本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





さくらももこ

没年月日:2018/08/15

読み:さくらももこ  漫画家、エッセイスト、作詞家のさくらももこは、8月15日乳がんのため死去した。享年53。 1965(昭和40)年5月8日静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。本名三浦美紀。生家は八百屋業。86年静岡英和女学院短期大学国文科卒業。84年在学時に「教えてやるんだありがたく思え!」が『りぼんオリジナル』(秋の号、集英社)に掲載されデビュー。卒業後出版社勤務を経て、『りぼん』誌に「ちびまる子ちゃん」を連載(1986年8月号~96年6月号)、漫画家活動を本格化する。「ちびまる子ちゃん」は昭和40年代末の清水の町を舞台に親子3世代が暮らす家庭を中心に、永遠の小学3年生の主人公まる子(作者自身も投影)たちの仄々とした日常が描かれていく。1989(平成元)年、同漫画で第13回講談社漫画賞受賞、90年、フジテレビ系列でテレビアニメ化され爆発的な人気となり(番組は休みもあったが、日曜日夕方6時、「サザエさん」の前枠で2020年現在も放映中)、主題歌の「おどるポンポコリン」の作詞も手掛け、第32回日本レコード大賞を受賞する。91年、初のエッセイ集『もものかんづめ』(集英社)は、文庫版も併せて250万部のベストセラーに、92年のエッセイ集『さるのこしかけ』(集英社)で第27回新風賞受賞、93年エッセイ集『たいのおかしら』(集英社)もベストセラーになる。94年、メルヘンの国でシュールなギャグが繰り広げられる「コジコジ」を『きみとぼく』(ソニー・マガジンズほか)に連載を開始、代表作のひとつにあげられる。2000年、書き下ろし雑誌『富士山』(新潮社、全5集)では編集長を兼ね、企画、取材、執筆をこなした。11年個展(名古屋タカシマヤほか)。14年個展(阪急うめだギャラリーほか)。この頃、桑田佳祐、八代亜紀、和田アキ子らの楽曲に作詞を提供した。 「ちびまる子ちゃん」には、昭和の懐かしい風景と作者の鋭い観察眼からなる冷笑、ユーモアが軽快で親しみやすい絵柄で描かれ、テレビや映画などメディアミックスとしても成功し、さくらももこは国民的人気漫画家となった。参考文献として『太陽の地図帖38 さくらももこ『ちびまる子ちゃん』を旅する』(平凡社、2020年)がある。

浜口タカシ

没年月日:2018/08/11

読み:はまぐちたかし  写真家の浜口タカシは8月11日、大腸がんのため横浜市内の自宅で死去した。享年86。 1931(昭和6)年9月2日静岡県田方郡(現、伊豆の国市)に生まれる。本名・隆(たかし)。静岡県内の商業学校を卒業後、関西の写真材料商に勤務していた時に写真に関心を持ち、撮影を始める。 55年に横浜に移住。56年には日本報道写真連盟に加入し、写真店を営むかたわら、戦後社会のさまざまな側面にレンズを向けるようになる。59年には皇太子ご成婚パレードにおける投石事件を撮影、その写真が新聞や雑誌に広く掲載される。この頃からフリーランスの報道写真家として、米軍基地、広島と長崎の両被爆地、大学闘争、水俣や四日市などの公害といった多岐にわたるテーマを精力的に撮影、発表するようになった。68年には個展「記録と瞬間」(ニコンサロン、東京)を開催、翌年写真集『記録と瞬間:浜口タカシ報道写真集1959―1968』(日本報道写真連盟、1969年)にまとめ、報道写真家としての評価を高めた。 70年代以降もさまざまな事件、事故、災害などの現場を取材する一方、60年代半ばから12年間取材を重ねた成田闘争や、80年代に入って帰国が始まった中国残留孤児をめぐる取材、70年代初めから10数年にわたって撮影を重ねた北海道の人と自然をめぐる撮影、またライフワークとして30年以上も続けた富士山の撮影など、長期にわたってとりくんだ仕事も多い。2011(平成23)年の東日本大震災の際にも発生直後に被災地に入り、その後も撮影を重ねるなど、晩年まで意欲的に取材活動を展開した。半世紀以上に及ぶ活動や幅広い取材対象は、一人の写真家の仕事としては稀有というべき、戦後日本社会の広範なドキュメントの形成という成果につながった。 写真集としてまとめられた仕事も多く、その主なものに『大学闘争70年安保へ』(雄山閣出版、1969年)、『ドキュメント・視角』(日本カメラ社、1973年)、『ドキュメント三里塚:10年の記録』(日本写真企画、1977年)、『再会への道:中国残留孤児の記録』(朝日新聞社、1983年)、『北海讃歌』(くもん出版、1985年)、『阪神大震災・瞬間証言』(岡井耀毅、照井四郎との共著、朝日新聞社、1995年)、『私の祖国:戦後50年・中国残留孤児の記録』(中国残留孤児援護基金・朝日新聞社、1995年)、『報道写真家の目:ドキュメント戦後日本[歴史の瞬間]』(日本カメラ社、1999年)、『東日本大震災の記録:報道写真家浜口タカシが見た!2011.3.11』(浜口タカシ写真事務所、2011年)などがある。 一貫して報道機関に属さないフリーランスの立場で報道写真に携わる一方で、63年には日本報道写真連盟横浜支部、69年には二科会写真部神奈川支部の設立に中心的にかかわり、それぞれの支部会長を長く務めた他、66年には横浜美術協会にも加入するなど、横浜のアマチュア写真界の指導者として貢献した。また70年代には関東写真実技学校で後進の指導にあたった。 87年には個展「ドキュメント日本:激動の日々35年」(横浜市民ギャラリー)を開催。同展により88年、第38回日本写真協会賞年度賞を受賞。また97年には長年の活動に対し、第46回横浜文化賞を受賞した。晩年には60-70年代の反体制運動を取材した写真による個展「反体制派」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、東京、2015年)が開催されるなど、市井の写真家による戦後史のドキュメントとして、その仕事にあらためて注目が集まっていた。

下保昭

没年月日:2018/08/07

読み:かほあきら  中国や日本の自然を題材にした幽玄な水墨画で知られる日本画家の下保昭は8月7日、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年91。 1927(昭和2)年3月3日、富山県東砺波郡出町神島(現、砺波市神島)の裕福な農家に生まれる。絵心があり旅絵師とも交流があった祖父の影響で画家を志す。43年、44年と京都絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)を受験、学科と実技は合格するも、正科であった軍事教練の成績が悪かったため不合格となる。44年隣町にある呉羽航空に徴用。45年の終戦を機に京都と富山を頻繁に行き来し、家人の知り合いであった石川県松任出身の日本画家、安嶋雨晶を訪ねる。46年第1回富山県展に出品した「白木蓮」が最高賞の富山市長賞を受賞し、これを機に画家として身を立てることを改めて決意。翌年の第2回展に出品した「かぼちゃ」でも市長賞、その後第4回展、5回展、6回展で第二賞、7回展で第一賞、53年の第8回展に出品した「河岸」で三度目の富山市長賞を受賞。この間48年に京都へ出て下宿するようになり、第4回京都市美術展に「雪どけ」が入選するが、同年の第4回日展と翌年の第5回展に出品した「斜陽」は落選。この時期、京都市内の博物館や美術館へ行き池大雅や浦上玉堂、富岡鉄斎等の作品に接する。49年安嶋雨晶の紹介で西山翠嶂の画塾青甲社に入る。画塾で開かれる月一回の研究会に出席する傍ら、大阪釜ヶ崎のドヤ街や横浜、長崎、鹿児島等の港町を転々とし、終戦後の貧民街や場末の風景をスケッチする。50年第6回日展に「港が見える」が初入選、イギリスの画家ベン・ニコルソンの感化による構築的な作風により、以後入選を重ねる。54年第10回日展「裏街」、57年第13回日展「火口原」がともに特選・白寿賞を受賞、61年第4回新日展「沼」で菊華賞を受賞。翌年日展審査員をつとめ会員となった。この頃より大自然と対峙し、そのエネルギーを孕んだ心象風景を描くようになる。62年に日本橋高島屋で初個展を開催。67年第10回新日展で「遙」が文部大臣賞を受賞し、69年には日展評議員となる。この間、63年第7回日本国際美術展、64年第6回現代日本美術展に招待出品。街並みを描いた初期の構築的な作品からモノトーンの風景表現を経て、水墨を基調とした幽玄の画趣深い山水画へと移行し、現代の水墨表現の可能性を追究していく。81年より何必館・京都現代美術館において度々個展発表を行なうようになり、82年、前年の「近江八景」連作(個展、何必館)により第14回日本芸術大賞を受賞。また同年第1回美術文化振興協会賞を受賞。83年中国の壮大な自然に触発された「水墨桂林」連作、翌年には「水墨黄山」(ともに個展、何必館)を発表し、85年新鮮な水墨画の開拓を試み、力と生彩に富む独自の表現をつくり上げたとして芸術選奨文部大臣賞を受賞した。85年画集『中国水墨山水―江・黄山』(新潮社)が刊行、また東京・大阪(〓島屋)、京都(何必館)で「中国山水・下保昭」展が開催された。87年富山県立近代美術館で回顧展を開催。88年画業に専念するため日展を退会、無所属となる。1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。90年には前年の何必館個展で発表した「冰雪黄山」の連作に対して第3回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。91年京都市文化功労者となる。92年笠岡市立竹喬美術館で「下保昭1981―1991 水墨画の可能性を求めて」展開催。93年に作品100点が何必館・京都現代美術館の梶川芳友館長より富山県へ寄贈され、99年に開館した富山県水墨美術館に常設展示「下保昭作品室」が設置、同館では2000年、03年、10年にその画業を紹介する展覧会を開催している。2000年、大津市本堅田にある海門山萬月寺浮御堂に八面の襖絵「紫気東來」を奉納。01年茨城県近代美術館で「時代を超える日本画 山水新世紀―下保昭・色彩七変化―川﨑春彦」展が開催。同年ビジョン企画出版社より画集『下保昭』が刊行。02年京都府文化賞特別功労賞を受賞。03年、北京の国立中国美術館にて「日中平和友好条約締結25周年記念 下保昭画展」が中国文部省の主催で開催される。04年旭日小綬章を受章。岳父は日本画家の小野竹喬。

