪、錦城出版社から出版。第20回春陽会展 「徒然の女」「うらの山」、特別室「静物」昭和18年6月 第6回新文展審査員を依嘱される。6月 詩集『野の娘』を昭南書房から出版。9月 銀座、資生堂において第3回水墨展を開催。10月 第6回新文展に「田園五月」を出品、歌集『向ふ山』を昭南書房から出版。11月 京都、南禅寺無隣庵において石井鶴三、中川一政水墨展開催される。11月 春陽会教場設立され、委員長となる。第21回春陽会展 「晩春風景」、水墨 「雪晩」「沢」「川蟹」「山桜頬白」「菜畑」「万葉屏風」昭和19年7月 本郷、大勝画廊において新作展を開催。11月 銀座、資生堂において水墨展を開催。第22回春陽会展(東京都美術館) 「雪(1)」「雪(2)」「寒椿」「雪景」昭和20年8月 疎開先の宮城県宮床村で終戦を迎える。昭和21年11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。第23回春陽会展(三越) 「花」昭和22年4月 日本橋、三越において中川一政展を開催し、「梨と柿」ほかを出品。5月 倉敷、大原美術館において講演を行う。7月 『我思古人』を靖文社から出版。11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。12月 『篋中デッサン』を建設社から出版。第24回春陽会展 「椿桃」「蛙」「柿柘榴」「椿」「林檎」昭和23年6月 日本橋、高島屋において石井鶴三、小杉放庵、木村荘八と第1回春陽四人展を開催。7月 武者小路実篤、長与善郎らとともに「生成会」同人に加わり、雑誌『心』を創刊。10月 たくみ工芸店において中川一政、浜田庄司新作展開催される。春陽会25周年記念展 「三島手扁壷」「少年夏帽子」「壷の花」「椿静物(1)」「椿静物(3)」「風和日暖」「鰯」「椿静物(2)」昭和24年4月 大阪、高島屋において近作発表会を開催。5月 神奈川県足柄下郡真鶴町1575に画室を持つ。5月 第3回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に「静物椿の花」を出品、日本橋、三越において第2回中川一政新作展を開催。第26回春陽会展 「少年像」昭和25年3月 第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「花」を出品。5月 第4回美術団体連合展に「晩春新緑」を出品。7月 『香炉峰の雪』を創元社から出版。第27回春陽会展 「静物水墨」「夏草の花」「マジョリカ壷」「夏花図」昭和26年10月 壷中居において中川一政新作展を開催し、「福浦」ほかを出品、大阪、高島屋において中川一政新作展を開催。第28回春陽会展 「かながしら、かさご」「椿 林檎」「かながしら、貝」「沖のかさご、土瓶」「金目鯛 鯵」「万暦螺細文庫」「煎茶」「柿、みかん」「少年像」「村の夕」「村の眺め」昭和27年1月 第3回秀作美術展に「少年像」を出品。10月 大阪、高島屋、岡山、金剛荘において中川一政新作展を開催。第29回春陽会展 「漁舟帰る時」「漁村図」「風炉先屏風(春)金目鯛」「風炉先屏風(冬)雪中児童」昭和28年1月 第4回秀作美術展に「漁舟帰る時」を出品。5月 大阪、高島屋において中川一政紙本小品展を開催。7月 一政花十題展(兼素洞)に「椿静物」、水墨画9点(うち扇面6点)を出品。10月 龍三郎、一政新作展(兼素洞)に「百合と枇杷」「三島手扁壷」「ダリヤと果物(水墨画)」「福浦」を出品。11月25日 羽田発、アラスカ、ニューヨークを経てブラジルに渡り、第2回サンパウロ・ビエンナーレを見る。12月22日 フランス船ラボアジール号でリオデジャネーロを出港、ルアーブルへ向う。第30回春陽会展 「入江」「福浦港」昭和29年1月 第5回秀作美術展に「福浦港」を出品、『見えない世界』を筑摩書房から出版。1月 ルアーブル着、パリ、ローマほかイタリアの諸都市、ロンドンを見学。4月16日 帰国。5月 『大正期の画家』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品。8月 『水彩と素描』展(国立近代美術館)に「信濃川岸村(鉛筆)」を出品。昭和30年1月 『モンマルトルの空の月』を筑摩書房から出版。4月 サエグサ画廊において中川一政滞欧スケッチ展を開催、日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催。9月10日 国立近代美術館主催『晩期の鉄斎』展に際し、同館講堂において「鉄斎の芸術」と題し講演を行う。昭和31年1月 第7回秀作美術展に「ダリヤの静物」を出品。5月 名古屋、松坂屋において中川一政新作展を開催。7月 『日本の風景』展(国立近代美術館)に「福浦港(突堤)」「福浦港(波打際)」を出品、雨晴会第1回展(兼素洞)に「波打際」「ダリヤと枇杷(岩彩)」を出品。昭和32年2月 画集『鉄斎』筑摩書房から出版される。武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄と監修に当り、『鉄斎の仕事』を執筆。3月 雨晴会第2回展に「マリア園の眺め」「大浦天主堂の眺め」を出品。7月 毎日新聞社主催現代美術十年の傑作展(渋谷、東横)に「福浦港(突堤)」(1956年作)を出品。10月 漁樵会(小杉放庵、中川一政二人展)(ギャラリー創苑)に「魚」ほか扇面8点を出品。昭和33年1月 第9回秀作美術展に「マリア園の眺め」選抜される。3月 日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催し、油彩19点、墨彩20点を出品、雨晴会第3回展に「長崎風景(1)」「長崎風景(2)」を出品。6月 『正午牡丹』を筑摩書房から出版。10月 光琳生誕三百年記念展覧会が北京で開催されるのを機会に中国を訪問し、北京、大同、西安等を巡遊する。行を共にしたのは団長中川一政、副団長千田是也、石井鶴三、谷信一、水沢澄夫であった。12月 ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展に「イチゴと赤絵の鉢」(1957年作)を出品。第35回春陽会展 「パンジー(1)」「静物」「チューリップ」「椿」「パンジー(2)」昭和34年1月 第10回秀作美術展に「マリア園」を出品、『戦後の秀作』展(国立近代美術館)に「マリア園」を出品。3月 『近代日本の静物画』展(国立近代美術館)に「万暦螺細文庫」「李朝三島手扁壷」「春花図」を出品、雨晴会第4回展に「天主堂」「港の雪(1)」「港の雪(2)」を出品。7月 中川一政、熊谷守一二人展(ギャレリー・ポワン)に「信州の新緑」「長崎小品」、ほかに「ダリア(金地墨彩)」など墨彩3点を出品。10月 朝日新聞社、東京国立博物館主催明治大正昭和三代名画展(第2会場銀座、松坂屋)に「薬瓶のある静物」を出品。12月 『道芝の記』を実業之日本社から出版。第36回春陽展 「バラ、リンゴ(水墨)」「椿、ネルソン壷(水墨)」「アマリリス、マジョリカ壷(水墨)」「長崎の夕暮」昭和35年1月 第11回秀作美術展に「長崎の夕暮」を出品。1月 長与善郎、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎四人展(日本橋、三越)に出品、『近代日本の素描』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「芙蓉静物」を出品。3月 雨晴会第5回展に「佐世保」「平戸」を出品。5月 「漁村凱風」全国知事会から東宮御所に献納される。12月 歌会始めの召人に選ばれる。第37回春陽展 「チューリップ(水墨)」「磯浜」「椿(水墨)」昭和36年1月 第12回秀作美術展に「磯浜」を出品。1月12日 歌会始めの儀皇居内仮宮殿の西の間でとり行われ、下記の召歌を詠進した。御題「若」。若き日は馬上に過きぬ残る世を楽しまむと言ひし伊達の政宗あはれ3月 雨晴会第6回展に「薔薇」「椿」を出品。11月 弥生画廊主催中川一政近作展(文藝春秋画廊)に墨彩14点、油彩22点を出品。第38回春陽展 「チューリップ」「椿」「長崎風景」「椿、林檎」昭和37年1月 第13回秀作美術展に「尾道展望」を出品。2月 国立近代美術館主催『現代絵画の展望』展(日本橋、三越)に「マリア園」を出品。5月 雨晴会第7回展に「椿」を出品。6月 『近代日本の造形 油絵と彫刻』展(国立近代美術館)に「尾道展望」を出品。6月30日 ミュンヘンのバイエルン独日協会の招待をうけ渡欧の途に就く。途中印度、イラン、イラク、エルサレム、エジプト、ギリシャを経て南仏、スペインを見学する。10月24日 ミュンヘン市立博物館において現代日本美術に関する講演を行う。11月2日 帰国する。第39回春陽展 「舟着き場」「マジョリカ壷の百合の花」昭和38年1月 第14回秀作美術展に「舟着き場」を出品。3月 雨晴会第8回展に「ペルシャ壷の薔薇」を出品。6月 朝日新聞社主催中川一政スケッチ展(銀座、松屋)に『人生劇場』挿絵7点、『厭世立志伝』挿絵29点のほか、「アシジの町(淡彩)」など風景スケッチ4点、「男子裸体」、芭蕉句扇面屏風2点を出品。6月26日 朝日新聞社と日中文化交流協会主催の日本現代油絵展が中国で開催されるに当って、画家代表団が中国人民対外文化協会の招待で訪問することとなり、その団長として北京に向う。展覧会は7月に北京と上海で開催され、「福浦港」を出品。7月23日 羽田着帰国。9月 『近代日本美術における1914年』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品、会期中10月5日同館講堂において「草土社の人々」と題し講演を行う。