本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





有馬三斗枝

没年月日:1978/02/25

光風会名誉会員、日展参与の女流洋画家、有馬さとえは、2月25日午後7時26分、老衰のため東京都杉並区の自宅において死去した。享年84。有馬さとえは本名サト、「さとえ」または後年「三斗枝」と署名している。明治26年(1893)5月20日、鹿児島市に、父有馬高徳、母せいの三女として生まれた。父高徳は漢方医であったが、さとえ誕生の18日前に死去している。鹿児島県立第一高等女学校を中退して上京しているが、上京の正確な年月は不詳である。明治44年(1911)晩秋に岡田三郎助に師事し、本郷洋画研究所(明治45年6月創設)に通った。大正3年(1914)第8回文展に「静物」が初入選となり、以後、文展、帝展、新文展に出品し、大正15年(1926)第7回帝展の「花壺」が女流洋画家としては初めての特選となり、翌年無鑑査、昭和3年(1928)第9回帝展「窓ぎわ」が再度特選にえらばれた。昭和12年新文展第1回展から無鑑査となり、戦後の日展では昭和22年第3回展で招待、翌23年依嘱、昭和29年には日展審査員、同33年改組日展の会員、同36、40年と審査員をつとめ、同37年には日展評議員、同45年日展参与となった。また、大正13、14年と光風会展に出品、戦後昭和21年同会会員となって再度出品するようになった。女流画家関係の展覧会では大正8年(1919)に第1回朱葉会展に出品しただけで他はいっさい出品していない。本郷絵画研究所の赤洵社展(大正11-13)、その後の本郷絵画展、春台展にはつづけて出品している(大正14~昭和15)。昭和26年、弟子であった鹿島卯女が杉並区にアトリエを建築して有馬に贈り、晩年をそこで過した。 作品略年譜文展 大正3年8回展「静物」、同4年9回展「静物」、同5年10回展「やすめる女」、同6年11回展「マンドリン」、同7年12回展「聴いている女」。帝展 大正9年2回展「髪」、同10年3回展「窓ぎわの自画像」、同13年5回展「蔬菜と果物」、同14年6回展「赤い扇」(東京国立近代美術館蔵)、同15年7回展「花壺」(特選)、昭和2年8回展「たんぽぽを持つ女」、同3年9回展「窓ぎわ」(特選)、同4年10回展「窓辺の少女」、同5年11回展「写生する人」、同6年12回展「裏山の見える窓」、同7年13回展「卓に倚る」、同8年14回展「夕月の窓」、同9年15回展「後庭」、同10年第2部会展「縁台の少女」。新文展 昭和12年1回展「朝の間に」、同13年2回展「夏日」、同14年3回展「むすめ」、同15年紀元2600年奉祝展「葡萄みのる」、同16年5回展「母と子と」、同19年戦時特別展「ふね」。日展 昭和21年1回展「五月の窓」、同2回展「憩い」、同22年3回展「ひととき」、同23年4回展「秋果のある部屋にて」、同24年5回展「秋の露台」、同25年6回展「夏の乙女」、同26年7回展「郊外の庭にいるS夫人」、同27年8回展「窓辺に寄す」、同28年9回展「若人」、同29年10回展「夜明の卓」、同30年11回展「静かな卓」、同31年12回展「龍膽」、同33年13回展「朝」。新日展 昭和33年1回展「あさがお」、同34年2回展「朝すず」、同35年3回展「あさがお」、同36年4回展「朝顔有情」、同37年5回展「夏晨の卓」、同38年6回展「青嵐の卓」、同39年7回展「夏雲」、同40年8回展「若葉季節の記」、同41年9回展「新緑日記」、同42年10回展「向夏」、同43年11回展「白雲の卓」。改組日展 昭44年1回展「初秋の卓」、同45年2回展「向日葵の窓」、同46年3回展「立秋の卓」、同47年4回展「青嵐の卓」、同48年5回展「窓の記」、同49年6回展「かかる日もありて」、同50年7回展「窓」、同51年8回展「窓の記」。

