本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1966/12/22 光風会会員、日展評議員の洋画家島野重之は、12月22日午後0時5分、肝硬変のため東京・新宿区の西北診療所で逝去した。享年64才。島野重之は、明治35年(1902)4月10日、滋賀県彦根市に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、同4年同校研究科を修了、昭和2年第8回帝展に「偶得信」が初入選、以降、帝展、光風会展に出品し、昭和3年光風会賞を受賞し、同6年光風会々員に推挙され、同12年第1回文展に「水辺初夏」を出品して特選となり、昭和洋画奨励賞をうけ、同14年文展無鑑査となった。戦後は日展の出品依嘱者となり、昭和28年第9回日展に審査員をつとめ、昭和33年社団法人日展の発足のとき評議員に就任した。作品略年譜偶得信(昭和2年8回帝展)、少女と小鳥(9回同展)、中田氏肖像・田端駅附近(昭和4年16回光風会展)、黄い服(11回帝展)、静物(18回光風会展)、アトリエにて(14回帝展)、座像(21回光風会展)、水辺初夏(第1回新文展特選)、室内(2回文展)、お茶時(3回文展)、草の上(5回文展)、水郷(30回光風会展)、早春(昭和21年第1回日展)、婦人と猫(5回日展)、T子の像(39回光風会展)、木蔭(9回日展)、夏(13回日展)、うすれ日(49回光風会展、文部省所蔵)、雪の山路(50回光風会展)、雪国(51回光風会展)。
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没年月日:1966/11/06 挿絵画家として知られる斎藤五百枝は、脳出血のため東京都中野区の自宅で死去した。享年84才。明治14年12月21日千葉県上総国長生郡に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中白馬会展10周年記念展に「夕陽」が入選し、卒業後は岡田三郎助に師事した。大正、昭和初期へかけては新聞、雑誌の挿絵家として活躍し、新聞の美術記者、日活映画の美術部主任等の職に従事した。晩年は染色の研究をしていた。
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没年月日:1966/07/16 新樹会会員の洋画家原勝郎は、7月16日午後1時15分、じん臓ガンのため東京都港区の自宅で逝去した。享年77才。原勝郎は、明治22年(1889)6月4日、千葉県山武郡に生れ、葵橋洋画研究所に学び、大正7年(1918)に挿絵画家としてハワイに行き、1920年アメリカへ渡る。1922年フランスのパリへ移り、1924年以後、39年まで毎年サロン・ドートンヌに出品した。1925年サロン・デ・ザンデパンダンに出品、1927年サロン・デ・チュイレリーに出品、1935年にはアントワープのギャラリー・ロワイヤルにおいて個展を開催する。1937年パリのロージェ画廊で個展、1939年12月、第二次世界大戦のために帰国した。昭和17年日動画廊において滞欧作品による個展を開催し、戦後は新樹会に招待され、昭和24年第3回展から会員として参加、以後毎年出品、昭和25年には北荘画廊において木内克と二人展を開催した。昭和41年第20回新樹会展に絶筆を含め遺作9点が陳列された。作品略年譜麦の秋、森A・B、静物A・B、樹、風景、庭、筍(昭和25年第4回新樹会展)冬の畑、リウ・アルマンモアザン、丘と畑、風景、静物A・B(5回新樹会展)干物、村の入口、葱、海老、田と畑(6回新樹会展)裏の畑、樹、リンゴ畑、静物(7回新樹会展)森、新緑、静物、風景、静物(8回新樹会展)風景A・B、自然公園(9回新樹会展)樹、自然公園、椅子と花、風景A・B(10回新樹会展)裏道、裏山、森、風景、静物A・B(11回新樹会展)冬、村の入口、森(12回新樹会展)裏山、山ぞいの畑、樹、風景、静物(13回新樹会展)樹、丘1・2(14回新樹会展)丘、風景A・B(17回新樹会展)樹、静物A(19回新樹会展)静物(絶筆)、ケイ・フラマン、リュ・モンパルナッス、風景1・2・3、樹1・2・3(20回新樹会展)
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没年月日:1966/07/04 二紀会委員の洋画家栗原信(本名信賢)は、7月4日午後9時56分、東京都中野区の小原病院で脳血栓のため死亡した。享年72才。栗原信は、戦前二科会会員となり、戦争中は陸軍報道班員として従軍、戦後は二紀会創立に参画し、また新潟大学教授として後進を指導、日本美術家連盟理事としても活躍した。著書に「六人の報道小隊」(昭和18年)がある。年譜明治27年(1894) 3月24日、茨城県東茨城郡に生れる。大正元年 茨城師範学校を卒業。大正5年 二科展に「木」初入選。大正6年 二科展に「竹藪」「夕暮」入選。大正7年 東京・本郷区・小学校の図画専科訓導となる。二科展に落選し、小説家を志して井伏鱒二、和田伝らと同人雑誌「世紀」を発刊。昭和元年 再び画業に入り、二科展に「伊豆の山」「夏の庭」入選。昭和2年 太平洋画会展に「曇り日」「夏」を出品、二科展に「佐渡の浦路」「小木浜の岩」入選。