北野治男

没年月日:2018/07/29

読み:きたのはるお  日本画家で日展理事の北野治男は7月29日、転移性肝がんのため死去した。享年71。 1946(昭和21)年12月5日、大阪府に生まれる。70年京都教育大学特修美術科卒業、71年同専攻科修了。同大学で西山英雄に学び、在学中の67年第10回日展に「フラミンゴ」が初入選、以後入選を重ね、73年改組第5回日展「赤い月」、翌74年「森の中」が連続して特選、同年日春展「幻映」で奨励賞を受賞。この間70年に京都の若手日本画家によるグループである真魚(MAO)を結成、同会の中心的存在として活躍。鳥をモティーフとし、71年に初めて北海道西別の原野を訪れ、大自然に生きるカラスの群れを見て衝撃を受けて以来、北海道の原野に題材を求める。カラスをメインモティーフとした夢幻的な作風から、写実を基調とした表現に変化しながらも、大自然の神秘、生命に対する畏敬の念と共感に根ざした作品を描き続けた。76年第1回京都市芸術新人賞受賞。77年京都・朝日画廊で初個展開催。84年日展会員となる。80年代よりアメリカ南部を度々訪れ、とくにテネシーの風景を描くようになる。2004(平成16)年「道」で第36回日展会員賞受賞。05年日展評議員となる。10年「樹」で第42回日展内閣総理大臣賞を受賞。13年には京都府立堂本印象美術館で「テネシーへの想い 北野治男素描展」が開催される。13年日展理事となる。16年第34回京都府文化賞功労賞を受賞。17年京都市文化功労者として表彰された。

服部峻昇

没年月日:2018/07/29

読み:はっとりしゅんしょう  漆芸家の服部峻昇(本名・俊夫)は7月29日、肺炎のため死去した。享年75。 1943(昭和18)年1月6日、白生地屋を営む父・正太郎と母・うのの三男として、京都府京都市下京区に生まれる。中学校時代の美術教師の勧めで、58年に京都市立日吉ヶ丘高等学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)美術工芸課程漆芸科に入学、同校で指導していた漆芸家の水内杏平、平石晃祥らの指導を受ける。61年の卒業作品である漆パネル「佳人」は教育委員会賞を受賞。同年、京都市内の中村デザインスタジオに入り、65年まで勤務の傍ら作品制作を続ける。62年、第14回京展に漆パネル「おんな」で初入選、以後毎年出品を重ねる。63年、第6回新日展に漆パネル「夜の演奏者」で初入選。64年、第17回京都工芸美術展に初出品、以後毎年出品。同年、現代漆芸研究集団「朱玄会」の会員となり、漆パネル「翔」を出品、以後毎年出品。朱玄会を主宰していた番浦省吾に漆芸を学ぶ。65年、上原清に弟子入りし、蒔絵を学ぶ。69年、第22回京都工芸美術展に「漆卓」を出品、優賞受賞。70年、第22回京展に二曲屏風「花象」で市長賞受賞。またこの年、京都で活動する若手の漆芸家によるグループ「フォルメ」を伊藤祐司、鈴木雅也(三代鈴木表朔)らとともに結成、創立同人となる。「フォルメ」では60年代から70年代にかけて隆盛した前衛美術の影響を受けて、とりわけアクリルやカシュー漆などの新素材を漆芸表現に積極的に取り入れた。78年の解散まで、新たな素材との融合から漆工芸のあり方を模索する意欲的な制作を行う。72年、第4回日展で二曲屏風「陽の芯」で特選受賞。75年、文化庁在外研修員として1年間欧米に留学し、スウェーデンのコンストアカデミーやフランスのS.W.ヘイター氏の版画工房などでエッチングを学ぶ。79年、創立第1回日本新工芸展に二曲屏風「パトラスの月」を出品、審査員を務める。80年頃までの作品は、主に太陽や月などをモチーフに、抽象的かつ幾何学的な心象風景と明快な色彩の対比を特徴とした大型のパネルや屏風などの平面作品を中心とした。帰国後は、ギリシャの港町パトラスで見た月夜を題材にした作品シリーズに着手。この一連の作品は、その後「現代の琳派」と評されるようになる作風へと繋がってゆく転換点となる。82年、京都市芸術新人賞を受賞、また第14回日展で飾棚「潮光空間」が特選受賞。服部は以前から螺鈿を用いていたが、この頃より、南方のメキシコやニュージーランドの海で採れる螺鈿(耀貝)を作品制作の主要な素材として用い始める。耀貝のゆらめくような輝きは、波や光、風の移ろいなどの五感に訴える自然現象を表現する際の手法として生かされた。作品は次第に具象的傾向を強め、四季の草花や鳥などのモチーフに耀貝の光沢を組み合わせた情趣豊かな飾棚や飾箱が制作の中心となる。84年、日本新工芸展で耀貝飾箱「曄光」が日本新工芸会員賞受賞。87年、第40回京都工芸美術展で耀貝飾箱「潮文」が大賞受賞。88年、本名の「俊夫」から「峻昇」に改名する。1992(平成4)年、第4回倫雅美術奨励賞(創作活動部門)を受賞。95年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見、漆の典書台を献上。97年、京都府文化賞功労賞受賞。98年、紺綬褒章受章。99年、第12回京都美術文化賞受賞。玉虫採集家との出会いから、緑色に光る玉虫の翅を手に入れ、2004年から作品制作に取り入れる。05年、京都迎賓館主賓室の飾棚「波の燦」および調度品を制作。06年、京都市文化功労者。12年、第22回日工会展で文部科学大臣賞受賞。日展理事、日工会代表、京都府工芸美術作家協会理事などを歴任。京都に受け継がれた漆芸の伝統を受け継ぐとともに、さまざまな種類の螺鈿の光沢、さらに晩年は玉虫ならではの独特のきらめきを新たに組み合わせ、漆芸の素材に由来する光や質感を大胆に対比させた装飾性の高い日本的風景に独自の世界観を示し、その表現を追求した。

島州一

没年月日:2018/07/24

読み:しまくにいち  版画家、画家の島州一は7月24日、急性骨髄症白血病のため長野県東御市で死去した。享年82。 1935(昭和10)年8月26日東京都麹町区(現、千代田区麹町)に生まれる。祖父欽一は銀座に国内初とされる図案社の島丹誠堂を開設している。 59年多摩美術大学絵画科卒業。在学中は絵画より石版に傾倒。58年「集団・版」結成に参加(1964年まで)。64年初個展(養清堂画廊)。67年版画展(日本版画協会、1971年まで)。『LIFE』誌の写真や政治家を重層化した作品を展開。72年、ニクソンと周恩来の顔を椅子と布団に刷り込んだ「会談」が第7回ジャパン・アート・フェスティバルで大賞受賞。73年「次元と状況」展(1978年まで、新宿・紀伊國屋画廊)に参加。同年、作家たちが個々自宅で発表する「点」展に参加(1977年まで)。同年第12回サンパウロ・ビエンナーレに「200個のキャベツ」出品。74年第9回東京国際版画ビエンナーレ出品の「シーツとふとん」で長岡現代美術館賞受賞。75年、関根伸夫と全国約30か所で「列島縦断展」。同年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。島の作品は情報化時代のイコンを自然(野菜や石)、日常品(布団やカーテン)に刷り、版画の概念を拡張していった。78年、200点近い作品を網羅した『KUNIIICHI SHIMA 1970―1977』(現代創美社)を刊行。80年度文化庁芸術家在外研修員としてパリ、ニューヨークに滞在。82年第4回シドニー・ビエンナーレ出品。85年第1回和歌山版画ビエンナーレで優秀賞受賞。87年、自分の表現行為を「モドキレーション」と名付ける。その技法は「身をもって現実を仕切り、測定し、分析、総合する」、触覚に即したフロッタージュを基底とし、テーマとしては初期から一貫している現代の情報化社会における人間の抑圧を問うことだった。1996(平成8)年の個展(玉川髙島屋)から、「造形言語が誕生する瞬間を描く」をテーマとし、主論考として「言語の誕生」(『武蔵野美術大学研究紀要』、2004年35号)を発表。2003年から15年、浅間山を油彩で描いた「Landscape」シリーズを展開。11年個展「原寸の美学」(市立小諸高原美術館)。17年からの闘病の日々を日記風に描いた「とんだ災難カフカの日々」が公式ウェブサイトで閲覧できる。 

