白籏史朗

没年月日:2019/11/30
分野:, (写)
読み:しらはたしろう

 山岳写真家の白籏史朗は11月30日、腎不全のため静岡県伊豆の国市内の病院で死去した。享年86。
 1933(昭和8)年2月23日山梨県北都留郡広里村(現、大月市)に生まれる。48年大月東中学校を卒業。家庭の事情で進学を断念し家事を手伝っていたが、写真家を志望するようになり、51年4月に上京、岡田紅陽に師事。内弟子として東京・渋谷のスタジオに住み込み、撮影・暗室の助手をはじめあらゆる雑用をこなしながら写真技術を修得した。55年8月に岡田のもとを辞し、DPE下請け業の手伝いや写真スタジオ勤めを経て、57年8月フリーランスの写真家となる。
 初期はバレーの舞台写真、結婚式のスナップ、業界誌のための人物写真撮影等、さまざまな仕事で生計を立てながら山岳写真にとりくみ、山岳雑誌『山と高原』1960年7月号に初めて南アルプス甲斐駒ヶ岳で撮影した作品が掲載される。以後、『山と渓谷』、『岳人』等、主要な山岳雑誌に作品が掲載されるようになり、62年4月に山岳写真家として独立を宣言した。
 山岳写真に専念するようになってからは、平均して年間150日以上の入山を重ね、ホームグラウンドとなった南アルプスをはじめ、富士、尾瀬、北アルプス等、国内の主要山域の撮影にとりくんだほか、初の海外取材となった66年のアフガニスタン、ヒンズー・クシュ山脈への撮影行以後は、70年のネパールヒマラヤ、71年のヨーロッパアルプス等、海外渡航を重ね、各地の高峰に取材した。この間、山岳雑誌やカレンダーへの作品掲載のほか、63年には初の個展(新宿画廊、東京)を開催、また同年初の写真集『尾瀬の山旅』(朋文堂)を上梓。以後、半世紀を越えるキャリアを通じ、数多くの展示や山岳写真集、ガイドブック、高山植物を主題とする図鑑や写文集への執筆・寄稿等、山をめぐる広範な仕事を展開した。
 白籏は、従来趣味的に見られていた山岳写真を、戦後の登山ブームをうけて拡大した山岳雑誌の口絵などの需要に応える、高度な技術に裏打ちされた専門領域の仕事へと引き上げた最初の世代の一人であり、67年には日本山岳写真集団の結成にも参加している(1982年に退団)。また自身も先鋭的な登山家集団として知られた第2次ロック・クライミング・クラブの同人となるなど、すぐれた登山家であり、高山や雪山等、過酷な環境での撮影は、写真技術だけでなく、高度な登山技術にも裏打ちされていた。
 主要な写真集に国内の山を撮影した『わが南アルプス』(朝日新聞社、1976年)、『尾瀬幻想』(朝日新聞社、1980年)、『北アルプス礼讃』(新日本出版社 2001年)、『富士百景』(山と渓谷社、2009年)等、海外に取材したものとしては、いずれも国際出版となった『ヨーロッパアルプス』(山と渓谷社、1978年)、『Nepal Himalaya』(山と渓谷社、1983年)、『The Karakoram:mountains of Pakistan』(山と渓谷社、1990年)、『Rocky Mountains』(山と渓谷社、1997年)等。長く雑誌に連載を持つなど文章も多く発表し、主な著作に『青春を賭けて値するもの』(大和書房、1971年)、『山と写真わが青春』(岩波ジュニア新書、1980年)、『山、わが生きる力』(新日本出版社、2003年)等がある。
 また出身地の大月市に2013(平成25)年に開設された白籏史朗写真館のほか、白籏作品を展示する施設に南アルプス山岳写真館・白〓史朗記念館(山梨県南巨摩郡早川町)、白籏史朗尾瀬写真美術館(福島県南会津郡檜枝岐村)、南アルプス白旗史朗写真館(静岡県静岡市)がある。
 77年に日本写真協会賞年度賞を受賞(展示及び写真集で発表された「わが南アルプス」、「尾瀬」、「富士山」に対し)、2000年にはスイス、アルベール1世記念財団よりアルベール山岳賞を受賞している。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(503-504頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「白籏史朗」『日本美術年鑑』令和2年版(503-504頁)
例)「白籏史朗 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041111.html(閲覧日 2024-04-28)

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