昭和3年 5月、小学校訓導を辞し、フランスへ留学、アカデミー・グランショミェールに籍をおく。昭和6年 6月帰国、二科展に「トレド遠望」「冬のノートルダム寺院」など10点を特別出品し、昭和洋画奨励賞を受賞。昭和7年 二科展に「春日野の新緑」他2点を出品、会友に推される。昭和8年 二科展に「四月の妙高山」他1点出品、台湾に旅行。昭和9年 満州に旅行。このあと、昭和20年敗戦にいたるまでに20回におよぶ満州・中国に取材旅行を行なう。昭和10年 二科展に「夏の喇嘛塔」他2点を出品。昭和11年 二科展に「居庸関」他2点を出品、会員に推挙される。昭和12年 二科展「北平」「妙高の春」出品。昭和13年 中支・徐州戦に従軍、二科展に「小休止15分(徐州西方追撃戦)」を出品。昭和14年 陸軍美術協会に参加、二科展に「大陸(黄色い瓦)」「大陸(城外)」を出品。昭和15年 二科展に「蒙古の旅」他2点を出品。昭和16年 二科展に「酪農部落(北満)」他1点を出品、陸軍報道班員としてマレー半島作戦に従軍。昭和17年 二科展に「マレー娘」他11点を出品。昭和18年 二科展に「永豊鎮」を出品。ビルマ作戦に従軍。昭和19年 南支・長沙作戦に従軍。二科会解散。昭和20年 満州・新京において敗戦をむかえる。昭和22年 5月旧二科会会員の正宗得三郎、宮本三郎らと第二紀会を創設、9月第1回展を都美術館において開催し、「夏」「野ばら」を出品。第23年 二紀展に「平野早春」他2点出品。昭和24年 二紀展に「白馬高原」他1点出品。昭和25年 二紀展に「河原の部落」「原始林」を出品。新潟大学芸能学科洋画科教授に就任。昭和26年 二紀展に「雪の日の白樺林」「都会の午後」を出品。昭和27年 二紀展「釣船」他2点出品。昭和28年 二紀展「山の晩秋」他2点出品。昭和29年 二紀展「常盤橋風景」他2点出品。昭和30年 二紀展「北越海岸」「秋(東大構内)」。昭和31年 二紀展「山上湖」「大阪」。昭和32年 二紀展「山門」出品。サンパウロ・ビエンナーレ展に日本委員として参加。昭和33年 中南米諸国を写生旅行する。昭和34年 二紀展に「コーヒー園(ブラジル)」他2点を出品。昭和36~37年 ヨーロッパに写生旅行。昭和38年 二紀展に「ラパンアジール酒場」他2点を出品。昭和39年 ヨーロッパ、中近東に写生旅行。二紀展に「ソレント」「マロニエ林」出品。昭和40年 インド旅行。二紀展に「箱根」他1点出品。12月ギリシャ、アフリカ、東ヨーロッパ旅行。昭和41年 5月帰国。6月24日より新宿・ギャラリー・アルカンシェルで水彩画による個展を開催、同月29日個展会場において脳血栓のためたおれる。7月4日死去。6日、二紀会葬として東京中野の宝仙寺で葬儀が営まれた。
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没年月日:1966/06/05 洋画家の川口軌外は、6月5日午前0時5分、脳軟化症のために死去した。享年73才。本名を孫太郎。川口は、長い滞欧生活のあいだにアンドレ・ロートやフェルナン・レジェに学んで、帰国後は二科展、独立展、戦後は国画会展などに作品を発表、幻想的で構成的な作風を展開、しばしば国際展にも出品した。年譜明治25年(1892) 11月10日、和歌山県有田郡に生れる。明治36年 小学校卒業、吉備実業学校に入学。明治38年 吉備実業学校中退。明治39年 和歌山県師範学校に入学。この頃、洋画グループに参加する。明治44年 師範学校を中退、洋画家を志して上京、太平洋画会研究所に入所して中村不折に師事。大正3年 日本美術院洋画部へ移り、小杉未醒に師事。大正5年 結婚。安井曽太郎滞欧作品に感銘する。大正8年 フランスに留学、イタリア、スペインなどを旅行する。大正11年 帰国。10ケ月滞日。「少女とミモザの花」「トアレット」「静物」「風景1、2」を二科展に出品。大正12年 再渡仏する。このころ、佐伯祐三、前田寛治、里見勝蔵らと交遊する。大正15年 アカデミー・ロートに学ぶ。昭和2年 フェルナン・レジェに師事し、作風はしだいに構成的になる。昭和3年 フランスより15回二科展に「ボヘミヤン」「静物」を出品。昭和4年 帰国。二科展に「車のある風景」「寺院」「坐せる女」「キャフェにて」など10点を特別出品し、二科賞を受賞する。1930年協会に加入する。昭和5年 二科展に「月空」「静物」「ビワの実」を出品、二科会々友となる。11月、二科会を脱会して、独立美術協会創設に参画して会員となる。昭和6年 第1回独立展に「詩思」「智」「マンドリン」「写像」など10点を出品。昭和7年 第2回独立展に「スブニール」「地維」「白い花」など7点を出品。昭和8年 第3回独立展に「柘榴」「牡丹花園」「月夜の雪景」「花束」を出品。昭和9年 第4回独立展に「少女と貝殻」「蓮」「瀞峡」を出品。昭和10年 第5回独立展に「鸚鵡と少女」「貝殻」など4点を出品。昭和11年 第6回独立展に「白蓮」「浴女」「貝殻」を出品。昭和12年 第7回独立展に「エスキースB」「偶感A」など4点を出品。昭和13年 第8回独立展に「群鳥」「静物」など4点を出品。昭和16年 第11回独立展に「漁夫A」「ダリヤ」など4点を出品。