本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





真野紀太郎

没年月日:1958/01/20

日本水彩画会名誉会員真野紀太郎は、1月20日東京都大田区で老衰のため没した。享年87才。号柱淵。明治4年5月8日名古屋市に生れた。明治12年上京、東京英語学校に普通学を修めたのち中丸精十郎並びに原田直次郎に就て油絵と水彩画を学んだ。のち専ら水彩画をえがき、明治40年大下藤次郎、丸山晩霞等と日本水彩画会研究所を設立、大正2年石井柏亭、南薫造等と日本水彩画会を結成し、以来その展覧会に毎回出品した。その間、大正10年から11年にわたり英、仏、独、伊等を巡遊、同12年には海軍練習艦隊に便乗して南洋諸島、濠州等を旅行、昭和7年には印度、ビルマ等を巡歴して制作した。その他台湾、上海、朝鮮、満州等には屡々赴いた。帰国の都度その作品を個展で発表した。昭和20年戦時中一時十和田湖に疎開したが同年帰京し、同23年画業60年記念展を、同26年80才記念展を開き、なお老を養いながら制作していた。はやくから私立日本中学校(現日本学園)の図画教師となり、のち理事をつとめた。その水彩画は所謂透明水彩画で、バラ花を最も得意とした。

坂上明司

没年月日:1958/01/17

白日会々員、水彩連盟会員坂上明司は、1月17日逝去した。享年34才。大正13年1月11日埼玉県秩父郡に生れた。昭和13年に上京、内閣印刷局彫刻課に勤務、翌年印刷局彫刻技能者養成所に入り、かたわら太平洋美術学校に学んだ。昭和16年、第一美術協会展に水彩画が入選、初めての作品発表であつた。17年から白日会展、日本水彩展に出品し18年には白日賞を受賞、東京みづゑ会展でみづゑ賞をうけた。20年に入営、大陸にわたるも翌年復員し、日展に「早春」、二科展に「緑陰」、白日会展に「5月の花」「春来る庭」を出品して白日賞をうけ会友に推された。22年水彩連盟同人となり、白日会では「春待つ村」「春陽」その他で奨励賞を受賞している。23年印刷局を退き、以後郷土研究のため生活の半ばを秩父に送り、没年まで水彩画の制作に専念した。25年白日会々員、27年水彩連盟会員になり、この頃から各地で個展を開いて活動し水彩画会では期待されていた新人であつたが1月17日東京都美術館借館団体の新年会に出席の帰途、事故死した。

椿貞雄

没年月日:1957/12/29

国画会々員椿貞雄は、12月29日千葉大学附属病院でホドキン氏病のため逝去した。享年61歳。自宅船橋市。明治29年2月10日米沢市に生れた。大正2年上京、正則中学校に転入したが、岸田劉生の個展に感動し、同3年劉生に師事した。大正4年草土社の結成に参加、更に巽画会、院展洋画部、二科会或は初期春陽会に出品する等、つねに岸田劉生と行動を共にし、作品も岸田の影響を最もつよくうけた。また、白樺同人武者小路実篤、長与善郎と識り、その人生観、芸術観は終生椿に大きな感化を与えた。昭和4年国画会に招かれて会員となり没年迄同会に所属、出品を続けていた。略年譜明治29年 2月10日山形県米沢市に生れた。大正2年 上京。大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。大正9年 第1回個展を京都で開催。大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。12月29日逝去。病名ホドキン氏病。昭和33年 4月第32回国展で遺作40余点を陳列。

伊藤信夫(しのぶ)

没年月日:1957/10/22

行動美術協会々員伊藤信夫は、明治40年3月21日北海道函館市に生れ、大正14年北海道庁立函館商業学校を卒業した。その後画家としての道を歩み、昭和7年第10回春陽会展に「冬日午後」「造船所」が初入選となり、以後毎年同展に作品を発表していた。しかし、昭和13年第25回二科展に「丘を望む風景」を送つてから二科会に移り、17年第29回展の「兄と弟」に依り二科会々友に推挙された。戦時中二科会は解散し、戦後再結成が行われたが、20年二科会を離れ、旧二科会同志たちと行動美術協会を結成してその会友となつた。21年創立第1回展に「父母の像」「木材搬出」「海浜の人々」を出品、友山荘奨励賞を受け、翌22年第2回展の「石切場」「大通り風景」「樹陰」により同会々員に推されている。作品は風景、或は人物・静物を配した風景画が多く、31年「砂上静物」「海浜静物」を最後として、32年10月22日没した。作品は他に全道美術協会展にも出品していた。自宅は札幌市。

