本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





桜井武

没年月日:2019/06/04

読み:さくらいたけし  美術評論家で、熊本市現代美術館長の桜井武は、胃がんのため熊本市内の病院で6月4日に死去した。享年75。 1944(昭和19)年1月2日、静岡県藤枝市に生まれ、66年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。同年より69年まで、東京画廊に勤務。69年から71年まで、シカゴ・アート・インスティチュートに留学。帰国後、71年から2004(平成16)年まで、英国の公的な国際交流機関であるブリティッシュ・カウンシル(東京事務所)に勤務。アート担当者として、演劇、音楽、美術等の文化事業に従事し、とりわけ英国の近代、現代美術の紹介に尽力した。その功績から在職中の91年には、大英勲章MBEを授与された。2004年に、日本美術評論家連盟会員となり、同年より08年まで、慶應義塾大学大学院の非常勤講師を勤めた。 その間に、『英国美術の創造者たち』(形文社、2004年)を刊行。同書は、それまでに雑誌、カタログ等に寄稿した評論をまとめたものだが、平易な語りで16世紀から1990年代の現代美術までを歴史的に概観した内容となっている。さらに『ロンドンの美術館 王室コレクションから現代アートまで』(平凡社、2008年)は、それぞれの美術館の特色が歴史的な背景とともにコンパクトにまとめられている。 08年4月に、熊本市現代美術館長に就任。09年、「花・風景 モネと現代日本のアーティストたち ―大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子―」展をはじめ、ジャンルや地域、時代にとらわれない同美術館の意欲的な企画展に取り組み先導した。在職中の2016年4月におこった熊本地震では、被災による休館後にいち早く復旧を指揮し、一か月後には再開した。美術館が市民の寛ぎと癒しの場であり、広範な文化活動がコミュニティー復興の契機になったことを実証し注目された。この活動をまとめた報告書『地震のあとで 熊本地震記録集』(熊本市現代美術館、2018年)の巻頭で、桜井は、「熊本市現代美術館は、美術活動を主軸に据え、しばしば美術の領域を超えて、被災した市民県民や他の文化施設と緊密に連携し、創造的復興に繋がるべく、多様なアートの活動の場となってきました。」(「熊本地震と美術館」)と記し、社会における美術館とその役割の重要性に対する確信が述べられている。14年に美術館連絡協議会理事となり、同年熊本県文化協会常務理事等に就任するなど、熊本県、熊本市の文化活動全般に関与した。 長年、英国における美術等の文化活動が、いかに社会に寄与するかを学び、実見してきた経験を背景に、熊本市現代美術館をベースに果敢に活動をつづけた美術館人であった。

本江邦夫

没年月日:2019/06/03

読み:もとえくにお  美術評論家で多摩美術大学名誉教授の本江邦夫は心筋梗塞のため6月3日急逝した。享年70。 1948(昭和23)年9月25日、愛媛県松山市に生まれる。東京の小学校にあがるが、少年期は中学2年生まで札幌と小樽ですごす。高校時代は数学や宇宙工学に興味をもった。76年東京大学人文系大学院修士課程(西洋美術史専攻)修了。同年より東京国立近代美術館に勤務。78年から1年間『美術手帖』の展評欄(東京)を執筆。81年マチス展、83年ピカソ展、87年ゴーギャン展、1989(平成元)年ルドン展といった西洋近代の作家の回顧展に携わった。テーマ展として、84年の「メタファーとシンボル」展は国内外22名の作家により、表象としての作品の傾向を体系からずれていく隠喩と根源的な象徴へ向かう二方向として捉えようとする意欲的な企画だった。また、92年の「現代美術への視点 形象のはざまに」展は、流行に追随せず80年代に活動が顕著な国内の中堅作家15名による展示をみせた。90年には国立美術館として初の漫画家の展示となった手塚治虫展、93年フランス在住の画家黒田アキ展、94年フランスで制作を続けた画家木村忠太の回顧展、95年国立美術館で現役最年少の展覧会となった辰野登恵子展を手がけた。 98年多摩美術大学教授に就任。休講はしない熱心な教員として教職に取り組む。美術館学芸員時代とは異なる方向をもったのは、公募団体展系の批評に取り組んだことだ。もとより町場の画廊を巡ることを死去する直前まで行っていたが、新たな場へ踏み出したのは、大学において団体公募展が若者たちのデビューのきっかけとなることを身近に感じたからという。コンクールの審査も数多く務め、VOCA展は開始直後からの委員を、シェル美術賞の委員も長く務めた。執筆活動も幅広くなり、頼まれた原稿は「原則ことわらない」ことを常に語っていた。2001年より09年まで府中市美術館館長(兼務)。 主要な著書として、『ポール・ゴーガン』(千趣会、1978年)、『世界版画美術全集 マティス/ブラック』(講談社、1981年、共著)、『アート・ギャラリー ゴーギャン』(集英社、1986年)、『ポール・ゴーギャン:«ノアノア»連作全版画と周辺』(伽藍洞ギャラリー、1987年)、Toeko Tatsuno Paintings(Fabian Carlsson Gallery,London,1987)、『朝日美術館 ゴーギャン』(朝日新聞社、1992年、編著)、幾何学的抽象絵画への入門書『○△□の美しさって何?』(ポプラ社、1991年、2003年増補改定され〓凡社ライブラリーから『中・高校生のための現代美術入門』として発行)、『世界美術大全集 キュビスムと抽象美術』(小学館、1996年、共・編著)、『絵画の行方』(スカイドア、1999年)、『オディロン・ルドン 光を孕む種子』(みすず書房、2003年、芸術選奨新人賞受賞)。『現代日本絵画』(みすず書房、2006年)。主な翻訳書として、『スーチン』(アルフレッド・ヴェルナー著、美術出版社、1978年)、『ドイツ・ロマン派』(フーベルト・シュラーデ著、美術出版社、1980年)、『クレー』(コンスタンス・ノベール=ライザー著、岩波書店、1992年)等がある。『月刊美術』での美術界の人々との連載対談「今日は、ホンネで」は19年7月号で134回にいたった。退官記念文集に『多摩美術大学と私 1998―2019』(多摩美術大学、2019年)がある。