昭和17年 第12回独立展に「花と果物」「桃」など4点を出品。昭和18年 独立美術協会会員を辞す。昭和20年 和歌山県の郷里に疎開し、専ら野菜、果実などの静物画を描く。昭和22年 国画会会員にむかえられ、21回国画会展に「ビワ」「桃」など5点を出品。昭和23年 第22回国画会に「花」「女」を出品。昭和24年 第23回国画会に「菊と婦人」「花」を出品。昭和25年 和歌山より上京する。第24回国展に「果物と花」「室内」を出品。昭和26年 第25回国展に「月」「人」を出品。昭和27年 第1回日本国際美術展に「鳥の情態」「花と裸婦」「静物」を出品。国展に「油送船」他2点を出品。昭和28年 第2回日本国際美術展に「日傘と人」「作品」を出品。サンパウロ国際ビエンナーレ展、ニューヨーク・アブストラクト・アーチスト展に出品。27回国展に「製油所と船」「異影」「群像」を出品。昭和29年 第28回国展に「円」「港の朝」他1点。第1回現代日本美術展に「円」「製油所の港」を出品。昭和30年 第29回国展に「作品」A・B・C、第3回日本国際美術展に「水浴する人たち」「夏の浜にて」を出品。昭和31年 第30回国展に「群像」「構図」、第2回現代日本美術展に「集団」「人体」を出品。昭和32年 第31回国展に「人体」「港」、第4回日本国際美術展に「人体」を出品。昭和33年 第32回国展に「鳥と樹」「作品」、第3回現代日本美術展に「樹間と鳥」を出品。神奈川県立近代美術館において開催される。昭和34年 第5回日本国際美術展に「三つのポーズ」出品。昭和35年 第4回現代日本美術展に「水浴の人たち」「作品」(水浴の人)を出品。この頃、健康を害する。昭和36年 第6回日本国際美術展に「作品」を出品。昭和37年 第5回現代日本美術展に「群像」「顔のある木」を出品。脳軟化症におかされ半身不随となる。昭和38年 第7回日本国際美術展に「鳥」を出品。国画会々員を辞す。昭和39年 第6回現代日本美術展に「森の中」「人」を出品。昭和41年 6月5日死去。
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没年月日:1966/05/11 洋画家、立軌会・女流版画会・国際アートクラブ会員河村俊子は、2年間の欧米・メキシコ旅行を予定し、海外渡航の手続もすませ、4月初日の出発間ぎわ健康診断にて胆石手術を余儀なくされ、その手術がもとで5月11日午後3時44分、普通なら健康体を保ちながら惜しくも急逝した。享年56才。明治43年2月28日東京に生まれる。聖心女子学院卒業。昭和元年から小林万吾に油絵の指導をうけ、更に14年熊岡美彦の絵画研究所にも学んだ。昭和15年第8回東光会展に初入選し、16年17年と続いて受賞し、18年第11回東光会展で会友に推され、同年第6回文展にも入選した。戦後、昭和21年第2回日展に入選以来、25年第6回日展まで入選を続けた。その間、22年には東光会会員となり、また同年第1回女流画家展、第1回美術団体連合展にも参加出品した。ところで26年から画風の変化により日展出品を断念し、27年には東光会をも退会した。以後専ら個展発表を心がけ、28年・30年・32年・35年と意欲的な個展を開くとともに、30年には版画にも興味をもち、日本板画院に入会した。31年には立軌会の会員に迎えられ、国際アートクラブにも入会、現在に至った。36年には女流版画会にも入会、会員となった。41年1月夢土画廊での第5回目の個展が最後となった。
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没年月日:1966/04/24 春陽会会員の洋画家小穴隆一は、4月24日午前8時、急性肺炎のため死去した。享年72才。両親は長野県出身で、小穴は父の任地の長崎県において、明治27年11月28日に生れた。幼稚園、小学校を北海道函館で終え、開成中学校にすすんだが、洋画家を志して中退し、太平洋画会研究所に学び、中村不折に師事した。はじめ太平洋画会展、ついで二科会展に出品、大正11年第9回二科会展には、芥川竜之介をモデルにした「白衣」を出陳した。その後、小杉放庵を敬慕して春陽会展に出品し、大正15年無鑑査に推薦され、また昭和2年には春陽会所属の若い作家のグループ麗人社に第3回展から参加した。昭和9年春陽会会員に推挙され、昭和32年第34回展まで毎年出品したが、その頃健康を害し長い闘病生活に入っていた。随筆もよくし、著書に「くじらのお詣り」「二つの絵」「白いたんぽぽ」「芥川竜之介遺墨集」などがあり、俳号を一游亭と称した。また挿絵においては都新聞連載の坪田譲治作「子供の四季」「竜彦虎彦」などがある。作品略年譜夏の日(大正9年二科7回展)、一游亭(二科8回展)、白衣・花(二科9回展)、枇杷(二科10回展)、苺(春陽会3回展)、柘榴・風景(春陽会4回展)、裸婦・風景(春陽会5回展)、柘榴・秋田音頭・盆踊・いちご・桜の園(同7回展)、静物・花・撞球・裸婦・花(同9回展)、乾酪とからし・手鏡・鏡・壁鏡(同12回展)、トラともでる・京都小品・舞妓・静物・他(同14回展)、勝負(同20回展)、椿・静物(同27回展)、裸婦(同30回展)、アマリリス・カトレア(同32回展)、まゆみちやん・静物(同33回展)、静物(同34回展)、画室に於けるT夫人(同35回展)、向日葵・椿(同36回展)。
