本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





白滝幾之助

没年月日:1960/11/25

日展会員白滝幾之助は脳軟化症のため東京都大田区の自宅で逝去した。享年88才。明治6年3月17日兵庫県但馬国に生れた。早くから父に別れ、母の手一つで育てられ、小学校卒業後は鉱山関係の仕事に奉職していた。明治23年上京して築地の工手学校に入学したが、和田三造の兄、和田正造にすすめられ生巧館画塾に入り画家となる決心をする。やがて黒田清輝の天心道場を経て美術学校に入学、明治31年に卒業した。この間、明治27年第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状を受け有栖川官家買上となっている。38年、セントルイス万国博覧会を機会に渡米し、苦学しつつ、更に欧州に渡り、パリ、ロンドンに滞在して修業、7年後に帰朝した、米国、英国の留学によって肖像画に興味をおぼえ研究を重ねた。帰国後は文展に出品をつづけ、以後帝展、日展と戦後の晩年まで官展系の作家として、審査員として写実的作品を発表しつづけていた。 略年譜明治6年3月17日、兵庫県但馬国に生れる。明治23年 上京、工手学校、更に生巧館画塾に入り山本芳翠の指導をうける。又天心道場で黒田清輝に学び、美術学校に入学する。明治27年 第4回内国勧業博覧会に「待ち遠し」が入選、褒状をうける。明治31年 東京美術学校卒業。白馬会展に「稽古」出品明治38年 渡米、更に英仏に渡り44年帰国明治44年 第5回文展「老人肖像」「裁縫」(褒状)大正3年 第8回文展「野村氏の像」(二等賞)大正4年 第9回文展に無鑑査となり「撫子」「収獲」「某氏の像」を出品する。大正8年 第1回帝展「ハリス氏像」出品。大正9年 第2回帝展、「芍薬」「コンデル博士の像」出品。この年から審査員を屡々つとめ、以後官展の無鑑査出品をつづける。昭和3年 第9回帝展「マンドリーヌ」昭和6年 第12回帝展「松翁氏の像」昭和8年 第14回帝展「朝霧」昭和12年 第1回文展「新緑」出品昭和15年 奉祝展「富士」出品昭和23年 第4回日展「ミス・ムラタの像」昭和27年 26年度芸術院恩賜賞をうける。昭和28年 第9回日展「鶏舎」昭和35年 11月26日没

金沢重治

没年月日:1960/11/17

創元会・日展会員金沢重治は、11月17日脳出血のため鎌倉市の自宅で逝去した。明治20年10月27日東京市本郷区に生れた。明治40年東京美術学校に入学、同45年西洋画科選科を卒業した。大正3年第8回文展に「裸体」が初入選となり10回、12回展を除いて毎回出品入選し、帝展第7回展の「晩夏」、更に第8回展の「庭」で特選をとり無鑑査となった。また、大正13年、牧野虎雄、吉村芳松、熊岡美彦等と槐樹社を創立し、昭和6年会の解散まで回展に出品、「冬の庭」などの作品がある。昭和15年12月、創元会の創立に参加し、回展では「山路」(4回展)、「梅」(8回展)「鎌倉妙本寺」(11回展)、「冬の鎌倉」(13回展)、芽ふく頃(14回展)などがあげられる。一方、日展には第1回展から出品のち出品依嘱者となって没年まで作品を送り「鎌倉風景」「横須賀線」「竹藪」「鎌倉安国論寺」「竹林」等がある。

安宅安五郎

没年月日:1960/09/01

洋画家、日展会員安宅安五郎は、9月1日パーキンソン氏病のため逝去した。享年78才。明治16年4月22日新潟市に生れ、同43年東京美術学校を卒業した。同年第4回文展に「靴屋」「花壇」の二点が初入選となり洋画家としての第一歩をふみだした。翌年も入選、さらに第6回、7回展で「花園にて」、「緑の蔭」、が褒状となった。その後明るい戸外の、印象風の作風から、綿密な写実的描写に移り、帝展では、第1回展の「白蓮樹」、第2回展の「砂丘に立つ子供」、第4回展「裏通り」で連続3回特選をうけて無鑑査待遇となった。大正10年から翌年まで欧洲各地に遊学し、帰国後の作品は主観的な傾向に向い、第8回展「五人の子供」、12回展「浜の娘」14回展「刺繍」などがある。 なお、この間昭和3年に、明治神宮壁画「教育勅語下賜」を制作した。新文展、日展と終始官展系作家として活動していた。戦後は、日展には出品依嘱者として、又審査員として「ブドウと少女」、(第4回)、「北国の漁村」(7回)などの出品があるが作品は少ない。昭和31年、中国人民共和国対外文化協会の招きで日本文化代表団の一員として中国に赴いた。

佐藤一章

没年月日:1960/08/29

洋画家。東光会々員、日展評議員の佐藤一章は、8月29日、胃かいようのため東京世田谷の国立大蔵病院で逝去した。享年54才。本名章。明治38年岡山県小田郡に生れ、昭和4年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中から帝展に出品し、昭和2年第8回帝展で「後向きの裸婦」が初入選となった。その後も帝展、に出品をつづけ、9年に「公記字号」で特選となり、つづいて新文展時代は無鑑査待遇をうけた。なお東光会は発足当初から参加し、会員として、運営委員として活躍していた。第二次大戦後は日展に審査員として、又出品依嘱者として作品を送っている。昭和25年岡山大学特設美術科教授となり30年迄勤務していた。写実的な作風で風景画が多い。 略年譜昭和2年 東京美術学校在学中、第8回帝展に「後向き裸婦」が初入選となる。昭和4年 東京美術学校西洋画科卒業。帝展には、この頃毎年出品する昭和5年 北支、満州、朝鮮に旅行昭和7年 東光会の創立に加わる昭和9年 第15回帝展出品の「公記字号」特選となる。上海、蘇州、杭州に旅行昭和11年~19年 文展無鑑査待遇をうける昭和21年 第1回日展「根雨の雪」昭和22年 第3回日展審査員「働らく少女」昭和23年 第4回日展審査員「雪の朝」昭和25年 第6回日展、出品依嘱「春潮」。岡山大学特設美術科教授となる。(30年退職)。又、この年岡山県文化賞受賞する。昭和26年 第7回日展出品依嘱者「残雪」昭和32年 第13回日展審査員、「残雪駒ケ岳」(政府買上)昭和33年 第14回日展日展評議員となる「老樹」出品。昭和34年 第15回日展「樹林」昭和35年 8月29日逝去。遺作「那須ケ岳」

古茂田守介

没年月日:1960/07/21

新制作派協会々員古茂田守介は、7月21日ゼンソク発作のため東京都目黒区の自宅で逝去した。享年42才、大正7年1月5日愛媛県松山市に生れ、北予中学卒業後、上京して猪熊弦一郎、ついで脇田和、内田厳等に師事した。昭和14年中央大学法科を中退し、大蔵省に勤務、翌年新制作派展に初入選した。更に翌16年外務書記生として北京大使館に勤務したが、18年に帰国し、戦後21年大蔵省を退官した。この年新制作協会に出品し新制作作家賞を受け、以後同会に連年作品を送り、25年同会々員となった。新制作協会の他造型版画協会、アンデパンダン、国際展、国際具象派展などの出品がみられ、個展を屡開催している。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調とする静物画や裸婦は、独特の画風をもつものであった。主要作品歴昭和21年 「踊り子達」「臥せる女」10回新制作派協会展昭和22年 「踊子」「踊子を配せる群像」。11回新制作派協会展昭和23年 「踊る群像」「シュミーズの女」12回新制作派協会展昭和24年 「工房」「うづくまる裸婦」「背を向ける裸婦」13回新制作派協会展昭和26年 「両架を配した裸婦」「裸婦と静物」15回新制作派協会展昭和27年 「裸婦と街」「裸婦二人」16回新制作派協会展昭和28年 「二人の裸婦」「母子」17回新制作派協会展昭和30年 「静物」(1)(2)19回新制作派協会展昭和31年 「作品」(1)―(5)20回新制作派協会展昭和32年 「裸婦」(A)(B)21回新制作派協会展昭和33年 「腰をかけた裸婦」「体をひねった裸婦」22回新制作派協会展昭和34年 「干魚と水差」5回日本国際美術展