ワシオ・トシヒコ

没年月日:2019/06/02

読み:わしおとしひこ  美術評論家で詩人のワシオ・トシヒコは6月2日に死去した。享年75。 1943(昭和18)年12月19日、岩手県釜石市清水町に生まれる。本名は鷲尾俊彦。高校、大学ともに國學院に学び、「ワシオ・トシヒコ」のペンネームで、サークル誌にエッセイや紀行文を発表。66年、岩手県立福岡工業高校で国語科教員となるが、詩集『星ひとつ』(私家版)を上梓したのち、翌67年、教職を辞す。東京に戻り、銀座の詩誌句集専門書店瓢〓堂の店長として働き、季刊雑誌『ピエロタ』(母岩社)を編集する傍らで、金子光晴主宰詩誌『あいなめ』同人となり、詩人として活動。72年、サトー・デザインセンター入社、毎日新聞社出版宣伝部へ出向。渋谷の古書店で矢野文夫編著『野獣派長谷川利行』(芸術社)と出会い、翌年『月刊VISION』に「闇に生き狂う魂:長谷川利行」を発表。74年から毎日グラフ別冊「一億人の昭和五十年史」、その後、毎日新聞社昭和史編集部「一億人の昭和史」シリーズの編集に従事。81年、フリーランスとなり、82年から『毎日グラフ』で美術展評を、翌年から『三彩』で書評を寄稿。これ以降、本格的に美術紙誌に参入し、精力的に執筆活動を展開。83年、美術評論家連盟会員となり、このころからコンクール展や美術家団体の公募展を審査する機会が増える。86年、六本木のギャラリー、ストライプハウス美術館で四方田草炎展を企画したことを契機に、同館で本人曰く「異色物故作家シリーズ」を企画、閉館2000(平成12)年までに高山良策、宮崎喜三、クガ・マリフ、矢野文夫らの回顧展を実施。また同ギャラリーを拠点に発足した公開講座「世紀末大学」で講師を務めた。94年には駿河台大学で、97年には女子美術大学で非常勤講師に赴任。98年、中野市が主催する長野冬季オリンピック大会国際公募「小さな絵画、大きな輪」展を企画立案、審査員を務める。04年、ノー・ウォー美術家の集い横浜展(神奈川県民ホール)に詩の作品を展示、同年結成「アピールに賛同する詩人の輪」、翌年結成の呼びかけ人となる。05年、新人具象画家の登竜門といわれる損保ジャパン美術財団・産経新聞社主催第25回選抜奨励展の審査員長となる。07年、『ワシオ・トシヒコ詩集』(土曜美術社出版販売)上梓。09年、青木繁「海の幸」会の発足に際して理事となる。晩年は、『美術屋百兵衛』で「読解・絵画鑑賞講座」、『月刊美術』で「連載わがまま絵画点評 深見東州の世界」、『月刊ギャラリー』で「評論の眼」等連載を数多くもった。 雑誌メディアが隆盛を極めた昭和の終わりから、雑誌不況といわれた平成の終わりまで、“詩人美術評論家〟のひとりとして、とりわけ異端の画家、夭折の画家の評伝を得意とし、その生き様を多くの美術愛好者に届けた。継続的なフィールドワークによって成立する同時代作家に呼応した執筆活動を展開し膨大な数の著述を残した。 著書に『具象系絵画の現在』(舷灯社、1987年)、『異色画家論ノート』(舷灯社、1989年)、『現代画家へのメッセージ50人』(生活の友社、1995年、MADO美術文庫)、編著書に『画家小泉清の肖像』(恒文社、1995年)、『矢野文夫芸術論集』(舷灯社、1996年)等がある。

川口衞

没年月日:2019/05/29

読み:かわぐちまもる  構造設計家、川口衞構造設計事務所主宰、法政大学名誉教授の川口衞は5月29日死去した。享年86。 1932(昭和7)年、福井県福井市に生まれる。55年に福井大学工学部建築学科を卒業、同年東京大学大学院数物系研究科建築学専攻に進学、57年に修士課程を修了した後、60年からは法政大学工学部建築学科において講師(後に助教授、教授)に就任し、2003(平成15)年に退任するまで長きにわたって教鞭を執った。また、64年からは川口衞構造設計事務所を主宰し、我が国の建築構造設計の第一人者として国内外を問わず様々な作品を残している。 川口は、シェル構造、テンション構造、スペースフレームなど様々な手法による大空間の構築に関して探求を続けたことでよく知られている。そうした中で最も知られている作品は、国立屋内総合競技場第一体育館(現、国立代々木競技場、1964年)であろう。建築家丹下健三と構造設計家坪井善勝がコンビを組んだこの大作において、川口は東大坪井研究室の一員として、代々木競技場のデザインを特徴づける屋根の構造等を担当している。その後は自らの構造設計事務所の業績として、日本万国博覧会お祭り広場大屋根(1970年、建築設計は丹下健三)、日本万国博覧会富士グループ館(1970年、建築設計は村田豊)、西日本総合展示場(1977年、建築設計は磯崎新)、バルセロナ・オリンピックのために建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス(1992年、建築設計は磯崎新)等を手掛け、構造設計者として世界的な名声を確立した。 また、海外でも数多くの作品を残し、国際シェル・空間構造学会会長(2000~06年)を務め、また01年には同学会のトロハ・メダルを受賞するなど国際的にも広く知られている。後年には木構造も多く手がけたほか、ゲノム・タワー(2002年)のように構造デザインの粋というべき作品を残している。こうした幅広い業績に対して、「シェル・空間構造の設計法の確立と構造に基づく建築デザインに関する貢献」として、日本建築学会大賞を受賞している(2015年)。 彼は、建築構造と造形の関係性を追求し、富士グループ館のように空気膜構造というそれまでにない構造手法を切り開いたほか、サンジョルディ・スポーツ・パレスに代表されるパンタドーム構法のように「つくり方」も含めたデザインも行なった。このように、様々な著名建築家と協働しつつ、単に建築設計者が構想したデザインを構造的に実現するという範疇を超えて、構造設計家としての独自の地位を確立したことに、川口の最大の功績があったというべきであろう。

豊福知徳

没年月日:2019/05/18

読み:とよふくとものり  彫刻家の豊福知徳は、5月18日、福岡市内の病院で死去した。享年94。長年にわたりイタリア、ミラノを拠点として活動し、厚みのある木に楕円形の穿孔を彫りめぐらせる特徴的な抽象彫刻によって知られた。 1925(大正14)年2月18日、福岡県三井郡山川村(現、久留米市)に生まれる。1942(昭和17)年、國學院大學に進学し国文学を志すが、44年に志願して陸軍特別操縦見習士官となる。敗戦を迎え故郷に戻り、手作りのパイプに彫り物をしているところが近所の住職の眼に止まり、46年、彫刻家の冨永朝堂に紹介され師事、木彫を学ぶ。47年に第2回西部美術展に「女のトルソ」、50年、第14回新制作派協会展に「男のトルソ」を出品(以降、第16回展を除き第25回展まで出品)。 50年に上京し三鷹市牟礼にアトリエを構える。56年、「黄駻」で第20回新制作協会賞受賞。同年、鹿和子と結婚、長女夏子が誕生。58年に新制作協会展に出品した「漂流’58」で、59年に第2回高村光太郎賞を受賞。60年、東京画廊で初個展を開催。同年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレの出品者に選出され「漂流」シリーズを3点出品。1点をペギー・グッゲンハイム美術館、1点をニューヨーク近代美術館が購入し、その売り上げを旅費としてヴェネツィアに渡る。ミラノのグラッタチェーロ画廊より、1年後の個展の開催と、それまでの滞在、制作費用負担の提案を受け、ミラノに移住。画廊との契約などに際して当時ミラノ在住であった画家の阿部展也の助けを借り、以後交友が始まる。ルーチョ・フォンタナ、エンリコ・カステッラーニといった同時代の作家を意識しながら抽象彫刻への飛躍を目指し模索する中で、板の表と裏から彫ったくぼみの重なりによる穴という、豊福の代名詞となる表現にたどり着く。同地で制作をつづけ、カステッラーニ、フォンタナ、ピエロ・マンゾーニらと親交を結ぶ。また日本から移住していた彫刻家の吾妻兼治郎、建築家の白井晟一、後に造形に転じるが当時は画家であった宮脇愛子らとも交友。64年からはヴェネツィアのナヴィーリオ画廊と契約を結んだ。61年、国際コンペティション「建築と美術」(コペンハーゲン)に建築家の河原一郎と応募し第3賞受賞。64年、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)でウィリアム・フリュー記念賞を受賞。同年、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に「火」、「風」、「水Ⅰ」、「空Ⅰ」、「識Ⅰ」等を出品。これ以降、国際展への出品多数。78年、公立美術館での初回顧展となる「豊福知徳展」(北九州市立美術館)開催。同展図録において美術批評家の河北倫明は豊福の彫刻を、木とノミによる手仕事としての師・冨永朝堂譲りの側面と、複雑な空間表現を探る抽象彫刻としての側面に着目し、現代彫刻の中に個性的通路を開いたと評した。同年、第10回日本芸術大賞受賞。83年、久留米市中央公園に石組みの噴水「石声庭」を設置。84年、同作で第9回吉田五十八賞受賞。1993(平成5)年、紫綬褒章受章。96年、博多港中央埠頭に鋼のモニュメント「那の津往還」を設置。2001年、旭日小綬章受章。05年、第13回福岡県文化賞受賞。18年、豊福知徳ギャラリーが福岡市内にオープンした。東西の骨董収集熱が高じ、『愉しき西洋骨董』(新潮社、1984年)を出版した。

