本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





矢崎千代二

没年月日:1947/12/28

元帝展無鑑査矢崎千代二は、昭和22年12月28日北京市立第三病院に於て老衰と胃障害のため永眠した。享年75歳。明治5年2月12日神奈川県横須賀市に生れた。同20年大野幸彦の門に入つてはじめて洋画の手ほどきを受け、さらに同30年東京美術学校西洋画科選科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同33年7月卒業した。白馬会に入会してその展覧会に出品したが、同36年の第5回内国勧業博覧会に出品した「鸚鵡」が3等賞を受け出世作となつた。同年アメリカに渡り、聖路易万国博覧会事務局に勤め、続いて同地のブラッシュ・エンド・ペンシル・クラブに学んだ。同40年ヨーロッパに渡り、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツを巡歴し、同42年帰国、交詢社で個展を開いた。同年第3回文展に「夕凉」を出品して褒状を受けたのをはじめ、以後文展に出品し、第4回文展の「奈良」、第7回文展の「草刈」は、共に3等賞となつた。大正5年再び渡欧、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール等に数回出品し、その後印度に赴き、アジャンタの仏蹟やヒマラヤ等を写生し、同15年帰国した。昭和5年朝日新聞社嘱託となつて南米各地にスケッチ旅行を試み、同7年アルゼンチン滞在中帝展推薦となつた。また中国、ジャワ等に遊び、昭和9年婦国、翌年日本橋三越に於いてこれら諸地方のスケッチを発表した。同17年満州に旅行、同18年北京に赴き、同地に於いて終戦を迎え、帰国する暇なくして同22年永眠した。北京に在つた作品多数を終戦直後中国教育部に寄贈したと伝えられる。その初期には、油絵、水彩画を主としたが、間もなくパステル画を主とするようになり、この方面では先駆者であつた。

小林萬吾

没年月日:1947/12/06

帝国芸術院会員、小林萬吾は12月6日逝去した。享年78。[※68とあるのを78に修正してある]明治3年香川県三豊郡に生れた。明治19年原田直次郎、安藤仲太郎等に就き西洋画の手ほどきを受うけ、次で天真道場に入り黒田清輝の指導をうけた。明治23年及び28年の第3、第4回内国勧業博覧会には油絵を発表各褒賞を得ている。同29年東京美術学校に西洋画科が設置されるや西洋画科選科に入学、又この年創立された白馬会の最初の会員となり、第1回展に油絵4点を出品、以後同会展覧会に出品を続けた。31年に美術学校選科を卒業し翌年同校雇となり更に翌33年同校西洋画科助手となり、37年には助教授に任ぜられた。明治40年第1回文展に「物思」、第3回文展に「渡船」を出品、何れも3等賞を授けられた。44年には文部省から独仏伊に留学を命ぜられて渡欧、大正3年に帰朝、その年の文展には滞欧作品を発表した。以後文展には毎年出品、終始穏健な作風をもつたものであつた。大正5年東京高等師範学校教授を兼任、又光風会々員となり、同7年東京美術学校教授となった。同9年帝展審査員、昭和10年帝国美術院改組により帝院参与となり、引続き官展の展覧会委員、審査員として毎回作品も出品した。同15年帝国芸術院会員に任ぜられ同19年東京美術学校教授を依願免官となり勲3等瑞宝章、正4位に叙せられた。官展系作家として晩年迄活躍したが、昭和22年12月6日午後3時鎌倉市の自宅で逝去した。

今西中通

没年月日:1947/06/10

独立美術協会々員今西中通は6月10日福岡市に於て病没した。享年40。本名は忠通、明治41年高知県に生れ、川端画学校、1930年協会研究所、独立美術協会研究所等に学んだ。1930年協会展、独立美術協会展、独立24人展等に作品を発表し、第5回独立展にはD氏奨励賞を受けた、昭和11年独立美術協会会友、同22年には会員となつた。

