本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,712 件)


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門倉武夫

没年月日:2010-12-26

保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。主要な研究業績は以下の通りである。 「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on …

石田武

没年月日:2010-12-24

日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

清水誠一

没年月日:2010-12-06

美術家の清水誠一は12月6日、山梨県北杜市の自宅で死去した。享年64。1946(昭和21)年2月27日、山梨県小淵沢に生まれる。67年新潟大学医学部を中退し、上京。すいどーばた美術学院で学ぶが、ほどなく独学で制作活動に入る。デヴューは69年の第9回現代日本美術展。初個展は72年、神田の田村画廊だった。この年、3回の個展を田村画廊で勢力的に開催する。マルセル・デュシャンに傾倒していた清水は、当時の作品を次のように記述している。1回目は、「動力用モーターが3台廻り、空中に大きな楕円の輪が吊るされ、楕円の中を円形蛍光灯20個が筒状に光を発する」もの。2回目は、「画廊のコンクリートの床に穴を掘り」画廊の名前が入ったガラスの看板を埋めるもの。3回目は1日のみで、「白い傾斜した大きなベニヤ・パネルをトラックに積み、田村画廊と近くにあったときわ画廊とのあいだを20回通過するイヴェント」(引用はいずれも『あいだ』157号「追悼山岸信郎・わが虚無的往還のかたわらで」より)だった。77年には第10回パリ青年ビエンナーレに出品。この頃には、コンクリート板などを線描で覆い尽くす「マーク・ペインティング」をシリーズ化している。79年に小淵沢に制作の拠点を移し、80年代はおもに「クランク・ペインティング」のシリーズを展開、1色の背景に直線と曲線が規則的に並ぶ、運動感をみせる絵画である。個展は主に東京のコバヤシ画廊、田中画廊などで開催、その数44回に及び、毎年のようにグループ展にも参加していた。1998(平成10)年頃からコンピューターを使用し、絵画制作を行なう。写真を取り込みソフトで加工、旧作の画面に入れ込んだりし、しだいに具象的な形象が画面を覆ってくるようになる。2009年6月から11月に開催された香川県のソフトマシーン美術館での個展が最後の発表となった。作品は次のホームページで参照できる。http://lastpainting.main.jp/ (2013年現在)

鈴木慶則

没年月日:2010-11-21

画家の鈴木慶則は11月21日、脳こうそくのため静岡市内の病院で死去した。享年74。1936(昭和11)年1月13日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。腺病質で友だちがいなく、孤独な幼少期にひとりでできる遊びとしてクレヨン画をよく描いた。実家はもともと地主であったが農地改革で土地を失い、父は終戦時に結核で亡くなった。高校では美術部に入り、図書館で見つけた福島繁太郎著『エコール・ド・パリ』がきっかけで美術にのめり込む。54年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学。在学中は大沢昌助、川端実、末松正樹らに学ぶ。57年第25回独立展に出品し入選。4年生のときに清水市にある鈴与倉庫に勤める義理の姉の同僚であった木村泰典(石子順造の本名)と出会い、翌年静岡でグループ「白」を結成。大学卒業後は、清水市立第一中学校に美術教師として赴任、教職と並行して作家活動を行う。58年第11回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品、以後61年第14回展まで毎年出品を続ける(第14回展は「グループ「白」、石子順造、鈴木慶則」名義で出品)。58年静岡県展で中部日本新聞社賞を受賞。59年第7回ニッポン展に出品。60年村松画廊で「伊藤隆史・鈴木慶則」展を開催。同年石子順造、伊藤隆史とともに評画・記録漫画の冊子『フェニックス』を創刊。同年第13回前衛美術展に出品、以後出品を続ける。このころ静岡雙葉学園に移り、13年間非常勤として勤務。63年第15回読売アンデパンダン展に出品。同年清水・純喫茶フレンドで個展を開催。64年アンデパンダン’64展に出品。65年椿近代画廊において東京での初個展を開催。同年東京芸術柱展(東京都美術館)に出品。66年静岡の作家とともに前衛美術グループ「幻触」を結成し、中心メンバーとして活動。同年第10回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。67年第11回シェル美術賞展で2等受賞。同年「50A.F.(Apres “La Fountaine”)」展(ギャラリー新宿、企画=石子順造、刀根康尚)に出品。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(村松画廊、東京画廊、企画=石子順造、中原佑介)に出品。同年第8回現代日本美術展コンクール部門で入選。同年第5回長岡現代美術館賞展に招待出品。69年第9回現代日本美術展第2部「現代美術のフロンティア」に招待出品。同年「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)に招待出品。同年「今日の美術-静岡」展(静岡県民会館)に出品し今日の美術展大賞を受賞。60年代後半から、名品とされる絵画や彫刻をモチーフにトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法を用いた平面作品を展開、「高橋由一風鮭」(1966年)、〈非在のタブロー〉シリーズ(1968年~)など発表。70年京都書院画廊で個展を開催。71年第10回現代日本美術展招待部門「状況-物質と行為との対話」に「Twin endress-ring」と題するインスタレーションを出品。同年「言葉とイメージ」展(ピナール画廊、企画=針生一郎)に出品。72年ギン画廊で個展を開催。73年『芸術生活』で連載を1年間担当、「死角の絵画」と題して毎月新作を発表。74年第11回日本国際美術展国内部門「複製、映像時代のリアリズム」に「長谷川等伯風猿猴捉月図」を招待出品。以後、銀座・ギャラリー手(1974年、1978~88年、1992~2009年)、大阪フォルム画廊東京店(1991年)、ソウル・松川画廊(1994年)、ギャラリーQ(2010年)などで個展を開催し、「今日の静物・展」(横浜市民ギャラリー、1975年)、「現代作家6人」展(静岡・ギャラリー美術舎、1982年)、「日仏合同ALAC」展(1985年)、「石子順造とその仲間たち〈グループ幻触を中心に〉」展(清水・虹の美術館、2001年)、「幻触1968年」展(静岡文化芸術大学ギャラリー、2002年)など多くの企画展に出品。1970年代からあぶり出しによる平面構成、カンバスに金属粉を吹き付ける技法を用いた作品、〈WATER-Edge〉シリーズ、〈Water Drawin〉シリーズなどを展開、素材の物質性に基づいた表現へと変貌した。2010(平成22)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

武者小路穣

没年月日:2010-11-11

和光大学名誉教授で、日本古代・中世文化史の研究者であった武者小路穣は、11月11日、心不全のため死去した。享年89。1921(大正10)年3月27日、奈良県奈良市に生まれる。東京府立一中、第一高等学校(文科甲類)を経て、1941(昭和16)年に東京帝国大学文学部入学し、国史学を専攻する。卒業半年前に、第二次大戦末期の兵力不足をおぎなうため、舞鶴海軍機関学校に教官として入隊、敗戦後復員。翌年の46年から48年まで日本読書講読利用組合に勤務。その後、明星学園高等学校教諭を経て、70年に和光大学文学部に赴任。以後、1991(平成3)年に定年退職するまで後進の育成に取り組んだ。文学、絵巻、襖絵、仏像など、実に幅広い対象を扱い、そこから歴史を説き起こそうとする独自の研究スタイルを追求した。こうしたスタイルの確立には、とりわけ次の3人の研究者に影響を受けたことを述懐している。まず、実証史学のありようや史料の扱いの基本を学んだのは学生時代の恩師坂本太郎からであった。また46~48年の出版関係の仕事を通じて、戦後歴史学に大きな影響を与えた石母田正との知遇を得たが、このことが歴史を考える上で非常に大きかったという。戦後に出版された石母田の一連の論考に、武者小路自身も大きな衝撃を受けており、その石母田から文学・美術分野での古代中世を掘り下げるように励まされたことがその後の研究の方向性を決定したようだ。石母田との共著『物語による日本の歴史』(学生社、1957年初版、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫版として再刊)の出版準備過程で、自宅にほど近かった石母田宅に毎晩のように通い、薫陶を受けたという。さらに、美術史学者の宮川寅雄、日本史学者の川崎庸之の誘いを受け、さまざまな分野の研究者がつどった研究会である文化史懇談会に参加。そこで美術史学者の田中一松に出会い、作品を幅広く徹底的によく見るという氏の姿勢に大いに感銘を受ける。後に和光大学赴任後、現地で見ること、記述することを徹底する教育へとつながった。またこの懇談会に参加したことを直接のきっかけとして、川崎のすすめにより絵巻研究に従事し、文学のジャンルから美術史のジャンルへと視野を広げることとなる。その研究成果は『原色版美術ライブラリー 絵巻物』(みすず書房、1957年)、『絵巻―プレパラートにのせた中世』(美術出版社、1963年)等に結実。こうした学術研究のかたわら、『日本歴史物語』(河出書房新社、1955~1962年)、『少年少女人物日本百年史』(盛光社、1965~1966年)、『新しい日本』(盛光社、1967年)等、児童向けの歴史書の共同執筆や監修を手がけた。上記以外の主な著作に、『ものと人間の文化史 地方仏Ⅰ・Ⅱ』(法政大学出版局、1980年・1997年)、『ものと人間の文化史 絵師』(同、1990年)、『絵巻の歴史』(吉川弘文館、1990年)、『ものと人間の文化史 襖』(法政大学出版局、2002年)などがある。なお、妻は作家の武者小路実篤の三女辰子。85年に開館した調布市武者小路実篤記念館の顧問を務めた。