亀井伸雄

没年月日:2018/07/17

読み:かめいのぶお  長らく文化庁に勤め、文化財行政に大きな功績を残した亀井伸雄は7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年9月19日、神奈川県に生まれる。神奈川県立小田原高等学校を卒業後、東京大学に入学、73年に同大学院工学系研究科修士課程都市工学専門課程を修了。同年4月より文化庁建造物課に勤務した。75年に奈良国立文化財研究所に異動、さらに84年から3年余にわたって奈良市教育委員会に勤務した後、87年に文化庁に戻っている。1999(平成11)年には建造物課長に就任し、2003年には国立都城工業高等専門学校長として宮崎県に赴任、2年間を高等教育の現場で過ごしている。05年には文化庁に復帰し、文化財鑑査官として文化財行政全般を専門的観点から統括する重責を担った。その後、文化庁参与などを経て、10年からは東京文化財研究所の所長を務めている。 行政にあっての亀井の業績は、町並保存、建造物修理、国宝・重要文化財の指定など幅広いが、その功績の中で特筆されるべきものとして災害への対応が挙げられる。95年1月の阪神・淡路大震災においては、建造物課修理企画部門の主任文化財調査官として、文化財建造物の復旧事業を舵取りする立場にあった。また、東京文化財研究所長在任中の11年に起きた東日本大震災に当たっては、東京文化財研究所に置かれた東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会委員長として、被災した文化財のレスキュー事業を統括する役割を担った。この間、大規模災害時における文化財の復旧・復興の重要性への世の認識は大きく変わり、かつて「文化財どころではない」と語られていたことと比べると、文化財に復旧・復興全体のシンボルとしてのイメージが定着した今日は隔世の感がある。亀井は、こうした文化財の社会の中での位置づけが、大きく変わり続ける転換点に立ち会ったことになる。 同じように、文化財、特に建造物の対象が大きく広がる過程にあって、その原動力の一端を担ったことも亀井の功績と言ってよい。96年の登録文化財制度の新設にあたっては、建造物課調査部門の主任調査官としてその中核を成し、明治以降の建造物や、土木構造物の指定・登録も積極的に推進した。さらに、文化庁退任後の15年には文化審議会文化財分科会長に就任し、文化財の活用の重視や保存計画の位置付けの明確化がなされた18年の文化財保護法改正にも関わっている。 また研究者としての亀井の成果は、都市工学科出身という出自を反映してか町並関係の論考が中心である。それらは、奈良国立文化財研究所在籍当時の調査等を中心に、それまでの研究のまとめとして、92年の学位論文「歴史的市街地の構造と保存の評価に関する研究」に結実している。

浜田知明

没年月日:2018/07/17

読み:はまだちめい  銅版画家の浜田知明は、7月17日老衰のため熊本市内の病院で死去した、享年100。 1917(大正6)年12月23日、熊本県上益郡高木村(現、御船町高木)に、小学校の校長であった父高田格次郎の次男高田知明(ともあき)として生まれる。1930(昭和5)年、県立御船中学校に入学、同学校で図画科教師富田至誠(1922年、東京美術学校西洋画科卒業)に学ぶ。34年、中学4年を修了して東京美術学校油画科に入学、在学中は藤島武二教室に学ぶ。39年3月、東京美術学校(現、東京藝術大学)油画科を卒業。同年、応召して熊本歩兵第13連隊補充隊に入隊、中国大陸に派遣され、華北山西省にて作戦警備にあたった。43年、兵役満期で復員、東京都豊島区に居住。翌年6月、熊本市で浜田久子と結婚、翌月再度応召、伊豆七島の新島に派遣される。45年終戦にともない復員。戦後は帰郷して、県立熊本商業学校の教員をしていたが、48年に上京。50年、この年から、駒井哲郎、関野準一郎を訪ね、その助言のもと本格的に銅版画を研究しはじめ、自身の戦争体験をモチーフにした銅版画「初年兵哀歌」シリーズの制作をはじめる。51年10月、第15回自由美術家協会展に「壁」、「初年兵哀歌(便所の伝説)」、「初年兵哀歌(銃架のかげ)」、「戦ひのあと」を出品。53年には銀座のフォルム画廊で初個展開催。「初年兵哀歌」シリーズは、54年までに15点制作された。浜田は、後年、「この戦争に生き残ったものとして、それは、私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである。」(「初年兵哀歌」、『現代の眼』207号、1972年2月)と記しているが、この連作が代表作となった。56年には、スイス、ルガノ国際版画ビエンナーレに出品して受賞。同年、第2回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「よみがえる亡霊」、「副校長D氏像」を招待出品、佳作賞受賞。つづいて同年の「世界・今日の美術」展(朝日新聞社主催)にも出品、一躍国内外で注目されるようになった。57年に帰郷、熊本では九州女学院高等学校、福岡学芸大学、熊本大学で非常勤講師を務めながら制作をつづけた。64年、ヨーロッパを訪れ、主にパリに滞在。1年間の滞在を終えて翌年帰国、この年フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員となる。67年より熊本短期大学助教授として勤務(71年に同大学教授となり、87年に定年退職、ひきつづき客員教授、特任教授として務める。)創作では、その後、戦争、原爆、現代社会を、ユーモアを交えながら鋭く風刺する作品を制作しつづけた。また80年代からは、銅版画と並行して彫刻作品も制作するようになった。80年に第39回西日本文化賞(西日本新聞社主催)を受賞、85年には熊本県近代文化功労者として顕彰された。1989(平成元)年には、フランス政府から芸術文化勲章(レジョン・ドヌール勲章シュヴァリエ章)を受章。 他に版画集『わたくしのヨーロッパ印象記』(大阪フォルム画廊、1970年)、『見える人』(同前、1975年)、『曇後晴』(ヒロ画廊、1977年)、『小さな版画集』(同前、1992年)を刊行した他、93年には『浜田知明作品集』(求龍堂)が刊行され、2007年には画文集『浜田知明 よみがえる風景』を刊行した。70年代以降から晩年まで、浜田の生地にある熊本県立美術館をはじめ、各地の美術館で数多くの回顧展が開催され、その主要なものは下記の通りである。 1975年11月、「浜田知明銅版画作品展 銅版画作品1938-1975」、北九州市立美術館 1979年3月、「浜田知明銅版画展」、熊本県立美術館 同年、「浜田知明展」、オーストリアのアルベルティーナ国立素描美術館(ウィーン)、グラーツ州立近代美術館 1980年5月、「浜田知明・銅版画展 からまで」、神奈川県立近代美術館 1993年10月、「浜田知明展」、大英博物館日本ギャラリー 1994年1月、「浜田知明展」、熊本県立美術館 1996年1月、「浜田知明の全容展」、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館 1999年7月、「銅版画憧憬-駒井哲郎と浜田知明の1950年代 コレクションによるテーマ展示」、東京都現代美術館 2001年10月、「浜田知明 版画と彫刻による人間の探究」、熊本県立美術館  2007年6月、「無限の人間愛 浜田知明展」、大川美術館(群馬県桐生市) 2009年6月、「浜田知明展 不条理とユーモア」、北九州市立美術館 2010年7月、「版画と彫刻による哀しみとユーモア 浜田知明の世界展」、神奈川県立近代美術館葉山 2015年8月、「戦後70年記念 浜田知明のすべて」展、熊本県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館 2018年3月、「浜田知明 100年のまなざし」展、町田市立国際版画美術館 なお没後の19年4月には、熊本県立美術館にて「浜田知明回顧展 忘れえぬかたち」が開催された。一兵卒としての戦争体験を原点として、戦後から現代まで、人間観察を通して「人間とは」と問いつづけた銅版画家だった。

