本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





山崎つる子

没年月日:2019/06/12

読み:やまざきつるこ  前衛美術グループ「具体美術協会」の結成に参加し、ブリキ等金属を使った立体や色彩豊かな抽象絵画を手がけた美術家の山崎つる子は6月12日に急性肺炎のため死去した。享年94。 1925(大正14)年1月13日、兵庫県芦屋市に生まれる。本名は山崎鶴子。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進学。1946(昭和21)年、芦屋市主催の市民講座で講師として招かれた吉原治良と知遇を得、吉原の自宅で開催された絵画教室で指導を受けるようになる。48年、小林聖心女子学院を卒業。同年、第1回芦屋市美術展覧会に風景画を出品、以降毎年出品、第7回展で会員推挙、第21回展より審査委員を務める。54年、具体美術協会の結成に参加。55年、真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展(芦屋公園)では、「トタン板の鎖」を発表。以降、金属板を支持体とし、これに鏡やセロファンを貼付したり、染料やニスを塗布したり、凹凸を施し扉や窓をつくったり、照明で色彩を施す手法の作品を多く手掛けるようになる。56年、野外具体美術展(芦屋公園)では、赤い硬質ビニールを木に括って張り巡らせた蚊帳状の立体作品(1985年に再制作、「赤」兵庫県立美術館蔵)と、鮮やかな染料が施されたブリキ板が高さ3.3メートル、幅6.6メートルまで繋がれた作品「三面鏡」(2007年に再制作、「三面鏡ではない」金沢21世紀美術館蔵)を発表。50年代後半から具体がフランスの美術批評家ミシェル・タピエとの交流により、アンフォルメル絵画の代表的グループとして海外進出を果たすと、58年第6回具体展を境に、キャンバスを支持体とした平面作品にも取り組む。61年「日本の伝統と前衛」展(トリノ・国際美学研究所)に出品。63年、大阪・グタイピナコテカで個展を開催。64年、第1回長岡現代美術館賞に選抜招待。72年の解散まで具体に在籍。75年、芸術家ネットワーク「アーティスト・ユニオン」に参加。70年代後半、具体解散後しばらくたったのち、作風を一変させ、パチンコやスマートボール、動物、ビールの商標など大衆的なイメージを着想源とした作品を展開。独自の色彩やフォルムとが自由自在に横断しながら、互いに無限に関係性を持ち続けるさまは、山崎の作品に通底した特質とされる。2000年代以降は改めてブリキを支持体とした平面作品を手掛け、色彩の交錯、形態の錯綜の追求を続けた。2004(平成16)年、兵庫県芸術文化協会より亀高文子記念・赤艸社賞を受賞。 新作を含む回顧展に「リフレクション 山崎つる子:地獄の沙汰も、色次第。」(芦屋市立美術博物館、2004年)、特別展示「山崎つる子 連鎖する旋律」(金沢21世紀美術館、2007年)がある。09年1月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが山崎の聞き取り調査を行い、同団体のウェブサイトに公開された(聞き手は加藤瑞穂、池上裕子)。 具体のなかで中核的な位置を占めるひとりでありながら、吉原治良、白髪一雄、田中敦子、元永定正らと比較すれば、具体以外の展覧会で作品を公にすることは限られ、80年代から始まった具体を再評価する国内外の回顧展でも山崎の作品は概してメンバーの多様な作品の一事例としての扱いにとどまってきた。金属を支持体とした作品は、制作当初の状態を維持することが難しく、これらの初期作品で現存するものが少ないことも、山崎作品がこれまで正当に評価されてこなかった要因のひとつともいわれる。90年代以降、フェミニズムあるいはジェンダー論的観点からの美術史の批判的捉え直しもあり、再評価が試みられている作家のひとりである。没後2021(令和3)年、『美術手帖』8月号、「特集・女性たちの美術史:フェミニズム、ジェンダーの視点から見直す戦後現代美術」において、日本にルーツをもち、「前衛」の時代に新たな芸術をも模索した作家として大きく取り上げられた。

関根伸夫

没年月日:2019/05/13

読み:せきねのぶお  「もの派」を代表する美術家の関根伸夫は5月13日、米国・カリフォルニア州の病院で死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月12日、大宮市(現、さいたま市)に生まれる。父は埼玉県庁職員、母は小学校教諭、母の弟は中学で美術教諭。5人兄姉の三男。埼玉県立川越高校に入学、美術部に入部。同世代の部員に長澤英俊、中野武夫らがいた。浪人時代を経て、62年多摩美術大学に入学。学部時代に一度、新制作美術協会展に出品したが落選。65年に斎藤義重が油絵学科教授に、翌年には高松次郎が同学科講師に着任、同大学大学院を出る68年まで、この二人に師事。人が椅子に腰かけている情景や人が階段に並んでいる情景をスライドにてキャンバスに投影し、鉛筆で人の輪郭のみを描写する手法によるシリーズなど、視覚的なトリックを導き出す仕組みを持つ一連の作品を展開。67年、最初の展覧会「個展個展」展(新宿・椿近代画廊、小林はくどうとの二人展)を開催、同年第11回シェル美術賞展で佳作賞受賞。68年、トリックス・アンド・ヴィジョン展(銀座・東京画廊、同・村松画廊)に「位相No.4」を発表。同年、第8回現代日本美術展のコンクール部門に「位相No.6」が入選、コンクール賞受賞。同年10月、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で、大地に円柱型(深さ2.6m、直径2.2m)の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いた作品「位相-大地」を発表、朝日新聞社賞受賞。関根は当時、「現代の美術は結局のところ新しい空間の解釈法を発見もしくは発明するしかない」と考えており、最も現代的で柔軟な空間の認識が可能であった位相幾何学に基づいた思考実験として、小清水漸、吉田克朗、上原貴子、櫛下町順子を制作助手に、本作品を制作。しかしながら、関根自身と小清水らは、その空間認識の実験の意図をはるかに越えた、穴と屹立する土の物質感に圧倒されたという。この作品は、後に「もの派」誕生の契機とされ、日本現代美術における転回点と評されることとなる。同年、第5回長岡現代美術館賞を「位相-スポンジ」で受賞。69年、銀座・東京画廊での初個展を開催、第1回現代国際彫刻展(箱根彫刻の森美術館)でコンクール賞受賞。また同年、第6回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)では東野芳明コミッショナーの元、高松次郎、田中信太郎、関根、成田克彦と結成した「ボソット・グループ」で参加、団体賞受賞。70年大阪万博、三井グループ館に「位相-大地」を再制作。70年、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表としてステンレスの柱の上に自然石を置いた作品「空相」を発表、その後2年間のヨーロッパ滞在。帰国後、73年に株式会社環境美術研究所を設立。奥久慈憩いの森(1979年)、東京都庁舎シティーホール前「水の神殿」(1991年)、多磨霊園のみたま堂(1993年)など、国内外で数多くのモニュメントやパブリック・アートを手がける。1996(平成8)年、「「位相-大地」の考古学」(西宮市大谷記念美術館、図録編集=篠雅廣)で「位相-大地」誕生の状況や事実関係を関係者の証言や当時の資料によって掘り起こされた。2008年、多摩川アートラインプロジェクトの一環で田園調布せせらぎ公園にて「位相-大地」が再制作された。10年ころ上海へ、12年ころロサンゼルス近郊へ移住。14年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが聞き取り調査を行い、ウェブサイトに公開(聞き手=梅津元、加治屋健司、鏑木あづさ)。没後2019(令和元)年、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(埼玉県立近代美術館)では関根伸夫資料(アーカイブズ)を展示。20年1月12日に「関根伸夫さんを偲ぶ会」(御茶ノ水・学士会館、発起人=小清水漸)が執り行われ、『追悼 関根伸夫』(多摩美術大学)が配布された。 作品集に『関根伸夫1968-78』(ゆりあ・ぺむぺる工房、1978年)、関根伸夫+環境美術研究所作品集『風景から広場へ:環境装置としての美術』(商店建築社、1983年)、『風景を刻む』(プロセス・アーキテクチュア社、1987年)、『位相絵画』(環境美術研究所、1987年)など、著書に『半自伝:美術と都市と絵空事』(PARCO出版局、1985年)、『風景の指輪』(図書新聞、2006年)がある。