熊谷元一

没年月日:2010-11-06

写真家、童画家の熊谷元一は、11月6日老衰のため東京都内の介護施設で死去した。享年101。1909(明治42)年7月12日、長野県下伊那郡会地村(現、阿智村)に生まれる。1929(昭和4)年長野県飯田中学校(現、飯田高等学校)卒業。30年下伊那郡で尋常高等小学校の代用教員となる。33年長野県教員赤化事件(2.4事件)に連座し退職。幼少の頃より絵に関心を持ち、代用教員在職中に童画(子供向けの絵画)にとりくみ始める。32年絵本雑誌『コドモノクニ』に初めて作品が掲載され、以後、郷土を描く童画家としての評価を高め、教職を辞した後は童画に専念。34年指導を受けていた童画家武井武雄の依頼で、童画制作の資料のために案山子を撮影したことから写真に興味を持ち、36年初めてカメラを購入。写真を用いた村誌の制作を思い立ち、約2年間かけて農村の暮らしを撮影する。それをまとめた手作りの写真帳が美術評論家の板垣鷹穂に評価され、板垣の推薦により、38年『会地村 一農村の写真記録』が朝日新聞社より出版される。これを契機として39年拓務省(のち大東亜省に吸収)に嘱託として採用され上京、事務全般を担当する傍ら満州出張の折に現地を撮影。童画家としても絵本『ヤマノムラ』(教養社、1942年)、同『あの村この村』(博文館、1943年)を出版する。終戦後は郷里の小学校の教師に復職。49年より農林省農業綜合研究所駐村研究員に任じられたことを機に、写真撮影を再開。教職の傍ら、農村の婦人の生活を調査、撮影。53年に新評論社から『村の婦人生活』として刊行するとともに、それらの写真を岩波写真文庫編集部に送ったことをきっかけに同写真文庫において、いずれも伊那谷を撮影地とした『かいこの村』(岩波写真文庫84、1953年)、『農村の婦人 南信濃の』(同121、54年)、『一年生 ある小学校教師の記録』(同143、1955年)が出版される。53年に担任したクラスを1年間記録した『一年生』は、第1回毎日写真賞を受賞するなど高く評価された。66年小学校教員を定年退職し、東京都清瀬市に移住。退職後に発表された絵本『二ほんのかきのき』(福音館、1968年)は版を重ね約30年で総部数が100万部に達し、童画家としての代表作となった。清瀬移住後も郷里阿智村の撮影を続け、『ある山村の昭和史 写真記録集 信州阿智村39年』(信濃路、1975年)、『グラフィック・レポート ふるさとの昭和史 暮らしの変容』(岩波書店、1989年)などを出版するとともに、移住先の清瀬でも市内の風景や市民生活にレンズを向け、その成果は『清瀬の三六五日―写真集』(清瀬市郷土博物館、1999年)などにまとめられた。写真と童画によって長年にわたって郷土の暮らしに眼を向け続けた熊谷の営為は、昭和の終わりから平成初頭の時期、昭和という時代を回顧する気運の高まりの中で改めて評価され、その顕彰が進んだ。81年に阿智村で「熊谷元一童画写真保存会」が発足、88年村内に熊谷から寄贈された作品を保存展示するふるさと童画写真館(のち熊谷元一童画写真館に改称)が開設された。1990(平成2)年には第40回日本写真協会賞功労賞を受賞。92年『画集 熊谷元一の世界』(郷土出版社)刊行。93年長野県教育関係功労賞受賞。94年地域文化功労者として文部大臣表彰を受ける。同年『熊谷元一写真全集』(全4巻、郷土出版社)により第48回毎日出版文化賞を受賞。95年には伊那谷の暮らしと文化を童画と写真により記録し続けた功績により信濃毎日新聞社から第2回信毎賞を受賞した。96年阿智村により熊谷元一写真賞創設。97年には『日本の写真家17熊谷元一』(岩波書店)が刊行された。評伝に矢野敬一『写真家・熊谷元一とメディアの時代』(青弓社、2005年)がある。

榊莫山

没年月日:2010-10-03

書家の榊莫山は、10月3日、急性心不全のため奈良県天理市内の病院で死去した。享年84。1926(大正15)年2月1日、母方の実家である京都府相楽郡大河原村(現、南山城村)で生まれる。戸籍は三重県名賀郡古山村(現、伊賀市)。本名齊。1937(昭和12)年、伊賀の花垣尋常高等小学校6年次に伊賀学童競書会で「聖恩與天高」が特選受賞。38年、旧制上野中学校に入学し、松本楳園に書を、佐々木三郎に油彩画を習う。43年、三重師範学校に入学。45年、終戦後に復員し、小学校教員となる。46年、奈良で日本書芸院設立者でもある書家の辻本史邑に師事。また、この時期には、京都大学文学部に内地留学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。50年から、日本書芸院公募展に出品。51年、第5回日本書芸院公募展に出品した「放蕩」、翌年第6回展の「何将軍山林詩」で、最高賞にあたる推薦一席を二年連続受賞。このころ、伊賀の文化人菊山当年男の勧めによって、大阪に転居している。また、奎星会展では、52年の第1回から3回連続で最高賞にあたる奎星会賞を連続受賞。20代の若さにして、日本書芸院と奎星会の審査員となる。しかし、書を他の造形芸術を含む広大な領域の中で捉えていた莫山は、書を他の諸芸術から区別し、その独自性を確保しようとする保守的な書壇に対する疑問を抱き、57年11月に師の辻本史邑が死去したことをきっかけに、日本書芸院を離れる。61年には、奎星会同人も辞退し、無所属となる。その後は、「土」「女」「花」などの一文字にイメージを重ねる作品などで独自の道を模索。画廊や百貨店で個展を開くのみならず、同郷の元永定正をはじめとする他分野の美術家との合作や二人展などを行うほか、テレビやラジオへの出演、多数の著作を執筆するなど広範な分野で活躍する。68年、書の研究グループである山径社を主宰(77年解散)。76年、大阪成蹊女子短期大学教授を務める。81年、両親が相次いで死去し、郷里の伊賀へと戻る。故郷の山野を歩き、自然に着想を求めたことで、「大和八景」(84年)や「伊賀八景」(94年)といった連作を生み出し、詩書画一体の作風を確立。1989(平成元)年、近畿大学文学部教授。92年、東大寺南大門仁王像阿形像像内に納入する宝篋印陀羅尼経などを制作。93年から96年にかけては、焼酎のテレビCMに登場し、広く一般にもその人柄が親しまれるようになる。死去の翌年2011年、遺言により作品108点が三重県立美術館に寄贈され、12年4月に同館で榊莫山展が開催された。

