本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大森明恍

没年月日:1963/01/05

生涯富士の絵を描きつづけた洋画家大森明恍は、1月5日死去した。享年61歳。本名桃太郎。明治34年10月18日福岡県遠賀郡に生れ、大正8年本郷洋画研究所に入った。同10年二科会展に「浪懸夏光」を出品し、昭和8年富士山研究のため、御殿場に一家をあげ移住した。その後、昭和13年2月東京銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回富士山画個展開催をはじめ、北海道九州等各地で個展により多くの富士図を発表した。なお、芸術新潮(4巻7号)に「富士を描いて30年」の一稿がある。

山田等

没年月日:1963/01/02

二紀会会員山田等は、明治37(1904)年9月13日香川県綾歌郡に生れた。大正14(1925)年12月香川師範学校本科第一部卒業、昭和2年3月同校専攻科卒業。大正14年3月より香川県小豆郡大鐸小学校に勤務し、1926年には同香川郡円座高等小学校、昭和2(1927)年には東京府荏原郡深沢小学校に勤務し、同19年より35年まで香川県立高松高等女学校(現在高松高等学校)に勤務した。昭和7年に二科会に「少女」を出品、入選し、以後「画室余技」(1934)、「三人」(1935)、「バリ島の女」(1936)、「木蔭に憩う」(1938)、「浜辺遊戯」(1939)、「雪降りの街道」(1940)、「働く蘭印の女」(1941)、「更紗を描く」(1942、会友推挙)を出品した。昭和22年二紀会創立とともに同人に推挙され、以後「男木島風景」(1947)、「石切」(1948)、「若人」(1949)、「画室」(1950)、「二人」(1951)、「オリーブ園」(1952)、「鏡」(1953)、「踊る女達」(1954)、「僕等の仲間」、(1955、同人優賞)、「小公園の午後」、「室の中の子供達」(1956)、「憩のひととき」、「牛舎と少年」(1957、審査員に推挙さる)、「漁港」、「出漁」(1958)、「子供と牛」、「働く少年」(1959)、「浜辺の歌」、「森の歌」(1960)、「放鳩1・2」(1961)が二紀会に出品された。なお昭和8年から10年にかけて満州、インドネシア方面に旅行し、戦後は37年に5カ月ほどヨーロッパ旅行をしている。

木田金次郎

没年月日:1962/12/15

洋画家木田金次郎は12月15日脳出血のため北海道の病院で逝去した。享年69才。昭和26年7月16日、漁業家木田久造の二男として北海道に生れた。明治41年上京し、開成中学に入学したが4年の秋、中途退学して帰京、家業に従事するが、かたわら絵画修業に打込む。この頃、札幌で北大の黒百合会展で有島武郎の作品を見て感銘をうけ有島武郎を札幌の私邸に尋ねた。有島武郎の小説「生れ出づる悩み」に出てくる木本という青年は若き日の木田金次郎の姿をモデルにしたものである。大正8年、有島武郎の尽力により有島生馬のアトリエで初めてのデッサン展を開いた。その後昭和3年満州、蒙古方面に写生旅行をしている。昭和19年岩内の近郷、堀株村(ホリカップ)に疎開、22年再び岩内に戻ったが堀株村はその後主要なモティーフとなっている。28年に個展を開いたが翌29年9月岩内町大火のため類焼、全作品約2000点を焼失してしまった。この年11月北海道文化賞、更に31年北海道新聞文化賞をうけている。34年、38年の2回に亘り朝日新聞社主催による個展を東京高島屋を初め、仙台、札幌(34年)、大阪、福岡、札幌(37年)で開催した。北海道の疎林や漁村或は海辺の荒涼とした風景を奔放な筆致で、激しい情熱をこめたフオーヴ風の作品で「荒れゆく原野」「台風の朝」「初秋」「青い太陽」「灯台のある風景」「暮れゆく原野」等約60点が出品された。

山中春雄

没年月日:1962/11/18

行動美術協会会員山中春雄は11月18日没した。享年43才。大正8年8月28日大阪市に生れた。難波商工学校中退後、昭和10年から14年まで大阪中之島洋画研究所で学び、二科会展、全関西美術展に出品、二科会には連続出品していた。昭和15年現役兵として満州に赴き18年除隊後も暫くハルピンに居住していた。終戦後、内地に帰還し、昭和21年から行動美術協会展に出品し、22年会友、23年会友賞をうけ25年同会会員となった。28年、約6ケ月フランスに遊学、29年から行動美術展のほか、現代日本美術展などにも出品していた。なお昭和37年6月大阪日仏画廊で個展をひらいた。作品略年譜昭和23年 「流る女達」第2回行動美術展昭和27年 「歌うたひ」「月しろ」第6回行動美術展昭和28年 「裸婦」 第7回行動美術展昭和30年 「小年と壮年」「退屈な二人」第9回行動美術展昭和31年 「飛ぶ」「黒い覆いもの」「地に座す人達」第10回行動美術展昭和32年 「糸」 第11回行動美術展昭和33年 「イエス」 第12回行動美術展昭和34年 「髪」 第13回行動美術展昭和35年 「二人」 第14回行動美術展昭和36年 「人」「馬と人」第15回行動美術展

金井文彦

没年月日:1962/10/15

旺玄会会員金井文彦は10月15日脳溢血のため東京都杉並区の自宅で逝去した。享年76才。明治19年8月30日東京に生れた。東洋大学文学科を卒業、川端画学校に学び、また長田雲堂について南宗水墨画も修めた。大正8年第1回帝展に応募、「豊島の秋」が初入選となった。帝展では第6回「花」、第7回「秋日赴釣図」、第9回「水辺裸婦」第10回「ロシア服女」、第11回「画史像」第12回「磯」などがある。大正13年、牧野虎雄、田辺至、斎藤与里ら10名とともに槐樹社を結成、同時に槐樹社発行の美術雑誌「美術新論」の編集主任を約7年間つとめている。槐樹社は昭和6年12月解散し、9年5月には金沢重治、大久保作次郎ら6名と白朝会を創立した。昭和10年以降改組後の帝展には出品せず、独自の制作に専念、昭和23年旺玄社に迎えられてからは同展に作品を発表していた。