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没年月日:1966/04/13 日本水彩画会名誉会員篠原新三は、4月13日脳いっ血のため長野市の自宅で死去した。享年77才。葬儀は、日本水彩画会、北信美術会合同葬をもって行なわれた。明治42年大下藤次郎、丸山晩霞の日本水彩画会研究所に入り、大正2年石井柏亭、白滝幾之助らと同研究所を改制拡張し、新たな出発をした。同会で度々受賞し、昭和22年には日展委員をつとめ、又北信美術会顧問であった。
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没年月日:1966/04/11 一水会委員、日展顧問の山下新太郎は、4月11日老衰のため、港区芝の自宅で死去した。享年84才。明治14年東京根岸、御隠殿前の表具師の家に生れ、東京美術学校で黒田清輝の指導をうけた。後フランスに留学して、ラファエル・コラン、フェルナンド・コルモンに師事し、滞欧中ベラスケス、ルノアールに傾倒してその感化をうけた。初期文展で受賞し、大正3年石井柏亭らと二科会を創立し、その幹部として活躍した。又絵画の修理についての関心も深く、第一次、第二次渡仏の際在仏東洋画の修復にあたった。その功績により昭和7年仏国政府よりレジョン・ドヌール勲章を受けた。昭和10年二科会員を脱退し、帝国美術院会員となり、同12年一水会々員となった。尚この年帝国美術院は勅令改正により帝国芸術院会員となった。同30年文化功労章を受領。著書に「油絵の科学」(昭和23年好学社)がある。年譜明治14年 8月29日東京都荒川区山下七兵衛(表具師)の長男として生る。明治18年 幼時より画を好み、特に天神像を好むことより、父と昵懇であった狩野芳崖に天神図の小品を依頼し手本とする。明治25年 この頃父の友人である新岡久頼(号旭宇)に書を習う。明治32年 西田長左衛門(義兄)に就いて英語、漢文を習う。明治34年 藤島武二に師事し、東京美術学校西洋画科選科に入学。明治37年 同校卒業。東京外国語学校仏蘭西語撰科に学び、後暁星校に転ず。明治38年 4月、米国経由渡仏。はじめコラン塾に学び、次いで国立巴里美術学校に入学。フェルナンド・コルモンの指導をうけた。明治40年 5月、スペイン旅行、(プラド美術館でベラスケス作「ブレダ開城」他の模写に従事)。グラナダ、セヴィリアをみて暮に巴里へ帰る。明治41年 「窓際」巴里サロンに出品。明治42年 「読書」「読書の後」巴里サロンに出品。明治42年 夏の終り頃健康を害し、スイス経由イタリアに旅行す。(ミラノ、ベニス、フローレンス、ナポリ等)11月マントン、マルセーユを経て、巴里に帰る。この年「靴の女」制作。明治43年 6月、帰国(スエズ経由)。7月山崎誉花と結婚。第4回文展「読書の後」(三等賞)「読書」「靴の女」。明治44年 第5回文展「窓際」(三等賞)。明治45年 長女出生。大正3年 長男出生。石井柏亭らと二科会創立。湯浅一郎と朝鮮旅行。(朝鮮鉄道局依頼により京城鉄道局経営朝鮮ホテルの壁画を描く)。大正4年 再度渡鮮壁画完成す。9月、第2回二科展(日本橋・三越)「端午」(長男登10ケ月の像)「供物」(誉花像)。大正6年 奈良に旅行。大正7年 三光町新居落成。昭和4年 16回二科展「鹿子紋」他4点。昭和6年 5月、朝鮮美術展審査員となり、小林万吾と渡鮮。9月23日神戸より渡仏。昭和7年 6月21日巴里発、7月24日神戸着帰朝。年末仏国政府よりシュバリエ・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を授与さる。第19回二科展「春近きセーヌ河」他35点(滞欧作特別陳列)。昭和9年 第21回二科展「神苑」、「薔薇」「海棠」。昭和10年 二科会を脱退。帝国美術院会員となる。昭和12年 同志と一水会を創立。第1回一水会展「神苑朝」「姉妹」。帝国芸術院会員。昭和13年 第2回一水会展「少女林泉」「少女」「中禅寺湖朝」「初夏」。昭和14年 第3回一水会展「北窗」「南窗」「奈良公園藤」。昭和15年 奉祝展「白樺の若木」。昭和21年 第1回日展「露台」。昭和22年 第9回一水会展「群青石の頸飾」。昭和30年 文化功労章受領。昭和36年 日展顧問。昭和41年 4月11日逝去。
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没年月日:1966/02/26 光風会会員角野判治郎は、2月26日神戸市の自宅で脳いっ血のため死去した。享年77才。明治22年神戸市に生れ、大正5年東京美術学校を卒業した。昭和5年光風会会員となり、戦後は日展にも出品した。
