椿貞雄
国画会々員椿貞雄は、12月29日千葉大学附属病院でホドキン氏病のため逝去した。享年61歳。自宅船橋市。明治29年2月10日米沢市に生れた。大正2年上京、正則中学校に転入したが、岸田劉生の個展に感動し、同3年劉生に師事した。大正4年草土社の結成に参加、更に巽画会、院展洋画部、二科会或は初期春陽会に出品する等、つねに岸田劉生と行動を共にし、作品も岸田の影響を最もつよくうけた。また、白樺同人武者小路実篤、長与善郎と識り、その人生観、芸術観は終生椿に大きな感化を与えた。昭和4年国画会に招かれて会員となり没年迄同会に所属、出品を続けていた。
略年譜
明治29年 2月10日山形県米沢市に生れた。
大正2年 上京。
大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。
大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。
大正9年 第1回個展を京都で開催。
大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。
大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。
昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。
昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。
昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。
昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。
昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。
昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。
昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。
昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。
昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。
昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。
昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。12月29日逝去。病名ホドキン氏病。
昭和33年 4月第32回国展で遺作40余点を陳列。
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「椿貞雄」『日本美術年鑑』昭和33年版(174頁)
例)「椿貞雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8923.html(閲覧日 2024-10-07)
以下のデータベースにも「椿貞雄」が含まれます。
- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1937(昭和12) 改訂古今書画名家一覧表 附古今書画名家印鑑譜_807016
外部サイトを探す