青柳暢夫

没年月日:1962/09/10

独立美術協会会員、青柳暢夫は9月10日都内杉並区の自宅で脳軟化症のため死去した。享年53才。明治41年(1907)福岡市に青柳茂の二男に生れ、県立福岡中学時代に美術教師杉江春男に絵の才能を認められた。大正13年(1924)には上京して片多徳郎に師事し、大正15年(1926)には川端画学校に入る。昭和4年(1929)から清水登之に師事し、また帝国美術学校にも入学した。1931年清水登之もその創立会員となった独立美術協会展が開かれ、これに「庭」と「荻窪風景」を出品した。会の主調であるフォーヴィスムの影響をうけ、1930年代の後半には、スュールレアリスムへの動きが有機性をおびた形体感の中にいくらか感じられはするが、それは昭和15年(1940)に結婚した河村春をモデルとしてその後の3、4年にわたって描かれた婦人像にみられる柔軟な心理のかげりをみせる作品の中に連なってゆく。戦後1950年代の前半までは静物画が多く、形体のキュービスティックな構成を探求している。1950年代の後半に再び風景画が現われると、硬化した樹木が荒々しい力で前面にはだかり、つぎには建築や風景の断片の凝集した画面が、やや騒がしいがうっ積した意欲を示すようになった。斗酒を辞さなかった頑健な体が病を知ってからは、さらに以前の様式化した型の集積から解放され、もう一歩新らしい内面的な画境に進むことを予想させていたときに倒れたのである。略年譜明治40年 福岡市に生れる昭和6年 独立1回展に「庭」「荻窪風景」出品。文房堂で1回個展を開く。河村春と福岡で知る。昭和7年 独立2回展に「落合風景」「郊外の道」外品。大連、新京、ハルピンを旅行。昭和8年 独立3回展に「平尾風景」「樫並木」出品。福岡独立作品家協会および研究所を友人とつくる。昭和9年 独立4回展に「山と岩」「密柑山」「女」出品。昭和10年 独立5回展に「胡爪」「残雪」「蓮鷺」出品。昭和11年 独立6回展に「白装」「建築現場」出品。昭和12年 独立7回展に「雪景」「姉妹」出品。昭和13年 独立8回展に「風景A」「風景B」出品。昭和14年 独立9回展に「月の岩」「海浜風景」出品。独立賞受賞。昭和15年 独立10回展に「少女と夫」「破船と岩」出品。河村春と結婚。昭和16年 独立11回展「野の少女」「黍と女」「小鳥と母娘」出品。昭和17年 独立12回展「秋の少女」「薪割」「牧場の人」出品。善福寺池畔にアトリエを作り住む。昭和18年 独立13回展「小猫」「花の実」出品。昭和19年 独立14回展「出演の前」「かえりを待つ子」昭和20年 栃木県下都賀郡に疎開。昭和21年 日動画廊で栃木風景を主とした個展開催。独立会員となる。昭和22年 独立15回展4点出品東京のアトリエに戻る。昭和23年 独立16回展「静物」2点「風景」3点出品。児島善三郎と北海道旅行昭和24年 独立17回展「干魚」「静物」出品。岩田屋で夫妻展開催。昭和25年 独立18回展「壷とさかな」「魚」2点昭和26年 独立19回展「裸婦」3点 北海道旅行昭和27年 独立20回展「木の実と魚」「黒い壺と魚」「ひまわりと魚」昭和28年 独立21回展「静物」3点昭和29年 独立22回展「壺のある静物」「果物篭の静物」第1回現代日本美術展出品「作品(花)」「作品(干魚)」昭和30年 独立23回展「樹」第3回日本国際美術展出品。「静物」「どくだみの花」。資生堂で個展開催昭和31年 独立24回展「さぼてんのある丘」「湖畔の静物」2回現代日本美術展「かたつむりのいる風景」「小鳥と花」昭和32年 独立25回展「木と土と石」第4回日本国際美術展「くさむら」昭和33年 独立26回「明るい郊外」「崖」「秋」。3回現代日本美術展「めだつ庭」他1点「鷹の会」結成昭和34年 独立27回展「紋」3点5回日本国際美術展「皿山」。この秋の終りに顔面神経けいれんを発病。昭和35年 独立28回展「黒い鳥」4回現代日本美術展「白い空地」「芽」。2月に病状は軽くなり、11月に欧州旅行の計画をたてる。11月に入院、昭和36年 独立29回展「霧」1月から3月まで入院昭和37年 独立30回展「黒い鳥」(朝日秀作美術展出品1963)「花」「飛ぶ」。9月19日死去昭和38年 11月遺作集「青柳暢夫」(田近憲三、青柳春執筆)出版される(発行者青柳春)。12月、「青柳暢夫のこと」中間冊夫(「三彩」168号)