小絲源太郎

没年月日:1978/02/06

洋画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者の小絲源太郎は、2月6日老衰のため東京都大田区の自宅で死去した。享年90。本姓小糸。明治20年7月13日東京市下谷区に生まれ、同37年東京中学校を卒業、洋画家を志し翌年藤島武二の指導する白馬会駒込研究所に入り素描を学ぶ側ら、海野美盛に塑像の手ほどきを受けた。同39年東京美術学校西洋画科を志望したが金工科に入学、同43年第4回文展に「魚河岸」が初入選し黒田清輝に認められ西洋画科への転科を勧められる。翌44年金工科を卒業後改めて西洋画科に入学したが、大正3年病気休学後そのまま中退した。初期には印象派、後期印象派の影響を受けた画風(「屋根の都」明治44年など)を示したが、大正期の後半に一時展覧会出品を中止し再度大正末年復帰してからは、細密な写実描写に転じ、「獺祭図」(昭和6年)、「惜春賦」(同7年)などの作品を発表した。戦後は日展、光風会展(37年退会)、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品、「乍雨乍霽」(同22年)、「山粧ふ」(同31年)「団地良夜」(同39年)など力強い筆触、色彩の強いコントラスト、簡潔なフォルムによる独自な画風を展開した。この間、同29年には、前年の第2回日本国際美術展に出品した「春雪」その他の風景諸作により日本芸術院賞を受け、同34年日本芸術院会員となった。また、同35年財団法人日展理事、翌36年日展常務理事に就任、同40年文化勲章を授与され、同44年改組日展の発足に際しては顧問となった。随筆をよくし、『冬の虹』(同23年)『風神雷神』(同29年)などがあるほか、大正11年には自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行した。 ◆年譜明治20年 7月13日、父小糸源四郎、母はなの長男として東京市下谷区に生れる。生家は祖々父の代から庶民的な料理屋を営み、「揚出し」の名で広く知られていた。なお、本家は代々小糸源七を名乗り江戸末以来懐石茶屋「松源楼」を経営していた。明治25年 本郷区湯島天神下の練雪小学校入学。明治31年 小学校高等科3年のとき、慶応義塾に転学したが寄宿生活を嫌って退学、湯島天神町の医者で漢学者鵜沢正躬の許に預けられ、その家より中学校に通う。9月、神田の東京中学校に入学。明治37年 東京中学校卒業。両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意する。明治38年 春、藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学ぶ。また、海野美盛に塑像の手ほどきをうける。明治39年 4月、東京美術学校西洋画科を受験したが金工科入学となる。傍ら、白馬会菊坂研究所で素描を学ぶ。明治43年 5月、第13回白馬会展「静物」「海辺」「雪」「四条橋」。10月、第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられる。明治44年 3月、東京美術学校金工科を卒業。4月、改めて西洋画科に入学する。10月、第5回文展「屋根の都」。(東京美術学校買上げ)明治45年・大正元年 6月、第1回光風会「7月頃」。大正2年 5月、日本橋区本石町泰文社で小糸源太郎洋画小品展覧会を開く。10月、国民美術協会第1回西部展覧会「静物」「道頓堀」。大正3年 この年、糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学する。3月、東京大正博覧会美術館「人ごみ」(銅牌)「秩父街道」「桜」。7月、「黄草会を見て」を「現代の洋画」(28号)に書く。10月、第3回光風会展「静物」。第8回文展「曇り日」(褒状)「雨」「温泉場の夏」。大正4年 初めて長崎を見て感激する。10月、第9回文展「雨のあと」(褒状)7月「湯野村」。大正5年 7月、吉野芳と結婚。10月、日暮里谷中本町にアトリエを新築する。第10回文展「春」「秋」。