長谷川三郎

没年月日:1957/03/11

洋画家、自由美術家協会々員長谷川三郎は、3月11日サンフランシスコに於いて上顎癌のため客死した。51歳。明治39年9月6日山口県に生れた。甲南高等学校を経て東京帝国大学文学部美学美術史科に学び、昭和4年卒業した。この間、大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重に師事した。昭和4年から同7年にわたつてアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペインに遊学した。滞仏中、昭和5年サロン・ドオトンヌに入選した。同7年帰国、二科会展に出品入選した。同9年新時代洋画展を興して展覧会を開き、また個展を催して作品を発表した。同12年、村井正誠、山口薫、矢橋六郎、浜口陽三等と自由美術家協会を結成し、わが国における抽象主義絵画の発展に尽瘁した。第二次大戦の戦中、戦後しばらくの間滋賀県長浜に疎開していたが、昭和25年藤沢市に移り、画業及び著作活動に従事するとともに、イサム・ノグチ等と親交を結び、わが国の前衛美術の海外紹介につとめた。同28年アメリカに渡り、ニューヨークにおいて個展を開き、また日米抽象絵画展、国際版画展等に作品を発表した。一度帰国したが、再び渡米、オークランドのカリフォルニア美術大学California College of Arts and Craft.サンフランシスコのアメリカ東洋文化研究所 American Academy of Asian Studies で東洋美術あるいは禅を講義していた。彼は抽象的な作風に終始したが、近年は書や禅の精神をとり入れ、拓本などを応用した作品を発表した。代表的な作品には、「泳ぎ」(昭和8年、二科展)、「蝶の軌跡」(同年12年、自由美術展)「湖のほとりにて」(同24年、自由美術展)「月光曲」(同25年、毎日連合展)「交響詩、晴日」(同26年自由美術展出品、紐育ロックフェラー・コレクション蔵)などがある。また著作に「アブストラクト・アート」「モヂリアニ」(アトリヱ社)、「新しい絵を見る手引き」「新しい形の美」(美術出版社)、「モダーン・アート」(東京堂)などがある。

岡部文(ふみ)之助

没年月日:1956/12/20

独立美術協会々員岡部文之助は、12月20日胸部疾患のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年47歳。明治42年4月16日札幌市に生れた。中学卒業ののち上京し、昭和3年東京美術学校図画師範科に入学、同6年卒業した。その後10年ほど山脇学園講師をつとめていたが、在学時代の昭和5年から林武に師事して、同5年二科展出品の「中野風景」は初入選となつた。昭和7年からは独立展に毎年作品を送り、15年独立美術協会賞、22年岡田賞を得て、翌年会員となつた。渋い色調で、風景を好んでかき、ことに北海道を描いた作品が多い。なお、殆ど毎年北海道で個展をひらいていた。作品略年譜昭和5年 第17回二科展「中野風景」。昭和7年 第2回独立展「東中野風景」「静物」。昭和15年 第10回独立展「稲こき」「草花」独立美術協会賞。紀元二六〇〇年奉祝展「サイロある風景」昭和18年 第13回独立展「収穫」「峠」。昭和19年 第14回独立展「木挽き」準会員となる。昭和22年 第15回独立展「野崎岬にて」「房州白浜」岡田賞。昭和23年 第16回独立展「牧車」他。会員となる。昭和25年 第18回独立展「牧場」他。昭和27年 第20回独立展「楡の木」「昭和新山」。昭和30年 第23回独立展「牧舎風景」「楡樹と穀倉」。昭和31年 第24回独立展「造船所」「網走港にて」。

井上安男

没年月日:1956/11/18

第二紀会々員井上安男は、11月18日名古屋市の自宅で逝去した。享年58歳。明治31年3月22日愛知県中島郡に生れた。大正6年愛知第一師範学校を卒業、同15年日本水彩画会々員となつた。二科会展にも出品し、昭和17年二科会々友に推されたが、19年同会は解散となつた。戦後、二科会の再建に加わらず、22年、二紀会の創立に会員として参加し、26年から審査委員に選ばれていた。作品は風景画が多い。第二紀会展出品作品昭和23年 「大正池の朝」「白樺」。昭和24年 「縞鯛」「初秋の志賀高原」。昭和25年 「尾道風景」「瀬戸内海」。昭和26年 「競輪場」「裸婦」「庭先の裸婦」。昭和27年 「キャンプ村」「乗鞍の大雪渓」。昭和28年 「庭先の裸婦」「寝覚の床」「毛皮の裸婦」。昭和29年 「滝と渓流」「海浜の松林」「南伊豆風景」。昭和30年 「伊良湖海景」「樹間の太陽」「岬端風景」。昭和31年 「岬端斜陽」「赤目渓流」。