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没年月日:1966/01/24 立軌会会員の洋画家、有岡一郎は、1月24日午後11時、脳出血のため神奈川県の自宅で死去した。享年65才。有岡一郎は、明治33年(1900)8月26日、京都市で生れ、大阪府堺市で育ち、大正6年大阪市明星商業学校を中途退学して上京、本郷洋画研究所に入所して岡田三郎助に師事した。大正8年、第1回帝展から毎回官展に出品し、昭和9年15回帝展に「玉葱をむく女」を出品して特選となり黒田奨励賞を受賞、翌10年帝展改組のときの第2部会1回展に「T先生像」で文化賞をうけた。また、本郷研究所出身者による春台美術展(昭和5年以降)に創立時から参加した。戦争中には海軍から派遣されてジャワ、バリー島などに行き、昭和12年、大本営の依頼で「ジャワ沖海戦の図」を制作し、大東亜戦争美術展に出品した。戦後は、無所属から一時日展に出品したが、昭和25年立軌会に会員として参加し、第2回展から出品した。作品略年譜自画像(大正8年帝展1回展)屋根と樹(同2回展)安田君の肖像(同3回展)肖像(第4回展)首飾りの女(同6回展)初秋郊外(同7回展)二人の肖像(同8回展)本を持ってる肖像(同9回展)家族(同11回展)赤いチョッキの男(同13回展)樂器をもちて(同14回展)玉葱をむく女(同15回展黒田奨励賞・東京国立近代美術館蔵)T先生の像(第二部会1回展文化賞)マリアーヌと祖父(新文展招待展)港(文展2回展)青い手袋(同3回展)婦人像(二千六百年奉祝展)外誌より得たるモチーフ(同4回展)ジャワ沖海戦(大東亜戦争美術展)赤いチョッキの男(昭和24年5回日展)独唱者・先生・マンジアーレA、B(立軌会4回展)アンサンブル・アシジの聖・先生の肖像他4点(同5回展)食事・或る肖像他3点(同7回展)僧院の歌・祖父と孫たち・祭の日他3点(同8回展)楽隊と児共・習作(同9回展)画家・演劇・スラブの歌(同10回展)子供の歌A・子供たちの歌B・街他4点(同11回展)演劇・歌う聖母・素描(同12回展)歌う・歌う・習作(同13回展)歌う・素描(同14回展)ペトルーシカより・習作など5点(同15回展)
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没年月日:1965/11/12 一水会会員・日本山岳画協会会員の洋画家、山川勇一郎は11月12日、チリ国のロ・バルデス・アンデス連峰で遭難、全身凍傷のため死亡した。享年56才。山川勇一郎は明治42年(1909)4月26日、神戸市に生れ、神戸第一中学校を経て昭和9年に東京美術学校西洋画科を卒業、一水会に出品、昭和16年応召、同18年現地除隊となりそのまま中国にとどまって北京を中心にして華北で制作、このころ北京で安井曽太郎に接してこれに師事。昭和21年帰国、同22年一水会会員に推挙され、また安井曽太郎門下生による連袖会に参加した。美校時代から登山をよくし、昭和33年には深田久弥らと「ジュガール・ヒマール探査隊」を組織してヒマラヤ地方に旅行し、昭和34年第21回一水会展に「ランタン・ヒマール」「ドルジェ・ラクパ」を出品して会員優秀賞を受賞した。昭和39年3月単身チリに赴き、4月チリ着。その後、サンチャゴに滞在し、ボリビヤ、ペルー、アルゼンチンなどを旅行、昭和40年11月大阪府岳友クラブ中央アンデス登山隊に同行してサンチャゴを発し、11月9日セントラル・アンデス、ロンバルデス地区のC1キャンプからC2キャンプに向う隊員と同行、中途より作画のため同行隊員と別れ単身キャンプに向ったあと消息をたち3日後の12日、雪原のなかの経40cm深さ23cmのクレバスのなかに遭難しているのをチリ山岳連盟、チリ国空軍ヘリコプターなどの協力によって発見され、救出されたが全身凍傷甚しく、同日17時30分絶命した。昭和41年3月2日~9日、東京新宿・伊勢丹において遺作展が開催された。主要作品 裸婦立像、和服の女(昭和13年2回一水会展)、座像(3回一水会展)、画室の朝食、小憩(9回一水会展)、連雲港(14回一水会展)、造船所(17回一水会展)、ランタン・ヒマール、ドルジェ・ラクパ(21回一水会展)、サンチャゴの裏街、朝のアンデス連峰(昭和40年・遺作展)。
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没年月日:1965/09/08 二科会会員伊賀勇高は胃ガンのため9月8日逝去した享年49才。大正4年北海道の生れで、昭和14年日本美術学校洋画科の出身である。二科展に出品するとともに米国での作品展に力を入れ、37年には二科会会員に推挙された。略年譜昭和14年(1939) 新構造社第2回展出品。日本美術学校卒業。昭和25年 二科会新人十人展に選ばれる。二科会創立35周年記念受賞。米国サロン・ド・プランタン展出品。昭和27年 二科会商業美術賞。昭和28年 二科会会友推挙される。昭和32年 二科会42回展「死に切れぬジアー」昭和34~35年 ロスアンジェルスを振出しに米、カナダ、メキシコの主要都市で作品展を開く。昭和36年 二科会46回展で金賞をうける。昭和39年 二科会49回展「聖旨」「送還の曲」「天国の裁き」。昭和40年 9月8日没。昭和41年 10月28日東京新宿駅ビル6階ギャルリ・アルカンシエルで遺作展を開催。