濱地青松

没年月日:1947/03/18

第一美術協会理事濱地青松は3月18日郷里和歌山で死去した。享年62。明治19年和歌山県に生れ米国ボストン美術学校を卒業、アメリカに13年、フランスに2年滞留したが、帰朝後は帝展にも第9回以来出品し特選を受けるなど、文展の無鑑査として、又第一美術協会理事として活躍した。

濱田葆光

没年月日:1947/01/18

二科会員濱田葆光は1月18日奈良市の自宅で脳血栓症のため死去した。享年65才。明治19年高知に生れ、中村不折、満谷国四郎に師事した。はじめフユーザン会や院展洋画部に作品を発表していたが大正5年第3回二科展で樗牛賞を授けられ、以来二科に出品を続け昭和7年第19回展に会員に推された。大正10年から12年にかけ外遊した。住居の関係からか主として鹿を題材とした装飾画風の絵を二科展に出陳、奈良風景と鹿の画家として著名であつた。全関西洋画協会の特別会員でもあつた。

牧野虎雄

没年月日:1946/10/18

洋画家牧野虎雄は10月18日四谷区の自宅で死去した。享年57。明治23年12月15日新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生れた。41年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二、黒田清輝の指導を受け同校の特待生となり、在校中第6回文展に「漁村」「朝の磯」の2点が初入選となり早くも頭角を現わした。大正2年に同校を卒業続いて研究科に入つた。以後官展に出品、昭和10年帝展改組以来は審査員も辞し出品も中止した。大正13年槐樹社を起し昭和6年同社解散迄は専ら同展により作品を発表した。又昭和5年に六潮会を起し、これにも毎年出品、昭和6年槐樹社解散後は門下生を率いて旺玄社を創立、後進を指導する傍ら同展により作品を発表した。尚昭和4年帝国美術学校洋画科教授となつたが、同10年に辞し、続いて多摩帝国美術学校の創立に尽力、同校洋画科主任教授を勤めていた。大正初め、初期の作品は重苦しい暗色を多く用いていたが、後、明色による明るい平明な画面となり、晩年は日本画の平面的な表現を取り入れ独自の様式化をみせていた。略年譜明治23年 12月15日、新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生る。明治41年 東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二の指導を受けることとなる。大正元年 在学中、第6回文展に「漁村」「朝の磯」初入選。大正2年 東京美術学校を卒業、更に同校研究科に入る。大正3年 第8回文展に「満潮」「汐浴み」入選。大正4年 第9回文展出品の「紅葉の下湯」は3等賞を受く。大正5年 第10回文展出品の「渓流に水浴」は特選となる。大正6年 第11回文展「山間の初夏」出品、無鑑査となる。大正7年 第12回文展に「山懐の秋色」「麦扱く農婦等」を出品後者は特選となり、又巴里日本美術展にも出品した。大正8年 帝国美術院創設と共に洋画部推薦となる。第1回展には「庭」「着船場」を出品す。国民美術協会第5回展に「浮雲」を出品。7月、安宅安五郎 片多徳郎、田邊至等20名と共に新光洋画会を起した。大正9年 第2回帝展に「花苑」「磯」を出品。大正10年 第3回帝展に「中庭」「燈台の朝」出品。大正11年 第4回帝展洋画部審査員となる。「百日紅の下」「園の花」出品。大正13年 槐樹社を起す。第5回帝展に「梧桐」「凧揚」出品。大正14年 第6回帝展に「春去らんとす」出品。大正15年 第7回帝展に「罌粟」「裸婦」を出品。昭和2年 第8回帝展に「晩き夏」「向日葵風景」出品。昭和3年 第9回帝展に「南の部屋」出品。昭和4年 第10回帝展に「向日葵」を出品。帝国美術学校洋画科教授に就任。昭和5年 第11回帝展に「へちま」出品。木村荘八 福田平八郎、山口蓬春等と共に美術に関する諸般の研究、及毎年展覧会開催の目的を以て六潮会を創立す。昭和6年 第12回帝展に「白閑鳥」出品。槐樹社解散す。昭和7年 第13回帝展に「村の娘達」出品。門下生を率いて旺玄会を創立す。昭和8年 第14回帝展に「麦秋」出品。昭和9年 第15回帝展に「秋近き浜」出品。昭和10年 帝展改組以来は審査員の交渉を受けたが応ぜず、出品もしなかつた。帝国美術学校教授を辞し、多摩帝国美術学校設立者の一人として尽力し、同校洋画科主任教授となる。11月、初期から現在に至る迄の代表的作品120余点を陳べ、大阪朝日会館にて個展を催す。昭和13年 12月銀座三昧堂で個展(小品20余点)開催。昭和15年 3月資生堂ギヤラリーにて日本画展開催。昭和21年 8月「朝顔図」に着手、9月5日頃完成。10月18日没。

