本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





上前智祐

没年月日:2018/04/16

読み:うえまえちゆう  現代美術家の上前智祐は4月16日に老衰のため死去した。享年97。 1920(大正9)年7月31日、京都府中郡奥大野村(現、京丹後市)に生まれる。1歳の時に実父由蔵を亡くし、病気がちな母の里んと共に苦難と貧困の幼少期を送る。4歳のころ耳を患い、難聴となる。小学校卒業後18歳まで洗い張り店へ奉公にで、挿絵画家を夢見て、肖像画、イラスト、南画などを独学。神戸、横浜などを転々としたのち、1944(昭和19)年、召集を受け、翌年陸軍一等兵として八丈島で終戦を迎える。実家の舞鶴へ戻り、舞鶴海軍経理部や日本通運舞鶴支所で勤務、クレーン運転免許証取得。この頃、木村荘八『美術講座』を読み、洋画を志すようになる。47年、第二紀会第1回展に「舞鶴港の夕景」(同展出品目録では「風景」)を出品、初入選。京都の関西美術院に通い黒田重太郎に指導を受ける。49年、同郷の看護婦小谷徳枝と結婚。51年、西舞鶴図書館で初の個展を開催。以後1950年代前半は朱舷会展、神戸モダンアート研究会展、ゲンビ展などに参加、本格的に抽象画の制作・発表をはじめる。神戸に移り、川崎重工業神戸工場に勤務。52年、吉原治良の非具象のクレパス画を見て感銘を受け、翌年、吉原宅を訪問、指導を仰ぐようになる。54年、具体美術協会の結成に参加、72年の同協会解散まで在籍。55年、第7回読売アンデパンダン展に「具体(上)」「具体(前)」を初出品。56年には兵庫県神戸市垂水区に100坪の山林を購入、数年掛けて住居とアトリエを建設。57年、第7回モダンアート協会展に出品、新人賞受賞。58年、新しい絵画世界展-アンフォルメルと具体(なんば〓島屋ほか)への出品作品は、吉原治良の評価も高く、下見をしたミシェル・タピエも「今回の1番の注目すべき作品だ」と絶賛したという。64年、現代美術の動向 絵画と彫刻展(国立近代美術館・京都分館)に出品。66年、具体ピナコテカにて個展を開催。75年にはアーティスト・ユニオンに、76年にはGe展に参加。80年、神戸製鋼所のクレーン操作の仕事を退職、創作活動に打ち込む。個展としては、集合と綢密のコスモロジー・上前智祐展(大阪府立現代美術センター、1999年)、「上前智祐と具体美術協会」展(福岡市美術館 常設展示室内企画展示室、2005年)、点と面の詩情 上前智祐・山中嘉一・坪田政彦展(和歌山県立近代美術館、2008年)、卒寿を超えて 上前智祐の自画道(神戸・BBプラザ美術館、2012年)、上前智祐・最初の始まり・さとかえりてん(京丹後市・大宮ふれあい工房、2013年、第3回郷土偉人展)等がある。具体美術協会に所属しつつも、所謂アクション・ペインティングとは一線を画し、地道な手作業の積み重ねによる反復、油絵具を多層に塗重ねた点描、パレットナイフを用いた線のパターンによる油彩、マッチ軸・おが屑・絵具のキャップ等を油絵具で塗り固めたミックスメディアの作品等を創作、マチエールと対峙し、非具象の世界を独自に探究し続けた。具体解散以降も「縫い」、版画、四角がモチーフの油彩やミックスメディアなど新たな制作に挑み、2012(平成24)年前後まで創作活動を継続。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、具体―ニッポンの前衛 18年の軌跡(国立新美術館、2012年)、具体展(グッゲンハイム美術館、2013年)に出品、多方面から注目を集めた。 自費による出版も多く、作品集に『孤立の道 上前智祐画集』(1995年)、『版画作品 2000年4月―8月』(2000年)等、著書に『とび出しナイフ』(1976年)、『自画道』(共同出版社、1985年)、『現代美術―僕の場合』(1988年)、『ある人への返書』(1998年)、『上前智祐 非具象の仕事』(2002年)、『「縫い」の作品について』(2005年)、『思い出 神戸の灘浜にて』(2010年)。また日記翻刻に中塚宏行編『上前日記 1947―2010 上前智祐と具体』(上前智祐記念財団、2019年)がある。

佐々木耕成

没年月日:2018/04/11

読み:ささきこうせい  前衛美術家の佐々木耕成は4月11日、群馬県みどり市の病院で死去した。享年89。 1928(昭和3)年7月、現在の熊本県菊池市泗水町に生まれる。45年3月、先に満州(現、遼寧省瀋陽市蘇家屯)に入植していた両親のもとに移る。戦争末期にソ連軍に抑留されるが、46年10月頃に帰国。53年3月、上京して武蔵野美術学校の通信教育を受け、翌年同学校の西洋画科に編入学する。在学中から独立美術展に出品をつづけ、58年3月、同学校西洋画科を卒業。60年3月、第12回読売アンデパンダン展に出品、同年の第28回独立美術展を最後に公募展への出品をやめる。62年2月、「汎太平洋青年美術家展」にて「国際青年美術家展賞」受賞。63年1月、熊本市にて「郷土出身 佐々木耕成展」(会場、同市鶴屋百貨店)開催。64年6月、前衛美術グループ「ジャックの会」に参加、以後、同会のメンバーとして展覧会活動をする。67年、フォード財団の援助により渡米、出国にあたりそれまでの作品を焼却処分したとされる。ニューヨークに住むが、作家活動よりも生活のため内装業に従事。85年、帰国。1990(平成2)年、群馬県勢多郡黒保根村(現、桐生市黒保根町)に移住。同村では、地区の有志とともに、公園を造成し、その場所で毎年秋に「あかしあの森公園野外コンサート」(2003年から「わたらせの森と水の音楽祭」と改称し、08年まで)を開催するなど、ボランティア活動をつづけた。 在米中の空白の時代から帰国後の美術界との没交渉の時代をへて、2007年、佐々木の地域での活動を紹介した桐生市のホームページから、当時の関係者と美術館学芸員によってその名前が発見された。これを契機に「ジャックの会」メンバーと再会し再び交流がはじまる。10年、アーツ千代田3331にて個展「全肯定/OK. PERFECT.YES.」開催。また同年刊行の黒ダライ児著『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(発行grambooks)で、「ジャックの会」が言及され、60年代の「前衛美術」の活動家のひとりとして再評価されるようになった。12年4月、群馬県立館林美術館にて「館林ジャンクション 中央関東の現代美術」展に出品。同年10月、アーツ千代田3331による企画「TRANS ARTS TOKYO」のレジデンスプログラム「熊本、シベリア、満州、NY、黒保根、そして神田」として公開制作をする。13年7月、小田嶋孝司著『漂流画家 佐々木耕成85歳』(文園社)が刊行された。 晩年にいたって発表活動も盛んになり、同年8月には、岡福亭ギャラリーのこぎり(桐生市)、15年4月にコミュニティスペースSOOO dramatic!(台東区)、17年3月には、ギャラリーya―gins(前橋市)にて個展を開催した。なお没後になるが、18年10月、熊本県立美術館にて「変革の煽動者 佐々木耕成アーカイブ」展が開催された。その生涯と創作活動については、佐々木の生前から取材と調査を重ねていたことから、同展カタログに詳細に記録されている。

