本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
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没年月日:1964/12/14 洋画家、日本芸術院会員、寺内万治郎は12月14日東京渋谷の日赤中央病院で胃ガンのため逝去した。享年75才。明治23年11月25日大阪市に生まれた。大正5年東京美術学校西洋画科を卒業した。同7年第12回文展に「茶萸」を出品して以来帝展に出品をつづけ、同14年第6回展の「裸婦」と昭和2年第8回展の「インコと女」で特選を受賞、同3年には推薦となり無鑑査の資格を与えられた。その後、新文展、戦後の日展、社団法人日展或いは光風会に裸体や人物画を発表しつづけ、これに独自のアカデミックではあるが重厚な作風を発展させて行った。昭和26年の第6回日展出品の「横臥裸婦」その他一連の裸婦によって日本芸術院賞を受け、同35年には日本芸術院会員に推された。これらのほか母校及び東京教育大学、新潟大学の講師として多くの後進を指導した。略年譜明治23年 大阪市生。明治42年 大阪府立天王寺中学校卒業。大正5年 東京美術学校西洋画科卒業。大正14年 第6回帝展「裸婦」出品、特選。昭和2年 第8回帝展「インコと女」出品、特選。昭和3年 帝展推薦。昭和4年 光風会会員。昭和8年 帝展審査員、第14回帝展「二人の女」出品。昭和9年 同、第15回帝展「青衣姉妹」出品。昭和10年 第二部展「浴衣」出品、帝室博物館買上。昭和13年 第2回文展「赤いコート」出品。昭和14年 第3回文展審査員。昭和15年 奉祝展「新秋」出品。昭和16年 第4回文展審査員。昭和17年 派遣画家としてフィリッピンに滞在。昭和18年 東京美術学校講師。昭和 年 第6回文展審査員。昭和21年 第2回日展審査員、「画字T君像」出品。昭和24年 第5回日展審査員。昭和25年 第6回日展出品「横臥裸婦」並に裸婦連作により日本芸術院賞を受く。日展第2科参事。東京美術学校講師辞任。昭和26年 第7回日展審査員。昭和27年 東京教育大学教育学部講師。昭和28年 第9回日展審査員。昭和30年 第11回日展審査員。昭和31年 第12回日展「裸婦」出品。昭和32年 第13回日展審査員、「髪」出品。昭和33年 日展評議員、「裸婦立像」出品。昭和34年 新潟大学教育学部講師。昭和35年 日本芸術院会員、第3回日展に「横臥裸婦」出品。昭和35年 社団法人日展理事。以後昭和39年第7回日展まで毎年「裸婦」出品。昭和39年 12月14日東京の日赤中央病院で死去。
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没年月日:1964/11/05 太平洋美術会委員、近藤洋二は11月5日朝鎌倉市の自宅附近の県道で交通事故にあい死去した。享年66才。明治31年6月19日川越市に生れ、大正5年旧制川越中学校卒業後ただちに、本郷洋画研究所と川端画学校に学。昭和3年から5年まで滞仏。同4年サロン・ドートンヌに「ラ・メイゾン」が入選し、また同年の帝展にもフランスから出品入選した。その他文展・太平洋点に出品。昭和10年から太平洋画会会員となり、以後運営委員となり、とくに戦後は会の再建と運営の中心的存在であり、太平洋美術学校教授としても活躍した。
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没年月日:1964/09/08 洋画家、日本芸術院会員、帝室技芸員、文化功労者中沢弘光は、9月8日東京文京区の日本医科大病院で老衰のため逝去。享年91才。明治7年東京芝に生れた。若くして曽山幸彦に師事し、のち堀江正章、黒田清輝に学んだ。はじめ明治美術会に出品したが、明治29年黒田らの白馬会結成に参加し、これに多くの作品を発表した。また同年東京美術学校西洋学科選科に入学し同33年卒業した。明治40年第1回文展以来、始終帝展に発表し、初期文展では度々受賞、同43年から審査員となった。大正8年からは帝展の審査員をつづけ、昭和5年帝国美術院会員、同12年帝国芸術院会員、同19年帝室技芸員となった。戦後も日展に出品、同32年文化功労者となり、日展顧問であった。そのほか、光風会、白日会、日本水彩画会等の長老として重きをなした。その作風は、甘美な抒情性をたたえている。主なものに「おもいで」(国立近代美術蔵)「まひる」(同前)「かきつばた」(同前)、「野路(露)」(同前)「花下月影」(同前)「鵜飼」(宮内庁蔵)「鵜の森」(東京都美術館)、「静思」(東京芸大蔵)等がある。略年譜明治7年 8月4日元日向佐土原藩(元島津仮)の藩士を父として東京芝に生る。明治20年 曽山(大野)幸彦の画塾に入る。明治24年 大野氏没後堀江正章の指導を受く。明治26年 明治美術会へ「上己」初出品。明治29年 東京美術学校西洋画科選科入学、白馬会の結成に参加。明治33年 東京美術学校卒業。パリ万国博覧会に「猿廻し」出品。明治37年 白馬会第9回展「裸体、霧」。明治38年 白馬会第10周年記念展「冬の山麓」。明治40年 東京勧業博覧会に「嵐のあと」出品、一等賞。明治40年 第一回文展に「夏」出品、三等賞。ほか「森の一隅」「冬」出品。明治41年 第二回文展に「雄鹿半島の一角」出品三等賞。ほか「雄鹿半島の地蔵岩」「怒濤」出品。明治42年 第三回文展に「おもいで」出品、二等賞ほか「まいこ」出品。明治43年 文展審査員となる。第四回文展「まひる」「温泉」出品。明治44年 第五回文展に審査員として「嵯峨のほとり」「暖炉の前」「奈良の晩春」出品。明治45年(大正1年) 白馬会解散の後、杉浦非水、三宅克巳、山本森之助ら7人と光風会を結成し、この年6月第1回展を開く。第6回文展に審査員として「岸の丘」「乳の祈願」「皷」出品。大正2年 第7回文展に審査員として「海苔とる娘」「水に近く」出品。大正3年 第8回文展に「ながれ」「女滝」「灯」を無鑑査出品。大正4年 第9回文展に「ゆく春」「夏の人」「三つの思い」を無鑑査出品。