本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





倉垣辰夫

没年月日:1951/10/24

馬の洋画家として知られていた倉垣辰夫は頚部腫瘍のため10月24日順天堂病院で逝去した。享年51歳。明治34年6月10日兵庫県多城郡に生れ、大正15年東京美術学校西洋画科卒業、昭和5年第11回帝展に「曲馬団」が初入選して以来、官展に作品を発表、戦後日展第5回に「競馬」第6回に「スタート前」を出品、第7回出品の「牧馬」が絶作となつた。馬に取材したその作品は堅実な写実画風であつた。

斎藤豊作

没年月日:1951/10/07

二科会創立委員の一人であつた斎藤豊作は10月7日Venvelle, Luche-Pringe Sarthe Franceの自宅に於て死去した。享年72歳。明治13年埼玉県に生れ、明治38年7月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。翌39年フランスに留学、ラファエル・コランに学び同45年春帰国、同年光風会第1回展に滞欧作「初冬」「残れる光」を出品、翌年秋第7回文展に「夕映の流」「落葉かき」を出品、強い色彩、点描派風のタツチによる作品は当時の画壇に注目された。作品の傾向は印象派風のものであつた。大正3年石井柏亭、山下新太郎、津田青楓等と二科会を創立、監査委員として活躍した。同年の二科第1回展には「初冬の朝」第2回展に「春の夕」「初夏の雨」「夏の夕」「水草」「農家の裏庭」「雨後の海」を出品した。その後暫く出品はなく、第6回展に「残雪」「雨後の夕」「朝」を出品したが、其の後再び渡仏、同地に定住し日本画壇を離れて了つた。彼地でも制作を続けてゐたが、作品は殆ど発表する事なくフランス画壇と接触がなかつた。

富樫寅平

没年月日:1951/08/26

独立美術協会々員富樫寅平は8月26日病気のため逝去した。享年45歳。明治39年2月27日新潟県新発田市に生れ、大正11年4月新発田商業卒業後1930年協会展に出品入選した。昭和3年5月画家志望にて上京、二科技塾に入り同7年退塾まで本格的な油絵の勉強につとめた。同6年第1回独立美術協会展に入選し、以後毎回出品今日に至つた。その間同12年「水浴」で独立賞を受け、同14年会友に推され、同18年会員に挙げられた。同会の中堅会員として毎回力作を出品、嘱目されたが業半ばにして没した。

国盛義篤

没年月日:1951/07/28

春陽会々員、京都市立美術大学助教授国盛義篤は7月28日ランドリー氏麻痺のため入院中逝去した。享年54歳。明治30年5月6日広島県山県郡に生れ、大正12年広島一中を経て京都市立絵画専門学校卒業、在学中関西美術院にてデッサンを学んだ。同13年第2回春陽会展に初入選し、その「橋」および翌14年の「坂道」、15年の「水辺初夏」が連続春陽会賞となり、昭和9年会員に推挙されて今日に至つた。昭和22年京都市立美術専門学校助教授、24年教授となり、25年同校学制改革により大学に昇格、その助教授に任ぜられ、絶えず京都にあつて後進の指導に当つた。作風は終始写実に立脚し、初期に於ては卒直素朴、深い色調乍ら温くふくよかであり、後期に至り漸次温雅な渋い美しさをたたえ静かで重厚な画面を創つた。

小代為重

没年月日:1951/06/01

洋画壇の長老小代為重は、昭和26年6月1日世田谷区の自宅において老衰のため逝去した。享年88。文久3年10月11日佐賀市に生れた。旧姓中野、小代家を継ぐ。明治8年上京慶応義塾幼稚舎に入り、本科に至つて中途退学し工部省修技校に学んだ。洋画は郷里の先輩百武兼行の指導を受けた。明治16年千葉師範学校、千葉中学校、千葉女子師範学校教諭となり、同19年工部大学校雇、同21年東京電信学校助教に任ぜられた。同22年明治美術会の創立に加つて会員となつたが、同29年白馬会の結成に参与して、その会員となつて作品を発表した。同33年パリに遊学、帰途ベルギー、オランダ、イギリスを巡歴したが、その後作品は少い。同34年以来青山学院中学部及青山女学院等に教鞭をとつた。白馬会時代の作品は、黒田清輝の感化を示し、その作風は明るい外光派風である。

