本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





小川裕充

没年月日:2019/12/28

読み:おがわひろみつ  東京大学東洋文化研究所名誉教授および國華編輯委員の小川裕充は12月28日に死去した。享年71。 小川は1948(昭和23)年10月、大阪市に生。77年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(美術史学専攻)を中退し、79年より東京大学東洋文化研究所助手、82年に東北大学文学部助教授となり、87年、東京大学東洋文化研究所に助教授として赴任した。1992(平成4)年に同研究所教授となり、2013年の定年退官まで教鞭をとった。その間、ハイデルベルク大学藝術史研究所客員教授(1990年)、北京日本学研究センター客員教授(1993年)、美術史学会代表委員(2000~03年)、東方学会理事(2003~09年)等を務めた。13年、東京大学名誉教授。 その業績は多岐に亘るが、まず斯学のプラットホームの構築と言える『中国絵画総合図録』出版(東京大学出版会 正編1982・83年、続編1998~2001年、三編2013~20年)における貢献を挙げるべきであろう。正編では学生として調査に参加、実際の編輯業務に従事し、続編では助教授として調査隊を指揮、出版に至るまで中心的な役割を果たし、三編では調査隊を編成、出版の道筋をつけた。その意味で、小川がいなければ刊行は継続しなかった、と言っても過言ではない。 個人の研究としては、中国絵画研究においては「唐宋山水画史におけるイマジネーション 溌墨から「早春図」「瀟湘臥遊図巻」まで(上・中・下)」(『國華』1034~1036、1980年)、「雲山図論 米友仁「雲山図巻」(クリーブランド美術館)について」(『東京大学東洋文化研究所紀要』86、1981年)、「院中の名画 董羽・巨然・燕粛から郭煕まで」(『鈴木敬先生還暦記念 中国絵画史論集』吉川弘文館、1981年)、「中国花鳥画の時空 花鳥画から花卉雑画へ」(『花鳥画の世界10 中国の花鳥画と日本』学習研究社、1983年)、「牧谿 古典主義の変容(上)」(『美術史論叢』4、1988年)、「相国寺蔵 文正筆 鳴鶴図(対幅)(上・中・下)」(『國華』1166・1181・1182、1993・94年)、「宋元山水画における構成の伝承」(『美術史論叢』13、1997年)、「中国山水画の透視遠近法 郭熙のそれを中心に」(『美術史論叢』19、2003年)、「五代・北宋絵画の透視遠近法 伝統中国絵画の規範」(『美術史論叢』25、2009年)、「中国山水画の透視遠近法 燕文貴のそれの成立まで」(『美術史論叢』26、2010年)等宋代絵画を中心に大きな成果を上げている。 東アジアの視点からそれを拡げたものとして、「雲山図論続稿 米友仁「雲山図巻」(クリーヴランド美術館)とその系譜(上・下)」(『國華』1096・1097、1986年)、「大仙院方丈襖絵考 方丈襖絵の全体計画と東洋障壁画史に占めるその史的位置(上・中・下)」(『國華』1120~1122、1989年)、「泉涌寺蔵 俊律師・南山大師・大智律師像(三幅) 東洋絵画における連幅表現の問題1」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館、1989年)、「薛稷六鶴図屏風考 正倉院南倉宝物漆櫃に描かれた草木鶴図について」(『東京大学東洋文化研究所紀要』117、1992年)、「黄筌六鶴図壁画とその系譜 薛稷・黄筌・黄居〓から庫倫旗一号遼墓仙鶴図壁画を経て徽宗・趙伯・牧谿・王振鵬、浙派・雪舟・狩野派まで(上・下)」(『國華』1165・1297、1992・2003年)、「山水・風俗・説話 唐宋元代中国絵画の日本への影響 (伝)喬仲常「後赤壁賦図巻」と「信貴山縁起絵巻」とを中心に」(『日中文化交流史叢書[7]芸術』大修館書店、1997年)、「北宋時代の神御殿と宋太祖・仁宗坐像について その東アジア世界的普遍性」(『國華』1255、2000年)等があり、中国のみならず韓国・日本絵画を捉え直すことを促し、東アジア絵画史研究の可能性を切り開いた(「東アジア美術史の可能性」『美術史論叢』27、2011年)。 これらの集大成と呼ぶべきものが09年第21回國華賞を受賞した『臥遊 中国山水画 その世界』(中央公論美術出版、2008年)であり、巨視的な観点から中国山水画の展開を新たに提示し、さらに日本・西洋などの絵画をも射程に収めることで、東アジア、さらに世界美術史における中国絵画の位置をも示すことを試みている。

常盤とよ子

没年月日:2019/12/24

読み:ときわとよこ  写真家の常盤とよ子は12月24日、誤嚥性肺炎のため横浜市保土ヶ谷区内の病院で死去した。享年91。 1928(昭和3)年1月15日神奈川県横浜市に生まれる。本名:奥村トヨ子(常盤は旧姓、刀洋子とも表記)。45年5月の横浜大空襲で被災し、父はこの時に負った火傷がもとで亡くなった。50年に東京家政学院を卒業し、横浜の通信社でアナウンサーとして勤務する。この頃、のちに夫となる写真家奥村泰宏に出会う。その影響で写真への関心を深め、横浜アマチュア写真連盟やアマチュア女性写真家の団体「白百合カメラクラブ」に参加し、写真にとりくむようになった。 50年代初頭に土門拳が提唱したリアリズム写真運動の影響下、横浜港の米兵や米兵相手の娼婦などにカメラを向けるようになり、また職業を持つ女性に関心を拡げ、56年に初個展「働く女性」(小西六ギャラリー、東京)を開催した。デパートの店員、看護婦、ヌードモデル等14の職業に就く女性に取材したもので、このうち赤線地帯の女性を撮影した写真は同年『カメラ』7月号にも掲載され、20代の女性写真家が赤線地帯における売春の実態を取材したという話題性から、週刊誌にもとりあげられるなど、社会的にも注目された。57年には赤線地帯の取材をまとめた写真と文章による『危險な毒花』(三笠書房)を出版。またこの年、写真評論家福島辰夫の企画による「10人の眼」展の第1回展(小西六ギャラリー、東京)に参加した他、今井寿恵と二人展(月光ギャラリー、東京)を開催、58年には常盤や今井など14人の女性写真家による「女流写真家協会」を結成、第1回展を開催(小西六ギャラリー、東京)し、新進の女性写真家として評価を高めた。 その後も働く女性というテーマにひきつづきとりくむとともに、横須賀や沖縄など、米軍基地のある街にも取材し、カメラ雑誌や展覧会などで発表を続けた。62年から65年にはテレビ映画「働く女性たち」シリーズを制作。74年には横浜市使節団の一員としてソビエト連邦を取材、それ以後、75年の台湾、82年のマレーシアなど海外でも取材を重ねた。また85年以降は老人問題にとりくむなど、一貫して社会的なテーマに関心を持ち、恵まれない境遇の中で懸命に生きる存在に焦点をあてる写真を数多く発表した。 主な写真集に『横浜再現:二人で写した敗戦ストーリー 戦後50年』(奥村泰宏との共著、岡井耀毅編集・構成、平凡社、1996年)、『わたしの中のヨコハマ伝説1954-1956:常盤とよ子写真集』(常盤とよ子写真事務所、2001年)等がある。 1995(平成7)年に奥村泰宏が死去した後は、神奈川県写真作家協会会長および神奈川読売写真クラブ会長を引き継いで務めるなど、地元の写真団体の活動にも尽力した。2003年横浜文化賞(芸術部門)を受賞。18年には横浜都市発展記念館に常盤と奥村の紙焼き写真やネガ、カメラなどが寄贈され、同年「奥村泰宏・常盤とよ子写真展 戦後横浜に生きる」が同館で開催された。常盤の死去をうけ、2020(令和2)年には同館で追悼展示が行われた。

嶋崎丞

没年月日:2019/12/19

読み:しまさきすすむ  石川県立美術館・同七尾美術館長の嶋崎丞は12月19日、虚血性心疾患のため死去した。享年87。 1932(昭和7)年4月17日、石川県小松市に生まれる。57年立教大学文学部史学科卒業。59年九州大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程修了。59年7月に石川県総務部の石川県美術館開設準備室に入り、同年10月の開館を経て翌年7月より学芸員として勤務、74年同館副館長となる。また83年に開館した現在の県立美術館の建設に携わり、1991(平成3)年から28年にわたり同館長を務めた。 専門は日本工芸史、日本文化史。金沢の出身である建築家の谷口吉郎、漆工家の松田権六の薫陶を受け、加賀藩の時代より伝わる美術工芸を育んだ文化的土壌の掘り起こしに努めた。とくに九谷焼について谷口の助言により古九谷を研究し、76年には古九谷が素地の大半を九州の有田から移入し、色絵技術は初期の京焼の影響が強いとする素地移入説を提唱、古九谷の発祥をめぐる論争に一石を投じた。また同じく谷口の示唆を受け、俵屋宗達の流れを汲み金沢で活動するも不明な点の多かった宗雪と相説について研究、その成果を75年に石川県美術館で開催した「宗雪・相説展」で公にした。 石川県美術館、石川県立美術館に奉職する一方で、その芸術文化全般に関する知識が高く評価され、石川県や金沢市の歴史・文化関係の各種委員、文化庁文化財保護審議会専門委員等を歴任、全国美術館会議や日本博物館協会の理事も務めた。一方で石川県内の大学で博物館学を講義し後進を育成するなど、生涯を通して美術館・博物館の発展のために尽力。さらに石川県の各種工芸技術関連施設において指導にあたり、伝統文化の継承、発展に貢献した。 主な著書は以下の通り。『日本のやきもの 18 九谷』(講談社、1975年)『日本陶磁全集 26 古九谷』(中央公論社、1976年)『日本の陶磁 13 九谷』(保育社カラーブックス、1979年)『加賀・能登の伝統工芸』(監修解説、主婦の友社、1983年) 亡くなる直前の2019(令和元)年10月17日から没後の12月31日にかけて『北國新聞』で「美術王国の軌跡」と題して、六十年にわたる美術館勤務についての聞き書きが連載される。また『石川県立美術館紀要』25・26(2021・22年)には、西田孝司の編による年譜と著作目録が収載されている。