杉本貴志

没年月日:2018/04/05

読み:すぎもとたかし  インテリアデザイナーの杉本貴志は4月5日、心不全のため死去した。享年73。 1945(昭和20)年3月31日、東京、中野生まれ。軍事関係の仕事をしていた父、母、姉二人の5人家族であった。戦時中、一度高知に疎開するが、戦後に帰京、68年に東京芸術大学美術学部工芸科を卒業。幼少期から剣道を習っており大学卒業後、一時期は調布警察署で剣道を教えていた。72年にファッションデザイナー、山本耀司による初めてのアパレルショップ「ワイズ」の内装、バー「ラジオ」の内装を手掛けた。「ラジオ」は、杉本が大学在学中に通っていたジャズ喫茶の店員だった尾崎浩司が独立して開いた店である。82年に改装後、円弧の連なりを描くように設置された照明が印象的な内装となった。重厚感のあるカウンターは彫刻家、若林奮によるもの。以後もパシュラボ(1983年)やビーイン(1984年)で同作家と協働で内装を手がけている。73年に設計会社「スーパーポテト」を設立。75年にはグラフィックデザイナー、田中一光と共に西武百貨店の環境計画に参加し、西武セゾングループのデザインディレクターとして、国内の店舗の立ち上げを行った。80年には代表的な仕事のひとつである無印良品の創立にも参加し、ブランドの思想構築から店舗の内装設計まで関わった。このプロジェクトで杉本が大事にしたのが「空間の感性」である。時代の持つ空気感を反映しながら、店舗空間自体がある種のイメージを発信できるような店づくりを試みた。そこで鍵となったのが素材選びである。人間のコントロールが及ばない素材の経年変化に面白みを見出し、1店舗目の青山店では、古民家の廃材を再利用した木、錆びた鉄板、古い工場にあった劣化したレンガなどを用いた。後に自著のタイトルにも採用した「無作為の作為」という考えをここに見ることができ、自身の創作にとって重要な言葉であったことが分かる。86年には自身が内装を手掛けた飲食店「春秋」の経営を始める。2店舗目としてオープンした春秋赤坂展(現在、閉店)では、陶芸作家、辻清明に店で使う器の作陶を依頼するなど、空間だけでなく、総合的な食体験を提供するレストランを目指した。90年代にグランドハイアットシンガポールのレストラン「Mezza9」の内装を手掛けたことがきっかけで海外での仕事が増加。その後、パークハイアット・ソウル、ハイアットリージェンシー・京都など、国内外のハイアットホテルの内装に加え、シャングリラ、ザ・リッツ・カールトンなど世界展開をしているホテルのインテリアも手がけた。そのほかの代表作に銀座グラフィックギャラリー(1986年)や成田ゴルフクラブ(1989年)、レストラン「響」(1998―2002年)、妙見石原荘(2007年)などのインテリアがある。 裏千家の伊住政和を中心にデザイナーやアーティストたちが集って茶の湯を楽しむ会「茶美会」のメンバーとして原宿クエストホールで開催された1992(平成4)年「茶美会・然」に茶室「立礼」、93年「茶美会・素」に茶室「素」を出展。2003年にはミラノサローネで行われた「MUJI Exhibition」に参加。08年にギャラリー間で個展「杉本貴志」展を開催し、水の茶室と鉄の茶室を展示した。 85年から09年までTOTOが運営するギャラリー間の運営委員として、展覧会の企画に携わった。92年から11年まで武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科の教授として後身の教育に従事。 受賞歴 1985年 ‘84年毎日デザイン賞 受賞 1985年 ‘85年インテリア設計協会 受賞 1986年 ‘85年毎日デザイン賞 受賞 2001年 Restaurant Design of the Year 受賞 2001年 国土交通大臣賞 受賞 2007年 第1回 KU/KAN賞 受賞 2008年 Interior Design Magazine Hall of Fame Awards 2008 著書は以下のとおり 『交感スルデザイン』(共著、六耀社、1985年) 『春秋』(TUTTLE PUBLISHING、2004年) 『杉本貴志のデザイン発想・発酵』(TOTO出版、2010年) 『無為のデザイン』(TOTO出版、2011年) 『Super Potato Design:The Complete Works of Takashi Sugimoto』(TUTTLE PUBLISHING、2015年) 『A life with MUJI』(無印良品、2018年)

高畑勲

没年月日:2018/04/05

読み:たかはたいさお  子供だけでなく大人も享受する芸術として、本邦におけるアニメーションの今日の隆盛に大いに貢献したアニメーション映画監督、プロデューサーの高畑勲は東京都内の病院で4月5日に肺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年10月29日三重県伊勢市に生まれる。東京大学仏文科在学中に、仏・アニメーション映画『やぶにらみの暴君』(55年日本公開、ポール・グリモー監督・脚本、詩人ジャック・プレベールが共同脚本)を見てアニメーションを志す。同大学を卒業後、59年に東映動画(現、東映アニメーション)へ入社。64年TVアニメ『狼少年ケン』で演出に昇格し、各話を分担し担当。68年『太陽の王子 ホルスの大冒険』で劇場映画初演出(監督)。この作品では場面設計を宮崎駿、作画監督を大塚康夫が務め、以降の高畑作品における共同制作の嚆矢となるだけでなく、当時は依然として子供だけのものと思われていたアニメ映画において、作品に民族対立や宗教性、村落での共同生活といった社会的・政治的・道徳的なテーマを取り込んで制作を進め、当時まだ興隆期であった日本のアニメーションにおいて、芸術としても深みのある表現を探っていった。同作はタシケント国際映画祭演出賞を受賞する一方、公開時の興行収益は振わず、加えて同作制作の大幅な遅延・予算超過により、高畑は演出助手に降格となった。 その後、69年に演出へ再昇格するものの、童話『長くつ下のピッピ』のアニメーション企画を実現させるため、宮崎駿・小田部羊一とAプロダクション(現、シンエイ動画)に71年に移籍。制作準備のため、当時アニメ作品では異例であった海外現地への事前取材を行うも、原作者のアストリッド・リンドグレーンからアニメ化の許可が下りず制作中止となる。代わりに『ルパン三世』(TV第1シリーズ。第六話以降)の演出を宮崎駿と共同で担当。後にシリーズ化する人気作品の基盤を作る。同社では映画『パンダコパンダ』『パンダコパンダ雨降りサーカスの巻』等の演出を手掛け、73年ズイヨー映像(現、日本アニメーション)に移籍。『アルプスの少女ハイジ』(1974年)では再び海外への事前取材や主題歌の海外現地録音を敢行し、全話で演出を担当。作品に横〓する丁寧かつ活き活きとした生活描写に繋げた。続けて『母をたずねて三千里』(1976年)、『赤毛のアン』(1979年)の全話の演出を行い、綿密な生活描写からなる人間ドラマをアニメーション表現において高めていく。81年に映画『じゃりン子チエ』(脚本・演出)、同作TVシリーズ(チーフディレクター)を担当。大阪が舞台の作品のため、声優には大阪弁の話せる芸人などの話者にこだわり、当地独特の風土表現や生活描写に繋げる。映画『セロ弾きのゴーシュ』(1982年、脚本・演出)で毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞、ヴァルナアニメーション祭招待作品となる。 宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)でプロデューサーを務め、85年のスタジオジブリの設立に加わる。88年に『火垂の墓』(原作 野坂昭如、監督・脚本)を劇場公開し、宮崎駿とともに世界各国で評価されるアニメ作品を生み出すスタジオジブリの基盤を築く。1991(平成3)年『おもひでぽろぽろ』(監督・脚本、芸術選奨文部大臣賞)、94年『平成狸合戦ぽんぽこ』(監督・脚本、仏・アヌシー国際映画祭グランプリ受賞)では、それぞれ日本映画配給収入一位を記録。その後は寡作ながら、『ホーホケキョとなりの山田くん』(1999年)、『かぐや姫の物語』(2013年)の監督・脚本を担当し、手書きの水彩画風のタッチや、ラフな線描、余白を残し省略された背景描写など、見る者の想像に広がりを持たせる手法や表現を探り、『かぐや姫の物語』では毎日映画コンクール・アニメーション映画賞、米・ロサンゼルス映画批評家協会賞(アニメーション映画部門)等を受賞、米・アカデミー賞長編アニメーション部門賞にノミネートされた。 98年に紫綬褒章を受章。スイス・ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞(2009年)、仏・アヌシー国際アニメーション映画祭(2014年)では名誉功労賞、15年に仏・芸術文化勲章オフィシエが贈られ、16年に国際アニメーション協会の生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞を受賞した。 著作としては『「ホルス」の映像表現』(徳間書店 アニメージュ文庫、1983年)、『話の話―映像詩の世界』(徳間書店 アニメージュ文庫、1984年)、『映画を作りながら考えたこと1955~1991』(徳間書店、1991年)、『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(徳間書店、1999年)など。また翻訳として『木を植えた男を読む』(訳著、徳間書店、1990年)、ジャック・プレヴェール詩集「ことばたち」(訳、ぴあ、2004年)等があり、12年には米・ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン名誉博士号が授与された。