大谷房吉

没年月日:1960/07/10

洋画家、国画会々員で株式会社明治屋専務でもあった大谷房吉は7月10日脳軟化症のため神戸市東灘区の自宅で逝去した。享年70才。明治23年4月17日和歌山市に生れた。明治41年慶応義塾商業学校卒業、国画会には第1回展より出品し、昭和9年第9回展で「無花果」「椿」「鷲巣山」ほか2点を出品し国画奨励賞をうけた。第10回展には「滝」外5点が入選、会友に推された。昭和12年会員、会友制を廃し同人制に改めたため、同会同人となる。18年、会は再び同人制を廃し会員、会友制を復活し大谷は新に会員となった。国画会に毎年作品を出し、また、奉祝展、新文展に「麓の朝」(4回)「全暉」(6回)などを出品したこともある。戦前の国展には「山荘」(15回)、「牡丹」「山麓秋色」(18回)戦後の作では「干魚」「赤絵と蜜柑」(23回)、「静物」「窓辺風景」(26回)、「厳島」(27回)、「石庭」(30回)などがある。

瑛九

没年月日:1960/03/10

油絵・版画・写真の各部門で早くから前衛的な活動の軌跡を残してきた瑛九(本名杉田秀夫)は3月10日心臓障碍のため没した。1930年代の初期スュルレアリスム運動の一端としてフォトグラム、フォトデッサンに新鮮なヴィジョンを展開し、後エッチング、ついでリトグラフおよび油絵制作にもたずさわった。略年譜明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。昭和2~3年 美術雑誌「アトリエ」「みずゑ」等に美術批評を寄稿。昭和5~8年 写真雑誌「フォトタイムス」に写真および写真批評を発表。昭和9~10年 油絵制作に専念。昭和11年 新時代洋画展同人となる。この時から瑛九の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集「眠りの理由」を出版。昭和12年 自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をブリュツケ画廊で開催。昭和14年 宮崎市で個展開催。昭和15年 この頃から作品を制作しても発表しない。昭和24年 美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。昭和25年 10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。昭和26年 1月宮崎市商工会議所でフォト・デッサン展を開く、この時「瑛九後援会」がつくられ、パンフレット「芸術家瑛九」が出版される。2月宮崎県教育会館で個展開催。8月宮崎より上京。浦和市に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。昭和27年 3月神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。11月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。3月エッチング集「小さな悪魔」「不安な街」を出版。デモクラート美術家協会第1回展出品。昭和28年 8月神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。昭和29年 8月神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。昭和30年 1月高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。昭和32年 4月タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。昭和33年 5月武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。昭和34年 10月発病入院。11日埼玉県大宮小学校での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。昭和35年 2月銀座兜屋画廊で個展開催。3月10日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。参考文献 久保貞次郎「淡九のフォト・デッサン」(みずゑ542 昭和25年12月)、長谷川三郎「手紙」(みづゑ552昭和26年8月)、滝口修造「瑛九のエッチング」(美術手帖74 昭和28年10月)針生一郎「瑛九-われを異色作家とよぶ」(芸術新潮11-3 昭和35年3月)滝口修造「ひとつの軌跡―瑛九をいたむ―」(美術手帖173 昭和35年5月)、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」(現代の眼66 昭和35年5月)。以上主として国立近代美術館「4人の作家」展(4月28日―6月5日)目録によった。

上野山清貢

没年月日:1960/01/01

洋画家、「一線美術」創立会員上野山清貢は1月1日逝去した。亨年71才。明治22年北海道江別市に生れた。太平洋画会研究所に学び、のち、黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけた。大正末期から官展に出品をつづけ戦後は日展に及んでいる。大正13年第15回帝展に「とかげを弄び夢見る島の小女」が初入選となり、つづいて第7回、第8回、第9回帝展で「パラダイス」、「F壌の支那服を纏える」、「室内」が連続特選となり画壇にみとめられた。以後無鑑査待遇をうけ帝展時代には12回展「嵐の前」13回展「暮色」15回展「ある日の広田外相」などがある。新文展になってからは、2回展「極北企業地風景」、3回展「摩周湖の秋」、奉祝展の「熱風」、5回展「鳩山氏像」等があげられる。尚塊樹社展で受賞したこともあり旺玄社展、全道美術展、一線美術展には毎回出品をつづけていた。一線美術は、昭和25年に岩井弥一郎、別府貫一郎等と創立した洋画団体である。又郷里北海道に、全道美術協会を設立し、展覧会をひらく等同地の洋画発展にたえず努力していた。昭和28年11月、北海道画壇に貢献した足跡を認められ北海道新聞社文化賞を受賞した。

山口正城

没年月日:1959/12/05

日本アブストラクト・アート・クラブ会員、国立千葉大学工学部工業意匠学科教授山口正城は、12月5日気管支肺炎のため逝去した。享年56歳。明治36年(1903)1月22日北海道旭川市の洋品店に生れた。大正15年(1926)東京高等工芸学校卒業後、大阪市立工芸学校教諭に就任し、以来デザイン教育にたずさわりながら、制作を続けてきた。自由美術家協会には第1回から出品し、3回展の小品5点は2・3の新聞評にも取上げられた。人間を取囲むすべてのものの中に美を探るのは美術家の常であるが、そこから美をパターンとして抽出し、意識的に造形の原理と照合し、原理に汲み込むということは実技家には少ない態度である。彼の日本美術界における位置の特異性はそこにあつた。そして純粋な形体構成に関心を抱く以上、高等数学や自然科学にも造詣が深く、多分に知的な興味を伴いながらも、ひからびたパターンの組合せに終ることがなかつた。作品は当初から全く抽象的であり、自由美術家協会展出品以外には制作の数は限られているが、近年になつて他の抽象展などにも出品するようになつた。日本紙に墨または淡彩の画面にカラスグチで引いた鋭い線でリズムを与えた最近の作品はしだいに認められてきたところであつた。デザイン学会前委員長。〔作品記録〕自由美術家協会1回展(1937)「形態No.3」(フオトグラム)、2回展不出品、3回展(1939)小品「分岐せるもの」「集合せるもの」「模倣せるもの」「対話態」「包囲せるもの」協会賞受賞、4回展(1940)小品連作「屈折」「分散」「分割」「分列」「拡散」「隔在」5回展から12回展まで不明、13回展(1949)「線群」(分離構造)、(屈折構造)、(習作)、14回展(1950)「モルペー」A、B、「線群」A、B、15回展不明、16回展(1952)「デッサン52-15」、17回(1953)「カノン」1(空虚における)、2(対抗における)、3(流動における)、4(休止に向う)18回展不明、19回展(1955)「溶けるカノン」、20回展(1956)「朝のカノン」21回展(1957)「凍るカノン」、22回展(1958)「朝の歌」日本国際美術3回展(1955)「鬼の執心」「鬼の変心」、4回展(1957)「夏のこだま」(水彩)、5回展(1959)「雷心」現代日本美術1回展(1954)「鬼の対話」A、B、(水彩)2回展(1956)「黒いカノン」「赤いカノン」、3回展(1958)「5月の雨」「炎の歌」抽象と幻想展(1953、国立近代美術館)「視線方向のカノン」日米抽象美術展(1955、国立近代美術館)「男鬼のささやき」「女鬼のささやき」世界の中の日本抽象美術展(1957ブリジストン美術館)「春のこだま」「おさないカノン」「冬の山彦」「たそがれ」世界の中の抽象・日伊美術展(1959・白木屋)「近づくもの」(遺作)(海外展)アブストラクト・アーティスト展(米・リヴァサイド美術館・1954)、ブルックリン国際水彩画展(米・1955)、アメリカ水彩画協会展(米・1957)、日本3人展(伊・1959)等に出品。〔デザイン〕山葉ピアノ・三協8ミリカメラ他〔著書〕「新しい紙の工作」新光閣1952、「デザイン小辞典」(共編)ダヴィット社1955、「機械とデザイン」河出書房1956、「デザインの基礎」(共著)光生閣1960、「造形とは」美術出版社1960 〔略歴〕明治36年 旭川市に生れる。大正15年 東京高等工芸学校卒業、大阪市立工芸学校図案科教諭昭和14年 京都市立第二工業学校玩具科教諭昭和14年 自由美術家協会を美術創作家協会と改称し会友となる。昭和15年 同会員昭和19年 滋賀県琵琶航空工業株式会社技師昭和22年 滋賀県高宮木工補導所長昭和23年 大阪市立工芸高等学校へ復帰昭和23年 6月、東京工業専門学校教授昭和24年 千葉大学工学部工業意匠学教室助教授昭和27年 同教授昭和28年 日本アブストラクト・アート・クラブ設立昭和34年 自由美術家協会退会・日本抽象作家協会設立昭和34年 12月5日死去

