桜井孝身

没年月日:2016/02/15
分野:, (美)
読み:さくらいたかみ

 福岡を拠点に結成された前衛美術集団「九州派」の創立メンバーとして知られる美術家の桜井孝身は、2月15日、肺炎のため死去した。享年88。
 1928(昭和3)年、福岡県久留米市に生まれる。7人兄弟の第5子。53年福岡学芸大学(現、福岡教育大学)卒業、西日本新聞社(福岡市)に入社、校閲部に配属。同社在籍中に詩のグループに参加、また二科展福岡展の作品に感銘を受け、芸術を志す。55年9月第40回二科展に「抵抗」が初入選、第14室に展示。その後、二科展、西日本美術展、読売アンデパンダン展、日本アンデパンダン展などに出品を続ける。同年11月、俣野衛・桜井孝身二人展を筑紫野市のヒュッテ茶房で開催。56年8月、福岡市の喫茶ばんぢろで開催された二科展激励会でオチオサムと知遇を得る。同年11月、福岡県庁西側大通り壁面にて行われた街頭詩画展「ペルソナ展」に出品。57年2月、第9回読売アンデパンダン展に「手(日本風景)1―5」を初出品。同年4月、石橋泰幸・桜井孝身展を福岡市の岩田屋社交室で開催。同年7月、福岡市の西日本新聞社会議室で「九州派」結成集会を開催。同年8月に福岡市の岩田屋でグループQ18人展を開催(九州派の旗揚げ展)。この時期に発表し、のちの代表作となる「リンチ」は、作品素材であるアスファルトの物質性、鮮烈な黒、不定形のイメージは九州派を象徴する作品のひとつとされる。以後68年までオチ、石橋泰幸とともに九州派の中心メンバーとして活動した。東京では、59年8月に南画廊、64年3月に内科画廊で個展を開催。64年5月に福岡市の新天会館、新天画廊で開催、旧作を中心に200点を展示。65年、西日本新聞社を退社し、サンフランシスコに渡る。ビートニクの詩人であるアレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダーと出会い、哲学的・宗教的な問題への関心を強く持つようになる。67年に帰国するまで、日本人地区ブッシュストリートに住み、数回、九州派の展覧会を開催。70年2月、九州ルネッサンス・英雄たちの大祭典(福岡市、博多プレイランド)に広報担当で参加。同年10月、福岡県文化会館美術館で個展を開催(別室でオチの個展が同時開催)。この年2回目の渡米、サンフランシスコで日本人芸術家共同体「コンニャク・コンミューン」を創設、73年にフランスに渡る。以後、福岡市中心に、東京、パリなどで多く個展を開催。80年11月、福岡市美術館開館1周年 アジア美術展第2部アジア現代美術展(福岡市美術館)に出品。「九州派展―反芸術プロジェクト」(福岡市美術館、1988年)、「桜井孝身/オチ・オサム/石橋泰幸―九州派黎明期を支えた3人の画家」(福岡市美術館、常設展示、2014年)、「九州派展―戦後の福岡に産声をあげた、奇跡の前衛集団、その歴史を再訪する。」(福岡市美術館)などの九州派の回顧展のみならず、「戦後文化の軌跡」(目黒区美術館ほか、1995年)、「戦後日本のリアリズム」(名古屋市美術館、1998年)、「痕跡―戦後美術における身体と思考」(国立国際美術館、2004年)、「実験場1950s」(東京国立近代美術館、2012年)といった戦後日本美術を検証する展覧会に出品。著書に『髭の軌跡―桜井孝身小文集』(櫂歌書房、1979年)、『パラダイスへの道』(櫂歌書房、1989年創刊)、『I Discover Jesus Christ Is a Woman』(櫂歌書房、1987年)など、作品集に自家版『桜井孝身画集』(1992年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(533-534頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2023年12月01日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「桜井孝身」『日本美術年鑑』平成29年版(533-534頁)
例)「桜井孝身 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818661.html(閲覧日 2024-03-29)

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