森永純

没年月日:2018/04/05

読み:もりながじゅん  写真家の森永純は4月5日、心不全のため埼玉県内の病院で死去した。享年80。 1937(昭和12)年11月11日、長崎市に生まれる。本名・純雄(すみお)。44年佐賀県に移住、同地で育ち56年龍谷高等学校を卒業。同年上京して日本大学芸術学部写真学科に入学、60年に卒業した。61年1月、岩波映画製作所写真部に暗室マンとして入社するが、同年11月に退社、日立製作所の委嘱で同社を撮影するために長期滞在していた写真家W.ユージン・スミスの助手となり、スミスが離日するまで約一年間暗室作業などを担当。その後フリーランスとなる。 60年代半ばには写真雑誌などに作品を発表するようになり、60年代末には渡米、ニューヨークに約一年半滞在。帰国後の69年、ニューヨークで撮影した作品による個展「モーメント・モニュメント」(ニコンサロン、東京)を開催、この展覧会により同年の第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。その後「オリジナルプリント’60~’71」(画廊春秋、東京、1971年)、「都市の眺め」(ニコンサロン、東京、1978年)などの個展を開催。78年に写真集『河―累影』(邑元舎)を出版。大学を卒業した60年から63年にかけ、都内の河川の水面を撮影したモノクローム作品により構成され、ブックデザインは杉浦康平が担当。同作により80年、第30回日本写真協会賞年度賞を受賞した。 70年代後半には、海外に日本の現代写真を紹介する「Neue Fotografie aus Japan」(グラーツ市立美術館、1976年、以後オーストリア、ドイツを巡回)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)などの展覧会にも選ばれるなど、都市風景や海の波などモティーフとする独自の作風により評価を確立し、以降も寡作ながら一貫した作家活動を展開した。 『河―累影』は、川面にレンズを向けた最初期の作品を、撮影から十数年を経て写真集にまとめたものであり、また晩年に刊行された二冊目の写真集『Wave:all things change』(かぜたび舎、2014年)も、前作のテーマを引き継ぎ、70年代から長くとりくんだ海面の波を被写体としている。長く森永がとりくんだこの二つの代表作は、いずれも水面という、つねに流動し形を変える被写体をモノクロームの画面にとらえたイメージの累積によって構成されており、生々しい物質感と抽象性を併せ持ち、深遠な世界観を映像化した仕事として高く評価された。また助手時代にスミスのプリントへの高い要求に応えるべく暗室技術を磨き、その後渡米し、現地でオリジナルプリントの概念に触れた森永は、作品世界の基盤としてのプリントのクオリティを徹底して追究したことでも知られる。こうした森永の写真観の一端は、松岡正剛、佐々木渉との鼎談による『写真論と写心論』(工作舎、1979年)においても語られている。

長澤英俊

没年月日:2018/03/24

読み:ながさわひでとし  彫刻家の長澤英俊は3月24日、死去した。享年77。 1940(昭和15)年10月30日に旧満州東寧(現、黒竜江省牡丹江市東寧県)に生まれる。45年、母の実家のある埼玉県三保谷村(現、埼玉県比企郡川島町)に移り、埼玉県立川越高等学校を卒業。63年に多摩美術大学インテリアデザイン科を卒業する。 同校卒業後、東横百貨店家具設計室に就職するが、66年に東南アジア、中近東、ヨーロッパを自転車で横断する旅に出る。その中で訪れたイタリアのミラノで自転車の盗難に遭い、旅は中断。同地に滞在するようになった。以後、ミラノで制作活動を行い、海外で評価を受けることとなる。 67年には、ミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアトリエに移り、同地で「貧しい芸術」を意味する前衛美術運動「アルテ・ポーヴェラ」の一員とされていたルチアーノ・ファブロなどと交流を持つ。彼らとの交流の中でイタリア現代美術の動向について学ぶこととなった。翌年、アンフォ国際芸術祭にマルサ・メルツらと共に参加し、「落差」を発表する。この作品は、湖畔に浮かんだ、プラスチック製の筒の中の汽水域を表したものであった。このように、当初はコンセプチュアルな作品や、オブジェなどを手掛けていたという。また、70年にはヴィデオ・アートを制作する他、パフォーマンス作品「風」を発表するなど、前衛的な表現を用いた作品を発表していた。また、同年5月には初の個展も開催する。 71年、先述した「アルテ・ポーヴェラ」のメンバーとの議論に触発され、最初の彫刻作品、「オフィールの金」を制作した。この作品を機に、木、金属、石などの材料を駆使した詩的な彫刻作品を数多く手掛けるようになり、数々の国際美術展に出品を重ねた。72年の第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ(同展には76年、82年、88年、93年にも出品)、73年の第8回パリ・ビエンナーレ、75年の第13回ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」、77年の第10回ローマ・クワドリエンナーレ、1989(平成元)年の第20回ミデルハイム・ビエンナーレ 現代日本彫刻展、同年の第4回彫刻国際展、92年の第9回ドクメンタ、94年のミラノ・トリエンナーレ、98年の第9回カッラーラ彫刻ビエンナーレ(2006年にも出品)などで作品を発表した。 また、国際美術展への出品の一方で、イタリアをはじめとするヨーロッパでの個展やグループ展、そして日本での発表も積極的に行った。国内では、72年の「第5回現代の造形」(京都市美術館)や、「ヨーロッパの日本作家展」(東京国立近代美術館他)、79年の「近代イタリア美術と日本」(国立国際美術館)、84年の第4回平行芸術展(小原流会館)、同年の「現代美術の動向III」(東京都美術館)、87年の「現代のイコン」(埼玉県立近代美術館)、89年の「かめ座のしるし」(横浜市民ギャラリー)、91年の「現代日本美術の動勢」(富山県立近代美術館)など多数のグループ展に作品を出品した。そして93年の個展、「天使の影」(水戸芸術館現代美術センター)では、旧作と新作を含む17点を発表し、その多様な表現とスケール感が大きな話題となった。 その後も、95年の「日本の現代美術」(東京都現代美術館)、99年の「彫刻の理想郷」(神奈川県立近代美術館他)で作品を出品。そして、イタリアにおいても、2000年にブリジゲッラ市立美術館および市内各所で個展を開催し、インスタレーション作品を発表。05年の第21回現代日本彫刻展では、「メリッサの部屋」が大賞を受賞した。また、09年には川越市立美術館、埼玉県立近代美術館(同時開催)他3館を巡回した個展「長澤英俊―オーロラの向かう所」を開催し、翌年同展で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 長澤は先述のように、イタリアを軸に国外で活動を展開したが、日本国内においても野外彫刻で作品をみることができる。つくばセンタービルの「樹」(1983年)、新宿アイランドの「Pleiades」(1995年)、東京ビッグサイトの「七つの泉」(1995年)、南長野運動公園の「稲妻」(2004年)、多摩美術大学の「TINDARI」(2007年)が現在でも設置されている。 2000年代からは教育者としても活動し、04年からミラノ国立ブレラ美術アカデミーと多摩美術大学において教鞭を執った。客員教授として後進を指導した多摩美術大学では、歿後、その功績を顕彰し、長澤の意思を次世代に継ぐことを目的とした追悼シンポジウム「NAGASAWA芸術の種子を語る」が八王子キャンパスで開催された。 長澤の圧倒的なスケールと哲学的な思想に支えられた詩的な雰囲気を持つ作品は、国際美術展を中心に評価され、国内外で後進に影響を与えた。

宇野茂樹

没年月日:2018/03/23

読み:うのしげき  彫刻史研究者・滋賀県立短期大学名誉教授の宇野茂樹は、癌のため3月23日に死去した。享年97。 1921(大正10)年3月9日、滋賀県栗太郡栗東町に生まれる。滋賀県立膳所中学校(現、滋賀県立膳所高等学校)を経て1944(昭和19)年9月、國學院大学神道部本科を卒業。応召によって敦賀歩兵連隊に入隊し中国へ出征する。46年8月に復員し、9月より京都帝国大学文学部国史研究室に学ぶ。48年3月に滋賀県重要美術品等調査事務取扱嘱託となり、12月に滋賀県技術吏員(技師)として滋賀県立産業文化館(後の琵琶湖文化館)に勤務する。61年4月、学芸員として滋賀県立琵琶湖文化館勤務。65年4月、滋賀県立短期大学に助教授として着任、71年4月、教授に昇進。86年3月、同大学を定年退職し、名誉教授の称号を授与される。同年4月、大阪商業大学商経学部教授に着任。1990(平成2)年7月、栗東歴史民俗博物館館長となる。94年3月、大阪商業大学を定年退職。2000年4月、栗東歴史民俗博物館名誉館長。滋賀大学、同志社大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、滋賀県文化財保護審議会委員、滋賀県文化財保護協会理事、野洲町立歴史民俗資料館運営審議会委員など、滋賀県内の文化財・博物館行政の要職を歴任した。91年に滋賀県文化賞を受賞。96年に勲三等に叙され瑞宝章を授与される。小槻大社宮司・五百井神社宮司を務めた。 宇野は小槻大社宮司職を務める家に生まれ、國學院大学で考古学者・大場磐雄の指導を仰いだ。滋賀県庁に奉職後は県内各地の寺院調査を行い、近江地域の彫刻史研究に精力的に取り組んだ。58年には滋賀県内の在銘彫刻63点にコロタイプ写真を付した『近江造像銘』(山本湖舟写真工芸部)を、74年には近江地域の古代から中世へと至る彫刻史を論じた『近江路の彫像』を刊行する。77年、論文「近江宗教彫刻論」を國學院大学に提出し、博士号を授与される。多年にわたる実地調査に基づき、天台宗や神仏習合といった複雑な信仰背景を持つ近江の仏像・神像彫刻を数多く紹介し、当該地域における彫刻史研究の発展に大きく寄与した。大学では博物館での勤務や豊富な調査経験を踏まえて後進の指導と育成に努め、とりわけ同志社大学では長く博物館実習を受け持っていたため、その薫陶を受けた者は多い。 著作に『日本の仏像と仏師たち』(雄山閣、1982年)、『近江の美術と民俗』(思文閣出版、1994年)、『仏教東漸の旅:はるかなるブッダの道』(思文閣出版、1999年)など。論文に「近江常楽寺二十八部衆について」(『日本歴史』148、1960年)、「石山寺本尊考」(『文化史研究』17、1965年)、「園城寺新羅明神像」(『史跡と美術』384、1968年)、「近江の白鳳彫刻―韓国古代彫刻を中心として」(『文化史学』27、1971年)、「比叡山常行堂の阿弥陀像―近江国梵釈寺像を中心として―」(『佛教藝術』96、1974年)、「鎌倉時代初期の延暦寺における仏師動静」(『史跡と美術』465、1976年)、「熊野信仰と園城寺」(『神道及び神道史(西田長男博士追悼号1)』37・38、1982年)、「神像彫刻の展開」(『栗東歴史民俗博物館紀要』2、1996年)ほか多数。