小早川篤四郎

没年月日:1959/11/27

東光会委員、日展会員小早川篤四郎は、11月27日東京都目黒区の自宅で心臓マヒのため逝去した。享年66歳。明治26年1月6日、広島市に生れた。幼少のころ、台湾移住、同地で兵役前に石川欽一郎に水彩画の手ほどきをうけている。兵役2年を終えて上京し、自活しながら本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助の指導をうけた。大正14年第6回帝展に「ジャワ婦人」が初入選となり、その後、第7回展をのぞき、昭和9年第15回帝展まで毎回入選して、12年の第1回文展では無鑑査となつた。また、この年9月、海軍に従軍を許されて、上海方面に出発し、その後も度々従軍して第3回文展「蘇州河南岸」など、戦争記録画の制作発表が多くなつていつた。一方、槐樹社にも参加して、同展で田中奨励賞を数回うけ、昭和6年会友となつたが、この年槐樹社は解散した。翌7年、東光会の創立に参加、会友となり、10年には会員に推され、晩年は同会委員であつた。又、戦後の日展では出品依嘱作家として毎年出品していた。 作品略年譜大正14年 第6回帝展「ジャワ婦人」大正15年 この年から槐樹社展で田中奨励賞を3年連続うける。昭和2年 第8回帝展「裸像」昭和3年 第9回帝展「裸体坐像」昭和4年 第10回帝展「仰臥裸婦」昭和5年 第11回帝展「少女全像」昭和6年 第12回帝展「水兵服」昭和7年 第13回帝展「裸女」昭和10年 2月第3回東光会展「桜井少将立像」「廟前」他昭和12年 第1回文展「黒い屏風の前」(無鑑査)昭和14年 第3回文展「蘇州河南岸」第7回東光会展。従軍報告画出品「塹壕と花」他昭和15年 紀元2600年奉祝展「庭」第8回東光会展「陣地小閑」「黒衣の少女」昭和16年 第4回文展「秦淮凉風」(無鑑査)第9回東光会展「庭」「広西前線」昭和17年 第10回東光会展「敵前上陸」「U夫人像」昭和19年 戦時特別文展「暁雲」第12回東光会展「印度洋海戦」「南衣」「魚雷射つ海兵」昭和22年 第13回東光会展「つれづれ」「新装」昭和24年 第5回日展「青衣」第15回東光会展「作州雪景」「初春」昭和26年 第7回日展(依嘱出品)「裸婦」第17回東光会展「城跡」「作北冬景」「春衣」昭和27年 第8回日展(依嘱出品)「黒屏風」第18回東光会展「城址の春」昭和28年 第9回日展(依嘱出品)「ヴェランダ」第19回東光会展「屏風の前」「歯科診療室」昭和29年 第10回日展(依嘱出品)「裸婦坐像」第20回東光会展「浅春画房」「早春城跡」昭和30年 第11回日展(依嘱出品)「婦人像」第21回東光会展「窓辺」「孔雀」昭和31年 第12回日展(依嘱出品)「黒いドレス」昭和33年 第1回日展(依嘱出品)「白かすり」第24回東光会展「婦人像」「五月雨頃所見」昭和34年 第2回日展「池畔」日展会員となる。第25回東光会展「茶羽織」「T女子像」「古城早春」

斎藤與里

没年月日:1959/05/03

日展参事、東光会々員斎藤與里は、5月3日、東京都豊島区の自宅で心臓マヒで逝去した。享年72歳。本名與里治。明治18年9月埼玉県に生れた。明治38年9月、京都の浅井忠、鹿子木孟郎のもとで素描を学び、同39年2月にフランスに留学した。パリでアカデミイ・ジュリアンに入り、ジャン・ポール・ローランスに油彩を学んだが、モーリス・ドニやシャヴァンヌの作品に惹かれるところ多かつた。41年に帰朝、その後は東京に居住して、西欧絵画の新しい動きを、文筆を通じて新聞、雑誌に紹介し、新人として期待されていた。大正元年、高村光太郎、岸田劉生等とフューザン会をつくり、同時に展覧会をひらいた。フューザン会は、西欧のフォーヴや印象派後期の作家たちの個性的な仕事に強く共鳴した人々の集団で、反官展的な革新運動として注目されていた。然し、翌年第2回展をひらいて会は解散し、斎藤は、官展に出品、大正5年の第10回文展の「収穫」で特選をとり、以後官展系の作家としてとどまつた。昭和2年には「水郷の朝」で再び特選となり翌年から無鑑査待遇をうけている。大正12年、春陽会第1回展の際客員に、13年には会員となつたが、この年、牧野虎雄などと、別に槐樹社を創立し、春陽会は第3回展に出品のみで15年には退会している。昭和6年、槐樹社は解散し、同7年、新に東光会を樹立し、同会々頭として晩年迄出品をつづけていた。また官展では昭和9年第15回帝展以後、しばしば審査員をつとめ、戦後、日展と変つてからは参事の役にあり、32年迄毎年出品をつづけていた。 作品略年譜大正元年 フューザン会第1回展「落日」「景色」「花畑の洪水」「木陰」「静物」等10点大正2年 フューザン会第2回展「異人館」「晩香寮」「菊の花」等19点大正4年 第9回文展「朝」(文展初入選、署名与里治)大正5年 第10回文展「収穫」«特選»大正7年 第12回文展「春」(この年から与里の署名)大正8年 第1回帝展「一日」(三画対)大正12年 春陽会客員となる。大正13年 帝展、春陽会展ともに出品なし。牧野虎雄等と槐樹社を創立する。大正14年 春陽会3回展「諏訪湖畔の宿にて」「部屋の一隅」「雑魚すくい」他1点。槐樹社2回展「裸婦」他大正15年 春陽会退会昭和2年 第8回帝展「水郷の朝」«特選»昭和3年 第9回帝展「雪の朝」(無鑑査待遇)。槐樹社5回展「冬日小景」等13点昭和4年 第10回帝展「稔る秋」(無鑑査待遇)。槐樹社6回展「書見図」「由布院風景」等12点昭和5年 第11回帝展「春の夕」(無鑑査)。槐樹社7回展「少女」他昭和6年 第12回帝展「製塩」(無鑑査)。槐樹社解散昭和7年 第13回帝展「海女」(無鑑査)。東光会創立昭和8年 東光会第1回展「金魚」「溪流」「密柑山」他昭和9年 第15回帝展「秋晴れ」(審査員となる)昭和10年 東光会3回展「花」「南紀風景」(1-4)「合奏」他昭和12年 第1回文展「海辺秋景」(審査員)。東光会第5回展「K子像」昭和13年 第2回文展「暁の金剛山」(審査員)。東光会第6回展「島の娘」昭和15年 奉祝展「利根川」。東光会第8回展「阿蘇の噴煙」「山村」「支那服の少女」他昭和16年 第4回文展「山村朝色」(審査員)。東光会第9回展「篠島風景」「海辺秋色」「野鳥」他昭和17年 第5回文展「おひるやすみ」(無鑑査)。東光会第10回展「那須山岳」「早春山色」「塩原風景」他昭和18年 第6回文展「夏の小川」(審査員)。東光会第11回展「菜の花」「初夏の冨士」他昭和19年 戦時特別文展「稔る秋」(男躰山遠望)。東光会第12回展「山村朝色」「山村小雨」「桃色の冨士」昭和21年 第2回日展「晩秋の赤城山」昭和24年 第5回日展「柿」(審査員)。東光会第15回展「花を挿す」「鳩」「トマト」昭和25年 第6回日展「秋海棠」。東光会第16回展「花あそび」昭和26年 第7回日展「初秋の利根川」(この年日展参事となる)。東光会第17回展「夏の沼辺」他昭和27年 第8回日展「夏の朝」(審査員)。東光会第18回展「紙風船」「お盆頃」昭和28年 第9回日展「裏磐梯」。東光会第19回展「梅咲く窓」他25点回顧出品昭和29年 第10回日展「朝」。東光会第20回展「大野寺石仏」「十五夜」昭和30年 第11回日展「吾妻小冨士」。東光会第21回展「伊豆山」「食間」昭和31年 第12回日展「晩秋」。東光会第22回展「つみくさ」昭和32年 第13回日展「畑毛の冨士」。東光会第23回展「山峡秋色」昭和33年 東光会第24回展「春の夜」昭和34年 第2回日展「静物」(遺作)。東光会第25回展「桜島」「三段峡」「バラ」「夕陽」等10点