大正5年 第10回文展に「春日の神子」「青き光」を無鑑査出品。大正6年 第11回文展に「朝鮮歌妓」「帰途」を無鑑査出品。大正7年 第12回文展に「かきつばた」「桃咲く丘」を無鑑査出品。大正8年 帝展審査員となる。第1回帝展に「ひやけ」「光明」出品。大正9年 第2回帝展に審査員として「野路」「春」出品。森脇忠と共著「スケッチの描き方」、(アルス社)大正10年 第3回帝展に審査員して「壁に凭りて」「湖上にて」出品。大正11年 欧州遊学。約1年余フランス、イタリア、イギリス、スペインを巡歴。大正12年 帰国。大正13年 白日会を同志と結成。第5回帝展に委員として「休息」「裸体」出品。大正14年 第6回帝展に委員として「温泉」「おどりの前」出品。大正15年 第7回帝展に委員として「花下月影」「洋装」出品。昭和2年 第8回帝展に委員として「ヤシマツクを着けたる女」「海」出品。昭和3年 第9回帝展に審査員として「染井のほとり」出品。昭和4年 第10回帝展に審査員として「雪の追憶」出品。昭和5年 帝国美術院会員となる。第11回帝展に「峡谷温泉」出品。昭和6年 第12回帝展に「散華」出品。昭和7年 第13回帝展に「汐汲」出品。昭和8年 第14回帝展に「更くる夜」出品。昭和9年 第15回帝展に「奈良所見」出品。昭和11年 文展招待展に「鵜飼」出品。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回文展に「嶋の鴎」出品。昭和13年 第2回文展に「北京万字楼」出品。昭和14年 第3回文展に「夜光虫ひかる」出品。昭和15年 奉祝展「鵜の森」昭和16年 第4回文展に「静思」出品。昭和17年 第5回文展に「歓喜」出品。昭和18年 第6回文展に「波切り」出品。著書「屋根窓」(有光社)昭和19年 帝室技芸員拝命。戦時特別展に「山上朝拝出品。著書「回想の旅」(教育美術戦興会)昭和21年 第1回日展に「春来る」、第2回日展に「夜明け」出品。昭和22年 第3回日展に「微笑」出品。昭和23年 第4回日展に「化粧」出品。昭和24年 第5回日展に「蓮露」出品。昭和25年 第6回日展に「女子信教」出品。昭和26年 第7回日展に「静聴」出品。昭和27年 第8回日展に「斗花」出品。昭和28年 第9回日展に「鶴の踊り」出品。昭和29年 10回日展に「誘惑」出品。日本橋三越にて米寿記念展を開き初期よりの代表作約110余点陳列。昭和30年 第11回日展に「仏都、寧楽」出品。昭和31年 第12回日展に「月のぼる」出品。昭和32年 第13回日展に「蜑今昔」出品。文化功労者に列す。昭和33年 第1回日展に「初ちぎり」出品。社団法人日展顧問となる。昭和34年 第2回日展に「尼僧」出品。昭和35年 第3回日展に「清水音羽の港」出品。昭和36年 第4回日展に「金堂拝観」出品。昭和37年 第5回日展に「裸婦」出品・昭和38年 第6回日展に「京の一日」出品。昭和39年 5月勲3等旭日章を受章。9月8日逝去。正四位に叙せらる。
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没年月日:1964/08/01 日展監事、示現会代表の洋画家石川寅治は、8月1日渋谷区原宿の伊藤病院で敗血症の療養中心臓衰弱のため逝去。享年90才。明治8年高知市に生れ、明治24年上京、小山正太郎の不同舎に入った。はじめ明治美術会に出品したが、同34年明治美術会の解消の後同志と太平洋画会を結成してその主要会員となった。また研究所を設けて後進を指導し、その後身たる太平洋美術学校校長をもつとめた。その間、明治35年から3年にわたって欧米を巡歴した。同40年以降文、帝展をはじめ戦後の日展まで多くの作品を発表した。初期文展で屡々受賞し、のち帝展の委員、審査員を度々つとめた。昭和22年太平洋画会を脱会し、新に示現会を結成してその主宰者となった。また、大正7年以来東京高等師範学校講師となり、昭和24年には東京教育大学講師を依嘱されて多くの学生を指導した。同28年多年洋画界、教育界につくした功績によって日本芸術院恩賜賞を受けた。初期には婦人像が多かったが、のちには好んで港や船をえがき、アカデミックな作風から次第に印象主義的な明るい画調に移った。略年譜明治8年 4月5日高知市に石川義忠の長男として生る。明治24年 2月洋画修業を志して上京し、小山正太郎画塾不同舎に入学。中村下折、下村為山、岡精一筆の後輩として勉学した。明治26年 明治美術会展に初めて「野鴨」を出品。明治28年 明治美術会展に「湯浅伍助」を出品。明治29年 明治美術会展に「農家」を出品。28年より29年に亘り、師、小山が浅草パノラマ館に日清戦争「平壌包囲攻撃」及び「旅順総攻撃」の大画面作製に当り助手を勤めた。明治30年 明治美術会展に「帰来洗刀」を出品。明治31年 明治美術会展に「裸婦」を出品。明治32年 パリ万国博覧会に油絵「竹林」を出品。明治34年 郷里高知で結婚した。11月満谷国四郎、吉田博、中川八郎の同志と太平洋画会を結成。翌年より毎年展覧会を開催。また研究所を下谷区真島町に設置して後進の指導につとめた。明治35年 10月絵画研究の為アメリカへ渡り、ボストン、バッファロー、デトロイトで所持の水彩画の展覧会を開催。明治36年 3月ヨーロッパに渡り各国の美術館を見学。明治37年 6月印度洋を航して帰国。明治38年 翌39年にわたり師、小山が浅草パノラマ館に日露戦争「旅順総攻撃」及び「奉天会戦」の大画面作製にあたり、助手をつとめた。明治40年 東京勧業博覧会にパステル画「静物」を出品して3等賞牌を受く。第1回文展に「秋雨」「乙女」(パステル)を出品。明治41年 第2回文展に「菊」「白百合」「金魚」を出品「菊」は三第賞。明治42年 第3回文展に「葡萄」「桃の節句」を出品。明治44年 10月第5回文展に油絵「雨の日」を出品。12月より翌年3月まで琉球に旅行し那覇、首里、中城、糸満等各地を写生した。大正元年 第6回文展に「鞆の津」「まる窓」を出品。大正2年 第7回文展に「港の午後」「雨やんだ朝」「虫干」を出品。「港の午後」は2等賞。