山岸享子

没年月日:2018/03/15

読み:やまぎしきょうこ  写真キュレーターの山岸享子は3月15日、大腸がんのため死去した。享年78。 1940(昭和15)年2月8日神奈川県三浦郡三崎町(現、三浦市三崎)に生まれる。旧姓洞外(とうがい)。61年東洋女子短期大学英語科卒業。写真家中村正也のスタジオスタッフを経て、64年より67年まで『カメラ毎日』の編集部に勤務、取材や執筆も含む編集作業に携わる。68年同誌の編集者であった山岸章二と結婚。60年代末より語学力を活かして山岸章二の海外での活動をサポートするようになる。特に「New Japanese Photography」(ニューヨーク近代美術館、1974年)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)など、山岸章二が企画に関わった展覧会に携わることで、美術館がコレクションするなど、写真が芸術の一ジャンルとして扱われ、質の高いオリジナル・プリントによる展示が開催されていたアメリカ写真界の実情に触れるとともに、現地の写真家や写真関係者に広く知遇を得る。 独立して写真プロデューサーとして活動していた山岸章二が79年に死去した後は、その事務所を引き継ぐかたちで、写真展や写真集の企画などを手がけた。中でもアメリカを中心とした海外の写真を紹介する展覧会に数多く携わり、その主なものとして、「20世紀の写真:ニューヨーク近代美術館コレクション展」(西武美術館、東京、1982年)、「リー・フリードランダー展」(有楽町アート・フォーラム、1987年)、「表現としての写真150年の歴史」(セゾン美術館、東京、1990年)などがある。また写真集のプロデュースにおいては、質の高い海外の写真集の出版事情に通じ、その見識を活かした高いクオリティの写真印刷による出版を実現したことで知られる。その代表的なものに江成常夫『まぼろし国・満洲』(新潮社、1995年)、新正卓『沈黙の大地/シベリア』(筑摩書房、1995年)がある。 1990(平成2)年にはJ.ポール・ゲティ美術館より助成を受け、同館にて滞在研究するとともに日本の現代写真に関する講演を行った。93年から武蔵野美術大学映像学科で非常勤講師として現代写真論の講義などを担当(2008年まで)。93年から2008年まで写真の町東川賞審査員を務めた。 多年にわたり日本の写真の海外への発信や海外の同時代の写真の国内への紹介などを通じて日本の写真文化の発展に貢献した功績に対して、12年、第62回日本写真協会賞国際賞を受賞した。

金関恕

没年月日:2018/03/13

読み:かなせきひろし  弥生時代研究の第一人者で天理大学名誉教授、大阪府弥生文化博物館名誉館長の金関恕は3月13日、心不全のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年11月19日、京都市で医学博士の父金関丈夫・母みどりの次男として出生。36年、丈夫の京都帝国大学から台北帝国大学への赴任に伴い、台湾へ転居し青年期までを過ごした。丈夫は赴任前、考古学者濱田耕作の研究室座談会の常連で、第2次世界大戦後に弥生時代出土人骨の研究から弥生人渡来説を核とした日本民族起源論を唱えた高名な人類学者・解剖学者である。幼少年期に父の書斎に並ぶ歴史書・美術書・文芸書の中で育ち、石器採集をはじめ、父の遺跡発掘調査を手伝うことで、考古学に深い関心をもつ。なお、台北帝国大学(医科大学)予科在学時の従軍体験はプロパガンダ・連呼による命令を嫌う氏の思想の根幹をなしたと長女ふき子が回想している。 45年帰国後、旧制松江高等学校を経て、49年に京都大学文学部(考古学専攻)に入学。考古学者の梅原末治・小林行雄に師事し、遺跡・遺物(考古資料)の調査研究方法をそれぞれから徹底的に学び、先輩坪井清足らと考古学研究に打ち込む。53年京都大学大学院入学、同時に坪井が所長を務める奈良国立文化財研究所臨時筆生となり、奈良県飛鳥寺や大阪府四天王寺の発掘調査に従事、飛鳥寺塔心礎の発掘調査では舎利容器に接した感動は忘れ難いと述懐している。また49年、丈夫の九州大学(医学部)赴任に伴い始まった山口県土井ヶ浜遺跡や鹿児島県広田遺跡等の発掘調査に参加した。59年に、師梅原末治が勤める天理大学に赴任。61年から奈良県東大寺山古墳の発掘調査に携わる(副葬品は1972年重要文化財、2016年国宝指定)。また、同調査で知遇を得た三笠宮殿下他の推挙で、日本オリエント学会10周年記念「西アジア文化遺跡発掘調査団(聖書遺跡調査団)」のイスラエル発掘調査に65年第2次調査から測量兼写真担当として参加。同年帰国後、大阪万国博覧会のための国道新設に伴う大阪府池上・曽根遺跡の発掘調査に際し、部分的に西アジア調査で学んだ組織的な大規模分業調査方式を提案、今日の大規模緊急調査の先駆的事例となった。同調査では遺跡の重要性から現地保存運動が興り、70年発掘調査報告書『池上・四ツ池』(第二阪和国道遺跡調査会)刊行、75年国史跡指定や1991(平成3)年大阪府立弥生文化博物館建設等に尽力した。このほか、山口県綾羅木郷遺跡、佐賀県吉野ケ里遺跡、鳥取県妻木晩田遺跡等の代表的弥生集落遺跡の保存・活用活動にも貢献した。 一方、60年頃から文化人類学・民俗学による神話・祭儀等の宗教史的な視点から分析を加えた論考を発表し、75年『稲作の始まり』(古代史発掘4 弥生時代1:佐原真と共編)(講談社)を刊行、当時最新の発掘調査成果と斬新な視点から新たな弥生時代像を提示した。その後も、『日本考古学を学ぶ』(有斐閣、1978年)・『岩波講座 日本考古学』(岩波書店、1985年)などの叢書を中心に、西アジア調査・米国インディアナ大学交換教授の経験を踏まえた欧米考古学との比較研究や、東アジアにおける弥生文化の位置づけ等の弥生時代史像に関する論考を重ねた。85年からは『弥生文化の研究』(全10巻:佐原真と共編、雄山閣)を刊行(~1988年)、全国の研究者を編制して弥生文化研究の現代的水準を示した。86年『宇宙への祈り 古代人の心を読む』(日本古代史3:責任編集・総論、集英社)では先史時代から奈良時代までの研究成果を俯瞰し、2004年『弥生の習俗と宗教』(学生社)で宗教史的視点による弥生時代研究の方法的展望を示した。17年『弥生の木の鳥の歌―習俗と宗教の考古学―』(雄山閣)、『考古学と精神文化』(桑原久男編、雄山閣)を刊行した。 また、91年から大阪府立弥生文化博物館館長(~2013年)に就任し、年2回の特別展監修と図録巻頭論文の執筆を続け、弥生時代研究の成果を広く普及・啓発する活動に尽力する一方、95年『弥生文化の成立 大変革の主体は「縄紋人」だった』(同博物館と共編、角川書店)等で、従来の弥生時代像の転換を促して大きな影響を及ぼした。ほかにも、99年からユネスコ・アジア文化センター遺産保護協力事務所長(~2003年)、2000年から財団法人辰馬考古資料館館長(~2011年)、06年世界考古学会議(WAC)中間会議大阪大会実行委員長、山口県史等の編纂事業や各地の文化財関係国公立機関の座長・審議員等を歴任した。96年天理大学退任。03年大阪文化賞受賞・文部科学大臣地域文化功労者表彰、14年イスラエル考古局功労者表彰。 なお、遺言により骨格標本として献体。これは父丈夫の学術研究のために祖父喜三郎(1943年逝去)が献体を申し出たことに始まり、丈夫(1983年逝去)が遺言で九州大学医学部に献体され、その遺志を継いだ長男毅(2015年逝去:佐賀医科大学名誉教授)に続いたものである。遺伝学史上、生前記録や親族関係が残る男子直系3代の骨格標本は世界的にも類がなく、心身共に学問に生涯を捧げた一族を象徴する事績であろう。