橋本徹郎

没年月日:1959/02/25

第二紀会々員、日本宣伝美術会々員橋本徹郎は、2月25日逝去した。明治33年1月1日、兵庫県加古川郡に生れた。関西美術院で洋画を学び、昭和の初めから二科会に入選し、17年第29回二科展に会友となつた。しかしその後出品なく、戦後、二科会を離れ、第二紀会の創立に参加して同会の会員となつた。同時に作品は、従来の写実風景から抽象的な構成へと推移していつたが、第二紀会での出品は少なかつた。又一方、デザイナー、アートデイレクターとして活動も盛んであつた。 油絵作品略年譜大正15年 第13回二科展「花」「三光町風景」昭和2年 第14回二科展「花もつ女」「植物園の午後」昭和3年 第15回二科展「6月のペーヴメント」「手袋」昭和4年 第16回二科展「或る工夫」昭和5年 第17回二科展「PRIVATE ROOM」昭和7年 第19回二科展「あるグループ」「黄色いドレス」昭和9年 第21回二科展「静かなる丘」「イヴニングドレスの女」昭和10年 第22回二科展「樹氷」昭和11年 第23回二科展「海を配せる静物」「挨拶」昭和12年 第24回二科展「仮縫」「銀座の窓」昭和14年 第26回二科展「アカシヤの花咲く家」「まんさあど」昭和15年 第27回二科展「お祭り」(A)(B)昭和17年 第29回二科展「好日子」。二科会会友となる。昭和23年 第2回二紀会展「朝」昭和24年 第3回二紀会展「作品」(A)(B)(C)昭和25年 第4回二紀会展「みづたまり」「都会と月」昭和26年 第5回二紀会展「題のない絵」(A)(B)昭和30年 第9回二紀会展「アフターイメージ」「色面分割の中の円」