丹下富士男

没年月日:1962/08/04

一陽会員丹下富士男は8月4日、日本歯科医科大で死去した。享年60才。父は農林省技官で、日本馬の品種改良に尽した人で、その四男として明治35(1902)年岩手県種馬所で生まれたが、その直後上京し東京で育った。番町小学校、成蹊中学校卒業大正8年(1919)後川端画学校を経て、東京美術学校油絵科に入学(大正10年)藤島教室に学んだ。在学中に「オーケストラ」で帝展に初入選したが、酒を好み体をこわして、美術学校卒業後(大正14年)病床につくことが多かった。昭和3(1928)年の暮に山川亮子と結婚した。同7年19回二科展に初入選(「波止場」)。それ以後二科展会に毎年出品し、昭和14年には特待となり、昭和16年には会友に推薦される。また古河電気株式会社の宣伝部に、昭和17年まで週2回勤務してインテリア・デザインを主に担当した。この間昭和10年には5ケ月間ほど台湾に滞在。二科会出品作品を列挙すると「室内」(20回)、「遊ぶ馬」(21回)、「コンポジョン」(22回)、「岡と桃畑」(23回、焼失)、「晴れ間」(24回)、「庭」(25回)、「中間種応召」(26回)、「障害(馬の)」(27回)、「えんばくがら」(28回、「新馬図」(29回)、「帰厩」(30回)、であり、このころから戦争が激化して絵を描くことが困難になり、日本ゼラチン株式会社に入った。昭和19年10月には二科会も一時解散し21年に31回展が開かれるが、丹下富士男が出品するのは23年(33回展)からである。26年から再び会友になった。「踊り」(34回)、「スポットライト」(35回)、「スポットライト」「バレー」「サーカス」(36回)、「人と馬A、B」(37回)、「曲馬」「海」(38回)、「月」「曲馬」(39回)と二科会に出品して来たが昭和30年7月二科を脱退して一陽会創立会員となる。一陽会への出品は「隅」「台所」「海」「食後」「曲馬」「明暗」(1回)、「静物」「漁港」「静物」「登山電車」「台所」(2回)、「台所」「キュイジーヌ」「静物」「静物」「楽器をもつ女」(3回)、「魚の静物」「灯台のある風景」「山幸海幸」「富士のみえる風景」(4回)、「静物」「仔馬」「舟」(5回)、「灯台」「静物」「桃」(6回)、「碁盤乗」「海」「駒」(7回)、「馬の群」「花束を持つ少女」「海」「二人」「花」(8回、遺作陳列)であり、この間昭和33年4月には新橋の画廊ひろしにおける個展に25点の作品を出品している。

清水敦次郎

没年月日:1962/07/07

示現会員清水敦次郎は7月7日死去した。68才。明治27(1894)年8月15日新潟県三条市に生れた。大正4(1915)年太平洋画会研究所に入り、同7年12回文展に「寺島の工場」が初入選し、9年2回帝展に「畔の木」、8回帝展に「並木」、紀元2600年奉祝美術展には「山の牧場」、昭和19(1944)年6回文展に「和尚台」などを出品し、戦後は昭和21年1回日展に「木曽の巌」を出品し、2回「水車への流れ」は特選となり、3回「木曽谷の魚」4回「春ゆく木曽谷の三岳」、5回「木曽川の源泉」、6回「木曽の谷間」、7回「田への谷水」、8回「春間近か」、9回「昼の神苑」、10回「神域」、11回「急湍」、12回「爽風渡る」を出品し、5回展以後は出品依嘱となる。財団法人となってからの日展には1回「泉」、2回「湲泉」、3回「苔動く」、5回「湲谷」を出品した。なお昭和22年には示現会創立会員となり、3回「木曽御岳」、「時雨」、4回「雪どけ」、12回「地吹雪」、14回「岩を縫う」、15回「湲韻静か」(1962)などを出品している。個展は37年まで20回開催した。彼は昭和10年から22年まで太平洋画会員であったが、29年示現会を結成した。この間昭和16年には三井コレクション嘱託となり、同19年には東洋高等女学校で教鞭をとった。同25年には白土会をつくってその同人となった。画風は太平洋画会出身らしく終始地味で刻明で、やや冷たい写実主義に基く風景画で通した。山林美術協会にも関係していた。ことに戦後は長野県西筑摩郡に独居して信州の山や渓谷を好んで描いた。

佐々木良三

没年月日:1962/04/27

二科会会員佐々木良三は4月27日腸疾患のため京都府立病院で死去した。享年53才。明治42(1909)年に京都市に生れ、昭和7(1932)年島津マネキン製作所に入社し、戦後21年には吉忠株式会社に勤務して以来晩年まで企画やデザインに腕を振った。昭和8年独立美術京都研究所が設立されたとき、しばらく通って絵画を学んだが、昭和22年から二科展に出品入選し、同25年には二科35周年記念賞を受賞した。26年に二科会友、30年に会員となった。事務的な才能にも優れていたために会の運営にも積極的に貢献した。36年に吉忠企画部から海外視察に渡欧し、意欲的な滞欧作をもたらしたが、その翌年病いをえて没した。デザイナーらしい近代的なしゃれた軽快さの中にロマンティックな趣きをこめた作品が多いが、晩年には一種の重厚さを加えてきたところであった。「二科展出品作品目録」昭和25年35回「街」「駐車場」「スキー」「春の野山へ」。36回「たばこ」「アトリエの女」「階段をおりる女」「窓による女」。37回「冬の街」「女」、商業美術部3点。38回「作品A」「作品B」、商業美術部出品3点。39回「オフィスA」「オフィスC」。40回「作品B」「織布の人達」、41回「街」「街角」「スタジオ」。42回「秋」「春」。43回「易2」「顔」「易1」。44回「蝶の花束」「黒い裸女」「蟻の群れ」。45回「Andro meda」「黄色い壷」。46回「古城の門」2点 附記。昭和38年4月吉村勲・中川保夫・佐々木雅人編集の54人の友人親族の執筆になる「追憶」が出版された。