堀尾貞治

没年月日:2018/11/03

読み:ほりおさだはる  具体美術協会会員で芸術家の堀尾貞治は11月3日に兵庫運河貯木場跡で死去した。享年79。 1939(昭和14)年神戸市兵庫区浜中町に父壽春、母まさの三男一女の長男として生まれる。父はカメラマン、叔父幹雄は陶芸家濱田庄司のコレクターで、大阪民藝協会設立とともに常務理事を務めた。中学卒業後、家計を支えるために、三菱重工業神戸造船所に就職。造船所養成校で学び、製図の仕事に従事、洋画部にも所属、主に製造部門で定年まで勤める。在職中は仕事と創作活動を両立させ、これまで多い時には年間100回以上の個展やパフォーマンスなどを行った。57年より芦屋市展に出品、自由美術協会展と独立美術協会展にも入選。64年より京都アンデパンダンに出品。65年、第15回具体美術展に初出品、翌年会員となり、72年の同協会が解散するまで参加。66年、初個展を開催(大阪・信濃橋画廊、企画=高橋亨)。68年、木村昭子と結婚。73年に坂本昌也とはじめた「京都北白川美術村」を舞台にした活動をはじめる。75年頃からの神戸の居酒屋「ぼんくら」、79年に神戸三宮東門筋のうどん屋の2階に開設した東門画廊等で、実験的な展覧会が数多く行われるスペースの運営に携わる。80年代は職場でのストレス等により、しばしば精神不安定となり、怪我も多く入院することもあったという。その一方でこの時期に「空気」「あたりまえのこと」という生涯にわたる創作のテーマを見いだす。82年、京都・アートスペース虹にて個展を開催。85年、白内障手術の際に、失明しても可能な制作行為として、身の周りのあらゆるものに、毎日1色ずつ塗り重ねていくことで、アトリエの物質自体を行為の集積造形として現前化させる「色塗り」をはじめる。同年、東門画廊が閉廊、そのあとを継ぐかたちで六間画廊開設。86年に出向、その同僚周治央城と大判木版画「妙好人伝」シリーズ等を制作・発表。87年、神戸国際交流館内に画廊ポルティコがオープン、神戸市文化振興財団から運営を受託。1993(平成5)年、山下克彦との往復書簡「SADA」がはじまる。95年、阪神淡路大震災に際して、叔父からの助言で震災風景を描き、学校、役所、寺院等で展示する。97年から毎日起床後、アトリエに10枚ほどの紙を並べ、1枚1分以内の速さで描く「1分打法」をはじめる。2002年、「堀尾貞治展 あたりまえのこと」(芦屋市立美術博物館)開催。03年、神戸・兵庫運河貯木場で野外展「空気美術館」開催、堀尾と交流のあったアーティスト達が参加し約1年間作品展示とパフォーマンスを行う。これを契機として現場芸術集団「空気」(事務局長=原口研治)が誕生。05年、横浜トリエンナーレに現場芸術集団「空気」と参加、連続82日のパフォーマンスを行う。11年、ベルギーで個展、作品集刊行。14年、個展「堀尾貞治 あたりまえのこと 今」(神戸・BBプラザ美術館)開催。16年、奈良県額田部・喜多ギャラリーで1000枚のパネル作品「千Go千点物語」制作。このころ、メニエール病を発症、18年に鬱状態となり自死を選んだ。その時々で自らの状況を受け入れ、時間や空間、人を含めた日常生活全般と美術活動を共鳴させ、自身の創作精神を具現化した。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、注目を集めた。 作品集に『堀尾貞治80年代の記録』(熊谷寿美子、1998年)、『親戚のさだはるさん』(松田陽子、2010年)、『堀尾貞治』(堀尾あや、2020年)等、展覧会記録映像に『Sadaharu Horio Solo Exhibition:Oridinary Things』(〓屋市立美術博物館、2003年)。堀尾と妻昭子の活動をまとめた公式サイト「堀尾貞治・堀尾昭子」(https://sadaharuhorio.net/index.html)、YouTubeチャンネル「堀尾貞治 あたりまえのこと」(https://www.youtube.com/channel/UCwM―gmmvWrMtRAk3kBRGj6A/featured)がある。

小杉武久

没年月日:2018/10/12

読み:こすぎたけひさ  作曲家で演奏家の小杉武久は、10月12日食道がんのため死去した。享年80。 1938(昭和13)年3月24日、東京に生まれる。東京藝術大学楽理科卒業。同大学在学中、水野修孝とともに即興演奏をはじめ、60年に塩見允枝子、刀根康尚らと「グループ・音楽」を結成。61年に第1回公演「即興演奏と音響オブジェのコンサート」(赤坂・草月会館ホール)を開催。その後、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、邦千谷、土方巽、VAN映画研究所等、前衛的な芸術家との関係を深め、62年には演奏会「演奏の夕」(新宿・風月堂)での一柳慧との共演、犯罪者同盟による演劇公演「黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ」(早稲田大学大隈講堂)音楽担当、飯村隆彦による実験映画「くず」のための音楽作曲、一柳慧作曲「パラレル・ミュージック」で小野洋子らとの演奏(NHK第二放送)等という舞踏・演劇・映像のための音楽へと作品発表の場を広げる。63年、第15回読売アンデパンダン展には真空管ラジオを用いた「Micro 4 / instrument」を出品。64年、オフ・ミューゼアム展(新宿・椿近代画廊)にテルミンを使用した「Malika for Object」を出品。同年、マース・カニングハム舞踏団初来日、ジョン・ケージらと共演。65年に渡米、フルクサスの作家と交流を持つ。68年、現代芸術のシンポジウムExpose1968(草月会館ホール)第二夜、室内楽作品の特集で「Catch Wave ‘68」を発表。69年、クロストーク/インターメディア(代々木国立競技場第二体育館)に「Mano―Dharma,electronic ‘69―1」を発表。同年、小杉を中心としてジャズ、ロック、現代音楽などのジャンルの要素を融合させた即興音楽集団「タージ・マハル旅行団」結成。70年、日本万国博覧会では開会式で電子音響「ロボットのイヴェント」、会期中のお祭り広場のテープ音楽、5月と9月の吉原治良制作「夜のイベント」での音楽を担当した。71年、パリ・コミューン100年祭「ユートピア&ビジョンズ」(ストックホルム現代美術館)のために渡欧、その後、ヨーロッパ各地で演奏、タージ・マハルまでの旅を続け、翌年に帰国。76年、マース・カニングハム舞踊団の公演に参加、タージ・マハル旅行団から離れ、翌77年、米国移住、マース・カニングハム舞踏団専属の作曲家・演奏家に就任、世界各地で公演を行い、また美術館でサウンド・インスタレーションの発表も旺盛に行う。その後、ヴァイオリン演奏家としても活動。82年、ハンブルク美術学校の客員教授赴任。86年、パリのポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本 1910―1970」展に出品、会場でパフォーマンスも行う。1994(平成6)年、マース・カニングハム舞踊団日本公演(新宿文化センターほか)。2008年、横浜トリエンナーレに参加した。インターメディアアート、即興音楽、サウンド・インスタレーションのパイオニアであり、晩年まで、ジャンルを超え、実験的で何ものにも捉われない自由な表現を追求し続けた。歿後、演奏・展示・映像上映を通じて小杉の活動を振り返る「小杉武久の2019」(深谷・HALL EGG FARM、神宮前・360°、UPLINK渋谷、2019年)が開催された。 著書に『音楽のピクニック』(書肆風の薔薇、1991年)、小杉や小杉が参加したグループによるメディアに『グループ・音楽』(HEAR sound art library、1996年、CD)、『小杉武久/Performance』(芦屋市立美術博物館、1996年、VHS)、『タージ・マハル旅行団「旅」について』『小杉武久 Catch―Wave ‘97』(いずれもDiskunion―Super Fuji Discs、2008年、CD)等がある。 美術館での個展には「新しい夏 小杉武久音の世界」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「WAVES 小杉武久サウンド・インスタレーション」(神奈川県立近代美術館、2002年、今日の作家Ⅶ)、「小杉武久 音楽のピクニック」(芦屋市立美術博物館、2017―18年)、また国内の美術館での公演として「小杉武久 音の世界 新しい夏 パフォーマンスシリーズ」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「日本の実験音楽1960’s演奏会」(水戸芸術館コンサートホールATM、1997年)、「小杉武久コンサート Spacing」(宇都宮美術館、1999年)等がある。川崎弘二編著『日本の電子音楽』(2006年、愛育社、増補改訂版2009年)において、戦後日本の音楽界に旋風をおこした「電子音楽」の作曲家のひとりとしてインタビューが収録されるなど、現代音楽史からも高く評価される。

島州一

没年月日:2018/07/24

読み:しまくにいち  版画家、画家の島州一は7月24日、急性骨髄症白血病のため長野県東御市で死去した。享年82。 1935(昭和10)年8月26日東京都麹町区(現、千代田区麹町)に生まれる。祖父欽一は銀座に国内初とされる図案社の島丹誠堂を開設している。 59年多摩美術大学絵画科卒業。在学中は絵画より石版に傾倒。58年「集団・版」結成に参加(1964年まで)。64年初個展(養清堂画廊)。67年版画展(日本版画協会、1971年まで)。『LIFE』誌の写真や政治家を重層化した作品を展開。72年、ニクソンと周恩来の顔を椅子と布団に刷り込んだ「会談」が第7回ジャパン・アート・フェスティバルで大賞受賞。73年「次元と状況」展(1978年まで、新宿・紀伊國屋画廊)に参加。同年、作家たちが個々自宅で発表する「点」展に参加(1977年まで)。同年第12回サンパウロ・ビエンナーレに「200個のキャベツ」出品。74年第9回東京国際版画ビエンナーレ出品の「シーツとふとん」で長岡現代美術館賞受賞。75年、関根伸夫と全国約30か所で「列島縦断展」。同年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。島の作品は情報化時代のイコンを自然(野菜や石)、日常品(布団やカーテン)に刷り、版画の概念を拡張していった。78年、200点近い作品を網羅した『KUNIIICHI SHIMA 1970―1977』(現代創美社)を刊行。80年度文化庁芸術家在外研修員としてパリ、ニューヨークに滞在。82年第4回シドニー・ビエンナーレ出品。85年第1回和歌山版画ビエンナーレで優秀賞受賞。87年、自分の表現行為を「モドキレーション」と名付ける。その技法は「身をもって現実を仕切り、測定し、分析、総合する」、触覚に即したフロッタージュを基底とし、テーマとしては初期から一貫している現代の情報化社会における人間の抑圧を問うことだった。1996(平成8)年の個展(玉川髙島屋)から、「造形言語が誕生する瞬間を描く」をテーマとし、主論考として「言語の誕生」(『武蔵野美術大学研究紀要』、2004年35号)を発表。2003年から15年、浅間山を油彩で描いた「Landscape」シリーズを展開。11年個展「原寸の美学」(市立小諸高原美術館)。17年からの闘病の日々を日記風に描いた「とんだ災難カフカの日々」が公式ウェブサイトで閲覧できる。 