和田英作

没年月日:1959/01/03

帝室技芸員、日本芸術院会員で洋画壇の長老和田英作は、1月3日静岡県清水市に於いて、膀胱癌のため没した。享年83歳。同10日明治学院講堂で葬儀を行つた。明治7年12月23日鹿児島県に生まれ、幼くして上京、明治学院に学び、上杉熊松の指導を受けた。同24年退学して画業に専心し、曾山幸彦、原田直次郎に学び、次いで天真道場に入つて黒田清輝、久米桂一郎の指導を受けた。同29年東京美術学校助教授に任ぜられたが、間もなく辞して同校西洋画科に入学、同30年7月修了、同校助手となつた。同29年白馬会の創立に参加して会員となつた。同32年ドイツに赴き、同33年文部省留学生となつてパリに至り、アカデミイ・コラロッシに入学してラファエル・コランの指導を受けた。同36年帰国し、母校の教授に任ぜられた。同40年文部省美術審査委員会委員、大正8年帝国美術院会員となつた。同10年ヨーロッパに出張し、翌年帰国した。昭和7年東京美術学校々長に任ぜられ、同11年辞し、同校名誉教授の称号を受けた。この間、同9年帝室技芸員を拝命した。同12年帝国芸術院会員を仰付けられた。同18年多年の功績に対し文化勲章を授与され、同26年文化功労者に選ばれた。 その主な作品には初期の「渡頭の夕暮」「海辺の早春」「思郷」「こだま」、中期の「斜陽」や原法学博士をはじめ名士の肖像があり、晩期のものには「上の御堂にて」「夏雲」などがある。いずれも外光派的写実で、その堅実な油彩技法は稀にみるところであつた。また、これらのほか、帝国劇場をはじめいくつかの装飾壁画にも力作を遺した。 略年譜明治7年 12月23日鹿児島県肝属郡に生る。明治12年頃 両親にともなわれて上京、麻布に住む。父秀豊は海軍兵学校の英語の教官となつた。明治20年 明治学院に入学、同窓三宅克己と上杉熊松に洋画の初歩を学ぶ。明治24年 退学。上杉の紹介で曾山幸彦の門に入る。同門に岡田三郎助、中沢弘光、三宅克己、矢崎千代二などがあつた。明治25年 曾山逝去のため1月原田直次郎の鍾美館に転じた。明治美術会展に「秋ノ景色」(水彩)出品。明治26年 洋画修学のかたわら久保田米僊に日本画を学ぶ。明治美術会展に「人体習作」(油絵)「景色」(同)を出品。明治27年 9月黒田清輝、久米桂一郎が新設した天真道場に学ぶ。明治28年 7月第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」出品、妙技二等賞を受く。明治美術会展に「新柳」「海辺早春」11点出品。明治29年 9月東京美術学校助教授に任ぜられた。6月白馬会の創立に参加して会員となる。第1回白馬会展に「麦の秋」「虹」「矢口のわたし」等19点出品。明治30年 2月本官を免ぜられ、東京美術学校西洋画科選科第4年級に入学、7月修了。10月同科教場助手を命ぜらる。第2回白馬会展に「快晴」「渡頭の夕暮」等30点出品。明治31年 日本美術研究のため来朝のベルリン博物館のアドルフ・フィッシャーを案内して約半年間畿内、九州、北陸等を巡遊。第3回白馬会展に「三保の富士」「物おもひ」「機織」等21点出品。明治32年 5月フィッシャーの依嘱により、その蒐集の日本美術品の目録作成のためベルリンに赴く。第4回白馬会展に「甲板」「ミッドルス・バロオ」等6点出品。明治33年 3月文部省留学生となり、パリに赴き、コラロッシ研究所に入つてラファエル・コランの指導を受ける。パリ万国博覧会に旧作「渡頭の夕暮」「機織」を出品、褒状を受く。第5回白馬会展に「肖像」「風景」等を出品。明治34年 第6回白馬会展に「ルュクサンブール」「池」を出品。明治35年 サロンに「思郷」出品、入選。第7回白馬会展に「冬の池畔」「半身」「婦人読書」等出品。明治36年 6月イタリアを経由、帰国。10月東京美術学校教授に任ぜらる。第5回内国観業博覧会に「こだま」出品、二等賞を受く。第8回白馬会に「思郷」「肖像」「夕暮の三保」「夕凪」出品。明治37年 第9回白馬会展に「有るかなきかのとげ」「箕作博士肖像」出品。米国セント・ルイス万国博覧会に「風景」出品。明治38年 白馬会創立十年記念展に「くものおこなひ」「夕空」のほか旧作「麦の秋」「編物」等19点出品。明治40年 3月東京府勧業博覧会審査官、8月文部省美術審査委員会委員となる(以後大正7年まで)。東京府勧業博覧会に「斜陽」出品1等賞を受く。第11回白馬会展に「肖像」「風景」出品。高橋滋子と結婚。明治41年 第2回文展に「おうな」出品。明治42年 第3回文展に「角田市区改正局長肖像」「原法学博士肖像」出品。明治43年 東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となる。第4回文展に「薔薇」「まとものあかり」「肖像」出品。明治44年 第5回文展に「小金井博士肖像」「曇り日」「草花」出品。帝国劇場壁画製作。明治45年 第6回文展に「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」出品。大正3年 4月東京大正博覧会審査官を嘱託さる。同博覧会に「筧の水」、第8回文展に「黄昏」「赤い燐寸」、光風会展に「漁村」出品。赤坂離宮及び中央停車場の壁画製作。大正4年 第9回文展に「佐用姫」出品。大正5年 第10回文展に「あけちかし」出品。大正7年 第12回文展に「壁画落慶之図」出品。大正8年 9月帝国美術院会員を仰付けらる。第1回帝展に「読了りたる物語」出品。大正9年 第2回帝展に「渋沢子爵像」出品。慶応義塾大学のために福沢諭吉像製作。大正10年 4月欧州へ出張を命ぜらる。7月勅任官を以て待遇さる。大正11年 1月以後フランス官設美術展覧会へ本邦美術品出陳に関する事務に従事。6月叙勲4等瑞宝章。9月帰国。大正12年 フランス政府からオフイシエ・ド・ロルドル・ナショナル・ラ・レジョン・ドノール勲章を受く。フランス美術展準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会委員を嘱託さる。大正13年 第5回帝展に「大住嘯風君肖像」「奈良人形」大正14年 鹿児島県より東京府へ転籍。第6回帝展に「森律子肖像」「野遊」、光風会展に「花」出品。大正15年 第7回帝展に「松林」、聖徳太子奉讃展に「父の肖像」、光風会展に「薔薇」出品。なお三越本店で個展開催「ミモザ」等50余点。昭和2年 明治大正名作展に「こだま」「渡頭の夕暮」「角田市区改正局長」「海辺早春」陳列さる。燕巣会展に「黒き瓶の薔薇」出品。昭和3年 第9回帝展に「肖像」、燕巣会に「冬の日」出品。昭和4年 三越本店にて個展。昭和5年 第11回帝展に「早春」、第2回聖徳太子奉讃展に「花」、光風会展に「初冬の湖畔」出品。昭和6年 第12回帝展に「黄衣の少女」出品。昭和7年 5月東京美術学校長に任ぜらる。昭和8年 史蹟名勝天然記念物調査委員会委員となる。昭和9年 6月帝室技芸員を命ぜらる。昭和10年 6月美術研究所々長事務取扱を命ぜらる。昭和11年 6月東京美術学校長を辞し、同校名誉教授の称号を受く。聖徳記念絵画館壁画「憲法発布記念式」を完成。宮内省御下命の「山本内閣親任式」をえがく。三越本店にて個展、「湖畔の暮色」等19点陳列、青樹社洋画展に「薔薇」出品。昭和12年 帝国芸術院会員を仰付けらる。明治、大正、昭和三聖代名作展(大阪)に「静物」「こだま」「大住嘯風君肖像」陳列さる。昭和13年 三越に個展を開き、「溪流」「湖畔の春景」等、上弦会に「細流」「蘭花」等4点出品。昭和14年 法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉讃展に「琵琶湖畔の春」出品。大阪阪急百貨店にて個展、「富士」ほか約20点出品。昭和15年 大阪青樹社にて個展「カーネーション」「雲雀啼くころ」等13点出品。昭和16年 三越本店に個展、「神の森」等出品。昭和18年 文化勲章を授与。昭和19年 戦艦献納帝国芸術院会員展に「山麓の春」出品。昭和20年 奈良県郡山に疎開、次いで愛知県知立に移る。昭和21年 第1回日展に「上の御堂にて」出品。昭和22年 第3回日展に「曙」、現代美術展(東京都・朝日新聞社共催)に「凉蔭」出品。昭和25年 第6回日展に「夏雲」出品。昭和26年 静岡県清水市に移る。文化功労者にえらばれる。また精養軒にて喜寿祝賀会。大阪及び名古屋美交社にて喜寿展。昭和27年 大阪美交社に個展。昭和28年 日本芸術院第1部長に選ばる。同上昭和33年 高島屋美術部50年記念展に「三保の不士」出品。昭和34年 1月3日逝去。勲1等瑞宝章大綬を拝受。

