田中信太郎
彫刻家の田中信太郎は、胃癌のため日立市の病院で死去した。享年79。
1940(昭和15)年5月13日、東京都立川市に生まれる。日立に移住した実家は土建業を営んでおり、物を作る環境を肌で感じていた。58年茨城県立日立第一高校卒業。在学中は主に人物を油彩で描いていた。同年上京しフォルム洋画研究所に学ぶ。59年二紀展に入選、画面に廃品を用いたアッサンブラージュ作品だった。60年から読売アンデパンダン展に出品(1963年まで毎回)。また同年からネオ・ダダ・オルガナイザーズの活動に参加した。この頃はサウンド・オブジェに取り組む。65年椿近代画廊(新宿)で初個展、トランプ記号を拡大した切り抜きとキャンバスを組み合わせ、蛍光塗料も使用した。66年色彩と空間展(日本橋、南画廊)で「ハート・モビールNo.1」を発表。68年には蛍光塗料や蛍光灯を用いたライト・アートの作品「マイナーアートA.B.C」を発表、このシリーズは様々な賞を受賞する。68年の個展(銀座、東京画廊、以後個展は同画廊を主とする)では、ガラス、ハロゲン光、ピアノ線を使った本邦最初期のインスタレーション作品「点・線・面」をみせる。69年パリ青年ビエンナーレに2カ月間の船での移送中に自重で固まる土の作品「凝固:パリ」を出品。70年東京ビエンナーレに黒色のポリウレタンを床に引き詰めた「無題」を出品。71年サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年から横浜のBゼミスクールで演習ゼミの講師を務める(1982年まで)。72年ヴェネチア・ビエンナーレでは日本館のピロティに12点によるインスタレーションを構成、会期初め壁面に立てかけたアクリル板の作品がずり落ち中に挟まれていた金色の鉄粉数十キロは宙に舞う。また、この頃までに細長い真鍮による柱状の
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「田中信太郎」『日本美術年鑑』令和2年版(497頁)
例)「田中信太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041066.html(閲覧日 2025-03-19)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1969年10月 第3回現代日本彫刻展
- 1976年09月 第7回中原悌二郎賞
- 1988年02月 没後10周年「三木富雄をしのぶ」展開催
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