山口勝弘

没年月日:2018/05/02

読み:やまぐちかつひろ  ビデオ等映像を用いた現代美術家で、筑波大学名誉教授の山口勝弘は、5月2日に敗血症のため死去した。享年90。 1928(昭和3)年4月22日、東京市大井(現、東京都品川区)に生まれる。幼いときから工作を好み、船舶、飛行機などに興味を示していた。45年日本大学工学部に入学、建築科で学び、美術部に入る。日比谷のCIEライブラリー(後のアメリカンセンター)で、哲学、文学、美術書にふれ、ポロックやキ―スラー、モホリ=ナギらを知る。48年日本大学法学部法律学科に入学、美術クラブを創設する。このころ文化学院のモダンアート研究会に参加し、出席していた北代省三や福島秀子らと七耀会を結成、48年11月北荘画廊の展覧会にレリーフ作品を発表する。49年読売アンデパンダンに出品、以後同展にはほとんど出品をする。アヴァンギャルド研究会、世紀の会をへて、50年美術家だけでプボアールの会を結成、後の実験工房となる。51年、髙島屋のピカソ展前夜祭でのバレエ「生きる悦び」の美術を担当、以後、工房の活動に深く関わっていく。同年、ガラスを組み合わせたレリーフ「ヴィトリーヌ」を発表する。52年初個展(銀座、松島画廊)。61年「現代のビジョン展」(サトウ画廊)に出品、同年秋からヨーロッパ、アメリカへ初の海外旅行、フルクサスのメンバーやキースラーのアトリエを訪問。帰国後、提灯のような表面だけで成立する布張り彫刻を制作する。64年「オフ・ミューゼアム展」(新宿、椿近代画廊)に出品。66年第7回現代日本美術展に光を組み込んだ立体作品「Cの関係」を発表、自身「光彫刻」と名付けた60年代の主要な傾向をしめしている。同年、銀座松屋で開催の「空間から環境へ展」では、エンバイラメントの会を結成し、デザインや建築、音楽といった多様なジャンルの作家とのコラボレーション、パフォーマンスを行う。67年グッゲンハイム国際展で60年代の彫刻として「港」が選出される。同年第4回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。68年「現代の空間―光と環境展’68」(神戸、そごう百貨店)、この年、海外展では第34回ベニス・ビエンナーレをはじめ、「螢光菊展」(ロンドン、現代美術研究所)、69年には「アルス’69展」(ヘルシンキ、アテナウム美術館他)に参加する。同年、銀座ソニービルでの「エレクトロ・マジカ’69」では「テクノロジーの創造的果実をみせるサイテック・アート」として国内外15作家の中心的な役割を担った。70年の大阪万博では、三井グループ館の会場構成を行なう。72年からビデオを中心とした芸術活動「ビデオひろば」に参加。74年、第11回日本国際美術展に特設されたビデオ部門に「ラス・メニナスNo.1」を発表。75年第13回サンパウロビエンナーレで特別賞受賞。77年「大井町付近」をはじめとするビデオラマシリーズを開始。70年代は国際的に様々なビデオアート展に出品、日本のビデオアートの紹介をこなしていった。81年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。82年テクノロジーとニューメディアによる表現領域の拡張を図った「グループ・アールジュニ」設立に参加。同グループは88年まで毎年「ハイテクノロジー・アート展」を全国で開催した。86年個展(兵庫県立近代美術館ほか)。1989(平成元)年名古屋でのデザイン博覧会で「アーテック’89」をプロデュース。90年、淡路島芸術村計画の推進運動をはじめる。92年個展(愛知県美術館)。90年代にはこれまでの制作を展望する、エレクトロニクスの画像によるイメージの想像およびネットワーク「イマジナリウム」を提唱する。93年第14回ロカルノ国際ビデオアートフェスティバルでヨーロッパ委員会名誉賞受賞。94年、淡路島に制作展示の拠点「淡路島山勝工場」を設立。2001年第42回毎日芸術賞受賞。06年個展(顔曼荼羅シリーズを発表、神奈川県立近代美術館)。03年第7回文化庁メディア芸術祭で功労賞。 著作に、『不定形美術ろん』(学藝書林、1967年)では、現代テクノロジーと社会生活を射程に入れた美術論を展開している。『作品集 山口勝弘360°』(六耀社、1981年)、ライフワークともいえる『環境芸術家キースラー』(美術出版社、1978年)、『パフォーマンス原論』(朝日出版社、1985年)、『ロボット・アヴァンギャルド』(PARCO出版局、1985年)、『映像空間創造』(美術出版社、1987年)、『メディア時代の天神祭』(美術出版社、1992年)、『UBU遊不遊』(絶版書房、1992年)、『生きている前衛 山口勝弘評論集』(井口壽乃編、水声社、2017年)などがある。 教育歴として、77年筑波大学芸術学系教授に就任(1992年名誉教授)。92年神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学科教授(1999年名誉教授)など。2000年から02年まで環境芸術学会会長。 90年代、東京都現代美術館企画運営委員会委員など多くの美術館の評議員も務めた。

上前智祐

没年月日:2018/04/16

読み:うえまえちゆう  現代美術家の上前智祐は4月16日に老衰のため死去した。享年97。 1920(大正9)年7月31日、京都府中郡奥大野村(現、京丹後市)に生まれる。1歳の時に実父由蔵を亡くし、病気がちな母の里んと共に苦難と貧困の幼少期を送る。4歳のころ耳を患い、難聴となる。小学校卒業後18歳まで洗い張り店へ奉公にで、挿絵画家を夢見て、肖像画、イラスト、南画などを独学。神戸、横浜などを転々としたのち、1944(昭和19)年、召集を受け、翌年陸軍一等兵として八丈島で終戦を迎える。実家の舞鶴へ戻り、舞鶴海軍経理部や日本通運舞鶴支所で勤務、クレーン運転免許証取得。この頃、木村荘八『美術講座』を読み、洋画を志すようになる。47年、第二紀会第1回展に「舞鶴港の夕景」(同展出品目録では「風景」)を出品、初入選。京都の関西美術院に通い黒田重太郎に指導を受ける。49年、同郷の看護婦小谷徳枝と結婚。51年、西舞鶴図書館で初の個展を開催。以後1950年代前半は朱舷会展、神戸モダンアート研究会展、ゲンビ展などに参加、本格的に抽象画の制作・発表をはじめる。神戸に移り、川崎重工業神戸工場に勤務。52年、吉原治良の非具象のクレパス画を見て感銘を受け、翌年、吉原宅を訪問、指導を仰ぐようになる。54年、具体美術協会の結成に参加、72年の同協会解散まで在籍。55年、第7回読売アンデパンダン展に「具体(上)」「具体(前)」を初出品。56年には兵庫県神戸市垂水区に100坪の山林を購入、数年掛けて住居とアトリエを建設。57年、第7回モダンアート協会展に出品、新人賞受賞。58年、新しい絵画世界展-アンフォルメルと具体(なんば〓島屋ほか)への出品作品は、吉原治良の評価も高く、下見をしたミシェル・タピエも「今回の1番の注目すべき作品だ」と絶賛したという。64年、現代美術の動向 絵画と彫刻展(国立近代美術館・京都分館)に出品。66年、具体ピナコテカにて個展を開催。75年にはアーティスト・ユニオンに、76年にはGe展に参加。80年、神戸製鋼所のクレーン操作の仕事を退職、創作活動に打ち込む。個展としては、集合と綢密のコスモロジー・上前智祐展(大阪府立現代美術センター、1999年)、「上前智祐と具体美術協会」展(福岡市美術館 常設展示室内企画展示室、2005年)、点と面の詩情 上前智祐・山中嘉一・坪田政彦展(和歌山県立近代美術館、2008年)、卒寿を超えて 上前智祐の自画道(神戸・BBプラザ美術館、2012年)、上前智祐・最初の始まり・さとかえりてん(京丹後市・大宮ふれあい工房、2013年、第3回郷土偉人展)等がある。具体美術協会に所属しつつも、所謂アクション・ペインティングとは一線を画し、地道な手作業の積み重ねによる反復、油絵具を多層に塗重ねた点描、パレットナイフを用いた線のパターンによる油彩、マッチ軸・おが屑・絵具のキャップ等を油絵具で塗り固めたミックスメディアの作品等を創作、マチエールと対峙し、非具象の世界を独自に探究し続けた。具体解散以降も「縫い」、版画、四角がモチーフの油彩やミックスメディアなど新たな制作に挑み、2012(平成24)年前後まで創作活動を継続。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、具体―ニッポンの前衛 18年の軌跡(国立新美術館、2012年)、具体展(グッゲンハイム美術館、2013年)に出品、多方面から注目を集めた。 自費による出版も多く、作品集に『孤立の道 上前智祐画集』(1995年)、『版画作品 2000年4月―8月』(2000年)等、著書に『とび出しナイフ』(1976年)、『自画道』(共同出版社、1985年)、『現代美術―僕の場合』(1988年)、『ある人への返書』(1998年)、『上前智祐 非具象の仕事』(2002年)、『「縫い」の作品について』(2005年)、『思い出 神戸の灘浜にて』(2010年)。また日記翻刻に中塚宏行編『上前日記 1947―2010 上前智祐と具体』(上前智祐記念財団、2019年)がある。