高田誠三

没年月日:2010-10-02

写真家の高田誠三は、10月2日扁桃扁平上皮がんのため死去した。享年81。1928(昭和3)年10月14日、大阪に生まれる。49年大阪府立化学工業専門学校(現、大阪府立大学工学部)卒業。ハリス株式会社(現、クラシエフーズ)に入社し、チューインガムの研究に従事。在学中の48年に浪華写真倶楽部に入会。戦後の再興途上にあった同倶楽部において若手の中心的なメンバーの一人として頭角を現し、各種のコンテストで入賞を重ね、評価を高めた。56年、勤務先の会社を辞し写真家として独立、商業写真などを手がけるが、70年代半ばより、風景写真へのとりくみを活動の中心とするようになる。69年より75年までなんばデザイナー学院教授、76年より大阪芸術大学で教鞭を執り、講師、助教授、教授を歴任。1998(平成10)年からは同大学写真学科長を務め、2000年に退任した。大学での教育とともに、浪華写真倶楽部や、理事を務めた全日本写真連盟、02年の創設より参加した日本風景写真協会の活動などを通じ、多くの後進やアマチュア写真家の指導、育成にあたった。風景写真の第一人者として、日本の自然の美を生涯のテーマとし、長年にわたって四季を通じて各地に取材を重ねた。主として35mmカメラを使用し、平明でありながら完璧な風景の美を追究した作風によって知られた。『アサヒカメラ』などの写真雑誌に発表された作品も多く、作品集に『彩々流転』(日本写真企画、1991年)、『高田誠三集』(ブティック社、1998年)など、また写真技法書として『暗室の特殊技法』(朝日ソノラマ、1977年)がある。

一原有徳

没年月日:2010-10-01

モノタイプの手法で知られる版画家の一原有徳は10月1日、老衰のため死去した。享年100。1910(明治43)年8月23日、徳島県那賀郡平島村(現、阿南市那賀川町)に生まれる。1913(大正2)年、家族とともに北海道虻田郡真狩村阿波団体(現、真狩村富里)に移住。23年、小樽に移住し、株式会社北海道通信社に入社。同年から小樽実修商科学校(夜間)に通学。そこで書道教師だった小林露竹(俳号、露石)の句会に参加し、俳句創作のきっかけとなる。1927(昭和2)年、逓信省小樽貯金支局(現、小樽貯金事務センター)に入局し、以後43年間勤務。この頃から本格的に俳句創作に携わり、句誌に投句を始める。また、31年には休暇を利用しての登山を始める。44年、月寒(札幌)の大砲小隊に入隊。翌年、広島へ転属。その後、小樽の第五船舶輸送司令部暗号班に配属されるも、終戦によって9月に除隊。51年、小樽貯金支局に勤務していた画家須田三代治から油彩画の道具を譲り受け、指導を受ける。同年10月に第5回小樽市美術展に出品し初入選。翌年の第6回同展では北海道新聞社賞、翌々年の第7回同展で文化クラブ賞。54年、須田の友人である国松登の指導のもと、第9回全道展で「峡」が初入選。その後、第12回まで油彩画を出品し、入選を続ける。この頃、パレット代わりにしていた石版石に残ったペインティングナイフの痕跡に注目し、モノタイプ版画の制作を始める。モノタイプ版画は、石版などの上に均一に延ばしたインクをナイフなどで削ぎ落とし、版画紙に転写するもので、方法としては版画に類するものの、一度しか印刷することができないという点で大きく異なる。58年、モノタイプの手法を用いた年賀状が国松の眼にとまり、第32回国画会展にモノタイプ作品を出品。「RON」、「SRO」が初入選を果たす。このことがきっかけで、国画会の版画家河野薫から版画についての基礎知識を教わり、金属凹版作品、いわゆるエディション・シリーズの制作にも本格的に取りかかる。翌59年、第27回日本版画協会展に出品した「轉」が初入選。この作品がアメリカのコレクターであるフランク・シャーマンに買い上げられたことで、当時の神奈川県立近代美術館副館長土方定一の眼にとまる。60年には、土方の推薦によって、世界を巡回した「現代日本の版画展」(神奈川県立近代美術館主催)に「RON」を含む計9作品が出展される。6月には東京画廊において初の個展を開催。その後は、勤務先の仕事の傍ら、北海道を中心に作品を発表する。この間、モノタイプや金属凹版を応用し、糸や金網、機械部品を直接プレスしたり、あるいは、丸鋸の刃やトカゲの皮、するめをそのまま版として用たりするなど、様々な実験を行っている。定年退職後の71年、下山中に遭難し、右大腿骨骨折。その後、3年にわたって三度の手術を受けることになる。退院後の76年、札幌にあるNDA画廊の長谷川洋行から青画廊の青木彪を紹介され、再び東京での個展を開催。これに先立って、『みづゑ』10月号に谷川晃一との対談が掲載されたこともあって、ふたたび脚光を浴びることとなる。翌年、現代版画センター主催の「現代と声」展に選ばれ、企画者である北川フラムの知遇を得る。北川フラムは、その後もいくつかの個展を企画し、89年には『ICHIHARA 一原有徳作品集』を出版する。79年、第2回北海道現代美術展に選定出品された「KIH(a)」で優秀賞。同年、一原が勤務していた貯金局の建物内に市立小樽美術館が開館。また、版画紙を複数枚つなぎ合わせたり、それを円筒形にして立体的な構造物をつくる手法の第一作となる「SON・ZON」が制作されたのもこの年である。この時期には、金属を熱して焼き付ける「Branding」シリーズ、ステンレスの鏡面を歪ませた「SUM」シリーズなどといったオブジェ作品を多数制作。また、83年「無題」(川崎市営競輪場外壁)、84年「炎」(小樽花園公園)、「炎II」(銭函駅前)とモニュメント作品も制作している。その後も多産な制作活動をつづけ、各地で精力的に個展を開く。主な個展は、88年「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」展(神奈川県立近代美術館別館)、1997(平成9)年「イチハラ・ステンレス・オブジェ」(市立小樽美術館)、98年「一原有徳・版の世界 生成するマチエール」(徳島県立近代美術館、北海道立近代美術館)、2002年「所蔵作品お披露目展その四・一原有徳展」(武蔵野市立吉祥寺美術館)、12年「追悼・一原有徳 ヒラケゴマ」(同)など。また、主な受賞は、1981年、第4回北海道現代美術展に選定出品された「SON・ZON」によって北海道立近代美術館賞。90年、北海道文化賞受賞。96年、地域文化功労者の文部大臣表彰。2001年、第33回北海道功労賞。11年、市立小樽美術館の三階に一原有徳記念ホールが開設され、同年10月に「没後一年 一原有徳 大版モノタイプ~終わりなき版への挑戦」展が開催された。