黒崎彰

没年月日:2019/05/14

読み:くろさきあきら  版画家の黒崎彰は、5月14日、死去した。享年82。職人との協働という浮世絵の伝統を復活させ、様々な手法によって「版」の魅力を追求した黒崎は、現代日本を代表する版画家として「北斎の孫」とも呼ばれた。 1937(昭和12)年1月10日、満州国の大連に生まれる。翌年、母とともに帰国し神戸に住まう。中学生の頃より芦屋市の新制作洋画研究所で伊藤継郎、小磯良平にデッサンや油彩画の指導を受けたのち、京都工芸繊維大学意匠工芸学科に進学。在学中は古書店通いに明け暮れ、浮世絵の魅力に開眼する。62年、京都工芸繊維大学を卒業。65年、初個展開催(ギャラリーカワチ、大阪市)。出品作品はパステルと油彩画であったが、開催直後に友人の詩集の表紙を木版で作ったことをきっかけに、版画家となることを決意する。京都の擦り師達から技法を学び、モノクロームから色を重ね刷りする重層法、色数だけ版をつくる分解法へ進み、色面をダイナミックに対比させる作風に至る。67年、第41回国画会展新人賞受賞。69年、「寓話69」が文化庁買い上げとなる。71年から、摺り師の内山宗平との協働による制作を始める。 70年に第3回クラコウ国際版画ビエンナーレで3席、メダル賞、ワルシャワ国立美術館買上賞を受賞。同年、第7回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。国際展への出品と受賞を重ね、73年のワシントン州立大学での指導以降、各地で講演・技術指導を行う。73~74年、文化庁在外芸術家研修員としてハーバード大学、ハンブルク造形芸術大学に派遣され、映像、写真製版の使用といった新たな手法を学ぶ。また西洋の多色木版画に触れたことを契機として版画史研究に取り組み、『版画芸術』誌上で「西欧多色木版画研究序説」(1976~79年、全10回)を連載。『世界版画全史』(阿部出版、2018年)はこうした版画研究の集大成といえる。80年に韓国に赴き、同地の手漉き紙を知ったことから紙そのものによる表現を追求したペーパーワークの制作を開始する。82年には自らキュレーターを務めた「現代紙の造形・韓国と日本」展を国立ソウル近代美術館で開催した(翌年京都でも開催)。また1992(平成4)年にムンク美術館の助成を受けてオスロ―に滞在し、ムンクの使った和紙について研究した(「Moonshine 月光―E.ムンクの色彩木版画における用紙について―」『京都精華大学紀要』4、1993年)。著書(単著)に『アートテクニック・ナウ13 黒崎明の木版画』(川出書房新社、1976年)、『新技法シリーズ56 現代木版画』(美術出版社、1977年)、『日本の工芸8 紙』(淡交社、1978年)、『新技法シリーズ152 現代木版画技法』(美術出版社、1992年)、『木版画に親しむ』(日本放送出版協会、1993年)、『版画史解剖―正倉院からゴーギャンへ―』(阿部出版、2002年)、『世界版画全史』(前掲)など多数。また2006年に当時までのカタログレゾネとなる『黒崎彰の全仕事』(阿部出版株式会社)が出版される。 63年から71年まで近畿大学建築学科講師、71年から京都工芸繊維大学講師、助教授を経て81年より同教授。83年、ハーバード大学客員教授、ボストン美術館大学客員講師。87年より京都精華大学美術学部教授。2000年紫綬褒章受章。

関根伸夫

没年月日:2019/05/13

読み:せきねのぶお  「もの派」を代表する美術家の関根伸夫は5月13日、米国・カリフォルニア州の病院で死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月12日、大宮市(現、さいたま市)に生まれる。父は埼玉県庁職員、母は小学校教諭、母の弟は中学で美術教諭。5人兄姉の三男。埼玉県立川越高校に入学、美術部に入部。同世代の部員に長澤英俊、中野武夫らがいた。浪人時代を経て、62年多摩美術大学に入学。学部時代に一度、新制作美術協会展に出品したが落選。65年に斎藤義重が油絵学科教授に、翌年には高松次郎が同学科講師に着任、同大学大学院を出る68年まで、この二人に師事。人が椅子に腰かけている情景や人が階段に並んでいる情景をスライドにてキャンバスに投影し、鉛筆で人の輪郭のみを描写する手法によるシリーズなど、視覚的なトリックを導き出す仕組みを持つ一連の作品を展開。67年、最初の展覧会「個展個展」展(新宿・椿近代画廊、小林はくどうとの二人展)を開催、同年第11回シェル美術賞展で佳作賞受賞。68年、トリックス・アンド・ヴィジョン展(銀座・東京画廊、同・村松画廊)に「位相No.4」を発表。同年、第8回現代日本美術展のコンクール部門に「位相No.6」が入選、コンクール賞受賞。同年10月、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で、大地に円柱型(深さ2.6m、直径2.2m)の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いた作品「位相-大地」を発表、朝日新聞社賞受賞。関根は当時、「現代の美術は結局のところ新しい空間の解釈法を発見もしくは発明するしかない」と考えており、最も現代的で柔軟な空間の認識が可能であった位相幾何学に基づいた思考実験として、小清水漸、吉田克朗、上原貴子、櫛下町順子を制作助手に、本作品を制作。しかしながら、関根自身と小清水らは、その空間認識の実験の意図をはるかに越えた、穴と屹立する土の物質感に圧倒されたという。この作品は、後に「もの派」誕生の契機とされ、日本現代美術における転回点と評されることとなる。同年、第5回長岡現代美術館賞を「位相-スポンジ」で受賞。69年、銀座・東京画廊での初個展を開催、第1回現代国際彫刻展(箱根彫刻の森美術館)でコンクール賞受賞。また同年、第6回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)では東野芳明コミッショナーの元、高松次郎、田中信太郎、関根、成田克彦と結成した「ボソット・グループ」で参加、団体賞受賞。70年大阪万博、三井グループ館に「位相-大地」を再制作。70年、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表としてステンレスの柱の上に自然石を置いた作品「空相」を発表、その後2年間のヨーロッパ滞在。帰国後、73年に株式会社環境美術研究所を設立。奥久慈憩いの森(1979年)、東京都庁舎シティーホール前「水の神殿」(1991年)、多磨霊園のみたま堂(1993年)など、国内外で数多くのモニュメントやパブリック・アートを手がける。1996(平成8)年、「「位相-大地」の考古学」(西宮市大谷記念美術館、図録編集=篠雅廣)で「位相-大地」誕生の状況や事実関係を関係者の証言や当時の資料によって掘り起こされた。2008年、多摩川アートラインプロジェクトの一環で田園調布せせらぎ公園にて「位相-大地」が再制作された。10年ころ上海へ、12年ころロサンゼルス近郊へ移住。14年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが聞き取り調査を行い、ウェブサイトに公開(聞き手=梅津元、加治屋健司、鏑木あづさ)。没後2019(令和元)年、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(埼玉県立近代美術館)では関根伸夫資料(アーカイブズ)を展示。20年1月12日に「関根伸夫さんを偲ぶ会」(御茶ノ水・学士会館、発起人=小清水漸)が執り行われ、『追悼 関根伸夫』(多摩美術大学)が配布された。 作品集に『関根伸夫1968-78』(ゆりあ・ぺむぺる工房、1978年)、関根伸夫+環境美術研究所作品集『風景から広場へ:環境装置としての美術』(商店建築社、1983年)、『風景を刻む』(プロセス・アーキテクチュア社、1987年)、『位相絵画』(環境美術研究所、1987年)など、著書に『半自伝:美術と都市と絵空事』(PARCO出版局、1985年)、『風景の指輪』(図書新聞、2006年)がある。