吉川清

没年月日:1956/10/30

独立美術協会々員吉川清は、10月30日脳出血で藤沢市の自宅真徳寺に於て逝去した。享年53歳。本名喜善。明治36年6月18日群馬県に生れた。時宗々学院に学び、大正14年東洋大学を卒業した。その間、川端画学校にも学び、数年は宗教、文学、絵画の間を彷徨した。昭和10年頃から絵画に専心し、11年青年美術家集団展に「花」を出品した。翌12年から17年まで春陽会に、18年以後は独立美術協会の展覧会に出品して、28年同会々員となつた。昭和5年以来、藤沢市遊行寺の真徳寺住職をつとめ、作品も殆ど宗教画に限られていたといつていい。時宗の研究家で「一遍上人」の著述もある。作品略年譜昭和11年 青年美術家集団展「花」。昭和12年 春陽会展「婦人像」「黒衣」。昭和15年 春陽会展「不動明王」「孔雀明王」他。紀元二六〇〇年奉祝展「達磨」。昭和18年 第13回独立展「稚児文殊」。再び宗教に思いをめぐらし一遍上人の研究に着手。昭和19年 第14回独立展「馬頭観音像」。伝記「一遍上人」(協栄出版社)、「遊行一遍上人」(紙硯社)出版。昭和22年 第15回独立展「婦人像」。新興美術院展「山越阿弥陀」 「伝記一遍上人伝」(福地書店)出版。昭和23年 第16回独立展「まんだら」。毎日新聞社主催連合展「婦人像」。昭和24年 第17回独立展「釈迦三尊」「涅槃」独立美術協会賞。昭和26年 第19回独立展「鳥のいる涅槃像」「十三仏」。準会員となる。昭和28年 第21回独立展「来迎」「再誕」。会員となる。昭和30年 第23回独立展「苦行の釈迦」「魔笛」「虎を殺したラマ」。

坂田一男

没年月日:1956/05/28

洋画家坂田一男は、5月28日玉島市の自宅で逝去した。享年66歳。明治22年8月22日、岡山医学専門学校教授坂田快太郎の長男として岡山市に生れた。大正3年上京、本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事し、同5年、更に川端画学校に入り藤島武二に学んだ。大正10年渡仏、オットン・フリエスと交友、のちフェルナン・レジェの研究所に入り研究所の助手となつた。作品は、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイルリイなどに出品、立体派から次第に抽象的傾向に移行した。日本人では、抽象絵画の先駆をなした画家であつたが、昭和8年11月帰国ののちは、中央画壇との接触少く、郷里岡山県に居住し作品発表も稀であつた。同地では、18年に火虹会、24年に岡山アヴァン・ギャルドA・G・Oを設立、主宰していた。郷里の度々の水害で作品の殆ど大半を損失してしまつたが、没後、昭和32年4月、東京ブリヂストン美術館で遺作50余点の展観が行われた。

中筋幹彦

没年月日:1956/02/24

自由美術家協会々員中筋幹彦は、2月24日胃癌のため逝去した。享年30歳、自宅、東京都世田谷区。大正14年8月14日大阪府南河内郡に生れた。昭和19年松江高校を経て東大に学んだが、21年中退して画生活に入つた。27日新樹会展に出品、また最初の個展を開いた。その後毎年1回個展による制作発表をつづけ、30年、第4回展を行つた。森芳雄に教えられるところ多く、30年には自由美術家協会の会員として迎えられたが、第19回展に、静物2点を出品したのが最後となつた。31年5月、サエグサ画廊で遺作10余点が陳列された。

吉岡憲

没年月日:1956/01/15

独立美術協会々員吉岡憲は、1月15日夜、中野区の踏切で国電に触れ死去した。自殺ともいわれるが明らかでない。享年40歳。本名佑晴。大正4年3月25日東京に生れた。川端画学校に学んだのち満州に渡り、さらに聖ウラヂミール専門学校に学んだ。ハルピンに約7年滞在、昭和15年帰国した。帰国後は独立展に出品し、18年第13回展では「母子」で独立美術協会賞をうけたが、戦線の急迫とともに、ジャワ方面に従軍し、同地で住民の文化指導にも従事していた。現在のジャワ美術学校創設の基礎は、当時の彼の努力によるところが大きかつたといわれる。22年独立美術協会準会員、23年会員となつた。戦後は独立美術協会の中堅として同展で活躍するほか、日本国際美術展、アンデパンダン展にも作品を発表していた。