11月 日本橋、高島屋において中川一政近作展を開催し、「トレド風景」「カーニュ」など油彩、墨彩あわせて22点を出品。12月 昭和初期洋画展(鎌倉近代美術館)に「樹の下の子供」(1939年作)を出品、『うちには猛犬がゐる』を筑摩書房から出版。第40回春陽展 「椿」「福浦港」昭和39年1月 第15回秀作美術展に「マリア園」を出品。3月 雨晴会第9回展に「ピカソ壷の薔薇」を出品。7月 山形県酒田市、本間美術館主催中川一政作品展観に自選の油彩11点、水墨4点、厭世立志伝挿画(着彩)28点、人生劇場挿画(墨)6点を出品。9月28日 中国人民対外文化協会の招きをうけ、日中文化交流協会代表団の1人として空路北京に到着、10月1日北京で挙行された中華人民共和国建国15周年を祝う国慶節式典に参列。10月19日 帰国。第41回春陽展 「湯ケ原の山と海」昭和40年3月 雨晴会第10回展に「薔薇」を出品。4月 『近代における文人画とその影響』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「鉄線花静物」を出品。4月26日 ソ連定期客船バイカル号で横浜を出帆、ソ連文化省の招待で同国の美術演劇事情を視察した後、イギリス、フランス、イタリアなど9ケ国をまわる。7月9日 羽田着帰国。6月 二科会50周年記念回顧展(新宿ステーションビルディング)に「静物」(1921年作)を出品。8月 忘れえ得ぬ作品展(吉井画廊)に「静物」(1922年作)を出品。第42回春陽展 「椿とピカソの絵」「海と村落」昭和41年1月 中川一政近作展を開催し、吉井画廊の会場に「湯ケ原の山と福浦」など14点、弥生画廊の会場に「薔薇」など9点を出品。3月 雨晴会第11回展に「ばら」を出品。6月 近代日本洋画の150年展(鎌倉近代美術館15周年記念)に「下板橋の川辺」(1919年作)「静物」(1921年作)を出品、大阪、梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。7月 京王梅田画廊、東京梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。9月 資生堂ギャラリーにおいて『中川一政のアトリエ』展開催。12月 中川一政、小林秀雄監修『鉄斎扇面』筑摩書房から出版。第43回春陽展 「福浦港」「薔薇ペルシャ壷」昭和42年1月 「朝日新聞」に連載の大佛次郎『天皇の世紀』の装画を同46年12月にわたり、34回、204点執筆。2月 中川一政回顧展(朝日新聞社主催)が銀座松屋で開催。『遠くの顔』を中央公論美術出版から出版。『中川一政画集』を朝日新聞社から出版。3月 第12回雨晴会展に「瀬戸内海」「薔薇」を出品。『近くの顔』を中央公論美術出版から出版。10月 中川一政展を銀座吉井画廊で開催。12月 中川一政書展を銀座松屋で開催し、屏風、条幅、額、約170点を出品。会期中ブリヂストン美術館ホールで「書について」と題し講演を行う。『中川一政書蹟』を中央公論美術出版から出版。第44回春陽展 「春曇(福浦)」昭和43年10月 中川一政展を吉井画廊にて開催。第45回春陽展 「福浦」昭和44年6月 「守一・実篤・一政三人展」が吉井画廊で開催される。昭和45年1月 紅梅白梅会(瀧井孝作、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎、熊谷守一)が吉井画廊で開催される。5月13日 羽田発、フランスへ出発、パリに滞在後、月末からコンカルノへ移り制作に励む。7月 妻暢子、肝硬変のため入院、帰国する。10月18日 暢子死去する。昭和46年5月 「朝日新聞」連載の大佛次郎「天皇の世紀」挿画展を吉井画廊で開催。『中川一政挿画』(「天皇の世紀」)を中央公論美術出版から出版。9月 『さしゑ人生劇場』を求龍堂から出版。10月 さしゑ人生劇場展を吉井画廊新館で開催。昭和47年2月 私家版『中川印譜』を寒山会から上梓する。3月 『中川一政画集1972』を筑摩書房から出版。昭和48年10月 水墨岩彩画集『門前小僧』を求龍堂から出版。第50回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和49年1月 『書の本』を求龍堂から出版。2月 中川一政書展を吉井画廊にて開催。『一政印譜』を求龍堂から出版。4月 中川一政展をパリ吉井画廊にて開催し、油彩、水墨岩彩15点を出品。4月から5月までフランスに滞在する。昭和50年『中川一政文集』(全5巻)第1巻が筑摩書房から刊行。昭和51年1月、完結。日本経済新聞に「私の履歴書」が掲載される。6月10日 中国文化交流使節日本美術家代表団名誉団長として中国に赴き、北京、西安、上海、無錫などを巡遊。一行は宮川寅雄(団長)、脇田和、中根寛、高山辰雄、吉田善彦、加山又造、平山郁夫。同月27日帰国。10月 『腹の虫』を日本経済新聞社から出版。11月 文化功労者となる。文化勲章を受章する。第52回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和51年2月 中川一政書展を吉井画廊で開催。『中川一政装釘』を中央公論美術出版から出版。10月 『中川一政画集1976』を筑摩書房から出版。昭和52年3月 壮心会書展(平櫛田中、奥村土牛、中川一政)が京都高島屋で開催される。昭和53年10月 中川一政近作展(高島屋美術部創設70年)を東京高島屋、大阪高島屋にて開催。『私は木偶である』を車木工房から出版。昭和54年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。歌集『雨過天晴』を求龍堂から出版。10月 水墨岩彩画集『花下忘帰』を求龍堂から出版。昭和55年2月 随筆『88』を講談社から出版。詩集『野の娘』を創樹社から出版。3月 NHK教育テレビ日曜美術館「アトリエ訪問・中川一政」が防映される。6月3日 成田発スペイン、イタリア、フランスを旅行、17日成田着帰国。『書と印譜』を出版(発行・求龍堂、制作・車木工房)。昭和56年2月 米寿記念『中川一政画集88』を講談社から出版。9月 朝日新聞社主催「中川一政展-私の遍歴」が東京高島屋にて開催される。昭和57年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。5月 アメリカへ旅行し、ニューヨーク、ワシントン、ボストン、フィラデルフィア等の美術館を見学。6月 真鶴に新アトリエが完成。9月 中川一政展(秋田)を秋田市美術館で開催。10月 中国文学芸術界連合会の招聘により中国を訪問、北京、南京、杭州、紹興、上海を巡遊する。一行は、中川一政(顧問)、宮川寅雄(団長)滝沢修、朝吹登水子、林屋晴三。金沢市の菩堤寺「久昌禅寺」の寺標を揮毫、建立される。昭和58年3月 中川一政展(沖縄)を沖縄三越で開催。5月 中川一政展(酒田)を本間美術館で開催。昭和59年2月 随筆集『画にもかけない』を講談社から出版。3月 大阪なんば高島屋で中川一政新作展(4月、東京・日本橋高島屋)を開催。4月 『中川一政ブックワーク』が形象社から出版される。10月 東京都名誉都民の称号を受ける。昭和60年1月 日華美術展(春陽会、中華民国台陽美術協会合同)が台湾国立歴史博物館(台北市)にて開催される。10月 随筆集『つりおとした魚の寸法』を講談社から出版。11月 NHKテレビ(1)にて「中川一政・描く日々『92歳、多彩な創作活動』」が放映される。第62回春陽展 「向日葵」昭和61年1月 梅原龍三郎追悼(1月16日死去)「梅原の世界」を「朝日新聞」に執筆。6月 『墨蹟一休宗純』を編纂、中央公論社から出版。7月 NHK教育テレビ(3)「ビッグ対談」に「独創をめざし独走す・一休禅師の魅力を通し日本的、東洋的発想の可能性を探る」と題され、柳田聖山と対談。8月 『陶芸中川一政作品集』が万葉洞から出版。10月10日 松任市立中川一政記念美術館が開館。同日、松任市名誉市民の称号を受ける。神奈川県真鶴市においても、真鶴町立中川一政美術館が建設されることになり着工される。11月 『中川一政全文集』(全10巻)を中央公論社から出版、第1回配本第8巻が発行される。以下各巻は毎月20日に刊行、昭和62年8月完結。昭和62年10月 松任市立中川一政記念美術館一周年に当り、新館が開設され、中川一政の周辺特別展が行われる。エッチングと装釘原画を、野上弥生子、岸田劉生、梅原龍三郎、石井鶴三、長与善郎、志賀直哉、武者小路実篤、高村光太郎、富本憲吉、バーナード・リーチ、小杉放庵らの作品、書簡、原稿などともに展示する。金沢市石川近代文学館で同館新装開館一周年記念中川一政特別展が開催(10月25日から昭和63年1月31日まで)され、著書、印譜、挿画、装釘原画、装釘書・誌、原稿など文業に関する作品を展示。昭和63年1月 第1回春寿会展(日動画廊)に「薔薇」2点を出品。東京・彌生画廊新館で中川一政墨彩展を開催。北国新聞に「独行道」(「卒寿をこえて」)を連載。3月 『裸の字』特別限定版、限定版、普及版を中央公論社から出版。5月 東京・日本橋高島屋で中川一政新作展を開催。第65回春陽展 「薔薇」昭和64 平成元年2月 東京・彌生画廊新館で中川一政新作展を開催。平成3年2月5日午前8時3分、心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去。97歳。同7日東京都杉並区の自宅で密葬が、同23日東京都港区の青山葬儀所で葬儀が執り行われた。〔本年譜は、『中川一政画集』(昭和42年、朝日新聞社)所収の「中川一政年譜」、並びに「中川一政1988新作展」図録(同63年、高島屋)所収の「略年譜」を基に作成したものである。〕