星忠伸

没年月日:2018/07/14

読み:ほしただのぶ  東京日本橋の一番星画廊の創業者で美術商の星忠伸は癌のため7月14日死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月5日、福島県双葉郡広野町に生まれる。福島県立勿来工業高等学校を卒業後、幼い頃から好きだった絵を学ぶため、京都市立芸術大学への入学をめざし京都に移り住む。新聞配達をしながら受験勉強に励んだものの進学に至らず、当時面識を得ていた画家の福田平八郎の助言により、画商として身を立てることを決心し、上京する。67年から銀座の石井三柳堂に勤務し、中川一政をはじめ多くの画家と出会う。72年、自宅営業の美術商として開業する。77年、作家で僧侶の今東光を通じて美術史家の田中一松と知り合う。星と田中はたまたま近所に住んでいたことから、これ以後、星は83年に田中が亡くなるまで、日常的に田中の運転手役を買って出るなど親交を深め、田中から古美術の手ほどきを受け、その後の星の仕事にも大きな影響を与えたという。一番星画廊が関わった山形県酒田市の本間美術館での展覧会の仕事なども、田中が同館の相談役を務めていた機縁によるという。 87年、古美術商の組田昌平の協力のもと、東京日本橋に株式会社一番星画廊を設立し、公立美術館への作品納入を中心に画廊経営をおこなう。屋号の「一番星」は中川一政の命名によるもので、開廊記念として中川一政展を開催した。看板とした墨書「一番星」も中川一政の印象的な書風が今なお輝かしく、画家と画商のあいだの豊かな親交を物語っている。星は、第一線で活躍する画家のスケッチ旅行の運転手としてその制作を手助けする一方、若い駆け出しの画家を温かく励まし支援するなど、星の明るい人柄とやさしさ、機転の利いた行動力をうかがわせるエピソードを数々の画家や美術関係者が伝えている。1996(平成8)年から2010年にかけて、日本画家・小泉淳作による建長寺法堂天井画および建仁寺法堂天井画の雲龍図や東大寺本坊障壁画等の制作プロジェクトに関わった。星は絵をこよなく愛し、自分がほれ込むような絵を描く画家を大切にしてきた。病を得て、入院先の病室でも小品の絵を賞翫していたという。2020(令和2)年2月29日から3月12日に、星を追悼して「よいの明星」展が一番星画廊にて開催され、親交のあった画家や大寺院の僧侶、美術関係者らの追悼文が寄せられた小冊子が発行されている。

村田省蔵

没年月日:2018/07/14

読み:むらたしょうぞう  日本芸術院会員の洋画家村田省蔵は7月14日午前1時8分、肝臓がんのため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年89。 1929年(昭和4)6月15日、金沢市上堤町に生まれる。生家は生糸問屋を営む。42年、金沢県立第二中学校に入学。44年海軍飛行予科練習生として滋賀航空隊に入隊する。45年の終戦により金沢第二中学校に復学。同年10月に金沢地方海軍付属海軍会館を石川県美術館として開催された第1回現代美術展を訪れて宮本三郎の作品に感動し、画家を志す。46年10月金沢美術工芸専門学校予科に入学し、洋画を専攻して高光一也、宮本三郎に師事。同校での同級生に鴨居玲がいる。49年第35回光風会展に金沢美術工芸専門学校の中庭に集う学生たちを階上から見下ろした「昼近き中庭」で初入選。また、同年、同作と並行して制作していた「診療室の女医さん」で第5回日展に初入選。50年金沢美術工芸専門学校(現、金沢美術工芸大学)洋画科卒業、引き続き研究科に在籍。同年第36回光風会展に「窓辺の女」を出品してムーン賞受賞。同年から小絲源太郎に師事。51年上京し、引き続き小絲の指導を受け、59年第45回光風会展に「渡船場」を出品して会友賞受賞。61年第4回日展に「河」を出品して特選受賞。65年3月日本橋三越で初個展開催。66年光風会を退会する。67年秋、横浜港からモスクワ経由でパリに渡り、ヨーロッパ、アメリカを訪れて68年に帰国。同年、第11回日展に「箱根新涼」を出品して菊華賞受賞。72年および74年にメキシコに旅行する。74年日展審査員となり75年に同会員となる。79年、フランス、スペインを旅する。81年訪中。82年イタリアへ、84年、アメリカ旅行。86年に北海道富良野を訪れ、以後、北海道シリーズを描く。1989(平成元)年、インドネシアのバリ島、イタリアのシチリア島へ旅行。90年から日展評議員をつとめる。93年新潟県長岡市岩室には稲架木の取材に訪れ、以後、稲架木のある風景を好んで描く。98年第30回日展に稲架木のある冬景色を描いた「春めく」を出品して内閣総理大臣賞受賞。2005年第37回日展にやはり稲架木のある冬景色を描いた「春耕」を出品し、06年に同作によって恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。同年12月に日本芸術院会員となる。07年に『村田省蔵画集』(北国新聞社)が刊行される。09年9月東京日本橋三越にて「村田省蔵 画業60年 傘寿記念展」を開催。11年5月北國新聞社主催により北國文化交流センターで「画業60年の軌跡」展を開催。12年イタリア、ボローニャに取材旅行。13年1月、郷里の石川県立美術館で「村田省蔵 画業60年の歩み」が開催され、1948年制作の自画像から2012年第68回現代美術展出品作「冬野」まで94点が展観される。年譜は同展図録に詳しい。金沢市が戦後、市民の昂揚のために設立した現代美術展には48年の第4回展から出品を続けたほか、00年に金沢学院大学美術文化学部教授、12年には同名誉教授となるなど、郷里の美術活動に長らく寄与した。初期には人物を主なモチーフとしたが、50年代後半から風景画を中心に描くようになり、67年の渡欧、72年のメキシコ旅行を経て、明るく豊かな色彩を特色とする都市風景画を多く制作した。80年代には北海道の大地を、90年代以降は稲架木のある景色を好んで、自然と人の営みが織りなす風景を描いた。没後の2019(令和元)年6月、石川県立美術館で所蔵作品27点を展観する「没後1年村田省蔵展-大地を描く」展が開催された。

村上肥出夫

没年月日:2018/07/11

読み:むらかみひでお  画家の村上肥出夫は、7月11日、岐阜県下呂市の老人福祉施設で 敗血症のため死去した。享年84。 1933(昭和8)年12月19日、岐阜県土岐郡肥田に生まれる。45年、警察官だった父の定年により、実家のあった岐阜県養老郡養老町に戻る。48年、同県養老郡高田中学校を卒業、卒業後さまざまな仕事をしながら、ゴッホに憧れて絵を独学する。53年に画家を志望して上京、コック見習い、サンドイッチマンなどの仕事をしながら絵を描きつづけた。61年4月頃、銀座並木通り路上で自作を販売していたところ、彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介で兜屋画廊社長西川武郎を知り、以後西川の援助で都内にアトリエを持つことになり制作に専念。62年5月、毎日新聞社主催第5回現代日本美術展に、「タワー」、「九段」の2点入選。同年12月の第6回安井賞候補新人展(会場、東京国立近代美術館)に「タワー」、「本郷」が出品され、最終審査まで残るが受賞には至らなかった。63年2月、「村上肥出夫油絵展」(銀座、松坂屋)開催、150点余りの新作を出品。同展は、名古屋市、大阪市にも巡回。同展を契機に、新聞雑誌に取り上げられるようになった。同年4月から8月、パリに遊学。64年4月にはニューヨークに旅行。同年11月、「村上肥出夫 油絵・素描展 巴里・紐育・東京を描く」展(銀座、松坂屋)を開催、油彩画100点、素描・水彩画50点余りを出品。見いだされた「放浪画家」  、「放浪の天才画家」などとジャーナリズムで再び評されるようになった。71年6月、「村上肥出夫新作油絵展」(銀座、松坂屋)開催。この個展に際し、すでに村上作品を数点コレクションしていた川端康成は、「構図の整理などに、多少のわがままが見えるにしても、豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う。」(「『村上肥出夫新作油絵展』に寄せて」)と評した。72年、パリに滞在して制作、同年のサロン・ドートンヌに出品して銀賞受賞。79年、岐阜県益田郡萩原町の下呂温泉近くに自宅アトリエを構え、東京より移住。1997(平成9)年2月、自宅アトリエ一棟が全焼、98年3月失火により自宅居間が焼ける。この火災による精神的なショックにより体調を崩し、岐阜県高山市の病院に入院。2000年以降、毎年、兜屋画廊をはじめ各地の画廊で展覧会が開催され、04年9月には、「村上肥出夫と放浪の画家たち―漂泊の中にみつけた美」展が大川美術館(群馬県桐生市)にて開催。また、16年4月には、「村上肥出夫―魂の画家」展が東御市梅野記念絵画館にて開催された。 60年代、ジャーナリズムから一躍脚光を浴びて美術界に登場したが、抽象表現主義やダダ的な前衛美術の興隆のなかで、新たな具象表現を模索する流れを背景に、純粋でいながら大胆な表現をつづけた独創の画家だった。生前には、エッセイ集『パリの舗道で』(彌生書房、1976年)があり、また池田章監修・発行『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』(2016年)、ならびに同画集『補遺小冊子』(2016年)、『補遺小冊子2』(2019年)、『補遺小冊子3』(2021年)が刊行されている。

