山崎つる子

没年月日:2019/06/12
分野:, (美)
読み:やまざきつるこ

 前衛美術グループ「具体美術協会」の結成に参加し、ブリキ等金属を使った立体や色彩豊かな抽象絵画を手がけた美術家の山崎つる子は6月12日に急性肺炎のため死去した。享年94。
 1925(大正14)年1月13日、兵庫県芦屋市に生まれる。本名は山崎鶴子。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進学。1946(昭和21)年、芦屋市主催の市民講座で講師として招かれた吉原治良と知遇を得、吉原の自宅で開催された絵画教室で指導を受けるようになる。48年、小林聖心女子学院を卒業。同年、第1回芦屋市美術展覧会に風景画を出品、以降毎年出品、第7回展で会員推挙、第21回展より審査委員を務める。54年、具体美術協会の結成に参加。55年、真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展(芦屋公園)では、「トタン板の鎖」を発表。以降、金属板を支持体とし、これに鏡やセロファンを貼付したり、染料やニスを塗布したり、凹凸を施し扉や窓をつくったり、照明で色彩を施す手法の作品を多く手掛けるようになる。56年、野外具体美術展(芦屋公園)では、赤い硬質ビニールを木に括って張り巡らせた蚊帳状の立体作品(1985年に再制作、「赤」兵庫県立美術館蔵)と、鮮やかな染料が施されたブリキ板が高さ3.3メートル、幅6.6メートルまで繋がれた作品「三面鏡」(2007年に再制作、「三面鏡ではない」金沢21世紀美術館蔵)を発表。50年代後半から具体がフランスの美術批評家ミシェル・タピエとの交流により、アンフォルメル絵画の代表的グループとして海外進出を果たすと、58年第6回具体展を境に、キャンバスを支持体とした平面作品にも取り組む。61年「日本の伝統と前衛」展(トリノ・国際美学研究所)に出品。63年、大阪・グタイピナコテカで個展を開催。64年、第1回長岡現代美術館賞に選抜招待。72年の解散まで具体に在籍。75年、芸術家ネットワーク「アーティスト・ユニオン」に参加。70年代後半、具体解散後しばらくたったのち、作風を一変させ、パチンコやスマートボール、動物、ビールの商標など大衆的なイメージを着想源とした作品を展開。独自の色彩やフォルムとが自由自在に横断しながら、互いに無限に関係性を持ち続けるさまは、山崎の作品に通底した特質とされる。2000年代以降は改めてブリキを支持体とした平面作品を手掛け、色彩の交錯、形態の錯綜の追求を続けた。2004(平成16)年、兵庫県芸術文化協会より亀高文子記念・赤艸社賞を受賞。
 新作を含む回顧展に「リフレクション 山崎つる子:地獄の沙汰も、色次第。」(芦屋市立美術博物館、2004年)、特別展示「山崎つる子 連鎖する旋律」(金沢21世紀美術館、2007年)がある。09年1月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが山崎の聞き取り調査を行い、同団体のウェブサイトに公開された(聞き手は加藤瑞穂、池上裕子)。
 具体のなかで中核的な位置を占めるひとりでありながら、吉原治良白髪一雄田中敦子元永定正らと比較すれば、具体以外の展覧会で作品を公にすることは限られ、80年代から始まった具体を再評価する国内外の回顧展でも山崎の作品は概してメンバーの多様な作品の一事例としての扱いにとどまってきた。金属を支持体とした作品は、制作当初の状態を維持することが難しく、これらの初期作品で現存するものが少ないことも、山崎作品がこれまで正当に評価されてこなかった要因のひとつともいわれる。90年代以降、フェミニズムあるいはジェンダー論的観点からの美術史の批判的捉え直しもあり、再評価が試みられている作家のひとりである。没後2021(令和3)年、『美術手帖』8月号、「特集・女性たちの美術史:フェミニズム、ジェンダーの視点から見直す戦後現代美術」において、日本にルーツをもち、「前衛」の時代に新たな芸術をも模索した作家として大きく取り上げられた。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(493-494頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山崎つる子」『日本美術年鑑』令和2年版(493-494頁)
例)「山崎つる子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041041.html(閲覧日 2024-04-28)

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