山本鼎

没年月日:1946/10/08

洋画家山本鼎は長野県の疎開先で腸閉塞のため10月8日没した。享年65。山本鼎は東京美術学校洋画科在学中、級友森田恒友と常に首席を争つた位で、早くから油彩技術には頭角を現し、渡欧後は一そう優れた技術を示し、院展洋画部、春陽会、官展等で活躍したが、画風からいへばアカデミツクな系統に立つ作家であつた。又明治の末、創作版画の運動を起し、のち日本創作版画協会を結成、現代版画発生の端緒を作つた外、欧州留学後は農民美術や自由画運動を起し、多方面に功績を残した。然し、洋画家として最後迄油絵を描きつづけた人で、晩年も尚「時化の朝」などの濶達適確な描写による優れた代表的作品を残している。略年譜明治15年 10月14日愛知県岡崎市に生る。父山本一郎(医師)長男。明治19年 森鴎外の許に入門していた父を尋ねて母と上京。三河島に住む。明治25年 11才。西洋木版家櫻井氏の内弟子となる。明治33年 櫻井氏の許を離れ、独立して報知新聞に入社す。明治39年 東京美術学校西洋画科選科卒業。森田恒友と同期。明治40年 26才。雑誌「方寸」を石井柏亭、森田恒友、小杉未醒等と発行。この頃から又、パンの会等にも関係す。42年頃、油絵「柿日和」の作などあり。大正元年 渡欧。大正5年 ロシアを経て帰朝。大正6年 日本美術院洋画部同人となる。第4回院展に滞欧作10数点を出品。9月、北原白秋の妹、家子と結婚。大正7年 戸張孤雁と共に日本創作版画協会を起す。第5回院展に「ナチユールモルト(一)(二)」「トマト」「夏の山」「温泉路」を出品。大正8年 長野県小県郡に日本農民美術研究所設立。第6回院展に「町長の肖像」「ダリヤの花」大正9年 第7回院展に「ブルトンヌ」を出品。この年日本美術院を脱退。大正10年 自由学園創立と同時に美術部教授となる。大正11年 春陽会の創立に加わり会員となる。大正12年 春陽会第1回展に「唐松の港」出品。大正13年 台湾に旅行。「台湾の女」大正14年 春陽会第4回展に「松林」「梅(一)(二)」「台湾の少女」出品。昭和2年 春陽会第5回展に「独鈷山雪景」「雪の常楽寺」出品。昭和3年 春陽会第6回展に「温泉場即興」出品。昭和4年 春陽会第7回展に「から松山」を出品。昭和5年-昭和7年 春陽会に出品作なし。昭和8年 春陽会第11回展に「ばらの花」「卓上薔薇」「白菜と玉葱」「アルプスの農家」出品。昭和9年 春陽会第12回展に「朝鮮の壺へ活けた花」「朝の白馬山」「菊」「盆栽のつつじ」「メノコのクロツキー」「海」出品。昭和10年 春陽会第13回展に「大瀬即興」「白菜図」「読書」出品。7月日動画廊で近作展を開催。熱海風景など10数点を出品。この年、帝国美術院改組に際し、帝国美術院参与に推され、山崎省三、前川千帆等と春陽会を退会す。9月山崎省三等身辺の人と催青会を設立。昭和11年 5月、日動画廊で個展を開催小品等約30数点を出品。文展招待で「多瓜」出品。昭和12年 第1回文展に「園長の像」三越洋画小品展に「雪ふる海」出品。昭和13年 3月、日動画廊で個展開催、近作サムホールを出品。昭和15年 1月、日本橋三越で新作油絵の個展を開催「カトレヤ」他20数点を出品。紀元二千六百年奉祝展に「時化の朝」出品。昭和16年 第4回文展に「霧の湖畔」、9月仏印巡回展に「雪の日入江」を出品。昭和17年 第5回文展に「たばこ一ぷく」出品。11月、榛名山に写生旅行中脳溢血で倒れ左半身不随となる。昭和18年 第6回文展に「紅富士」出品。春陽会に復帰。昭和19年 春陽会第22回展に「あかときの富士」出品。昭和21年 腸閉塞となり、手術の結果悪く遂に10月8日死去した。昭和22年春陽会展に「Y婦人の像」を出品。翌23年春陽会第25回展に山本鼎の遺作室を設けた。