中島宏

没年月日:2018/03/07

読み:なかじまひろし  青磁の美と技術を究めた「中島青磁」「中島ブルー」を確立し、青磁の重要無形文化財保持者であった中島宏は、3月7日肺炎のため死去した。享年76。 1941(昭和16)年10月1日、佐賀県杵島郡西川登村大字小田志字弓野(現、武雄市西川登町弓野)生まれ。磁器の窯元に育ち、古窯跡の調査を通して青磁へ傾倒した。69年第16回日本伝統工芸展に初入選。70年、独立し、弓野古窯跡に半地下式穴窯を築窯。73年には第2回日本陶芸展に初入選。77年第24回日本伝統工芸展で「〓白磁壺」奨励賞受賞、文化庁買い上げとなる。81年、第1回西日本陶芸美術展で「粉青瓷線彫文壺」陶芸大賞(内閣総理大臣賞)受賞。83年日本陶磁協会賞を受賞。「中島青磁」と呼ばれる独創的な作品は高い評価を受け、1990(平成2)年佐賀県重要無形文化財認定。96年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞を受賞。2005年、第52回日本伝統工芸展に「青瓷線文平鉢」を出品、NHK会長賞を受賞。06年、第65回西日本文化賞受賞、日本陶磁協会創立60周年記念日本陶磁協会賞金賞受賞。07年、青磁で重要無形文化財保持者の認定を受ける。10年、日本工芸会常任理事参与、12年日本工芸会副理事長就任(―2016年)、旭日小綬章を受章するなど、陶芸界の第一線で活躍した。 10代より、佐賀県、肥前地域の古窯跡を歩き物原(割れた焼き物の捨て場)で青磁の陶片に触れ青磁に魅了された。84年には、中国古陶磁研究者訪中団(日中文化交流協会主催)の一員として各地の古窯跡及び博物館を視察。青銅器の造形に感銘を受ける。翌年日本人として初めて、中国官窯の青磁がつくられた浙江省龍泉古窯跡を訪問し陶片調査を実施。自己の青磁創作への姿勢を強く意識し、唯一無二の「中島青磁」へと昇華。他に陶板作品も手がけ、92年NHK福岡放送センターロビーに青瓷釉彩磁器壁画「躍動する自然」、95年国際医療福祉大学(栃木県)に青磁「四季釉彩」磁器壁画を制作する。 また、陶磁研究家であった小山冨士夫を師と仰ぎ、生涯陶磁器の研究と収集を行う。生誕の地である武雄市弓野地区をはじめ、武雄地域の陶器収集を熱心に行った。江戸時代の佐賀藩武雄領で焼かれた古陶磁を「古武雄」と名付けて再評価を行い、収集した作品約600点を佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈した。 80年西日本新聞社『中島宏作陶集』、97年日本経済新聞出版『中島宏作陶集―無窮なる青磁』を刊行。作品集のほか、95年には日本経済新聞社より随筆集『弓野[四季釉彩]陶芸家中島宏の世界』を刊行。

倉田公裕

没年月日:2018/02/26

読み:くらたきみひろ  元北海道立近代美術館長の倉田公裕は2月26日、偽膜性腸炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年1月10日、三重県に生まれる。関西大学文学部を卒業後、1959(昭和34)年よりサントリー美術館の設立準備に学芸員として当たり、63年からは山種美術館の設立準備に従事。山種美術館の学芸部長を務めた後、73年より北海道立近代美術館の設立準備室長となり、地域性と国際性を重視した本格的な美術館作りに尽力、また展示に複製や映像を積極的に導入するなど新たな美術館像を示した。同館副館長を経て78年から86年まで北海道立近代美術館館長(非常勤)を務め、また78年に明治大学文学部教授となり、1995(平成7)年に定年退任するまで教鞭をとる。一方でサントリー美術館勤務時代より縁のあった日本画家鏑木清方の遺族から、土地・建物・作品の鎌倉市への寄贈の相談を受けて記念美術館の設立に協力、98年に鎌倉市鏑木清方記念美術館として開館すると、その専門委員を2004年まで務めた。 その業績は近代日本画に関するものが多く、『日本の名画15 竹内栖鳳』(講談社、1973年)、『近代の美術14 小林古径』(至文堂、1973年)、『森田曠平画集』(駸々堂出版、1993年)といった画集の編集に携わる。一方でサントリー美術館、山種美術館、北海道立近代美術館の設立に関わった経験から博物館学についての著述も多数あり、著書としては『博物館学』(東京堂出版、1979年)、『博物館の風景』(六興出版、1988年)、また新聞に発表したコラム等をまとめた『曲臍庵随記』(私家版、1986年)、その続編として編集され、博物館学関係の著作目録も収載した『続曲臍庵随記』(明治大学博物館学研究会、1994年)がある。鎌倉市鏑木清方記念美術館が清方の基礎資料集として継続的に刊行する『鏑木清方記念美術館叢書』についても、晩年に至るまでその監修を務めている。

加藤好弘

没年月日:2018/02/09

読み:かとうよしひろ  1960年代に過激なパフォーマンスを展開した前衛芸術集団「ゼロ次元」を主導した加藤好弘は2月9日に膀胱がんのため死去した。享年81。 1936(昭和11)年名古屋生まれ。生家は名古屋市南外堀町で食堂「好乃屋」を営み、父親は軍隊に2度招集され中国東北部に赴任したという。加藤も幼少期を1年ほど中国東北部で過ごし、終戦の3年ほど前に名古屋に戻り、母親の家に疎開。終戦後、中学のころに北川民次の塾に行き、絵を学ぶ。愛知県立明和高等学校に入学後、マルクス主義に傾倒。高校卒業後、多摩美術大学に進学、59年に同大学美術学部絵画科を卒業。大学時代に教員であった田中一松に歴史に向き合う姿勢についての影響を受け、また同大学と同じ世田谷区上野毛にアトリエを構えた岡本太郎の石版画制作のアシスタントをしたという。卒業後、名古屋に戻り教員として勤務。60年、岩田信市らが結成した絵画グループ「0次現」に、加藤らが合流し、というコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年に拠点を東京に移した加藤と、名古屋にとどまった岩田を中心に、都市空間のなかで数々のパフォーマンスを行った。同年、日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、各地で反万博運動を展開、加藤を含む数名が猥褻物陳列罪で逮捕されるなど社会を賑わせた。翌70年、パフォーマンス記録映画『いなばの白うさぎ』を製作したのち、加藤は次第にインドのタントラ研究に没頭し、グループとしての活動は減少することとなる。 ヨシダ・ヨシエ、針生一郎など一部の批評家を除き、美術界では永く言及されてこなかったが、三頭谷鷹史、椹木野衣、黒ダライ児らによって再評価が進んでいる。黒ダ『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、ゼロ次元の活動がなければ、この時代における「反芸術パフォーマンス史」そのものが成立しなかったほど大きな存在といわれる。2006年には、写真家・平田実の作品集として『ゼロ次元 加藤好弘と六十年代』(河出書房新社、2006年)が刊行。15年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として加藤の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。

永田生慈

没年月日:2018/02/06

読み:ながたせいじ  浮世絵研究者で美術評論家の永田生慈は肺癌のため2月6日に死去した。享年66。 1951(昭和26)年、島根県津和野町生まれ、その後東京都世田谷区で育つ。幼少の頃から骨董など古いものに興味をもち、初めてのコレクションは小学校3年の頃、〓飾北斎の絵手本『画本早引』であったといい、以後、生涯にわたり北斎作品の収集、研究に身を捧げた。高校卒業後、浮世絵研究の泰斗、〓崎宗重が教鞭を執っていた立正大学に進学し、師の薫陶を受ける。処女論文は「学生レポート 広重進出後の北斎」(『浮世絵芸術』30、1971年)、大学在籍中に仲間と東京北斎会を発足し、72年に『北斎研究』を創刊し(2017年、第57号をもって終刊)、精力的に北斎の調査研究を進めた。生涯に著した論文は200本余、専門的な学術書から一般向けの解説書や啓蒙書まで多数の著作を残した。大学卒業後、書店経営なども経て、太田記念美術館の設立に尽力し、学芸員から副館長兼学芸部長を務め、2008(平成20)年に退任するまで、同館の展覧会や調査研究活動に従事した。なかでも05年に太田記念美術館の開館25周年を記念し、初の海外展としてパリのギメ東洋美術館で開催された「太田記念美術館所蔵浮世絵名品展」の際、クーリエとして赴いていた永田の調査によって、ギメ東洋美術館に所蔵されている北斎の「龍図」が、太田記念美術館の所蔵品であった「虎図」と本来対をなす作品であることが発見されたことは大きな反響を呼んだ。この「龍図」は07年1月から太田記念美術館と大阪市立美術館でおこなわれた「ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展」で里帰りを果たし、虎図とともに展示され、北斎の絶筆に近い時期の大作として注目された。永田が研究を始めた頃は、フランスやアメリカでは高く評価されている北斎が、日本国内では過小評価されていたといい、永田は『〓飾北斎年譜』(1985年)など基礎研究を基盤に、膨大な数の作品論を積み重ね、画風展開を論じた。国内外の数々の北斎展に関わったが、その最大級のものがゲストキュレーターとして企画した2005年の東京国立博物館での「北斎展」で、作品総数約500点が出陳された。また14年にパリのグラン・パレで開催された「北斎展」でも主導的役割を果たして大きな反響を呼び、この功績により16年にフランスの芸術文化勲章オフィシエが贈られている。一方、自らも北斎やその門人の作品の収集活動を続け、90年、北斎の命日である4月18日に郷里の津和野町に自らの私財を投じて〓飾北斎美術館を開館した。同館は15年に閉館したが、散逸することを避けるため永田のコレクション約2000点は17年に島根県立美術館に寄贈された。19年2月に島根県立美術館で「開館20周年記念展 北斎―永田コレクションの全貌公開」が開催され、『永田生慈 北斎コレクション100選』が刊行されている。