石井柏亭

没年月日:1958/12/29

日本芸術院会員石井柏亭は12月29日尿毒症のため東京女子医大病院において逝去した。享年76才。本名満吉。明治15年3月28日東京下谷区に生れた。若くして父鼎湖に日本画を学び、日本青年絵画共進会、日本美術協会に日本画を出品した。大蔵省印刷局に入つて彫版、水彩画を学んだが、明治31年浅井忠の門に入り洋画を正式に学んだ。この頃から明治美術会に出品した。浅井の渡欧後は中村不折の指導を受けた。また新日本画に興味を持ち、結城素明、平福百穂等の无声会に加わつて日本画を発表し、さらに明治35年からは太平洋画会に洋画を出品して会員となつた。一時東京美術学校に入学したが、眼疾のため1ケ年で退学した。明治40年以降文展に出品し、大正2年第7回文展「滞船」は2等賞となつた。この間、明治43年から大正元年にわたりヨーロッパ、エジプト等を巡歴した。同2年丸山晩霞、南薫造等と日本水彩画会を結成した。この年文展に第2科を置くことを建議したが容れられず、遂に翌3年山下新太郎、有島生馬等と二科会を創立し、多くの作品をこれに発表すると共に、その運営の中心となつて活躍した。その頃の主な作品に「鰤網の支度」(第3回)「道潅山」(第4回)「溶々水」(第7回)「江の島」(第13回)「果樹園の午後」(第15回)等がある。大正11年ヨーロッパに再遊し、翌年帰国した。昭和10年帝国美術院の改組にあたつて会員に選ばれて二科会と決別し、同11年同志と一水会を結成し、専らこれに出品した。戦後日展の常務理事として運営につくすと同時にこれに出品した。また同25年以来文化財専門審議会専門委員(名勝部会)となり、同29年にはその水彩画を携行して米欧を行脚した。その作品は、油絵、水彩画、日本画など数多いが、いずれも淡々とした色調と軽快な筆致に日本的な独自の画風を示している。文筆にも長け、評伝、画論等に筆を振つた。主な著書に「欧洲美術遍路」「マネ」「浅井忠」「明暗」「日本絵画三代志」などがある。わが国の近代美術の発展につくした功績は大きい。その葬儀は34年1月8日青山葬儀所で一水会葬をもつて行われた。略年譜明治15年 3月28日東京に石井重賢(鼎湖)の長男として生れた明治25年 父の指導により日本画を学ぶ。日本美術協会「八郎弓勢の図」、日本青年絵画共進会「観雁知伏図」明治26年 日本青年絵画共進会「勿来関図」日本美術協会「曾我復讐図」明治27年 神田の共立中学校に入学。日本青年絵画共進会「鐘馗の図」、日本美術協会「長年尽忠図」明治28年 中学を中退し、大蔵省印刷局の彫版見習生となる。日本美術協会「謙信送塩図」、日本青年絵画共進会「雪中斥侯図」明治29年 印刷局同僚の水彩画を見て独習する明治30年 父を失う明治31年 浅井忠に入門。明治美術会10周年展に水彩画出品明治32年 将来画家として立つことを決心した。はじめて油絵を試みた。明治美術会「墨堤秋雨」(水彩)「菊花秋」(同)明治33年 新日本画に熱中する。浅井渡欧のため中村不折の指導を受ける。日本画会「躑躅」(和画)明治34年 下根岸に移る明治35年 第2「明星」新年号以来挿絵の寄稿家となる。无声会会員となる。第1回太平洋画会展「少女」(水彩)「意富比宮」(″)「塩浜」(″)、无声会展「千住川」(和画)明治36年 谷中に移る。第2回太平洋画会展「南部城趾」「北上川」、无声会展「不忍池畔」(水彩)明治37年 春印刷局を辞し、中央新聞杜に入社、挿絵を担当。東京美術学校洋画科選科に入り、黒田清輝・藤島武二の指導を受く。第3回太平洋画会展「草上の小憩」明治38年 慢性トラホーム悪化のため新聞杜及び美術学校を退き、大阪に赴き療養す。第4回太平洋画会展「なげき」「病児」(水彩)「廃屋」(″)「恢復期」(″)明治39年 眼疾快方に向い多少の画作をなす。京都の浅井を屡々カ訪ねた。第5回太平洋画会展「蔦模様」明治40年 東京に帰る。雑誌「方寸」を創刊。内外印刷会杜に入杜、図案を担当す。千駄に移る。東京博覧会「廃園」、第1回文展「姉妹」「千曲川」(水彩)明治41年 内外印刷会社解散、秋創刊の週刊誌「サンデー」に入杜、挿絵を執筆。第6回太平洋画会「嫩草山」「舞姫」(水彩)、第2回文展「火の跡」明治42年 第7回太平洋画会展「冬の朝」「煎餅屋」、第3回文展「紀の海」「熊野河口」(水彩)褒状明治43年 新錦絵「東京十二景」をはじむ。12月仏船ポリネシアン号で渡欧の途に上る。第8回太平洋画会展「御殿場の富士」明治44年 エジプト、イタリアを経てパリに滞在。冬渡英。「旧カイロ」「巴里の宿にて」等水彩画の制作多数。第5回文展「羅馬遺跡」(テムペラ)「サン・ミシェル橋畔」(素描淡彩)褒状明治45年 スペイン、北イタリア、ドイツ等を旅行。夏渡英。ベルリン、モスクワを経てシベリア線にて秋帰国。第6回文展「独乙の女」(水彩)「和蘭の子供」(テムペラ)褒状大正2年 4月旡声会展の中に西遊記念の個展を開く。国民美術協会を結成。丸山晩霞等と日本水彩画会を創立。大阪で佐々木加代と結婚。第7回文展「N氏と其一家」「並蔵」(素描淡彩)「滞船」(テムペラ)2等賞、国民美術展「山陰水郷」パナマ・パシフィツク博覧会「美保関」銅牌大正3年 大正博覧会審査員となる。文展二科設置運動に加担したが建議不調のため同志と二科会を創立。第1回二科展「麦秋」「早春」(素描淡彩)大正4年 秋「中央美術」創刊、その編輯に関与。国民美術展「堀」第2回二科展「牧柵に凭るめのこ」「鰊倉」「洞爺湖」(テムペラ)等大正5年 第3回二科展「鰤網の支度」「金沢の犀川」大正6年 道潅山の新居に移る。第14回太平洋画会展「徳島の女」「阿波吉野川」、第4回二科展「道潅山」「鹿島野」大正7年 朝鮮、満州に旅行。第5回二科展に「紅蓮」「厨」等大正8年 春から初夏にわたり中国に旅行。第6回二科展「阿四」(水彩)「某女工像」等大正9年 朝鮮に再遊。第7回二科展「東大門外」「農園の一隅」「溶々水」「団扇をもてる女」大正10年 西村伊作等と文化学院を創立。第8回二科展「靹の津」「内海の或午後」大正11年 東大工学部講師となり建築学科の自在画を指導。平和博覧会審査員となる。12月シベリア丸で米国経由渡欧の途につく。第9回二科展「小木港俯瞰」等。平和博覧会「外套を被たる婦人」大正12年 1月ニューヨーク着。次いでフランスに渡る。春イタリア、初夏ベルギー、夏イギリス、ノルエー、ドイツに旅行。第10回二科展「ナポリ港」「ソレント」。サロン・ドートンヌ「F夫人像」大正13年 1月帰国。第11回二科展「アスシジ」「サン・ミシェル橋」「姉妹」「避暑地にて」等特別陳列大正14年 文化学院に美術部を創設、部長となる。第12回二科展「湖畔の夕」「十和田湖畔」等大正15年 第13回二科展「麻雀」「最明寺遺跡」等、聖徳太子奉賛展「波斯壷の花」(水彩)、第14回日本水彩画会展「燈下二少女」(水彩)昭和2年 第14回二科展「牡丹」「水車場」等、燕巣会展「川沿ひの家」昭和3年 フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジォン・ドンノール勲章を受く。第15回二科展「果樹園の午後」「曇れる日」昭和4年 春青樹社に個展。第16回二科展「洞」「暑き日」。聖徳記念絵画館「昭憲皇太后広島予傭病院行啓図」昭和5年 朝鮮展鑑審査のため渡鮮。第17回二科展「画室」「木浦俯瞰」等、聖徳太子奉賛展「江村遅日」昭和6年 第18回二科展「緑衣」「古器」昭和7年 生誕50年記念展を都美術館に開く。第19回二科展「中禅寺の冬」「伊香保眺望」等昭和8年 第20回二科展「佐野瀑園」「天草の或部落」「二科二十人像」(素描淡彩)昭和9年 1月母を失う。第21回二科展「咢堂先生像」「松浦川朝霧図」昭和10年 大阪で回顧的個展を開く。二科会の作品を展観するため藤田嗣治等と渡満、帝国美術院会員となり二科会と訣別す昭和11年 一水会を結成。青樹社に個展昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回一水会展「葛飾」「村娘」「御岳」「秋晴」昭和13年 夏陸軍の嘱を受け北支蒙彊に、秋海軍の嘱によつて上海に赴く。日本水彩画会展・米国博覧会「晩春行楽図」(水彩)、第2回一水会展「蒙彊平穏」「康安門」等昭和14年 秋ソ満国境、朝鮮に赴く。聖戦美術展「双脚懐江南」、第3回一水会展「豆満江」「石神井池」(水彩)等昭和15年 秋日満文化協会の嘱によつて渡満、各地で講演。紀元2600年奉祝展「農村初秋」第4回一水会展「武蔵野」「吉林」「松花江」昭和16年 同志と邦画一如会創始。満州国展のため渡満。第5回一水会展「如意湖」「遼西古都」、文展「朝陽城外」昭和17年 春双台社主催還暦記念展。文展「五十嵐博士像」、第6回一水会展「野尻湖」「琵琶島」「或尼僧」、満洲国献納「手賀沼」昭和18年 陸軍の嘱を受けてソ満国境に赴き、帰途北京に立よる。文展「十和田湖」、第7回一水会「什殺海」「園中対像」昭和19年 戦時特別美術展「最上川」昭和20年 東京住宅罹災、信州浅間温泉東山別館に疎開。第1回日展「山河在」、信州美術展「山辺の秋」(水彩)昭和21年 第8回一水会展「槍ケ岳」「燕岳」「山荘の朝」、第2回日展「秋の朝」昭和22年 信州美術会々長となる。第9回一水会「飯土山」「女鳥羽川」昭和23年 第4回日展「堰」第10回一水会「清澄」「暮雲」昭和24年 国立公園中央審議会委員となる。第11回一水会展「麦秋」、第5回日展「画家小集」昭和25年 信州大学教育学部講師、文化財専門審議会専門委員となる。第6回日展「静穏」、第12回一水会展「芙蓉湖」昭和26年 日展洋画主査となる。第7回日展「湖畔浴泉」、第13回一水会展「湯沢残雪」「山花秋宵」昭和27年 東京、長野、松本で古稀記念展。新潟大学教育学部講師となる。第8回日展「湖畔の宿」、第14回一水会展「山湖曇日」「自像」「妙高秋晴」昭和28年 三越で水彩水墨画個展。第9回日展「秋のおとずれ」、第15回一水会展「小西湖晩春」昭和29年 5月工芸倶楽部で米国携行の水彩画内示展。9月夫人同伴米欧旅行へ出発、米国各地に個展。第10回日展「千代田城」昭和30年 3月欧州に渡りイタリア、パリ等で写景、6月末帰国。東京及び松本で滞欧米作品個展開催。第17回一水会展「カリフォルニアの秋」、第11回日展「松本城」昭和31年 ブリヂストン美術館で回顧陳列。十二指腸潰瘍のため金沢大学附属病院に入院手術、第18回一水会展「大山崎晩春」「裸身」昭和32年 第13回日展「佳人」、第19回一水会展「江の島A」「江の島B」、日米交換版画展「室内」(石版)「早春(リッチモンド)」(″)昭和33年 改組第1回日展「パイプの男」、「山湖雨後」(和画)第20回一水会展「水かがみ」。3月腎臓を病み一時東京女子医大附属病院に入院、7月退院。この間3月28日上野精養軒で喜寿祝宴、12月11日風邪のため前記病院に入院。同月29日尿毒症のため逝去昭和34年 1月8日青山葬儀所に於て一水会葬