山田茂人

没年月日:1991/02/03

日展会員、光風会評議員の洋画家山田茂人は2月3日午前1時22分、肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年62。昭和4(1929)年1月6日、愛媛県八幡浜市に生まれる。同30年多摩美術大学洋画科を卒業。同年第41回光風展に「木組み」で、第11回日展に「足場」で初入選。同32年第43回光風展では「入江の街」で船岡賞を受け、翌33年同会会友、同36年同会会員となる。同41年第52回光風展に「浜波太」を出品して中沢賞、同年第9回社団法人日展に「浜波太」を出品して特選受賞。同46年第57回光風展に「漁村」を出品して再度中沢賞、同47年第4回改組日展に「凪」を出品して70回特別記念賞、同62年第73回同展に「浜辺に」を出品して再度特選を受賞した。同48年渡欧。同59年第70回光風展に「浜の人」を出品して辻永記念賞を受けた。また同60年日展会員となっている。海に生きる人々の質実な生活に共感をよせ、白、茶、黒などを基調とする渋い色彩で、量感ある人物を描いた。

奥山藤一

没年月日:1991/01/10

一水会会員の洋画家奥山藤一は1月10日午後6時18分、肺炎のため京都市の社会保険京都病院で死去した。享年79。明治44(1911)年10月1日、京都市上京区に生まれる。三重県で中学校を卒業後、昭和5(1930)年関西美術院に入学。同年より鹿子木孟郎の画塾にも入門し、鹿子木の没する昭和16年までその指導を受ける。この間、同10年渡欧し、スペインのマドリッドでベラスケスを研究し、オランダへ渡ってレンブラントについて研究、模写を行った。同13年、ヨーロッパでの戦況激化により帰国。鹿子木の没後その遺志を継いで京都日仏学館で後進の指導に当たった。戦後は健康を害して長らく療養生活を強いられ、同30年代後半に画壇に復帰し一水会展に出品を始め、同41年第9回日展に「法界寺阿弥陀如来」で入選する。同45年第32回一水会展に「三十三間堂開扉」を出品して一水会賞を受賞。翌46年同会会員となり、翌47年第34回同展出品作「開扉」は同会会員優賞を受けた。また、同年の第4回改組日展には「開扉」を出品して特選となる。この後、再び渡仏しロマネスク、ゴシックの寺院にひかれ、同49年第6回改組日展に「薔薇の窓」を出品したのち数年間、西欧中世の建築をモチーフとしたが、そのほかは一貫して仏像や仏教建築を題材として描き続けた。