北久美子

没年月日:2019/05/06

読み:きたくみこ  画家の北久美子は、5月6日、脳梗塞により死去した。享年73。青空を背景に精緻で色彩豊かな動植物を描き、現代の花鳥画ともいうべき油彩画によって知られた。 1945(昭和20)年12月に大阪府池田市で生まれ、大阪市に転居。高校在学中に絵画を志し、浪速短期大学(現、大阪芸術大学短期大学部)で鍋井克之に学ぶ。 66年、浪速短期大学美術科卒業。同年第20回記念二紀展に初入選し、以後毎回出品。73年、女流画家協会展初入選、以後毎回出品。74年、坂崎乙郎企画による個展開催(紀伊国屋画廊)。75年に二紀会同人に推挙され、80年より会員となる。86年、日本青年画家展優秀賞受賞。1989(平成元)年、「夢想植物園」が文化庁買い上げとなり、『北久美子作品集 夢想植物園』を刊行。1990(平成2)年、「夢想植物園…Y」で第33回安井賞展に入選、安井賞を受賞。文化庁芸術家在外研修員としてスコットランド、オランダ、フランスに特別派遣。95年、第49回二紀展文部大臣奨励賞受賞。同年、横浜市内に自宅・アトリエを構える(関東への移住はこれより早く、80年時点では東横線祐天寺駅の近く、その後、横浜市磯子区の古民家をアトリエとし、隣接する空き地の植物や鳥獣の姿に刺激を受けた)。個展の開催、グループ展への出品を重ねる。2005年、大阪芸術大学美術学科客員教授(油画コース)となり、08年より同教授。12年、長岡大学非常勤講師。同年『DOMANI・明日展45周年特別展示』に出品(国立新美術館)。16年、「北久美子」展開催(池田20世紀美術館)。

小池一夫

没年月日:2019/04/17

読み:こいけかずお  漫画原作者で大阪芸術大学教授だった小池一夫は4月17日、肺炎のため都内の病院で死去した。享年82。 1936年(昭和11)5月8日秋田県大曲(現、大仙市)に生まれる。本名俵谷星舟。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾等がある。幼少の頃から立川文庫、時代小説等を乱読した。59年中央大学大学院法学研究科修士課程修了。在学中に小説家山手樹一郎に師事する。卒業後農水省に入省するも10カ月ほどで辞め、新宿の雀荘のマネージャーになる。さいとう・プロダクションの脚本家募集に応募し入社、68年「無用ノ介」(『週刊少年マガジン』連載)に名前がクレジットされる。68年創刊の『ビッグコミック』連載「ゴルゴ13」の脚本を担当、70年独立。同年9月から「子連れ狼」(作画・小島剛夕、『漫画アクション』連載)の原作を執筆。73年3月当時、週刊誌13本、隔週誌4本、月刊誌5本という人気原作者だった。代表作の多くが70年代にあり、神田たけ志「御用牙」(1970年から『ヤングコミック』連載)、芳谷圭児「高校生無頼控」(1971年から『漫画アクション』連載)、池上遼一「I・飢男(アイウエオボーイ)」(1973年から『週刊現代』他で連載)、上村一夫「修羅雪姫」(1972年から『週刊プレイボーイ』)等、多くの作品に見られるモティーフは復讐譚であり、原作には作画へのポイント(構図やコマの大きさ)の指示があった。70年代に漫画誌に成人が主人公でエロチックな描写がある劇画を定着させた功績は大きい。特に小島剛夕とは15本の時代劇がある。同時にメディアミックスの時代でもあり、テレビや映画の主題歌、脚本も手がけるようになる。美術関連では、叶精作「オークション・ハウス」(1990年から『ビジネスジャンプ』連載)があり、贋作者で鑑定家でもある男が、フェルメールの絵を巡って殺害された両親の復讐を果たすストーリーで後期の代表作とされる。77年には「小池一夫劇画村塾」を設立、2000(平成12)年から09年までは大阪芸術大学でも後進の指導に当たった。評伝に大西祥平『小池一夫伝説』(洋泉社、2011年)がある。

長谷川堯

没年月日:2019/04/17

読み:はせがわたかし  建築史家、建築評論家で武蔵野美術大学名誉教授の長谷川堯は4月17日、癌のため東京都内で死去した。享年81。 1937(昭和12)年6月16日、島根県八束郡玉湯村(現、松江市玉湯町)で老舗旅館保性館(同館幽泉亭は国登録有形文化財)を営む家に生まれる。県立松江高等学校から56年に早稲田大学第一文学部に入学、美術史を学ぶ。77年に武蔵野美術大学造形学部助教授、84年に同教授、2008(平成20)年定年退職。 大学を卒業した60年に、指導教授だった板垣鷹穂の勧めにより、卒業論文をもとにした「近代建築の空間性 ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエ」が『国際建築』誌に掲載される。65年創刊の『SD』編集部などで働きつつ、68年に「日本の表現派」を『近代建築』誌に発表したのが建築評論家としての本格的デビューで、彼自身の言葉によれば、「の建築の発展を、建築家の「自己性の確立」という過程の中でとらえ」ることで、それまで明治と昭和の間での移行期のように扱われていた大正建築を一時代として定置して見せた。続く「大正建築の史的素描」(1970年、『建築雑誌』掲載)では、明治の古典主義建築と昭和の近代主義建築に通底するのは、「国家」と支配体制の側に立つ「建築を上から、外から見る視界」であると喝破し、「神殿か獄舎か」(1971~72年、『デザイン』掲載)において、戦後日本の建築界を席巻していたモダニズム、とりわけその中心的存在であった丹下健三とその建築を「神殿的思惟」の象徴として激しく攻撃した。これら最初期の論考をまとめた『神殿か獄舎か』(相模書房)が72年に刊行されると、まさに高度成長を追い求めた戦後日本社会の矛盾が様々な形で顕在化しつつあった時期にあって、戦前までの国家主義への対立概念のように捉えられていたモダニズム建築への痛烈な批判は、安保闘争で国家権力への敗北を味わった学生や若手建築家たちに衝撃をもって受け止められた。 『都市廻廊-あるいは建築の中世主義』(相模書房、1975年、毎日出版文化賞)では、東京をはじめとする近代の都市が失いつつあった水面からの景観や路地などの空間的豊かさを説き、機能優先主義への警鐘を鳴らした。また、『建築有情』(中公新書、1977年、サントリー学芸賞)では、建築を「作る者のあるいは使う者のそれぞれの立場から寄せられる感情とか内面的脈動の相関物である」としてその社会性を強調するとともに、市井で使われ続ける「生きた建築」への人々の関心の低さを憂え、『建築の生と死』(新建築社、1978年)でも歴史的空間を形作る無名の建築がもつ重要性を訴えた。当時まだ十分に評価が定まっていなかった大正期以降の近代建築の保存と再生活用に与えた影響は大きく、村松貞次郎らとともに各地での市民レベルの保存運動にも積極的に協力した。 美術史出身で建築を作る立場ではない長谷川の近代主義建築批判は、理念や論理が先行する建築家のアプローチに向けられており、必ずしも作品そのものが持つ力を否定しているわけではなかった。むしろ、その力が強ければ強いほど権力装置として作用する建築のシンボリズムに対抗して、より内発的、個人的な感性や想像力に立脚した建築創造の可能性を復権させることに力点があった。その意味において彼が注目した建築家が村野藤吾で、モダニズムも含めた古今東西の様式を自在に操りながら空間性とディテールに富んだ作品を生み続ける姿勢を大正建築家の最後の一人として高く評価していた。村野本人との数十回に及ぶ対談も踏まえた研究の成果は、大部の『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(鹿島出版会、2011年)としてまとめられ、これが長谷川の遺作となった。続いて構想されていた『戦後』篇の刊行を見ずに逝ったことは、さぞや心残りであったに違いない。 86年に「日本近代建築史再考に関する評論活動」で日本建築学会賞(業績)。上記以外の主な著作に、『建築-雌の視角』(相模書房、1973年)、『建築の現在』(鹿島出版会、1975年)、『生きものの建築学』(平凡社、1981年)、『建築逍遥-W・モリスと彼の後継者たち』(平凡社、1990年)、『田園住宅-近代におけるカントリーコテージの系譜』(学芸出版社、1994年)、『建築の出自』『建築の多感』(長谷川堯建築家論考集、鹿島出版会、2008年)等がある。また、建築・住宅系雑誌を中心に、数多くの論考や建築家との対談が掲載されている。