児島善三郎

没年月日:1962/03/22

独立美術協会会員児島善三郎は、3月22日、肝臓癌のため千葉市の額田病院で没した。享年69。葬儀は、同26日独立美術協会葬として東京築地本願寺で行われた。明治26年福岡市に生まれ、県立中学修猷館を卒業後、長崎医学専門学校薬学科に入学した。しかし、大正2年春中途退学し、画家を志して上京した。本郷絵画研究所に一時学んだが、後は独学であった。間もなく病を得て帰郷、長い闘病生活を経て大正9年再び上京した。大正10年二科展に初めて入選、翌年の第9回二科展に「裸女」等を出品して二科賞を受けた。大正13年渡欧、パリに於いて研究をつづけ、またスペイン、イタリアを巡歴した。昭和3年帰国し、秋の第15回二科展に「横臥」「立てるソニヤ」「鏡」などの滞欧作22点を出品して認められ、二科会会友に推された。昭和5年には会員となったが、11月里見勝蔵、中山巍らと二科会を脱退して独立美術協会を創立した。その後は、終始同会の中心的作家として同会の発展につくすと共に、多くのすぐれた作品を発表した。殊に、戦後の活躍は目覚ましかった。留学中の初期には、西洋古典の研究につとめ、量感の把握を志したが、帰國後の中期には日本的な油彩画の樹立を唱え、思い切ったデフォルメと線の使用によって独自の画風を示した。晩年には桃山美術や琳派などの大らかさと柔潤、華麗な色調をとり入れ、格調の高い作品を数多く生んだ。中にも「アルプスへの道」「春遠からじ」「ダリヤ」「熱海」「箱根」「森と聚落」等はすぐれている。略年譜明治26年 2月13日福岡市の紙問屋児島善一郎の長男として生まれる。明治45年 3月福岡県立中学修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科に入学する。大正2年 長崎医学専門学校を中退し、画家を志して上京、駒込の染井に住む。大正3年 岡田三郎助の本郷絵画研究所に通学し制作研究に励んだが、過労のため病をえて翌年帰郷する。大正9年 5年間の闘病生活が続いたが、病気が恢復した後、再び上京して板橋に居を定め、制作を始める。大正10年 9月第8回二科会展に初入選「裸女」「十一月風景」「早春の下板橋附近」「雪景」「麻繰工場ある風景」「早春の池畔」を出品大正11年 3月平和記念東京博覧会に「肖像」を出品し、褒状を受ける。4月流乙荘に個展を開く、9月第8回二科会展に「裸女」「代々木風景(冬)」「春近き郊外」「浅き春」「横臥像」を出品し、二科賞を受ける。この年、代々木にアトリエを建てた。大正12年 9月第10回二科会展に「花を持てる女の立像」「窓外早春」を出品。このころ基礎的な研究に専念するため外遊を決意する。大正13年 3月門司出帆の鹿島丸で宿望の渡欧の途に就く。パリにアトリエをかまえ、制作するかたわら日本に作品を送り発表した。当時フランスには、海老原喜之助、高畑達四郎、前田寛治、佐伯祐三等がいた。9月に第11回二科会展に「丘上の家」「曇日薄暮」を出品した。在仏中スペイン、イタリア、ベルギー、イギリス、ドイツの各地を旅行。大正14年 9月第12回二科展に「堰のある風景」「ロアン河畔」を出品。昭和3年 父死去の報に接し、やむなくシベリア経由で帰国。9月第15回二科会展に「立てるソニヤ」「横臥」「南仏風景」等滞欧作22点を特別出品した。昭和4年 9月第16回二科会展に「パノラマ」「六月」「審判の前」「臥す」「立つ」「目」「粧」を出品。昭和5年 9月第17回二科会展に「5人の女」「立」「目」「桜」等を出品し、二科会会員に推される。11月二科会を脱し、林重義、里見勝蔵、林武、高畠達四郎、三岸好太郎、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木保徳、伊藤廉、清水登之、福沢一郎、鈴木亜夫等と共に独立美術協会を創立。昭和6年 1月第1回独立美術協会展に「独立美術首途(第二の誕生)」「横臥」「青いソファ」「赤い背景」「長椅子の上に」「立像」「プロフィル」「黄色のソファ」「二月郊外」「五月」「山水」「女の顔(彫刻・A)」「女の顔(彫刻・B)」を出品、9月第1回独立美術協会秋季展に「紅衣の婦人」他を出品。昭和7年 3月第2回独立美術展に「臥女」「庭の雪」「春を待つ庭」「サンルームの見える裸体」「無衣の女」「青空」「首飾りと女」「座したる女(神体)」「肖像」を出品。昭和8年 3月第3回独立美術展に「鏡」「春」「雲る上高地(徳本峠)」「新春の庭」「朝の庭」を出品。昭和9年 3月第4回独立美術展に「山麓の秋」「初秋」「松ケ丘」「赤松の丘」「雪後」「山嶺秋」「庭(秋の午後)」を出品。昭和10年 3月第5回独立美術展に「山路」「滝壷」「庭の松」「老松」「庭の初春」「代々木の原」「瀬戸風景」を出品。昭和11年 代々木から国分寺に居を移す。3月第6回独立美術展に「岩と松」「瀬戸の風景」「初夏の池」を出品。昭和12年 3月第7回独立美術展に「渓流.A」「渓流.B」「残雪」「松」を出品。昭和13年 3月第8回独立美術展に「箱根峠」「山湖」「菊」「箱根」「ダリヤ」を出品。資生堂画廊において個展を開催。昭和14年 3月第9回独立美術展に「富士清郎」「風景」「蓮花」「春待つ農家」「東風」を出品。昭和15年 3月第10回独立美術展に「菊」「武蔵野」「ダリヤ」「涼風」を出品。昭和16年 3月第11回独立美術展に「ダリヤ」「菊」「箱根秋晴」「寒空」「虞美人草」を出品。昭和17年 3月第12回独立美術展に「箱根秋晴」「夏草」「菊」「早春」「菊」を出品。昭和18年 3月第13回独立美術展に「静波」「あねもね」「厳冬」「ダリヤ」「岬」を出品。昭和19年 2月第14回独立美術展に「秘園」「菊」「富士早春」を出品。昭和22年 4月第15回独立美術展に「菊花」「M氏像」「雪景」「立春」「熱海の桜」を出品。昭和23年 5月第2回美術団体連合展に「満開」出品、10月第16回独立美術展に「牡丹」「青田」「アネモネ」「ダリヤ」を出品。昭和24年 5月第3回美術団体連合展に「早春」を出品、10月第17回独立美術展に「静物」「ダリヤ」「静物」「虞美人草」「静物」を出品。昭和25年 3月第1回秀作美術展に「壷のある静物」を出品、5月第4回美術団体連合展に「花」「春遠からじ」を出品、10月第18回独立美術展に「夏山」「静物」「立秋」を出品。昭和26年 荻窪にアトリエを新築し、国分寺から移る。1月第2回秀作美術展に「花」「春遠からじ」を出品、5月第5回美術団体連合展に「緑の丘」を出品、10月第19回独立美術展に「老松」「アルプスへの道」を出品。昭和27年 1月第3回秀作美術展に「アルプスへの道」を出品、5月第1回日本国際美術展に「芦之湖秋暉」を出品、10月第20回独立美術展に「高原」「百合」を出品。昭和28年 9月国立公園絵画展「東京・日本橋三越」に「発哺よりの展望」を出品。10月第21回独立美術展に「ダリヤ」「立雲」「犬吠岬」その他約15点を出品。昭和29年 1月第5回秀作美術展に「ミモザと百合その他」を出品、10月第22回独立美術展に「百合」「カイウと麒麟草」「トリトマ、虞美人草など」を出品。昭和30年 1月第6回秀作美術展に「カイウと麒麟草」を出品、5月第3回日本国際美術展に「橋」を出品、10月第23回独立美術展に「女と花」を出品。昭和31年 5月第2回現代日本美術展に「雪柳と海芋と波斯の壺」を出品、10月第24回独立美術展に「座像」を出品。昭和32年 1月第8回秀作美術展に「雪柳と海芋と波斯の壺」を出品、5月第4回日本国際美術展に「熱海」を出品。10月第25回独立美術展に「熱海夜景」「婦人座像」「熱海夜景」を出品。昭和33年 1月第9回秀作美術展に「熱海夜景」を出品、1月ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「ミモザの花とその他」「山湖」「アルプスへの道」を出品、2月第2回国際具象派美術展に「箱根」を出品、10月第26回独立美術展に「花」「少女座像」「聚落と森」を出品。昭和34年 1月第10回秀作美術展に「聚落と森」を出品、10月第27回独立美術展に「青衣」「熱海」「花」を出品、10月朝日新聞社主催により東京銀座松屋において児島善三郎自選展を開催、「新緑」「5人の女」「独立美術首途(第二の誕生)」「春遠からじ」「アルプスへの道」「犬吠岬」「聚落と森」など絵画100点彫刻2点計102点を出品する。昭和35年 1月第11回秀作美術展に「花」を出品、5月第4回現代日本美術展に「伊豆山早春」を出品、5月東京、日本橋画廊において、児島善三郎新作展を開催、「薔薇(ペルシャの壺)」「早春山麓」「早春(梅)」「芦之湖の秋」「花」「熱海」「熱海山手」「早春山荘」「熱海(雲)」等32点を出品、10月第28回独立美術展に「ダリヤ」「コッポ編のスェーター」を出品。昭和36年 1月第12回秀作美術展に「熱海」を出品、10月第29回独立美術展に「西伊豆」を出品する。この頃再び渡欧を決意、病身を完全に直す事に専念、2月療養のため千葉県稲毛町の額田病院に入院する。昭和37年 1月第13回秀作美術展に「西伊豆」を出品。3月22日午前10時25分、額田病院に未完の絶筆「花」「婦人像」「バラ」等を残して、肝臓癌のため逝去す。