原芳市

没年月日:2019/12/16

読み:はらよしいち  写真家の原芳市は12月16日、ガンのため品川区内の病院で死去した。享年72。 1948(昭和23)年、東京都港区に生まれる。高校卒業後、浪人を経て大学進学を断念し社会人となるが、写真に興味を持ち71年千代田デザイン写真学院に入学、写真の技術を学んだ。約一年半通って同校を中退。以後、月単位でさまざまな短期の仕事に従事しながら、その合間に写真を撮る生活を送るようになる。73年に初個展「東北残像」(キヤノンサロン、東京)を開催。78年には専門学校時代の友人たちとつくり、のち個人で継続することとなった版元「でる舎」から、最初の写真集となる『風媒花』を自費出版。印刷は当時勤務していた印刷会社で行った。70年代半ばからはストリップ劇場の踊り子たちをめぐる撮影を始め、それらをまとめた写真と文章による『ぼくのジプシー・ローズ』(晩聲社、1980年)を刊行し、同作により80年、第17回準太陽賞を受賞した。 その後もストリップ劇場の踊り子等、性風俗関係の女性をめぐる撮影を続け、『ストリッパー図鑑』(でる舎、1982年)や、踊り子やピンクサロン嬢、学生、主婦等さまざまな女性を4×5判の大型カメラで撮影したポートレイトによる『淑女録』(晩聲社、1984年)などを出版する。また各地の盛り場をまわって踊り子たちの撮影を重ねるかたわらで、劇場の舞台や楽屋、その周辺で出会う人や光景などさまざまな対象をブローニー判のカメラで撮りためた写真群を、個展「曼荼羅図鑑」(ニコンサロン、東京・新宿および大阪、1986年)、「曼荼羅図鑑Ⅱ」(ギャラリーK、福島、1987年)等で発表、88年に300点の写真からなる『曼荼羅図鑑』(晩聲社)を出版した。それまでの集大成的な作品となった同作以降は、90年代から2000年代初頭を通じて、主にストリップ劇場の踊り子の撮影の仕事を中心に写真家としての活動を継続した。 2008(平成20)年に写真集『現の闇』(蒼穹舎)を出版、その後『光あるうちに』(蒼穹舎、2011年)、『常世の虫』(蒼穹舎、2013年)、『天使見た街』(Place M、2013年)、『エロスの刻印』(でる舎、2017年)等、写真集の刊行を重ねた。このうちリオのカーニバルのダンサーに取材した『天使見た街』と、93年に個展で発表したのち、版元の倒産により頓挫していた写真集の計画を20数年ぶりに実現させた『エロスの刻印』をのぞく三冊は、いずれも愛読する書物などからタイトルとなる啓示的な言葉を得て、それをモティーフに撮りためられた写真によって写真集を編むという方法で制作されたもので、濃密な気配に満ちたスナップショットによる独特の作品世界が展開され、12年に第24回写真の会賞(『光あるうちに』および『現の闇』に対して)、15年日本写真協会賞作家賞(初期からのストリッパーをめぐる仕事および2000年代以降の作家活動に対して)を受賞するなど、高く評価された。 19年には病を得て入退院を繰り返す中で、学生時代の作品をまとめた『東北残像』(でる舎)と、遺作となった『神息の音』(蒼穹舎)の二冊の写真集および、かつて出版を計画するも見送りとなっていた写文集『時を呼ぶこえ』(でる舎)の出版にとりくんだ。

白籏史朗

没年月日:2019/11/30

読み:しらはたしろう  山岳写真家の白籏史朗は11月30日、腎不全のため静岡県伊豆の国市内の病院で死去した。享年86。 1933(昭和8)年2月23日山梨県北都留郡広里村(現、大月市)に生まれる。48年大月東中学校を卒業。家庭の事情で進学を断念し家事を手伝っていたが、写真家を志望するようになり、51年4月に上京、岡田紅陽に師事。内弟子として東京・渋谷のスタジオに住み込み、撮影・暗室の助手をはじめあらゆる雑用をこなしながら写真技術を修得した。55年8月に岡田のもとを辞し、DPE下請け業の手伝いや写真スタジオ勤めを経て、57年8月フリーランスの写真家となる。 初期はバレーの舞台写真、結婚式のスナップ、業界誌のための人物写真撮影等、さまざまな仕事で生計を立てながら山岳写真にとりくみ、山岳雑誌『山と高原』1960年7月号に初めて南アルプス甲斐駒ヶ岳で撮影した作品が掲載される。以後、『山と渓谷』、『岳人』等、主要な山岳雑誌に作品が掲載されるようになり、62年4月に山岳写真家として独立を宣言した。 山岳写真に専念するようになってからは、平均して年間150日以上の入山を重ね、ホームグラウンドとなった南アルプスをはじめ、富士、尾瀬、北アルプス等、国内の主要山域の撮影にとりくんだほか、初の海外取材となった66年のアフガニスタン、ヒンズー・クシュ山脈への撮影行以後は、70年のネパールヒマラヤ、71年のヨーロッパアルプス等、海外渡航を重ね、各地の高峰に取材した。この間、山岳雑誌やカレンダーへの作品掲載のほか、63年には初の個展(新宿画廊、東京)を開催、また同年初の写真集『尾瀬の山旅』(朋文堂)を上梓。以後、半世紀を越えるキャリアを通じ、数多くの展示や山岳写真集、ガイドブック、高山植物を主題とする図鑑や写文集への執筆・寄稿等、山をめぐる広範な仕事を展開した。 白籏は、従来趣味的に見られていた山岳写真を、戦後の登山ブームをうけて拡大した山岳雑誌の口絵などの需要に応える、高度な技術に裏打ちされた専門領域の仕事へと引き上げた最初の世代の一人であり、67年には日本山岳写真集団の結成にも参加している(1982年に退団)。また自身も先鋭的な登山家集団として知られた第2次ロック・クライミング・クラブの同人となるなど、すぐれた登山家であり、高山や雪山等、過酷な環境での撮影は、写真技術だけでなく、高度な登山技術にも裏打ちされていた。 主要な写真集に国内の山を撮影した『わが南アルプス』(朝日新聞社、1976年)、『尾瀬幻想』(朝日新聞社、1980年)、『北アルプス礼讃』(新日本出版社 2001年)、『富士百景』(山と渓谷社、2009年)等、海外に取材したものとしては、いずれも国際出版となった『ヨーロッパアルプス』(山と渓谷社、1978年)、『Nepal Himalaya』(山と渓谷社、1983年)、『The Karakoram:mountains of Pakistan』(山と渓谷社、1990年)、『Rocky Mountains』(山と渓谷社、1997年)等。長く雑誌に連載を持つなど文章も多く発表し、主な著作に『青春を賭けて値するもの』(大和書房、1971年)、『山と写真わが青春』(岩波ジュニア新書、1980年)、『山、わが生きる力』(新日本出版社、2003年)等がある。 また出身地の大月市に2013(平成25)年に開設された白籏史朗写真館のほか、白籏作品を展示する施設に南アルプス山岳写真館・白〓史朗記念館(山梨県南巨摩郡早川町)、白籏史朗尾瀬写真美術館(福島県南会津郡檜枝岐村)、南アルプス白旗史朗写真館(静岡県静岡市)がある。 77年に日本写真協会賞年度賞を受賞(展示及び写真集で発表された「わが南アルプス」、「尾瀬」、「富士山」に対し)、2000年にはスイス、アルベール1世記念財団よりアルベール山岳賞を受賞している。