木幡和枝

没年月日:2019/04/15

読み:こばたかずえ  アート・プロデューサーで東京藝術大学名誉教授の木幡和枝は4月15日、上部消化器の多量出血で死去した。享年72。 1946(昭和21)年7月26日、東京都に生まれる。69年に上智大学文学部新聞学科を卒業後、TBSブリタニカ、工作舎での編集者として活動。工作舎で手がけた『スーパーレディ1009』(1977年)での取材が縁で、草間彌生に執筆を促し長編小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』(1978年)の刊行となる。70年代より音楽、舞踊の公演や美術展等を企画し、とくに舞踊家の田中泯の海外活動プロデュースに参加。当時の現代美術の動向として、作品の収蔵や保存、売買を目的とせずインスタレーションやパフォーマンス等の場を提供するオルタナティヴ・スペースが出現していたが、これを受けて82年、木幡は東京、中野富士見町に日本のオルタナティヴ・スペースの先駆となるplan-Bを田中泯と設立、アーティストの自主管理による共同スペースとして美術や音楽、演劇といった、あらゆる表現の実験的追求をテーマに実行委員会方式で企画を展開する。また海外でも、オルタナティヴ・スペースの主導者で、70年代より木幡と親交のあったキュレーターのアラナ・ハイスが発足させたニューヨークのP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(2000年にニューヨーク近代美術館と提携しMoma P.S.1と改称)の客員キュレーターを85年より務める。88年には、田中泯が身体気象農場として農場と舞塾を開いていた山梨県白州町(現、北杜市)で「白州・夏・フェスティバル」(後に「アートキャンプ白州」、「ダンス白州」と改称)を開始、その事務局長・実行委員を務めた。同フェスティバルは農山村の住民と積極的に交わりながら現地の建物や風景を劇場に、町全体を美術館にする試みで、舞踊、音楽、映像等のプログラムを展開する他、plan-Bの実行委員でもある美術家の榎倉康二、高山登、原口典之らにより町内の各所で野外展示が行なわれた。2000年より東京藝術大学先端芸術表現科教授、03年より同大学美術学部美術研究科修士課程教授を兼任。同大学先端芸術表現科では米の美術家ゴードン・マッタ=クラークの検証プロジェクト等を通して、美術館等の既成のシステムから解き放たれた「場所に拝跪しないアート」を指導。05年の愛知万国博覧会では「地球市民村」のアドバイザリー・プロデューサーを務めた。米国の作家で批評家のスーザン・ソンタグと親交を結び、その著作等、翻訳を多数手がけたことでも知られ、ジャーナリスト、批評家としても幅広く活動した。14年東京藝術大学名誉教授となる。没後の19年9月から10月にかけて、その設立に関わったplan-Bにて木幡を追悼し、高山登展覧会「地下動物園」が開催された。

紺野敏文

没年月日:2019/04/15

読み:こんのとしふみ  美術史家・仏教彫刻史研究者で慶應義塾大学名誉教授の紺野敏文は4月15日、心原性脳塞栓症のため亡くなった。享年80。 1938(昭和13)年5月13日、東京都杉並区に生まれる。58年3月、福島県立田村高等学校を卒業し、同年4月に慶應義塾大学文学部に入学。62年3月同大文学部哲学科西洋哲学専攻を卒業、アジア問題研究会を経て三井生命保険相互会社に勤務。同社を退職した後、74年4月に慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程に入学し、76年3月に同課程を修了、同年4月に同大学院博士課程に入学した。79年1月より文化庁文化財保護部美術工芸課調査員(~1979年12月)、同年3月に慶應義塾大学大学院博士課程を単位取得退学し、80年1月より奈良県教育委員会文化財保護課に着任、技師・主査を務める。84年4月に慶應義塾大学文学部哲学科に助教授(日本・東洋美術史担当)として着任した。1990(平成2)年4月より同大教授、2004年3月に同大を定年退職し、4月から同大文学部・大学院非常勤講師を務める(~2007年3月)。成蹊大学、東北大学文学部・同大学院、東京大学文学部・同大学院、武蔵工業大学で講師・非常勤講師として教鞭を執ったほか、92年8月から93年9月まで中国上海市同済大学建築系特別共同研究員。三田哲学会会長、文化庁文化審議会文化財分科会専門委員、遠山記念財団理事、國華賞選衝委員長、美術院評議員等を歴任した。77年第4回北川桃雄賞、02年東京都北区教育文化功労者表彰、09年東京都江戸川区区政功労者表彰、18年千葉県市原市文化財保護尽力者表彰。 慶應義塾大学文学部では哲学を専攻したが、在学中に古美術に対する関心を深め、会社員時代に大津へ赴任した際には関西地域の古社寺を訪ね歩いたという。36歳で大学院に進学、日本彫刻史研究の第一人者である西川新次に師事して修士論文「平安初期における真言系密教彫刻の展開:観心寺・安祥寺・仁和寺諸像の造立年代と造寺背景を中心に」を提出する。その一部に基づく最初の論文「創建期の安祥寺と五智如来像」(『美術史』101、1976年)では、従来下寺が先に創建されたとの説が優勢であった安祥寺について、上寺の先建と五智如来像の当初安置を明快に論じ、優れた美術史研究者に贈られる北川桃雄賞を受賞。以後、平安彫刻を中心とした論考を精力的に発表する。論考においては史料を精読し、造形を含めて複眼的に彫刻をとらえて緻密に論証を進めながらも、大局的な視点で論じられたものが少なくない。平安初期における木彫像への転換や造像環境の変遷などを論じた大部の「平安彫刻の成立(1)~(10)」(『佛教藝術』175~225、1987~96年)や、古代における信仰の実態を分析し、図像や作例を検証した「虚空蔵菩〓像の成立(上)~(下)」(『佛教藝術』140・229・232、1982・96・97年)、大陸から請来された彫刻を「本様」として日本彫刻史の展開を追う「請来「本様」の写しと仏師(一)~(三)」(『佛教藝術』248・256~270、2000年~03年)などはその代表である。また、奈良県教育委員会で地域の社寺調査を多数経験したことから、大学へ移ってからも実地調査を重要視する姿勢は終生変わらなかった。東京都江戸川区や北区、渋谷区、千葉県市原市、奈良県桜井市では長く文化財審議委員等を務め、『市原市内仏像彫刻所在調査報告書(北部篇)・(南部篇)』(市原市教育委員会、1992・93年)、『江戸川区の仏像・仏画Ⅰ・Ⅱ』(東京都江戸川区教育委員会、2004年・13年)、『浅草寺什宝目録 第一巻 彫刻篇』(金龍山浅草寺、2018年)など多くの報告書の刊行に尽力。長く教壇に立った慶應義塾大学はもちろん、講師を務めた各大学や社寺調査を通じてその薫陶を受けた者も多く、厳しい指導を行う一方で教え子に囲まれた酒席を何より好んでいたことはよく知られている。 著書に主要論文を収録した『日本彫刻史の視座』(中央公論美術出版、2004年)、長く講師を務めた近畿文化会が発行する『近畿文化』誌での執筆をまとめた『仏像好風』(名著出版、2004年)のほか、『奈良の仏像(アスキー新書)』(アスキー・メディアワークス、2009年)がある。編著に『日本の仏像大百科2 菩〓』(ぎょうせい、1990年)、『神像の美 すがたなきものの、かたち。(別冊太陽)』(平凡社、2004年)、共著として『平等院大観 第二・彫刻』(岩波書店、1987年)、『日本美術全集5 密教寺院と仏像』(講談社、1992年)など多数。論文に「仁和寺阿弥陀三尊像の造立年代の検討」(『佛教藝術』122、1979年)、「観心寺如意輪観音像の風景」(『日本美術全集5』講談社、1992年)、「房総の仏像―古代の造像を中心に―」(『國華』1265、2001年)、「初期の八幡神像祭祀とその造立過程―御調八幡宮の神像をめぐってー」(『國華』1351、2008年)ほか。業績は『紺野敏文先生 著作目録』(紺野敏文先生の傘寿をお祝いする会、2018年)に詳しい。

