田中信太郎

没年月日:2019/08/23
分野:, (彫)
読み:たなかしんたろう

 彫刻家の田中信太郎は、胃癌のため日立市の病院で死去した。享年79。
 1940(昭和15)年5月13日、東京都立川市に生まれる。日立に移住した実家は土建業を営んでおり、物を作る環境を肌で感じていた。58年茨城県立日立第一高校卒業。在学中は主に人物を油彩で描いていた。同年上京しフォルム洋画研究所に学ぶ。59年二紀展に入選、画面に廃品を用いたアッサンブラージュ作品だった。60年から読売アンデパンダン展に出品(1963年まで毎回)。また同年からネオ・ダダ・オルガナイザーズの活動に参加した。この頃はサウンド・オブジェに取り組む。65年椿近代画廊(新宿)で初個展、トランプ記号を拡大した切り抜きとキャンバスを組み合わせ、蛍光塗料も使用した。66年色彩と空間展(日本橋、南画廊)で「ハート・モビールNo.1」を発表。68年には蛍光塗料や蛍光灯を用いたライト・アートの作品「マイナーアートA.B.C」を発表、このシリーズは様々な賞を受賞する。68年の個展(銀座、東京画廊、以後個展は同画廊を主とする)では、ガラス、ハロゲン光、ピアノ線を使った本邦最初期のインスタレーション作品「点・線・面」をみせる。69年パリ青年ビエンナーレに2カ月間の船での移送中に自重で固まる土の作品「凝固:パリ」を出品。70年東京ビエンナーレに黒色のポリウレタンを床に引き詰めた「無題」を出品。71年サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年から横浜のBゼミスクールで演習ゼミの講師を務める(1982年まで)。72年ヴェネチア・ビエンナーレでは日本館のピロティに12点によるインスタレーションを構成、会期初め壁面に立てかけたアクリル板の作品がずり落ち中に挟まれていた金色の鉄粉数十キロは宙に舞う。また、この頃までに細長い真鍮による柱状のシリーズが展開されている。76年第7回中原悌二郎賞優秀賞受賞、文化庁在外研修員としてニューヨーク、パリに滞在する。83年前後数年は病のため発表は控え目になる。85年第3回東京画廊「ヒューマンドキュメンツ’84/’85」に「風景は垂直にやってくる」を出品。これ以降ミニマルな幾何学的な構成よりも、流れるような色彩が施された木彫や大理石による、有機的な形態をもった舞台上の装置を思わせる作品を展開するようになる。88年ヒルサイドギャラリー(渋谷)で中原浩大と2人展。80年代後半から、風景をモティーフにしたときにはナイル河の三角州の形が参照され、精神的な普遍性を問うときには十字の形体が置かれ、ときに作品の先端に赤とんぼを設置するなど、自らの表現の着地点に多様な表情をもたせた。1990(平成2)年ギャルリー・ところ(銀座)で個展(1993年も)。2001年国立国際美術館(大阪)で個展。14年Bank ART1929(横浜)の岡崎乾二郎、中原浩大との「かたちの発語」展では田中は回顧展形式の展示を行った。また、60年代後半から多くのコミッションワークを手がけている。67年からのインテリア・デザイナーの倉俣史朗との交友は互いに多くの実りをもたらした。2020(令和2)年市原湖畔美術館(千葉県)で回顧展開催。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(497頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中信太郎」『日本美術年鑑』令和2年版(497頁)
例)「田中信太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041066.html(閲覧日 2024-07-13)

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