太田儔

没年月日:2019/11/18

読み:おおたひとし  漆芸家の太田儔は、11月18日、肺炎のため死去した。享年88。 1931(昭和6)年5月4日、岡山県吉備郡(現、岡山市)に生まれる。44年、岡山市第一工業学校(現、岡山県立岡山工業高等学校)木材工芸科に入学。「描き蒟醤」の技法を創案した漆芸家の難波仁斎に出会い、絵画と塗装について指導を受ける。52年、岡山大学教育学部特設美術科開設のため講習に来ていた、漆芸家の磯井如真の技術補助者となる。翌53年、岡山大学教育学部工芸教室技術補助員となる。同大学教授となった磯井如真の内弟子となり、11年間漆芸を学ぶ。55年、初版が刊行された『広辞苑』の「蒟醤塗」の項に、籃胎についての記述を発見し、衝撃を受ける。この頃から籃胎についての研究を始める。57年、第7回関西総合美術展に「乾漆花瓶 からたち」を出品し、入選。60年、岡山大学教育学部特設美術科を卒業し、岡山市立岡北中学校の美術教諭となる。61年、高松市に居を移し、高松市立屋島中学校美術教諭となる。62年、第27回香川県美術展覧会の彫塑部門に「起ツ」を出品し、香川県教育委員会奨励賞を受賞。第5回日本工芸会四国支部展に出品した「彫漆 硯筥」が優秀賞を受賞。65年、第12回日本伝統工芸展に「胴張 盛器」を出品し、初入選。67年、第14回日本伝統工芸展に「木地蒟醤 食籠」を出品、京都国立近代美術館の買い上げとなる。69年、香川県立高松工芸高等学校漆芸科教諭となる。70年、第13回日本工芸会四国支部展に「蒟醤 食籠」を出品し、三越高松支店長賞を受賞。72年、第15回日本工芸会四国支部展に「漆額 存清 静物」等4点を出品、同作品が磯井如真賞を受賞。73年、第38回香川県美術展覧会に「漆額 蒟醤 赫」を出品、香川県教育委員会賞を受賞。74年第39回香川県美術展覧会に「籃胎蒟醤 春想 色紙箱」を出品、文部大臣奨励賞を受賞。同年、第17回日本工芸会四国支部展で「籃胎蒟醤 食籠」等3点を出品、同作品が日本工芸会会長賞を受賞。75年、第22回日本伝統工芸展で、籃胎の素地を使った「曲輪網代 波文盛器」等2点を出品、同作品が文部大臣賞を受賞。籃胎技法は以前から漆芸の胎として使用されていたが、太田は竹ひご作りや竹編みから一貫して自ら行った。また、若い頃に学んだ木工の技術を生かし、木型に網代を密着させて編み込み、漆で固めた後、木型を抜き取る方法を独自に開発した。これによって、形が崩れにくい二重編みの籃胎素地を可能とした。さらに、太田は縦横に布目状に色漆を埋めて研ぎ出す「布目彫り蒟醤」の技を極め、従来の蒟醤表現よりもさらに柔らかく複雑な色彩表現によって、日頃目にする植物や鳥などをモティーフに、情景の空気が漂う温かみのある作品を得意とした。76年、香川県漆芸研究所の工芸指導員となる。同年、四国新聞文化賞受賞。77年、石川県立輪島漆芸技術研修所助講師となる。また重要美術品の玉楮象谷作「彩色蒟醤 御硯匣」等の修理を行う。80年、縄文時代の八戸市是川遺跡から出土した籃胎漆器3点の調査を行う。同年、日本文化財漆協会理事となる。81年、第28回日本伝統工芸展に「籃胎蒟醤 茶箱」を出品、文部大臣賞を受賞。82年、『香川の漆工芸技法研究1 籃胎蒟醤』を香川県漆芸研究所より出版。83年、香川大学教育学部美術科教授となり、89年まで務める。84年、日本工芸会理事に任命され、2000(平成12)年まで8期理事を務める。86年、第3回日本伝統漆芸展に「籃胎蒟醤 文箱 蝶」等2点を出品し、同作が東京国立近代美術館の買い上げとなる。第33回日本伝統工芸展に「籃胎蒟醤 盛器 熱帯魚」等2点を出品、同作が保持者選賞を受賞。90年、第37回日本伝統工芸展に「籃胎蒟醤 食籠 赤と黒」を出品し、保持者選賞を受賞。91年、香川県教育文化功労者に選ばれる。92年、第5回MOA岡田茂吉賞で大賞を受賞。93年、紫綬褒章受章。同年、香川県文化功労者に選ばれる。94年、日本工芸会参与となる。同年、重要無形文化財「蒟醤」の保持者に認定。95年、山陽新聞賞受賞。同年、香川大学名誉教授、香川県漆芸研究所主任講師となる。96年、日本漆工協会顧問となる。同年、石川県立輪島漆芸研究所主任講師となり、2003年まで務める。98年、第16次アジア漆文化源流調査に参加し、雲南省の少数民族の文化調査や「キンマ」作品を調査する。精力的に作品を制作するだけでなく、飽くなき探究心で香川漆器の源流である東南アジアや中国の蒟醤の技法を追究した。同年、「蒟醤―太田儔のわざ―」が教育映画等選定に特別選定される。2000年、日本工芸会常任理事となる。01年、勲四等旭日小綬章受章。07年、大英博物館で開催された「Crafting Beauty in Modern Japan」展に「籃胎蒟醤 文箱 蝶」を出品。08年、高松市美術館で本格的な回顧展となる「蒟醤 太田儔展」が開催された。

山野勝次

没年月日:2019/10/29

読み:やまのかつじ  保存科学分野(応用昆虫学)の研究者である山野勝次は10月29日、自宅にて死去した。享年85。 1934(昭和9)年6月18日に生まれる。57年宮崎大学農学部を卒業後、同年、日本国有鉄道鉄道技術研究所、鳥栖白蟻実験所に就職。その後、79年以降、財団法人文化財虫害研究所評議員、87年同常務理事。同年より、東京国立文化財研究所保存科学部生物研究室、調査研究員を併任。また、社団法人日本しろあり対策協会理事、日本家屋害虫学会評議員等を歴任する。 日本国有鉄道時代から、白蟻をはじめとする有害生物の生態および防除に関する研究に従事し、文化財虫害研究所、東京国立文化財研究所でも文化財の虫害の調査、被害の対策に生涯を捧げ、多大な功績を残した。文化財を守り伝えていく真摯な姿勢とその温かく誠実な人柄から、多くの親交があり慕われた。 農学博士(1981年、東京大学)。日本家屋害虫学会賞、日本国有鉄道総裁表彰(功績賞)、国土交通大臣表彰、日本家屋害虫学会森八郎賞等を受賞。また2007(平成19)年の文化財虫害研究所の第1回読売あをによし賞受賞にも大きく貢献した。 主要な研究業績は以下の通り。『建築昆虫記』(相模書房、1974年)『しろあり詳説』(第2章被害と探知)(日本しろあり対策協会編、1980年)『家屋害虫』「等翅目,家屋害虫の形態と生態,シロアリの防除」(日本家屋害虫学会編、井上書院、1984年)『防蟻・防腐ダイジェスト』「シロアリの生態と被害」(日本しろあり対策協会編、文唱堂、1985年)『生物大図鑑』「-昆虫-(シロアリ目(等翅目))」(世界文化社、1985年)『文化財の虫菌害と保存対策』「等翅目,シロアリの防除」(文化財虫害研究所編、白橋印刷所、1987年)『しろあり及び腐朽防除施工の基礎知識(シロアリの生態と被害)』(日本しろあり対策協会編、1988年)『防虫・防腐用語事典』(日本しろあり対策協会、白橋印刷所、1988年)『家屋害虫(2)』「イエシロアリの探餌行動に関する実験,イエシロアリの加害習性および物理的防除,ゴム材料の耐蟻性ならびに耐菌性に関する研究,木造建築物のシロアリ被害,シロアリの群飛に関する調査,ダイアジノン・マイクロカプセル剤による新幹線ゴキブリの防除」(日本家屋害虫学会編、井上書院、1988年)『暗黒の住者-シロアリ研究の手引-』(訳書)(キャッツ環境科学研究所、1990年)『文化財・保存科学の原理』「文化財の害虫とその防除」(丹青社、1990年)『害虫とカビから住まいを守る-その基礎知識と建築的工夫-』(神山幸弘と共著、彰国社、1991年)『文化財の虫菌害防除概説』(共著、文化財虫害研究所編、1991年)『美術工芸品の保存と保管』(共著、フジ・テクノシステム、1994年)『家屋害虫事典』(共著、日本家屋害虫学会編、井上書院、1995年)『文化財の害虫-被害・生態・防除-』(写真・編集)(文化財虫害研究所編、1995年)『ネズミ・害虫の衛生管理』(共著、フジ・テクノシステム、1999年)『シロアリと防除対策』 (共著、日本しろあり対策協会編、2000年)『文化財害虫事典』(共著、東京文化財研究所編、クバプロ、2001年)『文化財の虫菌害と防除の基礎知識』(共著、文化財虫害研究所編、2002年)『生活害虫の事典』(共著、朝倉書店、2003年)『写真でわかるシロアリの被害・生態・調査』(文化財虫害研究所、2005年)『文化財の燻蒸処理標準仕様書(2007年改訂版)』(文化財虫害研究所、2007年) “Studies on Biophysical Control of Termites(Reports2and3combined)”T.Kikuchi,M.Nakayama,T.Oi,T.Asano,T.Imai and K.Yamano,Quarterly Reports(Railway Technical Research Institute,JNR,Vol.7,No.1,1966)「土佐原駅構内信号用ケーブルのシロアリ被害調査」(『鉄道技術研究所速報』 67-214、1967年)「Sonic Detectorによるシロアリの巣の探知」(『しろあり』15、日本しろあり対策協会、1971年)「東北地方のしろあり被害について」山野勝次・八木舜治・今井忠重(『しろあり』18、日本しろあり対策協会、1973年)“Prevention of Rat Damage to Rubber and Plastic Insulated Cable with Use of Repellents” K.Yamano and S.Yagi,Quarterly Reports(Railway Technical Research Institute,JNR,Vol.17,No.1,1976)「ダイアジノン・マイクロカプセル剤による新幹線のゴキプリの防除」(『家屋害虫』27・28、日本家屋害虫学会、1986年)「東京都板橋区で発見されたアメリカカンザイシロアについて」(『家屋害虫』12-2、日本家屋害虫学会、1990年)三浦定俊・木川りか・山野勝次「臭化メチルの使用規制と博物館・美術館等における防虫防黴対策の今後」(『月刊文化財』414、第1法規出版、1998年)木川りか・宮澤淑子・山野勝次・三浦定俊・後出秀聡・木村広・富田文四郎「低酸素濃度および二酸化炭素による殺虫法;日本の文化財害虫についての実用的処理条件の策定」(『文化財保存修復学会誌』45、文化財保存修復学会、2001年)山野勝次・木川りか・三浦定俊「東大寺法華堂・戒壇堂におけるアナバチ類の被害とピレスロイド樹脂蒸散剤による防除対策」(『文化財保存修復学会誌』45、文化財保存修復学会、2001年)小峰幸夫・原田正彦・野村牧人・木川りか・山野勝次・藤井義久・藤原裕子・川野邊渉「日光山輪王寺本堂におけるオオナガシバンムシの発生状況に関する調査について」(『保存科学』49、東京文化財研究所、2010年)