モンキー・パンチ

没年月日:2019/04/11

読み:もんきー・ぱんち  漫画家で大手前大学教授だったモンキー・パンチは4月11日肺炎のため死去した。享年81。 1937(昭和12)年5月26日北海道厚岸郡浜中町霧多布に生まれる。本名加藤一彦。幼少時代一時愛媛県で過ごす。中学時代に4コマ漫画を漫画雑誌に投稿し、原稿料をもらう体験をする。この頃は手塚治虫の影響が大きい。霧多布高校(定時制)卒業後、58年上京。東海大学附属通信工学校(後・東海大学短期大学)卒業。新聞配達所の住み込みや、商事会社に勤務しつつ漫画同人誌に参加した。59年加東一彦(かとう和彦)名義で貸本漫画『死を予告する鍵』(文洋社)でデビュー。貸本漫画誌に多くの作品を執筆する。この頃アメリカの漫画雑誌『MAD』の影響を受ける。66年双葉社の『漫画ストーリー』にムタ永(栄)二(マニア・ぐるうぷ)名義で短編「人類学プレイボーイ入門」、モンキー・パンチ名義で「呪われたダイヤ」や表紙絵等を描き、67年『週刊漫画アクション』創刊時から「ルパン三世」の連載を開始する。以後同誌に「ルパン三世 新冒険」(1971―72年)、「新ルパン三世」(1977―81年)等を発表。指先までの丁寧な線描、身体のしなやかな描線はイラスト風で軽妙、コマ絵を思わせる。多くの作品を発表したが「ルパン三世」は別格で、テレビアニメで繰り返し放映され、映画化、宝塚での舞台化、パチンコ台にも「ルパン三世」のキャラクターは登場した。また、デジタル漫画の可能性に着目、デジタルマンガ協会の会長を務め、東京工科大学大学院でマルチメディアを学び、自らは2005(平成17)年から大手前大学で漫画を指導した。貸本漫画時代から08年までの作品リストを収録した『追悼、モンキー・パンチ。』(双葉社、2019年)がある。

佐藤雅晴

没年月日:2019/03/09

読み:さとうまさはる  映像作家の佐藤雅晴は、3月9日に死去した。享年45。 ビデオカメラやスチールカメラで撮影した風景を、パソコン上でトレースしてアニメーション化する技術「ロトスコープ」による映像作品を制作し、国内外で発表した。また同様の手法による精緻な静止画を制作し「フォトデジタルペインティング」と名付けた。代表作「東京尾行」(2015―6年)では、実写映像の一部をトレースし、アニメーションに置き換えた90の場面が12台のモニター(あるいはプロジェクター)で映し出される。実写映像とアニメーションとの併存は、虚実の両極を行き来するような感覚を与え、作品空間を多義的にしている。また本作は自動ピアノによる「月の光」の演奏を伴う。インスタレーションのような展示を希望したといわれる佐藤は、映像作品を単なる動画ではなく、平面として空間に存在するあり方を含めて構想し、制作したと考えられえる。 2010(平成22)年、ドイツから日本に本帰国した直後に上顎癌が発見され、手術に成功するも15年に再発、18年9月には余命宣告を受けるという、病と闘いながらの制作でもあった。 1973(昭和48)年10月11日、大分県臼杵市に生まれる。96年東京藝術大学油画専攻を卒業、99年同大学大学院修士課程修了。幼い頃より絵を描くのが得意で、藝大受験を控え毎日描いた時期もあったが、在学中はコンセプチュアル・アートやインスタレーションに傾倒した。99年にドイツに渡り、2000年より国立デュッセルドルフ・クンストアカデミーに研究生として在籍(~2002年)。09年、第12回岡本太郎現代芸術賞特別賞受賞。16年、個展「ハラドキュメンツ10 佐藤雅晴―東京尾行」開催。17年にはシドニーで個展「TOKYO TRACE2」を開催。闘病による視力の衰えなどにより、映像制作が困難になる中、19年2月、画廊KEN NAKAHASHIで絵画作品の個展「死神先生」を開催。トーキョーアーツアンドスペースの「霞はじめてたなびく」(~3月24日)、森美術館の「六本木クロッシング2019」(~5月26日)にも参加した。2021(令和3)年、没後初の回顧展となる「佐藤雅晴 尾行―存在の不在/不在の存在」(大分県立美術館、水戸芸術館現代美術ギャラリー)開催。

須田一政

没年月日:2019/03/07

読み:すだいっせい  写真家の須田一政は3月7日、老衰のため千葉市内の病院で死去した。享年78。 1940(昭和15)年4月24日東京市神田区富山町(現、東京都千代田区神田富山町)に生まれる。本名は一政(かずまさ)。暁星中学校、暁星高等学校を経て59年東洋大学法学部に入学。この頃カメラを入手して撮影を始め、神保町の写真店森写真工房に、同店にあった写真集を目当てに通うようになり、写真についての関心と知識を深めた。店主森茂次郎の主宰する写真集団「ぞんねぐるっぺ」に入会、写真に本格的にとりくむようになり、61年大学を中退、東京綜合写真専門学校に入学する。62年9月、同校を卒業し研究科に進むが中退。父の経営する建材問屋を手伝いながら写真を続け、63年には『日本カメラ』1月号月例に応募した「恐山」が特選となる。その後も入選を続け、この年の年度賞月例1部優秀作家賞を受けたが、家業を継ぐためいったん写真から離れた。 67年、この年結成された劇団「天井桟敷」のスタッフ募集広告に応募し、専属カメラマンとなる。これを機に、家業を継がず写真で生きていくことを決意。劇団では舞台や広報用の写真撮影を担当。71年に同劇団を離れフリーランスとなる。実家にスタジオを開設するが翌年にはそれを閉じ、カメラ雑誌への作品掲載を中心に写真家として活動するようになった。 75年から77年にかけて『カメラ毎日』に不定期連載した「風姿花伝」が高く評価され、連載中の76年に日本写真協会賞新人賞を受賞。同作は77年の初個展「風姿花伝」(銀座ニコンサロン、東京他)で展示され、78年には初の写真集『風姿花伝』(ソノラマ写真叢書16、朝日ソノラマ)にまとめられた。その後も雑誌への作品発表や個展の開催を重ね、82年に開催した個展「物草拾遺」(ナガセフォトサロン、東京)により83年日本写真協会賞年度賞受賞、85年の個展「日常の断片」(オリンパスギャラリー、東京)により同年東川賞国内作家賞を受賞した。1996(平成8)年には過去から現在までの未発表作も含む作品を見直し、再編成した写真集『人間の記憶』(クレオ)を刊行、同写真集により97年土門拳賞を受賞している。 須田は初期作「恐山」や、東北や関東一円、北陸など各地に取材した「風姿花伝」といった、旅をしながら撮影する手法の作品で評価を確立し、84年に初の海外渡航で香港を訪問して以降は、台湾やベトナムなどにも撮影地を広げていく。その一方で、生まれ育った地であり87年に千葉市に転居するまで生活の拠点であった神田を含む下町を中心に、東京でも日常的に撮影を重ね、写真集『わが東京100』(ニッコールクラブ、1979年)等、そこからまとめられた作品も多い。そのいずれにおいても、日常的な光景に兆す非日常的なもの、異界への裂け目のようなものに対して、独特の感性を向けるという姿勢は一貫していた。また「風姿花伝」で採用した6×6判の正方形のフォーマットのモノクロ写真は、須田作品の代名詞となるが、80年に『カメラ毎日』に連載した「角の煙草屋までの旅」では35㎜判を、83年から84年にかけて『日本カメラ』に連載し、85年の個展にまとめられた「日常の断片」ではカラーフィルムを使用、90年代初頭にはスパイカメラとして知られる超小型カメラミノックスを使用した作品にとりくむなど、多彩な方法で自らの写真表現の方向性を拡張していった。 91年、神田須田町の新幹線高架下にあった亡父の会社の倉庫を改装し、平永町橋ギャラリーを開設、自身や若手写真家などの発表の場として97年まで約6年間にわたって運営する。また2001年よりワークショップ須田一政塾を開講し、13年まで継続するなど、後進の支援や指導にも尽力した。2000年代には大阪芸術大学教授を務めている。 08年からは慢性腎不全により人工透析を受けながらの作家活動となったが、2010年代に入っても、新作および未発表を含む旧作による写真集の出版は20冊を越え、国内外で多くの個展の開催、グループ展への参加を重ねた。13年東京都写真美術館で回顧展「須田一政:凪の片(なぎのひら)」が開催され、同展および長年の作家活動により、14年日本写真協会賞作家賞を受賞。生前最後の出版となった写真集『日常の断片』(青幻舎、2018年)は、19年写真の会賞特別賞を受賞した。没後も新たな写真集が刊行され、2021(令和3)年にベルギーの写真美術館FOMUで個展が開催されるなど、国内外での再評価が続いている。