池田永一治

没年月日:1950/12/30

洋風画家池田永一治は12月30日逝去した。享年62才。明治22年京都に生れた。永治、牛歩、田牛作等と号した。太平洋画会研究所に学び、満谷国四郎、中村不折、石井柏亭に師事した。主として文、帝展、太平洋画会展に出品した。太平洋美術学校教授として後進の薫陶にあたつた。漫画或は日本画をもよくし大正4年岡本一平、近藤浩一路と日本漫画会を起し、また平福百穂、小川芋銭等の珊瑚会に同人として日本画を発表した。  註、年令はすべて数え年を用いた。

渡邊審也

没年月日:1950/12/05

洋風画家渡邊審也は12月5日逝去した。享年76才。明治8年岐阜県に生れ、同23年上京、その長兄金秋について洋画を学んだ。同25年明治美術会教場に入学、浅井忠、松岡寿の指導を受け、同27年卒業した。その後も浅井の指導を受け、同28年明治美術会展覧会に「俊寛」を、同31年の同展に「猿曳」を出品して認められた。同34年太平洋画会の創立に参加し、毎年その展覧会に出品し、写実的な画風で知られた。のち時事通信社に入社して挿絵を担当し辞して文部省嘱託となつて教科書の挿絵を描いた。

吉田博

没年月日:1950/04/05

洋風画壇の長老であり、太平洋画会々長吉田博は4月5日新宿区の自宅で老衰のため逝去した。享年73。明治9年福岡県久留米市に生れ、福岡の修献館に学び、洋風画家吉田嘉三郎の養子となつた。同26年京都に出でて田村宗立に師事し、翌27年東京に移り、不同舎に入つて小山正太郎の指導を受けた。明治美術会に入り、同31年の同会10周年記念展に「雪叡深秋」「雲」などを発表して漸くその名を知られた。同32年自作の水彩画を携行し、中川八郎と共にアメリカに赴いて展覧会を開き、次で、英、仏、独、伊等を巡歴、同34年帰国した。同33年のパリ万国博に「高山流水」を出品、褒状を受けた。帰国の年、同志と共に太平洋画会を創立し、その逝去に至るまで同会の為につくした。同35年同会第1回展に「榛名湖」等油絵13点、同36年の第2回展に「昨夜の雨」等21点を出品した。この年再び欧米旅行に出発、米国、欧洲諸国及びモロツコ、エジプトを巡歴し、同39年帰国した。この間、同37年米国聖路易万国博に「昨夜の雨」を出品して銅牌を受け、太平洋画会に滞欧作を送つた。同40年東京府勧業博に「ニユーヨークの夕暮」を出品して2等賞を受けた。この年の第1回文展に「ピラミツドの月夜」「新月」(水彩)を出品、後者に2等賞が授けられた。その後の第2回文展に発表した「雨後の夕」(水彩)、第3回文展の「千古の雪」にそれぞれ2等賞が与えられた。同43年文展審査員となり、大正2年に及んだ。その後は、無鑑査として毎年文展に出品した。大正8年帝国美術院創立後もその展覧会に作品を発表、「雨後」(第1回)「マウント・シヤスター」(第5回)「精進湖」(第7回)「白馬鎗」(第9回)等があり大正13年以来数回にわたり帝展委員或は審査員となつた。此の間三度欧洲に遊んだ。その後も官展及び太平洋画会展に作品を送り、晩年太平洋画会々長となつた。彼は風景画家として知られたが、木版による多くの作品をも遺した。

河野通勢

没年月日:1950/03/31

新聞小説の挿絵に特異の境地を出して大衆的人気をよんだペートル河野通勢は3月31日逝去した。年55。明治28年群馬県に生れ、一時は長野にも住んでいたことがある。二科会第1回から出品し、草土社展にも発表、大正13年春陽会賞をうけ、15年春陽会々員となつたが、昭和4年国展会員に推薦されて以後この会にとどまつた。代表作には11回文展の「自画像」や第8回国展「ピクニツク」などがあり、突きこんだ異色ある人物画をかいた。エツチングにも特色を出し、また挿絵等の風俗描写にも鋭い表現を示した。