大野玄妙

没年月日:2019/10/25

読み:おおのげんみょう  第6代聖徳宗管長、法隆寺第129世住職の大野玄妙は肺がんのため10月25日に死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月22日、大阪に生まれる。父は法隆寺第106世住職を務めた大野可圓。3歳で法隆寺に入り、57年に9歳で得度する。上宮高校を経て70年3月、龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、72年3月、同大大学院修士課程を修了。龍谷大学では仏教学の泰斗・武邑尚邦に師事、学部から大学院にかけての研究テーマは『勝鬘経』と、聖徳太子による注釈書『勝鬘経義疏』だった。 82年聖徳宗庶務部長・法隆寺執事補に就任、83年法隆寺執事、1992(平成4)年聖徳宗教学部長・法隆寺保存事務所所長補佐、93年聖徳宗宗務所長・教学部長・法隆寺執事長・法隆寺昭和資財帳編纂所所長、99年4月に聖徳宗第6代管長・法隆寺第129世住職に就任した。 長年にわたって法隆寺に伝わる文化財の保護活動に尽力し、2015年12月には建築史や美術史、保存科学などの専門家によって構成される「法隆寺金堂壁画保存活用委員会」を設立。1949年に火災によって焼損して以来、原則的に非公開であった旧金堂壁画の科学調査を進め、将来的な一般公開を目指す方針を示した。在職中には寺宝である百済観音像を23年ぶりに東京国立博物館での展覧会に出陳する決断を下すなど、文化財の公開によってその意義と保存の必要性を世に訴えた(展覧会は2020年「法隆寺金堂壁画と百済観音」として開催予定だったが長期休館によって中止された)。2002年5月に発足した「文化遺産を未来につなぐ森づくり会議」の共同代表になるなど、伽藍や文化財の修理・保存に関わる木造文化の継承活動にも取り組んでいた。 法隆寺では81年から宝物の目録作成を目的として「法隆寺昭和資財帳」の事業が開始され、全十五巻の冊子が刊行された(『昭和資財帳 法隆寺の至宝』小学館、1985~99年)。97年にはこの事業を継承して「法隆寺史編纂委員会」が発足し、近・現代までを網羅した法隆寺の通史の編纂体制が整えられた。大野は住職に就任して以来、体制強化を図るなど事業に熱心に取り組み、2018年には『法隆寺史 上―古代・中世―』(思文閣出版)が刊行された。

吾妻ひでお

没年月日:2019/10/13

読み:あづまひでお  漫画家の吾妻ひでおは10月13日食道癌のため死去した。享年69。 1950(昭和25)年2月6日、北海道十勝郡浦幌町に生まれる。本名吾妻日出夫。65年浦幌高校入学。石ノ森章太郎の入門書を読み、漫画家を志し、同人誌に参加。68年高校卒業後、印刷会社に就職し上京するも、漫画を描ける環境を求め、板井れんたろうのアシスタントになる。69年「リングサイド・クレージー」(『月刊まんが王』12月号)でデビュー。70年初の連載「二日酔いダンディー」(『月刊まんが王』)を発表。74年『週刊少年チャンピオン』に4年間連載の「ふたりと5人」が人気を得て、この頃やわらかな丸みをおびた描線を特徴としたスタイルが定着し、「かわいいエロ」の描写がうかがえる。以後、筒井康隆や星新一に傾倒していた吾妻は、ギャグ、SF、不条理、美少女、ロリコンなどをモティーフに、少年少女誌、青年誌をはじめ、自販機本といったところに出没し、マニアックな人気を得、70年代の漫画シーンの一角を担う。79年エロマンガ誌『劇画アリス』連載の「不条理日記」は、SFでは国内で一番古い星雲賞の第17回でコミック部門での受賞。1989(平成元)年に1回目の失踪をし、その体験を描いた『失踪日記』は評価が高く、92年「夜を歩く」(『夜の魚』掲載)から、2回目の失踪を描いた99年の「街を歩く」(『お宝ガールズ』掲載)、98年のアルコール依存症治療を描いた2005年「アル中病棟」(前2作を含む書き下ろし、イーストプレス)の3部作は、第34回日本漫画家協会賞大賞、2005年度第9回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞等を受賞している。2010年までの全作品リスト(倉田わたる作)掲載の『文藝別冊吾妻ひでお』(河出書房新社)がある。

和田誠

没年月日:2019/10/07

読み:わだまこと  グラフィックデザイナー・イラストレーターの和田誠は10月7日、肺炎のため死去した。享年83。 1936(昭和11)年4月10日、大阪府、大阪生まれ。幼少期より虚弱体質で家の中で絵を描くことを好んでいた。小学4年生の頃、担任を通じて政治漫画家の清水崑の作品を知り、似顔絵を描くようになる。53年、高校2年の時に国立近代美術館(現、東京国立近代美術館)で開催された「世界のポスター」展に強く感銘を受け、それをきっかけでデザイナーを志す。55年、多摩美術大学図案科に入学。同年に応募した興和新薬が行った蛙のイラストの公募で一等賞を獲得。同年に宇野亜喜良も同賞を受賞している。57年には、ポスター「夜のマルグリット」で日宣美賞を受賞。59年に大学を卒業後、ライトパブリシティに入社。その直後に煙草ハイライトのパッケージコンペで勝利し、一躍脚光を浴びる。キャノンや煙草ピースといったメーカーの広告デザインを手がける一方で、自身の絵を用いた装丁やポスター制作を積極的に行った。装丁を初めて手掛けたのは寺山修司、湯川れいこ共編『ジャズを楽しむ本』(久保書店、1961年)である。翌年には、谷川俊太郎著『アダムとイブの対話』(実業之日本社、1962年)の装丁を担当した。文章と絵を手がけた初めての絵本は『ぬすまれた月』(岩崎書店、1963年)である。ポスターでは、草月会館で開催されていた「草月ミュージック・イン」の告知ポスターを手掛けていたほか、大学生の頃から付き合いのあった印刷会社サイトウプロセスで刷っていた新日活名画座のポスターのためのイラスト制作を無償で行っていた。限られた色数ながらも、単純明快に描かれた映画の登場人物を大胆に配置し、インパクトのある画面作りを行った。この時の経験が、その後も続く、特徴をうまく捉えた肖像画の制作で脈々と受け継がれている。65年には、松屋銀座で開かれたグラフィックデザインの展覧会「ペルソナ」展に参加。68年に独立。72年に関わった遠藤周作著『ぐうたら人間学』(講談社)以降、装丁の仕事が増え、77年より『週刊文春』の表紙を40年以上手掛け、2008(平成20)年には、雑誌創刊50周年記念として、これまでの表紙を収録した『表紙はうたう』(文藝春秋、2008年)が出版された。星新一や丸谷才一、つかこうへいら数多くの作家、劇作家の本で装丁や挿絵を担当したことでも知られる。装丁や挿絵には、線画を基調としたシンプルなイラストレーションを多く用いているが、独特のゆるいタッチで描かれたコミカルな人物やキャラクターは、軽やかでありながら人目を引く。 日本で「イラストレーション」という言葉を広めたのも和田の大きな功績である。1960年代中頃から、時代にあった新しい挿絵を「イラストレーション」と呼び、それを描く「イラストレーター」と呼ばれる職能の認知を高めるための活動に尽力した。64年に宇野亜喜良、横尾忠則、灘本唯人、山下勇三らと共に東京イラストレーターズ・クラブを設立。65年に、雑誌『話の特集』のアートディレクターを務め、編集にも関わり、原稿に応じて絵の指示等も行った。ここで、作家クレジットを明記し、「イラストレーション」という言葉を意識的に使うようにした。95 年に東京イラストレーターズ・ソサエティに参加、2001年から05年まで理事長を務めた。 デザイナー、イラストレーターの仕事の傍ら、ジャズに関する記事や書籍の執筆や編集に関わり『映画とジャズ』(ビクター音楽産業、1992年)『ジャズと映画と仲間たち』(猪腰弘之と共著、講談社、2001年)等を出版している。96年6月号から97年5月号の『芸術新潮』誌面で『ポートレイト・イン・ジャズ』を連載。和田が描いたジャズミュージシャンの肖像に、作家の村上春樹が文章を寄せるというものだった。 また映画愛好家としても知られ、『キネマ旬報』等で映画に関する記事を発表する一方で、『お楽しみはこれからだ:映画の名セリフ』シリーズ(文藝春秋、1975~97年)、『ブラウン管の映画館』(ダイヤモンド社、1991年)、『忘れられそうで忘れられない映画』(ワイズ出版、2018年)等著作も多く持つ。84年には映画『麻雀放浪記』を初監督。『怪盗ジゴマ 音楽篇』(1988年) 『快盗ルビイ』(1988年) 『怖がる人々』(1994年)、『しずかなあやしい午後に』(椎名誠、太田和彦と共同監督、1997年)、『真夜中まで』(1999年)とこれまで6本の監督作品がある。 出版に関する受賞歴は61年毎日出版文化賞、69年文藝春秋漫画賞、74年講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)、2015年日本漫画家協会賞特別賞等。ほかにも89年ブルーリボン賞、94年菊池寛賞、98年毎日デザイン賞等多数。 なお没後、作品や資料は母校である多摩美術大学のアートアーカイヴセンターに寄贈された。2021(令和3)年10月、東京オペラシティ アートギャラリーにて「和田誠展」が開催された。