高須光治

没年月日:1990/12/25

読み:たかすみつじ  草土社の創立会員で岸田劉生の「高須光治君之肖像」のモデルともなった洋画家高須光治は、12月25日午後3時38分、心不全のため愛知県愛知郡の福友病院で死去した。享年93。10代の後半期に岸田劉生や白樺派の人々と交遊し、間もなく帰郷して郷里の文化活動に尽くした高須は、明治30(1897)年8月13日、愛知県渥美郡に生まれた。同41年、豊橋尋常高等小学校高等科在学中に、黒田清輝門下の島田卓二に出会い絵に興味を抱く。同43年、高等小学校を卒業、同45年、太平洋博覧会見学のため上京し、岸田劉生個展を見て感銘を受ける。大正2(1913)年より豊橋の文化団体一隅会に参加し、同人誌『一隅』に詩の投稿を続けるが、同3年11月、画家を志して上京し、白馬会葵橋洋画研究所に入所。翌4年、岸田劉生を訪ね、劉生を介して武者小路実篤、長与善郎、千家元磨など白樺派文人と交遊するようになる。同年3月第15回巽画会展に「母におくる像」で初入選し3等賞銅牌受賞。同年10月、第1回草土社展に「半蔵門風景」「三宅坂風景」2点、「青年肖像」3点など10点の作品を展示して、同会の創立に参加する。また同年11月、劉生、木村荘八、高村光太郎らを発起人として「高須光治画会」を開催する。草土社展には同5年第3回展まで出品するが、同年豊橋に帰郷し、翌年より出品せず、同11年最終回となった第9回展に「風景」を出品した。昭和2(1927)年、横浜市へ転居し、同年第1回大調和展に出品。翌年第2回展にも出品するが、同年上京し、同4年より国画会に参加。同6年、再度豊橋へ帰郷し、家業の本屋を継ぐ。国画会には同8年第8回展まで出品したが、同年豊橋文化協会を設立し、雑誌『文化』を創刊。以後しばらく中央の団体展から遠ざかり、戦後の昭和21年第二次の豊橋文化協会の創立にも参加して雑誌『豊橋文化』を中心に論評、挿図などを発表。また、同28年浜松市立図書館で「高須光治小品展」を開くなど、個展によって作品を発表する。同37年、武者小路実篤を中心に大調和会が再結成され、同会に第1回展より同43年第7回展まで出品した。同43年、豊橋文化協会文化賞を受賞。翌44年には豊橋文化協会創立当時の理事8名で文協サロンを発足し、会報『輪』に論評を発表し始めた。草土社時代に形成された芸術への真摯な姿勢を守り続け、郷里の文化の振興に尽くすとともに、独自の制作を行なった。昭和62年、豊橋市美術博物館で「高須光治と草土社展」が開かれ、生前の本格的な回顧展となった。

稲垣久治

没年月日:1990/11/06

フランスのル・サロン永久会員、元光陽会委員の洋画家稲垣久治は、11月6日午後11時50分、肺炎のため京都市上京区の西陣病院で死去した。享年71。大正8(1919)年3月10日、兵庫県城崎郡に生まれる。昭和9(1934)年より京都で南画、水彩画を学ぶが、同25年洋画に転向し、同27年第38回光風会展に「読書」(水彩)で初入選。同年第8回日展にも「読書」で初入選する。その後光風会には同44年まで出品を続け、日展には第9回展に「耿成」の号で「つるバラ」を、同31年第12回展に「裸婦」で入選をはたす。同38年京都市美術展に出品し京都市長賞受賞。同44年第17回光陽会展で佳作賞を受け、同年光風会を退会。翌45年第18回光陽会展で光陽賞を受け、同会会員となる。同48年、フランス美術大学に短期留学する。同53年、フランスのル・サロン展で名誉賞を受け、また、光陽会委員に推挙される。同54年、サロン・ドートンヌに入選し、ル・サロン永久会員に推挙される。同55年フランス美術賞展(オンフルール展)に入選し、同年より同57年まで3年間連続して現代洋画精鋭選抜展銀賞を受賞した。バラ、舞妓、文楽人形、野仏などを得意とし、叙情的な作風を示した。

中原實

没年月日:1990/10/15

日本歯科大学名誉学長、日本歯科医師会名誉会長で、二科会名誉理事の洋画家でもあった中原實は、10月15日東京都板橋区の日本大学医学部付属板橋病院で死去した。享年97。大正末年から昭和初年にかけての新興美術運動の主要な推進者として知られる中原實は、明治26(1893)年2月4日、東京市・麹町区に生まれた。父の中原市五郎は日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の創設者。東京高等師範学校付属中学校を経て、大正4年日本歯科医学専門学校を卒業、同年同校助手となってハーバード大学歯科に編入学、同7年卒業後一時ニューヨークに勤務し渡仏、フランス陸軍歯科医となる。翌8年、パリのアカデミー・グラン・ショミエールに通い原勝四郎、青山熊治らと交遊する。この時期、未来派、表現派、ダダ、超現実主義などの美術運動に触れ啓発されるなかで、はじめパリでモディリアーニに傾倒、ついでベルリンでゲオルグ・グロッスに影響された。さらに、ドイツの新即物主義や超現実主義の手法を学び、抽象画へ接近していった。同12年帰国し母校の教授に就任、また、第10回二科展に「モジリアニの美しき家婦」「トレド」の2点を出品し注目されたが、開催初日に関東大震災に遭遇し展覧会は即日閉鎖された。同13年中川紀元らのアクション運動に参加、翌14年三科運動をおこしを設立、アンデパンダン展を組織するとともに、飯田橋・九段の自宅焼跡に「画廊九段」を設けて前術的活動を展開、絵画の理論闘争も開始し、美術雑誌「AS」に参加、美術雑誌「GE・GIMGIGAM・PRRR・GIMGEM」に寄稿する。画廊九段は、画壇の築地小劇場とも称され、「欧州新興美術展」(報知新聞社主催)などを催した。昭和元年、画廊九段を閉鎖、単位三科を再組織して表現主義や超現実主義をとり入れた演劇活動にのりだし、などを開催したが、同年中に単位三科を解散した。同4年第一美術協会の客員となる。同11年には北園克衛の「VOU」クラブに参加し、美術評論を発表した。その後、同18年には二科会絵画部会員となり、戦後は同会の復興に尽力、同34年の機構改革により二科会理事となった。同37年、最初の画集『中原實画集』(美術出版社)を刊行、同41年にも『Cemalde絵画・中原實画論集』(美術出版社)を出した。同59年、卒寿記念としてを催し、東京セントラルアネックスで絵画展を開催、『中原實画集』(実業之日本社)を刊行、また、リトグラフ「猫の子」を出す。この間、日本歯科医師会会長を都合5期10年つとめたのをはじめ、日本私立大学協会会長、日本歯科医師会名誉会長、日本私立大学協会顧問などを歴任した。大正末年に未来派や超現実主義を先駆的に紹介した功績はきわめて大きい。作品は他に、「ヴィナスの誕生」(大正13年)、「乾坤」(昭和元年)、「魚の説」(同13年)、「自然の中性」(同22年)などがある。

重達夫

没年月日:1990/09/28

読み:しげみちお  福井県立美術館長で行動美術協会会友の洋画家、重達夫は、9月28日午後5時55分、心筋こうそくのため福井県武生市の林病院で死去した。享年80。昭和30年より42年まで長く京都市美術館館長をつとめた重達夫は、明治43(1910)年1月20日、京都市中京区に生まれた。父は南画を描いた。昭和11(1936)年東京大学法学部を卒業して逓信省に入省する。同25年、京都府商工部長に就任し、同30年より京都市美術館館長となる。同36年京都・パリ交換陶芸展のために渡仏し、ヨーロッパ各地をめぐる。同42年、京都市美術館館長を退いたのちは、京都国立近代美術館評議員となり、同55年から福井県立美術館長となった。洋画家としては、同27年京都市美術展に初入選し、同30年頃より行動美術協会展に出品を始める。同49年同会会友となり、没年まで出品を続けた。昭和30年第10回行動展に「街」、第10回同展に「ぶらんD」、同50年第30回展に「コロッセオ」、同55年第35回展に「パリ風景」、同60年第40回展に「晴日のパリ」、平成2年第45回展に「雨の街」を出品しており、西欧風景や街頭風景を得意とした。