岡畏三郎

没年月日:2010-09-17

美術史家の岡畏三郎は9月17日午前1時35分、老衰のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年96。  1914(大正3)年1月18日、演劇評論家岡鬼太郎(本名、嘉太郎)の次男として東京に生まれる。兄は洋画家の岡鹿之助。1931(昭和6)年私立麻布中学校を卒業。32年東京の都立高等学校理科乙類に入学し、35年に同校を卒業する。36年4月に東京帝国大学農学部農学科に入学し39年3月に同科を卒業。同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。41年12月に同科を卒業し、42年1月に財団法人国際文化振興会(現、国際交流基金)に勤務する。45年5月15日、同会を退職して美術研究所に助手として入所する。当時、同所助手であった河北倫明が応召するのに伴い、補充採用となったもの。隈元謙次郎、河北倫明らとともに日本近代美術の調査研究事業に従事し、大正期の洋画と18世紀以降の浮世絵・木版画を研究対象とした。51年3月「明治末期に於ける『新傾向』に就て」(『美術研究』160号)を発表して以来、専門分野に関する著作、講演を多数行う。手堅い史料調査による作家研究を行い、日本美術の近代化の中で江戸時代までの造形の蓄積を表現に取り入れた作家たちを積極的に評価した。戦後、美術研究所は東京国立文化財研究所となったが、同所美術部第二研究室長を長く務め、72年4月から同部長となった。76年4月1日、同所を退官。76年から86年まで群馬県立近代美術館館長を務めた。主な著作に以下のようなものがある。 「明治末期に於ける「新傾向」に就て」(『美術研究』160 1951年3月) 「フュウザン会」(『美術研究』185 1956年3月) 「大正・昭和期の洋画史」(『日本文化史大系12』 1957年9月) 『広重』(平凡社、1957年6月) 『近代の洋画人・岡田三郎助』(中央公論、1959年) 「近代洋画の展開と版画芸術の復興」(『世界名画全集』23、平凡社、1960年1月) 「大正期洋画史」(『世界美術全集』11、角川書店、1961年9月) 「奥村・石川派を中心とする美人画の開拓」(『日本版画全集』2、講談社、1961年12月) 「小出楢重・岸田劉生」(『世界名画全集続編』5(共著)、平凡社、1962年3月) 「橋口五葉伝」(『浮世絵芸術』2 1962年8月) 「小出楢重の美術学校時代と初期作品」(『美術研究』223 1963年3月) 「大正期版画」(『浮世絵芸術』4 1963年12月) 「小出楢重の初期作品について」(『美術研究』228 1964年3月) 『浮世絵(平木コレクション)』編集・解説(毎日新聞社、1964-66年) 「小絲源太郎年譜」『小絲源太郎』(美術出版社、1965年10月) 『広重(Ⅱ)』(山田書院、1967年7月) 『北斎(Ⅱ)』(山田書院、1967年10月) 「明治・大正・昭和の版画」(『現代の眼』151 1967年6月) 「岸田劉生と小出楢重」(『近代洋画名作展図録』、中日新聞社、1967年10月) 「近代美術年譜」『現代の日本画(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(三彩社、1967年11月・68年1月・68年6月) 「山下りん筆『十二大祭図』について」(『美術研究』258 1969年3月) 「橋口五葉と大正版画」(『三彩』243 1969年6月) 「末期美人画」(『浮世絵』、日本経済新聞社、1969年3月) 「近代洋画の抬頭と展開」(『日本絵画館・明治』、講談社、1970年1月) 『浮世絵』(1-12巻)(共著)(毎日新聞社、1970年1月-71年3月) 「創作版画の抬頭」(『日本絵画館・大正』、講談社、1971年6月) 「小出楢重〈近代日本美術家の文献紹介〉」(『現代の眼』201 1971年11月) 『風景版画』(至文堂、1972年1月) 「山下りんの伝記と作品」(『美術研究』279 1972年1月) 『在外秘宝・清長』(共著)(学習研究社、1972年7月) 「岸田劉生」(『現代日本美術全集』、集英社、1972年12月) 『藤島武二』(日本の名画31)(講談社、1973年7月) 『歌川広重』(日本の名画12)(講談社、1974年1月) 『北斎読み本挿絵集成』2巻・5巻(共著)(美術出版社、1973年3月・11月) 「フュウザン会について」(『絵』126 日動出版 1974年8月) 『浮世絵版画大系 8北斎』(集英社、1974年11月) 「草土社の創立について」(『美術研究』297 1975年3月) 「内国勧業博覧会について」(『明治美術基礎資料集』、東京国立文化財研究所、1975年3月) 『高橋コレクション』(第1巻・第2巻・第5巻)(共同編集、解説)(中央公論社、1975年6-12月) 『山下りん-黎明期の聖像画家』(共著)(鹿島出版会、1976年12月) 『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店、1981年) 『劉生日記』1-4(岩波書店、1984年)

鷲塚泰光

没年月日:2010-09-16

美術史家(日本彫刻史)の鷲塚泰光は、下咽頭癌のため東京都新宿区信濃町の慶應義塾病院で9月16日午前4時51分に死去した。享年72。葬儀・告別式は21日午後3時から夫人の葬儀の時と同様に国柱会本部(東京都江戸川区一之江6の19の18)で行われた。鷲塚は1938(昭和13)年8月30日に東京に生まれた。62年慶應義塾大学文学部哲学科(美学美術史学専攻)を卒業し、64年には慶応義塾大学大学院文学研究科哲学専攻(美術史)の修士課程を修了する。65年に文化財保護委員会事務局美術工芸課に任用、68年には文化庁文化財保護部美術工芸課に配属。75年5月より同課文化財調査官(彫刻部門)、83年12月より主任文化財調査官(同)を歴任。この間に唐招提寺国宝鑑真和上像のはじめての海外展観(77年パリ・プチパレ美術館、80年中国・揚州と北京)の実現に尽力した。86年より東京国立博物館企画課長、美術課長を歴任。1992(平成4)年には文化庁文化財保護部美術工芸課長、94年には東京国立博物館学芸部長、96年に同館次長、2000年から05年まで奈良国立博物館館長を勤めた。長年の文化財行政ならびに博物館勤務における実績を高く評価され、08年には瑞寶中綬章の叙勲を受けた。鷲塚は非常に後進思いであり、誰もが鷲塚を敬い慕った。また、文化庁時代以来、社寺関係の信頼が非常に厚かった。後者の一端は、奈良国立博物館長の職にあった02年に同館で開催された特別展「大仏開眼1250年東大寺のすべて」において、門外不出の同寺法華堂の国宝塑像である日光・月光菩薩像の出展を実現したのも、ひとえに鷲塚に対する信頼によるところが大きい。当時、東大寺別当だった橋本聖圓長老が「像の移動では、リハーサルの時も含めていつも立ち会っておられた姿が印象に残っている。頭が下がる思いだった」というコメントが『毎日新聞』9月17日付朝刊の鷲塚の物故記事(花澤茂人執筆)に見える。寺社との信頼関係と文化財に対する責任感の一端をよく伝えていよう。鷲塚は文章を多く残し、文化財保護委員会以来の彫刻の現地調査、重要文化財指定後の修理時の知見等については一端が「文化財集中地区特別総合調査報告―滋賀県湖東地区―」『月刊文化財』119(1973年)、「彫刻の修理について」『佛教藝術』139(1981年)に述べられている。また、現場での文化財の扱いを踏まえて「美術工芸品の保存と公開1~5」『博物館研究』140~147(1980年、この論文で日本博物館協会の棚橋賞を受賞)、「美術工芸品の保存と公開」『MUSEOLOGY』4(1985年)が執筆されており、このほか文化財行政に関わっての「文化財保護百年」『博物館研究』354(1997年)がある。活躍の場が東京国立博物館に移った90年代以降は、博物館のあり方について積極的に発言し、「日本美術系博物館への一考察」『博物館研究』277(1991年)、「随筆 『博物館』は生涯学習社会に本当に役立っているのか」『博物館研究』350(1997年)、「歴史の焦点 東京国立博物館『平成館』」『歴史と地理』537(2000年)、「独立行政法人国立博物館」『国立博物館ニュース』647(2001年)などの文章を執筆するとともに、博物館のあり方について求めに応じて国立博物館の責任ある立場として講演者あるいはパネラーとして壇上に立ち、発話内容は「座談会 全国博物館大会を振り返って」『博物館研究』344(97年)、「第44回全国博物館大会報告 シンポジウム 今博物館に求められているもの―博物館相互の連携 特に相互信頼の醸成について」『博物館研究』346(1997年)、「アート・マネジメント研究フォーラム シンポジウム美術館の21世紀をひらく」『慶応義塾大学アート・センター年報』4(1997年)に窺うことが出来る。ことに国立博物館が独立行政法人へと移行する前後の時期が東京国立博物館、奈良国立博物館の要職にあたり、指導力を発揮して博物館改革に尽力し、その時期の発言は「緊急特集 美術史学会東支部シンポジウム 国立博物館、美術館、文化財研究所などの独立行政法人化問題について(ドキュメント)」『ドーム』41(1998年)に収められている。主要編著として『石仏(日本の美術147)』(1978年)、『金銅仏(同223)』(1987年)、『丹後・若狭の仏像(日本の美術251)』(1984年)、『仏像を旅する・山陰線-ふるさとの自然・文学・民俗-』(1989年)、『室生寺』(保育社、1991年)、がある。論文・解説等は70年代から80年代に精力的になされており、「中山寺と相応峯寺の十一観音像」『MUSEUM』248(1971年)、「円応寺の閻魔十王像について」『佛教藝術』89(1972年)、「北陸・越後に遺る金銅仏」『同』91(1973年)、「伊豆善名寺の仏像」『三浦古文化』14(1973年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(松島健と共著)『同』16(1974年)、「十二神将像(亥神) 静嘉堂」/「快成作 愛染明王像 文化庁」『國華』1000(1977年)、「地蔵菩薩像 東福寺」『同』1001(1977年)、「伊豆南禅寺の平安仏」『三浦古文化』29(1981年)、「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」『佛教藝術』149(1983年)、「瀬戸神社の彫刻」『三浦古文化』35(1984年)、「東光寺の薬師如来像」『同』40(1986年)、「『公余探勝図』解説」『同』46(1989年)、「源頼朝ゆかりの造像―滝山寺聖観音・梵天・帝釈天立像―」『同』50(1992年)、「康尚・定朝への道 寄木造りを生み出した時代」『日本の国宝(週刊朝日百科)』74(1998年)などがある。90年以降になると執筆は専ら展覧会図録に移行する。すなわち、「仏像内に納入された仏様」『仏教版画入門展』(町田市立国際版画美術館、1990年)、「南禅寺の仏像」『伊豆国の遺宝MOA美術館開館10周年記念展』(MOA美術館、1992年)、「美術に表現された花」『花展』(東京国立博物館、1995年)、「神々の国の仏たち」『古代出雲文化展神々の国 悠久の遺産』(東武美術館、1997年)、「室生寺の建築と彫刻」『女人高野室生寺のみ仏たち国宝・五重塔復興支援展』(東京国立博物館、1999年)、「東大寺の文化財」『東大寺の至宝展』(東武美術館、1999年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念展』(東京都美術館、2001年)、「宝物寸描-紫檀小架の使い方-」『第53回正倉院展』(奈良国立博物館、2001年)、「東大寺の美術」『大仏開眼1250年東大寺のすべて』(同館、2002年)、「黎明期法隆寺の美術」『法隆寺日本仏教美術の黎明』(同館、2004年)、「興福寺鎌倉復興期の彫刻」『興福寺国宝展鎌倉復興期のみほとけ』(東京藝術大学大学美術館、2004年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念』(奈良国立博物館、2009年)など。公職を辞してからも、文化庁・国立博物館時代の実績と手腕を買われ、奈良を中心とする寺社関係の展覧会のプロデュースに尽力した。ことに平成の大改修にともなう唐招提寺10年プロジェクトによる国宝鑑真和上展の東京、愛知、宮城、北海道、静岡などの各地での実現は鷲塚の信用と尽力なくしては実現しなかったであろう。なお、鷲塚といえば日本彫刻史の研究者としてのイメージが強いが、慶應義塾大学大学院時代には松下隆章に師事し、文化財保護委員会へは絵画部門での採用であり、この頃の論文・解説類の執筆が専ら絵画作例であったことは意外と知られていない。この時期に執筆されたものとして「住吉具慶筆徒然草絵詞」『古美術』12(1966年)、「新指定重要文化財紹介 祇園祭礼図・慶長遣欧使節関係資料」『MUSEUM』185(1966年)、「古美術用語解説絵画篇Ⅰ~Ⅲ」『古美術』15~17(1966年~67年)、「月の絵画の歴史」『三彩』220(1967年)、「吉野山花見図屏風」『古美術』20(1967年)、「日吉山王祭礼図(京都檀王法林寺蔵)」『哲学』53(1968年)がある。ちなみに、日本彫刻史に本格的な言及がなされるようになるのは「静岡県の彫刻」『月刊文化財』86(1970年)以降である。