大正3年 大正博覧会に油絵「秋晴」「漁村」の真書を出品。第8回文展に油絵「母の着物」「西日さす浜辺」を出品。大正4年 第9回文展に油絵「深潭」「野うるし咲く頃」を出品。大正5年 第10回文展に油絵「水郷の黄昏」を出品。サンフランシスコ世界大博覧会に「静物」を出品して三等賞牌を与えられた。大正6年 台湾に旅行し二ケ月に亘り蕃界に出入して各地を写生し30余点の油絵を描き台北で展観し、更に内地に持帰り東京及び大阪三越で展覧会を開催して台湾の風景を紹介した。立太子礼奉祝献納画台湾風景を描くために渡台して「高雄港」を写生した。第11回文展に油絵「驟雨の徴」を出品。文展規定により推薦以後無鑑査。大正7年 師、小山の後を受けて東京高等師範学校講師になり図画専修科を担当、爾来15年間図画教育に尽した。10月台湾総督府嘱託になり新庁舎会議室に2面の壁画を描くことになった。同月満州、朝鮮に写生旅行し、大連で展覧会を開催した。大正8年 台湾に渡り総督府新庁舎の壁画を納入した。文部省教育検定委員会臨時委員となり、昭和8年8月迄15年間勤続。第1回帝展の審査員に選ばれ、同展に油絵「雨歇んだ朝」「深碧の流」を出品。大正9年 第2回帝展に審査員として油絵「卓上」「深淵」を出品。大正10年 東京市外滝野川中里にアトリエ並に住宅を建築して移転。第3回帝展に審査員として油絵「化粧」「驟雨の後」を出品。大正11年 平和記念東京博覧会審査官となり同展に「妙高山」を出品。第4回帝展に審査員として「雨後」「高雄港」を出品。大正12年 台湾総督府より、明治神宮絵画館へ献納の北画揮毫を依嘱され材料蒐集のため渡台。大正13年 第5回帝展に委員として「晴れ行く朝」「花園」を出品。大正14年 中等図画教科書「最新図画」を編輯し冨山房より発行。第6回帝展に「南国の船」「ダリヤ」を出品。大正15年 聖徳太子奉賛展委員となり、同展に「浴後」を出品。第7回帝展に審査員として「花」「柏島の朝」を出品。台湾総督府より明治神宮絵画館に献納の「北白川宮殿下台北入城」の壁画を完成した。昭和2年 文部省より教員検定委員会無試験検定調査事務を嘱託する。第8回帝展に「野尻湖」「仔猫」を出品。昭和3年 同7年まで、朝香宮妃充子内親王殿下並に喜久子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。第9回帝展に審査員として「少女」を出品。昭和4年 第10回帝展に「下田港」を出品。昭和5年 上海より蘇州、杭州へ旅行、江南風景を写生す。第11回帝展に審査員として「蘇州の春」を出品。昭和6年 第12回帝展に審査員として「凝視」を出品。昭和7年 第13回帝展に「雨後の港」を出品。昭和8年 第14回帝展に「瀞峡」を出品。昭和10年 第2部会の審査員となり「造船所」を出品。昭和11年 新文展の委員となり、「鏡前」(臨時、招待展)。昭和12年 3年間、朝香宮湛子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。海軍館に「地中海海戦」を描き、第1回新文展に「憩い」を出品。昭和13年 第2回新文展審査員となり「港」出品。海軍省嘱託となり、中支那方面に派遣され「渡洋爆撃」「鎮江攻略」の作戦記録画を描く。昭和14年 海軍省軍務局事務嘱託となる。第2回新文展審査員となり「長江遡帆」を出品。昭和15年 支那事変に於る勤労により賜品及従軍記章拝受。紀元2600年奉祝展委員となり「出湯の宿」を出品。昭和17年 第5回新文展に「港」を出品。昭和18年 第6回新文展に「造船場」を出品。海軍省より「南太平洋海戦」の記録画作製を命ぜられ資料蒐集のためラバール方面に出張、帰還後完成。中村不折の後を受けて太平洋美術学校校長に就任。昭和19年 11月東京都板橋区に住宅を建築して移転。昭和21年 3月第1回日展に「裸女」を出品。昭和22年 東京都美術館参与となる。第2回日展に「農事忙」を出品。11月太平洋画会を脱退し、新に示現会を結成しその代表となる。昭和23年 第4回日展に油絵「佐渡金山」を出品。昭和24年 東京教育大学講師となる。第五回日展審査員となり「新緑の頃」を出品。昭和25年 日展参事となる。第6回日展に「新緑の庭」を出品。昭和26年 第7回日展審査員となり「山間の温泉郷」を出品。昭和27年 第8回日展「岩風呂」を出品。10月上野公園精養軒で喜寿の祝賀会を開催。昭和28年 5月多年の功績により恩賜賞授与。第9回日展に審査員として「白川村の春」を出品。昭和29年 第10回日展に「川なかの温泉」を出品。昭和30年 第11回日展に審査員として「銚子の海」を出品。昭和33年 日展改組され社団法人日展となり監事に就任。昭和38年 米寿祝賀会及び記念会展を開催。昭和39年 8月1日没
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没年月日:1964/07/15 日本芸術院会員、帝室技芸員の洋画家、金山平三は、7月15日心外腹炎のため東京大塚のガン研附属病院で没した。享年80才。明治16年神戸市に生れ、同42年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。暫くの間同校助手をつとめたが、同45年渡欧し、4ケ年にわたり欧州各地を巡歴し、大正4年帰国した。その後は専ら文展、帝展に出品し、風景画、静物画に佳作を発表して特選を受け、大正8年以来昭和9年まで帝展の審査員をつとめた。昭和10年の帝国美術院改組以来官展から遠ざかったが、同19年には帝室技芸員を命ぜられた。戦後日展審査員に任命されたが辞退し、個展によって発表した。殊に同31年には画業50年展を日本高島屋に於いて開催し、その代表作を回顧的に陳列した。外光派に出発した彼は、練達した筆さばきによる独自の東洋的な油彩画に到達していることがわかる。代表的な作品には「夏の内海」(大正5年文展、国立近代美術館蔵)、「氷すべり」(同6年文展」、「菊」(昭和3年帝展、東京国立博物館蔵)、「下諏訪のリンク」(同11年帝展三井コレクション蔵)等がある。