流政之

没年月日:2018/07/07

読み:ながれまさゆき  彫刻家の流政之は7月7日、老衰のため死去した。享年95。 1923(大正12)年2月14日、長崎県に生まれる。父の中川小十郎は立命館大学創設者として知られており、流も同校へ1941(昭和16)年に入学している。在学中は衣笠鍛錬所にて作刀研磨を学ぶ他、太平洋戦争末期にゼロ戦パイロットとして兵役を務める。しかし、出撃命令の前に終戦となったという。 46~51年頃、大学を中退するが、八木一夫や熊倉順吉らを知り、陶芸をはじめた。52年、創元社出版の戸塚文子著『やぶかんぞう』(1952年)、テネシー・ウィリアムズ著『ストーン夫人のローマの春』(1953年)の表紙デザインを手がけるなど、美術関係の仕事をはじめるようになる。 55年になると、彫刻作品の制作に打ち込むようになる。同年、美松画廊、村松画廊で個展を開催。58年、養清堂画廊で個展を開催し、ニューヨークシティバレー団のリンカーン・カースティンが個展を観覧した。また、建築家のイーロ・サーリネン夫婦が作品を購入したという。翌年には、フィリップ・ジョンソン、ミノル・ヤマサキ、マルセル・ブロイヤーなどが作品を購入。当初から海外の芸術家から高く評価され、60年に「受」がニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションとなった。61年にはピッツバーグ・インターナショナルに選出。62年には大分県庁の壁面に「恋矢車」を制作し、日本建築学会賞を受賞する。このように国内外から作品が評価され、同年渡米に至った。 64年、ニューヨーク世界博覧会日本館で「ストーン クレージー」を発表。66年、香川県庵治半島に自身のアトリエを建設した。また、67年には早くも香川県文化功労者に選ばれ、74年には日本芸術大賞と第2回長野野外彫刻賞を受賞。翌年、7年をかけて制作した「雲の砦」が完成し、世界貿易センタービル前の広場に設置された(2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際に撤去)。78年には「かくれた恋」で第9回中原悌二郎賞を受賞、83年には吉田五十八賞を受賞している。1995(平成7)年には「波しぐれ三度笠」で鳥取県景観大賞を受賞。そのほか、海外や日本で個展を開催した。 流は、初期から香川県庵治半島で採掘される庵治石を使用し、62年には庵治の職人とともに「石匠塾」を立ち上げ、職人とともに作品制作を行った。また、翌年には、讃岐民具連を結成するなど、美術家だけではなく職人との交流を大切にしたようである。 また、「ワレハダ」という庵治石の特性を生かした技法を考案し、作品に用いたことで知られる。このように、職人からの協力と、独自の技法を駆使し、石による巨大彫刻を制作した。600トンの石を使用した先述の「ストーン クレージー」をはじめ、総社市「神が辻」(1985~92年)、香川県「浜栗林」(1991年)など1000トン~4000トンを使った作品を発表。一方で、東京文化会館の「のぼり屏風」(1961年)、同施設の「江戸きんきら」(1992年)などの建築装飾や、鳥取県米子市の皆生温泉東光園の庭園を手がけるなど、さまざまな分野で活躍した。いずれにしても、空間を最大限に活用した、スケールの大きな作品を発表した。 なお、2009年には高松市美術館で「流政之展」が開催され、これまでの活動が顕彰された。また、同年に『流政之作品論集』(美術出版社)が刊行され、森村泰昌や中ザワヒデキなどが文章を寄せている他、歿後の2019(令和元)年にはNAGARE STUDIO 流政之美術館が開館している。

川崎清

没年月日:2018/06/09

読み:かわさききよし  建築家で京都大学名誉教授の川崎清は入院療養中のところ、6月9日、胃がんのため死去した。享年86。 1932(昭和7)年4月28日新潟県南蒲原郡加茂町(現、加茂市)生まれ、51年に県立三条高等学校を卒業し、京都大学理学部に進学、在学中に工学部建築学科に転じ、建築家で同科講師(1958年助教授、1962年教授)の増田友也に師事した。58年京都大学大学院博士課程を退学して同大建築学科講師に着任、64年助教授、70年大阪大学工学部環境工学科に移り、71年に「建築設計のシステム化に関する基礎的研究-建築設計における情報処理の研究-」により学位を取得、72年教授となった。83年に京都大学に戻り、1996(平成8)年の定年退官後は立命館大学理工学部教授となり、2003年に定年退職するまでのおよそ半世紀に渡って大学に籍を置き、生涯を通じて旺盛であった設計活動と並行して、その大半を教職に献じた。 建築家としては、国立国際会議場競技設計(1963年)や日本万国博覧会会場計画案(1965年)等の論理的かつ挑戦的な提案に加え、後楽園植物温室(1964年)、斐川農協会館、大津柳ヶ崎浄水場(1965年)等先鋭的で凄みのある実作を次々と発表し、早くからモダニズム建築の旗手として注目された。70年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では、丹下健三のもとに大高正人、菊竹清訓、磯崎新、曽根幸一ら気鋭の建築家が集った設計チームに抜擢され、丹下自ら設計したシンボルゾーン(お祭り広場)に池を挟んで対峙する万国博美術館を担当した。万国博美術館は、巨大な三角形のボリュームにコンクリートの量感ある構造と透明性の高いガラスの空間を対比的に統合した、モダニズム建築家としての川崎の初期の設計活動を象徴する建築である。 大阪万博の閉幕後、京都市内に個人事務所(環境・建築研究所)を設立して設計活動を本格化し、建築の大半を地下に埋め込むことで岡崎公園の近代的景観の継承に深い配慮を示した京都市美術館収蔵庫(1971年)、元々敷地にあったスズカケの大樹を手がかりに地形に呼応した幾何学的構成の中に美術館機能をまとめた栃木県立美術館(1972年)と、自身の代表作となる建築を立て続けに手掛けた。その後も自らの事務所名に冠した通り、建築が存在する「環境」に主眼を置いた設計活動を精力的に展開した。川崎の「環境」への視座は、建築周囲の物理的な状態のみに留まらず、風や水などの流動的な自然環境を意識した徳島県文化の森総合公園(1990年)や能動的な市民活動の活性化を意図した京都市勧業館みやこめっせ(1996年)で顕著に示されるように、建築と相互に関連する外的事象の総体に及んでいる。新築の設計のみならず、史跡・重要文化財の旧緒方洪庵住宅(適塾)の修復整備(1981年)や旧京都帝国大学本館(百周年時計台記念館)の保存再生(2003年)など歴史的建造物の改修にも関わり、また信楽町のまちづくりを主導するなど、川崎が生涯に手がけた建築は多彩かつ幅広い。また、関西を中心に多くの建築設計競技の審査員を務め、激しい景観論争を巻き起こしたJR京都駅改築国際設計競技(1989年)では委員長として審査の取りまとめに尽力した。 万国博美術館の日本建築学会万国博特別賞、栃木県立美術館の芸術選奨・文部大臣賞、京都市勧業館みやこめっせの京都デザイン賞・京都市長賞ほか建築関係の受賞多数、2011年瑞宝中綬章。主な著作に『仕組まれた意匠-京都空間の研究』(鹿島出版会、1991年)、『空間の風景-川崎清建築作品集-』(新建築社、1996年)がある。