安井曽太郎

没年月日:1955/12/14

日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長などの要職にあつた洋画壇の巨匠安井曽太郎は、12月初めから神奈川県湯河原の自宅で肺炎療養中同14日心臓麻痺のため逝去した。享年67歳。明治21年5月17日京都市に生れ、若くして平清水亮太郎に洋画の初歩を学び、同37年浅井忠の研究所に入り、のち関西美術院に移つて浅井、鹿子木孟郎の指導を受けた。同40年渡仏、アカデミイ・ジュリアンに入つてジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、素描コンクールにおいて屡々首席を占めた。滞仏中ミレー、ピサロの感化を受け、更にセザンヌに傾倒し、またイタリア、スペインに遊んでイタリア・ルネッサンス彫刻或いはグレコの芸術に惹かれた。大正3年帰国し、同4年二科会第2回展覧会に滞欧作品44点を特別陳列して識者の注目を集め、二科会々員に推挙された。その後、毎歳二科会に発表、ドラン、ボナール等の感化を示しながら遂に昭和5、6年頃に至つて肖像画或いは静物画、風景画に自己の様式をきずき、いくつかの名作を描いた。昭和10年帝国美術院会員に任命されると共に二科会々員を辞し、同11年同志と一水会を創立してその会員となつた。同12年帝国芸術院の創設に際し芸術院会員を仰付けられた。なお此の年門下生たちによつて連袖会が結成された。この頃満洲、朝鮮に遊んで熱河、京城などの風景画を製作し、以後2、3年の間しきりに上高地風景を描いた。昭和19年梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、同校が芸術大学となつて後まで熱意をもつて後進を指導した。昭和18、9年には北京に赴き、風景、肖像画を描いた。昭和23年以来湯河原に移り、病身をいたわりながら製作をつづけ、多くの人物画や静物、風景を描き、明快な色調と平明な描写に線描を加え、独自の画境を示しつつあつた。同24年日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展につくした。同27年多年の功労によつて文化勲章を受けた。以上のほか、国立近代美術館評議員、神奈川県立近代美術館運営委員であつた。 安井は、大正初年以来終始梅原竜三郎と並び称せられた。滞欧作以来絶えず発展を示したその芸術は、わが近代洋画の中軸をなしたが、その作風は写実精神に貫ぬかれている。昭和10年前後のいくつかの作品は、わが洋画史上記念碑的な作品として後世に遣るであろう。略年譜明治21年 5月17日、京都市中京区、木綿問屋を営む安井元七の五男として生る。母よね。明治27年 4月、京都市生祥尋常小学校に入学。明治31年 4月、卒業、京都市立商業学校に入学す。明治36年 4月、洋画家を志して同校本科1年修了後中途退学し、それより同校の図画教師平清水亮太郎につき鉛筆、水彩画を学ぶ。明治37年 夏、浅井忠の研究所に入り、浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受く。明治39年 3月、関西美術院創立され、同院に移る。明治40年 4月末、津田青楓と同行渡仏、6月パリのアカデミイ・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスに師事す。リュ・ドゥ・テアートルに住み、12月パリ郊外ヴィトリーに移住。明治41年 夏、津田青楓と共にグレに遊びグレ風景を描く。明治42年 6月、津田青楓と共にフロモンビール村に、7月、更に藤川勇造を加えた3人でオーヴェルニュ・ビルロング村に遊ぶ。作品に「田舎の寺」等あり。明治43年 リュ・ドウ・シュル・シュミディのアパートに移り、夏再度ビルロング村に遊ぶ。その後、アカデミイ・ジュリアンのジャン・ポール・ローランス教室を去り、自由研究に入つてリュ・ドゥ・ヴォージラルにアトリエを持つ。作品「林檎」「パンと肉」「藁屋の庭」等。明治44年 夏、ブルターニュに赴き、秋再びビルロング村に遊ぶ。作品「垣」「村の道」「曇り日」「春の家」等。大正元年 5月、福見尚文と共にヴェトイユに製作旅行し、夏イギリス、オランダ、ベルギーを回遊、また秋には長谷川昇、沢部清五郎とスペインに見学旅行す。