吉岡幸雄

没年月日:2019/09/30

読み:よしおかさちお  染色家の吉岡幸雄は9月30日、心筋梗塞のため急逝した。享年73。 吉岡幸雄は、1946(昭和21)年4月2日、常雄、俊子の長男として、京都市伏見区に生まれる。生家は江戸時代から続く染屋で、父は染色家であり大阪芸術大学名誉教授の吉岡常雄、伯父は日本画家の吉岡堅二である。 71年、早稲田大学第一文学部を卒業後、73年に美術図書出版「紫紅社」を設立。同社では、『染織の美』(全30巻)、『日本の意匠(デザイン)』(全16巻)の編集長、美術展覧会「日本の色」、「桜」(東京・銀座松屋) などの企画・監修、広告のアートディレクターを務める。 88年、42歳で生家「染司よしおか」五代目当主を継ぐ。染師である福田伝士と共に化学染料を使わずに日本の伝統色の再現に取り組む。「染司よしおか」は、古社寺の伝統的な仕事に従事しており、東大寺修二会 (お水取り)の椿の造り花の紅花染和紙、薬師寺修二会(花会式)の造り花の紫根染和紙、石清水八幡宮放生会の「御花神饌」を植物染で奉納している。1991(平成3)年、きもの文化賞を受賞。同年、薬師寺の玄奘三蔵院の幡を制作する。翌年には、薬師寺の「玄奘三蔵会大祭」での伎楽装束45領を制作し、93年には東大寺の伎楽装束40領を植物染で再現する。 以後、法隆寺の聖徳太子1380年忌にあたり法隆寺伝来「四騎獅子狩文錦」の復元(NHK BSハイビジョンにて放映、2001年)や、海外へも活躍の幅を広げる。2005年、ドイツのオイティン東部ホルシュタイン博物館にて、山本英明、山本隆博と共に「“Lack-und Farbekunst aus Japan”日本の塗りものと染めもの」展を開催。 07年4月、サントリー美術館「開館記念展Ⅰ日本を祝う」にて「祝の縷」を展示。5月にはイギリス大英博物館(British Museum)において「日本の布と糸“JAPANESE TEXTILE”」について講演する。翌年も海外での活動が続き、米国ジョ-ジア大学、インディアナポリス大学、ワシントン大学にて日本の染織について講演。09年には、京都府文化賞功労賞を受賞。9月、オーストラリアのシドニーで開催された「2009年色彩国際会議“11th Congress of the International Colour Association」ではゲストスピーカーとして講演する。 10年にはこれまでの活動が評価され、第58回菊池寛賞を受賞(日本文学振興会主催)。翌年、東大阪市民美術センターにて菊池寛賞受賞記念「日本の色 千年の彩展」を開催する。12月より、吉岡幸雄、福田伝士の情熱を追ったドキュメンタリー映画「紫」が公開される(企画製作 株式会社エーティーエムケー)。12年3月には第63回 日本放送協会放送文化賞を受賞。 14年、薬師寺の「玄奘三蔵会大祭」では、92年に制作した玄奘三蔵1350年御遠忌法要の伎楽衣裳を再制作する。10月には台湾で開催された「国際天然染料クラフトデザイン展“International Craft Design Exhibition on Natural Dyes 2014”」にて作品を展示。12月、マレーシアの自然史博物館にて「吉岡幸雄個展“Revive the Legend ― Revitalising Japan’s Traditional Colours from the Nature of Asia”」を開催。 18年、英国V&A博物館にて吉岡幸雄作品展「失われた色を求めて“In Search of Forgotten Colours”」が開催される(NHK制作「失われた色を求めて」の映像はV&A博物館YouTubeチャンネルより公開されている)。翌年、イギリス ロンドンのジャパンハウスにて「かさねの森 染司よしおか“Living Colours:Kasane ―the Language of Japanese Colour Combinations”」が開催。 没後、2021(令和3)年には細見美術館にて「特別展日本の色―吉岡幸雄の仕事と蒐集―」(1月5日~5月9日)が開催された。 日本人が育んできた伝統色を失ってはならないという信念に基づいた活動は、日本の染織文化の豊かさを多くの人々が学ぶ機会となった。 主な刊行物に日本の伝統色466色を植物染料で再現した『日本の色辞典』(紫紅社、2000年)、『日本の色を染める』(岩波新書、2002年)、『王朝のかさね色辞典』(紫紅社、2011年)等がある。 活躍の詳細はホームページ紫のゆかり吉岡幸雄の色彩界(https://www.sachio‐yoshioka.com)を参照。

竹内奈美子

没年月日:2019/08/30

読み:たけうちなみこ  東京国立博物館上席研究員で、日本漆工史を中心に多大な功績を残した竹内奈美子は8月30日に死去した。享年52。 昭和42(1967)年5月5日、神奈川県藤沢市に生まれる。1990(平成2)年3月、早稲田大学第一文学部史学科美術史学専修卒業。93年3月、早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)博士前期課程修了。94年3月、早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)博士後期課程中退。94年4月より東京国立博物館に勤務し、学芸部工芸課漆工室、学芸部企画課展示調整室、学芸部企画課列品室、学芸部工芸課漆工室の研究員、文化財部展示課平常展室、文化財部列品課列品室、事業部事業企画課特別展室、学芸企画部企画課特別展室の主任研究員、学芸研究部調査研究課工芸・考古室、学芸研究部調査研究課工芸室、学芸研究部列品管理課登録室(兼)学芸研究部列品管理課貸与特別観覧室の室長、上席研究員を歴任し、その間、調査・研究・展示・収集をはじめとする博物館の学芸業務に尽力した。また、東京文化財研究所の在外日本古美術品保存修復協力事業に係る調査等、他機関の調査・研究にも協力した。 研究活動は、日本漆工史を中心に論文執筆や研究発表を行った。論文には、「高台寺御霊屋内陣における花筏・楽器散らし文様-その意味するものについて」(『美術史研究』31、1993年)、「東京国立博物館新収品「花樹鳥獣蒔絵螺鈿櫃」-鮫皮貼輸出漆器の一例として」(『MUSEUM』538、東京国立博物館、1996年)、「竹厨子」(『日本の国宝』43、朝日新聞社、1997年)、「輸出漆器-欧州エキゾティシズムの遺産」(『漆芸品の鑑賞基礎知識』至文堂、1997)、「東京国立博物館保管「楼閣山水蒔絵椅子」(H-4528)-17世紀後半の輸出漆器作例として」(『MUSEUM』563、東京国立博物館、1999年)、「印籠と根付の魅力」『目の眼』294、里文出版、2001年)、「南蛮漆器-二つの相とその時代-」(『南蛮美術と室町・桃山文化』熱田神宮宮庁、2002年)、「総論 江戸蒔絵:光悦・光琳・羊遊斎」(『創立130周年記念特別展 江戸蒔絵-光悦・光琳・羊遊斎-』図録、東京国立博物館、2002年)、「江戸時代前期五十嵐派作品について-前田家関連遺品を中心に」(『東京国立博物館紀要』40、2004年)、特集陳列『五十嵐派の蒔絵』解説(2004年12月)、「高台寺蒔絵の絵梨子地」(『近世漆工芸基礎資料の研究-高台寺蒔絵を中心に-』平成16~17年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書、2006年)、「五十嵐作「蓮池蒔絵舎利厨子」の制作年」(『MUSEUM』615、東京国立博物館、2008年)、「三つの秋野蒔絵硯箱」(『日本美術史の杜 村重寧先生・星山晋也先生古稀記念論文集』2008年)、「描くことと作ること 琳派と漆芸」(特別展「大琳派展」展覧会図録、東京国立博物館、2008年)、「未詳の蒔絵師「不尽」について」(『美術フォーラム21』19、美術フォーラム21刊行会、2009年)、「蒔絵香合の計測的調査・研究―手箱内容品を基準として―」茶道文化学術助成研究報告書、財団法人三徳庵、2009年)、「神仏への供酒・供物器」ほか扉解説(『根来』根来展実行委員会、2010年)、「葦穂蒔絵鞍鐙」(『國華』1378、國華社、2010年)、「«表紙解説»菊螺鈿鞍」(『MUSEUM』634、東京国立博物館、2011年)、Musical Instruments and the Lacquer Arts Tradition,Elegant Perfection―Masterpieces of Courtly and Religious Art from the Tokyo National Museum,(Tokyo National Museum,The Museum of Fine Arts,Houston,Distributed by Yale University Press,New Haven and London,2012)、「朱漆輪花盤」(『國華』1421、國華社、2014年)、「色彩と彫技の豊穣-明代漆芸の魅力」(特別展「台北 國立故宮博物院―神品至宝―」図録、東京国立博物館ほか、2014年)、「明月椀」ほか扉解説(『鎌倉の名宝 明月椀-漆絵、美の饗宴-』小西大閑堂、2016年)、「牡丹漆絵三重椀」(『國華』1446、國華社、2016年)、「甦る王朝の技と美」(特別展「春日大社 千年の至宝」図録、NHK:NHKプロモーション:読売新聞社、2017年)、「漆器の領分-婚礼調度の世界」(『URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-』国立歴史民俗博物館、2017年)等がある。 研究発表には、「五十嵐様式の蒔絵について―前田家関連の作品を中心に―」(早稲田大学美術史学会日本美術分科会、2005年10月発表)、「東北地方伝来の蒔絵絵馬について」(歴博・展示型共同研究「学際的研究による漆文化史の新構築」平成26年度第6回研究会、2014年12月25日発表)、「五十嵐道甫様式の蒔絵について―細部表現と地蒔を中心に」(歴博・展示型共同研究「学際的研究による漆文化史の新構築」平成26年度第7回研究会、2015年2月26日発表)、「漆器の領分-婚礼調度の世界」(第105回歴博フォーラム「URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-」国立歴史民俗博物館、2017年8月5日発表)等がある。 それらの研究成果は、東京国立博物館での平常展および創立130周年記念特別展『江戸蒔絵―光悦・光琳・羊遊斎―』(2002年8月20日~10月6日)、特集陳列『五十嵐派の蒔絵』(2004年12月14日~2005年2月13日)、特集陳列『欧州を魅了した漆器と磁器』(2005年12月23日~2006年2月19日)等の展示を通じて広く公開された。