正宗得三郎

没年月日:1962/03/14

二紀会委員正宗得三郎は、脳軟化症のためかねて療養中であったが、3月14日東京都府中市の自宅で逝去した。享年79。明治16年8月22日岡山県和気郡に生まれた。画号薇洲、春江、扇浦。同35年上京して暫くの間寺崎広業に日本画を学んだが、同年9月東京美術学校西洋画科撰科に入学し、同40年3月卒業した。同級生に山本鼎、森田恒友があり、上級に青木繁がいた。青木とは生活を共にし、その死後、蒲原有明とはかって遺作展を開き、また遺作集「青木繁画集」を編集、刊行した。はじめ白馬会や文展に出品したが、大正2年には文展の二科設置運動に加わり、同3年二科会の結成をもたらした。同4年二科会会員となった。これより前、同3年4月ヨーロッパに遊学し、モネ、ルノアール、ゴッホを学び、さらにマチスを知った。同5年7月帰国し、この年の第3回二科展に「トックの女」「リモオジュの朝」など36点の滞欧作を特別出品して視聴を集めた。同10年9月再び渡欧、同13年1月帰国、第11回二科会展に「アトリエ」「モレーの運河」「セーヌ支流」などの滞欧作を特別出品し、その新鮮な色調でその存在を強く印象づけた。以後昭和18年まで二科会会員として出品をつづけたが、その時の作品に「海岸の夕暮」(第7回展)、「青衣婦人」(第12回展)、「赤い支那服」(第14回展)、「初秋」(第20回展)、「瀬田の唐橋」(紀元2600年展)などがある。昭和22年黒田重太郎、鍋井克之、宮本三郎らと第二紀会を結成し、委員の長老として重きをなした。はやくから富岡鉄斎に傾倒し、その作品の感化を受けたが、鉄斎研究家としても屈指の人で、病臥中に多年の成果である「鉄斎」が出版された。このほか多くの著作がある。また昭和38年には「正宗得三郎画集」が平凡社から刊行され、この画家のほぼ全貌をうかがうことが出来る。畧年譜明治16年 8月22日岡山県和気郡の正宗浦二の三男として生まる。長兄忠夫(白鳥)は文学者、次兄敦夫は国文学者として知られる。明治35年 上京して寺崎広業の天籟画塾に入り日本画を学んだが、9月東京美術学校西洋画科撰科に入学。明治40年 東京美術学校を卒業。明治42年 第3回文展に初めて「白壁」入選。明治43年 高村光太郎の琅玕洞で第1回個展を開く。第4回文展に「夕日の反映」入選、白蔦会展に「落椿」を出品。この頃印象派に共鳴する。11月結婚して西大久保に住む。明治44年 第5回文展に出品したが落選、同志と落選展を開く。大正2年 大阪で個展。文展の二科設置運動に加わる。大正3年 4月フランスに留学、マチスに会う。大正4年 二科会会員となる。大正5年 7月欧洲大戦のため島崎藤村と同船で帰国、牛込矢來町に住む。第3回二科展に滞欧作36点を特別出品。大正6年 この頃から大正10年まで文化学院で指導にあたる。また富岡鉄斎と知り、屡々訪問するようになった。日本美術学院から「画家と巴里」出版。渋谷へ移転。大正7年 11月東中野にアトリエを新築して移る。大正10年 9月再渡欧。大正13年 6月帰国。大正14年 第12回二科展に「青衣婦人」を出品。アルスより「画家の旅」「マチス」を刊行。大正15年 この年から昭和7年まで成城学園で教鞭をとる。昭和2年 第14回二科展に「赤い支那服」出品。昭和18年 第30回二科展に「正宗得三郎回顧陳列」として1室を設け「菊」、「山間の六月」、「四万川」、「瀬田の唐橋」等25点を陳列。美術工芸会から「正宗得三郎画集」、人文書院から「ふる里」を刊行。昭和20年 東中野のアトリエを戦災で失い、長野県下伊那郡に疎開した。昭和21年 日本美術展に「山村風景」出品。昭和22年 4月黒田重太郎、中川紀元等と第二紀会を結成、9月東京都美術館に第1回展を開く。昭和23年 東京へもどる。昭和24年 1月、西府村に移る。9月肉腫に侵され、奇蹟的に回復。昭和25年 第4回美術団体連合展に「小菊」出品。昭和28年 5月白木屋で個展。8月高島屋で鉄斎展、9月「鉄斎百扇」を摸写。昭和30年 中里介山の「大菩薩峠」(河出書房版)に挿絵をえがく。12月府中へ移転。昭和32年 御嶽に大菩薩峠碑文(文は白井喬二)を書く。昭和36年 樋口一葉の肖像をえがく。11月脳軟化症のため臥床。12月多年の研究の成果たる「鉄斎」が平凡社より刊行さる。昭和37年 3月14日逝去。享年79才。