南川三治郎

没年月日:2018/02/06

読み:みなみかわさんじろう  写真家の南川三治郎は2月6日、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年72。 1945(昭和20)年9月14日、三重県員弁郡(現、いなべ市)に生まれる。三重県立桑名高等学校卒業。66年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)卒業。株式会社グラフ社に入社、写真部に勤務するとともに67年に開塾した大宅壮一東京マスコミ塾に第一期生として学ぶ。その後勤務先を退社し、一年間のパリ滞在を経て70年よりフリーランスの写真家として活動する。74年、20世紀を代表する欧米の美術家を取材するプロジェクトに着手、マルク・シャガールやジョルジュ・デ・キリコ、サルバドール・ダリらをアトリエに訪ねて撮影した写真による『アトリエの巨匠たち』(朝日ソノラマ、1980年)にまとめた。多くは面会取材自体が困難な海外の芸術家を訪ね、その住まいや仕事場といった創造の空間ごと写真に収めるという、当時は先例のなかった手法によって美術家たちの人物像を描写したことが高く評価され、同写真集により80年、第30回日本写真協会賞新人賞を受賞。また同様の手法により、グレアム・グリーンやマイケル・クライトンら欧米のミステリー作家を取材した『推理作家の発想工房』(文芸春秋、1985年)で86年、第36回日本写真協会賞年度賞を受賞した。代表作となったこの二作の他、広くヨーロッパの文化をめぐる取材を重ね、『ヨーロッパの窯場と焼きもの』(美術出版社、1980年)、『世紀末ウィーンを歩く』(池内紀との共著、新潮社、1987年)、『ヨーロッパの貴族と令嬢たち』(河出書房新社、1993年)、『イコン(聖像画)の道:ビザンチンの残照を追って』(河出書房新社、1997年)、『ヴェルサイユ宮殿』(黙出版、2000年)、『皇妃エリザベート永遠の美』(世界文化社、2006年)など数多い著作にまとめた。 また2004(平成16)年頃より、世界遺産に指定されている日本とヨーロッパの巡礼の道の取材を始め、『世界遺産巡礼の道をゆく 熊野古道』、『世界遺産巡礼の道をゆく カミーノ・デ・サンティアゴ』(ともに玉川大学出版部、2007年)などにまとめた。日本文化の古層に対する関心は、故郷に近い伊勢神宮の取材へと展開し、13年の第62回式年遷宮をめぐって06年から約8年にわたって撮影を重ね、中日新聞に写真と文による「聖地伊勢へ」を連載(2011年4月から2013年12月)、14年に三重県総合博物館で「『日本の心』第六十二回神宮式年遷宮写真展」を開催した。 長年の制作活動に対して15年、第65回日本写真協会賞作家賞を受賞。また16年、第10回飯田市藤本四八写真文化賞を受賞した。

折原久左ヱ門

没年月日:2018/02/01

読み:おりはらきゅうざえもん  金工の造形作家折原久左ヱ門は、2月1日心不全のため死去した。享年86。 1931(昭和6)年7月18日、山形県南村山郡南沼原村(現山形市南沼原)の農家に3男7女10人兄弟の7番目、次男として生まれる。46年、山形師範学校予科(現、山形大学教育学部)に入学するが、51年、同校を中退し東京教育大学に入学する。ここで講師として指導にきていた商工省工芸指導所の職員で、クラフトデザイナー、金工作家であった芳武茂介に鉄板の絞り、鍛金技法を学び、一枚の鋼鈑を叩くことによって複雑な形を作り出すことができる鍛造に魅力を見出すようになる。55年、東京教育大学を卒業し福島大学の助手となり、その翌年第12回日展出品の「鉄花器」が初入選する。58年、北海道学芸大学岩見沢分校の助手として北海道に移り、62年、北海道学芸大学(現、北海道教育大学)函館分校の助教授を経て74年、北海道教育大学の教授となる。折原自身この函館が気に入り、東京という中央志向よりも地方での制作や教育を続けることを志向してこの地に定め、新日展、北海道の全道展を中心に作品を発表する。68年からは日本現代工芸美術展への出品を始め、制作の幅を広めていくようになる。56年の日展初入選の鉄花器から60年代初期の作品は折紙の形を取り入れた直線的に折り曲げた構成、また尖鋭感のある造形であり、60年後半からは扁壷のような円形を基調とした花器なども制作するようになる。しかし、長年の金属を打ち叩くという行為は聴覚に障害を及ぼすようになるようになり、70年代から技法を溶接や鋳造へと変えることとなった。粘土から形を作っていくことは鍛金と比べて容易であったと後に述懐し、また溶接は複雑な造形作品を生み出していく。それまで鉄だけであった材料もブロンズ、アルミニウム、黄銅、白銅などと多彩になり、作品の表現の意図によって使い分けるようになる。 84年、第16回改組日展で、「連作―祭跡―」で文部大臣賞を受賞、86年に前年の17回日展出品作「祀跡」で日本芸術院賞を受賞する。その後、制作のテーマは「結の空間」、「接(つなぎ)」、「祀」、「道標」へと展開していく。「結の空間」は人間関係が弱そうに見えても実は強いものであるということを、黄銅を用いて紐を結んだ形で表現したものである。「接」は、社会は単純に一つのことだけで成り立っているわけではなく、いろいろな関係が複雑に絡みあっていることを表現したものであった。「祀」は人がつながり集まる中で、人は安心のよりどころとして心の中でおまつりをするとして、それを造形化したものであった。「道標」は氏自身の設定している人生を進んでいることを表わしたと述べている(「折原久左エ門展 金属造形―創造の軌跡」北海道立函館美術館、2011年)。 また、大形のモニュメント作品も手がけており、「青史の道標」(1988年、函館市千代台公園・1991年、野村證券高輪研修センター)、「祭祀」(1994年、函館市グリーンプラザ)、「波遊」(1993年、洞爺湖ぐるっと彫刻公園)、「北国に躍る友がき」(1975年、富良野)など北海道に多くの作品を残す。

北野康

没年月日:2018/01/27

読み:きたのやすし  地球化学者で名古屋大学名誉教授および椙山女学園大学名誉教授の北野康は肺炎のため1月27日に死去した。享年94。 1923(大正12)年2月6日に山梨県甲府市で生まれ、1942(昭和17)年に北海道帝国大学予科理類に入学し、47年に同大学理学部化学科を卒業した。49年に同大学理学部の助手になった後、52年に神戸大学文理学部講師として転出した。55年に助教授に昇任した後、57年に理学部助教授として名古屋大学に異動し、その後63年に同大学理学部教授、73年に同大学水圏科学研究所教授、77年に同所長となり、86年に名古屋大学を退官した。退官後は87年に椙山女学園大学人間関係学部教授に就任し、1989(平成元)年からは93年に大学を退任するまで学長を務めた。この間、日本地球化学会柴田賞(1996年)など数多くの賞を受賞し、勲三等旭日中綬章を叙勲されている。 本人は「水の地球化学者」と自称していたが、北野の研究の関心は海水、河川水、温泉水など、地球のあらゆる水に含まれる元素の種類や分量を明らかにすることで、その興味の対象は氷河や南極の氷から、地球が生まれた約45億年前の原始海水にまで及んでいた。例えばある元素が地球の大気、海水、河川水等の中にどれだけ含まれているか調べることにより、それらの収支から陸地、河川、海洋さらには大気への元素の移動・蓄積と循環のサイクルを調べることができる。またその地球規模の元素循環に人間活動が与えた影響も知ることができる。それ故、北野は化石燃料燃焼による二酸化炭素の増加が引き起こす地球温暖化への関心も高く、地球環境問題に関する国内外の多くの国際会議の委員を務めた。 86年に文化庁は中国の敦煌研究院との間で敦煌莫高窟壁画保存に関する協定を結び、敦煌莫高窟壁画保存修復協力会議を設置した。莫高窟は砂漠の乾燥地帯にあり、北野は長年、自然界における岩石の化学的風化の研究をしてきたことから、要請されて協力会議の議長に就任した。これが北野の古文化財とのつながりの始まりである。95年に出版された著書『新版 水の科学』(NHKブックス)の中で「元来砂漠地域は水の蒸発量が降水量より遙かに大きいところであり、地球規模で見ると砂漠地域は大気中の水蒸気の供給源の一つであるとさえいえる」と述べているが、岩石の上に描かれた敦煌壁画の保存には水、空気と岩石の相互作用という問題が基本に存在していて、岩石の風化の研究を抜きにして保存の問題は解決できない。そこで北野は訪中団の一員として二回にわたって敦煌現地を訪れ実地調査を行った。 二回の訪中の際に敦煌周辺で採取した天然水の分析成果が『保存科学』第33号(1994年)に記されている。敦煌周辺の水は、世界各地域の河川水、雨水と比較して硫酸イオン濃度が高いなど、地球上の一般的な水とは違った化学組成を示している。また塩分濃度が高いことで有名な死海の水とも、同じ乾燥地帯にありながら異なっている。硫酸イオンの起源として、①石油・石炭などの化石燃料、②海水由来、③岩石からの溶出が考えられるが、北野は敦煌周辺の岩石の化学的風化によるものではないかと考え、敦煌周辺の地質環境を調べてイオウの同位体比分析を行った。この論文で北野は研究の方向性を示したが、その死去により研究が未完に終わったことは残念である。