佐々木耕成

没年月日:2018/04/11

読み:ささきこうせい  前衛美術家の佐々木耕成は4月11日、群馬県みどり市の病院で死去した。享年89。 1928(昭和3)年7月、現在の熊本県菊池市泗水町に生まれる。45年3月、先に満州(現、遼寧省瀋陽市蘇家屯)に入植していた両親のもとに移る。戦争末期にソ連軍に抑留されるが、46年10月頃に帰国。53年3月、上京して武蔵野美術学校の通信教育を受け、翌年同学校の西洋画科に編入学する。在学中から独立美術展に出品をつづけ、58年3月、同学校西洋画科を卒業。60年3月、第12回読売アンデパンダン展に出品、同年の第28回独立美術展を最後に公募展への出品をやめる。62年2月、「汎太平洋青年美術家展」にて「国際青年美術家展賞」受賞。63年1月、熊本市にて「郷土出身 佐々木耕成展」(会場、同市鶴屋百貨店)開催。64年6月、前衛美術グループ「ジャックの会」に参加、以後、同会のメンバーとして展覧会活動をする。67年、フォード財団の援助により渡米、出国にあたりそれまでの作品を焼却処分したとされる。ニューヨークに住むが、作家活動よりも生活のため内装業に従事。85年、帰国。1990(平成2)年、群馬県勢多郡黒保根村(現、桐生市黒保根町)に移住。同村では、地区の有志とともに、公園を造成し、その場所で毎年秋に「あかしあの森公園野外コンサート」(2003年から「わたらせの森と水の音楽祭」と改称し、08年まで)を開催するなど、ボランティア活動をつづけた。 在米中の空白の時代から帰国後の美術界との没交渉の時代をへて、2007年、佐々木の地域での活動を紹介した桐生市のホームページから、当時の関係者と美術館学芸員によってその名前が発見された。これを契機に「ジャックの会」メンバーと再会し再び交流がはじまる。10年、アーツ千代田3331にて個展「全肯定/OK. PERFECT.YES.」開催。また同年刊行の黒ダライ児著『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(発行grambooks)で、「ジャックの会」が言及され、60年代の「前衛美術」の活動家のひとりとして再評価されるようになった。12年4月、群馬県立館林美術館にて「館林ジャンクション 中央関東の現代美術」展に出品。同年10月、アーツ千代田3331による企画「TRANS ARTS TOKYO」のレジデンスプログラム「熊本、シベリア、満州、NY、黒保根、そして神田」として公開制作をする。13年7月、小田嶋孝司著『漂流画家 佐々木耕成85歳』(文園社)が刊行された。 晩年にいたって発表活動も盛んになり、同年8月には、岡福亭ギャラリーのこぎり(桐生市)、15年4月にコミュニティスペースSOOO dramatic!(台東区)、17年3月には、ギャラリーya―gins(前橋市)にて個展を開催した。なお没後になるが、18年10月、熊本県立美術館にて「変革の煽動者 佐々木耕成アーカイブ」展が開催された。その生涯と創作活動については、佐々木の生前から取材と調査を重ねていたことから、同展カタログに詳細に記録されている。

加藤好弘

没年月日:2018/02/09

読み:かとうよしひろ  1960年代に過激なパフォーマンスを展開した前衛芸術集団「ゼロ次元」を主導した加藤好弘は2月9日に膀胱がんのため死去した。享年81。 1936(昭和11)年名古屋生まれ。生家は名古屋市南外堀町で食堂「好乃屋」を営み、父親は軍隊に2度招集され中国東北部に赴任したという。加藤も幼少期を1年ほど中国東北部で過ごし、終戦の3年ほど前に名古屋に戻り、母親の家に疎開。終戦後、中学のころに北川民次の塾に行き、絵を学ぶ。愛知県立明和高等学校に入学後、マルクス主義に傾倒。高校卒業後、多摩美術大学に進学、59年に同大学美術学部絵画科を卒業。大学時代に教員であった田中一松に歴史に向き合う姿勢についての影響を受け、また同大学と同じ世田谷区上野毛にアトリエを構えた岡本太郎の石版画制作のアシスタントをしたという。卒業後、名古屋に戻り教員として勤務。60年、岩田信市らが結成した絵画グループ「0次現」に、加藤らが合流し、というコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年に拠点を東京に移した加藤と、名古屋にとどまった岩田を中心に、都市空間のなかで数々のパフォーマンスを行った。同年、日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、各地で反万博運動を展開、加藤を含む数名が猥褻物陳列罪で逮捕されるなど社会を賑わせた。翌70年、パフォーマンス記録映画『いなばの白うさぎ』を製作したのち、加藤は次第にインドのタントラ研究に没頭し、グループとしての活動は減少することとなる。 ヨシダ・ヨシエ、針生一郎など一部の批評家を除き、美術界では永く言及されてこなかったが、三頭谷鷹史、椹木野衣、黒ダライ児らによって再評価が進んでいる。黒ダ『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、ゼロ次元の活動がなければ、この時代における「反芸術パフォーマンス史」そのものが成立しなかったほど大きな存在といわれる。2006年には、写真家・平田実の作品集として『ゼロ次元 加藤好弘と六十年代』(河出書房新社、2006年)が刊行。15年に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として加藤の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。

岩田信市

没年月日:2017/08/06

読み:いわたしんいち  1960年代に前衛芸術集団「ゼロ次元」を結成し、街頭裸体パフォーマンスで話題となった画家、演出家で元劇団「スーパー一座」主宰の岩田信市は8月6日に大腸がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年8月8日、名古屋市中区大須に生まれる。43年白川国民学校入学。疎開により愛知県海部郡勝幡(現、愛西市勝幡)に疎開。45年、終戦で大須に戻り、大須小学校に転入。52年旭丘高校に入学。同年、中部日本美術展奨励賞受賞。学外の左翼サークルに入り活動、戦後三大騒乱事件の一つといわれる大須事件に参加。55年同校美術課程卒業(出席日数不足のため「仮卒業」との記録もある)。60年頃、グループ「0次現」を結成。62年、第14回読売アンデパンダン展に出品、翌年も出品。63年、加藤好弘らとというコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年、関東から福岡までの広範な地域から反芸術パフォーマンスを行ってきた作家たちが結集した日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式「尻蔵界(けつぞうかい)曼荼羅祭り」を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、京都大学講堂屋上にて全裸のパフォーマンスを行うなど社会を賑わす。70年に愛知県文化会館美術館で起こった「ゴミ作品撤去事件」を発端とする芸術裁判の支援活動を行い、「ゴミ姦団」を結成。この頃より活動の中心をゼロ次元から、ゴミ姦団、頭脳戦線等のグループに移行。73年、全国のヒッピー代表として名古屋市長選に立候補。79年、劇団スーパー一座を旗揚げ、主宰として演出を担当、2008(平成20)年の劇団解散まで数回のヨーロッパ講演、ロック歌舞伎、大須オペラ等を演出を手掛け、古典や伝統の再解釈と超克を試みた。引退後も画家として作品制作を継続した。 新作を含む回顧展としては「岩田信市的世界」(犬山・岩田洗心館、1995年、企画=三頭谷鷹史)、パブリック・コレクションに「ランニングマン」(1965年頃、名古屋市美術館蔵)、「ウォーキングマン」(1969年、愛知県美術館蔵)、「ファイティング・ビューティ(キック)」(1981年、名古屋市美術館蔵)、著述集に『現代美術終焉の予兆』(スーパー企画、1995年)がある。また60年代の反芸術パフォーマンスを体系的にまとめた研究書、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、「ゼロ次元」として一章が設けられその活動が検証され、15年8月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として岩田の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。歿後、芸術批評誌『REAR』第41号(2018年)において岩田の特集が組まれ、友人、同志、研究者、遺族といった様々な立場から追悼文が寄せられた。 60年代に肥大していったマスメディアと都市という社会制度をフィールドとして、既存の美術システムを大きく越えた過激な表現活動は、カウンターカルチャーの政治的・社会的意義を読み解く視点からも近年その活動が再評価されている。

