オチオサム

没年月日:2015/04/26
分野:, (美)
読み:おちおさむ

 福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる前衛画家のオチオサムは4月26日、急性心筋梗塞のため福岡県小郡市で死去した。享年79。
 1936(昭和11)年、佐賀県佐賀市生まれ。本名は越智靖=おち・おさむ。母親は日本人形の人形師。私立龍谷学園高等部在学中に油絵を始め、日展、独立展、二科展を福岡のデパートでみる。54年3月、同校卒業。55年、精版印刷に入社、作業工程においてのちの作品素材となるアスファルトを見出す。同年9月、第40回二科展に初出品、「花火の好きな子供」「マンボの好きな子供」が入選、第九室に展示。56年7月、二科展九室会メンバーによるグループ展「九人展」(サトウ画廊)に「シグナル」出品。同年8月、福岡市の喫茶ばんじろうで開催された二科展激励会で桜井と知遇を得、親交が始まる。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「サカダチした野郎」「色のハゲたもの」「ヤツテシマツタ」を初出品。同年6月、第8回西日本美術展(福岡玉屋)に「ミズト水トミズ」を出品。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月にグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。以後68年まで九州派に参加し、俣野衛、桜井、石橋泰幸とともにその中核メンバーとして活動した。59年、菊畑茂久馬、山内重太郎と洞窟派を結成、60年5月、洞窟派展(東京、銀座画廊)に「出張大将」を出品。同年5月、中原佑介の選抜によりサトウ画廊で初個展を開催。61年4月、現代美術の実験(東京、国立近代美術館)に「作品I-V」を出品。66年に渡米、69年に帰国、その間にサンフランシスコで数度、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの祭典(福岡市、博多プレイランド)に美術担当で参加、オチの結婚披露宴パーティを挙行。同年3月第4回九州・現代美術の動向展(福岡県文化会館)に出品(翌年第5回展にも出品)。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室で桜井の個展が同時開催)。74年2月、九州現代美術「幻想と情念」展(福岡県文化会館)に出品。79年3月、第22回安井賞に「球の遊泳I」を出品。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。76年から福岡市中心に、北九州市、佐賀市、大阪市、名古屋市などで多く個展を開催。「1960年代―現代美術の転換点」(東京国立近代美術館、1981年)、「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)などの企画展に出品。アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した重要な作家のひとりと評される。没後、2015年10月、88年以来の九州派の回顧展、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)が開催、これに合わせて福岡市美術館叢書6として『九州派大全』(企画・監修=福岡市美術館、発売=グラムブックス)が刊行された。また福岡市美術館学芸員山口洋三が、2009年11月にオチのオーラルヒストリーを行い、その内容は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのサイトで公開された。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(538頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「オチオサム」『日本美術年鑑』平成28年版(538頁)
例)「オチオサム 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809046.html(閲覧日 2024-04-19)

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