大正6年 長男光夫誕生するも、」生後まもなく逝去。2月、第5回光風会展「初秋」。10月、第11回文展「きつつき」。大正9年 「製紙場」「月見草」。大正10年 「雪後」「春・秋」(装飾画)。大正11年 この年、糖尿病療養のため日暮里の家から池之端の生家に戻る。9月、「小糸源太郎画集明治43年-大正11年」を日本美術学院より発行する。「すもも咲く頃」「岬」。大正12年 9月、関東大震災のため上野池之端の家が焼失。大正14年 春、大田区田園調布2の20にアトリエを新築する。大正15年・昭和元年 5月第1回聖徳太子奉讃展「秋林暮色」「薬草園」。10月、第7回帝展「遅日」。昭和2年 10月、第8回帝展「静物」。昭和3年 10月、第9回帝展「書牕春闌」。昭和4年 この年から小糸に代えて小絲と署名する。10月、第10回帝展「秋」。昭和5年 10月、第11回帝展「暮春閑情」(特選、宮内庁買上げ)。昭和6年 光風会会員に推される。10月、第12回帝展「獺祭図」(特選)。昭和7年 2月、第19回光風会展「湍流(湯ヶ島)」「薔薇のある静物」(A)、(B)、(C)、「秋晴」。10月、第13回帝展「惜春賦」(推薦)。昭和8年 2月、第21回光風会展「花」「秋果図」、特別陳列(大東京風景)「不忍晴嵐」。10月、第14回帝展「綽約図」。帝展審査員。昭和9年 2月、第21回光風会展「几上静物」「港」「冬山」。10月、第15回帝展「晩夏」。帝展審査員。昭和10年 2月、長女、繁子誕生。第22回光風会展「長崎天主堂」「卓上静物」「8月頃」。この年、長崎に旅行する。5月、小絲源太郎近作洋画展(日本橋三越)。「ギヤマンのある静物」「時計と三色菫」。昭和11年 2月、第23回光風会展「猫の居る静物」。昭和12年 2月、第24回光風会展「無題」。10月、第1回文展「嬋娟」(政府買上げ)。昭和13年 この年、ほとんど病床に過す。2月、第25回光風会展「病間清興(花)」「病間清興(裸婦)」「病間清興(港)」。11月、「自画像」を「改造」(20の11)に書く。昭和14年 2月、第26回光風会展「遊園地の朝」「裸婦」10月、第3回文展「散歩する松本先生」昭和15年 2月、第27回光風会展「乍雨」「花」。春、長野の杏花写生。以後毎年4月には杏花を描きに行く。10月。紀元2600年奉祝美術展「早春」。昭和16年 3月、第28回光風会展「瑞祥」。昭和17年 2月、第29回光風会展「碓氷秋雨」「書牕早春」。5月、小絲源太郎近作油絵展(銀座資生堂)。10月、第5回文展「210日頃」。文展審査員。昭和18年 2月、第30回光風会展「山村春闌」。4月、「憶ひ出すまゝに」を『日本美術』(2の4)に書く。10月、第6回文展「平沼さん健在」。昭和19年 3月、第31回光風会展(非公募展)「遅日」「燕子風」。11月、戦時特別文展「柿おちば」。昭和20年 2月、戦災にあい下谷区元黒門町の生家焼失。6月、田園調布の自宅で「小絲源太郎画室展」を開く。昭和21年 3月、第1回文部省主催日本美術展覧会(日展)「初秋」。8月、「裸体画と大臣」を『アトリエ』(286)に書く。10月、第2回日展「5月の日」。日展審査員。昭和22年 2月、第33回光風会展「帰去来」。5月、都美術館開館20周年記念現代美術展「春日」。7月、父源四郎没。10月、第3回日展「乍雨乍霽」。この年、日本美術展覧会三次となり、また審査員もつとめる。昭和23年 2月、「日記抄」を『美術手帖』(2)に書く。3月、第34回光風会展「書牕早春」。4月第2回東京都主催現代美術総合展「曇り日」。5月、第2回美術団体連合展「遠雨」。10月、第4回日展「大安日」。12月、随筆集『冬の虹』を朝日新聞社から出版する。昭和24年 この年、長野へ杏花写生、また諏訪湖周辺の写生に歩く。3月、第35回光風会展「岬」。「画室、花、思い出」を東京新聞(3、4日)に書く。4月、第3回現代美術総合点「つゆ空」。5月、第3回美術団体連合展「麗春」。10月、第5回日展「富士見ゆ」。日展審査員。昭和25年 3月、第36回光風会展「雪後」。5月、第4回美術団体連合展「白い道」。6月、「緑雨抄」を東京新聞(16、17日)に書く。10月、第6回日展「秋闌」。