中根寛

没年月日:2018/01/17

読み:なかねひろし  点描による穏やかな風景画で知られた洋画家の中根寛は1月17日に死去した。享年92。 1925(大正14)年3月26日愛知県額田町(現、岡崎市)に生まれる。1939(昭和14)年旧制岡崎中学校2年生を修了して岡崎師範学校に入学し、44年の9月に卒業予定であったが、前月の8月に陸軍宇都宮飛行学校に入所。1945年除隊し、郷里に戻り小学校教師となる。49年東京藝術大学美術学部油画科に入学し、上京して同郷の荻太郎を頼り、荻のアトリエに住む。大学では硲伊之助、寺田春弌、2年生から安井曾太郎、伊藤廉に師事。52年3月に安井が辞任したため、同年4月から後任となった林武に師事する一方、小磯良平、山口薫、牛島憲之の指導を受ける。53年東京藝術大学美術学部油画科を卒業。卒業制作によって大橋賞を受賞。54年、母校に新設された美術学部専攻科に進級し、55年に同科を修了して同学美術学部副手となる。57年同美術学部教務補佐員、58年同助手となる。美術団体展出品に否定的でグループ展を奨励した林武の教えを受けて団体展には出品せず、59年に同学の若手画家によって黒土会を結成し、毎年日本橋髙島屋で展覧会を開催。同展には第1回展に出品した「腕を組む」(1957年)から65年の第7回展出品の「かげ」まで、人体を主要なモチーフとし、暗色を塗り重ねた重厚な作品を出品し続ける。60年第3回国際具象派美術展に「コンポジション」を招待出品し64年まで出品を続ける。62年第5回現代日本美術展に「こかげ」で入選。63年東京藝術大学美術学部専任講師となる。63年から77年まで国際形象展に招待出品。64年第8回安井賞候補新人展に人体と動物で構成した「星」を出品し、70年の第13回まで同展に出品を続ける。68年日動サロンにて初めての個展を開催。69年東京藝術大学美術学部助教授となる。69年に半年間、ヨーロッパ・エジプトを研修旅行。70年7月から8月まで北ヨーロッパ、71年3月から4月までスペインに旅行。多数の西洋の古典絵画を実見し、西洋絵画の奥深さと多様性を知るとともに、自然と調和した人の営みが窺える町や村の景観に魅かれる。これ以降、風景画を中心に描くようになる。また、師の林武のように油絵具を混ぜあわせ、塗り重ねる画法から、点描のように絵具を並べる画法へと変化する。75年、訪中美術家代表団の一員として初めて中国を訪れ、以後80年までほぼ毎年中国に取材旅行。また、同年12月から76年1月までインド、ネパールを旅行。76年スイスへ、77年ヨーロッパへ取材旅行。78年東京藝術大学美術学部教授となる。79年3月日本橋髙島屋、4月大阪髙島屋にて「中根寛展」を開催。84年に伊藤廉記念賞が開設されるとその選考委員となり、1993(平成5)年の最終回まで毎回選考に当たる。86年東京藝術大学美術学部長となり、90年に退官して名誉教授となる。93年郷里にある岡崎市美術館で「中根寛自選展」が開催され、また、同年5月に母校の藝術資料館で「中根寛展」が開催された。2000年9月に『中根寛画集』(求龍堂)が刊行され、同月から11月まで「中根寛画業50年展」(朝日新聞社ほか主催)が髙島屋(日本橋、横浜、京都、大阪なんば)、松坂屋美術館(名古屋)を巡回した。生涯、美術団体に所属せず、東京藝術大学で美術教育に携わりつつ制作を続けた。少年時に郷里で三河湾を見下ろす景色に親しみ、風景画でも俯瞰する構図を好んだ。「その社会に参加していない異国の景色を描いていると、後ろめたさはつきまとう」(「中根寛・画論を語る」『アートトップ』129)という言葉にあらわれるように、描く対象と自らの関わりを重視した。1990年代以降は、北海道の湿原、浅間山、富士山、瀬戸内などの景色を広やかに俯瞰する構図で描いた優品を残している。

保田春彦

没年月日:2018/01/17

読み:やすだはるひこ  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の保田春彦は1月20日老衰のため死去した。享年87。 1930(昭和5)年2月21日、和歌山県那賀郡龍門村大字荒見(現、紀の川市)に生まれる。父は、21年にパリへ留学し、グランド・ショミエール美術研究所でブールデルに師事した彫刻家・画家の保田龍門である。 47年に東京美術学校彫刻科予科に入学し、石井鶴三に師事した。48年、同校本科彫刻科に入学。52年に同校を卒業し、堺市立金岡中学校に図工教師として勤務をはじめる。同時に、大阪市立美術館付設美術研究所にも所属した。また、同年には第37回院展で「肖像」が奨励賞を受賞している。57年、第42回院展に「伝説」を出品し、奨励賞を再び受賞する。同作は、展覧会場でウエザーヒル出版社のメレディス・ウェザビーより購入の希望がされたことにより、大きな話題となった。同年には科学技術庁主催のSTAC留学試験に合格し、フランス政府保護留学生の資格を取得。58年、神戸港から出港し、パリへ渡った。 パリでは、龍門と同じくグランド・ショミエール美術研究所に入所し、オシップ・ザッキンに師事する。また、先に滞在していた水井康雄や、パリ在住の中村直人などとも交流があったとみられる。59年、クリティック・シュス賞で第一席を受賞。さらに、第1回パリ青年美術家ビエンナーレ展に選抜出品をはたす。同年11月には同校を修了し、イタリアに拠点を移した。その後、ローマ、ウィーン、シュトゥットガルト、ミラノなどで個展やグループ展を重ねる一方、65年に「在外日本作家展」(東京国立近代美術館)で日本でも活動が紹介される他、67年に「現代野外彫刻展」(レネアーノ野外彫刻美術館)に作品を出品し、評価を得ていった。 68年、帰国。翌年、武蔵野美術大学専任教員として赴任する。帰国後は、同年の第1回現代国際彫刻展、1970年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品している。同展では大賞を受賞した。さらに、71年には第10回現代日本美術展、第11回サンパウロ・ビエンナーレ、第4回現代日本彫刻展など国内外の展覧会に出品し、そのうちサンパウロ・ビエンナーレでは国際優秀賞、現代日本彫刻展では宇部興産賞を受賞している。また、同年に第21回芸術選奨文部大臣新人賞と第2回中原悌二郎賞彫刻の森美術館賞(現、中原悌二郎賞優秀賞)を「作品」で受賞するなど、国内外で高く評価された。 73年には第5回現代日本彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。翌年には第2回長野市野外彫刻賞、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。75年には第13回アントワープ国際野外彫刻展に出品。同年第6回現代日本彫刻展では、東京都美術館賞・群馬県立近代美術館賞を受賞している。また、77年には第3回彫刻の森美術館大賞展選賞を受賞した。1995(平成7)年には、大規模個展を神奈川県立近代美術館他で行う。同年に「聚落を囲う壁Ⅰ」で第26回中原悌二郎賞を受賞し、さらに和歌山県文化賞にも選ばれている。翌年には紫綬褒章を受章。99年には武蔵野美術大学教授退任記念として「保田春彦展」が同校で開催された。 2005年には神奈川文化賞、07年には第23回平櫛田中賞を受賞。10年には個展「「白い風景」シリーズとクロッキー」(神奈川県立近代美術館)を開催した。13年、自身と龍門の往復書簡集『保田龍門・保田春彦 往復書簡集 1958―1965』を刊行し、15年に和歌山県立近代美術館にて「保田龍門・保田春彦展」が開催され、親子二代にわたる活動が顕彰された。 展覧会への出品と受賞の他に特筆すべきは、70年代から80年代にかけて街中への野外彫刻の設置が流行したことを背景に、保田の彫刻の多くが野外へ設置されたことだろう。1973年には和歌山県の御坊市庁舎に「仰角のある立方体」「16等分された空」、翌年には神奈川県の大和市庁舎に「都市」を設置。81年には故郷の和歌山那賀総合庁舎に「十字の構造」を、慶應義塾大学に「都市―住居、文教、開発、通商」を制作。また、84年には静岡市立中央図書館に「古址の残像」、東京都のガーデンプラザ広尾に「T〔タウ〕の構造」、90年には東京体育館に「都市の構造」、91年には大阪市立大学に「聚落の単位―幕舎の場合」などが設置された。また、美術館にも多くの野外彫刻を納めており、札幌芸術の森野外美術館、世田谷美術館、平塚市美術館、和歌山県立近代美術館などにも作品が設置され、市井の人々の目に触れることとなった。 その作品の多くは、鉄、ステンレス、コールテン鋼を使用した構造的な抽象彫刻であったが、2000年代になると、これまでの作風とは異なる、木彫による「白い風景」シリーズを制作し話題となった。その一方で、2000年に武蔵野美術大学を退任するまで後進の育成に携わった他、数々のコンクールの審査員や委員を務め、制作活動の他にも彫刻界の発展に大きく貢献した。