略年譜明治16年 12月18日兵庫県神戸市において、金山春吉の次男として生る。明治42年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。明治45年 1月渡欧。4ケ年にわたり欧州各地に留学。大正4年 12月帰国。大正5年 第10回文展に初めて「巴里の街」「夏の内海」出品、後者特選。大正6年 第11回文展「氷すべり」「造船所」出品、前者特選。この年無鑑査。大正8年 第1回帝展に審査員となる(以降15回展まで審査委員をつとむ)。「雪」「花」出品。京都市牧田久吉次女らくと結婚。大正11年 第4回帝展に「菊」「下諏訪リンク」出品。昭和3年 帝展9回出品「菊」、帝室買上げとなる。昭和7年 明治神宮聖徳記念絵画館に「平壌の戦」奉納。昭和10年 帝国美術院改組に際し、同志と共に同展への不出品を声明。二部会に「東北の春」「信濃雪」(李王家買上)。昭和15年 奉祝展に「信濃路」出品(宮内省買上)。昭和19年 7月帝室技芸員を拝命。昭和20年 5月、山形県の庄司薬局方に疎開。皇太子に「菊」、義宮に「ダリヤ」を献上。昭和21年 10月、日展第2部の審査員に任命されたが辞退。昭和30年 4月、大阪美交社において近作発表展を開く。昭和31年 5月、画業50年展を日本橋高島屋に開催。昭和32年 2月28日、日本芸術院会員となる。昭和39年 7月15日東京大塚のガン研附属病院で逝去。
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没年月日:1964/06/16 光風会会員宮脇憲三は、6月16日午後4時死去した。享年48才。大正4年12月15日姫路市に生れ東京美術学校卒業。昭和24年および25年光風会でO氏賞をうけ、26年会員に推挙。33年から34年にかけて外遊。
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没年月日:1964/06/07 国画会会員、中村好宏は胃ガンのため東京新宿区の慶応病院で死去した。享年60才。明治37年4月25日香川県高松に生れ、大正11年香川県立工芸学校卒業。昭和3年東京美術学校図案科卒業後梅原龍三郎に師事。昭和2・3年には春陽会に出品したが、5年より国画会に出品、8年と12年に国画奨学賞をうけ、18年会友、19年会員となり、会務委員として活躍した。戦後21年にハマ展の初代委員長として横浜の画壇復興に尽力した。没後39年9月10日から13日まで横浜有隣堂で、また40年6月5日から13日まで高松美術館で遺作展が開かれた。国画会出品作品目録8年「静物」(国画会奨学賞)、12年「風景」(国画会奨学賞)、18年「人物」、19年「椿と子供」、31年「樹」「どぶ川と舟」「沼の淵々」「裸婦」、32年「沼(舟と裸婦)」、33年「2人」、34年「池」「沼」、35年「沼」「沼」、36年「裸婦」「裸婦」、37年「田園風景」「田園風景」、38年「沼の朝」「風景」、39年「バッタ」
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没年月日:1964/06/03 国画会会員、辻愛造は6月3日、兵庫県西宮市の自宅でガンのため逝去した。享年68才。明治28年12月21日大阪市南区に生れた。大正元年、大阪で赤松麟作に師事し、4年に上京、太平洋画会研究所に学んだ。大正6年第4回院展洋画部に入選して以来、8年第6回展まで出品、入選している。その後、春陽会にも出品したが、同15年国展洋画部創設以来、同展に出品、毎年入選、昭和3年には国画賞をうけ、昭和4年に会友、同9年「摂津耶馬渓」など出品して会員に推挙された。風景画が主で、自選作品として「丸山夜桜の図」、「室津」、「片田の浜」などをあげている。また、大阪回顧風景の連作を、水彩やガラス絵で数多く描いている。昭和32年11月に兵庫県文化賞を授賞した。作品略年譜大正6年 第4回院展「日盛り」大正7年 第5回院展「夏山」「夏の果樹畑」大正5年 第5回国展「円山夜桜之図」「道頓堀風景」昭和10年 第10回国展「麦崎」昭和15年 第15回国展「曇日」昭和22年 第21回国展「家島」昭和29年 第28回国展「普門の浜」昭和33年 第32回国展「奥香落」昭和36年 第35回国展「志摩風景」昭和37年 明治・大正・昭和大阪懐古風景・素描淡彩150景完成昭和38年 日本風景ガラス絵20余点完成、個展を開く37~39年 大阪懐古風景(ガラス絵)40余点制作昭和39年 第38回国展「塩津」昭和40年 第39回国展に遺作として39年作の「麦崎」「奥香落」を出品する。昭和40年 5月辻愛造ガラス絵画集を発行昭和40年 6月「大阪懐古風景ガラス絵遺作展」開催
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没年月日:1964/04/16 小杉放庵は、明治14年栃木県日光に生まれた。父は蘇翁と号し平田派の国学者で神官をつとめていた。放庵は国太郎と名付けられ、少年時代を日光の山中で過し、父に国学の素読を習い、中学は一年で退学している。この頃、当地の洋画家五百城文哉に絵を習い、西洋名画の図版などを手本に模写をし、或は風景写生を試み、油絵、水彩を自由気儘な作画をみてもらっていた。4年ほど五百城文哉の許で学んでから上京、さらに小山正太郎の不同舎に入って学ことになった。この頃、小杉未醒の号を用い、漫画、挿絵で先づ名を知られるようになり、油絵は、文展に力を入れ、明治43年第四回文展から「杣」(三等賞)、「水郷」(二等賞)、「豆の秋」(二等賞)、と三年連続受賞して一躍画壇に認められるようになった。大正2年フランスに留学しむしろ東洋画への認識を新たにして東洋人という自覚を強めて帰国してきたようである。大正3年帰国した年には日本美術院が再興され、かねてから親友の横山大観に誘はれて、美術院の洋画部設立に盡力した。帰国後は、フランスで心惹かれたシャヴァンヌの装飾画が、そのごの作品に大きな影響を与えて、壁画や装飾画風の油絵が、院展時代から春陽会時代初期へとつゞき、東京大学、安田講堂の壁画は、その代表作の一つであろう。