田中善之助

没年月日:1946/09/18

春陽会々員田中善之助は9月18日京都市上京区の自宅で病を得て死去した。享年58才。明治22年12月京都西陣に生れ、15才の頃、日本画家岩城清★に就て学んだが、一年余にして退門し家業に従つた。更めて洋画を志し明治38年11月聖護院洋画研究所に入つた。翌年家情に依つて研究の中断を余儀なくされようとしたが、師浅井忠の庇護に依りその内弟子となつた。41年第2回文展に南紀湯崎での風景画「紀州海岸」が入選、爾来関西美術院に於ける富贍な諸作を以て一時京都洋画界に特異の存在と目されていた。43年同院第4回展の「女」や44年第1回仮面会展の「芸妓」はこの期の代表作である。44年田中喜作と謀り、洋画家では津田青楓、黒田重太郎等、日本画家では土田麦僊、小野竹喬等と共に黒猫会運動を起して当時の京都画壇に一石を投じた。大正9年渡欧、12年帰朝したが滞欧中春陽会の会員に推挙され、同年5月同会第1回展には滞欧中の諸作を発表した。帰朝後関西美術院の指導に当り、京都市美術展創設以来の審査員に推されていた。豊麗な色彩と重厚な筆触をもつて、屡々台湾に遊んで得た南島熱国の風景や牡丹、舞妓等を多く題材として堅実なる画風に特色をみせた。尚、昭和7年全関西美術協会と共に関西の有力な二大団体の一たる新興美術教会を春陽会系同志と共に創立し、終始関西にあつて後進を導くに貢献するところがあつた。

香田勝太

没年月日:1946/09/13

白日会々員香田勝太は9月13日死去した。享年62。明治18年鳥取県に生れ、同43年東京美術学校を卒業し、大正15年に渡仏、昭和4年帰朝した。第二部会・白日会々員・文展無鑑査として作品を発表する他、女子美術学校教授として教育に力を尽した。

今関啓司

没年月日:1946/03/31

春陽会々員今関啓司は胃潰瘍のため千葉県長生郡の疎開先で逝去した。享年54。明治26年3月3日千葉県長生郡に生れ、20才頃上京、日本美術院に学び、院展洋画部に出品していたが、大正11年春陽会発会と共に客員となり、同13年会員となった。以後毎年同会展に多くの作品を発表した。昭和13年春陽会の文展参加以後は文展無監査であつた。

相田直彦

没年月日:1946/01/23

日本水彩画会、白日会々員相田直彦は1月23日疎開先の熊本県堀尾芳人方で逝去した。享年59。明治21年会津若松市に生れ、太平洋画会・日本水彩画会研究所に学んだ。帝展推薦・文展無鑑査・二部会々員等を経、水彩画会で活躍していた