井村彰

没年月日:2010-09-13

美学研究者で、東京藝術大学美術学部准教授の井村彰は、2008年より病気療養中であったが、9月13日脳梗塞のため死去した。享年54。1956(昭和31)年2月16日、広島県竹原市に生まれる。74年3月広島県立呉三津田高校を卒業、翌年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。79年3月同大学卒業、4月同大学大学院修士課程に入学。82年3月、同大学院修了、4月同大学美術学部美学研究室非常勤講師となる。84年から86年まで、ドイツ学術交流会留学生としてミュンヘン大学に学ぶ。帰国後、芝浦工業大学、法政大学、文化学院芸術専門学校にて非常勤講師を務める。88年7月、三村尚子と結婚。1990(平成2)年4月、大分大学教育学部専任講師となる。92年4月、同大学同学部助教授となる。97年4月、東京藝術大学美術学部芸術学科専任講師となる。98年同大学同学部助教授となる(2007年から准教授)。2002年9月、「東京藝術大学美術学部+ワイマール・バウハウス大学造形学部 現代美術交流展」に運営委員として参加。翌年7月、「アーティスト・ガーデン・ワイマール」のプロジェクト事業に参加、ワイマール・バウハウス大学にて講演。2004年6月、東京藝術大学美術学部副学部長となる(2007年11月まで在任)。井村の美学研究は、学生時代のヘーゲル、ヘルベルト・マルクーゼの美学理論にはじまり、テオドール・アドルノの美学へと進み、そこから個人がもつ「趣味」(hobbyとtaste)の問題、また芸術と社会、現代美術、あるいは近現代の構築物と社会の関係を「環境美学」として研究領域を広げ、考察を深めていった。こうした研究のなか生みだされた成果として、「モニュメントにおける文化と野蛮―宮崎市の『平和の塔』を事例にして―」(科学研究費補助金研究成果報告書「メタ環境としての都市芸術―環境美学研究―」、2000年3月)では、野外のモニュメントの芸術性と政治性の関係を、その関係に含まれる諸問題を基点に考察し、美学の視点で論じていた。また、「趣味の領分―雑誌『趣味』における坪内逍遥・西本翠蔭・下田歌子―」(科学研究費補助金研究成果報告書「日本の近代美学(明治・大正期)」、2004年3月)では、上記の「趣味」の問題を、近代日本における翻訳を通した文化受容の問題として論じている。さらに、モニュメントに端を発して考察された課題では、「モニュメント・文化財・芸術作品」(科学研究費補助金研究成果報告書「芸術における公共性」、2005年3月)において、近代、現代における文化生産、文化消費の問題を歴史的に俯瞰しようと試みていた。このように井村の美学研究は、現代における芸術の諸問題を、その背後にある歴史、社会を念頭に考察を深めていこうとするものであり、そこに現代に息づく美学の可能性を見いだいしていたといえる。数多くの論文、報告の他に主要な翻訳書に、下記のものがある。ヨハネス・パウリーク著『色彩の実践―絵画造形のための色彩―』(美術出版社、1988年)、ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(共訳であるが訳者代表、勁草書房、2005年)。なお、『カリスタ』第17号(美学・藝術論研究会編集発行、2010年12月)において、追悼記事が掲載された。謙虚で温和な人柄ながら、研究者としては、ドイツの学問的土壌を敬愛し、つねに時代と社会を視野に入れつつ、美学という位置から確固たる識見のもと真摯に研究をつづけるとともに、後進の指導にあたっていた。