高﨑元尚

没年月日:2017/06/22

読み:たかさきもとなお  前衛美術家グループ「具体美術協会」の一員として活躍した現代美術家の高﨑元尚は6月22日に老衰のため死去した。享年94。 1923(大正12)年1月6日、高知県香美郡暁霞村(現、香美市香北町)に生まれる。父元治は農家を生業とし村長も歴任。1940(昭和15)年、早稲田大学専門部工科建築科に入学。翌年休学、川端画学校に通う。42年、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学、学徒出陣による海軍配属を経て、戦後同校に復学、49年、同校彫刻科を卒業。中学校教諭、自衛隊員などの職を経て、52年第2回モダンアート協会展に出品、この年高知に帰郷。54年第4回モダンアート協会展で新人賞受賞。50年代はピエト・モンドリアンを参照した抽象画を制作、その後「朱と緑」シリーズに展開。55年、高知モダンアート研究会を結成、東京から講師を招いて美術教育の講習会を開くなど啓蒙的な活動を行う。56年から土佐高等学校教諭に赴任(1988年まで)。57年、モダンアート協会会員に推挙(1970年に退会)。58年、「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に出品。このころ、絵画と並行して写真制作に取り組み、高知の詩誌『POP』、北園克衛主宰VOUの機関誌や実験写真展で作品を発表。60年、村松画廊で個展を開催。61年、前衛美術グループ「グループ・ゼロ」のパフォーマンス「理由なくデモして街を歩く」(高知市帯屋町界隈)に参加。63年に矩形に切った白いカンバス片を板に碁盤目状に貼付した「装置」シリーズを開始。65年第16回選抜秀作美術展に招待出品。66年に具体美術協会加入。同年、第1回ジャパン・アート・フェスティバルに「装置」を出品。60年代から70年代にかけて鉛の板を壁面や床などに打ち付けた「密着」シリーズを制作。70年、日本万国博覧会ではグタイグループ展示などに参加。また同年若手作家の経験をつむ場として企画展シリーズ「現代美術の実験」を高知市で開始。72年、京都・ギャラリー16での個展で段ボール箱を破り裂いた作品「LANDSCAPE」を発表、以後建築資材、石膏、木、素焼き粘土などを用いたインスタレーションのシリーズ「破壊」を展開。78年にはアート・ナウ’78に「COLLAPSE」を発表、設置した700個以上のコンクリートブロックを一定の規則でハンマーで割り、鑑賞者にブロックの上を歩かせる方法で、偶然性による素材の変容を作品に取り入れる。「破壊」以後は、ゴムやパイプなど軽量素材を用いた可変オブジェのシリーズに移行、80年代ニューウェーブ的な作風へと転身。1990(平成2)年頃より、具体美術協会の再評価の機運が高まり、複数の美術館の依頼に応えるため、「装置」シリーズの再制作を取り組み、同シリーズの新作も発表した。95年に高知県文化賞受賞。 回顧展に「高﨑元尚 誰もやらないことをやる」(香美市立美術館、2016年)、「高﨑元尚新作展―破壊COLLAPSE」(高知県立美術館、2017年、企画=松本教仁)がある。12年12月に、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによって聞き取り調査が行われ(聞き手は中嶋泉、池上裕子)、また生前の高﨑本人や家族から提供された資料に基づいた作家研究として塚本麻莉「規則と偶然の芸術―前衛美術家・高﨑元尚の制作活動」(『高知県立美術館研究紀要』9、2019年)がまとめられた。 時代の動向に呼応したアクチュアルな表現を展開させ、東京や関西の現代美術界で評価を得て、その一方で活動基盤を高知に置き、高知市展、高知県展で継続的に作品発表をするとともに、さまざまなかたちで若手を支援する基盤を作るなど、地域の現代美術の振興にも取り組んだ。

中西夏之

没年月日:2016/10/23

読み:なかにしなつゆき  現代美術家で、東京藝術大学名誉教授の中西夏之は、10月23日に脳梗塞のため死去した。享年81。 1935(昭和10)年7月14日、現在の東京都品川区大井町に生まれる。54年、東京都立日比谷高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部油画科に入学。58年に同大学を卒業、同期に島田章三、高松次郎、工藤哲巳、磯部行久、山領まりがいた。58年7月、檪画廊にて個展開催。59年9月、村松画廊にて個展。63年5月、新宿第一画廊にて「赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之展」開催。この3人をメンバーに、「ハイレッド・センター」を結成。「ハプニング」と称して、パーフォーマンスなどの発表活動をはじめる。64年1月-2月、南画廊にて、荒川修作、三木富雄、工藤哲巳、菊畑茂久馬、岡本信治郎、立石紘一とともにヤングセブン展に出品。65年、土方巽演出・振付の暗黒舞踏派公演にあたり舞台美術を担当。66年、通貨及証券模造取締法違反を問われ、被告となった赤瀬川原平の「千円札裁判」で、証言及び作品の提示を行う。69年、美学校に「中西アトリエ」を開設、72年には同学校にて「中西夏之・素描教場」を開設、翌年にかけて制作指導にあたる。75年9月、西武美術館にて「日本現代美術の展望」展に出品。 80年11月、雅陶堂ギャラリーにて個展。絵画に復帰。83年、同ギャラリーにて個展「中西夏之 紫・むらさき」を開催、油彩画シリーズ「紫・むらさき」を発表。85年7-8月、北九州市立美術館にて「中西夏之 Painting 1980―85」展を開催。1989(平成元)年4月、西武美術館にて「中西夏之展」を開催。同年4月、筑摩書房より美術論集『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』を刊行。95年、愛知県美術館にて「中西夏之-へ」を開催。同年11-12月、神奈川県立近代美術館にて「着陸と着水 舞踏空間から絵画場へ 中西夏之展」を開催。96年4月、東京藝術大学美術学部絵画科教授となる。97年1-3月、東京都現代美術館にて「中西夏之展―白く、強い、目前、へ」を開催。2002年、名古屋市美術館にて「中西夏之«柔らかに、還元»の絵画/思索」展を開催。同年、愛知県美術館、愛媛県立美術館にて「中西夏之展 広さと近さ-絵の姿形」を開催し、絵画作品の大規模な回顧展となった。2003年、東京藝術大学大学美術館にて「二箇所-絵画場から絵画衝動へ―中西夏之展」を開催、油彩画の他、授業のドキュメントや資料を出品。同年、同大学教授を退官。2004年、倉敷芸術科学大学芸術学部教授となる。07年に退任。2008年4月-5月、渋谷区立松濤美術館にて「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」を開催。2012年10月-13年1月、DIC川村記念美術館にて「中西夏之 韻 洗濯バサミは攪拌行動を主張する 擦れ違い/遠のく紫、近づく白斑」展を開催。 60年代の「ハプニング」など反芸術的な活動から始ったが、70年代の「山上の石蹴り」のシリーズから、「紫・むらさき」のシリーズを経て、晩年まで描く自身の身体性を強く意識して、平面に向き合うという「絵画」表現の本質を追求した、現代絵画において類まれな画家であったといえる。

合田佐和子

没年月日:2016/02/19

読み:ごうださわこ  美術家の合田佐和子は2月19日、心不全のため死去した。享年75。 1940(昭和15)年10月11日高知県高知市にて、父正夫、母善子の間に五人兄弟の長女として生まれる。戦争中は呉市に住むが、戦後高知市へ戻り、焼け跡でがらくたを拾いはじめる。私立土佐中学校・高等学校時代には手芸に親しみ、編みぐるみ人形などを制作、卒業後は武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)本科商業デザイン科に入学。在学中は学校になじめず、道端のガラスや金属片を集めてオブジェを制作するかたわら、宝石デザインやジュニア向け雑誌のカットを描くアルバイトなどに勤しんだ。同校卒業後の64年瀧口修造を訪問、作りためたオブジェを見せ、個展開催を勧められる。また同年11月には同郷の美術家・志賀健蔵と結婚する。65年6月初の個展を銀座・銀芳堂にて開催。針金や釘、ビーズなどによるオブジェを多数発表する。66年1月長女玉青誕生。6月志賀健蔵と離婚する。また同年には作品集『Fun with Junk』(N. Y. Crown社)を欧米にて刊行。67年4月銀座・ルミナ画廊にて個展開催、69年まで同画廊にて毎年展示を行う。作品は毎回大きな変化を見せ、布や紙粘土でつくられた蛇、模様の描かれた卵型、義眼をはめ込んだ手足、子供のトルソや頭部、さらには等身大の頭のない人体など、怪奇な様相を呈するオブジェを次々に発表する。この間、69年12月唐十郎主催の劇団・状況劇場の「少女都市」で小道具を担当、以後も宣伝美術や舞台美術をしばしば担当した。71年1月美術家・三木富雄と結婚。三木のロックフェラー財団によるアメリカ招聘に同行、8月までニューヨークに滞在する。その間、路上でたまたま銀板写真を拾い、また古雑誌や古写真などを収集、日本へ持ち帰る。帰国後、写真をそのままキャンバスに写せば三次元の人物を二次元に置き換えられると気づき、独学で油彩画を描きはじめる。72年3月村松画廊にて鉛筆画と油彩画による初めての個展を開催。以後も村松画廊(1974年)、西村画廊(75年)、渋谷パルコ館ノスタルジアハウス(1976年)、青画廊(1977、78年)などで個展を開く。はじめは見知らぬ人物の写った写真をもとに制作していたが、次第に映画俳優や女優のブロマイドなどを素材とし、グレーを基調に、光と影の強烈なコントラストで人物を描くようになる。この間、72年には状況劇場「鐵假面」のポスターを制作。同年3月三木富雄と離婚。12月次女信代が誕生する。74年5月第11回日本国際美術展(東京都美術館)に「女優(後に「寝台」と改称)」を招待出品。77年2月には寺山修司が主宰する演劇実験室・天上桟敷の「中国の不思議な役人」で舞台美術と宣伝美術を担当、以後も手がけた。この頃より油彩画制作に対する生理的苦痛を感じるようになり、次第にそれ以外の表現を試みるようになる。77年にはポラロイド写真を撮りはじめ、同年暮れには16ミリフィルム作品「ナイトクラビング」を制作。78年娘ふたりとともに訪れたエジプトに魅了され、以後も数度にわたり訪れる。81年4月初めてのポラロイド写真展をアートセンターevent-spaceで開催。83年12月オブジェや絵画、写真などを集めた総合的な回顧展「Pandra 合田佐和子展」(STUDIO PARCO Gallery View)を開催する。85年4月娘ふたりとともに永住を決意してエジプトへ渡り、アスワン近辺のジャバルタゴークに住む。エジプトでは大量の写真を撮影、接写レンズをとおして見ることで、「物には全て眼がある」との気づきを得る。86年4月に帰国した後は、眼などの対象をクローズアップで捉えた作品を制作、色調も明るくなり、まばゆいばかりの光が溢れる画面となる。88年7月エジプトで撮り溜めた写真による作品集『眼玉のハーレム』(PARCO出版)刊行。同年9月突如霊的なインスピレーションを受け、オートマティックなドローイングを多数制作するも、その反動から翌1989(平成元)年1月入院。92年1月には足で描いた「足の指のセンセーション」などを個展(GALLERY HOUSE MAYA)で発表する。同年6月次女信代との写真展をポラロイドギャラリーにて開催。94年3月それまでの作品を数百点規模で集めた回顧展「現代のアーティストシリーズVOL.4 合田佐和子展」(富山市民プラザ アートギャラリー)を開催する。2000年眼の網膜を病み、一時右目が見えなくなるが快復。この間には眼を閉じたままノートにペンを走らせるブラインド・デッサンをひたすらつづけた。01年2月森村泰昌との二人展を高知県立美術館にて開催。03年10月新作6点を含む総合的な回顧展「合田佐和子 影像―絵画・オブジェ・写真―」(渋谷区立松濤美術館)を開催する。10年3月ギャラリー椿にて個展開催、やっと思う世界を描き始めているという手ごたえを感じたという。13年6月みうらじろうギャラリーでの個展へ、「今、私は新しい世界の入り口に立っています」との文章を寄せ、明確なモチーフのない初めての作品「色えんぴつのラインダンス」などを発表した。