日展審査員。昭和26年 長野へ杏花写生。4月、第37回光風会展「水ぬるむ」。5月、第5回美術団体連合展(最終回)「遅日」。6月、「女の夏姿」を朝日新聞(16日)に書く。昭和27年 1月、大田区田園調布の現住所に移る。4月、第38回光風会展「静物A」「静物B」(のちに「黒の静物」と改題)。5月、第1回日本国際美術展「雪後」(のちに「雪の遊園地」と改題)。10月、母はな没。第8回日展「春闌」。日展審査員。12月、随筆集『猿と話をする男』を筑摩書房から出版する。昭和28年 この年、国立公園展のため鳴門へ約10日間滞在する。1月、1952年度選抜秀作美術展「雪後」「雪の遊園地」。2月、「細い神経」を朝日新聞(17日)に書く。4月、第39回光風会展「冬の海」「行春」。5月、第2回日本国際美術展「春雪」。8月、「立秋」上、下を東京新聞(11、12日)に書く。9月、国立公園絵画展「鳴門」。10月、第9回日展「鳥ぐもり」。昭和29年 1月、第5回選抜秀作美術展「春雪」(1953年)。2月、「鐘有情」を『文芸春秋』(32の2)に書く。3月、第2回国際美術展出品作「春雪」その他前年度風景諸作により、日本芸術院賞をうける。第40回光風会展「朝東風」出品。4月、「辻永訪問」を『美術手帖』(80)に書く。5月、第1回日本現代美術展「夏草」「春の静物」。「あゆ」を朝日新聞(23日)に書く。7月、「月見草」を東京新聞(21日)に書く。10月、第10回日展「薫風」。日展審査員。11月、随筆集『風神雷神』を読売新聞社から出版する。昭和30年 1月、第6回選抜秀作美術展「鳥ぐもり」(1953年)。3月、第41回光風会展「雪余」。5月、長崎に旅行する。第3回日本国際美術展「湖畔」。6月、「梅雨と猫」を毎日新聞(12日)に書く。9月、「長崎かぶれ」を日本経済新聞(15日)に書く。10月、第11回日展「港」。昭和31年 1月、第7回選抜秀作美術展「雪余」(1955年)。「わが青春記」を東京新聞(25日)に発表。4月、第42回光風会展「春雪」(後に«雪の亀甲山»と改題)「天主堂」。「20代の記録」を『美術手帖』(107)に書く。5月、第2回現代日本美術展「春行く」。7月、国立近代美術館「日本の風景」展「雪の遊園地」(1952年)「鳥ぐもり」(1953年)10月、第12回日展「山粧ふ」。日展審査員。昭和32年 1月、第8回選抜秀作美術展「春行く」(1956年)。3月、第43回光風会展「水門のある風景」「雪後」。「テレビ句会」を朝日新聞(17日夕)に書く。5月、第4回日本国際美術展「道」。10月、画集『小絲源太郎』(日本現代画家選)を美術出版社から出版。鞆地方へ写生旅行。朝日新聞社主催現代作家展シリーズ・小絲源太郎素描展(銀座松屋)開かれる。11月、「美術祭・今は昔」を東京新聞(9日夕)に書く。「奈良日記」を毎日新聞(27日夕)に書く。昭和33年 1月、第9回選抜秀作美術展「山粧ふ」(1956年)。3月、財団法人日展発足、評議員となる。4月、第44回光風会展「田園調布」。5月、第3回現代日本美術展「冬日」。11月、第1回日展(審査員)「夏草」。昭和34年 1月、第10回選抜秀作美術展「田園調布」(1958年)。「うぐいす」を東京新聞(6日)に書く。「雪」を産経新聞(9日)に書く。3月、国立近代美術館「近代日本の静物画」展「薫風」(1954年)。4月、第45回光風会展「西銀座」。5月、日本芸術院会員となる。7月、「町の川」を毎日新聞(28日)に書く。10月、東宮御所御新築にあたり、各都道府県知事より献上画の執筆を依頼される。11月、第2回日展「雨やむ」。昭和35年 1月、第11回選抜秀作美術展「西銀座」(前年作)。財団法人日展理事となる。「朝帰り」を毎日新聞(5日夕)に書く。4月、第46回光風会展「鳥雲に」「花」。5月、第4回現代日本美術展「日照雨」。11月、」第3回日展(審査員)「糠雨」。朝日新聞社主催小絲源太郎画業50年展(銀座松屋)が開かれ、1926年からこの年までの作品52点を展覧する。『小絲源太郎自選展図録』を美術出版社から発行。12月、「よき年1960年」を朝日新聞(31日)に書く。昭和36年 この年、日展常務理事就任。奈良、吉野地方へ桜写生旅行。