海上雅臣

没年月日:2019/08/28

読み:うながみまさおみ  美術評論家の海上雅臣は8月28日、肝不全のため死去した。享年88。 1931(昭和6)年、東京四谷に新劇の俳優だった父母の三男として生まれる。母方の祖父は平福穂庵に師事し沖縄で活躍した日本画家の山口瑞雨。10代の頃より俳句に関心を持ち、俳人の原石鼎や石田波郷と交流。17~25歳の間は俳名である神林良吉の名で活動した。49年、18歳で棟方志功の版画を購入したのを機に棟方と交流するようになる。50年、上智大学に入学するも9月で中退し、日本信販株式会社に入社。同社の宣伝誌『家庭信販』を担当し、同誌に吉井勇の和歌と棟方志功の木版画を連載する。54年資生堂絵具工業株式会社に転職。同社では国際学童美術研究会を設立し、久保貞次郎や北川民次等が創設した創造美育協会にも参加。一方で54年に棟方志功の文集『板画の話』、56年に『板画の道』を宝文館より刊行、棟方を民芸作家として扱う柳宗悦の見解に対し、その現代美術家としての評価に努める。62年から翌年にかけてパリで遊学、ソニア・ドローネーやマン・レイと交流する。64年、着色料のメーカーである大日精化工業株式会社に入社。同社在籍中に東京銀座5丁目に壹番館画廊を開設(~1971年)、中本達也展や建築家白井晟一の書展等を開催する。68年カラープランニングセンターを設立、大日精化の高橋義博社長を理事長に、自らは専務理事となり、新進デザイナーを理事に招聘して色彩に関する調査やコンサルティングを行なう。72年美術評論家連盟会員となる(2013年退会)。74年に現代美術を支援するプロダクションとしてUNAC TOKYOを設立、会報誌『六月の風』を創刊する。77年にはその7年前に出会って以来、傾倒してきた書家の井上有一の作品集『井上有一の書』をUNAC TOKYOより刊行。85年に井上が亡くなると、その翌年の86年に「生きている井上有一の会」を結成。海上は同会の代表を務め、1999(平成11)年には長野県信濃美術館で開催された「比田井天来と日本近代書道の歩み」展で、井上の作品が芸術観や戦争観の異なる作家の作と展示されることに抗議、裁判に持ち込み、美術館での企画展のあり方に一石を投じた。2000年、井上有一のカタログレゾネ『井上有一全書業』全3巻を十年の歳月を経て完成させる。02年、日本現代藝術振興賞を受賞。 主要な編著書は上記に挙げた書籍の他、下記のものがある。『木内克作品集』(美術出版社、1962年)『八木一夫作品集』(求龍堂、1969年)『定本木内克』(現代彫刻センター、1974年)『棟方志功 美術と人生』(毎日新聞社、1976年)『棟方志功』(保育社カラーブックス、1977年)『バイルレ 都市・集合・エロス トーマス・バイルレ造型美の世界』(サイマル出版会、1982年)『やきものこの現代 八木一夫前後』(文化出版局、1988年)『井上有一全書業』(UNAC TOKYO、1996~2000年)『井上有一 書は万人の芸術である』(ミネルヴァ日本評伝選、2005年)『井上有一書法是万人的芸術』(中国・河北教育出版社、2009年)『現代美術茶話』(藤原書店、2019年)

田中信太郎

没年月日:2019/08/23

読み:たなかしんたろう  彫刻家の田中信太郎は、胃癌のため日立市の病院で死去した。享年79。 1940(昭和15)年5月13日、東京都立川市に生まれる。日立に移住した実家は土建業を営んでおり、物を作る環境を肌で感じていた。58年茨城県立日立第一高校卒業。在学中は主に人物を油彩で描いていた。同年上京しフォルム洋画研究所に学ぶ。59年二紀展に入選、画面に廃品を用いたアッサンブラージュ作品だった。60年から読売アンデパンダン展に出品(1963年まで毎回)。また同年からネオ・ダダ・オルガナイザーズの活動に参加した。この頃はサウンド・オブジェに取り組む。65年椿近代画廊(新宿)で初個展、トランプ記号を拡大した切り抜きとキャンバスを組み合わせ、蛍光塗料も使用した。66年色彩と空間展(日本橋、南画廊)で「ハート・モビールNo.1」を発表。68年には蛍光塗料や蛍光灯を用いたライト・アートの作品「マイナーアートA.B.C」を発表、このシリーズは様々な賞を受賞する。68年の個展(銀座、東京画廊、以後個展は同画廊を主とする)では、ガラス、ハロゲン光、ピアノ線を使った本邦最初期のインスタレーション作品「点・線・面」をみせる。69年パリ青年ビエンナーレに2カ月間の船での移送中に自重で固まる土の作品「凝固:パリ」を出品。70年東京ビエンナーレに黒色のポリウレタンを床に引き詰めた「無題」を出品。71年サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年から横浜のBゼミスクールで演習ゼミの講師を務める(1982年まで)。72年ヴェネチア・ビエンナーレでは日本館のピロティに12点によるインスタレーションを構成、会期初め壁面に立てかけたアクリル板の作品がずり落ち中に挟まれていた金色の鉄粉数十キロは宙に舞う。また、この頃までに細長い真鍮による柱状のシリーズが展開されている。76年第7回中原悌二郎賞優秀賞受賞、文化庁在外研修員としてニューヨーク、パリに滞在する。83年前後数年は病のため発表は控え目になる。85年第3回東京画廊「ヒューマンドキュメンツ’84/’85」に「風景は垂直にやってくる」を出品。これ以降ミニマルな幾何学的な構成よりも、流れるような色彩が施された木彫や大理石による、有機的な形態をもった舞台上の装置を思わせる作品を展開するようになる。88年ヒルサイドギャラリー(渋谷)で中原浩大と2人展。80年代後半から、風景をモティーフにしたときにはナイル河の三角州の形が参照され、精神的な普遍性を問うときには十字の形体が置かれ、ときに作品の先端に赤とんぼを設置するなど、自らの表現の着地点に多様な表情をもたせた。1990(平成2)年ギャルリー・ところ(銀座)で個展(1993年も)。2001年国立国際美術館(大阪)で個展。14年Bank ART1929(横浜)の岡崎乾二郎、中原浩大との「かたちの発語」展では田中は回顧展形式の展示を行った。また、60年代後半から多くのコミッションワークを手がけている。67年からのインテリア・デザイナーの倉俣史朗との交友は互いに多くの実りをもたらした。2020(令和2)年市原湖畔美術館(千葉県)で回顧展開催。