藤本強

没年月日:2010-09-10

考古学者で東京大学名誉教授の藤本強は9月10日、旅行先のドイツ、ローテンブルクで死去した。享年74。1936(昭和11)年5月20日に東京都に生まれる。59年東京大学文学部考古学科卒業。61年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程修士修了、65年東京大学大学院人文科学研究科考古学専門課程博士課程満期退学。専門は先史考古学で、農耕が開始されるころの西アジアの石器文化を研究した。65年東京大学文学部助手。73年からは東京大学文学部附属北海文化研究常呂実習施設助教授として、オホーツク海沿岸の常呂町に赴任し、北海道の独特の文化的特性を持つ遺跡の発掘に従事した。この時の成果が、『北辺の遺跡』(教育社歴史新書、1979年)、『擦文文化』(教育社歴史新書、1982年)などとして刊行されている。さらに、日本列島の文化の多様性を評価する態度につながり、『もう二つの日本文化 北海道と南島の文化』(東京大学出版会、1988年)などの著書として結実した。85年には東京大学文学部教授として東京に戻る。83年以来、東京大学本郷キャンパスでは、創立100周年事業の一環として御殿下記念館、山上会館などの建設が計画されていた。キャンパス地下の加賀藩本郷邸の発掘のため、遺跡調査室(現、埋蔵文化財調査室)が組織され、藤本は構内の発掘にも尽力することになる。この調査は、江戸遺跡の大規模な調査として、その後の江戸考古学に与えた影響が大きい。藤本は発掘・報告のみならず、研究成果を『埋もれた江戸 東大の地下の大名屋敷』(平凡社、1990年)などの形で刊行し、普及にも努めた。このように、藤本の研究範囲は多くの地域、時代におよんだ。研究の基本を記した『考古学を考える 方法論的展望と課題』(雄山閣、1985年)、『考古学の方法 調査と分析』(東京大学出版会、2000年)などを刊行したほか、幅広い知見を活かした『モノが語る日本列島史 旧石器から江戸時代まで』(同成社、1994年)、『東は東、西は西 文化の考古学』(平凡社、1994年)が刊行されている。研究・教育とともに、人望と指導力を買われて1994(平成6)年から96年まで東京大学文学部長・大学院人文社会系研究科長となり、大学改革の波を乗り切った。97年に東京大学文学部を定年退官、名誉教授となった。同年、新潟大学人文学部教授。2002年、國學院大学文学部教授。國學院大學では03年から大学院委員長も務めた。07年には國學院大學を退職し、教育の最前線から退く。一方、00年から日本学術会議会員、06年からは文化審議会世界文化遺産特別委員会委員長を務めた。08年には文化庁の古墳壁画保存活用検討会の座長となり、キトラ古墳の石室壁画の解体保存の決断など、文化財保護にかかわる重要な案件にかかわる。そうした経歴の一方で、大学時代ハンドボール部に所属するスポーツマンであった藤本は、大先生として祭り上げられることを嫌った。東京大学の退官に際しては、一般にありがちな献呈論文集という形を嫌い、自らの編集による特定テーマの論文集を逆提案。研究仲間や後輩・弟子たちの執筆した『住の考古学』(同成社、1997年)を刊行した。古稀を迎えたときも、東大退官の際と同様、自らの編集による『生業の考古学』(同成社、2006年)を刊行した。01年に福島県文化財センター白河館「まほろん」の館長に就任すると、館長講演会などの形で一般への文化財の普及に尽力した。『ごはんとパンの考古学』(同成社、2007年)や、没後に刊行された『日本の世界文化遺産を歩く』(同成社、2010年)も、そのような講演内容をまとめたものである。最期の地であったドイツも、世界遺産に関する新たな講演や著作の準備のための滞在であった。

向井良吉

没年月日:2010-09-04

武蔵野美術大学名誉教授で、彫刻家の向井良吉は、老衰のため9月4日に死去した。享年92。1918(大正7)年1月26日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は、額縁、屏風の製造を営んでいた。3人兄弟の末弟で、長兄は、洋画家の潤吉。30(昭和5)年、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。35年3月、同学校を卒業し、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。在学中の40年9月、新制作派協会第5回展に「臥せるトルソ」が初入選。41年12月、同学校を繰り上げ卒業、同窓に建畠覚造がいた。翌年2月、福井県鯖江の陸軍歩兵第36連隊に入営、幹部候補生の訓練を受けた後南太平洋ニューブリテン島ラバウルに配属。45年8月、敗戦をラバウルでむかえる。抑留生活の後、46年6月復員、京都に居住、7月にはマネキン会社七彩工芸を創業。51年9月、行動美術協会第6回展の彫刻部に「航海」を出品、会員となり、以後同協会展を作品発表の場とする。54年から一年間ほどパリを中心に、ヨーロッパに遊学。58年9月、行動美術協会展第13回展に「飛翔する形態」、「発掘した言葉」を出品。「発掘した言葉」は、過酷な戦中期の体験、記憶を造形に昇華させ、「蟻の城」シリーズへの展開を導いたことからもこの作家の創作の基点となる代表作となった。同時に戦後彫刻のなかでも、抽象表現の可能性と合成樹脂等の戦後に開発された素材の多様化を予知させる独自の位置を占めている。59年9月、第5回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として「発掘した言葉1」等4点を出品。61年4月、「蟻の城」(1960年)に対して、第4回高村光太郎賞を受賞、同月、依頼を受けて制作にあたっていた東京上野の東京文化会館大ホールの音響壁面と緞帳が完成。同年7月、創設に尽力した第1回宇部市野外彫刻展が開催され、選考委員として出品。62年6月、第31回ベニス・ビエンナーレの日本代表に選ばれ、「蟻の城Ⅰ」等7点出品。68年10月、神戸須磨離宮公園第1回現代彫刻展が開催され、運営委員を務める。73年6月、第1回彫刻の森美術館大賞の審査委員。80年9月、初の個展となる向井良吉彫刻展(東京、現代彫刻センター)を開催、「ヴァイオリン・チェロ」等11点を出品。81年3月、第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年4月、武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科教授となる(88年に定年退職、名誉教授となる)。1989(平成元)年5月から11月まで、三重県立美術館、伊丹市立美術館、神奈川県立近代美術館を巡回した「向井良吉展」が開催され、55年制作の「アフリカの木」以後の戦後の代表作62点と新作12点を中心にした個展が開催された。2000年2月には、「向井良吉展」が世田谷美術館において、彫刻作品の代表作64点をはじめ、その多方面の創作活動を跡づけるために大型壁面レリーフ1点、デザインを担当したタペストリー7点、舞台装置のマケット11点、陶磁器等によって構成された本格的な回顧展が開催された。日本における戦後彫刻から現代彫刻の展開のなかで、歴史を生き抜いて築いた思想と造形表現の問題を作品に結実させた点で、良質な面を確実に残した彫刻家であった。