大正9年日本美術院洋画部はなくなり、同12年に春陽会を創立、晩年迄同会の中心となって制作に当っていた。昭和初め頃から、油絵と同時に日本画にも筆をとる様になる。油絵もまた、油気を抜いた絵具を渇筆風に画布にすり込んでゆく技法で、画面の肌は日本画を思わせるようなマチュールを好んだ。題材も、古事記、奥の細道、歌人、孫悟空、おとぎ話など古典によるものが多く、次で花鳥、風景に及んでいる。かつて芸術院会員に任命されていたが、晩年近く、33年には会員を辞し、作品も油絵より日本画に移り、新文人画とでもいうべき水墨の、気品に富んだ作品を多くのこしている。又歌人としても知られる歌集が出版され「山居」、或は隨筆集「帰去来」などの著書がある。第二次大戦中から新潟県中頸城郡に疎開していたが、4月17日同地の自宅で老衰のため逝去した。享年82才。略年譜明14 1歳 本名国太郎。12月30日栃木県に生る。父は富三郎、母は妙、6人兄弟の末弟。明19 6歳 この頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう。明21 8歳 日光小学校に入学。明28 15歳 宇都宮中学一年で中退。明29 16歳 父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る。明31 18歳 画業に志し上京(師匠文哉には無断で出奔)夜、赤坂溜池り白馬会研究所に通う。まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷。再び文哉宅に帰る。明32 19歳 吉田博日光へ来遊、はじめて知る。明33 20歳 師匠の許をえて再上京。吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門。同期生に青木繁、荻原守衛らがいた。明34 21歳 田端で自炊生活。(漫画の外に教科書の挿画、日光、横浜などで外人相手に売る水彩画などを描いた)。この年太平洋画会創立。明35 22歳 太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催。会員となる。明36 23歳 不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品。未醒と号す。明37 24歳 1月渡鮮、日露役勃発して9月で従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信。帰国後近事画報社の正社員として入社。詩集「陣中詩篇」(蒿山房)を刊行。第三回太平洋画会に「海辺」他8点出品。明38 25歳 太平洋画会第4回展に「戦友」他数展出品明39 26歳 独歩、独歩社をおこす。同社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす。独歩の仲人で春夫人と結婚。第5回太平洋画会展に「捕虜と其の兄」他出品明40 27歳 5月美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍、画壇に新風をおくった。10月明治文展開設。明41 28歳 10月第2回文展に「湟槃会」初入。明42 29歳 第7回太平洋画会展に「黄昏」出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり。明43 30歳 第8回太平洋画会展に「浦島」「一本杉」出品。第4回文展で「杣」が三等賞。明44 31歳 第9回太平洋画会展に「河原の杉」出品。第5回文展に「水郷」出品二等賞。シャヴァンヌの影響ありとされた。明45 32歳 第6回文展に「豆の秋」出品、二等賞無鑑査、画壇的地歩を確定する。この秋、横山大観と知り設立の計画を発表。大2 33歳 渡辺六郎の後援で渡欧、主に仏国に滞在イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学、翌年シベリア経由にて帰国「小湾」「ブルターニュ風景」「アルハンブラの丘」等が滞欧作品である。欧州紀行「画筆の跡」を刊行した。大3 34歳 再興日本美術院の創立に参加、同人として洋画部を担当。はじめ二科会にも出品したが、のち院展に専従して「飲馬」(第1回)「黄初平」(第2回)「或日の空想」(第3回)「山幸彦」(第4回壁画)「出関老子」(第6回壁画)等を出品した。大9 40歳 院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退。大11 42歳 春陽会創立に参加、前記院展脱退組の外に会員梅原龍三郎、客員岸田劉生、万鉄五郎、石井鶴三、中川一政、木村荘八、椿貞雄、山崎省三、今関啓司等後客員は会員となる。大12 43歳 第1回春陽会展に「泉」出品、この秋関東大震災。大13 44歳 第2回春陽会展に「採薬」出品。大14 45歳 第3回春陽会展に「泉」出品、東大安田講堂に壁画製作、アーチ形「泉」「採薬」を両側に「静意」「動意」の半円形二面を添える。昭2 47歳 芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ。以後しだいに水墨画に親しみ、「奥の細道帖」の製作に没頭。第5回春陽会展に「奥の細道帖」翌同第6回展に「奥の細道」15題を出品。昭4 49歳 中国に遊ぶ。この機会にと改号。春陽会展出画では「帰牧」(第5回)「羅摩物語」(第6回)「山童遊嬉」(第7回)「娘」(第9回)等が油絵、「奥の細道帖」「水荘有客」(第5回)「漁樵閑話」「奥の細道」15題(第6回)「古事記」(墨素描第7回)「後赤壁画巻」(第8回)「呉牛」(第10回)「石上」(第11回)「草木春秋」(第12回)「山居十趣」「松下人」(第13回)等が水墨画である。昭和5年著書「放庵画論」(アトリエ社)昭10 55歳 松田改組により帝国美術院会員となる。つづいて近衛内閣、安井改組による帝国芸術院会員となる。