吉田千鶴子

没年月日:2018/06/09

読み:よしだちづこ  近代日本の美術史研究者であった吉田千鶴子は、6月9日松戸市内の病院で死去した。享年73。 1944(昭和19)年、群馬県に生まれる。群馬県立前橋女子高等学校を卒業、東京藝術大学美術学部芸術学科に進学し、68年3月卒業。同大学大学院に進み、吉沢忠教授のもとで東洋美術史を学び、71年3月に同大学院修士課程を修了。同年4月から同大学美術学部非常勤助手となる。後に同大学美術学部教育資料編纂室助手となる。81年から2003(平成15)年まで、『東京芸術大学百年史』編纂に従事した。同編纂事業では、一貫してその中心となり、同大学の前身東京美術学校開校時から現在までの資料を広範に調査収集し、精緻な考証と丹念な記述によって、下記のように浩瀚な年史にまとめあげた。同書は、一学校、大学の歴史にとどまらず、日本の近代美術の形成史となる内容であり、斯界の研究にとって基本文献、基礎資料となっている。 財団法人芸術研究振興財団、東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇一』(ぎょうせい、1987年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇二』(ぎょうせい、1992年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇三』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇別巻「上野直昭日記」』(ぎょうせい、1997年) 同上編『東京芸術大学百年史 美術学部篇』(ぎょうせい、2003年) その後、08年から15年まで、東京文化財研究所客員研究員。12年から16年まで、東京藝術大学総合アーカイブセンター特別研究員を務め、茨城大学五浦美術文化研究所客員研究員でもあった。 研究者としては、この編纂事業の過程で、日本の美術史学の史的形成にも関心を深め、岡倉天心をはじめとする教育者たちの研究もすすめた。また東京美術学校の時代から、同大学が東アジアにおける近代的、組織的な美術教育の拠点だったところから、留学生の研究もあわせておこない、その成果は『近代東アジア美術留学生の研究 東京美術学校留学生史料』(ゆまに書房、2009年)にまとめられた。同時に、中国、台湾等の近代美術研究者との交流も深まり、12年から、杭州師範大学弘一大師・豊子愷研究中心客員研究員を務め、また各地域の大学等での講演、シンポジウムへの参加等を通じて研究交流を果たした。 論文、発表等は数多く残されているが、主要な著作は下記のとおりである。 磯崎康彦共著『東京美術学校の歴史』(日本文教出版、1977年) 山川武共編『日本画 東京美術学校卒業制作』(京都書院、1983年) 責任編集『木心彫舎大川逞一回想』(三好企画、1906年) 大西純子共編『六角紫水の古社寺調査日記』(東京芸術大学出版会、2009年) 『「日本美術」の発見 岡倉天心がめざしたもの』(吉川弘文館、2011年) 後藤亮子編修協力『西崖中国旅行日記』(ゆまに書房、2016年) 20年以上にわたる上記編纂事業を通じて蓄積された知見と研究成果は、日本、東アジアの近代美術史、ならびに日本における「美術史」形成過程の一端を膨大な資料を通じて実証したものであり、その功績は大きい。

福富太郎

没年月日:2018/05/29

読み:ふくとみたろう  美術品蒐集家の福富太郎(本名、中村勇志智)は5月29日死去した。享年86。 1931(昭和6)年10月6日、東京・大井町に生まれる。幼いころから父親と叔父が絵の話をしているのをそばで聞いて育ち、3歳の頃には父親が買って見せてくれた鏑木清方の作品に心打たれる経験をする。小学校時代には小説に興味を持ち、商店であった親戚の家で店員たちが読んでいた本や雑誌の挿絵をとおして、鏑木清方をはじめ、池田蕉園・輝方、北野恒富らを知る。太平洋戦争が勃発すると少年飛行兵を志すようになり、また同じ頃には靖国神社の遊就館で戦争画に触れ、いつか蒐めたいという思いを抱くようになった。43年頃には強制疎開で中延へと移り、44年小学校を卒業すると東京府立園芸学校へ進学する。同年12月父親が亡くなり、翌45年5月24日の空襲で自宅も焼失。このとき父親が大切にしていた清方の絵が焼けてしまい、また残った作品も生活のために手放してしまったという。福富は後年、絵を買うようになった背景には、その贖罪の意識も少なからずあったと語っている。47年秋に園芸学校を中退した福富は、銀座通りでたまたま目にした「カウンター・ボーイ募集」の広告に応募し、ニューギンザ・ティールームという喫茶店で働きはじめる。その後49年9月に新宿のキャバレー、新宿処女林のボーイとなり、57年11月神田今川橋に巴里の酒場(21人の大部屋女優の店)というキャバレーを開店して独立、64年9月には銀座八丁目に銀座ハリウッドをオープン、全盛期には直営店29、チェーン店15を誇ったという。 福富が初めて美術品をコレクションしたのは20歳のとき。勤めていた新宿のキャバレーの支配人に抜擢され、その際の臨時収入で清方の「祭さじき」を購入したのがはじまりであった。福富は美人画について、ただ綺麗なだけの絵には興味がなく、時代時代の世相を反映した、現実の生活を生きているような女性像を蒐めたいと語っている。50年代後半からは浮世絵の蒐集に着手するも、そのころにはすでに浮世絵の流通も落ち着き、思うように蒐集が進まなかったことから、福富は謎の浮世絵師とされていた写楽に目をつけ、その謎解きに邁進。写楽と司馬江漢とを結びつけるアイデアをまとめ、69年10月『写楽を捉えた』(画文堂)を刊行した。その一方で、福富の関心は次第に浮世絵版画から一点ものの肉筆浮世絵、さらには近代美術へと移っていく。63年にはたまたま手に入れた恵比寿と大黒を描いた掛軸が河鍋暁斎のものであったことから、暁斎作品の蒐集に乗り出し、1年で140~150点ほどを蒐めたという。翌64年には鏑木清方の作品を、市場に出たものは一本たりとも逃すまいという気構えで本格的に蒐めはじめる。同じ頃には池田蕉園・輝方夫妻の作品も蒐集しはじめるが、当時はまだその名を知る人も少なく、競争相手はほとんどいなかったという。また明治100年の回顧ブームで明治の洋画を目にする機会が増え、その魅力に惹かれていた福富は、64年に日動画廊がオープンしたのをきっかけに洋画のコレクションを開始、同画廊から吉田博の「笹川流れ」をはじめ、のちの福富洋画コレクションの核となる明治中期の作品を購入した。67年にははじめて鏑木清方を訪問、それまでに蒐めた清方作品を披露する。なかでも「薄雪」は清方自身焼けてしまったと思っていたこともあり、心底驚かれたという。以来福富は清方の作品が手に入ると、持参して披露するようになった。73年12月には岡田三郎助の「あやめの衣」を購入。同作はある銀行へ顧客から持ち込まれたものであったが、女性像は買わないとする銀行の方針によって、福富のもとへ持ち込まれたものであった。「あやめの衣」は切手にもなり、福富コレクションのなかでもよく知られた作品であったが、福富は熟慮の末、この作品を1997(平成9)年に手放している。その背景には、愛蔵する作品は大切に次の世代へ伝えたいという思い、絵という財産は預かっているだけで個人のものではなく、出来るだけ多くの人に見てもらい、絵の管理者として相応しい人物に持っていてもらうべきという思いがあったという。そのため公開にも積極的で、73年1月に「福富太郎コレクション 日本の美人画展」(新宿・伊勢丹)、82年1月に「異色の日本美術展」(東京セントラル美術館)、93年1月に「描かれた美しき女性たち 近代美人画名作展―福富太郎コレクション―」(銀座・松坂屋)、98年1月に「近代日本画に見る 美人画名作展 耽美の時―福富太郎コレクション」(大阪・ナビオ美術館)等を開催している。 著書に『絵を蒐める 私の推理画説』(新潮社、1995年)、『描かれた女の謎 アート・キャバレー蒐集奇談』(新潮社、2002年)等がある。