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没年月日:1965/05/24 日展評議員、光風会理事山喜多二郎太は、5月24日心筋こうそくの為逝去した。享年68才。明治30年1月5日福岡県直方市で生れた。大正4年東京美術学校に入り藤島教室に学んだ。7年には寺崎広業に師事。大正9年東京美術学校を卒業した。同年第2回帝展に「子供」が初入選となり、以後6.8.9.11.12.13回と出品入選をつづけている。光風会展にも大正時代から出品し、昭和4年第16回展で会友、昭和9年会員に推され昭和33年理事となった。官展系作家で、戦後は光風会の他日展に作品をおくり、晩年は日展評議員であった。昭和2年、中国に遊学しているが、洋画に水墨画の手法をとり入れた独特の画風で知られた。略年譜大正9年(1920) 第2回帝展「子供」。大正14年 第6回帝展「静物」。第12回光風会展「静物。昭和2年 第8回帝展「室の一隅」。昭和4年 第16回光風会展「観音」「室内の静物」。昭和7年 第13回帝展「画室にて」。昭和9年 第15回帝展「二人の女」(特選)。第21回光風会展「静物」。昭和10年 第二部会第1回展「写生」特選。昭和12年 第1回文展「庭にて」。昭和13年 第2回文展「むすめ」。昭和14年 第3回文展「キモノ少女」。戦後の21年、第1回日展以後の同展出品作を略記すると、25年(7回展)「林檎畑の丘」。26年(8回展)「アトリエ」依嘱出品。29年(11回展)「雨後」審査員をつとめる。30年(12回展)「漁港」依嘱作品。31年「13回展」「田を耕す」。尚、33年社団法人として発足後の「日展」には評議員となって1回展「描く人」、5回展「春が潜む」、6回展「伊勢の漁港」第7回展「燈台のある丘」などを発表している。
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没年月日:1965/05/17 独立美術協会会員、横浜国立大学、建築科講師の洋画家松島一郎は、5月17日午前5時30分心臓マヒのために横浜市の自宅において死去した。享年62才。明治35年(1902)横浜市に生れる。大正6年慶應義塾商工学校に入学、9年に中退・里見勝蔵に師事し昭和2年1930協会第2回展に「角のパン屋」を出品、昭和3年には第15回二科展に「ガードと橋」を出品、翌4年第16回展に「水族館」「弘明寺裏」を出品した。独立美術協会が創設され、昭和6年第1回展から出品、翌年第2回展に「風景」他2点を出品してO氏奨励賞をうけ、8年第3回展では「人夫」「家族」他2点を出品、独立賞を受賞した。昭和10年に推薦となり、翌11年に会員に推挙され、以後、独立美術協会の中堅作家として活躍した。かたわら、昭和5年ころから横浜市桜木町駅前の石炭ビルの一室に研究所を設けて後進を指導、昭和20年には横浜美術協会(ハマ展)の創立に参加、横浜独立美術協会を設立、37年には神奈川県美術家協会の創立に参加、県展をはじめとして神奈川県下の美術界でも活躍した。なお、昭和29年以降は横浜国立大学建築科講師の職にあった。作品略年譜角のパン屋(昭和2年1930年協会第2回展)・ガードと橋(15回二科)、水族館・弘明寺裏(16回二科)、トスネル附近・白い工場の見える風景(1回独立)、風景・煉瓦を砕く男(2回独立)、人夫・家族(3回独立)、母子・風景(4回独立)、靴屋・豚屋(5回独立)、港・木々の眺め(6回独立)、椰子と貝(7回独立)、耕す牛(12回独立)、静物・富士(13回独立)、高千穂(14回独立)、臼ときね・鍛冶屋(21回独立)、コンポジション・海と崖(24回独立)、海(26回独立、神奈川県立近代美術館蔵)、室戸A・室戸B(27回独立)、扉・作品(32回独立)
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没年月日:1965/04/22 太平洋画会前代表、布施信太郎は4月22日肺ガンのため逝去した。享年65。布施信太郎は、明治32年4月30日仙台市に生れた。家は代々伊達藩に仕えた武士であったが、先祖に絵をよくする者があり、父、淡も洋画家であった。信太郎もまた、大正3年仙台東北学院を中退し洋画家を志して上京、斎藤与里に師事し翌年太平洋画会研究所に入って中村不折、満谷国四郎らに学んだ。大正13年第5回帝展に「恵まれし日」が初入選となり、更に昭和2年第7回帝展に「母子礼讃」、昭和3年第8回帝展に「残されし心」が入選している。また、太平洋画会展にも出品し、昭和3年同会会員となった。また戦時中まで太平洋美術学校の教授をつとめていた。日本壁画会、南洋美術協会を創立し、大東南宋院には第1回展から招待出品者として出品していたが、太平洋画会を主とし、いつも同展では最大の300号の作品を出品していた。戦後は同会の代表となり、会及び附属学校の再建に尽力していた。略年譜大正13年(1924) 第5回帝展「恵まれし日」(初入選)。大正15年 第7回帝展「母子礼讃」。昭和2年 第8回帝展「残されし心」。第23回太平洋画会展。昭和3年 第9回帝展「湖畔」。昭和4年 第10回帝展「逗子の海」。第25回太平洋画会展「秋」。昭和5年 第26回太平洋画会展「実る頃」。昭和7年 第28回太平洋画会展「泉」。昭和8年 第29回太平洋画会展「建国創業」。昭和9年 第15回帝展「日向」。昭和10年 南洋諸島へ1年余旅行。第30回太平洋画会展「心」。昭和12年 第33回太平洋画会展「コンポジション」。昭和13年 満州へ9ヶ月写生旅行。昭和14年 第35回太平洋画会展「試作」。昭和15年 紀元2600年奉祝展「南洋サイパン島」。