主な作品には「楽人」(紀元二六〇〇年奉祝展)「金太郎」(春陽会)「うずめの舞」(芸術院会員展)「僧」(ニューヨーク万博展)等。昭20 65歳 戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する。戦後は春陽会のほかに珊々会、墨心会展等に出品、続「本朝道釈」(春陽会第23回展)「曽遊江南画冊」(同24回展)「童話四題」(同25回展)「西遊記連図」(同27回展)「童話八題」(同28回展)「僧の顔」(同35回展)等の日本画「浦島の顔」「大伴旅人」等の油絵がある。昭34 79歳 日本芸術院会員辞退。本来の野人にかえる。主なる戦後著書、隨筆「帰去来」洗心書林、歌文集「石」美術出版社、絵と紀行「奥のほそみち画冊」竜星閣、歌隨筆「炉」中央公論社、隨筆「故郷」竜星閣、画集「小杉放庵」三彩社その他多数がある。昭35 80歳 4月小杉放庵の画集60年展を開催。初期以来の洋画、日本画素描等51点を展示。昭36 81歳 肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」出品。昭38 83歳 再三の肺炎に体力を失い寡作となる。昭39 84歳 三月病床につき再起せず四月十六日黄泉の客となる。
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没年月日:1964/04/14 洋画家原勝四郎は、脱ソ症のため4月14日和歌山県田辺市紀南病院で死去した。享年78歳。明治19年(1886)4月5日和歌山県田辺市に生れ、同市の中学校卒業後東京美術学校予備科に入学し、本科に進学して間もなく同校を退学。以後白馬会溜池研究所で黒田清輝に学んだ。大正6年(1917)印度支那から船員としてフランスに渡航、パリで働きながら、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールに学び、またイタリア、アルジェに放浪旅行をして、大正10年帰国。同年8回二科展に「風景」2点が入選。昭和5年(第17回展)に大阪から出品しているが、ほとんど郷里を出ず、自らを画工とよぶ一種の隠遁生活を送る。昭和15年岡田賞受賞、特選となり、翌年会友に推挙された。戦後二科会から二紀会に分離するとき、彼も行動を共にしたらしい。二紀会の15回展では同人努力賞を受賞しているが、14回展を最後に無所属になった。渋い色調であるが、フォーヴ的な荒々しい大きな筆触で風景と人物画を描いた作品が多い。二科展出品目録8回「風景」「風景」、16回「海岸風景」、「母子像」、17回「風景」、18回「風景」、19回「画工像」「風景」、20回「婦人像」「海辺松林」、21回「画工像」「風景」、22回「画工とその婦」「初冬風景」、23回「自画像」、24回「海岸風景」「少女像」、25回「青シャツ」「海岸」「風景」、26回「海岸新緑「画工」、27回「頭像」「小湾」、28回「道化」「番所鼻」、29回「少女像」「窓際」。二紀会出品目録1回不明、2回「裸婦」「海辺松林」、3回「裸婦」「四月島」、4回「風景」「裸婦」、5回「娘の像」「江津良の海」、6回「海辺」「樹蔭」「海岸裸景」、7回「婦人像」「海辺」「路傍」、8回「海辺」「顔」、9回「裸婦」「海辺」、10回「田辺湾遠眺」「老人像」11回「海辺」、12回「風景」「老人」、13回「不明」、14回「裸婦」。
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没年月日:1964/02/19 日本水彩画会名誉会員滝沢邦行は、2月19日埼玉県飯能市の自宅で心筋こうそくのため死去した。享年76歳、大正2年4月日本水彩画会創立に際しては、37人の発起人の一人として、それ以後も会務に協力した。滝沢馬琴の子孫で、日本各地の桜の花を写生した総合図鑑を著した。
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没年月日:1964/02/18 もと国画会洋画会員で金工家でもある奥村博史は、2月18日東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄白血病のため死去した。享年72歳。神奈川県に生れ、17歳のとき画家を志したが、父に許されず、19歳の春家出して日本橋浜町の奇寓から水道橋の日本水彩画会研究所に徒歩通学して絵を学んだのち日本各地、中国を旅行しながら描く。はじめ二科会に出品、うち国画会にうつり、国画会同人、日本水彩画員会となる。晩年は無所属。夫人明子は、筆名平塚らいてうで、自伝「めぐりあい」がある。略年譜明治22年 10月4日藤沢に、奥村市太郎の長男として生れる。藤沢小学校、逗子開成中学校卒業。明治42年 上京。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学、水彩画を学。大下藤次郎逝去後油絵に転向。明治45年 巽画会に初めて油絵「青いリンゴ」を出品、受賞。大正3年 日比谷美術館で第一回油絵個展開催。第1回二科展に油絵「灰色の海」出品入選、続いて「畑」「植物園?」など初期の二科展に連続出品、入選。中途で、孤独を守るようになり、以後個展以外にはあまり発表しない。大正14年 日本水彩画会会員に推薦される。成城学園の画の教師となる。昭和5年 この頃、自宅アトリエで、デッサンの勉強会を毎週開く、武者小路実篤他、新しき村美術部のメンバー等集る。昭和7年 油絵個展を交詢社4階で開催。昭和8年 冨本憲吉氏に勸められ自作の銀指環を国展に出品、受賞。国画会会員に推薦される、以来画業とともに指環の制作は晩年まで続く。昭和9年 大阪天賞堂画廊で油絵小品と指環の個展開催。昭和11年 日本水彩画研究所時代からの旧友赤城泰舒氏と中国へ写生旅行。上海滞在中制作した臨終の魯迅像(油)は現在上海魯迅記念館蔵。昭和12年 大阪の中村ギャラリーで第2回指環個展開催。この頃から戦争に入るまでの間に、新交響楽団のバッヂ、文化学院の卒業記念のクラスリング等も制作。どの団体に所属することも好まなかったが、戦後新しき村美術部の会員となり、稀に村の展覧会に油絵デッサンを出品。昭和28年 晩年の10年の裸婦デッサンが千枚ほどに達したので、整理して二・三冊のデッサン集を作る企画中発病入院。昭和39年 2月18日死去11月、「奥村博史素描集」出版、(奥村博史遺作集刊行会編、平凡社発行)昭和40年 10月「奥村博史わたくしの指環」出版。(奥村博史遺作集刊行編、中央公論美術出版刊行)