作品「青き壷」「少女」「肖像」「巴里の縁日」等。大正2年 秋、小川千甕と共にイタリアに見学旅行す。作品「足を洗ふ女」「黒き髪の女」「赤き屋根」等。大正3年 リュ・ドゥ・バルイエールのアトリエに移る。更にリュ・ドゥ・ババンのアトリエに転居せるも、この頃より健康を害す。8月第一次世界大戦勃発と病のため留学中の主要作品45点を携えてロンドンに逃れ、初秋ロンドン発帰国す。11月、京都の自宅に帰る。作品「孔雀と女」「下宿の人々」等。大正4年 冬、紀州湯崎温泉に避寒、夏但馬の竹野梅岸に避著し、専ら健康の回復につとめる一方、10月第2回二科会展に滞欧作品44点を特別出陳し、二科会々員に推挙さる。なおこの年鹿木孟郎の後任として関西美術院に教鞭をとる。大正5年 冬、熱海伊豆山に静養、健康回復し、5月豊島区に居を定む。「ダリヤ」「丘の道」「女」「芽出し頃」「林檎」を第3回二科展に出品。大正6年 7月6日水野はまと結塘。「肖像」「女」「グロキシニヤ」「少女」(公開を禁ぜられ撤去)を第4回二科展に出品す。大正7年 「孟宗薮」「静物」「早春」「支那服を着たる女」「梅林」「林檎と密柑」「少女」(公開禁止撤去)を第5回二科展出品。大正8年 「樹蔭」「ダリヤ」「春」を第6回二科展に出品。大正9年 秋、2ケ月程比叡山麓に滞在製作す。「薔薇」「化粧」「静物」を第7回二科展に出品。大正10年 「人物」「静物」を第8回二科展に出品。大正11年 平和記念東京博覧会洋画部審査員となる。「椅子による女」を第9回二科展に出品。大正12年 6月9日長男慶一郎出生。震災後しばらく京都に滞在す。大正13年 「黒き髪の女」「裸女」「桐の木」「女立像」「風景」「京都郊外」「薔薇」「素焼壷の薔薇」「新緑」「ダリヤ」を第11回二科展に出品。大正14年 9月京都画箋堂に於いて個展。「柿実る頃」「薔薇」「裸女」「秋の村」を第12回二科展に出品。昭和元年 燕巣会創立され、その同人となり、第1回展に「松林」「ダリヤ」「画室」「京都郊外」を出品。昭和2年 「ダリヤ」「モデル」を第2回燕巣会展に出品、「ダリヤ」「林檎と莓」「初夏」「薔薇」「桐の花咲く庭」を第14回二科展に出品。昭和3年 春、奈良に滞在製作す。「静物」「早春」を第3回燕巣会展に出品、「菊」「桃」「花と少女」「小菊」を第15回二科展に出品。昭和4年 熱海に製作旅行す。「樹間の海」を第4回燕巣会展に出品。「熱海附近(一)」「熱海附近(二)」「座像」を第16回二科展に出品。昭和5年 「婦人像」「芍薬」を第17回二科展に出品。昭和6年 外房太海にて風景画を製作。「ポーズせるモデル」「外房風景」「薔薇」を第18回二科展に出品。昭和7年 国立公園協会の依嘱を受け、7月十和田湖奥入瀬に旅し、風景画の連作をなす。「薔薇」を第19回二科展に出品。昭和8年 4月清光会創立され、その同人となつて毎回出品す。「湖畔の道」「雉子」を第1回清光会展に出品。「奥入瀬の渓流」「風吹く湖畔」「モデル」を第20回二科展に出品。昭和9年 3月末犬吠岬へ旅し、秋十和田湖奥入瀬に再遊す。12月東京都新宿区に自宅、アトリエを新築転居す。「裸女」「薔薇」を第2回清光会展に出品。「金蓉」「T先生の像」を第21回二科展に出品。昭和10年 3月末鵜原に旅行し、「鵜原風景」を製作。6月帝国美術院会員を仰付けられ、二科会会員を辞す。秋、裏磐梯に旅行し製作す。「少女」「風景」を第3回清光会展に出品、「果物」「紅葉する黄櫨」「松と睡蓮」を藤島武二、梅原龍三郎、安井曽太郎新作洋画展に出品す。「三宝柑」を現代10大家洋画展出品。昭和11年 春、仙台に赴き「本多先生の像」を描き、5月朝鮮美術展審査のため、朝鮮に旅行す。12月同志と一水会を結成し、逝去まで同会に属して委員をつとむ。「女児」を第3回現代10大家洋画展に出品、「菊」を青樹社洋画展に出品。昭和12年 4月満州国美術展審査のため藤島武二と共に新京に赴き、帰途熱河承徳にて製作、7月帰国す。6月官制改正により帝国美術院は帝国芸術院と改められ、帝国芸術院会員を仰付けらる。この年門下生等により連袖会組織さる。「少女像」「ばら」を第4回清光会展に出品、「深井英五像」「承徳喇嘛廟」を第1回一水会展に出品。昭和13年 7月末より3ケ月間上高地に滞在、風景画を連作す。「薔薇」「京城府」を第5回清光会展に出品、「薔薇」を第1回連袖会展に出品。