赤瀬川原平

没年月日:2014/10/26
分野:, (美)
読み:あかせがわげんぺい

 美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。
 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川の進路に決定的な影響を及ぼす。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。同級には、荒川修作岩田信市などがいた。55年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退。57年から日本アンデパンダン展、58年から読売アンデパンダン展に出品。58年には道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していた。
 59年4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受ける。60年、吉村と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川は、廃物を利用したオブジェを制作していた。その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、62年8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川個人の作品としては、梱包作品や模型千円札がある。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まり、65年11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。70年4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定する。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、70年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられる。
 68年に燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動をおこなう。70年、今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表。また、69年から『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始した「現代野次馬考」シリーズや70年から『朝日ジャーナル』に連載を開始した「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに70年代半ばまで取り組む。78年、最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表。79年、尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となり、81年、「父が消えた」で芥川賞受賞。83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがある。1998(平成10)年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなる。
 初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家であった。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられた。赤瀬川自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)がある。また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしている。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(515頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「赤瀬川原平」『日本美術年鑑』平成27年版(515頁)
例)「赤瀬川原平 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247380.html(閲覧日 2024-12-06)

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