薮野正雄

没年月日:1990/09/10

二紀会参与の洋画家薮野正雄は9月10日午後6時、急性心不全のため、名古屋市の自宅で死去した。享年83。明治40(1907)年7月17日、福岡県門司市に生まれる。福岡県立小倉中学を経て日本美術学校に入学し、大正15(1926)年同校を修了する。昭和4(1929)年第16回二科展に「公園風景」で初入選し、以後正宗得三郎に師事する。連年二科的に出品し、同14年第26回同展に「海辺にて」「砂上」を出品して特待となり、同16年同会会友となる。また、同15年紀元2600年奉祝展に「二人」で入選、同18年第6回新文展に「草笛」を出品して特選となるなど、官展にも出品したほか、同17年新美術家協会会員に推挙された。戦後は二科会再論に際し会員に推されるが同会には参加せず、同22年第二紀会の創立に加わり、第1回展から審査員をつとめる。同45、46年に渡欧。同48年二紀会常任理事に就任。同51年第30回二紀展に「るうさ像」「赤いバック」を出品し三十周年記念大賞を受賞、同60年同39回展に「黒いセーター」「茶玉のネックレス」を出品して黒田賞を受賞した。また、同年日動サロンで「薮野正雄自選展」が開かれ、昭和10年代の旧作から近作までを回顧する展観がなされた。戦前は風景画を多く描いたが、戦後は裸婦、着衣の婦人像を描き、大胆なタッチ、独特の色感のある豊麗な色彩で知られた。 二科展出品歴第16回(昭和4年)「公園風景」、17回「屋上風景」「展望」、18回「樹間風景」、19回「山上より」「タダちゃん像」、20回「大曽根風景」、21回「長崎風景」、22回(同10年)「春の丘」、23回「伊豆風景」、24回「丘にて」、25回「川原にて」「うちわ」、26回「海辺にて」「砂上」、27回(同15年)「信州にて」、28回「海女」「海辺」、29回「海の人々」「金剛力士」、30回「浜の朝」、二紀展出品歴第1回(昭和22年)「雪の日」「帰路」、2回「つどい」「三人」、3回「めざめ」「マネー讃頌」、4回(同25年)「浴後」「水浴」、5回「かぢつ」「こかげ」、6回「裸婦」4点、7回「椅子による」「室内」「ダリア」「黒衣」、8回「裸婦立像」「裸婦」、9回(同30年)「裸婦臥像」「裸婦立像」「裸婦座像」、10回「臥婦」「椅子」、11回「裏道」「観光地」「魚市場」、12回「天主堂横」「聖堂」「つぼ造り」、13回「ある家族」「礼拝への道」「赤い塀」、14回(同35年)「二人」「長崎の塀」「二十二番館」、15回「修道士」「修道女」、17回「風の塔」「天井画を見る人々」、18回「祭の日」「水くみ」、19回(同40年)「二十二番館の主」「その孫」、20回「錦田の人々」「マカオ」、21回「閉ざされた家」「路傍」、22回「広場の一隅」「並木」、23回「マカオの宣教師」「女子修道院」、24回(同45年)「木馬の休日」「鳩」、25回「祭りの日」「神の丘」、26回「神の丘に」「ムルシアの夫人」、27回「P嬢像」「踊りのあと」、28回「憩い」「むすぶ」、29回(同50年)「したく」「外出」、30回「るうさ像」「赤いバック」、31回「厨房にて」「朱い花」、32回「微風」「手鏡」、33回「くしげずる」「庭先」、34回(同55年)「花咲く頃」「かける」、35回「微風」「椅子」、36回「黄色い珠」「コンパクト」、37回「或る少女」「微風」、38回「ばらのコーサージ」「黄色いセーター」、39回(同60年)「黒いセーター」「茶玉のネックレス」、40回「花模様のブラウス」「青い服」、41回「赤いセーター」「印度綿の服」、42回「K嬢」「グリーンのセーター」、43回「じゅり」「J嬢」、44回(平成元年)「あじさい」(遺作)

妹尾正彦

没年月日:1990/07/29

読み:せのおまさひこ  里見勝蔵らと共にフォーヴィスムを唱い、明るく詩情ある作風を示した独立美術協会会員の洋画家妹尾正彦は、7月29日午前5時28分、老衰のため、東京都三鷹市の野村病院で死去した。享年89。明治34(1901)年1月3日、岡山県都窪郡に生まれ、同40年、教職にあった父が李朝韓国政府の招聘教官となったため、一家で韓国へ渡り、京城で小、中学校に通う。大正9(1920)年、京城中学校を卒業して帰国し、翌年神戸高商(現、神戸大学経済学部)に入学。この頃から油絵を描き始め、同校3年在学中に紹介者もないまま小出樽重を尋ねるが、画道を断念するよう勧められるとともに、画才というものは一生絵を描き続けるか否かにかかると悟され、独学で画業を続ける。同14年、神戸高商を卒業して損害保険会社に就職する一方、絵を描き続け、昭和2(1927)年東京へ転勤を命ぜられて上京。同年、第2回1930年協会展に「居留地風景」「気象台の見える風景」で初入選する。同3年、「公設市場」など3点が第3回1930年協会展に入選し、また同年の第15回二科展にも「花屋店頭」で初入選する。同5年、1930年協会の同志が独立美術協会を結成すると同会に参加し、翌6年第1回独立展に「白と黄の裸婦」「窓と少女」「鶏卵と男」「海と障子の静物」を出品してO氏賞受賞、翌7年第2回同展では「雉、蝶、烏賊」「地図と女」で独立賞を受賞し、同9年同会会員となる。同12年、里見勝蔵を中心とするフォーヴィスムの画家たちが独立美術協会を退会するのに連坐して同会を退くが、里見の新団体結成には加わらず、以後戦後の同26年まで無所属となる。同26年、中村節也、田中佐一郎、菅野圭介らとともに独立十人の会を結成しその第1回展を開き、また、同年の独立美術協会創立20周年記念展を機に同会へ復帰し再び会員となって、以後毎年出品を続けた。停年退職するまで損害保険会社に勤務し、自由な画境を守り、晩年は日本経済新聞に連載されのちに単行本となった入江相政「味のぐるり」、木俣修「飲食有情」の挿図なども手がけた。昭和初期からフォーヴィスムの旗手の一人と目され、純度の高い原色を用いて、少年、少女、小動物、花などをモチーフに楽しく温かい画境を示した。昭和61年、青梅市立美術館で「妹尾正彦画学60年展」が開かれ、年譜、出品歴は同展図録に詳しい。 第1回(昭和6年)「白と黄の裸婦」「窓と少女」「鶏卵と男」「海と障子の静物」、2回「雉、蝶、烏賊」「地図と女」、3回「魚ト煉瓦ト海」「赤と黄の裸婦」、4回「太陽と葱の花」「富士山と紫陽花」「鴨」「梅と少女」「裸婦・桃・鯉」「花を売る女」、5回(同10年)「鯉と寿司」「砂丘と烏」「花の馬車」「少女と絨毯」「月・虫・裸婦」「梅」、6回「魚・貝・花卉」「春の窓」「夏(ダイビング)」「平和なる風景」「花束の少女」、7回「画室」「青空と卓上」「雪日」「雀の町」「少女と無花果」(同年退会)、20周年記念展(同26年)「氷雨」(旧作「雪日」、同年復帰)、20回「猫と花火」「憩える旅人」「浦近き町」、21回「草上の会話」「砂丘」「白日中天に在り」、22回「貝殻」「動物の園」、23回(同30年)「聴けや人々、窓外は緑雨なり」「耕して余さず」、24回「窓ごしの世界」「自由体操」「西瓜と子供」、25回「幸福な家のうえの空」「犬の散歩」、26回「愛園のかたつむり」「満月」「馬と虫」、27回「館の雨」「鷹を持つ少年」「水上の魚」、28回(同35年)「ここにも争いあり」「幸いな星の下の帽子」「傾斜の街」、29回「星座の下のコマ」「石と葉と雉」、30回「虫も鳥もそして人も」「海底庭園に蝶々ありき、チョオチョオ魚という」、31回「卓上の月」「人々と鳥たち」、32回「月明の夜を行く子供たち」、33回(同40年)「椅子と種子と鳥の標本」、34回「展覧会の客」「耕して余さず」、35回「夜道を行う」「華麗なるテーブル」、36回「塀の外に在る荷車」「富士のみえる画室」、37回「佛頭を刻す人」「鳶と海」、38回(同45年)「池」「巨木に群れる鳥」、39回「黒い鳥と白い鳥と海」、40回「月と沼と亀」「黄色の絨氈」、41回「田園俯瞰」、42回「椅子の争、鶏の争、紙凧の争」「赤牛を牽く」、43回(同50年)「龍の敷物」「猫と烏」、44回「博物館の顔」「或る女の肖像」、45回「石仏供花」「童女像」、46回「老人と鷹と少年」「花を採る」、47回「みほとけ供養」「魚暦」、48回(同55年)「倉と葱と花」「朝市の篭」、49回「星座の下の父と娘の肖像」「連翹の花咲く頃」、50回「ガスタンクと渡り鳥」「載花」、51回「花の帽子」「猫と桃」、52回「黒い絨毯」、53回(同60年)「祖父と孫たち」、54回「魚と鳥と花」、55回「無題」、56回「祖父生誕の日」、57回「黒い太陽の驚き」。