梶原貫五

没年月日:1958/12/14

光風会々員梶原実五は心筋硬塞に脳軟化症を併発、12月14日渋谷区の自宅で逝去した。享年71才。明治20年3月6日福岡に生れ、明治43年頃上京。大正5年東京美術学校を卒業、黒田清輝、藤島武二の指導をうけた。大正3年の大正博覧会に「化粧の後」を出品、受賞したほか同年の光風会第3回展に「女」を出品した。同6年には光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、昭和3年光風会々友、同6年第18回展で会員に推された。他方、官展には大正5年第10回文展に「縁陰」「窓際」が初入選となり、6年第11回文展「想韻」、また、帝展は第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品をつづげ、第17回展から招待、無鑑査出品の待遇をうけた。主な作品は上記の外に第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などがあり、また幣原喜重郎、近衛文麿ほか貴族院議員など有名人の肖像画の制作が多い。

木村荘八

没年月日:1958/11/18

春陽会々員木村荘八は脳腫瘍及び肺臓癌のため11月18日東大病院で逝去した。65才。明治26年8月21日東京日本橋区に生れた。明治43年京華中学を卒業、文学演劇に関心をもつ多感な少年であつた。45年葵橋の洋画研究所に入り岸田劉生と交友、同年フューザン会を結成して当時としては革新的な、フォーヴ風な作品を発表した。翌年フューザン会は解散し生活社を起したが、大正4年更に岸田劉生等と草土社を創立した。草土社時代は劉生の影響をつよくうけ、精神主義的な傾向のつよい写実描写に入つていつた。この時代、二科会、院展洋画部にも出品して、大正7年には院展で樗牛賞を受けている。大正11年草土社は解散、同年発足した春陽会に招かれて、客員として参加し、以来春陽会々員として、小杉放庵、中川一政らと同会の中心となつて会の発展につくした。「パンの会」「歌妓支度」「牛肉店帳場」「新宿駅」「髪を結う女」など代表的な作品が春陽会前期に描かれている。芝居、東京風俗などを扱つた作品が多く、独自の画風をみせている。戦後は浅草風俗「一の酉」などのほか、「窓外風景」「南橡風景」など、自宅周辺の風景を題材として一層観照を深めていつた。油絵のほか、挿絵、舞台装置、随筆と多才な面をみせているが、ことに挿絵では「にごりえ」「たけくらべ絵巻」「墨東綺譚」「霧笛」などのすぐれた作品をのこしている。西欧的な教養をもち、東京下町の人情風俗に限りない愛着をよせていた東京人であつた。著書に「風俗帳」「続現代風俗帳」「現代挿絵考」「東京今昔帳」などの随筆集があり、「東京繁昌記」は芸術院恩賜賞をうけた。略年譜明治26年 8月21日東京市日本橋区に生れた。父荘平は「第八いろは牛肉店」経営、荘八は八男。兄弟に木村荘太、荘十、荘十二など明治43年 京華中学卒業、この後暁星中学仏語講座に席をおき仏語を学ぶ明治45年 葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と交友10月、フューザン会を結成する大正2年 フューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介など盛んに行う。「ボティチェリ」「エル・グレコ」などの訳書出版大正3年 南品川宿、及び大崎に居住。岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会をひらく大正4年 田中屋、三笠で個展10月現代の美術社主催洋画展に参加し、「桐谷展望」他11点出品。ほぼこのときのメンバーで草土社を結成する(この展覧会を草土社第1回展と勘定する)また美術雑誌「現代の洋画」の編集を担当する。「フアン・ゴッホの手紙」「未来派及立体派の芸術」など翻訳出版大正5年 本郷に転居草土社第2回展に「築地グラムマア・スクール附近」等47点出品。草土社第3回展に46点出品大正7年 第5回二科会展「土と草」(夏)(秋)出品第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品、樗牛賞をうける。以後院展には毎回出品なお草土社には解散迄毎回10点以上出品する大正8年 第6回日本美術院展洋画部に「朝の雲」「夕焼」等9点出品少年美術史「二一ル河の草」出版大正9年 中国に旅行。第7回院展に「老虎灘の支那家屋」他4点の中国風景を出品。(この年で美術院洋画部は消滅)大正11年 1月春陽会結成に招かれ客員となる。11月草土社は第9回展を開いて解散大正12年 春陽会第1回展に「大学構内」「郊外風景」大正13年 春陽会第2回展「演劇図」外7点出品。春陽会々員となる「富士に立つ影」の新聞挿絵執筆、東京市復興局参与となる大正15年 春陽会第4回展「たけくらべ絵巻」「お七」「桜丸切腹」出品聖徳太子奉讃展「たけくらべ絵巻第2巻」昭和2年 春陽会第5回展「たけくらべ絵巻第3巻」「風景習作」、挿絵画稿類を出品著書「広重」昭和3年 春陽会第5回展「パンの会」昭和4年 春陽会第7回展「室内婦女」昭和5年 春陽会第8回展「歌妓支度」昭和6年 杉並区に転居春陽会第9回展「牛肉店帳場」(未完)、「夜楽」、挿絵原稿「ラグーザ玉」「祖国は何処へ」他昭和7年 春陽会第10回展「牛肉店帳場」昭和8年 春陽会第11回展「東京風景に因む挿絵」38点昭和9年 春陽会第12回展「わたしのラバさん一駒」「小説霧笛の場面」8点その他挿絵2点昭和10年 春陽会第13回展「新宿駅(東京風景第5)稿」、「同習作」昭和11年 春陽会第14回展「新宿駅(東京風景第5)」「浅草寺春(東京風景6)」のほか「女人横躰」など9点昭和12年 春陽会第15回展「盛綱陣屋」「浅草元旦」「夜の宿」など5点。東京朝日新聞に4月から6月迄連載の永井荷風「墨東綺譚」に挿絵をかく昭和13年 杉並区に新築成る春陽会第16回展「暫」「夜の宿」「墨東綺譚小説挿絵」など。この前後から芝居の舞台を題材とした作品多くなる昭和18年 春陽会第21回展「銀座なにわ橋」著書「随筆風俗帳」昭和22年 春陽会第24回展「庭木」「春雪」「日没」大仏次郎の小説「霧笛」の挿絵昭和26年 春陽会第28回展「窓外晴」など5点、他小説挿絵出品昭和27年 春陽会第29回展「窓外風景」など6点著書「現代風俗帳」昭和28年 春陽会第30回展「樹の中の家」「三の酉」の外、「花の生涯挿絵」著書「続現代風俗帳」「東京今昔帳」昭和29年 春陽会第31回展「窓外風景」など3点の外「雨月物語、白峰」など著書「銀座界隈」「花の生涯画譜」昭和30年 春陽会第32回展「窓外晴」など3点昭和31年 春陽会第33回展「窓外晴」「窓外日没」「酉の市」昭和32年 春陽会第34展「どん底」など3点昭和33年 春陽会第35回展「窓外風景」「和田本町日没」など。他に日本画「たけくらべ」など5点10月22日発病、11月18日東大病院にて逝去。病名転移性脳腫瘍及び肺臓癌11月遺著「東京繁昌記」出版昭和34年 2月「東京繁昌記」の文と絵に対し芸術院恩賜賞が贈られた2月日本橋白木屋において木村荘八遣作展開催、洋画、日本画、挿画100余点陳列