宮崎進

没年月日:2018/05/16

読み:みやざきすすむ  多摩美術大学名誉教授の造形作家宮崎進は5月16日心不全のため死去した。享年96。 1922(大正11年)2月15日、山口県徳山市(現、周南市)に生まれる。1928(昭和3)年徳山尋常高等小学校に入学。35年に岸田劉生の画友であった徳山在住の洋画家前田麦二(米蔵)の指導を受け、油彩画を学ぶ。芝居小屋に出入りする前田の影響で地域の舞台の書割、大道具等も手掛ける。38年、上京して本郷絵画研究所に入り、39年日本美術学校油絵科に入学して大久保作次郎、林武らの指導を受ける。42年、同校を繰り上げ卒業して応召し、外地勤務を希望してソ満国境守備隊に所属。45年8月に東北満州の鏡泊湖付近に野営中に終戦を迎え、ソ連軍によって武装解除し、同年12月にシベリア鉄道にて移送される。以後、各地の収容所を転々とする中で、抑留生活3年目頃から美術品の模写や肖像画の制作を行う。49年12月に徳山に帰還。宮崎はシベリア抑留について「ここにあった絶望こそ、私に何かを目覚めさせるきっかけとなった。生死を超えるこの世界で知った、人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私をつき動かすものである」と記している(『鳥のように シベリア 記憶の大地』岩波書店、2007年)。50年に広島、長崎を訪れる。51年に上京して雑誌のカットなどを描く。56年寺内萬治郎に師事し、57年第43回光風会展に「静物」を出品。同年第13回日展に「静物」を出品。以後、これら二つの団体展に出品を続ける。59年第45回光風会展に「〓東」を出品してプールブー賞受賞。60年の同会に「〓東A」「〓東B」を出品して光風会賞を受賞、同会会友に推される。61年第5回安井賞候補新人展に「〓東」を出品。63年第49回光風会展に「廃屋」を出品し、同会会員に推挙される。65年6月、資生堂ギャラリーにて初個展を開催し、「石狩」「さいはて」など16点を出品。同年11月、第8回新日展に「祭りの夜」を出品して特選受賞。同年第9回安井賞候補新人展に「北の祭り」「祭りの夜」を出品。67年第10回安井賞展に「見世物芸人」を出品し安井賞を受賞。この頃の作品は祝祭的な場の中に刹那的で漂泊する人間をとらえたものが多い。72年4月第58回光風会展に「よりかかる女」を出品。同年7月に渡仏し74年10月までパリを拠点にオーストリア、スイス、ノルウェー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、チェコスロバキアなどを巡遊。この渡欧は、多くの西洋美術作品に触れ、人体や光の表現について捉えなおす契機となった。72年より日展への出品をせず、73年より光風会へも出品せず77年に同会を退会して無所属となる。以後、個展やグループ展で作品を発表。77年第16回国際形象展に「おどる女」を出品し、以後、80年まで同展に出品を続ける。79年第1回「明日への具象展」に「ラブリーガール」を出品し、以後84年まで出品を続ける。同年、ソ連各地を旅行。風景画や抑留を主題とする作品は50年代から継続的に描かれていたが、80年ころから主要なテーマとなり、「TORSO」など多様な材料を用いた重厚なマチエールの作品が制作されるようになる。86年9月池田20世紀美術館にて「宮崎進の世界展」を開催し、「さいはて」「冬の光」ほか54点を出品。76年から多摩美術大学講師となって後進を指導し、1992(平成4)年に退任し、以後、客員教授を務める。同年6月に同学美術参考資料館にて「宮崎進 多摩美術大学退職記念」が開催される。93年、ニューヨークのアルファスト・ギャラリーにて「宮崎進」展を開催し、ニューヨーク、ワシントン、ボストンなどアメリカ東海岸を訪れる。94年「漂う心の風景 宮崎進展」を下関市立美術館ほかで開催。95年小山敬三賞を受賞し、「小山敬三賞受賞記念 宮崎進展」を開催。97年、京都市美術館にて「シベリア抑留画展」を開催。98年芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学附属美術館館長となり、99年に同学名誉教授となった。2004年第26回サンパウロビエンナーレ国別参加部門に日本代表として「シベリアの声」という主題のもとに「冬の旅」「泥土」ほか12点を出品。抑留体験を畳み込んだ重厚な質感を持つ力強い作品で注目される。05年8月、周南市美術博物館にて「宮崎進展 生きる意味を求めて」、14年4月神奈川県立近代美術館にて「立ちのぼる生命 宮崎進展」が開催された。郷里の周南市美術博物館に初期から晩年まで200点を超える作品が収蔵されており、宮崎は09年4月から没するまで同館名誉館長を務めた。

加古里子

没年月日:2018/05/02

読み:かこさとし  『だるまちゃんとてんぐちゃん』『からすのパンやさん』等の作品で知られる絵本作家で児童文化研究家の加古里子は5月2日、慢性腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年92。 1926(大正15)年3月31日、福井県今立郡国高村(旧、武生市。現、越前市)に生まれる。本名中島哲。1933(昭和8)年、7歳の時に東京に転居。中学時代に航空士官を志すも近視が進み断念。後に子供と向き合う創作活動を続けることとなったのは、軍国少年だった自分のような判断の過ちを繰り返さないように、という悔恨が根底にあったという。技術者を目指し、45年東京帝国大学工学部応用化学科に入学。在学中に大学の演劇研究会に入会し、舞台装置と道具類のデザイン・製作を担当。地方公演の際、子供達の反応に感動して童話劇の脚本を書き始める。48年昭和電工に入社。会社勤務の傍ら、焼け野原にバラックが立ち並ぶ川崎市で、地域福祉の向上を図るセツルメント活動に従事し、紙芝居や幻燈作品の制作から子供の心をつかむ物語作りを身につける。セツルメント活動で知り合った仲間の紹介により、59年にダム建設の仕事をテーマにした『だむのおじさんたち』(福音館書店)で絵本デビュー。化学を専門としていたことから多くの科学絵本の依頼が舞い込み、地球や生物、人間の身体、土木、気象等、様々な分野の絵本を手がける。『かわ』(福音館書店、1962年)は63年に第10回産経児童出版文化賞大賞を、『海』(福音館書店、1969年)は70年に第12回児童福祉文化賞を受賞。一方で67年の『だるまちゃんとてんぐちゃん』(福音館書店)をはじめとして、累計389万部発行された“だるまちゃん”シリーズでは、日本の子供に馴染み深いだるまや天狗等の伝統的なキャラクターを生かし、想像の世界へとつなげる物語を創作。60年代後半よりテレビに出演し、教育テレビ等の司会やコメンテーターを務める。73年に昭和電工を退社。同年初版の『からすのパンやさん』(偕成社)は240万部を超えるロングセラーとなった。75年に幼少期の暮らしと遊びの体験をもとにしたエッセイ集『遊びの四季』(じゃこめてい出版)で第23回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。79年から数年にわたり東京大学教育学部等で非常勤講師を務め、実地で学んできた子供と教育について講じる。児童文化研究家としても知られ、絵かき歌、石けり、鬼ごっこ、じゃんけんの資料を収集、分析した全4巻の『伝承遊び考』(小峰書店、2006~08年)を執筆、2008(平成20)年に同書と長年の児童文学活動の業績により菊池寛賞を受賞した。13年、生まれ故郷の福井県越前市にかこさとしふるさと絵本館「■」が開館。亡くなる年の1月には、東日本大震災で被災した東北地方に思いを寄せた『だるまちゃんとかまどんちゃん』(福音館書店)等、“だるまちゃん”シリーズ3冊を同時刊行、生涯現役を通し600冊を超える著作を残した。19年より「かこさとしの世界」展がひろしま美術館を皮切りに全国各地で開催されている。

山口勝弘

没年月日:2018/05/02

読み:やまぐちかつひろ  ビデオ等映像を用いた現代美術家で、筑波大学名誉教授の山口勝弘は、5月2日に敗血症のため死去した。享年90。 1928(昭和3)年4月22日、東京市大井(現、東京都品川区)に生まれる。幼いときから工作を好み、船舶、飛行機などに興味を示していた。45年日本大学工学部に入学、建築科で学び、美術部に入る。日比谷のCIEライブラリー(後のアメリカンセンター)で、哲学、文学、美術書にふれ、ポロックやキ―スラー、モホリ=ナギらを知る。48年日本大学法学部法律学科に入学、美術クラブを創設する。このころ文化学院のモダンアート研究会に参加し、出席していた北代省三や福島秀子らと七耀会を結成、48年11月北荘画廊の展覧会にレリーフ作品を発表する。49年読売アンデパンダンに出品、以後同展にはほとんど出品をする。アヴァンギャルド研究会、世紀の会をへて、50年美術家だけでプボアールの会を結成、後の実験工房となる。51年、髙島屋のピカソ展前夜祭でのバレエ「生きる悦び」の美術を担当、以後、工房の活動に深く関わっていく。同年、ガラスを組み合わせたレリーフ「ヴィトリーヌ」を発表する。52年初個展(銀座、松島画廊)。61年「現代のビジョン展」(サトウ画廊)に出品、同年秋からヨーロッパ、アメリカへ初の海外旅行、フルクサスのメンバーやキースラーのアトリエを訪問。帰国後、提灯のような表面だけで成立する布張り彫刻を制作する。64年「オフ・ミューゼアム展」(新宿、椿近代画廊)に出品。66年第7回現代日本美術展に光を組み込んだ立体作品「Cの関係」を発表、自身「光彫刻」と名付けた60年代の主要な傾向をしめしている。同年、銀座松屋で開催の「空間から環境へ展」では、エンバイラメントの会を結成し、デザインや建築、音楽といった多様なジャンルの作家とのコラボレーション、パフォーマンスを行う。67年グッゲンハイム国際展で60年代の彫刻として「港」が選出される。同年第4回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。68年「現代の空間―光と環境展’68」(神戸、そごう百貨店)、この年、海外展では第34回ベニス・ビエンナーレをはじめ、「螢光菊展」(ロンドン、現代美術研究所)、69年には「アルス’69展」(ヘルシンキ、アテナウム美術館他)に参加する。同年、銀座ソニービルでの「エレクトロ・マジカ’69」では「テクノロジーの創造的果実をみせるサイテック・アート」として国内外15作家の中心的な役割を担った。70年の大阪万博では、三井グループ館の会場構成を行なう。72年からビデオを中心とした芸術活動「ビデオひろば」に参加。74年、第11回日本国際美術展に特設されたビデオ部門に「ラス・メニナスNo.1」を発表。75年第13回サンパウロビエンナーレで特別賞受賞。77年「大井町付近」をはじめとするビデオラマシリーズを開始。70年代は国際的に様々なビデオアート展に出品、日本のビデオアートの紹介をこなしていった。81年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。82年テクノロジーとニューメディアによる表現領域の拡張を図った「グループ・アールジュニ」設立に参加。同グループは88年まで毎年「ハイテクノロジー・アート展」を全国で開催した。86年個展(兵庫県立近代美術館ほか)。1989(平成元)年名古屋でのデザイン博覧会で「アーテック’89」をプロデュース。90年、淡路島芸術村計画の推進運動をはじめる。92年個展(愛知県美術館)。90年代にはこれまでの制作を展望する、エレクトロニクスの画像によるイメージの想像およびネットワーク「イマジナリウム」を提唱する。93年第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバルでヨーロッパ委員会名誉賞受賞。94年、淡路島に制作展示の拠点「淡路島山勝工場」を設立。2001年第42回毎日芸術賞受賞。06年個展(顔曼荼羅シリーズを発表、神奈川県立近代美術館)。03年第7回文化庁メディア芸術祭で功労賞。 著作に、『不定形美術ろん』(学藝書林、1967年)では、現代テクノロジーと社会生活を射程に入れた美術論を展開している。『作品集 山口勝弘360°』(六耀社、1981年)、ライフワークともいえる『環境芸術家キースラー』(美術出版社、1978年)、『パフォーマンス原論』(朝日出版社、1985年)、『ロボット・アヴァンギャルド』(PARCO出版局、1985年)、『映像空間創造』(美術出版社、1987年)、『メディア時代の天神祭』(美術出版社、1992年)、『UBU遊不遊』(絶版書房、1992年)、『生きている前衛 山口勝弘評論集』(井口壽乃編、水声社、2017年)などがある。 教育歴として、77年筑波大学芸術学系教授に就任(1992年名誉教授)。92年神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学科教授(1999年名誉教授)など。2000年から02年まで環境芸術学会会長。 90年代、東京都現代美術館企画運営委員会委員など多くの美術館の評議員も務めた。