濱田台兒

没年月日:2010-09-01

日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

鈴木重三

没年月日:2010-09-01

近世国文学・浮世絵研究者の鈴木重三は9月1日午後6時23分、東京都目黒区の病院で死去した。享年91。1919(大正8)年3月30日東京市麻布区霞町(現、東京都港区西麻布)に生まれる。幼少の頃より芝居を好み、合巻(江戸時代後期に流行した草双紙、作者では山東京伝、曲亭馬琴など、絵師では豊国、国貞、国芳などが手がけた)など文芸に親しみ、その後の研究の素地を形成した。1939(昭和14)年、東京帝国大学に入学するが3年で戦時中の繰り上げ卒業となり、陸軍に応召されて出征、46年復員、翌年から浦和市立高等学校に勤務した。51年より国立国会図書館に奉職、84年に司書監で退官ののち、白百合女子大学文学部教授として教鞭をとった。生涯にわたって戯作など江戸時代の絵入版本と、関連する浮世絵との考察を数多く手がけたが、研究に着手した頃、こうした分野は、文学史からも美術史からも考察の対象外とされていた感があり、鈴木の業績は先駆的な研究となり、その後の研究の礎となった。70年刊行の『広重』(日本経済新聞社)は、多種多様な作品と資料を網羅し、広重の人物像に迫る大著である。また企画・編集を行った全集・画集類も多く、『浮世絵大系』(集英社)、『浮世絵聚花』(小学館)などがある。一方、絵本や合巻の底本の吟味、校閲、解説などを数多く手がけ、企画・編集に携わった主な書籍には『近世日本風俗絵本集成』(臨川書店)、『北斎読本挿絵集成』(美術出版社)、『山東京伝全集』(ぺりかん社)、『馬琴中編読本集成』(汲古書院)、『偐紫田舎源氏』(岩波書店)、『葛飾北斎伝』(岩波文庫)などがあり、いずれも幅広い研究の基礎資料となっている。また79年刊行の『絵本と浮世絵 江戸出版文化の考察』(美術出版社)は近世文学についての研鑽と浮世絵に対する鋭い観察眼によってなされた著作集である。85年刊行の『近世子どもの絵本集』(岩波書店)では毎日出版文化賞特別賞を受賞している。また1992(平成4)年の『国芳』(平凡社)は近世文学研究の豊富な蓄積を骨子に、国芳作品の集大成として結実させた。さらに2004年刊行の『保永堂版 広重東海道五拾三次』(岩波書店)では、周到なる調査をもとに、可能な限りの初期の摺を厳密に選定して資料とともに掲載している。同書は著名な同作品の図版の決定版であるとともに、この作品が広重の上洛を契機としたものではなく、従来から知られていた『東海道名所図会』に加え十返舎一九の『続膝栗毛』を参考に制作されたことを、詳細な挿図とともに明らかにしている。最晩年に至っても研究意欲は衰えることなく、既発表の論文による『絵本と浮世絵』の改訂版のために、最後までその訂正加筆に努められていた(ぺりかん社より刊行予定)。鈴木は、片岡球子〈面構 浮世絵師歌川国芳と浮世絵研究家鈴木重三先生〉(第73回院展出品作、1988年、北海道立近代美術館蔵)にその姿が描かれており、〈面構〉シリーズに唯一とりあげられた当世人物である。その縦2m、横3.7mを超える大画面には、国芳の三枚物「七浦大漁繁昌之図」の図様を背景として、国芳と背広姿の鈴木が配されている。76年頃から鈴木は片岡の浮世絵研究の相談役として交流があり、画中の「七浦大漁繁昌之図」も鈴木の所蔵作品を参考にしたという(土岐美由紀「インタビュー 鈴木重三=片岡球子先生との交流について」『氷華(北海道立旭川美術館だより)』82、2010年、および『片岡球子展』図録、札幌芸術の森美術館・北海道立旭川美術館、2010年)。没後「鈴木重三先生を偲ぶ会」が国際浮世絵学会の主催で行われ、その際の配布物の表紙に、片岡による鈴木の写生が載せられている。

大高正人

没年月日:2010-08-20

建築家の大高正人は、8月20日午後6時35分、老衰のため死去した。享年86。1923(大正12)年9月8日、福島県田村郡三春町に生まれる。44年旧制浦和高等学校を卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。47年に卒業後、同大学院に進み、49年修了。同年に前川國男建築設計事務所入所。62年に独立して大高建築設計事務所を設立、同代表取締役。81年から1991(平成3)年まで計画連合代表取締役。60年に東京で開催された世界デザイン会議に向けて川添登を中心に結成された「メタボリズム・グループ」に参加、59年に発表した「海上帯状都市」などの提案を行った。日本建築学会都市計画委員会に62年に設置された人工土地部会での検討にも参加し、その成果は、大高の設計により68年に第1期工事が竣工した「坂出人工土地」として結実した。コンクリートの人工地盤を設けて下部を駐車場と商店街などに利用し、上部に住宅団地とオフィス、歩行者空間を設けるというこの再開発計画は、戦後日本が直面していた都市の諸問題を解決する画期的手法として67年に日本都市計画学会石川賞を受賞した。その後も、原爆によって生じた木造スラムの再開発計画である「広島市基町・長寿園高層アパート」(1972~76年竣工)の設計を手掛け、ここでも人工地盤や屋上庭園といった計画手法や建設コスト削減のための工夫を試みている。これらの実験的計画は結局、経済効率の悪さや法制度との不整合などから一般解とはなりえなかったものの、メタボリズムの建築家たちによる都市計画的提案の大半が構想のみに終わった中で大高の計画が長年をかけて実現に漕ぎつけたことは、その地道な問題解決能力のなせる技であっただろう。一方、単体の建築作品としては公共建築を得意とし、千葉県文化会館(1968年、日本建築学会(作品)賞)や栃木県議会議事堂(1969年、芸術選奨文部大臣賞)、群馬県立歴史博物館(1980年、毎日芸術賞)をはじめとする数多くの建物を設計した。その活動には、他のメタボリストのような派手さこそなかったが、大高の作品から、「坂出人工土地」のほか、「千葉県立中央図書館」(1968年)、「花泉農協会館」(1965年)の計3件が、代表的な現存の近代建築として日本におけるDOCOMOMO150選に選出されていることが示すように、戦後日本の一時代を画した建築家の一人ということができる。中央建築審査会委員(1974~82年)、建築審議会委員(1975~93年)、日本建築学会理事(1976~77年)、都市計画委員会委員長(1980~82年)、日本建築士会連合会副会長(1988~98年)等を歴任。上記以外の主な受賞歴等として、88年紫綬褒章。2000年日本建築学会名誉会員。03年日本建築家協会名誉会員。同年旭日中授章受章など。著作に、川添登と共編による『メタボリズムとメタボリストたち』(美術出版社、2005年)がある。

田中文男

没年月日:2010-08-09

大工棟梁として活躍してきた田中文男は肺癌のため8月9日死去した。享年78。1932(昭和7)年千葉県に生まれ、46年尋常小学校高等科を卒業し、千葉県で大工棟梁に弟子入り、53年年季奉公を終えて上京し、重要文化財根津神社修理工事の現場で働く。早稲田大学工業高等学校(定時制)で学びながら、奈良県今井町や秋山郷、滋賀県湖北地方の民家調査に参加。太田博太郎や大河直躬など建築史研究者の活動に協力する。58年に田中工務店、次いで62年に株式会社真木建設設立。以後文化財建造物の保存修理工事に請負として携わる。71年重要文化財旧花野井家住宅解体移築修理工事、79年東京都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂保存修理工事、82年重要文化財泉福寺薬師堂保存修理工事、83年東京都指定有形文化財武蔵御嶽神社旧本殿保存修理工事など多数の文化財建造物の保存修理工事に功績を残す。一方で工務店経営の傍ら82年には宮沢智士らと「普請帳研究会」を発足させ、建築生産や技術についての調査研究を進め、季刊の機関誌「普請研究」を10年40号にわたって発行した。「普請研究」は技術の実務と学問を橋渡しする田中の姿勢を体現し、建築史研究の深化発展に寄与するとともに多くの技術者や研究者の発表の場となり、後進の育成の場ともなった。1991(平成3)年には建築施工の実務を後進に譲り、有限会社真木設立。佐賀県吉野ヶ里遺跡の北内郭の復元設計などに携わり、95年財団法人国際技能工芸振興財団設立発起人、96年専門学校富山国際職藝学院オーバーマイスター就任、ベトナム・フエ明命帝陵修復プロジェクト現地指導。業績は文化財に止まらず、現代建築の施工にも足跡を残した。初期には60年宮脇檀設計による銀座帝人メンズショップの店舗改装や66年同設計者によるVANジャケット石津謙介の別荘「もうびぃでぃっく」の施工、その後は自身の考案による校倉構法や文化財修理の経験を生かした民家型構法の開発による高品質住宅の提案を行った。一般には肩書きを宮大工と呼ばれることが多く、実際に社寺建築を多く手がけていたが、興味や能力はそこに止まらず、プロデューサー、コーディネーターとして非凡な才能を発揮した。実務を通して培った幅広い知識と理論に裏打ちされた交友関係は分野を越え、建築史研究者、文化財関係者から建築家、ファッションデザイナー、林業家まで非常に幅広かった。豪放磊落さと人を気遣う細心さを併せ持つ希有の人物であった。