大淵武夫

没年月日:1958/10/13

国画会々員大淵武夫は、10月13日脳溢血のため武蔵野市の自宅で逝去した。享年53才。大淵武夫は明治38年2月11日姫路市に生れた。昭和4年東京美術学校の彫刻科選科塑造部を卒業したが、在学中から洋画に専念して大正15年第5回国画創作協会展に(この年洋画部新設、すなわち第1回国画会展)「静かなる港」を出品、国画創作協会奨学賞をうけた。つづいて毎年同展に作品が入選し、昭和5年第5回国展では樗牛賞、8年第8回展では再び国画奨学賞を受賞して昭和12年国画会同人に推薦された。その間英独仏を歴遊した。写実的画風で、風景、静物画が多い。戦後は日展委員を委嘱され出品したこともある。28年以後、神戸、大阪各地で個展をひらき、33年には研究会「みねるば会」を主宰、第1回展を催している。主な作品は受賞作のほか「花のある静物」「長崎眺望」など。略年譜明治38年 8月21日兵庫県姫路市に生れる大正13年 東京美術学校彫刻科選科塑造部に入学大正15年 第5回国画創作協会展(第1回国画会展)に「静かなる港」出品、国画会奨学賞となる昭和4年 東京美術学校卒業昭和5年 国画会第5回展に「卓上静物」「花」「曇り日のハルピン」出品、樗牛賞をうける昭和8年 国画会第8回展に「午後の風景」「横浜」ほか2点を出品、国画奨学賞をうける昭和9年 渡欧、翌年パリでサロン・ドオトンヌ、サロン・チュイルリイ等に出品昭和11年 仏、独、伊、和各地を廻り、帰国昭和12年 国画会第12回展に「モレーにて」「通りの朝」「画室の一隅」「ヴァーンブの道」「靴屋」などの滞欧作を発表、同人に推される昭和14年 第3回文展に参加「北京の春」出品。国画会第14回展「奈艮公園」「大和路浅春」出品。この年から陸海軍嘱託となり記録画多数制作。従軍数回に及ぶ昭和21年 日本美術展覧会委員を委嘱される昭和28年 国画会第27回展「花のある静物」「鏡のある静物」「桂川湊谷」昭和31年 国画会第30回展「長崎跳望」「長崎南山手」「長崎」。長埼県依嘱により「西海国立公園」、また姫路市依嘱により「姫路城」制作昭和33年 神戸大丸で個展。28年頃から神戸、大阪各地で度々個展をひらく。自己の主宰する研究会「みねるば」第1回展開催。10月13日没昭和34年 第33回国展に遺作20点を陳列

山下繁雄

没年月日:1958/09/27

日展出品依嘱、元太平洋画会々員山下繁雄は、9月27日脳軟化症のため奈良市の自宅で逝去した。明治16年12月9日東京市京橋区に生れた。不同社で小山正太郎の教えをうけ、また太平洋画会の研究所にも学んだ。明治40年の東京勧業博覧会に「武蔵野」が入選、褒状をうけたのが展覧会への初出品で、続いて41年第2回文展に「夏木立」「綾瀬川」が入選となつた。其後制作不振のため一時画業を離れ、大正3年大阪に居住した。翌4年、友人のすすめで再び作品を文展に送り「軍鶏」が入選、以来、もつぱら軍鶏を描き、大正15年帝展出品の「雄鶏の図」は久迩宮家御用品となり、昭和7年帝展出品の「軍鶏」は特選となり、昭和洋画奨励賞をうけている。同8年帝展で「軍鶏」は再び特選をうけ、翌年から無鑑査待遇、或は招待出品者として「嵐に立つ軍鶏」(昭和11年文展招待展)、「蓼花軍鶏」(昭和13年文展)等を出し、軍鶏の画家として知られていた。晩年は日展出品依嘱者として同展に軍鶏の作品を出品、昭和26年奈良県文化功労者として表彰をうけた。

三村英一

没年月日:1958/03/27

新構造社創立会員三村英一は3月27日脳溢血のため東京都小金井市の自宅で逝去した。享年68才。明治23年4月11日広島県北婆原郡に生れた。同38年町絵師の徒弟となつたが41年白馬会に入り洋画を学んだ。その後、一時京都・大阪に居住し、明治44年から大正2年まで時々関西美術会展に出品していた。大正5年ショウインドウ会社に勤務、図案部主任、編集顧問などつとめたのち、大正9年から杉並区成宗に居住し、花卉栽培をはじめ園芸を副業として西部花卉協同組合の顧問を勤めつつ没年まで画道に精進、また新構造社の発展に尽力していた。昭和4年構造社展に「水辺」を出品以来同展に出品し、翌年会友、同7年会員になつた。また槐樹社展にも作品を送つた。構造社時代の作品に「武蔵野の夕陽」「牡丹」(8年)、「盛夏の頃」(9年)などがある。昭和11年帝展改組に関連して構造社が分裂した際、三村英一は代表となつて新構造社を結成、作品には「卓上」(14年)、「稔の朝」(14年)、「郷秋」(15年)、「初秋の午後」(17年)などを出品、戦後の連立展では「初夏の田園」(5回展)、「麦秋」(6回展)、「近郷の春」(9回展)、「湖畔の町」(16回展)などがあげられよう。

石垣栄太郎

没年月日:1958/01/23

長い間アメリカに滞在して活躍した洋画家石垣栄太郎は、1月23日脳出血のため三鷹市の自宅で没した。享年65才。明治26年12月1日和歌山県東牟婁郡に船大工の長男として生れたが、16才の時アメリカに在つた父に呼ばれて渡米した。はじめ太平洋岸でレストランのボーイ、皿洗い、ホテルの掃除人、美術骨董品の修理をしながらサンフランシスコの美術学校で絵画の勉強をはじめた。米詩人のウオーキン・ミラーの山荘を訪れ、芸術家仲間との接触で新しい世界が開けた。大正4年ニューヨークに赴き、芸術家街のグリーニッチ・ヴィレーヂに住んでアメリカの自由思想家や芸術家たちと親しく交り、またアート・スチューデント・リーグ美術学校に学んでジヨン・スローンに師事した。大正14年ニューヨークで開催された独立美術協会展に「鞭打つ」を出品してアメリカ画壇に認められ、以後毎年この展覧会に出品し、ニューヨーク・タイムズ紙、ヘラルド・トリビューン紙等にとりあげられて好評を得た。昭和4年ジョン・ノード・クラブの結成と同時にそのメンバーとなつた。また昭和14年美術家団体アーチスト・コングレスの結成に奔走して毎回その展覧会に出品した。ジョン・リード・クラブ結成後、メキシコの画家たちディエゴ・リベラ、オロスコ、タマヨなどと交り、とりわけオロスコの画風に惹かれた。またドーミエやゴヤなどの影響を受けた。昭和26年久し振りに日本に帰つた。彼は、はじめ立体派風の画風に出発したが、次第に写実的になり、風俗を主題にした庶民の生活を描き、また民衆の怒り、悲しみ、反逆を主題として制作した。作品略年譜大正14年 「拳闘」大正14年 「鞭打つ」大正14年 「街」大正15年 「二階つきバス」昭和4年 「新聞を見る」昭和6年 「リンチ」昭和12年 「アメリカの独立」(ニューヨーク・ハーレム裁判所壁画)昭和14年 「強風」昭和15年 「恐怖」昭和20年 「ニグロの酒場」

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