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没年月日:1964/01/26 光風会会員片岡銀蔵は、明治29年1月18日岡山県小田郡に生れた。大正10年東京美術学校西洋画科を卒業し更に同研究科に学んだ。在学中の大正8年第1回帝展が初入選となり、その後帝展に出品をつづけ第9回展で「裸婦」が特選、更に11回展でも「仰臥裸婦」が特選となっている。昭和2年より巴里を主として西欧に約2ケ月遊学、また、満州事変、第二次世界大戦に従軍している。戦後派日展に出品、かねてから出品していた光風会展では昭和31年に会員に推された。殆ど裸婦を主とした制作で、晩年に祭礼に取材した「鬼」の作品などがある。ぜんそくのため1月26日没した
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没年月日:1964/01/01 阿佐ケ谷美術学園園長・光風会会員三輪孝は1月1日胃癌のため東京赤坂の虎ノ門病院で死去した。享年53才。明治44年1月7日大阪に生まれる。昭和5年大阪国学院立浪速中学校を卒業し、同10年東京美術学校油絵科卒業。同9年帝展に初入選し以後文展、日展の他、東光会にも9年から11年まで出品、光風会への出品は12、16年の2回受賞し、18年には同会会友に推挙された。また同年陸軍美術協会会員になり、19年には社団法人日本美術統制会代議員に推挙された。この間12年から18年まで松坂屋宣伝部に勤務したが12年より徴兵により中国各地に戦い陸軍輜重兵伍長となり、同15年には勲八等白色銅葉章を授与され、17年には指令部報導部に奏任官待遇嘱託。戦後は昭和20年に阿佐ケ谷美術研究所を設立し所長となる。同研究所は39年阿佐谷美術学園となり、附設機関として総合デザイン研究所が附置され、所長は園長が兼任した。一方22年に光風会会員、32年には出品作が日展特選となった。著書に「デッサンのプロセス」(アトリエ社、昭和37年)などがある。
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没年月日:1963/07/28 一水会々員の女流洋画家甲斐仁代は、かねて療養中のところ江古田にある中野療養所で死去した。享年61才。明治35年佐賀県に生れ、大正11年女子美術学校西洋画科を卒業して翌年二科会に初入選した。以後二科会には毎年出品をつづけ、また婦人洋画協会の創立に参加するなど活躍した。岡田三郎助の教えを受け、牧野虎雄の旺玄社に属するなどの時期もあったが、後一水会に出品し戦後会員に推された。作品は終始純粋な芸術観に貫かれ、豊潤な色彩感覚とデリケートで風格ある画面に魅力を示していた。しかし戦後はあまり目立つこともなく。朋友の石橋夫妻に支持されながら自己の画境を深めていた。略歴明治35年 佐賀県に生れる。大正8年 青島女学校卒業。上京。女子美術学校西洋画科入学。大正11年 同校卒業。卒業制作「眼帯をした人」大正12年 二科会展初入選。大正14年 婦人洋画協会展出品。昭和12年 一水会展出品。昭和22年 一水会々員に推薦される。昭和32年 日展出品。昭和38年 7月28日死去。9月一水会展に遺作特別陳列。昭和39年 6月、女流画家協会展に遺作特別陳列。10月、日動サロンにて遺作展開催。
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没年月日:1963/07/18 東光会々員桑原福保は、明治40年山梨県東八代郡に生れた。昭和2年山梨県立師範学校を卒業ののち、昭和8年に上京、熊岡美彦の門下となり油絵を学んだ。翌9年東光会展に初入選以来毎年同展に出品をつづけ、昭和17年には「緑陰」「黄色い傘」「少女像」を出品し東光賞をうけ、翌年会友、さらに昭和22年第13回東光会展で「ぶらんこ」で会員に推された。また、昭和11年、文展に初入選、以来、官展出品をつづけ、戦後は日展に連続入選して、29年岡田賞、31年以後は出品依嘱者となって毎年出品している。33年から35年までアメリカ経由で渡欧留学したが、38年7月18日病没した。享年56才。
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没年月日:1963/06/10 光風会々員遠山清は、明治36年11月15日名古屋市で生れた。中学卒業後上京し、東京美術学校図画師範科に学び大正15年卒業した。昭和3年第9回帝展に「青島風景が初入選となり、また同年の光風会展では光風賞を得て洋画家として第一歩を印した。以後帝展及び光風会に出品をつづけ、昭和9年光風会々員となり、16年第28回展の「婦人像」で岡田賞を受賞した。光風会々員として出品をつづけるかたわら戦後は日展にも出品し、日展の出品依嘱となり、更に35年に会員、38年審査員となったが同年6月10日、脳卒中で逝去した。享年59才。なお33年~34年の間欧州に遊学している。