更に1か月田植写生に諸所を旅行。吹上御所御新築に際し、「野草之図」御下命執筆。1月、第12回選抜秀作美術展「鳥雲に」(1960年)。「新春小便譚」を毎日新聞(8日夕)に書く。4月、第47回光風会展「遠雷」。5月、第6回日本国際美術展「1目千本」。8月、「かび」を読売新聞(13日)に書く。11月、第4回日展(審査員)「遠雷」。12月、「マルケ『ルーアンのパリ波止場』を朝日新聞(16日)に書く。昭和37年 1月、第13回選抜秀作美術展「糠雨」(1960年)。「カナリア」を日本経済新聞(7日)に書く。5月、「『鏑木清方自選展』に寄せて」を朝日新聞(17日)に書く。「見られなくなる領国の花火」を毎日新聞(29日夕)に書く。10月、国際形象展「春闌」。11月、第5回日展(審査員)「初秋」。12月、「ゆく年」を毎日新聞(29日夕)に書く。年末、光風会を退会。昭和38年 1月、第14回選抜秀作美術展「遠雷」(1961年)。5月、第7回日本国際美術展「湖畔雪後」。7月、「バカンスむかしむかし」を毎日新聞(10日夕)に書く。秋、桜島その他九州写生旅行。帰途宮島へ廻る。11月、第6回日展(審査員)「漁港」。昭和39年 1月、第15回記念選抜秀作美術展「雪余」(1955年)。春、久しぶりに長野地方へ杏の花を写生に歩く。5月、第6回現代日本美術展「団地良夜」。9月、宮島に再度旅行。「新秋」完成。10月、第7回日展(審査員)オリンピック東京大会協賛展示「新秋」。昭和40年 1月、第16回選抜秀作美術展「漁港」(1963年)。能登に写生旅行。4月、長野へ杏花写生。6月、北海道札幌近辺を写生。9月、『小絲源太郎作品集』を美術出版社から出版。小絲源太郎アトリエ展(銀座資生堂画廊)開く。11月、文化勲章を授与される。第8回日展(審査員)「秋出水」。12月、箱根へ雪景写生。昭和41年 この年、椎間盤ヘルニアのためほとんど病床に過す。1月、第17回選抜秀作美術展「新秋」(1964年)。5月、第7回現代日本美術展「丘」(1965年)。11月、第9回日展「紅暈」。昭和42年 5月、第9回日本国際美術展「花曇り」。11月、第10回日展(審査員)「繚乱」。昭和43年 7月、発疹に苦しむ。10月、日展出品予定の「東海」盗難にあう。11月、第11回日展「行秋」。昭和44年 3月、「改組日展」の顧問となる。4月、芸術院事務局並びに日本経済新聞社主催「院賞受賞展」(大阪阪急)「鳥ぐもり」(1953年)。長野へ杏花写生。5月、第9回現代日本美術展の「現代美術20年の代表作」部門に「丘」(1965年)出品。11月改組第1回日展「かもめ群れる」。12月、紀州へ写生。昭和45年 4月、房総半島一周旅行。7月、銚子大潮祭写生。大磯江の島海浜写生。11月、改組第2回日展「漁港尺雪」。昭和46年 5月、NHK「創る」シリーズ第1回に制作状況を放映。7月、銚子の大潮祭写生。11月、改組第3回日展「とのぐもり」。出品。東伊豆網代へ写生。昭和47年 水元公園、堀切菖蒲園写生。この頃から白内障悪化しはじめる。9月、白内障手術のため慈恵医大病院に入院、12日後退院。東京国立近代美術館の「現代の眼-近代日本の美術から」展「田園調布」(1958年)。11月、サンケイ新聞社主催「文化勲章制定35周年記念絵画名作展」(上野松坂屋)「遊園地の朝」(1939年)「山粧ふ」(1956年)。昭和48年 4月、京都嵐山へ桜花写生。長野へ杏花写生。7月、箱根へ写生。11月、改組第5回日展「大雪」。昭和49年 10月、米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が求龍堂から発行される。11月、改組第6回日展「春昼」。昭和50年 11月改組第7回日展「東海」。昭和51年 5月、「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)開かれ、初期から近作までの80余点を出品。昭和52年 2月6日老衰のため大田区の自宅で死去(90歳)11月改組第10回日展「春光」(遺作)。本年譜は浅野徹編「小絲源太郎年譜」(『岡田三郎助、小絲源太郎』昭和50年、集英社)を参照して作成したものである。