南薫造

没年月日:1950/01/06

帝室技芸員、日本芸術院会員南薫造は、1月6日広島県賀茂郡において逝去した。享年68。明治16年同郡に生れ、同35年東京美術学校西洋画科に入学、同40年3月卒業した。同年イギリスに留学、ボロー・ジヨンソンに師事し、同42年フランスに転じて研究を続け、翌43年に帰朝した。同年第4回文展に「坐せる女」を出品して3等賞を受け、第5回文展に「瓦焼き」第7回文展に「春さき」、第9回文展に「葡萄棚」を出品していずれも2等賞を授けられた。大正5年以来文展及び帝展審査委員に挙げられ、昭和4年帝国美術院会員を仰付けられた。帝展に発表した作品に「とりいれ」(第2回)「結氷の湖水」(第3回)「湖畔」(第4回)「鶴渡る」(第10回)「まきば」(第12回)等がある。昭和4年東京工業大学講師となり、同7年東京美術学校教授に任ぜられ、同19年に及んだ。同12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同19年帝室技芸員を拝命した。終戦後も疎開先に在つて、文展或は光風会等に作品を送つたが、遂に東京に帰ることなくして没した。

北蓮蔵

没年月日:1949/12/21

洋風画家北蓮蔵は、12月21日渋谷区の自宅に於て食道癌のため逝去した。享年74。明治9年岐阜市に生れ、上京して同22年から山本芳翠の生巧館画塾に学び、次で同27年黒田清輝、久米桂一郎の天真道場に入り、更に同30年東京美術学校に入学、翌31年卒業した。夙く白馬会に加わり、同展覧会に「魚売り」(第2回)「遺児」(第4回)等を発表した。彼は山本芳翠の薫陶によつて演劇の背景製作をよくし、同43年から大正3年まで帝国劇場背景主任として活躍した。昭和2年渡欧、各国を巡遊して同5年帰国。官展に於て無鑑査であつた。その代表作に明治神宮絵画館の「岩倉具視公病床行幸図」がある。

森脇忠

没年月日:1949/10/13

洋画家森脇忠は京都の自宅で10月13日胃癌のため死去した。享年62。明治21年島根県に生れ、大正3年東京美術学校を卒業した。大正3年以来文展に出品帝展に特選を受け無鑑査となつた。華畝洋画会に属し、又、三高、京都高等工芸学校の講師などをつとめた。

下村為山

没年月日:1949/07/10

疎開先の富山県西礪波郡に於て脳溢血のため逝去。享年85。本名純孝、慶応元年愛媛県松山に生る。明治20年前後本多錦吉郎、小山正太郎に就て洋画を学び同23年の第3回内国勧業博覧会に「慈悲者の殺生図」を出品して褒状を受けた。はじめ明治美術会に加つて、その展覧会に出品したが、同30年頃から日本画に転じ、南画家として知られた。又正岡子規の門に入り、内藤鳴雪、高浜虚子等と共に俳句を学び、その方面でも知られていた。

小林徳三郎

没年月日:1949/04/19

春陽会々員小林徳三郎は、4月19日豊島区の自宅で急逝した。享年66。明治17年広島県に生る。幼名藤井嘉太郎、後母方の伯父小林徳三郎の養子となり、襲名す。号天徳堂。明治42年東京美術学校を卒業、大正元年フユウザン会の創立に加わり、これに出品した。その後島村抱月の芸術座の舞台装飾主任となり、大正5、6年頃に至つた。同8年院展洋画部に「鰯」を出品、その後同展に発表した。大正12年春陽会第1回展に「鰯」その他を出品、その後毎回出品、大正15年同会々院に推された。昭和8年以来病に罹り、房州館山に療養生活の傍ら制作した。同11年帰京、同14年頃から多く江の浦に滞在、多数の作品を生んだ。昭和20年戦災のため箱根強羅に移り、同24年帰京したが、この年急逝した。その主な作品に「子供」(昭和2年)「金魚を見る子供」(同3年)「小卓子」(同6年)「へちま」(同7年)「窓辺の子供」(同11年)「河口湖夕照」(同15年)「江の浦残照」(同16年)「郊外落日」(同24年)等がある。