勝井三雄

没年月日:2019/08/12

読み:かついみつお  グラフィックデザイナーの勝井三雄は8月12日、膵がんのため、死去した。享年87。 1931(昭和6)年9月6日東京生まれ。東京都立小石川工業高等学校建築科に在学中、哲学者、九鬼周造著『「いき」の構造』(岩波書店、1930年)を読み、デザインを志す。九鬼は、「粋」を論理的に解説するために、書籍の中でダイアグラムを用いているが、それを見た勝井は情報の視覚化の可能性を強く感じたという。51年に東京教育大学(現、筑波大学)に入学。バウハウスの造形教育を取り入れていた〓橋正人のもとで構成理論を学び、当時はまだ目新しかった写真を用いたデザインの実践のため、大学を経て専攻科に入り、デザインと写真について1年間研究をした。56年に卒業し、味の素株式会社に入社。社の広告やPR誌のデザインを手がけた。雑誌『VOU』のメンバーとも交流を持ち、それをきっかけに『ATTACK』誌面やモダンフォト等の展示で写真の発表を行なっている。58年にポスター「ニューヨークの人々」で写真とグラフィックを併用した表現を試み、日宣美賞を受賞。また59年、初期の代表作として挙げられる味の素の料理冊子『奥様手帖』を福田繁雄から引き継ぐ。この冊子制作を通じて、写真に用いるポジやネガを用いたコラージュや実験的な印刷方法を取り入れる独自のグラフィック表現を確立。61年に味の素を退社後、勝井デザイン事務所を設立。63年には、東京オリンピックのデザインプロジェクトに参加。64年からエディトリアルの原点的な体験となるエッソ・スタンダード石油のPR誌『エナジー』の総合デザインを担当する。編集者、作家である高田宏と協働で制作した。また、それがきっかけで依頼された『現代世界百科大事典』(講談社、1971年)では、アートディレクションを担当。編集に大型コンピューターに取り込み、プログラミングを用いるなど実験的な取り組みを行っている。また、限られた色だけで効果的に表現するための網点の掛け方を指定するなど、それまでに培った印刷知識とエディトリアルの経験が活かされることとなった。独自の編集的な視点は以後手掛けた全集や事典等、情報が多い書籍で十分に発揮されている。65年に、松屋銀座で開かれたグラフィックデザインの展覧会「ペルソナ」展に参加。翌年66年には、同じく松屋銀座で開かれた「空間から環境へ」展に参加した。 70年に開催された大阪万博では、日本館内での展示「統計の森オルゴラマ」、85年のつくば科学博覧会では展示「ブレインハウス」を手掛けており、ここでも万人に対する視覚伝達を空間から追及した。姫路文学館(1991年)、大分マリンカルチャー(1992年)等の色彩や展示、サインの計画に関わっているほか、自身の個展や奈良原一高「華麗なる闇 漆黒の時間」(2017年)の展示計画も行っている。 初期より最新技術から生まれるグラフィック表現に強い関心を向けた。60年代には紙幣の特殊印刷に用いる彩紋彫刻機を用いて、円や三角、四角といった単純な図形を緩やかに変形させて作る形態群「ギョームパターン」を生み出した。70年代後半にはデジタル・レイアウト・スキャナーを用いて色光「デジタルテクスチャー」を生み出した。新しい試みから生まれた表現は、数々のデザインワークで用いられている。それらは幾何学、色、光、デジタル、メデイア、ヴァリエーションといった勝井の関心が強く反映されており、そこには一貫したデザイン的趣向を見ることができる。 ブックデザインも多く手がけた。なかでも美術家の池田満寿夫の作品集は63年以降、作家が亡くなるまで継続して取り組んだ。『スペイン 偉大なる午後 奈良原一高写真集』(求龍堂、1969年) は、初期の代表的な仕事に位置付けられる。 制作で関わった代表的なシンボルマークは、東京造形大学(1966年)、国立民族学博物館(1973年)、国際花と緑の博覧会(1987年)、武蔵野美術大学(1996年)、宇都宮美術館(1997年)、文部科学省(2007年)など。 早くからデザイン教育にも関心を抱いており、61年東京教育大学に非常勤講師として勤務(~1978年)。66年に東京造形大学助教授に就任(~1971年)。1993(平成5)年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科主任教授に就任(~2002年)、同大学名誉教授。2004年、名古屋学芸大学造形学部教育顧問就任(~2008年)。 受賞歴は72年講談社出版文化賞(ブックデザイン賞)、93年芸術選奨文部大臣賞、95年毎日デザイン賞、NY ADC賞金賞、96年紫綬褒章、98年通産大臣デザイン功労賞、04年旭日小綬章、05年亀倉雄策賞等多数。JAGDA会員、09年から12年まで会長を務める。東京ADC会員、AGI会員、NY ADC会員。 なお19年に宇都宮美術館で開催された「視覚の共振―勝井三雄」展は、勝井が生前関わった最後の個展となった。

雨宮敬子

没年月日:2019/07/31

読み:あめのみやけいこ  彫刻家の雨宮敬子は、7月31日、心不全のため死去した。享年88。 裸婦像を主なモティーフとし、自然な造形美を生む優れた技量と、晴明な精神性によって評価された。注文制作である「杜に聴く」(仙台市西公園、1986年)、東京都庁都民広場の「天にきく」(1990年)等、屋外彫刻も各地に残る。 1931(昭和6)年2月3日、東京都文京区の村山病院で生まれる。幼少期より、東京美術学校出身で建畠大夢と北村西望に師事した彫刻家の父、雨宮治郎のアトリエで粘土に触れて育つ。都立桜町高等女学校2年で終戦を迎え、教文館でアルバイトをする。52年、日本大学芸術学部美術学科彫刻専攻入学。56年に同校卒業、第12回日展に「青年」初入選する。同年、文京区立湯島小学校図工専科教師として着任。また同年、日本舞踊(藤蔭流)の名取となり、藤間美治の名で弟子を教授する。57年、第5回日彫展出品作品「自刻像」が奨励賞受賞。日本彫塑会会員就任。58年、第1回日展に出品した「薫風に望む」で特選受賞。63年にも「新世代」で特選を受賞し、65年に同展審査員、66年に会員に就任。69年、三岸節子、片岡球子らの設立した女性作家による総合展覧会組織「潮展」に参加(1983年第15回まで)。72年、新樹展に参加(1976年第30回まで)。同年、大阪三越で初個展。78年、日展評議員に就任、日本赤十字社金色有功章受章。82年、前年の第13回日展出品「生動」で第10回長野市野外彫刻賞受賞。83年、第15回潮展出品「生成」が第14回中原悌二郎賞受賞。85年、第17回日展出品「道」が内閣総理大臣賞受賞。87年、前年の第18回日展出品「惜春『十六歳』」が第21回現代美術選抜展出品、文化庁買い上げとなる。1994(平成6)年、日本芸術院会員。95年、理事、参事を経て日展常務理事。96年、日本彫刻会理事長(1998年まで)。2005年、『雨宮敬子作品集』(講談社)出版。11年より日展顧問。13年、父・治郎の事績の記録を思い立った敬子の発案により、共に彫刻家であった父・治郎、弟・淳との親子3人の評伝、瀧悌三『澪標記』(生活の友社)が刊行。17年、旭日中綬章受章、文化功労者に選出。

小沢健志

没年月日:2019/07/04

読み:おざわたけし  写真史家の小沢健志は7月4日、老衰のため東京都板橋区内の自宅で死去した。享年94。 1925(大正14)年1月9日東京市に生まれる。1950(昭和25)年日本大学法文学部芸術学科卒業。51年より国立博物館附属美術研究所(現、東京文化財研究所)資料部に文部技官として勤務(1961年3月まで)。日本大学芸術学部講師を経て、74年より九州産業大学芸術学部・同大学院芸術研究科教授として教鞭をとった(1993年3月退任)。 専門は幕末・明治期における日本写真史。この分野の開拓者の一人として、各地に遺された初期写真の調査や文献の収集を重ね、初期日本写真史の実証的研究に取り組んだ。その業績の一つに75年鹿児島の島津家別邸で発見された肖像写真を調査し、これを銀板写真(ダゲレオタイプ)による〓摩藩十一代藩主島津斉彬像と判定したことがあげられる。関連した文書などから、同肖像写真は、藩命により銀板写真の研究に取り組んだ〓摩藩士市来四郎らによって1857(安政4)年に撮影されたものであることが確認され、幕末期、日本人による銀板写真の撮影は成功しなかったとされてきた従来の定説を書き換える発見となった。この島津斉彬像は1999(平成11)年、写真としては初の重要文化財指定を受けている。 91年には日本写真芸術学会の設立に参加、副会長に就任。98年から2002年まで会長を務め、退任後は同名誉会長となる。また日本写真協会副会長、東京都歴史文化財団理事等を歴任した。 主要な著作に『勝海舟:写真秘録』(尾崎秀樹との共著、講談社、1974年)、日本写真協会編『日本写真史年表』(編集委員として編纂に参加、講談社、1976年)、『日本の写真史:幕末の伝播から明治期まで』(ニッコールクラブ、1986年、のち、『幕末・明治の写真』と改題、ちくま学芸文庫、1997年)、『写真で見る幕末・明治』(編著、世界文化社、1990年、新版、世界文化社、2000年)、『幕末:写真の時代』(編著、筑摩書房、1994年、のち、ちくま学芸文庫、1996年)、『写真明治の戦争』(編著、筑摩書房、2001年)、『古写真で見る幕末・明治の美人図鑑』(編著、世界文化社、2001年)、『写真で見る関東大震災』(編著、ちくま文庫、2003年)等がある。幕末・明治期の写真の調査研究を通じて、数多くの初期写真の作例や文献等の関連史料を自ら収集したことでも知られ、そのコレクションは上記の著作においても多く紹介されている。 長年の功績に対し、90年に日本写真協会賞功労賞、02年には日本写真芸術学会名誉賞を受賞した。