昭和14年 「白樺と焼岳」「薔薇」を第6回清光会展に出品、「福島夫人像」「霞沢岳」を第3回一水会展に出品。昭和15年 5月銀座三昧堂にて「安井曽太郎作肖像画観賞会」を開催、6月より10月中旬まで上高地に再遊す。「女と犬」を第7回清光会展に出品、「黒扇」を紀元二六〇〇年奉祝展、「菊」を第4回一水会展に出品。昭和16年 12月紀州白浜と瀞峡に遊び、太平洋戦争開戦に遇う。「果物」を第8回清光会展、「焼岳」「池と穂高」第5回一水会展に出品。昭和17年 痔疾手術、湯河原に静養して製作す。「読書」を第9回清光会展、「上高地晩秋図」を第6回一水会展、「鏡の前」を満洲国建国10週年慶祝展に出品。昭和18年 夏、野尻湖に遊び、秋展覧会審査のため北京に赴き、同地にて宇佐美寛爾の肖像を描く。「ばら」を第10回清光会展、「玉笛(崔承喜の像)」を第7回一水会展に出品。昭和19年 6月梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、7月帝室技芸員を命ぜらる。夏北京、北満に旅し、秋北京にて「宇佐美氏像」を描く。また華北交通依嘱の「連雲港の日の出」を描くため冬連雲港において製作。年来北京にて病む。「静物」を芸術院会員陸軍献納展に出品。昭和20年 3月帰京、直ちに埼玉県大里郡に疎開す。「藤山愛一郎氏像」製作。昭和21年 第1回日展審査員となる。秋、帯状疱疹により眼を病み出京、治療を受く。「安倍先生像」を第1回日展に、「桜」「栗」を第11回清光会展に、「T夫人の像」「大観先生像」を第8回一水会展に出品。昭和22年 11月埼玉から新宿の自宅に帰る。「紫禁城」「静物」第12回清光会展、「北京の図」「連雲の町(一)」「連雲の町(二)」第9回一水会展出品。昭和23年 2月静養のため湯河原、熱海に滞在、7月帰京す。眼病回復し「小坂氏像」製作。「上高地」「秋の明神岳」を第13回清光会展、「藤山氏像」を第2回美術団体連合展、「徳川氏像」を第10回一水会展に出品。昭和24年 初夏、神奈川県湯河原天野屋別荘(旧竹内栖鳳画室)に居を移す。なお5月銀座松坂屋において「安井・梅原自薦展」開催せられ、重要作品85点を陳列。6月日本美術家連盟創立せられると共に同連盟会長に推さる。「薔薇」を第14回清光会展に、「M子氏像」を第3回美術団体連合展に、「湯河原風景」「小坂氏像」を第11回一水会展に出品。昭和25年 雑誌文芸春秋の表紙絵を1月号より担当以後毎号執筆す。「櫟の若葉」を第15回清光会に、「小宮君像」「孫」「桃」「大内氏像」を第12回一水会展に出品。昭和26年 10月学制改革により東京芸術大学美術部教授に配置換え、11月神奈川県立近代美術館運営委員となる。「画室にて」を第13回一水会展に出品。昭和27年 3月自己の便宜により芸大教授を辞任、9月国立近代美術館評議員となり、11月梅原龍三郎と共に文化勲章を受領す。「楠の新芽」を第17回清光会展に、「黒卓の桃」を第1回日本国際美術展に、「来の宮風景」「立像」「天津桃」「腰かける裸女」を第14回一水会展に出品。昭和28年 5月酒田市本間美術館に「安井・梅原展」開催、10月神奈川県立近代美術館に「安井曽太郎自薦展」を開催。12月天野屋に静養中の大原総一郎の肖像に着手(未完)。「湯河原の若葉」を第18回清光会展に、「銀化せる鯛」を第2回日本国際美術展に、「腰かけのポーズ」「湯河原風景」を第15回一水会展に出品。昭和29年 2月国立近代美術館の「近代の肖像画」展に安井作の肖像画15点陳列さる。5月九州に飛行機旅行、坂本繁二郎に会う。8月神奈川県湯河原に自宅、アトリエを新築転居す。「櫟と楠」を第19回清光会展に、「桃」を第1回現代日本美術展に、「赤き橋の見える風景」を第16回一水会展に出品。昭和30年 2月渡辺忠雄の、7月河上弘一の肖像を描きはじむ。6月国立近代美術館の「巨匠の二十代」展に安井の作品31点陳列。11月市立神戸美術館の「安井曽太郎と前田青邨展」に安井の作品20点陳列さる。12月14日午後5時25分心臓麻痺のため逝去。12月18日東京築地本願寺に於て葬儀を執行。この年「安倍能成君像」を第3回日本国際美術展に出品、「葡萄とペルシヤ大皿」を七大家新作展に出品。なお日本美術家連盟主催年末連盟展出品のため製作中の「秋の城山」が絶筆となつた。