第3回壁画会展「婚姻を祝す」「パンの実を焼く」。昭和16年 第37回太平洋画会展「平和」。昭和17年 第5回文展「南洋チャモロの家」。第6回日本壁画会展「山麓新春」。昭和27年 第48回太平洋画会展「新しい光を索めて」。昭和28年 太平洋画会代表となり会の再建に尽力する。昭和29年 第50回太平洋画会展「太平洋」。昭和30年 第51回太平洋画会展「南洋の思い出」。昭和32年 (太平洋画会を太平洋美術会と改称する)昭和33年 第54回太平洋美術会展「新緑の頃」。昭和34年 第55回太平洋美術会展「霧ヶ峰画詩」。昭和35年 第56回太平洋美術会展「信濃の山」。昭和36年 甲府写生旅行中、脳出血で倒れ1ヶ月入院、37年太平洋美術会代表を退く。昭和38年 第59回太平洋美術会展「春は小さな滝から」昭和39年 第60回太平洋美術会展「太平洋60年史」昭和40年 順天堂病院で逝去。
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没年月日:1965/04/04 板倉賛治は明治10年1月愛知県碧南市に生れた。東京高等師範学校に入学、図画教育として水彩画を学び41年に卒業、直ちに同校助教授に任ぜられた。大正2年日本水彩画会創立会員に推され、更に大正12年には帝展委員に推されたが、生涯を教育者として美術教育のためにつくし水彩画の指導、普及、或は図画手工芸教育に尽力し、図画教科書等の刊行も少くない。展覧会出品画制作のため教育指導のおろそかになることを顧慮し、展覧会に出品することは殆どなかった。晩年は多年教育に尽した功績により幾度か表彰され、死去に際して宮内庁より銀杯をうけている。4月4日老衰のため東京都文京区の自宅で逝去した。享年89才。略年譜明治10年(1877) 愛知県碧海市に生れる。明治32年 愛知県第一師範学校卒業、同校教諭として勤務。明治37年 東京高等師範学校入学。明治41年 同校卒業、同校助教授となる(昭和3年教授)。大正2年 日本水彩画会創立会員に推挙。大正10年 第3回帝展に「静物」入選。大正12年 帝展委員に推挙。昭和6年 国定教科書小学図画編纂委員嘱託。昭和9年 中等教育検定委員会委員。昭和10年 東京高等師範学校評議員となる。図画教育指導の功績に対し全国図画教育大会長より表彰をうける。昭和11年 帝展無鑑査待遇をうける。昭和15年 教育に多年勤続し、功労顕著のため文部大臣より表彰をうける。昭和24年 日本水彩画会名誉会員推挙。」昭和25年 山田家政短期大学教授となる。昭和38年 米寿を記念して「米寿記念賛治画集」が同記念会から出版された(限定非売)昭和40年 4月4日 逝去 89才。5月永年美術教育に貢献したことに対し、宮内庁より銀杯を受ける。(著書) 中等図画教本(明治43年)、図画教育スケッチの実際(明治44年)板倉図案集(大正9年)など昭和にかけて、図案、図画教育に関する著書多く、また、昭和12年5月「板倉賛治画集」(学校美術協会)が出版されている。
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没年月日:1965/03/08 日展評議員、創元会会員の洋画家中野和高(号・和光)は、3月8日午後2時35分、尿毒症のために東京都渋谷区の都立広尾病院において死去した。享年68才。明治29年(1896)愛媛県大洲に生れ、大正3年宮城県立仙台第1中学校を卒業、同年上京して赤坂区溜池の葵橋洋画研究所に入所して黒田清輝の指導を受けた。大正5年東京美術学校西洋画科に入学、大正10年3月卒業し、研究科に入る。同年第3回帝展に「労働者像」を出品して入選した。大正12年、フランスに遊学してイタリア、スペインを歴遊し昭和2年秋帰国したが、その間に前田寛治、佐伯祐三との親交を深めた。帰国の年第8回帝展に「婦人座像」他1点を出品して特選となり、以降毎年官展に出品した。昭和3年第3回1930年協会展に滞欧作品拾数点を出品し会員に推挙された。昭和5年には帝展無鑑査、同7年以降は屡々審査員をつとめた。昭和15年12月、阿以田治修、大久保作次郎、安宅安五郎ら同志と創元会を創立、翌16年第1回展を開催、以後毎回出品した。昭和25年日展参事、同33年日展評議員となる。昭和32年には日展出品作「少女」により日本芸術院賞を受けた。また、日本美術家連盟委員、東京都美術館参与としても活躍した。なお、幼時に洗礼をうけ、昭和30年以降聖イエス教団に属したが、晩年は熱烈なキリスト教徒としての生活をおくった。略年譜明治29年(1896) 4月5日愛媛県大洲に生れる。大正3年 宮城県立仙台第1中学校卒業、上京して東京溜池の葵橋洋画研究所に入り黒田清輝の指導をうける。大正5年 東京美術学校西洋画科入学。大正10年 東京美術学校を卒業し、研究科に入る。第3回帝展に「労働者」を出品、入選。大正11年 第4回帝展に「友人の像」を出品。大正12年 渡欧する。昭和2年 帰国、第8回帝展に「婦人座像」「卓に寄れる婦人(青衣の女)」出品、特選となる。昭和3年 第3回1930年協会展に滞欧作品を出品し会員となる。第9回帝展に「風景を配せる我家族」を出品、特選となる。昭和4年 第10回帝展「聴音」特選。昭和5年 帝展無鑑査に推薦され第11回展に「無題」を出品。