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没年月日:1963/03/04 独立美術協会々員菅野圭介は3月4日東京信濃町の慶応病院で食道ガンのため死去した。享年54才。葬儀は豊島区雑司ヶ谷霊園斎場において、独立美術協会葬としてキリスト教式で行なわれた。彼は明治42(1909)年4月27日東京牛込区に、宮城県石巻市出身の早大文学部英文科教授菅野徳助の末子として生れた。母は岐阜県の医師の娘である。姉ふみ子、兄健介。5才のとき父が没し、土居晩翠の許にしばらく預けられた。牛込愛日小学校、東京府立六中、東京高校(文丙)を経て、京都帝大文学部を中退後、渡欧し、フランスのグルノーブル市で、ジュール・フランドランに師事し(1935~1937)、また児島善三郎にも師事した。1936年より独立展(第6回)に出品し、1938年に協会賞を受賞、1940年会友に推挙され、1941年I氏賞、1942年岡田賞を得て、1943年会員に推挙された。戦前二回(1938、1941)日動画廊で個展開催。戦後は朝日新聞社の秀作美術展や毎日新聞社の国際美術展等にも出品している。先妻との間に男子があったが、1948年に三岸節子と再婚し、1953年に解消した。1949年12月、画号を「圭哉」と改め、1954年以後には「恵介」を用いた。風景や静物を写しながら、それを単純で大まかな形体の平面的な色面として用いるその画風は、デビュー時代よりほぼ一貫するもので、地味な色調とともに一種の東洋的なのびやかな味わいをかもしだしていた。独立展出品作品を列挙すると「フランダース古城」「ノルマンディの秋」(昭和12年)、「北欧祭典」「ワルソーの宿」(13年協会賞)、「静物」「山脈」(14年)、「伊豆風景」「北都」「山脈」(15年会友推挙)、「磯」「飛騨地方」「静物」(16年I氏賞)、「秋」「湖水」「島影」(17年岡田賞)、「夏」「静物」「伊豆風景」(18年会員推挙)、「勝下」「果実」「鹿島灘」「花」「漁村」(22年)、「花」「静物」「静物」「静」「風景」(23年)、「果実」「静物」「夏」(25年)、「リスボン湾」「キール岬」「ハイデルベルク」「静物」「ボン」「ハイデルグ丘陵」「ビルバオ」「白都リオ」「モンブラン」「ブレーメン」(28年)、「蔵王山」「秋」(29年)、「冬」「秋」「夏」(30年)、「阿武隈流域」「黒潮」「静物」(31年)、「丘陵秋」「静物」(32年)、「夏の港」「槍ヶ岳秋」「常念晩秋」(33年)、「晩秋」「秋」「夏」(34年)、「夏」「静物」「雪山」(35年)、「秋」「野菜車」(36年)。(参照文献)菅野圭介「ジュール・フランドラン」独立美術1957、「近況の石」同1958、「亡霊」同1959、「自画像」美術手帖29号1950、今泉篤男「菅野圭介」みづえ532号1950。
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没年月日:1963/02/08 二科会理事山本敬輔は2月8日、せきつい炎、肝硬変のため兵庫県姫路市の阿保病院で逝去した。享年51歳。山本敬輔は明治44年12月2日姫路市で生れた。家は代々姫路城主の御殿医をつとめ、彼もまた、初めは家業の外科医となるつもりで姫路高等学校に学んだが、昭和4年、画家を志望して中途退学し、藤川勇造をたよって上京、昭和9年第21回二科会展に「狂態」が初入選となり画家としての第一歩を踏み出した。超現実主義が画界を賑わした時代で「狂態」も超現実風の作品であった。そのご、前衛画家の集団、黒色会に加わり、次で斉藤義重、広幡憲等と絶対象派協会を設立する頃は、抽象的傾向へ移り「アブストレーA」のような作品から更にモンドリアンの影響を強くうけて、方形の構成による「V-X-38.5」などを制作発表している。絶対象派協会は、まもなく解散したが、13年11月に、二科会新傾向作家とともに九室会を創立し、二科会展の会場の第九室で前衛活動をつづけていった。然し、戦争の拡大によって14年8月には召集をうけ、18年に一度復員したものの再び召集され、昭和20年終戦迄兵役に服していた。戦後、20年二科会再建とともに会員に推され、23年第33回二科会展で「ヒロシマ」三部作で会員努力賞をうけた。この頃は、他にも「戦争と平和」「殉教」など、思想的テーマを好み、表現にも、ピカソの「ゲルニカ」などの影響をつよく示す作品が描かれていった。26年には昴会を、荒井竜男、桂ユキ子、斎藤義重、末松正樹らと創立し、翌27年第1回展をタケミヤで開いている。然し、そのごはピカソの影響を離れ、再び純粋造型の世界へ移り、又、昭和35年頃にはアンフォルメルの仕事を試みるなど、晩年まで前衛的な活動をつづけていた作家であった。作品略年譜昭和9年 21回二科会展 「狂態」昭和10年 22回二科会展 「馬」昭和12年 24回二科会展 「100-X-37」昭和13年 25回二科会展 「100-X-86」昭和14年 26回二科会展 「100-X-39」昭和21年 31回二科会展 「花の風景」昭和23年 33回二科会展 「ヒロシマ」昭和24年 34回二科会展 「戦争と平和」昭和25年 35回二科会展 「北海道」昭和26年 36回二科会展 「殉教者」昭和27年 37回二科会展 「狭土」「赫土」、日本国際美術展「父と子」「審判」昭和28年 38回二科会展 「作品」(1、2、3)昭和29年 第1回現代日本美術展 「芽生え」「連鎖」昭和30年 40回二科会展 「牙」「決定された地点」日本国際美術展「吹溜り」昭和31年 41回二科会展 「壁」、現代日本美術展「穴のあいたオールマイテイ」昭和32年 日本国際美術展 「ウーッ!」昭和33年 43回二科会展 「像OP58の2」昭和34年 44回二科会展 「作品59」(2、3)、日本国際美術展「作品」昭和35年 45回二科会展 「時点(A、B)」「間隙」、現代日本美術展「赤の作品」「青の作品」昭和36年 46回二科会展 「作品61」(A、B)
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没年月日:1963/01/11 光風会々員鮫島利久は、1月11日逝去した。享年69歳。明治26年1月22日東京に生れ、大正7年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。光風会に所属して同展や帝展等に作品を発表した。また、美術教育に従い、美術教育学会委員、教科用図書検定調査審議会調査員等をつとめ、昭和38年1月目白学園短大教授となった。
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