田村隆照

没年月日:2018/01/12

読み:たむらたかてる  仏教美術史研究者・京都市立芸術大学名誉教授の田村隆照は、1月12日に死去した。享年92。 1926(大正15)年2月17日、広島県に生まれる。1951(昭和26)年、高野山大学仏教芸術学科を卒業した。52年より京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)に助手として勤務。60年8月、助手から講師に昇任。69年4月より助教授、72年12月、教授に昇任。1989(平成元)年4月、京都市立芸術大学図書館長に就任した。91年3月、同大学を定年退職し、同年4月に名誉教授の称号を授与される。91年、大阪産業大学に着任。高野山大学、京都府立大学、奈良女子大学、神戸大学、大阪大学、種智院大学で非常勤講師として教鞭を執った。満願寺(奈良県五條市)住職。 高野山大学で密教美術研究の泰斗・佐和隆研の薫陶を受け、京都市立美術大学に着任以降も、同大で教授を務めていた佐和の傍らで仏教彫刻の研究に励んだ。「石山寺文化財総合調査団」や東寺観智院金剛蔵聖教調査など膨大な密教図像や聖教類の調査に関わる一方で、インドネシアへの美術調査に参加(1964年・67年)、東南アジア地域の仏教美術へと関心を広げていく。81年9月には密教図像学会が発足(初代会長:佐和隆研)、常任委員となる。90年には密教図像学会第3代会長に就任して2期8年を務め、その後も学会顧問として多年にわたって運営に尽力した。88年には石山寺が所蔵する図像集「図像抄(十巻抄)」を原寸カラー図版で刊行(『図像抄:石山寺所蔵十巻抄』法藏館)、2004年には京都市立芸術大学が所蔵する仏画粉本を集成した『仏教図像聚成:六角堂能満院仏画粉本』(京都市立芸術大学芸術資料館編、法藏館)を刊行するなど、密教美術研究の進展に果たした功績は大きい。大阪・叡福寺の文化財調査のほか、インドネシア・インドへの美術調査は数回に及ぶ。84年、第22回密教学芸賞を受賞。04年、瑞宝中綬章を授与される。 著作に『高野山(カラーブックス33)』(共著、保育社、1963年)、『現代密教講座 第六巻』(共著、大東出版社、1980年)、『図説 真言密教のほとけ』(朱鷺書房、1990年)。主要な論文に「高野山焼失金堂諸像考」(『密教文化』56、1961年、のち『密教大系第11巻 密教美術Ⅱ』法藏館、1994年)、「ボロブドゥル彫刻の周辺」(『佛教藝術』58、1965年)、「定印阿弥陀如来像をめぐる諸問題」(『佛教藝術』65、1967年)、「図像抄 成立と内容に関する問題」(『佛教藝術』70、1969年)、「上の太子叡福寺の寺宝」(『佛教藝術』119、1978年)、「大日如来と失われた密教空間」(『MUSEUM』386、1983年)、「十三仏図像と十王図本地仏―信仰資料の図像学―」(『密教図像』4、1986年)、ほか多数。

中村俊春

没年月日:2018/01/09

読み:なかむらとしはる  京都大学大学院教授で、17世紀の北方ヨーロッパ美術研究を中心に多大な功績を残した中村俊春は1月9日に死去した。享年62。 1955(昭和30)年12月2日、大阪府寝屋川市に生まれる。74年4月、京都大学文学部入学。西ドイツ遊学を経て79年3月卒業(美学美術史学専攻)。同年4月、京都大学大学院文学研究科修士課程(美学美術史学専攻)入学、81年4月に博士後期課程(同)に進学した。82―85年の西ドイツ、ミュンヘン大学留学を経て、87年3月に博士後期課程研究指導認定退学。同年4月に京都大学文学部助手に任じられた。1989(平成元)年4月より国立西洋美術館に研究官として勤務したのち、93年4月、京都大学文学部助教授就任(1996年4月、京都大学大学院文学研究科助教授に配置換え)。2003年4月教授に昇任し、06年には「ペーテル・パウル・ルーベンス――絵画と政治の間で」(三元社より2006年刊行)で博士号(文学)を取得。18年の逝去まで研究と教育に尽力した。 研究業績は、17世紀の北方ヨーロッパ美術を中心に美術史学の幅広い分野に及び、それらは、英語による執筆、発表を含め、著書3冊(うち1冊は近刊予定)、編著・監修18冊、共著・共編著2冊、学位論文を含む論文64点、学会発表・講演等45件、企画・監修した展覧会7件等で発表されている。なかでも重要な研究成果は画家ペーテル・パウル・ルーベンスに関するもので、上述の博士論文は、祖国ネーデルラントの分断と混乱の時代を生き、外交官としても活躍したルーベンスの絵画制作と政治活動の関わりを、鋭い作品分析、膨大な先行研究の的確な咀嚼と批判、同時代史料の丹念な読解に基づいて論じた大著となっている。 ルーベンス研究については、さらにいまひとつの軸があり、それは、この画家の工房運営や周辺画家たちとのかかわりをめぐるものであった。それらの論考は優れた鑑識眼に支えられたものであり、ときに通説に対する大胆な対案を提示するものとなっている。成果の多くは展覧会と関連して発表されており、『ソドムを去るロトとその家族――ルーベンスと工房』(国立西洋美術館、1993年)、『ルーベンス――栄光のアントワープ工房と原点のイタリア』展(Bunkamura ザ・ミュージアム他、2013年)等は、その精華と言えるものである。 さらに、17世紀ネーデルラント美術を代表するもうひとりの画家、レンブラントも、重要な研究対象となった。ルーベンスとの対比を念頭に置いた独創的なレンブラント論が展開されたが、その着眼点のひとつは、芸術的競合という名のもとにおける画家たちの相互作用であった。本人の遺志に基づいて18年に出版された著作集Inspira‐tion and Emulation: Selected Studies on Rubens and Rembrandt (Peter Lang, Bern)は、まさにこのテーマに沿って編まれている。 学際研究にも積極的に参加し、とくに親密圏、つまり家庭や母子などの表象に関する分野に優れた成果を残した。女性の使用人を描いたオランダ風俗画群より構成し、監修した『フェルメール«牛乳を注ぐ女»とオランダ風俗画展』(国立新美術館、2007年)の図録は、17世紀オランダにおける女性の家内労働の表象に関する専門書となっている。さらに16年には、『美術フォーラム』において、西洋の伝統的図像「人生の階段」に着想を得た「人生の諸階段」に関する特集も組んでおり、こうした研究は、歴史社会学の分野からも注目を集めるものとなった。 研究活動のかたわら、国内外の研究者が同一テーマについて最新の研究成果を発表する国際コロッキウムKyoto Art History Colloquiumの定期的開催と、その成果論集でもある英文紀要Kyoto Studies in Art Historyの創刊を実現したほか、学術雑誌『西洋美術研究』に当初より編集委員として参加するなど、西洋美術研究の振興や後進の育成にも労を惜しまず、大きな足跡を残した。*本記事は以下に基づき執筆されている:故中村俊春先生を偲ぶ会実行委員会編『中村俊春先生 業績目録』2018年6月発行

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