漆畑廣作

没年月日:1990/07/15

読み:うるしばたひろさく  日本水彩画会理事の水彩画家漆畑廣作は、7月15日午後9時52分、心筋こうそくのため、東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。一貫して水彩画を描き続け、新文展、日展などでも活躍した漆畑は、明治38(1905)年6月27日、静岡県沼津市で生まれた。大正14(1925)年、神田電機学校を卒業し、翌年より東京逓信局に勤務する一方、水彩画を描き、昭和12(1937)年第1回新文展に「境内」で初入選。その後、同17年第5回同展に「ひと刻」で入選し、翌年第6回展では「夕仕度」で特選を受けた。昭和18年第30回展より日本水彩展に出品を始める。戦後は同39年に退職するまで日本電信電話公社に勤務する一方、日展に出品を続け、同29年第10回展より出品依嘱となる。同33年新日展に改まるとその第6回展まで出品を続けた。日展を退いた後も日本水彩画会には出品を続け、同44年同会委員、同49年監事、同51年理事に就任する。山野の風景のほか、日本の伝統文化を伝える古建築や仏像、伝統芸能に多く取材し、歌舞伎や文楽の舞台絵を得意分野としたことから、国立劇場参与も務めていた。それらの歌舞伎舞台絵、二万余点は国立劇場に寄贈されている。

須田剋太

没年月日:1990/07/14

具象、抽象にこだわることなく独自の力強く生命感あふれる作風を築きあげた洋画家須田剋太は、7月14日心不全のため神戸市北区の社会保険中央病院で死去した。享年84。司馬遼太郎の「街道をゆく」をはじめ独特の挿絵でも知られた須田剋太は、明治39(1906)年5月1日埼玉県吹上町に、須田代五郎、ふくの三男として生まれた。本名は勝三郎。昭和2年埼玉県立熊谷中学校を卒業後、東京・本郷の川端画学校で学び東京美術学校入学を期したが都合4回失敗した。最初光風会展へ出品し、同12年第24回展で光風特賞を受賞、同15年光風会会員となる。また、新文展では第3回(同14年)に「読書する男」、第5回に「神将」で二度特選を受けた。この間、同16年から関西に移住、戦中から戦後にかけて東大寺に寄寓し、仏像や堂塔を多く題材とした。戦後は、同22年の第3回日展に「ピンクのターバン」で特選を受けたが、同年光風会を退会し国画会会員となり、いわゆる官展の流れから離れた。この頃、前衛画家長谷川三郎を知り刺激を受け、同24年から抽象画に没頭した。以後、国画会展、現代日本美術展(同29~41年)、日本国際美術展(同30~41年)をはじめ、サンパウロ・ビエンナーレ展(同32年)、ヒューストン美術展(同34年)、プレミオ・リソーネ展(同35年)、ピッツバーグ・カーネギー展(同36年)などの国際展に制作発表し、激しい感情をこめたダイナミックな抽象表現を展開した。その後、再び具象画を手がけたのち、具象、抽象にこだわらぬ独特な画境を拓いた。また、画家自身が道元の「正法眼蔵」に深く傾倒したように、画業の根底に東洋思想が流れているとの指摘がしばしばなされる。一方、縄文土器や土偶などのプリミティーフな美へも強い関心を示し、そこから独自の絵画論を展開、こども美術展を主宰したりもした。同44年、毎日新聞連載の犬養道子「日本人の記録 犬養木堂」の挿絵を描き、同46年には週間朝日で1月1日号から連載の始まった司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を担当、後者は平成2年2月16日発行分(第897回)まで及んだ。「街道をゆく」の挿絵原画は毎月8枚から10枚描かれ続け、「一枚一枚を、完全な絵と思って描く」態度に貫かれ掲載紙ではモノクロ印刷であるにもかかわらず全て彩色された。その迫力ある重量感が挿絵の“革命”としての評価を得た。同58年には、作品集『原画 街道をゆく』で第14回講談社出版文化賞を受賞した。また、同40年に西宮市民文化賞を受けたのをはじめ、兵庫県文化賞(同49年)、吹上町文化賞、大阪文化賞(同52年)を受賞。主な個展には、同52年の東京・日本橋三越以来、同店、名古屋丸栄、大阪・阪急の三ケ所でほゞ半年間隔で開催されたものがあげられる。同63年に国画会を退会。晩年は天衣無縫な生活とは別に、関西の画家中所得番付がトップを占めるなどその作品の評価と価格は上がったが、平成元年、手持ちの自作の全てを公的機関(大阪府2134点、埼玉県立近代美術館225点、飯田市美術博物館458点)に寄贈し話題を呼んだ。同59年、画集『私の曼陀羅-須田剋太の世界』を刊行する。