居串佳一

没年月日:1955/10/05

独立美術協会々員居串佳一は、10月5日北海道に於ける独立展開催のため同地旅行中急性肺炎のため札幌の宿舎で急逝した。旧姓水野。明治44年2月26日北海道網走に生れ、昭和6年網走中学枚を卒業した。同9年上京して画業に専心したが、その前同7年第2回独立展に「風景」「船着場」が初入選したのをはじめその後毎回入選し、同11年第6回展の「群」「海に生く」「氷上漁業」によつて海南賞を受け、翌年会友、同16年会員に推された。紀元二六〇〇年奉祝展に出品した「弓」はイタリア政府買上となつた。同19年千島に従軍したが、戦後北海道に疎開し、26年再び東京に居を定めて活躍していた。彼は、終始北海道の風物やアイヌの生活を主題とした写実的な作品を描いた。

服部亮英

没年月日:1955/09/28

光風会会員服部亮英は、肝臓癌のため東京都大田区の自宅で死去した。享年68。明治20年9月16日三重県河芸郡に生れた。大正3年東京美術学校西洋画科を卒業、同5年から7年まで東京日日新聞、同8年から9年までやまと新聞及び新愛知新聞、同10年から12年まで東京朝日新聞に、それぞれ漫画家として在社した。大正14年帝展に初入選し、爾来毎年入選して無鑑査となつた。昭和3年光風会会員となり、この年春シベリア経由渡欧、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリスを巡遊し、同4年帰国した。この間、サロン・ドウトンヌに出品した。同8年中国に遊び、さらに同11年から14年にわたつて北京美術学校に在職した。

荒井龍男

没年月日:1955/09/20

モダンアート協会会員荒井龍男は、膀胱癌のため東京大学病院小石川分院に入院中9月20日急逝した。享年51。明治38年大分県中津市に生れた。昭和8年パリに遊学し、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイレリーに出品した。同12年自由美術家協会の創立に参画し、長い間同会に発表したが、同25年同志とモダンアート協会を創立してその会員となり、また国際美術家協会委員となつた。同27年アメリカに渡り、紐育リバーサイド美術館に於いて個人展覧会を開き、翌28年にはパリのギャラリー・クルーズに於て、さらに29年にはブラジルのサンパウロ近代美術館に於いて個人展覧会を催し、同美術館に大作4点が収蔵された。30年には再度サンパウロ美術館に個展を開き、また同地のビエンナーレ展の日本代表に選ばれた。この年帰国、東京京橋のブリヂストン美術館に於いて個展を開催したが、膀胱癌手術の結果悪く、急死したものである。彼は終始前衛絵画のためにつくしたが、その早逝は惜しまれる。

新沼杏一

没年月日:1955/03/05

春陽会々員新沼杏一は、3月5日心臓麻痺のため逝去した。享年46歳。明治42年4月22日北海道に生れた。札幌第一中学校を卒業後上京、長谷川昇に師事すると共に春陽会研究所に学んだ。昭和6年はじめて春陽会に入選、その後毎回出品し、同11年春陽会賞を受け、同12年会友に推された。同18年から20年まで出征した。同22年春陽会々員に推挙され、同22年会務委員、研究所委員となつた。その初期の作品に「アッパッパの人達」「夜の果実店」「アクロバット」「ジンタ行進」「南瓜」があり、後の作品に「基本舞踏」(昭和25年連合展)等がある。