藤枝晃雄

没年月日:2018/04/26

読み:ふじえだてるお  批評家、美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の藤枝晃雄は4月26日、誤嚥性肺炎のため死去した。享年81。 1936(昭和11)年9月20日福井県武生市(現、越前市)本町生まれ。生家は浄土真宗本願寺派の陽願寺。本名照容(てるかた)。 61年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業(在学中は新聞部、卒論は「マルセル・デュシャン」)。67年京都大学大学院美学美術史学専攻修士課程修了(在学中の63年から65年、ペンシルヴェニア大学大学院に留学、修論は「現代アメリカ美術研究」)。69年武蔵野美術大学講師として就任、80年に教授(2006年退任)。75年ニューヨーク近代美術館客員研究員。2002(平成14)年「ジャクソン・ポロック」で文学博士(大阪大学)。 藝大在学中に次代美術会設立に参加し同人誌『次代美術』を創刊、2号(1959年)に「残存の美術評論」を寄稿。60年代半ばから美術雑誌をはじめ、詩誌『VOU』(藝大在学中から参加)、建築雑誌、富士ゼロックスのPR誌『グラフィケーション』等幅広く執筆をはじめる。 著書に、アメリカ抽象表現主義を中心に近現代美術の状況と自らの批評の立脚点を示す『現代の美術9 構成する抽象』(講談社、1971年)。60年代末から70年代半ばまでの評論をまとめた『現代美術の展開』(美術出版社、1977年)。『世界の素描33・マティス』(講談社、1978年)。ライフワークともいえる『ジャクソン・ポロック』(美術出版社、1979年。改訂版、スカイドア、1994年。新版、東進堂、2007年)。マネからモンドリアンまで15名の近代画家を論じた『絵画論の現在』(スカイドア、1993年)。『現代美術の不満』(東信堂、1996年)。『現代芸術の彼岸』(武蔵野美術大学出版局、2005年)。初期からの晩年までの評論のアンソロジーとして『モダニズム以後の芸術』(対談や編者のコラムを含む。東京書籍、2017年)等がある。共著・編著・共編著に『空間の論理 日本の現代美術』(ブロンズ社、1969年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『ジャズ』(青土社、1978年)、『講座・20世紀の芸術』(岩波書店、1989―90年。3巻芸術の革命、7巻現代美術の状況、8巻現代芸術の焦点、9巻芸術の理論)、『アメリカの芸術』(弘文堂、1992年)、『芸術理論の現在 モダニズムから』(東信堂、1999年)、『西洋美術史への視座』(勁草書房、1988年)、『芸術学フォーラム・西洋の美術』(勁草書房、1992年)、『絵画の制作学』(日本文教出版、2007年)等。編訳書として『グリーンバーグ批評選集』(クレメント・グリンバーグ著、勁草書房、2005年)等。監修に『日本近現代美術史事典』(多木浩二と共監修、東京書籍、2007年)等がある。 企画展に、「絵画の問題展 Art today’80」(西武美術館、1980年)、「今日の作家展」(横浜市民ギャラリー、1980年)、「見ること/作ることの持続 後期モダニズムの美術」展(武蔵野美術大学、2006年)など。現代思想へのコンタクトを常とし、クレメント・グリーンバーグの批評を基軸にフォーマリズムの視点から、作品の質を問うべく徹底的に視る批評を展開、時に舌鋒激しい物言いは他に類がなかった。アメリカや日本の現代美術について鋭い批評を残した。

三木多聞

没年月日:2018/04/23

読み:みきたもん  美術評論家で、国立国際美術館長などを歴任した三木多聞は、4月23日急性心不全のため没した。享年89。 1929(昭和4)年2月6日、現在の東京都北区中里に生まれる。父は、彫刻家の三木宗策。早稲田大学第二文学部芸術学科を卒業後の52年に開設時の国立近代美術館に採用。以後、82年まで東京国立近代美術館の事業課長、美術課長、企画課長を歴任した。72年9月、同美術館の開館20年を記念して「現代の眼-近代日本の美術から」展が開催され、74年に同展の記念図録を刊行。つづいて73年9月、同美術館において「近代日本美術史におけるパリと日本」展を開催し、75年には同展の記念図録を刊行した。両展とも、当時としては規模も大きく、その中心となって担当して図録の編集執筆にあたったが、前者は日本の近代美術を批評的にとらえなおそうとする試みであり、後者は、ヨーロッパ近代美術の受容史として見なおす内容であった。81年12月、同美術館において「1960年代-現代美術の転換期」展を企画担当し、国内外で活躍する日本の美術家72名を網羅し、日本の現代美術を横断的に俯瞰しようとする画期的な内容であった。 82年、文化庁文化財保護課企画官に異動。86年、国立国際美術館に館長として赴任。同美術館を退職後の1992(平成4)年から97年まで徳島県立近代美術館長。また、徳島県立近代美術館在職中、併任して95年から2000年まで東京都写真美術館長を務めた。01年に勲三等旭日中綬章を受けた。 また、海外での活動としては、75年、アントワープ・ミデルハイム国際彫刻ビエンナーレ展コミッショナー、81年と83年、サンパウロ・ビエンナーレ展コミッショナー、85年、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展審査員などを務めた。 東京国立近代美術館在職中から、勤務の傍ら各種のコンクールの審査員や新聞雑誌、展覧会カタログ等に旺盛に執筆をして、近代、現代彫刻を中心に広く批評活動をつづけた。そうした視野の広さと交友の広さから、70年代から80年代にかけては美術評論の分野で重きを置いていた。90年7月、柏市文化フォーラム104主催で第1回TAMON賞展(会場、〓島屋、千葉県柏市)が開催された。同展は、現代絵画の分野で若手美術家を育成する目的で、三木多聞の単独審査による公募展であった。同展は、95年の第6回展まで三木が審査にあたった。 なお、多くの編著作、ならびにカタログ、新聞雑誌への寄稿があるが、主要な著作は下記のとおりである。 『近代の美術 第7号 高村光太郎』(至文堂、1971年) 共編『現代世界美術全集21 ムンク、カンディンスキー』(集英社、1973年) 共編『現代日本美術全集17 中村彝・須田国太郎』(集英社、1973年) 共編『日本の名画24 岡鹿之助』(中央公論社、1977年) 編著『原色現代日本の美術13 彫刻』(小学館、1979年) 小倉忠夫共著『日本の現代版画』(講談社、1981年) 『近代絵画のみかた:美と表現』(第一法規出版、1983年) 執筆「皇居宮殿の絵画 その画家と作品」(『皇居宮殿の絵画』、ぎょうせい、1986年) 監修・文『寓意像 鶴岡政男素描画集』(PARCO出版、1988年) 編著『昭和の文化遺産5 彫刻』(ぎょうせい、1990年) 編著『自画裸像 或る美術家の手記・保田龍門遺稿』(形文社、1997年) なお、父三木宗策(1891-1945)の作品集『三木宗策の木彫』(アートオフィス星野編、2006年)を自家出版した。また没後、遺族より東京文化財研究所に「三木多聞氏関係資料」が寄贈された。資料は、図書、カタログの他、自筆原稿を含む著述ファイル、展覧会案内状等によるスクラップブック、写真アルバム、手帖等であり、現在同研究所にて公開、活用にむけて整理が進められている。

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