塚本張夫

没年月日:1990/06/28

創元会常任委員、日展会員の洋画家塚本張夫は、6月28日肝臓ガンのため東京都杉並区の清川病院で死去した。享年82。明治40(1907)年9月21日広島に生まれ、県立広島一中を経て昭和2年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二教室で学んだ。在学中の同3年第9回帝展に「内海風景」が初入選、第11回帝展にも「初秋の内海」が入選した。同7年美術学校を卒業し研究科に進み翌年修了。帝展、新文展をはじめ、光風会、一水会展へ制作発表、戦前の作品は他に、「椅子による婦人」(第14回帝展)、「少女」(第5回新文展)、「ロシアの少女(マガ嬢)」(第23回光風会展)などがある。戦後は日展、創元展、現代美術総合展、美術団体連合展などに出品した。同25年創元会会員。日展では、同31年第12回日展に「小閑」で岡田賞を受賞、同58年日展会員に推挙された。日展への出品作に「編物」(第13回)、「足をふく」(新日展第1回)、「少憩」(改組日展第1回)、「ルクセンブルグ風景」(第15回)など。創元展出品作には「室内(第15回)、「モレー風景」(第35回)、「廃城の上より(フランス)」(第48回)などがある。

横地康国

没年月日:1990/06/24

独立美術協会会員、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家横地康国は、6月24日呼吸不全のため東京都新宿区の国立病院医療センターで死去した。享年78。華道相阿弥流十九世家元でもあり、華名を宗象円。明治44(1911)年8月31日東京都新宿区に生まれ、海城中学校を経て昭和12年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を首席で卒業した。美術学校在学中の同9年、JAN(青年美術家集団)を結成、同11年には第6回独立展に出品する。同14年美術文化協会創立に会員として参画したが同16年に退会した。戦中、長野県で教壇に立ったが戦後の同24年神奈川県大磯に移り、独立展に復帰し同24年第17回独立展に「砂丘の船」「蛸壷と魚と海草」で独立賞を受賞、同26年独立美術協会会員となり、同年武蔵野美術学校講師(同37年武蔵野美術大学教授)に就任した。同31年以降、現代日本美術展、日本国際美術展へも出品した。同39年第32回独立展に「光をもとむなかれ」「あまかけるむれ」でG賞を受賞。翌40年には、父宗庭から華道相阿弥流十九世を継承した。国際形象展(同40~46年)、日本現代の裸婦展(同43、44年)などに出品した他、個展もしばしば開催し、同49、50年の両年には、東京・日本橋東急で「日本神話シリーズ」を開催した。同56年武蔵野美術大学図書館で回顧展が開催され、同58年同大学を退職、武蔵野美術大学名誉教授の称号を受けた。翌59年、東京セントラル美術館で「横地康国回顧展」を開催、同年『横地康国作品集』(美術出版社)を刊行した。この間、日本いけばな芸術家協会評議員、同理事を歴任した。

山下大五郎

没年月日:1990/05/13

安曇野など、日本の山間・田野の自然を深く愛し、清澄な画風で知られた立軌会会員の洋画家山下大五郎は、5月13日午前1時50分、直腸ガンのため、東京都新宿区の河井病院で死去した。享年81。明治41(1908)年10月2日、神奈川県藤沢市に生まれる。後に洋画家となった原精一が近くに住んでおり、早くから親交があった。また、神奈川県立湘南中学校在学中に萬鉄五郎宅に出入りし、学ぶところがあった。大正15(1926)年同中学を卒業して東京美術学校師範科に入学。同校在学中は田辺至に師事し、また先輩である林武に指導を受け、同3年第9回帝展に「卓上静物」で初入選する。同4年、東美校を卒業し、神奈川県奈珂中学校(現県立秦野高校)で教鞭をとる。官展にはたびたび入選を重ねていたが、同12年第1回新文展に「中庭の窓」を出品して特選、同14年第3回同展では「おもて」で再び特選を受賞し、同17年第5回展には無鑑査出品している。また、同16年第1回創元会に「早春」「家庭風景」を出品する。同19年歩兵補充兵として召集され、終戦後3年間、カスピ海沿岸で俘虜生活を送った後、同23年に帰国する。戦後は官展、創元会を退き、牛島憲之、須田寿らと立軌会を結成して同展を中心に活動する。初期から風景を多く描いたが、戦後しばらくは暗い鉄条網の中の俘虜をモチーフとし、その後、農村を描き始める。同28年第4回選抜秀作美術展に「開懇地風景」を招待出品、同33年第2回国際具象派展に「工場のある風景」「北海道(白老)風景」を出品するなど、立軌会以外でも作品の発表を行なった。同39年、中間冊夫、島村三七雄、原精一ら林武門下の友人達と欅会を結成する。同52年第16回展より国際形象展にも出品を続ける。この頃から安曇野の風景を描き始め、同54年「安曇野田植え」が長野県信濃美術館に買上げられたほか、同58年には立軌展35周年記念展出品作「安曇野春風」で第7回長谷川仁賞を受賞、同60年にその受賞記念展が銀座日動画廊で開かれた。また、平成2年3月、東京セントラル美術館で「日本の叙情詩 山下大五郎回顧展」が開かれ、萬鉄五郎の影響の認められる初期の作品から、日本の風景にとりくんだ長い画業が跡づけられた。その画風は、当初から構成力やマチエールへのこだわりを見せ、実景写生から離れた知的な制作態度をうかがわせるが、安曇野風景に至って、従来の試みが融合した清らかでみずみずしい画境が開かれることとなった。昭和62年『山下大五郎画集』(日動出版)が刊行されている。立軌展出品歴第1回(昭和24年)「収容所にて」「虜囚」他、2回「死(或記録)」「夜」「少年と花」、3回「少年」「少女」「姉と弟」、4回「庭」「開懇地風景」「少女」「少年」「女」、5回「工場の裏」「停車場の道」「本を見る子」「海水着のN子」「おほり端」「にしんの静物」「静物」、6回「静物」他、7回(同30年)「阿波の町」「港の水門」「とうがんの静物」「はすの実の静物」「栗のある静物」「鉄塔の風景」、8回「失調」「帰ってきた人」「ある静物」「街頭にて」、9回「堀割」「風景(A)」「風景(B)」「静物」、10回「がけ上の家」「線路の風景」「鉄塔の風景」「公園の入口」、11回「新開地風景(A)」「新開地風景(B)」「新開地風景(C)」「花」、12回(同35年)「長崎の家」「長崎の教会」「長崎の丘」「砂丘(鳥取)」「佐多岬」「桜島」、13回「長崎の屋根」「長崎の寺(A)」「畠」「砂丘」「長崎の寺(B)」、14回「箱根残雪」「麦の岡」「田園風景」、15回「紅葉」「高原」「高原の道」、16回「湖畔残雪」「田圃の風景」「麦秋の丘」、17回(同40年)「田」「砂丘」「静物」、18回「漁師の家」「漁村」「子浦の家」、19回「洛北残雪」「早春農家」「洛北花背陽光」「洛北の春」、20回「丹波秋色」「山村」「椿」「さざんか」「水仙」「飛鳥いかずちの丘」、21回「温井の村」「山村風景」「佐那河内風景」、22回(同45年)「出雲の野」「築地松」「出雲風景」、23回「築地松投影」「簸川野雨後」「雪の簸川野」、24回「出雲風景」「北国の風景」「会津の倉」「はでば」、25回「杉の里」「日光杉並木」「丹波の家」「たも木の風景」、26回「杉邑」「庄屋の家」「丹波風景」、27回(同50年)「越後の野道」「出雲の家(簸川にて)」「新潟の家」、28回「礪波初夏」「段田の風景」、29回「出雲の道」「みずたの風景」、30回「越後風景」「榛の小道」、31回「安曇野田植え」「安曇野稔り」「田毎の風景」、32回(同55年)「安曇野暮色」「芋井の段田」、33回「山つづく」「田面映ゆ」、34回「安曇野冬近し」「五月の風景」、35回「有明への道」「安曇野春風」、36回「山に新雪の頃」「高原の朝」、37回(同60年)「戸隠の春」「山田の風景」、38回「田植頃」「山新田木立」「白樺林早春」、39回「戸隠早春」「戸隠への道」、40回「山新田たうえ」、41回「山麓風景-白馬」「山新田の雨」