小出卓二

没年月日:1978/01/12

洋画家、行動美術協会会員小出卓二は、1月12日脳卒中のため大阪市大淀区の大阪回生病院で死去した。享年74。明治36年5月25日大阪市東区に生まれ、金沢医科大学薬学専門部を卒業後、大阪信濃橋洋画研究所に学んだ。昭和2年第14回二科展に「神戸風景」が初入選し、以後同展に出品を続け、同17年二科会会友となり「志摩風景」他を出品、同17年二科会会員となり「波船場」等を出品した。同20年11月、向井潤吉、田辺三重松、古家新ら二科会員9名とともに行動美術協会を設立し、翌年その第1回公募展を開催、以後同展に制作発表した。また、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同35年現代日本美術展に出品した「淀川夕景」で大阪府芸術賞を受賞した。この間、同23年から大阪市立美術研究所講師をつとめ、同30年には宝塚市美術協会々長に就任した。行動展主要出品作裸女群像 昭和22年 第2回あぢさいのある風景 昭和23年 第3回花火 昭和24年 第4回海 昭和25年 第5回揚編 昭和26年 第6回漁港 昭和27年 第7回淀川風景 昭和28年 第8回港内風景 昭和29年 第9回港内 昭和30年 第10回嵐峡 昭和31年 第11回瀬戸内風景 昭和32年 第12回Y港 昭和33年 第13回兵器廠跡と大阪城 昭和34年 第14回外房風景 昭和35年 第15回五カ所湾風景 昭和36年 第16回漁火 昭和37年 第17回仲浜の港 昭和39年 第19回淀川風景 昭和40年 第20回天王寺風景(A) 昭和41年 第21回大阪港 昭和43年 第23回淀川風景 昭和44年 第24回塔と牡丹 昭和45年 第25回神戸港(A) 昭和46年 第26回海峡夜景 昭和47年 第27回新淀川風景 昭和48年 第28回神戸港(再度山より) 昭和49年 第29回神戸港(山手より) 昭和50年 第30回初瀬風景A 昭和51年 第31回尻無川風景(A) 昭和52年 第32回牡丹 昭和53年 第33回