小泉清

没年月日:1962/02/21

明治33年小泉八雲の三男として東京に生れた。大正12年東京美術学校を中途退学し、以後独学で洋画を学び昭和21年読売新聞社主催第1回新興美術展で読売賞を得、翌22年最初の個展をひらいた。23年梅原龍三郎の推せんで第2回一燈美術賞をうけ、29年、国画会に会員として迎えられ、初めて美術団体に所属することになった。新樹会展、新しき村展にも出品したことがあり終始フオーヴィスムの仕事をすすめていた作家であった。昨年11月、夫人は心臓麻痺で逝き、芸術上の苦悶や、更に病弱などが、彼を自殺にみちびいたものと思われる。享年62才。

長屋勇

没年月日:1961/12/27

洋画家、日展委嘱、新世紀美術協会委員長屋勇は、12月27日午後3時15分東京品川の東芝大井病院で胃ガンのため逝去した。享年68歳。明治26年7月28日山口県佐波郡に生れた。大正6年4月東京美術学校西洋画科本科に入学し、同11年3月同校卒業、続いて研究科に籍を置いた。同13年4月商工省海外実業練習生に命ぜられ渡仏、西洋画並びにポスターの研究をなし、昭和2年5月任期満了で帰朝するまで、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スペイン等に遊学した。大正14年第6回帝展に「老人の肖像」で初入選以来昭和9年まで9回、帝展に入選、昭和11年新文展の無鑑査に推薦せられた。戦後は、昭和21年第2回日本美術展より出品、同27年第8回日展では、「画室にて」で岡田賞を受賞した。同33年第1回新日展の委嘱となり、没前の第4回日展まで、終始穏健な写実風作品を発表した。一方、旺玄社同人、旺玄会委員を経て、昭和30年親友大久保作次郎らと新世紀美術協会を結成、委員として同会の中心的な存在であった。各展覧会に長らく作品発表を続けた。主要作に「渓流」(第6回日展)、「鏡」(第7回日展)、「椿さく庭」(昭和25年、毎日新聞社主催・第4回美術団体連合展)、「新緑の芝公園」(昭和26年、第5回連合展)等がある。なお、昭和16年より多摩美術学校に講師として勤務、以後、多摩美術大学教授、昭和17年より共立女子学園-共立女子大学教授として、逝去に至るまで美術教育に専念した。〔昭和35年物故者追記〕