横溝洋

没年月日:1990/05/07

読み:よこみぞひろし  国画会会員の洋画家横溝洋は、5月7日午前6時10分、食道ガンのため、東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年62。昭和3(1928)年4月25日、東京都大田区に生まれる。小学校高学年の頃から絵に興味を抱き、同26年、早稲田大学理工学部応用化学科を卒業して同年猪熊弦一郎に師事する。翌27年、第4回読売アンデパンダン展に対象を抽象的形体にデフォルメした「工場」を出品し、安部公房により新聞展評に取り上げられる。同31年第30回国画会展に「かつぐ」で初入選し、以後同展に出品を続け、同37年同会会友となる。同48年、インド、スリランカへ、翌年インド、ネパールへ、同51年トルコ、イラン、アフガニスタンへ赴き、帰国のたびに個展によってその成果を発表。同55年前後から中国、西域を中心に旅している。作品は早くから抽象的傾向が強く、晩年には「系」のシリーズを追求し、幾何学的形体と強烈、明快な色彩で宇宙の律を表現するような画面を示した。同61年、国画会会員に推挙された。絵画のほか著述もよくし、著書に『表現とは何か–系の世界1」(築地書館、昭和59年)、『私的空間池上村–系の世界2」(同、昭和61年)、『柿くへば 食から見た明治以降の文学–系の世界3』(同、昭和63年)などがある。 国画会展出品歴第30回(昭和31年)「かつぐ」、31回「装置」、32回「穹」、33回「祭(女)」、34回(同35年)「開」、35回「律」、36回「晨」、37回「圏」「覇」、38回「汎」、39回(同40年)「渺」「湛」、40回「域」、41回「府」、42回「圏」、43回「圏」、44回(同45年)「典」、45回「念」、46回「覇」、47回「汎」、48回「殖」、49回(同50年)「系-’75」、51回「系-’77」、52回「系-’78」、53回「系-’79」、54回(同55年)「系-’80」、55回「系-’81」、56回「系-’82」、57回「系-’83」、58回「系-’84」、59回(同60年)「系-’85」、60回「系-’85」、61回「系-’87」、62回「系-’88」、63回(平成元年)「系-’89」

葛西四雄

没年月日:1990/04/27

読み:かさいよつお  日展会員、示現会理事の洋画家葛西四雄は、4月27日肝不全のため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年64。大正14(1925)年青森県南津軽郡に生まれる。県立青森師範学校を中退、昭和28年から同36年まで小学校助教諭をつとめ、この間、同32年奈良岡正夫につき、同年の第10回示現会展に初入選する。同37年第5回日展に「滞船」が初入選、翌年示現会会員となる。同44年から安井賞候補展へもしばしば出品する。同46年改組第3回日展に「北の漁村」で特選を受け、翌年日展無鑑査。同53年、第10回日展に「北の浜」で再度特選となり、同60年には日展会員に推挙された。また、同57年新宿小田急で葛西四雄油絵展を行ったのをはじめ、翌年には奈良岡正夫らとの四人展を銀座松屋で開催、同展は以後6回続いた。示現会理事をつとめ、日本美術家連盟会員でもあった。北国の海を題材に力強い写実の作風で知られ、特選受賞後の日展への出品作には他に、「北の海辺」(14回)、「岬」(16回)、「北の漁村」(17回)などがある。

坂宗一

没年月日:1990/04/09

二紀会名誉委員の洋画家坂宗一は、4月9日肺炎のため福岡県三輪町の朝倉記念病院で死去した。享年87。明治35(1902)年5月福岡県三潴郡に生まれる。小学校卒業後、郷里の先輩坂本繁二郎を頼って上京し、一時川端画学校で素描を学んだ他は油彩画は独学により、坂本や古賀春江に制作を見てもらっていた。昭和4年、第16回二科展に初入選し、同12年の第24回展では「農具」で二科特待賞を受けた。この間、朝鮮や中国大陸、東京を転々と放浪し貧窮生活を送ったのち、郷里へ居を据えた。戦後は、同22年創立の第二紀会(のち二紀会)に参加、同36年二紀会委員となり、主に同展に制作発表を続けた。九州洋画壇の長老として活躍し、晩年手がけた水墨画も高い評価を得ていた。

赤津實

没年月日:1990/03/27

東京学芸大学名誉教授の洋画家赤津實は3月27日午後4時2分、急性腎不全のため神奈川県厚木市の厚木佐藤病院で死去した。享年80。明治42(1909)年11月23日東京に生まれる。昭和11(1936)年東京美術学校油画科卒業。その後、福井県立敦賀高等女学校、東京府立第十一中学校等の図画専科教員を歴任する。この間、同14年第3回新文展に「休日」で初入選する。戦後は、同21年第2回日展に「養護室」を出品して官展に復帰し、同23年8月、東京第一師範学校助教授、同26年3月、東京学芸大学助教授となった。同27年第11回創元展に「青衣少女」「黄色セーターの少女」「室内」を初出品して創元会賞を受賞し同会会員となり、同会委員もつとめた。また、光風展、一水展などにも一時出品したが、同34年諸団体を退いて無所属となった。以後は制作を続ける一方、美術教育に尽くし、同38年社団法人「日本美術教育連合」の設立発起人として同会会員となり、同39年文部省より中学校美術教科書検定調査審議会調査委員を委嘱される。同43年東京学芸大学教授となり、同48年定年退官後は、女子聖学院短大児童教育学科図画工作科教授として教鞭をとった。著書に『図画・略画基本ハンドブック』『図案手帖』などがある。

林鶴雄

没年月日:1990/02/24

元一水会会員で無所属の洋画家林鶴雄は、2月24日心不全のため東京都世田谷区の国立大蔵病院で死去した。享年82。明治40(1907)年2月26日兵庫県揖保郡に生まれる。兵庫県立龍野中学校卒業。昭和10年第5回独立展に「教室」を出品、翌年上京し藤田嗣治の知遇を得る。同年第23回二科展の「黒板」をはじめ同13年迄は二科展に制作発表したが、安井曽太郎に師事するに及び、同14年からは一水会展(「身体検査」第3回)に出品した。同15年紀元二千六百年奉祝展に「砂場」を出品、翌年の文展には「草と子供」で特選を受けた。戦後の同21年一水会会員に推挙され、同32年第19回一水会展に「白壁の家」を出品し会員優賞を受賞したが、同38年一水会を退会し渡仏、以後無所属として個展を中心に制作発表を行った。在仏中は、マルセイユやパリのバンドーム画廊等で個展を開催、同58年帰国する間在仏20年に及んだ。国内では日動画廊他で個展を催した。

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