久保田成子

没年月日:2015/07/23
分野:, (美)
読み:くぼたしげこ

 美術家・映像作家の久保田成子は7月23日午後8時50分、癌のためニューヨークで死去した。享年77。
 1937(昭和12)年8月2日、高校教師の父・隆円と、東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)でピアノを専攻した母・文枝の次女として、新潟県西蒲原郡巻町(現、新潟市西蒲区)に生まれる。母方久保田家の曾祖父・十代右作は貴族院議員となり、地元小千谷の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育ち、幼少から美術に優れた頭角を現す。両親からの賛同を得て、高校から新潟大学教授について絵を習い、在学中「二紀展」に入選。当時の日本に女流彫刻家が少なかったことから、この分野で身を立てようと東京教育大学(現、筑波大学)の彫塑科に進学。しかし、教員養成用教育課程に辟易とし、在学中は「全日本学生自治会総連合」(全学連)の「安保闘争」などに加わり、社会変革運動に積極的に関与。卒業後は、品川区立荏原第二中学校で教鞭を執った。
 この頃前衛芸術に心酔していた久保田は、既存の秩序に抵抗した作品を理想とし、63年12月に東京・内科画廊で開催した初個展「Make a Floor of Love Letters」では、くしゃくしゃにした新聞紙を山のように積み、その上を白の布で覆ってブロンズの彫像を設置し、観客が紙の山に這い上がって鑑賞する作品を発表。現代舞踊家の叔母・邦千谷を通して、ニューヨークから帰国したオノ・ヨーコと、彼女の最初の夫一柳慧に会い、国際的な前衛美術運動で、ダダの流れを組むフルクサスに関与する。64年5月29日、ドイツのフルクサス運動で活躍中であった芸術の反抗児、ナムジュン・パイク(白南準)の東京・草月会館ホールでの公演に強い衝撃を受ける。公演を見て、当時の日本の美術界では自分のような前衛的な作家は育たないと思っていた矢先に、オノを通して知り合ったフルクサスの旗手ジョージ・マチューナスからニューヨークで開催されるフルクサスのコンサートに招待され、結婚資金から500ドルを持って64年7月4日、友人のアーティスト塩見充枝子とともにニューヨークに渡る。目的地はマンハッタンのキャナル・ストリート359番地の、フルクサス本部として使われていたマチューナスの事務所。そこで、ニューヨーク滞在中のパイクと運命のような再会をし、やがて恋愛関係を持つようになる。到着後しばらく一人暮らしをするが、マチューナスの呼びかけで、フルクサス本部で「コモン・システム」という共同生活を始め、この運動の副議長となる。65年7月の「不朽のフルクサス・フェスティヴァル」では、パイクの提案で、股座に筆を挿して描いたように演出したパフォーマンス「ヴァギナ・ペインティング」を披露し、一躍大胆な芸術家として知られるようになる。
 ビデオ・アートの先駆者であるパイクの影響で、映像作品と、大学時代に学んだ彫刻の技術とを組み合わせたビデオ・スカルプチャーに転向。74年-82年まで、ジョナス・メカスの主催するアンソロジー・フィルム・アーカイブでビデオ・キュレーターの仕事も務める。仕事を通して人脈を広げ、当初はパイクの作品のプロデュースに力を入れたが、自分の「パートナーの芸術世界を真似ただけの皮相な二番煎じの作家」とならないよう、自作も当時の若手アーティストの登竜門であったニューヨークのオルターナティブ・スペース、The Kitchen(1972年)や、Everson Museum of Art(1973、75年)で展示。それらが画商のRené Blockの目に留まり、ニューヨークでの初個展「Shigeko Kubota Video Sculpture」(1976年)をRené Block Art Galleryで開催。尊敬するデュシャンを主題とした展覧会を開いて大きな反響を呼ぶ。中でも「階段を降りるヌード」(1976年)は、同年ビデオ作品で初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。また、「ビデオ・チェス」(1968-75年)では、デュシャンがパサデナ カリフォルニア美術館個展のオープニングで行った全裸の女性と着衣のアーティストとの関係を反転させ、着衣の久保田と全裸のパイクがチェスを打つパフォーマンスの映像作品を収録して、当時一世風靡したフェミニズムの反骨精神を反映させた。
 Ren〓 Block Art Galleryの個展の成功を受けて、久保田の作品は、世界の美術の今後5年間の方向性を示す「ドクメンタ 6」(1977年)や、MoMAの「Projects」(1978年)で紹介された。84年の雑誌『アート・イン・アメリカ』のビデオ・アーティスト特集では、作品「River」(1979-81年)が表紙を飾り、久保田は巻頭記事で特集される。その後もグループ展では「ホイットニー・ビエンナーレ」(1983年)や「ドクメンタ8」(1987年)で紹介され、1991(平成3)年にはニューヨークの映像芸術専門美術館American Museum of the Moving Imageで大回顧展が開催された。このほかアムステルダムのステデリック美術館(1992年)や、日本の原美術館(1992年)、 ホイットニー美術館(1996年)などで次々と個展が開催され、シカゴ美術学校、ブラウン大学、スクール・オブ・ビジュアルアーツなどで教鞭を執った。久保田の考案したビデオ・アートに彫刻的要素を合わせたビデオ・スカルプチャーは、パイクに影響を与えたとも言われている。
 私生活では77年3月21日パイクと結婚。その後1977-87年は、パイクの仕事の関系でドイツ在住。96年にパイクが脳卒中で倒れてからは介護に追われた。パイクのリハビリする姿を映像で記録し、2000年にLance Fung画廊で「セクシャル・ヒーリング」として発表。パイクの死後07年にMaya Stendhal Galleryで開催された「パイクとともに歩んだ生涯」が、最後の個展となった。今後、新潟県立近代美術館をはじめ国内で回顧展が予定されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成28年版(545-546頁)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「久保田成子」『日本美術年鑑』平成28年版(545-546頁)
例)「久保田成子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809101.html(閲覧日 2024-04-20)

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