広瀬憲

没年月日:1948/10/10

自由美術家協会々員広瀬憲は10月10日未明立川駅附近で交通事故のため死去した。享年40。抽象絵画に特異な個性をもち甘味ある色彩を示していた。

中西利雄

没年月日:1948/10/06

新制作派協会並びに日本水彩画会会員、中西利雄は10月6日東京都中野区の自宅で肝臓癌のため死去した。享年49才。明治33年12月19日東京京橋に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、研究科に一ヶ年在籍し、昭和3年5月渡仏、巴里にて昭和6年10月まで絵画研究、この間英、伊、西班牙、和蘭陀、白耳義等にて研究を重ね6年11月帰朝、帝展及び日本水彩画会にて滞仏作を発表、昭和9年帝展にて特選、翌10年第二部会展に受賞し、昭和11年新制作派協会結成に際し、会員として加わり、只一人の水彩画の会員として有力な存在であつた。不透明描法の明快な色調と近代的な感覚を持つ独自な画境を示す共に水彩画の新生面を拓いた。著作に「水絵」(技法と随想)、「中西利雄作品集」がある。

北島浅一

没年月日:1948/09/18

文展に出品を続けていた洋画家北島浅一は9月18日東京杉並の自宅で逝去した。享年62。明治20年佐賀県に生れ、一時本郷研究所に学んだが明治45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正2年文展に「濁江の夕」を出品、その後同9年に渡欧、11年に帰朝した。滞仏仲にサロン・ドオトンヌに「踊り場」を出品入選した。帰朝後は主として官展に出品し、大正14年第6回帝展の「外出の後」は特選、同15年には無鑑査となった。

近藤光紀

没年月日:1948/08/09

一水会々員近藤光紀は8月9日腸チフスのため長野県浅間温泉で死去した。享年48。明治34年東京本郷に生れ、川端画学校に学び、更に東京美術学校に入つたが中退し曽宮一念に師事した。大正13年第5回帝展以後続けて出品し、昭和10年には無鑑査となつた。昭和7年新美術家協会々員となり、昭和12年第1回一水会展以来毎年出品し、第3回展に一水会賞を受け、第5回展に於て会員となつた。一水会の文展参加によつて第4回文展に出品した「少女像」は黒田子爵洋画奨励賞を受けた。以後一水会委員、日展委員、新美術家協会々員等として活躍していた。第2回一水会展「秋果静物」第3回一水会展「白い手袋」等の作品を遺している。

松本竣介

没年月日:1948/06/08

自由美術家協会会員松本竣介は6月8日肺炎のため東京都新宿区の自宅で37才で夭折した。明治45年4月19日東京青山に生れ、学齢前郷里盛岡に移る。盛岡中学卒業後昭和4年上京、太平洋画会研究所に入所し、昭和10年第22回二科展に初入選以来昭和19年解散まで毎回出品を続け、その間15年第27回展に特待賞をうけ翌16年度同展で会友に推挙された。18年新人画会を同志8人と結成し翌19年迄3回展覧会を催した。戦後21年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。22年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加したが、翌23年5月毎日新聞主宰連合展出品の「彫刻と女」「建物」を絶作として同展開催中発病、間もなく没した。西欧近代絵画によつて培われた高い知性を基盤として近代的なモチーフを内面的に扱いユニークな作風を築きつつあつた惜しい作家であつた。

御厨純一

没年月日:1948/02/07

第一美術協会々員御厨純一は2月7日東京都文京区の自宅で急逝した。享年62。明治20年佐賀市に生れ、白馬会菊坂洋画研究所に於て長原孝太郎に学び、更に同45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となり、同13年には渡仏昭和3年に帰朝した。帰朝後昭和4年2月、青山熊治、濱地青松、片多徳郎等と第一美術協会を創設し力作を出品していた。昭和12年海洋美術会創立と共に会員となつた。代表作に第一美術協会展出品の「ガンの塔」「白菊」「坂」「菊庭」「夜の自画像」「静浦」等がある。

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