須田国太郎

没年月日:1961/12/16

洋画家で、日本芸術院会員、独立美術協会会員の須田国太郎は、12月16日、長い間の肝硬変により肝性こん睡のため京都大学病院で逝去した。享年70歳。明治24年6月6日京都市中京区に、麻商彦太郎の次男として生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、大正5年6月卒業した。のち関西美術院に入って洋画を学んだ。大正8年インドを経由してヨーロッパに留学、主としてスペインに滞在し、ヴェネツィア派やスペインの大家の作品を模写、研究して大正12年帰国した。昭和8年以来、京都帝国大学文学部、京都市立美術大学、京都工芸繊維大学、京都学芸大学などで美術史を講じ或いは実技を指導した。昭和31年から翌年にわたって京都市立美術大学の学長代理をつとめた。のち同校名誉教授に推された。また昭和9年には招かれて独立美術協会会員となり、毎年作品を発表し、同22年には日本芸術院会員を命ぜられた。同32年12月から京大病院に入院したが、病床でも筆を捨てず、毎年の独立展に出品した。その作風は、西欧的な画風から次第に東洋的な画風へ移り、褐色を主調とする渋い独自の色調の中に深い精神性をひそめている。そのデッサン力の秀抜さは、現代稀に見るものがあった。代表作には「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」「歩む鷲」「海亀」「冬」「真名鶴」「フクロウ」などがあり、著作に「グレコ」(アトリエ社、西洋美術文庫)、「ゴヤ」(美術出版社)、「南方バロック」(みすず書房)などの単行図書のほか、諸誌に載せた論文、随想はきわめて多い。略年譜明治24年 6月6日、京都市に生れる。明治42年 3月30日、京都府立京都第一中学校卒業。この間、横山常五郎に学ぶ。大正2年 6月、第三高等学校(一部丙)卒業。大正5年 6月、京都帝国大学文学部哲学科卒業。大正6年 5月、関西美術院入学。大正8年 2月、インドを経て渡欧。主にスペインに留まったが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシヤ、エジプト等を巡歴。大正12年 7月、帰国。大正14年 9月、和歌山高等商業学校講師となり、美術史を講ず。12月滋賀県神崎郡五箇荘松井氏の五女松井絹子と結婚、昭和3年 6月、全関西展に「丘上の村」出品。昭和5年 6月、関西美術会展に泰西名画の模写発表。昭和6年 長男寛生れる。昭和7年 9月、銀座資生堂に個展開催。昭和8年 9月、和歌山高等商業学校講師を退く。京都帝国大学文学部講師となり、美術史を講ず。昭和9年 3月、独立美術協会会員となる。第4回独立展に「夏の午後」「西班牙の山間」「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」等16点出品。昭和10年 1月、大阪美術新論画廊に個展。3月、第5回独立展に「水浴」「少女」出品。5月、京都市美術展に「信楽」出品。昭和11年 3月、京都帝大文学部講師を退く。4月、第6回独立美術協会展に「工場地帯」「夏」出品。昭和12年 1月、京都三角堂に個展開催。3月、田7回独立展に「書斉」出品。5月、第2回京都市美術展に洋画部審査員となり「村」出品。6月、大阪美術新論画廊に個展開催。昭和13年 3月、第8回独立展に「修理部」「水田」出品。昭和14年 3月、第9回独立展に「河原」出品。昭和15年 3月、第10回独立展に「海亀」「黄比叡」「卓上静物」出品。4月、銀座資生堂に油絵小品展開催、「坂」「雨」等12点出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展に「歩む鷲」出品。昭和16年 3月、第11回独立展に「戸外静」「月明」「芍薬」出品。11月、新関西美術協会第1回展審査員となる。昭和17年 3月、第12回独立展に「冬」「夏」出品。10月、独立美術秋季展に「きつつき」発表。11月、竹頭会を結成。昭和18年 3月、第13回独立展に「校倉(甲)」「校倉(乙)」、独立美術会員春季小品展に「鷲」出品。10月、第6回文展に「八坂神社西門」出品。昭和19年 2月、第14回独立展「石組」3点出品。10月、戦時特別文展に「河内金剛山」発表。昭和22年 4月、第15回独立展に「叢」出品。7月14日、帝国芸術院会員に選ばる。京都大学工学部講師となり、実技を講ず。昭和23年 4月、京都市立美術大学講師となり、実技を講ず。10月、第16回独立展に「脱衣」を出品。昭和24年 4月、京都大学文学部講師となり、1年間美術史を講ず。9月、京都市立美術専門学校客員教授となる。10月、第17回独立展に「浜(室戸)」「岬(室戸)」出品。昭和25年 2月、自選作品鑑賞展を大阪高島屋に開く。3月、京都大学工学部講師を退く。京都工芸繊維大学工芸学部講師となり、実技を講ず。5月、京都市立美術大学教授および京都市立美術専門学校教授となる。奈良学芸大学講師となる。10月、第18回独立展に「犬」「溜池」「卓上」出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「犬」出品。5月第5回美術団体連合展に「牡丹」出品。10月、第19回独立展に「法観寺塔婆」「書斉」出品。昭和27年 1月、第3回秀作美術展に「断崖と漁夫達」出品、3月、京都市立美術専門学校教授を解かる。4月、京都学芸大学講師となり、実技を講ずる。5月、第1回日本国際美術展に「静物」出品。8月、京都国立博物館評議員となる。10月、第20回独立展に「鵜」「棚上静物」出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「鵜」出品。5月、第2回日本国際美術展に「動物園」出品。10月、第21回独立展に「マナヅル」「走鳥」「イヌワシ」出品。9月、国立公園絵画展に「春の来島海峡」出品。昭和29年 1月、第5回秀作展に「春の来島海峡」出品。5月、第1回現代日本美術展に「樹下」出品。10月、第22回独立展に「芥子」「八幡平(焼山)」出品。昭和30年 1月、第6回秀作展に「芥子」出品。5月、第3回日本国際美術展に「杉」出品。10月、第23回独立展に「窪八幡」「檮原」出品。昭和31年 1月、第7回秀作展に「窪八幡」出品。2月、京都学芸大学講師を退く。5月、第2回現代美術展に「老馬」出品。7月、京都市立美術大学学長代理となる。10月、第24回独立美術展に「ある建築家の肖像」「るりみつどり」出品。ヴェニス、ビエンナーレ展に出品。昭和32年 2月、神奈川県立美術館に於て北川民次と二人展開催。5月、京都市立美術大学学長代理を解かる。第4回日本国際美術展に「魚市場」出品。10月、第25回独立展に不出品。昭和33年 3月、奈良学芸大学講師を退く。10月、第26回独立展に「偶感」出品。昭和34年 1月、関西画壇の向上に貢献した功績により、毎日美術特別賞を受ける。10月、第27回独立展に「鉱山」出品。昭和35年 8月、京都市立美術大学教授を退く。同大学名誉教授の称号を受ける。京都国立博物館評議員を解かる。昭和36年 10月、京都市篤志者として表彰される。12月16日、京都大学病院で死去。従四位、勲3等に叙せられ、瑞宝章を授けらる。12月22日、正四位、勲3等に叙せらる。