帝国美術学校教授となる。泉二新熊三女美智子と結婚する。昭和6年 第12回帝展「少憩」。昭和7年 帝展洋画部審査員に撰ばれる。第13回帝展「西洋風女立像」。昭和8年 第14回帝展「祖父と子供」。昭和9年 第15回帝展「於二階」。昭和10年 二部会審査員、「M氏像」。昭和11年 新帝展「水辺」、審査員。昭和12年 第1回文展「ひととき」審査員。昭和13年 第2回文展「運動場における像」。昭和14年 第3回文展「像」、審査員。昭和15年 紀元二千六百年記念展「帰還帰農」。12月同志と創元会を創立する。昭和16年 1回創元会展「海の幸」「水と人」。第4回文展「二人」。昭和17年 2回創元展「少女」、第5回文展「少女像」、審査員。昭和18年 台湾総督府美術展審査員、「海」総督府買上げ、3回創元展「少女像」、第6回文展「ざくろ」。昭和19年 4回創元展「北条時宗像」。昭和21年 第1回日展「幾哉さん夫妻」審査員。第2回日展「夕映」、審査員。昭和22年 6回創元展「雪景」。第3回日展「休息」審査員。昭和23年 7回創元展「男の顔」。昭和24年 8回創元展「山荘にて」、第5回日展「F婦人像」審査員。毎日連合展「雪舟の庭」。昭和25年 9回創元展「母と子」、連合展「窓辺」、第6回日展「婦人像」、日展参事となる。昭和26年 10回創元展「二重像」、第7回日展「某婦人像」審査員。昭和27年 11回創元展「闘牛士」、第8回日展「二人」。昭和28年 12回創元展「笛吹き」、第9回日展「植木屋T君像」政府買上げ、審査員。昭和29年 13回創元展「N氏像」「杏花の村」、第10回日展「休息」、国立公園協会へ「那須」。昭和30年 14回創元展「少女座像」「少女」、第11回日展「少女座像」審査員。昭和31年 15回創元展「緑衣像」、第12回日展「絵を描く女」。昭和32年 16回創元展「白衣婦人像」、第13回日展「少女」芸術院賞受賞、審査員。昭和33年 17回創元展「少女赤衣」「少女青衣」、第1回日展「姉妹」、日展評議員。昭和34年 18回創元展「二人」、第2回日展「少女像」。昭和35年 19回創元展「婦人像」、第3回日展「白い装」審査員。昭和36年 20回創元展「K君の像」、第4回日展「インドネシア婦人」。昭和37年 21回創元展「南方婦人」、第七回国際美術展(毎日新聞社)「熱国にて」、第5回現代美術展「ヨハンナ女」、第6回日展「少女」審査員。昭和39年 23回創元展「K少女」、第7回日展「バレーの幕間」。昭和40年 24回創元展「少女」。昭和41年 3月8日午后2時30分死去。11月東京都美術館内佐藤記念室において中野和高回顧展開催される。
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没年月日:1965/02/15 日展会員、新世紀美術協会会員吉村吉松は、2月15日脳軟化症のため東京都北区の自宅で逝去した。享年78才。明治19年11月東京に生れ、郁文館中学を卒業、東京美術学校に学び大正2年卒業した。翌3年文展に3点入選し褒状をうけその後文、帝展に発表をつづけている。大正14年、昭和2年の帝展で特選をうけ無鑑査となり、戦後は日展に拠り、同展の出品依嘱者として、又会員として出品していた。また旺玄会にも参加していたが、大久保作次郎等とともに旺玄会を離れ、昭和30年4月に新世紀美術協会を創立、同展にも出品していた。代表作「曠原朗日」「斜陽平日」等作品略年譜大正3年(1914) 第8回文展「港」(褒状)、「海から帰へって」「白いシャツ」。大正4年 第9回文展「春の海辺」「雨の後」。大正8年 第1回帝展「深春の頃」「高原のある村」。大正14年 第6回帝展「羽扇」特選。大正15年 第7回帝展「麗人画像」「ダリア」。昭和2年 第8回帝展「瓜実をもつ少女」特選。昭和3年 第9回帝展「ふくちやん」無鑑査。昭和5年 第11回帝展「秀人困居」。昭和8年 第14回帝展「曠原朗日」。昭和11年 文展招待展「植物園散歩」。昭和12年 文展第一回展「斜陽平日」無鑑査。昭和15年 紀元2600年奉祝展「祝建国記念画像」。昭和28年 第9回日展「牧舎」今年より出品依嘱。昭和29年 第10回日展「庭」。昭和30年 第11回日展「扇」審査員をつとめる。昭和31年 第12回日展「手鏡」出品委嘱。昭和32年 第13回日展「晴」。昭和33年 社団法人「日展」第1回展「七五三の集り」日展会員。
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没年月日:1964/12/16 元京都美術専門学校教授で洋画家の新井完は、12月16日兵庫県夙川の自宅で没した。享年80才。明治18年兵庫県姫路市に生れ、同43年東京美術学校西洋画科を卒業した。同44年第5回文展に「青きもの」が初入選、その後も文展に出品し、大正8年第1回帝展の「満潮」、同11年第4回帝展の「水浴女」はいずれも特選となった。その後帝展委員、審査員をつとめたが、昭和10年帝展改組後は中央画壇から離れた。昭和20年から同25年まで京都美術専門学校の教授をつとめ、同36年には兵庫県文化賞を受けた。
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