赤城泰舒

没年月日:1955/01/31

元文展審査員、光風会々員赤城秦舒は、1月31日脳出血のため東京都新宿区に於いて没した。享年66歳。明治22年6月30日静岡県駿東郡に生る。同37年一時神奈川県葉山に移り、翌年父の郷里福島県に帰住した。同39年出京して大下藤次郎の内弟子となり、水彩講習所と太平洋画会研究所に学んだ。同40年日本水彩画会研究所新設と共に同所に転じ、大正2年まで同会幹事をつとめながら修業した。明治42年第3回文展に「高原の朝」が初入選し、その後文、帝展、二科展、光風会展、日展等に多くの水彩画を出品した。大正2年同志と共に日本水彩画会を創立し、同7年には光風会々員に推され、昭和18年新文展の審査員となつた。また大正10年から長い間私立文化学院の教師をつとめ、昭和17年以来女子美術専門学校の講師となつて後進を指導するなど美術教育のためにもつくした。著書に「水絵の手ほどき」(昭和4年、博文館)がある。

権藤種男

没年月日:1954/12/23

元帝展、文展無鑑査権藤種男は、12月23日脳出血のため大分県立病院で逝去した。享年63。明治24年9月大分市に生れ、同45年東京美術学校図画師範科を卒業した。大正6年第11回文展に「驟雨の後」が初入選して以来文、帝展及び新文展に出品し、同9年第2回文展の「徒然」、昭和5年第11回帝展の「盛夏」は特選を受けた。官展のほか春台美術展にも出品した。その作風は、官学的な写実に終始した。第二次大戦後大分市に移り住み、大分県美術協会々長として郷土の美術につくした。主な作品大正6年 第11回文展「驟雨の後」。大正7年 第12回文展「初秋」。大正8年 第1回帝展「駒ケ岳の春趣」。大正9年 第2回帝展「徒然」(特選)。大正10年 第3回帝展「夕飼前」「梅雨霽」(無鑑査)。大正11年 第4回帝展「業」大正13年 第5回帝展「夏の朝」。大正14年 第6回帝展「釣堀」。大正15年 第7回帝展「夏日」。昭和2年 第8回帝展「秋郊」。昭和3年 第9回帝展「ダリヤ」。昭和4年 第10回帝展「清凉」。昭和5年 第11回帝展「盛夏」(特選)。昭和6年 第12回帝展「河畔」(無鑑査)。昭和7年 第13回帝展「庭の秋」。昭和88年 第14回帝展「海老網」。昭和9年 第15回帝展「高千穂峡」。昭和10年 第二部会展「樹下」。昭和11年 文展招待展「雨後の山」。昭和12年 第1回新文展「游鯉」。昭和13年 第2回新文展「樹下棋戦之図」(無鑑査)。昭和14年 第3回新文展「京城仁王山麓」(同)。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「徳寿宮後庭の五月」。昭和16年 「河野通有奮戦の図」(東京府養生館壁画)。昭和17年 第5回新文展「池の鯉」(無鑑査)昭和18年 「北清事変タークの占領」(海軍館壁画)昭和19年 戦時特別展「清姿」

五味清吉

没年月日:1954/08/19

旧帝展、文展無鑑査五味清吉は、8月19日盛岡市の自宅で急性肺炎のため死去した。享年69。明治19年盛岡に生れ、大正2年東京美術学校西洋画科を卒業した。明治44年第5回文展に「秋のおとづれ」が初入選して以来、文、帝展に出品し、第7回文展の「ハチスとシオン」は特選となつた。展覧会以外の作品に、旧東京駅の壁画「窯業と染色、鉱業と植林」(田中良と合作)や明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「山形秋田巡幸鉱山御覧」などがある。

富田温一郎

没年月日:1954/07/15

日展審査員、白日会々員富田温一郎は、7月15日東京都台東区の自宅で胃癌のため逝去した。享年67歳。明治20年10月21日石川県金沢市に生れ、44年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。大正3年第8回文展に「大学校庭の初夏」がはじめて入選して以来、文、帝展に出品し、9年第2回帝展の「母の肖像」、昭和3年第9回帝展の「子供とその母」は特選となつた。大正13年中沢弘光などと白日会を結成し、終始この会のためつくした。また戦後日展審査員を数回つとめた。前記のほか、主な作品には「河口」(大正11年平和記念東京博覧会2等賞)、「業」(第3回帯展)、「静物を配せる裸婦」(第10回帝展)、「八月の椽」(第15回白日会展)、「炉辺」(第3回日展)などがある。その作風は、極めて穏和な外光派風であつた。

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