桜井孝身

没年月日:2016/02/15

読み:さくらいたかみ  福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる美術家の桜井孝身は、2月15日、肺炎のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年、福岡県久留米市に生まれる。7人兄弟の第5子。53年福岡学芸大学(現、福岡教育大学)卒業、西日本新聞社(福岡市)に入社、校閲部に配属。同社在籍中に詩のグループに参加、また二科展福岡展の作品に感銘を受け、芸術を志す。55年9月第40回二科展に「抵抗」が初入選、第14室に展示。その後、二科展、西日本美術展、読売アンデパンダン展、日本アンデパンダン展などに出品を続ける。同年11月、俣野衛・桜井孝身二人展を筑紫野市のヒュッテ茶房で開催。56年8月、福岡市の喫茶ばんぢろで開催された二科展激励会でオチオサムと知遇を得る。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「手(日本風景)1―5」を初出品。同年4月、石橋泰幸・桜井孝身展を福岡市の岩田屋社交室で開催。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月に福岡市の岩田屋でグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。この時期に発表し、のちの代表作となる「リンチ」は、作品素材であるアスファルトの物質性、鮮烈な黒、不定形のイメージは九州派を象徴する作品のひとつとされる。以後68年までオチ、石橋泰幸とともに九州派の中心メンバーとして活動した。東京では、59年8月に南画廊、64年3月に内科画廊で個展を開催。64年5月に福岡市の新天会館、新天画廊で開催、旧作を中心に200点を展示。65年、西日本新聞社を退社し、サンフランシスコに渡る。ビートニクの詩人であるアレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダーと出会い、哲学的・宗教的な問題への関心を強く持つようになる。67年に帰国するまで、日本人地区ブッシュストリートに住み、数回、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの大祭典(福岡市、博多プレイランド)に広報担当で参加。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室でオチの個展が同時開催)。この年2回目の渡米、サンフランシスコで日本人芸術家共同体「コンニャク・コンミューン」を創設、73年にフランスに渡る。以後、福岡市中心に、東京、パリなどで多く個展を開催。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)などの九州派の回顧展のみならず、「戦後文化の軌跡」(目黒区美術館ほか、1995年)、「戦後日本のリアリズム」(名古屋市美術館、1998年)、「痕跡―戦後美術における身体と思考」(国立国際美術館、2004年)、「実験場1950s」(東京国立近代美術館、2012年)といった戦後日本美術を検証する展覧会に出品。著書に『髭の軌跡―桜井孝身小文集』(櫂歌書房、1979年)、『パラダイスへの道』(櫂歌書房、1989年創刊)、『I Discover Jesus Christ Is a Woman』(櫂歌書房、1987年)など、作品集に自家版『桜井孝身画集』(1992年)がある。

スタン・アンダソン

没年月日:2015/09/14

読み:Stanley N.Anderson  造形作家スタン・アンダソンは、9月14日、心筋梗塞のため死去した。享年68。 1947(昭和22)年、アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイク・シティに生まれる。66年にモルモン教布教のために初来日、69年まで滞日。71年、ユタ大学心理学科を卒業。73年に再来日し、75年から79年まで美学校の小畠廣志教室で木彫刻を学んだ。80年に帰国して、ニューヨークのプラット・インスティテュート大学院で彫刻、美術史を学び、82年に修了。同年再来日、埼玉県入間市、後に飯能市に住む。以後、国内各地の野外彫刻展にインスタレーションの作品を発表するようになった。なかでも、84年9月、現代彫刻国際シンポジウム(会場:滋賀県守谷市第2なぎさ公園、主催:びわこ現代彫刻展実行委員会、協賛:ブリティッシュ・カウンシル、美術館連絡協議会)に自作のインスタレーションを出品したのに加え、同展のために来日した英国の美術作家デイヴィッド・ナッシュ(David Nash、1945-)の座談会のための通訳をつとめた。ナッシュから制作上の恩恵を受け、これが縁で、1994(平成6)年6月の北海道立旭川美術館の「デイヴィッド・ナッシュ 音威子府の森」展では、ナッシュのアシスタントを務めた。 87年、栃木県立美術館の「アートドキュメント ‘87」で優秀賞を受賞。88年から、世田谷美術館のワークショップに講師として参加、2014年まで継続した。また、埼玉県立近代美術館、三重県立美術館をはじめ、国内各地で開催されたグループ展、ワークショップに積極的に参加した。05年、群馬県吾妻郡六合村の暮坂芸術区に移住。(同村は10年に中之条町に合併)暮坂芸術区は、群馬県の芸術振興に尽力した実業家井上房一郎(1898-1993)が、芸術村として開発をはじめた地であった。同地の自然、野生動物などを素材に、あるいはモチーフにした作品を制作しはじめ、同地での作品を09年群馬県立近代美術館にて、「スタン・アンダソン 東西南北天と地―六合の一年」の個展で公開した。自然から取り出した竹、木、石、動物の毛皮、骨などを素材に、自然が織りなす時間、空間の表情を表現しようとしていた。これに加えて、ネイティヴ・アメリカン、オーストラリアのアボリジニ、日本のアイヌへの関心も深く、現代が忘れた自然への信仰と畏怖への意識もつねに漂わせていた。11年の中之条ビエンナーレでは、居住する同地の古道を、下草を刈りながら再生するプロジェクトをはじめた。これは13年の同ビエンナーレにおいて「犬の散歩道:暮坂高原古道再生プロジェクト」と名付けられ、15年の同ビエンナーレでは、18キロにもおよんだ古道でのワークショップを開幕する直前に急逝した。かざらない純朴で、温厚な人柄とやさしく、的確な日本語の語りは、アーティストとしての自然志向の表現とともに、一般にも広く親しまれていた。一方90年代からは、制作のかたわら、日本語の能力を評価され、国内の美術館カタログの日本語の論文等の英訳に従事することが多くなった。国内の美術館界にとっては、海外への美術情報の発信という点からも、その正確な英訳は高く評価されていた。 没後の16年10月-12月、群馬県立館林美術館にて、「大地に立って/空を見上げて-風景のなかの現代作家」展が開催され、紙漉き作品、立体作品、ドローイングなどが出品され、あわせて活動の記録写真、映像も公開された。同展カタログに掲載された同題名のテキスト(松下和美)によって、その創作の意義が解説され、「略歴」、「主要参考文献」にその事績が簡潔に記されている。