靉光

没年月日:1946/01/19

前衛絵画運動の中で得意な画風を持つていた美術文化協会々員靉光は1月19日上海に於て戦病死した。享年40。本名を石村日郎、画名を靉川光郎、靉光といい、明治40年広島県に生れた。大正14年頃より太平洋画会研究所に学び、二科会、1930年協会、独立美術協会等に出品、昭和15年に美術文化協会、同17年に新人画会結成後は主要メンバーとして活躍した。始めは明朗な画風を持つていたが、次第に幻怪なものとなつて行つた。代表作に「ライオン」「目のある風景」「牡牛」「黒い蝶」「自画像」等がある。

清水登之

没年月日:1945/12/07

独立美術協会会員清水登之は12月7日栃木市外国府村大塚の自宅で逝去した。享年59。明治29年栃木県に生れ、39年中学を卒え、翌年渡米、シヤトル市に於て和蘭画家Fokko Tadamaに師事した。大正6年より7年間ニューヨーク市に滞在、その間National Academy of Design, Art Student Leagueに学び、大正14年には渡欧して、パリー・マドリッドをはじめ欧洲各国を見学し、パリ―にあつてはサロンやアンデパンダン等に出品した。昭和2年帰朝の後は二科展に出品、3年は「大麻収穫」、4年には「父の庭」で樗牛賞を受け、翌年「地に憩ふ」により二科賞を受けた。その年同志14名と共に独立美術協会を創立し同会々員となり、以後これを舞台に近代的な写実画風で活躍したが、独立展出品作は次の如くである。昭和6年 「池畔」昭和7年 「陶土の丘」昭和8年 「丘に憩ふ」昭和9年 「山に行く」昭和10年 「裸婦」昭和11年 「鳥・巣」昭和12年 「踊る水母」昭和13年 「江南戦跡」昭和14年 「江南戦場俯観」昭和15年 「平和」昭和16年 「難民群」昭和17年 「南国海辺」昭和18年 「南方地下資源」「人柱」

大久保百合子

没年月日:1945/10/30

朱葉会々員、鬼面社同人大久保百合子は10月30日逝去した。享年42。明治37年千葉県山武郡に生れ、大正10年青山女学院卒業、後、大正13年油絵研究の為渡仏、巴里に3ヶ年留学ゲーラン研究所に学んだ。昭和2年帰国後は帝展文展へ出品、無鑑査となつた。洋画家大久保作次郎の夫人で鬼面社同人、朱葉会々員としても活躍した。

柳瀬正夢

没年月日:1945/05/25

民衆的な画家として知られていた柳瀬正夢は5月25日の爆撃で不慮の最後をとげた。享年46。明治33年松山市に生れ、上京して日本水彩画研究所、日本美術院研究所に学び、ゲオルゲ・グロッス等の研究に入り、漫画諷刺画の方面にも活躍した。院展等にも作品を発表したが、「ゲオルゲ・グロッス研究」「柳瀬正夢画集」「山の絵(句集)」などの著作もある。

大野隆徳

没年月日:1945/03/10

旧帝展、文展無鑑査、光風会々員大野隆徳は、昭和20年3月空襲のため東京都豊島区において戦災死した。明治19年12月7日千葉県山武郡に生れ、千葉中学校を経て東京美術学校西洋画科に入学、和田英作、長原孝太郎の指導を受け、同44年卒業した。同42年在学中第3回文展に「日本橋」が初入選、第6回文展の「落葉を拾ふ児等」は褒状を受け、その後毎回出品、第9回展の「麦ばたき」は3等賞、第10回展の「高原に働く人」は持選となり、その名を認められた。さらに帝展に出品をつづけ、第1回展の「凪ぎたる海」は再び持選となつた。大正11年から13年までヨーロッパに遊学、仏、伊、独、西、英、瑞典、諾威、瑞西等を巡歴し、1921年パリ滞在中サロン・ナショナル・デ・ボザールの展覧会に「聖境礼讃」が入選した。のち帝展・新文展無鑑査となり、また光風会々員に推された。昭和6年大野洋画研究所を創立し、後進を指導した。「大野隆徳画集」(春鳥会発行)のほか「オットマンと環境」(日本美術学院発行)、「新しい油絵の描き方」(資文堂発行)などの著作がある。