細島昇一

没年月日:1961/07/14

水彩画家細島昇一は、7月14日中野区の自宅で、脳溢血のため死去した。享年66歳。明治28年栃木県真岡市に生れ、栃木県師範学校を卒業後、久しく教員職にあり、昭和9年日本水彩展に「賓頭廬尊者」を出し、N賞を得て会員となった。その後図画教育書の編纂にたずさわり、その傍ら財団法人育英奨学会を創立し主事となる。戦後再び教職に戻り、昭和24年日本水彩画会幹事となり同会の運営に当った。また27年には示現会会員となり日展にも入選している。尚日本水彩画会会誌19号には多くの追悼の辞がよせられている。

小柴錦侍

没年月日:1961/03/24

洋画家小柴錦侍は、3月24日直腸癌のため死去し、東京四谷イグナチオ教会で葬儀が行われた。享年72歳。明治22年日本に於ける石版印刷の創始者として有名な、小柴英の二男として、東京都千代田区に生れた。九段暁星中学を終え、明治44年東京高等工芸学校を卒業後フランスに留学、9年間同地に滞在し、大正9年帰朝した。フランスではモーリス・ドニのアカデミー・ランソンに入学し、更にルーブル美術館学校に学び、欧州各国の絵行脚等もしている。帰国後は帝展に宗教画を多く発表し、第2回帝展「美しき五月マリアの月」、第4回「花つみて主の御母にささぐ」第7回「卒世やさしいサンタ・マリア」等があり、いづれも特選になっている。日本では、松岡寿、満谷国四郎、和田英作等に教えをうけ、帝展の他、創元会にも出品がみられる。戦時中は、軽井沢星野温泉に疎開し、制作をつづけていた

赤堀佐平

没年月日:1961/03/09

独立美術協会会員赤堀佐平は、3月9日朝胃ガンのため東京都下、立川中央病院にて死去した。享年57歳。明治37年3月31日岡山県勝田郡に生れ、大正13年3月大阪の関西甲種商業学校(現、関西大学附属一高)を卒業、しばらく家業を継いだが、昭和3年上京して洋画家を志し、東京代々木三谷の1930年協会洋画研究所に学んだ。同7年には第2回独立美術展に初入選し、同13年第8回展には、「岩と舟」「立木」で独立賞を受けた。同17年同会会友に、同19年準会員に推薦された。同19年第二次大戦のため郷里に疎開、戦後疎開中の同23年会員となった。翌年郷里より再び上京、都下南多摩郡の田園色豊かな環境にある農家の二階に妻子3人の戦後の画生活があった。傍ら南多摩郡稲城村の同村立第一小学校の教員を上京の年より同28年まで勤めた。昭和37年3月19日より25日まで、知己、先輩、同窓の多くが相寄り、銀座の文芸春秋画廊で遺作展を開催した。

若山為三

没年月日:1961/01/28

春陽会々員若山為三は、1月28日午前4時10分東京都世田谷区の自宅で脳内出血のため死去した。享年66歳。明治26年3月30日広島市に生れ、広島県立忠海中学を中途退学して同42年上京、同43年太平洋画会研究所に入って満谷国四郎に洋画の指導をうけた。大正11年渡仏し、5月パリのアカデミー・ランソンでモリス・ドニに就き、またアカデミー・グランショミエールでシャルル・ゲランに同13年初めの帰国まで学んだ。同14年第3回春陽会展に初出品し、昭和2年第5回春陽会展に、「浴後の幼児」他4点で春陽会賞を受けた。同5年第8回展にて、それまでの受賞者として無鑑査推挙となり、同9年春陽会々員に推挙された。以後死去に至るまで春陽会展に専ら作品を発表した。

宮島佐一郎

没年月日:1961/01/05

独立美術協会々員宮島佐一郎は、1月5日未明病気のため東京都中野区の自宅で逝去した。享年69歳。明治25年7月18日東京下谷区に生れた。本名佐太郎。明治大学商科を卒業した。画業は別に師承なく独学で、30歳をすぎてからやりはじめた。はじめ大正末の中央美術展や、昭和9年第2回旺玄社展に入選し、翌10年の第3回展には「竜村風景」「宇吉の里」など4点の風景画で中村彝氏賞を受け、第4回展で会友に推薦されたが、次の第五回展中に会友を辞退した。第九回旺玄社展まで出品を続けた。独立美術展には第五回展(昭和10年)から入選し、第11回展には「放牧日本」で独立賞を受賞し、同時に会友に推薦せられた。昭和19年準会員に推薦せられ、戦後同23年の第16回展で会員に推挙された。以来逝去に至るまで、主として明るく穏やかな、滋味に富んだ風景画を独立店に発表した。終戦後、所属の会を愛して、会の事務所に出入し、会務の手伝いなどに精励よくつとめ、責任感が強く、明朗円満な人間味はすべての人に好感をもたれた、ということである。昭和37年6月11日より16日まで、中央区京橋宝町のカワスミ画廊で遺作展が開かれた。

栗田雄

没年月日:1961/01/05

春陽会々員栗田雄は、1月5日板橋区の自宅で逝去した。享年65歳。明治28年10月2日静岡県磐田郡に生れた。少年時代を浜松市で過し、大正6年3月より日本美術院研究室で洋画部同人の指導をうけ洋画家としての第一歩をふみだした。大正8年8月、東京に移住、9年第7回日本美術院に初めて「入出村」を出品したが、同年日本美術院洋画部同人の脱退と共に同院を離れた。大正10年日本版画協会々員、又12年、春陽会創立第1回展より同展に出品し、昭和2年第5回展で「野川」「川添」「初秋曇日」が春陽会賞となり無鑑査出品者に推された。昭和5年2月渡仏、6年11月帰国、10年には春陽会々員となった。

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