久保田成子

没年月日:2015/07/23

読み:くぼたしげこ  美術家・映像作家の久保田成子は7月23日午後8時50分、癌のためニューヨークで死去した。享年77。 1937(昭和12)年8月2日、高校教師の父・隆円と、東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)でピアノを専攻した母・文枝の次女として、新潟県西蒲原郡巻町(現、新潟市西蒲区)に生まれる。母方久保田家の曾祖父・十代右作は貴族院議員となり、地元小千谷の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育ち、幼少から美術に優れた頭角を現す。両親からの賛同を得て、高校から新潟大学教授について絵を習い、在学中「二紀展」に入選。当時の日本に女流彫刻家が少なかったことから、この分野で身を立てようと東京教育大学(現、筑波大学)の彫塑科に進学。しかし、教員養成用教育課程に辟易とし、在学中は「全日本学生自治会総連合」(全学連)の「安保闘争」などに加わり、社会変革運動に積極的に関与。卒業後は、品川区立荏原第二中学校で教鞭を執った。 この頃前衛芸術に心酔していた久保田は、既存の秩序に抵抗した作品を理想とし、63年12月に東京・内科画廊で開催した初個展「Make a Floor of Love Letters」では、くしゃくしゃにした新聞紙を山のように積み、その上を白の布で覆ってブロンズの彫像を設置し、観客が紙の山に這い上がって鑑賞する作品を発表。現代舞踊家の叔母・邦千谷を通して、ニューヨークから帰国したオノ・ヨーコと、彼女の最初の夫一柳慧に会い、国際的な前衛美術運動で、ダダの流れを組むフルクサスに関与する。64年5月29日、ドイツのフルクサス運動で活躍中であった芸術の反抗児、ナムジュン・パイク(白南準)の東京・草月会館ホールでの公演に強い衝撃を受ける。公演を見て、当時の日本の美術界では自分のような前衛的な作家は育たないと思っていた矢先に、オノを通して知り合ったフルクサスの旗手ジョージ・マチューナスからニューヨークで開催されるフルクサスのコンサートに招待され、結婚資金から500ドルを持って64年7月4日、友人のアーティスト塩見充枝子とともにニューヨークに渡る。目的地はマンハッタンのキャナル・ストリート359番地の、フルクサス本部として使われていたマチューナスの事務所。そこで、ニューヨーク滞在中のパイクと運命のような再会をし、やがて恋愛関係を持つようになる。到着後しばらく一人暮らしをするが、マチューナスの呼びかけで、フルクサス本部で「コモン・システム」という共同生活を始め、この運動の副議長となる。65年7月の「不朽のフルクサス・フェスティヴァル」では、パイクの提案で、股座に筆を挿して描いたように演出したパフォーマンス「ヴァギナ・ペインティング」を披露し、一躍大胆な芸術家として知られるようになる。 ビデオ・アートの先駆者であるパイクの影響で、映像作品と、大学時代に学んだ彫刻の技術とを組み合わせたビデオ・スカルプチャーに転向。74年-82年まで、ジョナス・メカスの主催するアンソロジー・フィルム・アーカイブでビデオ・キュレーターの仕事も務める。仕事を通して人脈を広げ、当初はパイクの作品のプロデュースに力を入れたが、自分の「パートナーの芸術世界を真似ただけの皮相な二番煎じの作家」とならないよう、自作も当時の若手アーティストの登竜門であったニューヨークのオルターナティブ・スペース、The Kitchen(1972年)や、Everson Museum of Art(1973、75年)で展示。それらが画商のRené Blockの目に留まり、ニューヨークでの初個展「Shigeko Kubota Video Sculpture」(1976年)をRené Block Art Galleryで開催。尊敬するデュシャンを主題とした展覧会を開いて大きな反響を呼ぶ。中でも「階段を降りるヌード」(1976年)は、同年ビデオ作品で初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。また、「ビデオ・チェス」(1968-75年)では、デュシャンがパサデナ カリフォルニア美術館個展のオープニングで行った全裸の女性と着衣のアーティストとの関係を反転させ、着衣の久保田と全裸のパイクがチェスを打つパフォーマンスの映像作品を収録して、当時一世風靡したフェミニズムの反骨精神を反映させた。 Ren〓 Block Art Galleryの個展の成功を受けて、久保田の作品は、世界の美術の今後5年間の方向性を示す「ドクメンタ 6」(1977年)や、MoMAの「Projects」(1978年)で紹介された。84年の雑誌『アート・イン・アメリカ』のビデオ・アーティスト特集では、作品「River」(1979-81年)が表紙を飾り、久保田は巻頭記事で特集される。その後もグループ展では「ホイットニー・ビエンナーレ」(1983年)や「ドクメンタ8」(1987年)で紹介され、1991(平成3)年にはニューヨークの映像芸術専門美術館American Museum of the Moving Imageで大回顧展が開催された。このほかアムステルダムのステデリック美術館(1992年)や、日本の原美術館(1992年)、 ホイットニー美術館(1996年)などで次々と個展が開催され、シカゴ美術学校、ブラウン大学、スクール・オブ・ビジュアルアーツなどで教鞭を執った。久保田の考案したビデオ・アートに彫刻的要素を合わせたビデオ・スカルプチャーは、パイクに影響を与えたとも言われている。 私生活では77年3月21日パイクと結婚。その後1977-87年は、パイクの仕事の関系でドイツ在住。96年にパイクが脳卒中で倒れてからは介護に追われた。パイクのリハビリする姿を映像で記録し、2000年にLance Fung画廊で「セクシャル・ヒーリング」として発表。パイクの死後07年にMaya Stendhal Galleryで開催された「パイクとともに歩んだ生涯」が、最後の個展となった。今後、新潟県立近代美術館をはじめ国内で回顧展が予定されている。

オチオサム

没年月日:2015/04/26

読み:おちおさむ  福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる前衛画家のオチオサムは4月26日、急性心筋梗塞のため福岡県小郡市で死去した。享年79。 1936(昭和11)年、佐賀県佐賀市生まれ。本名は越智靖=おち・おさむ。母親は日本人形の人形師。私立龍谷学園高等部在学中に油絵を始め、日展、独立展、二科展を福岡のデパートでみる。54年3月、同校卒業。55年、精版印刷に入社、作業工程においてのちの作品素材となるアスファルトを見出す。同年9月、第40回二科展に初出品、「花火の好きな子供」「マンボの好きな子供」が入選、第九室に展示。56年7月、二科展九室会メンバーによるグループ展「九人展」(サトウ画廊)に「シグナル」出品。同年8月、福岡市の喫茶ばんじろうで開催された二科展激励会で桜井と知遇を得、親交が始まる。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「サカダチした野郎」「色のハゲたもの」「ヤツテシマツタ」を初出品。同年6月、第8回西日本美術展(福岡玉屋)に「ミズト水トミズ」を出品。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月にグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。以後68年まで九州派に参加し、俣野衛、桜井、石橋泰幸とともにその中核メンバーとして活動した。59年、菊畑茂久馬、山内重太郎と洞窟派を結成、60年5月、洞窟派展(東京、銀座画廊)に「出張大将」を出品。同年5月、中原佑介の選抜によりサトウ画廊で初個展を開催。61年4月、現代美術の実験(東京、国立近代美術館)に「作品I-V」を出品。66年に渡米、69年に帰国、その間にサンフランシスコで数度、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの祭典(福岡市、博多プレイランド)に美術担当で参加、オチの結婚披露宴パーティを挙行。同年3月第4回九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)に出品(翌年第5回展にも出品)。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室で桜井の個展が同時開催)。74年2月、九州現代美術「幻想と情念」展(福岡県文化会館)に出品。79年3月、第22回安井賞に「球の遊泳I」を出品。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。76年から福岡市中心に、北九州市、佐賀市、大阪市、名古屋市などで多く個展を開催。「1960年代―現代美術の転換点」(東京国立近代美術館、1981年)、「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)などの企画展に出品。アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した重要な作家のひとりと評される。没後、2015年10月、88年以来の九州派の回顧展、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)が開催、これに合わせて福岡市美術館叢書6として『九州派大全』(企画・監修=福岡市美術館、発売=グラムブックス)が刊行された。また福岡市美術館学芸員山口洋三が、2009年11月にオチのオーラルヒストリーを行い、その内容は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのサイトで公開された。

三上晴子

没年月日:2015/01/02

読み:みかみせいこ  アーティストで多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース教授の三上晴子は1月2日にがんのため死去した。享年53。 1961(昭和36)年静岡県に生まれる。高校卒業後、上京。カセット・マガジン『TRA』の編集に携わり、アートの評論も執筆。84年から鉄クズ、コンクリート片などの廃棄物を素材にしたオブジェを用いたパフォーマンスを開始。「ナムジュン・パイクをめぐる6人のパフォーマー」(原宿ピテカントロプス)にナム=ジュン・パイク、坂本龍一、細野晴臣、立花ハジメらとともに出演するなど、東京のアートシーンで華やかな存在として注目を集めていたという。翌年5月、サッポロビール恵比寿工場跡で初個展「滅ビノ新造形」を開催、展覧会終了後に『朝日ジャーナル』の連載「筑紫哲也の若者探検 新人類の旗手たち」に取り上げられる。86年、飴屋法水が主宰する劇団「東京グランギニョル」の最終公演「ワルプルギス」で舞台装置を担当。その後も「BAD ART FOR BAD PEOPLE」(東京・飯倉アトランティックビル、1986年)、「Brain Technology」(東京・作家スタジオ、1988年)で、神経や脳を思わせるケーブルやコンピュータの電子基板を使ったオブジェやインスタレーションを発表。その後、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させ、1990(平成2)年にこの時期の集大成となる「Information Weapon」(1:Super Clean Room 横浜・トーヨコ地球環境研究所、2:Media Bombs 東京・アートフォーラム谷中、3:Pulse Beats 東京・P3 art and environment)を開催。91年に渡米、95年にニューヨーク工科大学大学院情報科学研究科コンピュータ・サイエンス専攻を修了、2000年までニューヨークを拠点とし、欧米のギャラリーやミロ美術館(スペイン)、ナント美術館(フランス)などの現代美術館、またトランス・メディアーレ(ベルリン)やDEAF(ロッテルダム)、アルス・エレクトロニカ(リンツ)をはじめとする世界各国のメディアアート・フェスティバルで発表。国内では、92年、NICAF92で池内美術レントゲン藝術研究所のブースで展示。93年、個展「被膜世界:廃棄物処理容器」(ギャラリーNWハウス、Curator’s Eye ’93 vol.3、キュレーター=熊谷伊佐子)、福田美蘭との二人展「ICONOCLASM」(レントゲン藝術研究所)を開催。コンピュータサイエンスを学ぶなかで、不可視の情報と身体の関係へと興味が移行、90年代なかばからは知覚によるインターフェイスを中心としたインタラクティヴな作品として、視線入力による作品「Molecular Informatics: Morphogenic Substance via Eye Tracking」(キャノンアートラボ、1996年)、聴覚と身体内音による作品「存在、皮膜、分断された身体」(NTTインターコミュニケーション・センター常設作品、1997年)、重力を第6の知覚と捉えた作品「gravicells―重力と抵抗」(山口情報芸術センター、2005年)、情報化社会における身体性と欲望を表現した「Desire of Codes―欲望のコード」(山口情報芸術センター、2010年、第16回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞)を発表。2000年に多摩美術大学情報デザイン学科に着任。作品集に『ALL HYBRID』(ペヨトル工房、1990年)、『Jae‐Eun Choi, Seiko Mikami』(都築響一編、京都書院、1990年、Art random 34)、『Seiko Mikami Art works: Molecular Informatics』(Diputacion Provincial De Malaga(スペイン)、2004年)、『gravicells:グラヴィセルズ作品集』(山口情報芸術センター、2004年)、『欲望のコード:Desire of Codes作品集』(NewYork Artist Archives and Books、2011年)などがある。没後、浅草橋のパラボリカ・ビスで「三上晴子と80年代」展が開催され、追悼記事として椹木野衣「追悼・三上晴子―彼女はメディア・アーティストだったか」(ウェブマガジン『ART iT』)などが寄せられた。