林倭衛

没年月日:1945/01/26

洋画家林倭衛は急性肺炎の為1月26日逝去した。享年51。明治28年長野県上田に生れ、13歳の時上京、画家になろうと苦学し、大正5年23歳の時油絵の初作「サンヂカリスト」「多摩川附近」を第3回二科展に出し入選、翌6年二科展に出品した小笠原写生3点は樗牛賞を得、翌7年「冬の海」外4点を出し二科賞を受けた。大正9年個展を兜屋画廊に開き、翌10年より5年間フランスに留学した。帰朝の年春陽会々員となり、翌年春陽会展に滞仏作品38点を出陳した。昭和4年再び渡仏、翌年帰朝し春陽会に滞仏作品を出陳した。昭和6年満鮮写生旅行に赴き、9年春陽会を脱会、昭和12年第1回改組文展には審査員となり、17年にも委員をつとめた。その作品は自然を簡明化した清明なもので、画面にあふれた詩情は独特なものがあつた。略年譜明治28年 6月1日上田市に生る明治40年 上京、学歴なく苦学す大正5年 「サンヂカリスト」「多摩川附近」第3回二科展入選大正6年 第4回二科展に小笠原島写生旅行の収穫3点を出す、樗牛賞をうく大正7年 第5回二科展「冬の海」外4点大いに認めらる、二科賞をうく大正8年 第6回二科展会友となる、出品画「大杉栄肖像」が問題となる大正9年 春、兜屋画廊に個展をひらく、二科展「室生犀星肖像」外4点を出す大正10年 七月画会を起し資を募つて外遊す大正11年 在仏中春陽会客員に推されたるも辞退、巴里、伯林、アルルの各地に滞在、6年に亘る大正15年 帰朝、春陽会々員となる昭和2年 春陽会に滞欧作品28点を特陳す、秋、大阪「春海」に滞欧作個展をひらく昭和3年 1月再渡欧、巴里に滞在し、この間英国にもゆく昭和4年 帰朝、春陽会に滞欧作7点を出す昭和6年 春陽会に「静浦風景」外4点を出す、その後満鮮旅行にゆく昭和9年 春陽会を退く昭和12年 第1回文展審査員となる昭和13年 朝鮮写生旅行にゆく昭和14年 日動画廊に個展をひらく昭和17年 北京にゆき病を得て帰る昭和20年 1月26日急性肺炎にて死去

吉田喜蔵

没年月日:1944/10/25

洋画家吉田喜蔵は腎臓炎の為10月25日逝去した。享年56。明治22年滋賀県大津に生れ、黒田清輝に師事、大正15年よりフランスに留学、昭和2年帰朝して後、洋画研究所を経営後進の指導に当つた。昭和2年帝展に「南仏風景」出品後はもつぱら個展により、パステル画が多かつた。

島崎鶏二

没年月日:1944/10/10

二科会員、文展無鑑査、洋画家島崎鶏二は10月10日逝去した。明治40年島崎藤村の息として生れ、川端画学校で学んだが、昭和4年から3年間渡仏、帰朝後清新な写実画風の作品を発表して嘱目された。二科会に発表した「うちわ」(22回)「水」(23回)「川辺」(24回)「桔梗」(25回)「竹」(26回)「笛」「弓」(27回)「白い花」「蔬菜」(28回)「牧草」(29回)など、いずれも当時注目を惹いた作品である。

茨木猪之吉

没年月日:1944/10/02

茨木猪之吉は10月2日、穂高で登山中に消息を絶つ。明治21年静岡県に生る。はじめ浅井忠に学び、のち太平洋画会研究所、日本美術院洋画部に於て研究、春陽会に出品し、又日本山岳画協会の会員であつた。

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