森義利

没年月日:1992/05/29
分野:, (版)

合羽摺の第一人者として知られた版画界の長老森義利は、5月29日午前2時38分、肝不全のため東京都港区の六本木病院で死去した。享年93。明治31(1898)年10月31日、東京日本橋船町の魚問屋「西源」の六代目として生まれる。同36年家業が倒産。日本橋浜町尋常小学校を経て同43年日本橋高等小学校に入学するが、翌44年に同校を中退して、おもちゃ問屋、質店、洋紙店などで奉公する。洋紙店では過酷な労働の中にも絵を描く楽しみを知り、やがて実母の家へ戻って大正4(1915)年から山川秀峰に入門。秀峰の父霽峰に文様、染色の指導を受けた。翌5年、秀峰に従って鏑木清方門下の新年会に列席し、浮世絵風人物画家を志すようになる。同7年入隊して朝鮮半島に赴任。同9年除隊となり、同10年より桜木油絵具製造工場に勤める一方、中村不折の指導する太平洋画会研究所に学ぶ。また五島耕畝につけたて運筆を学んだ。同12年太平洋画会研究所から川端画学校へ移るが、同年9月の震災によって家計を担わなくてはならなくなり、画業を断念。文様・染織の道に進み、同14年に独立した。昭和13(1938)年、日本民芸館を訪ね、柳宗悦の講義に感銘を受けて、翌14年染色研究団体である「萠黄会」を結成。芹沢銈介にも指導を仰いだ。戦中は奢侈禁止令により友禅文様等が当局の弾圧にあい、文様連盟日本橋・京橋・深川地区理事長として文様制作の保護に尽力した。戦後は、同21年第1回日展工芸部に「藍染 野菜の丸の図」を出品。同年第1回日本美術及工芸交易振興展に「浅草寺風物の図振袖」で3等賞を受賞した。同24年第23回国画会展に「愛染明王染軸」で初入選、同29年日本板画院展に初入選し、両展に出品を続け、同56年国画会工芸部会員、日本板画院会員となった。同32年東京国際版画ビエンナーレ展に「暮の市1、2」を出品して注目されて以後、版画家として国際的にも認められ、アメリカ、オーストリア、スペイン、南米等で作品を展観するようになった。同37年、工芸と美術をめぐっての意見の相違から国画会工芸部を退く。また、同40年には日本板画院をも退いた。その後も同44年第1回国際版画展で受賞するなど国際的に活躍し、同45年初めて渡欧、同47年にはアメリカをも訪れた。江戸時代に浮世絵にも用いられた合羽摺は、薄い和紙を数枚張り合わせた「合羽紙」に図柄を描き、それを彫って型紙をつくり、手摺りを行なう技法で、森は染色文様を生業とした経験を生かして、これを近代版画によみがえらせた。下町の風俗、職人づくし、祭礼が多く題材とされ、晩年には「平家物語」「源氏物語」等の古典文学や歌舞伎の主題もとりあげられた。溌刺たるフォルム、輪郭をなす黒をアクセントとする明快な色彩を用いた生命感ある画風が特色である。没後、作家の遺志により遺族から中央区に遺作200点が寄贈された。

出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(318頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「森義利」『日本美術年鑑』平成5年版(318頁)
例)「森義利 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10357.html(閲覧日 2024-04-20)

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