砂川しげひさ

没年月日:2019/03/06

読み:すながわしげひさ  漫画家で音楽エッセイストの砂川しげひさは3月6日うっ血性心不全で死去した。享年77。 1941(昭和16)年10月11日沖縄県那覇市に生まれる。本名砂川恵永。中学、高校時代から新聞へ投稿をしていた。60年兵庫県立尼崎高校卒業。農業関連業界紙の会社を経て、『新大阪新聞』のカットなどを手がけ、「すたみなコイさん」の連載漫画をもつ。64年上京。69年『週刊漫画サンデー』に連載したナンセンス時代物「寄らば斬るド」が好評を博す。軽快な描線とデフォルメによる風刺のきいた内容は新鮮だった。71年同上作と「ジュウベー」「テンプラウエスタン」で第17回文藝春秋漫画賞受賞。「しのび姫」(『小説新潮』1978年から93年)、「おんな武蔵」(『小説現代』1980年から94年)等の長期連載もある。新聞や週刊誌、中間小説誌の誌面の一角に大人の漫画を描き続けた。2007(平成19)年「タマちゃんとチビ丸」で第36回日本漫画家協会賞大賞受賞。クラシック音楽への造詣が深く、ラジオのパーソナリティーをはじめ、「なんたって」や「コテン氏」が頭につくシリーズのエッセイ集を数多く著した。

大井健地

没年月日:2019/03/01

読み:おおいけんじ  美術史研究者で美術評論家であった広島市立大学名誉教授の大井健地は、3月1日広島市内の病院で死去した。享年72。 1947(昭和22)年1月30日、三重県志摩市に生まれる。本名大井健二。65年3月、岡山県立岡山朝日高等学校を卒業。72年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、在学中には、同大学教授の吉沢忠、山川武、そして東京国立文化財研究所主任研究官の陰里鉄郎から薫陶を受ける。同年4月から、株式会社筑摩書房編集部に勤務。84年に同社を退社。86年4月から広島県立美術館学芸員となる。同美術館在職中には、「靉光-青春の光と闇-」展(1988年10月-11月、同展は同年9月-10月に練馬区立美術館で開催後に巡回)、「和高節二展」(1989年1月-2月)、「浅井忠展」(1990年9月-10月)等を企画担当。1994(平成6)年3月に同美術館を退職し、同年4月から広島市立大学国際学部助教授となる。98年4月に、同大学同学部教授となり、2012年3月に退職。在職中の10年から12年まで同大学芸術資料館の館長を務めた。同大学では、日本美術史、博物館学等を講じた。また、広島県立図書館友の会会長、広島日伊協会理事、公益法人ひろしま文化振興財団運営委員等の社会活動もつづけた。 主要な著作は、下記の通りである。編著『靉光デッサン集』(岩崎美術社、1989年)『大井健地の美術図書館』(形文社、1998年)『絵のまえ本のうしろ』(渓水社、2012年)共著『観光コースでない広島』(高文研、2011年) 上記の著作中、『大井健地の美術図書館』は、月刊誌『美術の窓』65号(1988年4月)から 165号(97年3月)まで連載した書評記事「大井健地の美術の窓図書館」をまとめたもので、毎月、美術の一般書から展覧会カタログ、研究書にいたるまで広範に取り上げ縦横に批評した内容であった。同書刊行後、この書評の寄稿は、同誌191号(1999年8月)まで不定期につづけた。また大学在職中は、学生、若いアーティストたちをつねに励まして慕われ、また、地域の文化活動にも積極的に参加していた。没後の2021(令和3)年3月には、広島市のgallery Gにて、大井の逝去を偲ぶために、その仕事の全貌を、ノート、原稿等の資料によって紹介する「大井健地の表現をカキトル手」展が開催された(主催:一般社団法人HAP、会期:3月2日から7日)。

小山やす子

没年月日:2019/02/27

読み:こやまやすこ  書家で文化功労者であった小山やす子は、2月27日、誤嚥性肺炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年8月25日、東京・墨田区に生まれる。1950(昭和25)年より川口芝香に師事。61年日展初入選、79年日展特選となり、87年には日展審査員、1999(平成11)年日展評議員、2000年から16年まで現代書道二十人展に出品。 古筆に魅せられ、古筆の本が少なかった時期は写真を拡大して学書し、とくに「本願寺本三十六人家集」(国宝、西本願寺蔵)が京都で展示された際には毎週東京から通ったという。古筆を臨書し、目や頭に焼き付けた特徴を反射的に運筆できるようにすることが創作にあたって大切だと述べる。『貫之集』『山家集』をはじめとする古典を中心に書写する作品を数多く制作し、昭和から平成にわたって現代の仮名書をけん引してきた。毎日新聞社主催のサンパウロ展(1975年)など海外展にも出品、自身の個展を多胡碑美術館(2001年)ほかで開催。また、51年より書道研究「玉青会」を組織し、後進の育成にも尽力した。 毎日書道会理事、日展参事、日本書道美術院常任顧問、かな書道作家協会名誉顧問等歴任。77年オリベッティ国際賞、96年日展会員賞、02年毎日書道展文部科学大臣賞、03年毎日芸術賞、09年恩賜賞・日本芸術院賞受賞。03年旭日小綬章、13年紺綬褒章受章。16年、書の分野で女性初の文化功労者となった。19年旭日中綬章受章。