赤瀬川原平

没年月日:2014/10/26

読み:あかせがわげんぺい  美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川の進路に決定的な影響を及ぼす。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。同級には、荒川修作、岩田信市などがいた。55年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退。57年から日本アンデパンダン展、58年から読売アンデパンダン展に出品。58年には道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していた。 59年4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受ける。60年、吉村と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川は、廃物を利用したオブジェを制作していた。その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、62年8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川個人の作品としては、梱包作品や模型千円札がある。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まり、65年11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。70年4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定する。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、70年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられる。 68年に燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動をおこなう。70年、今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表。また、69年から『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始した「現代野次馬考」シリーズや70年から『朝日ジャーナル』に連載を開始した「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに70年代半ばまで取り組む。78年、最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表。79年、尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となり、81年、「父が消えた」で芥川賞受賞。83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがある。1998(平成10)年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなる。 初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家であった。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられた。赤瀬川自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)がある。また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしている。

河原温

没年月日:2014/06/27

読み:かわらおん  現代美術作家の河原温は、6月27日にニューヨークで死去した。生没年月日は公表されていないが、2015(平成27)年にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開催された大規模な個展「河原温――沈黙」の図録に、上記の日付における略歴として「29,771日」と記されており、享年81であったと思われる。 河原温は、1951(昭和26)年に愛知県立刈谷高等学校を卒業して上京し、独学で絵画の制作を開始した。翌52年から56年頃までの約5年間に、日本美術会と読売新聞社のそれぞれの主催による二つのアンデパンダン展、「ニッポン」展、デモクラート美術展などの公募展やグループ展において、またタケミヤ画廊等で開催した何回かの個展を通じて、精力的に絵画作品の発表を行っている。この時期の河原の作品は、ロボットやマネキンを思わせる記号化された人体表現、遠近法を強調した空間表現、不規則多角形の変形カンヴァスや変形紙面の使用を特徴とし、非人間的でSF的な状況を不条理なユーモアとともに描出した具象的な絵画(油彩画および素描)であった。中でも「浴室」シリーズと「物置小屋の中の出来事」シリーズという二つの鉛筆素描連作(いずれも東京国立近代美術館蔵)は、戦後の閉塞した社会状況を象徴し、時代を代表する傑作として高い評価を受けている。油彩画としては「孕んだ女」(1954年、東京国立近代美術館蔵)や「黒人兵」(1955年、大原美術館蔵)などがある。 戦後世代を代表する新進画家として注目を集め、活躍が期待された河原だったが、少数の観客しか目にしない展覧会での作品発表という形式に限界を感じ、より広範な観客が鑑賞できる媒体として、50年代後半から「印刷絵画」の可能性を模索するようになった。これは、作家自身が製版・印刷の工程を監理しながら制作する、オフセット印刷による絵画で、作者自身によって書かれたテクスト「印刷絵画」(『美術手帖』誌155号、臨時増刊「絵画の技法と絵画のゆくえ」、1959年)に詳細が論じられている。 しかしながら、結局のところ河原は、全く新しい展開を求めて59年9月に日本を離れ、メキシコ、ニューヨーク、パリでの滞在を経て、64年秋からはニューヨークに定住することになる。この間の63年以前の作品についてはほとんど知られていないが、64年にパリおよびニューヨークで制作されたドローイングが200点ほど現存する。これらは言語をテーマにした作品やインスタレーション作品のプランが多く、50年代の東京時代の作品とは、すでに全く異なるものであった。65年にニューヨークで制作された作品は、カンヴァス上に文字を描いた作品や暗号を用いた作品であり、そして翌66年1月からは、単色の地のカンヴァスに白い活字体の文字で日付を書いた絵画作品、いわゆる「日付絵画」(「Today(今日)」シリーズ)の制作が始められることになる。 「日付絵画」は、ただ単に日付を描いた絵画ではなく、いくつかの規則に則って制作されているが、そのうち最も本質的なものは、描かれた日付の24時間のうちに制作が開始され、描き終えられなければならないというものである。すなわち、その正式タイトルが「Today(今日)」であることからもわかるように、描いている作家にとって、描かれる日付は常に「今日」でなければならないのであり、描き終えられなかった場合は破棄される。それゆえ、一枚一枚の「日付絵画」は、作家がその日付の日に生存し制作したという、一種の存在証明のようなものとなる。日付は、作家がその日に滞在していた都市における公用語の一つを用いて書かれており、カンヴァスの大きさは、8×10インチから150号大までの8種類の中から選ばれている。画材はリキテックス社のアクリリック(アクリル絵具)で、赤と青は既成の絵具を混色せずに用いているのに対し、ダークグレーに見えるその他の画面の色彩は、その都度絵具を調合して色を出している。それゆえ、一見同じように見えるダークグレーの画面には様々な色調が認められ、「日付絵画」が作家の感情や気分、意識の状態を反映した「絵画」として制作されていることがわかる。絵画は自作のボール紙製の箱に納められ、箱の内側にはその日の新聞が貼り込まれている。「日付絵画」は、文字通り河原ライフ・ワークであり、亡くなる前年の13年までの間に3000点近い数が描かれたと言われる。 「日付絵画」に続き、河原は60年代の後半から、一連の自伝的な作品を制作した。その日に読んだ新聞記事をスクラップした「I READ」(1966年-95年)、起床した時刻をスタンプで記した絵葉書を友人に宛てて送り続ける「I GOT UP」(1968年-79年)、その日に会った人物の名前を会った順にタイプ打ちした「I MET」(1968年-79年)、その日に行った経路をゼロックス・コピーの地図の上に赤線で記録した「I WENT」(1968年-79年)がそれである。 一方、存在証明的な意味が最も強いのは、電報による作品「I AM STILL ALIVE」(1970年-2000年)で、「私はまだ生きている」という意味の英文の電報を間欠的に友人や知人に宛てて打電するものである。とはいえ、発信時点での発信者の存在証明は、受信者の時空におけるその不在を同時に喚起する。受信した時点で本当に「私はまだ生きている」かどうかはわからないのである。この構造は「日付絵画」とも通じるものである。というのも、66年以降、河原は、展覧会のオープニングなど公式の場に姿を見せることはなく、写真も公表していないので、描かれた日付の時点における作者の存在証明は、そのまま「日付絵画」の鑑賞者にとっての作者の不在をあらわにするからである。 「日付絵画」と一連の自伝的な作品のように、河原自身の生と密接に結びついた作品とは異なり、時間と人類を巨視的に捉えた作品が、「100万年」である。1ページに500年分の西暦の年号をタイプアウトし、それを2000ページ、つまり100万年分続けて、10巻からなる年号簿とした書物の形の作品で、過去編(1970年-71年)と未来編(1980年-98年)が制作された。人類そのものの発生から、現在を経て、その消滅までをも包含する時間が可視化されたこの作品は、見る者を超越的で宇宙的な視点に誘う。 晩年の河原温は、「日付絵画」の制作を続ける傍ら、展覧会への参加を極力限定し、最終的には二つのプロジェクトのみが残ることになった。一つは「100万年」の朗読のプロジェクト(1993年-)で、展覧会などの会場で「100万年」の一部を俳優や一般の参加者などが朗読したり、録音して出版したりするものである。もう一つは「純粋意識」(1998年-)と題された「日付絵画」を幼稚園に展示するプロジェクトで、人間に社会性が刷り込まれる以前の幼児期に「日付絵画」を直接的に経験させることを意図して、世界の20カ所以上で実施されてきた。これらはいずれも、他者の意思により、作者の不在のもとでも、おそらくは死後においても、実施することができるプロジェクトである。 「日付絵画」以降の河原温の作品は、文字や数字を用いているため、コンセプチュアル・アートの代表的な作例とされることが多い。しかしながらそれは、日々目覚めては眠りにつく人間の生を意識の明滅と捉え、それを誕生から死までの時間に、さらには人類の発生と滅亡という次元にまで敷衍するもので、個人的なものや日常的なものと普遍的なものや宇宙的なものとを直感的に結びつける、極めて独創的な形式であった。瞑想的な作品は、世界中で高く評価され、大きな影響を与えている。

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