菅谷文則

没年月日:2019/06/18

読み:すがやふみのり  滋賀県立大学名誉教授で奈良県立橿原考古学研究所第5代所長の考古学者・菅谷文則は脳腫瘍のため6月18日に死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月7日、奈良県宇陀郡榛原町(現、宇陀市)に生まれた。親和幼稚園、榛原第一小学校に学び、榛原中学校在学の時、小泉俊夫・百地保次両教諭の引率で初めて発掘現場を訪れた。奈良県立畝傍高等学校に進学し、メスリ山古墳や大和天神山古墳の発掘調査に参加し、また山岳部に所属してインターハイ出場を果たした。61年、関西大学文学部史学科に入学し、末永雅雄の研究室に学んだ。65年、同大学院文学研究科に進み(~1967年9月)、文学修士号を授与された。この間、奈良県立橿原考古学研究所調査協力員として県下の遺跡調査に従事し、大学院修了後は関西大学文学部考古学研究室嘱託となった。68年4月、奈良県教育委員会文化財保存課技師に任ぜられ、74年4月には奈良県立橿原考古学研究所研究職技師となり、1995(平成7)年3月までの間、シルクロード学研究センター研究主幹、調査第一課長等を務めた。公務の一方、69年には森浩一・櫃本誠一らと朝鮮半島南部を踏査し、これが自身にとって最初の海外調査となった。77年には西田信晴・床田健治・中井一夫らとアフガニスタンでの1カ月にわたる調査を実施した。79年9月、日中国交正常化後の初の交換留学生として北京語言学院に学び、翌年7月からは北京大学歴史系考古学専業進修課程にて宿白に師事した。95年4月、新設の滋賀県立大学に転じ人間文化学部教授を命ぜられた。この頃、日中共同の発掘調査を実現すべく当局との調整を重ね、同年より谷一尚を日本側代表とする中日聯合原州考古隊の日本側副隊長兼発掘隊長として、寧夏回族自治区における北周田弘墓、唐史道洛墓の発掘を指揮した。また、山東省において漢鏡の調査をおこなうなど、中国での考古学調査を本格化させた。国内にあっては兵庫県三田市史編纂事業に伴う古墳群の測量調査や、和歌山県那智勝浦町下里古墳の発掘調査を指導した。 2008年3月に大学を定年退職し、09年4月をもって奈良県立橿原考古学研究所第5代所長に就任した。11年には中国・陝西歴史博物館で「日本考古展」を開催して日中交流を推し進め、また14年には室生埋蔵文化財整理収蔵センターを開所させるなど、文化財保護の環境整備にも尽力した。この間、奈良県文化財保護審議委員副議長、奈良県史跡等整備活用補助金選定審査会委員長、宇陀市文化財審議会委員長など各地の文化財審議委員のほか、ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事業運営審議会委員、中国社会科学院中国古代文明研究中心客員研究員として学識を公益に供した。2019(令和元)年5月31日、所長職を退任した。 菅谷の研究は、その広範な調査範囲が示すように一時代一地域に留まるものでなく、ユーラシア全土を基盤とした東アジア考古学であり、シルクロード学であった。そこでは特に王権と信仰、そして武器・武具の諸相を命題に掲げ、これに関する山の考古学研究会(1987年発足)、古代武器研究会(2000年発足)、ソグド文化研究会(2007年発足)、アジア鋳造技術史学会(2007年発足)等の創設や運営に携わり研究基盤を整備した。 王権に関わる研究課題のひとつである三角縁神獣鏡の研究では、技術論(『製作技術を視座とした三角縁神獣鏡の編年と生産体制研究』、「三角縁神獣鏡における製作技術の一側面―二層式鋳型と型押し技法の検証―」(共著)『古代学研究』220、古代学研究会 2019年)、資源論(「自然銅の考古学(1)」『古代学研究』150、2000年)、系譜論(『中日出土銅鏡の比較研究』、『中国出土銅鏡の地域別鏡式分布に関する研究』、『中国洛陽出土銅鏡と日本弥生時代出土銅鏡の比較研究』)等多岐に及んだ。 信仰に関しては、発掘調査と実地踏査を重んじ、法隆寺若草伽藍や大峰山における山岳霊場の発掘等で成果をあげた。後者では多年にわたる功績により真言宗醍醐派大山龍泉寺より「正大先達」の称号を授与された。 武器武具では、中国出土の画像資料や副葬用の模型明器を素材にこれを論じ(「晋の威儀と武器について」『古代武器研究』1、2000年、「中国南北朝の木製刀剣」『古代武器研究』2、2001年、「中国晋の盾と前期古墳の盾について」『古代武器研究』8、2007年)、古墳時代を東アジア史のなかで位置づけるための重要な視座を示した。 著書に『日本人と鏡』(同朋舎出版、1991年)、『健康を食べる 豆腐』(共著、保育社、1995年)、『三蔵法師が行くシルクロード』(新日本出版社、2013年)、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』(南都大安寺編、東方出版、2020年)、『甦る法隆寺 考古学が明かす再建の謎』(柳原出版、2021年)等があり、そのほか多数の発掘報告書を手掛けた。

山崎つる子

没年月日:2019/06/12

読み:やまざきつるこ  前衛美術グループ「具体美術協会」の結成に参加し、ブリキ等金属を使った立体や色彩豊かな抽象絵画を手がけた美術家の山崎つる子は6月12日に急性肺炎のため死去した。享年94。 1925(大正14)年1月13日、兵庫県芦屋市に生まれる。本名は山崎鶴子。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進学。1946(昭和21)年、芦屋市主催の市民講座で講師として招かれた吉原治良と知遇を得、吉原の自宅で開催された絵画教室で指導を受けるようになる。48年、小林聖心女子学院を卒業。同年、第1回芦屋市美術展覧会に風景画を出品、以降毎年出品、第7回展で会員推挙、第21回展より審査委員を務める。54年、具体美術協会の結成に参加。55年、真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展(芦屋公園)では、「トタン板の鎖」を発表。以降、金属板を支持体とし、これに鏡やセロファンを貼付したり、染料やニスを塗布したり、凹凸を施し扉や窓をつくったり、照明で色彩を施す手法の作品を多く手掛けるようになる。56年、野外具体美術展(芦屋公園)では、赤い硬質ビニールを木に括って張り巡らせた蚊帳状の立体作品(1985年に再制作、「赤」兵庫県立美術館蔵)と、鮮やかな染料が施されたブリキ板が高さ3.3メートル、幅6.6メートルまで繋がれた作品「三面鏡」(2007年に再制作、「三面鏡ではない」金沢21世紀美術館蔵)を発表。50年代後半から具体がフランスの美術批評家ミシェル・タピエとの交流により、アンフォルメル絵画の代表的グループとして海外進出を果たすと、58年第6回具体展を境に、キャンバスを支持体とした平面作品にも取り組む。61年「日本の伝統と前衛」展(トリノ・国際美学研究所)に出品。63年、大阪・グタイピナコテカで個展を開催。64年、第1回長岡現代美術館賞に選抜招待。72年の解散まで具体に在籍。75年、芸術家ネットワーク「アーティスト・ユニオン」に参加。70年代後半、具体解散後しばらくたったのち、作風を一変させ、パチンコやスマートボール、動物、ビールの商標など大衆的なイメージを着想源とした作品を展開。独自の色彩やフォルムとが自由自在に横断しながら、互いに無限に関係性を持ち続けるさまは、山崎の作品に通底した特質とされる。2000年代以降は改めてブリキを支持体とした平面作品を手掛け、色彩の交錯、形態の錯綜の追求を続けた。2004(平成16)年、兵庫県芸術文化協会より亀高文子記念・赤艸社賞を受賞。 新作を含む回顧展に「リフレクション 山崎つる子:地獄の沙汰も、色次第。」(芦屋市立美術博物館、2004年)、特別展示「山崎つる子 連鎖する旋律」(金沢21世紀美術館、2007年)がある。09年1月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが山崎の聞き取り調査を行い、同団体のウェブサイトに公開された(聞き手は加藤瑞穂、池上裕子)。 具体のなかで中核的な位置を占めるひとりでありながら、吉原治良、白髪一雄、田中敦子、元永定正らと比較すれば、具体以外の展覧会で作品を公にすることは限られ、80年代から始まった具体を再評価する国内外の回顧展でも山崎の作品は概してメンバーの多様な作品の一事例としての扱いにとどまってきた。金属を支持体とした作品は、制作当初の状態を維持することが難しく、これらの初期作品で現存するものが少ないことも、山崎作品がこれまで正当に評価されてこなかった要因のひとつともいわれる。90年代以降、フェミニズムあるいはジェンダー論的観点からの美術史の批判的捉え直しもあり、再評価が試みられている作家のひとりである。没後2021(令和3)年、『美術手帖』8月号、「特集・女性たちの美術史:フェミニズム、ジェンダーの視点から見直す戦後現代美術」において、日本にルーツをもち、「前衛」の時代に新たな芸術をも模索した作家として大きく取り上げられた。

河村要助

没年月日:2019/06/04

読み:かわむらようすけ  イラストレーターの河村要助は6月4日、老衰のため死去した。享年75。 1944(昭和19)年4月28日、埼玉県浦和市に生まれ、ほどなく東京へ移り西荻窪で育つ。69年東京藝術大学美術学部工芸科(ビジュアルデザイン専攻)を卒業し、JKスタジオにグラフィックデザイナーとして勤務(1971年まで)、西武百貨店やパルコの広告を制作する。当時ニューヨークで活動していたデザイングループ、プッシュピン・スタジオの仕事に強く魅かれ、とくにポール・デービスの文明批評的な作風に刺激を受ける。70年に矢吹申彦、湯村輝彦とともにイラストレーションのグループ「100%スタジオ」を結成(1974年まで)、“ヘタうま”と呼ばれる、描写のテクニックを切り捨てた作品で注目を集めた。71年よりフリーランスのイラストレーターとなり、『話の特集』『NEW MUSIC MAGAZINE』(現、『MUSIC MAGAZINE』)『angle』等の表紙や挿絵を担当。74年、湯村輝彦、原田治、佐藤憲吉(ペーター佐藤)、大西重成と「ホームラン」というイラストレーター・チームを結成、ニュースペーパー『ホームラン』を創刊。75年にニッカウヰスキーの新製品「黒の、50」の宣伝に作品を提供、評判となる。他に日本中央競馬会(JRA)のキャンペーン等、話題作を手がけた。作風はアメリカナイズされた実験的感覚に独特のデフォルメと色彩感が特徴的。またラテン音楽、とくにサルサに傾倒、評論等も数多く手がけ、作品にもその影響は色濃く反映されている。メレンゲ・バンド「アラスカ・バンド」でもトロンボーンを担当。86年に日本グラフィック展年間作家最高賞、87年と1990(平成2)年に東京ADC賞、90年に『年鑑日本のイラストレーション』作家賞を受賞。89年には音楽専門誌『Bad News』の創刊者の一人となり、イラストレーションはもとより細かなデザインまで全て手がけた。作品集には『EXOTICA』(PARCO出版、1981年)。著書に『サルサ天国』(話の特集、1983年)、『サルサ番外地』(筑摩書房、1987年)等。晩年は長らく闘病生活を送るも、2009年に松屋銀座のデザインギャラリー1953で、グラフィックデザイナーの佐藤晃一と佐藤卓の担当により個展「イラストレーター河村要助 good news」が開催、その好評を経て11年に銀座のクリエイションギャラリーG8にて個展「伝説のイラストレーター 河村要助の真実」が開催、翌年には大学時代からの友人だった佐藤晃一の監修により作品集『伝説のイラストレーター 河村要助の真実』(Pヴァイン)が刊行されている。

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