陰里鉄郎

没年月日:2010-08-07

美術史研究者で美術評論家の陰里鉄郎は8月7日、心不全ため横浜市の病院で死去した。享年79。1931(昭和6)1月1日、長崎県南松浦郡岐宿村川原(現、五島市)に医師であった父陰里壽茂、母せいの次男として生まれる。小学校低学年の時、同県南松浦郡生月島に転校。長崎県立猶興館中学に入学、終戦後同学校は高等学校となり、49年3月に卒業。50年4月、日本大学教養学部医学進学コースに入学。52年3月、同大学教養学部修了。同年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。56年3月、同大学同学部を卒業、同年4月より芸術学科副手となる。59年4月、同大学美術学部助手となる。62年7月、神奈川県立近代美術館学芸員となる。同美術館採用後、当時副館長であった土方定一の命により同年7月開催の「萬鉄五郎展」を担当、以後土方より薫陶を受けることになり、本格的に日本近代美術史研究をはじめる。65年1月、同美術館の「司馬江漢とその時代」展を担当し、同年4月より東京国立博物館学芸部美術課絵画室に研究員として転出。66年4月、東京国立文化財研究所美術部第二研究室に異動。研究所在職中は、はじめに上記の美術館において担当した萬鉄五郎研究に傾注し、実証的な作家研究の成果として『美術研究』に「萬鉄五郎―生涯と芸術」(一)(255号、1968年1月)~(五)(290号、1973年11月)を連載。並行してその研究領域は、司馬江漢、石川大浪、亜欧堂田善、川原慶賀等の江戸洋風画から、明治、大正期の美術まで広範囲になっていった。個別な論文等の他に画集等の編著も数多く、主要なものに下記のものがある。『近代の美術29 萬鉄五郎』(至文堂、1975年1月)、『日本の名画5 黒田清輝』(中央公論社、1975年)、『巨匠の名画10 青木繁』(学研、1976年)、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』(小学館、1977年)、『近代の美術50 村山槐多と関根正二』(至文堂、1979年1月)、『夏目漱石・美術批評』(講談社、1980年)、東京国立文化財研究所編『黒田清輝素描集』(日動出版部、1982年)。こうした作家等の研究のなかでも、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』は、研究所が近代美術研究の根幹とする黒田清輝を中心に、同時代のヨーロッパ美術まで視野に入れながら考察した代表的な研究成果であった。82年5月、三重県立美術館館長に就任。同美術館には、設立準備から関わっていたことから、要請にもとづく転出であった。同美術館では、運営を主導して作品収集の基本方針の策定にあたり、それは、下記のようにそれまでの研究者としての専門性を反映した方針であった。(1)江戸時代以降の作品で三重県出身ないし三重にゆかりの深い作家の作品、(2)明治時代以降の近代洋画の流れをたどることのできる作品、また日本の近代美術に深い影響を与えた外国の作品、(3)作家の創作活動の背景を知ることのできる素描、下絵、水彩画等。この方針は、企画展の方向にもなっており、82年開館記念展として9月「三重の美術・現代」、10月「日本近代の洋画家たち展」開催をはじめ、館長在任中は展覧会の企画に積極的にあたり、日本近代美術、それに関連した海外展、また現代美術展を順次開催していった。とりわけ日本の近代美術では、「藤島武二」展(1983年4月)、「萬鉄五郎展」(1985年6月)、「橋本平八と円空展」(1985年9月)、「黒田清輝 生誕120年記念」展(1986年5月)、「関根正二とその時代展」(1986年9月)、「石井鶴三展」(1987年6月)、「鹿子木孟郎展」(1990年9月)等、いずれも今日にいたるまで基礎的、基本的な研究となっている。また、特色ある企画展として、「井上武吉展」(1987年1月)、「飯田善国展」(1988年1月)、「湯原和夫展」(1988年9月)、「向井良吉展」(1989年5月)、「多田美波展」(1991年8月)、「清水九兵衛展」(1992年5月)、「佐藤忠良展」(1994年4月)等を開催したが、これらは60年代に頭角を現した陰里とほぼ同世代の彫刻家の個展であり、戦後から現代美術における彫刻、立体表現を検証する点でも、他館にみられない意義ある企画であった。こうした数々の企画展の中で、「アーティストとクリティック 批評家・土方定一と戦後美術展」(1992年8月)は、かつて薫陶をうけた土方定一の批評的な視線をとおして戦後美術を跡づける、当時としてはユニークな試みであり、同時に土方へのオマージュでもあった。同美術館を退職後の1994(平成6)年4月、名古屋芸術大学美術学部教授となり、また同月横浜美術館館長に就任。98年4月、女子美術大学大学院美術研究科教授となる。2007年同大学を退職。陰里は、江戸洋風画から近代美術まで広範囲にわたる美術史研究のかたわら、美術評論においても現代美術を対象に積極的に執筆活動を行った。そうしたなかで培われた美術に関する高い見識と時代に対する深い洞察力、さらに何事にも平衡であろうとする姿勢は、美術館運営に如何なく発揮された。1980年代以降に誕生した多くの地方美術館のなかでも、三重県立美術館をひとつの成功したかたちにまで育て上げた「美術館人」としての功績は多とすべきである。その主要な著述は、『陰里鉄郎著作集』全3巻(一艸堂、2007年)に収録されている。

山田正亮

没年月日:2010-07-18

画家の山田正亮は7月18日、胆管癌のため死去した。享年81。1929(昭和4)年1月1日、東京に生まれる。本名正昭。43年、陸軍兵器行政本部製図手養成所に入所。44年、同養成所助教となり、同年創立の都立機械高等工業学校第二本科機械科に入学。翌年終戦にともない陸軍兵器行政本部を退職。50年、東京都立工業高等専門学校卒業。53年に、長谷川三郎に師事。この頃より、東京京橋にあったGKスタジオに勤務、主にデザインの仕事に従事。出品歴としては、49年2月の第1回日本アンデパンダン展に出品、52年、2月第4回日本アンデパンダン展、同年10月、第16回自由美術展に出品。58年11月、教文館画廊(東京)で初個展開催。64年、東京の上北沢にアトリエを設ける。初期から1950年代には、セザンヌ、キュビスムを意識した静物画を中心に制作がつづけられた。50年代中ごろにモンドリアンを想起させるように抽象化がすすめられ、そのなかで1956年より「Work」のシリーズがはじまった。ジョーゼフ・アルバース、フランク・ステラの表現にも似た、画面に規則的な矩形の色面が占める作品を経て、ストライプに覆われた画面に到達した。ストライプの絵画作品は、ある規則性に添ったものではなく、抑制された色彩の選択と画面全体の均一性を志向しながらも、色彩の帯は、微妙に揺れ、また絵の具の滴り、厚み等、きわめて感覚的で繊細な表情をつくりあげていた。ミニマルアート以後の絵画表現として、早くから一部の識者から注目されていた。81年、「1960年代―現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)に出品。80年代に入り、60年代のストライプの絵画作品の評価が高まり、あわせて79年以降、毎年(97年まで)開催された個展(佐谷画廊)等において発表される新作は高い評価を受けるようになった。また公立美術館等における戦後美術、もしくは現代絵画の企画展にしばしば出品を要請されるようになり、日本の現代絵画を語る際に、山田の作品は重要な位置を占めるようになった。同時期の作品は、青緑色の大画面のなかの引かれたグリッドをベースにして、グリッドの直線に添いつつ、捕らわれることのない柔軟な線と鮮やかな色彩が覆う構成がとられていた。87年、第19回サンパウロ・ビエンナーレに出品。90年、『山田正亮作品集 WORKS』(美術出版社)を刊行。95年に、およそ40年間にわたってつづけられた「Work」のシリーズを終えた。その後、2001年に「Color」の連作を発表した。このシリーズの作品は、単一の色彩が画面を覆っているが、画面の端に表面下に塗られた別の色相をのぞかせることで画面の重層性を示し、絵画が薄い表面ではなく、ただならぬ平面であることを観る者に感じさせるものであった。2005年6月、府中市美術館にて「山田正亮の絵画 〈静物〉から〈Work〉―そして〈Color〉へ」展開催、初期の静物画からストライプの絵画作品、さらに最新作として「Color」シリーズ、139点からなる個展が開催された。山田は、一切の組織、運動に与することなく、また世界の流行に流されることなく、自律的な思考を深めながら、現代の日本絵画の可能性を示すことができた美術家であった。

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