栄木正敏

没年月日:2019/02/27

読み:さかえぎまさとし  陶芸家、プロダクトデザイナーの栄木正敏は2月27日、くも膜下出血のため死去した。享年75。 1944(昭和)19年1月3日、千葉県旭市に生まれる。60年、高校2年生の栄木と陶磁器デザインの出会いは、日本橋三越で偶然目にした美しい土瓶を買い求めたことであった。この年、日本で初めて世界デザイン会議が開催され、『美術手帖』176(1960年7月号増刊)では「グッドデザインへの招待」が特集された。その雑誌で、栄木は紅茶ポットとして愛用していた土瓶が陶磁器デザイナーとして活躍していた森正洋のデザインによるものだと知り、いつか自分でも作ってみたいと思うようになった。63年、武蔵野美術短期大学工芸デザイン専攻科に入学、フィンランドのアラビア製陶所で活動していた加藤達美や、日本のクラフトデザイン界を牽引した芳武茂介らに学ぶ。66年、武蔵野美術大学短期大学工芸デザイン専攻科を卒業。同年、加藤達美が顧問を務める名古屋市の瀬栄陶器デザイン部に入社。翌67年、輸出陶磁器デザインコンクールで初入賞。69年、茨城県笠間市の會田雄亮研究所の助手となり、建築陶器やモニュメント制作を学ぶ。この頃より瀬戸に移り住み、瀬戸と名古屋のタイル、ノベルティー、食器を専門にする小規模の各製陶工場を渡り歩く。73年頃まで特定の工場に在籍せず日雇いの陶工として働き、工場ごとの技術や製造工程を学び、夜は自主制作に励んだ。72年、絵付け職人が再現しやすいよう、明快な要素を組み合わせた模様を取り入れた«手描きの食器»で、瀬戸の陶磁業界で初となるグッドデザイン賞を受賞。モダンデザインにおいてはその価値が顧みられなくなり、衰退しつつあった手描き模様ならではの温かみを量産陶磁器で実現することに成功した画期的なシリーズとなった。制作に必要な技術や素材を熟知して73年、杉浦豊和らとともに、陶磁器の企画・製造・販売会社「セラミック・ジャパン」を設立。1977年、栄木とセラミック・ジャパンが第5回国井喜太郎産業工芸賞を受賞。陶磁器のデザインにとどまらず、原型造りから職人の養成、流通まで含むすべてを、より広い意味での「デザイン」の名のもとに進めてきた栄木らの「加飾の健全性を目指す企画生産及び販売の総合的推進」が評価の対象となった。81年、第11回バレンシア国際陶磁器ガラス・デザインコンクールで「天目ディナーウェアー」がグランプリ(スペイン国際大賞)を受賞。83年、陶磁器デザインコンペティションで「ブルーライン(キッチンポット&テーブルウェアー)金賞受賞。86年、第16回バレンシア国際工業デザインコンクールで「テーブルウェア「COMPACT」」がグランプリ(スペインLlama Joven賞)を受賞。88年、この年より奈良市に本社工場のある国際化工の仕事を開始、長年やりたかったメラミンを使ったデザインに着手する。翌1989(平成元)年「プラスチック食器「U-STAGE Q-su」」がグッドデザイン賞受賞。90年、第3回日本現代陶彫展‘90で初めて手がけた大型モニュメント「OUTSIDE INSIDE」が陶彫展優秀賞受賞、土岐市総合公園に設置される。翌91年より建築用タイルのデザインに着手。93年、土岐市笠原町陶ヶ丘公園の「陶壁」を制作。95年、第4回国際陶磁器展美濃’95で「表面張力シリーズ「ボーンチャイナのランプ」」が岐阜県知事賞(銀賞)受賞。96年「白マット土瓶と湯飲み」がロングライフデザイン特別賞受賞。97年、ファエンツァ国際陶芸展第50回記念特別展「DESIGNER DAL MONDO(世界のデザイナー10人展)」に招待出品。98年、第5回国際陶磁器展美濃’98に「テーブルウェアー「circle円・ellipse楕円」」などを出品、同作が銅賞受賞。98年から2009年まで、愛知県立芸術大学教授。99年、デザインフォーラム1999公募展で「テーブルウェア―「WAVE」」が佳作となる。2001年、大韓民国第1回世界陶磁ビエンナーレ国際公募展に「箸置き小皿と組み合わせプレート」を出品し銀賞を受賞、同時開催の世界陶磁デザイン展に「白マット釉ティーセット」等を招待出品。滋賀県立陶芸の森にて招待制作を行い、モニュメント「CLIMB BLUE」を設置。03年、社団法人日本クラフトデザイン協会副理事長に就任、翌年まで務める。04年、欧州陶磁器・デザイン研修で、デッサウのバウハウス、マイセン、ドレスデン、フランクフルトなどを訪問する。09年、愛知県立芸術大学非常勤講師となる。10年、愛知県立芸術大学名誉教授に就任。11年、東京国立近代美術館にて「栄木正敏のセラミック・デザイン―リズム&ウェーブ」展が開催される。同年、台北国際工芸デザイン展で準グランプリ(創新賞)を受賞。13年、平成24年度愛知県芸術文化選奨で文化賞(個人)受賞。製図から原型製作、生産立ち上げまで一貫して手がける陶磁器デザイナーとしての活動と芸術文化の振興と向上に貢献したとして評価されるなど、日本の陶磁器デザイン界を長く牽引した。

河﨑晃一

没年月日:2019/02/11

読み:かわさきこういち  兵庫県立美術館で館長補佐などを歴任し、前衛美術集団「具体」の魅力を発信、その世界的評価を高めた河﨑晃一は2月11日、すい頭部がんで死去した。享年67。 1952(昭和27)年1月9日、兵庫県芦屋市に生まれる。祖父は実業家で白隠ら江戸時代の高僧と三輪田米山の墨蹟及び佐伯祐三の油彩画の蒐集家と知られる山本發次郎。74年に甲南大学経済学部を卒業、染織家中野光雄に師事、染めた布を使った造形作品を制作。77年に出版された『画・論=長谷川三郎』の編纂に刊行委員として参加、各地で作品調査、資料収集、長谷川の知友への取材を行う。造形作家としても活動し、80年から大阪・番画廊、京都・ギャラリー・すずきを中心に個展を開催。87年、第4回吉原治良賞美術コンクールで優秀賞を、また同年第18回現代日本美術展で大原美術館賞を受賞。アート・ナウ’88、兵庫の美術家’93(いずれも兵庫県立近代美術館)に選出。1993(平成5)年には兵庫県芸術奨励賞を受賞。89年、芦屋市立美術博物館準備室に着任。90年、同館学芸課長に就任。同館では「小出楢重と芦屋」展(1991年)や阪神間モダニズム展(1997年)、「震災と表現:震災から5年」展(1999年)といった地域の美術を検証する展覧会の企画展も担当、とりわけ吉原治良展(1992年)、具体展(1992-93年、3期)では兵庫県立近代美術館の尾崎信一郎、平井章一と協力、芦屋市立美術博物館編にて資料集『ドキュメント具体』(芦屋市文化振興財団、1993年)を刊行。1980年代以降に活発化した「具体」調査研究のなかにあり、のちの国内外での評価の高まりの基盤のひとつを築いた。93年、第45回ヴェネツィア・ビエンナーレの企画「東洋への道」での初期具体野外展の再現展示へ協力。2003年には芦屋市の財政難で同館存続の危機に見舞われた際は、地方の特色ある公立美術館の意義を訴えた。06年に兵庫県立美術館へ移り、常設展・コレクション収集管理グループリーダーとなる。同館で12年まで館長補佐、学芸部門マネージャーを歴任。12年からはインディペンデントキュレーターとして活動。13年に甲南女子大学文学部メディア表現学科教授(第三種特任)、翌年同学科教授となる。15年秋にがんが判明、病室に資料を持ち込み仕事を続け、科学研究費補助金基盤研究C「写真・映像による具体美術協会の研究-戦後美術史研究の基盤構築と活性化の試みとして」(2016~2018年度、研究代表者逝去のため、中途終了)に取り組み、19年「イサム・ノグチと長谷川三郎」展(横浜美術館)にも協力した。同展で講演を予定していたが、実現しなかった。 著書や監修した書籍に『中山岩太』(淡交社、2003年)、『山本發次郎コレクション:遺稿と蒐集品にみる全容』(淡交社、2006年、日本書芸院創立60周年記念事業、第1部として『山本發次郎遺稿』改訂版を収録)などがあり、作品は大原美術館、華道未生流会館(大阪)、資生堂アートハウス(静岡)、中京大学(名古屋)に収蔵されている。

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