水清公子

没年月日:1977/12/25

洋画家水清公子は、12月25日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年76。明治34年3月3日兵庫県姫路市に生まれ、兵庫県立高等女学校を卒業し、黒田重太郎に師事、戦前は関西美術院関係者で創設された白亜会に所属し昭和4年同会会員となり、同6年全関西展で朝日賞を受賞、翌7年無鑑査となった。同10年第22回二科展に「水蓮」で初入選し、以後同展に出品、同17年第29回展に「太田の沢」を出品して会友となった。戦後は同22年第二紀会創立に参加して同人となり、翌年第2回第二紀展に「母子像」と「美人草」を出品し同人努力賞を受賞した。以後同展に出品を続けた。人物や花を得意とし、京都の女流洋画家の草分け的存在であった。

鷲田新太

没年月日:1977/12/25

洋画家、光陽会元代表鷲田新太は、12月25日心筋こうそくのため東京都三鷹市武蔵境の日赤病院で死去した。享年77。明治33(1900)年9月19日、滋賀県野洲郡に生まれる。本名新一。大正8年兵庫県豊岡中学校を卒業し、同13年上京、川端洋画研究所で初めて木炭デッサンを学ぶ。昭和2年第5回春陽会展で「冬枯れ」が初入選、同4年東京美術学校師範科受験のため同舟社研究所に通ったが受験に失敗、同8年伊藤快彦の紹介で安井曾太郎に師事、この年新世紀美術協会展に出品、また第21回二科展に「冬日風景」が入選。同10年、美術雑誌『美之国』の編集員(筆名篠原巣一郎)となり編集に携わる。同11年川端龍子の知遇を受け、龍子主宰の「青龍社」の運営事務にあたった。同13年安井曾太郎門下生による「連袖会」第1回展に出品以後作品発表を断念した。戦後、同31年に光陽会に所属(翌年会員)、同年の第4回展から毎年出品を続けた。同43年第16回光陽会展に「河童不動」で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、また同年光陽会代表となった。同47年、71歳で初の個展を東京下村画廊、大阪フジヰ画廊で開催、独自のグワッシュによる「工場風景」や「俑人像」で注目された。翌年5月から約1年間パリに渡り制作に打込む。同50年「ピエロとその妻」等3点が東京国立近代美術館に所蔵され、翌51年東京フジヰ画廊で「サンハイトウ風景」「モンマルトルの坂道」「パリの裏通り」など60余点による「鷲田新太滞欧作品展」が開催された。

北川隆蔵

没年月日:1977/12/19

洋画家北川隆蔵は、12月19日死去した。享年67。雅号嚠三。明治42年10月1日滋賀県東浅井郡に生れ、太平洋美術学校、本郷研究所に学んだ。昭和18年第30回光風会展に「勤勞」が初入選し、以後戦後も同会に出品し、入選30回に及び、昭和45年同会々員となった。そのほか白日会、日展にも出品し、日展には昭和22年第3回展に「白い服」が初入選し、以後入選19回に至り、昭和51年同展会友となった。主要作品「水に生きる」(昭和50年)、「池畔」(昭和51年)ほか

古家新

没年月日:1977/11/29

洋画家、行動美術協会創立会員古家新は、11月29日急性肺炎のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年80。明治30年6月19日兵庫県明石市に生まれ、京都高等工芸学校図案科を卒業。大正10年大阪朝日新聞に入社し、学芸部に所属、挿絵、スケッチ等を手がけた他、現在も用いられている週刊朝日の表紙文字を残し、昭和16年退社した。この間、大正15年第13回二科展に「入江」と他1点が初入選し以後同展への出品を続け、昭和12年二科会会友に推挙され、「夕月」他を出品同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品、同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品した。また、昭和3年から翌年にかけて渡欧、仏、伊、蘭等に滞在した。戦後は、同20年11月に結成された行動美術協会に創立会員として参加、翌年の第1回展に「霧」など3点を出品、以後同展へ出品を続けた。同36年には小豆島にアトリエを設け、以後の制作はこのアトリエでなされた。同36年、大阪市民文化賞を、翌37年には大阪府芸術賞を受賞、同51年には紺綬褒章を受けた。また、没後梅田近代美術館主催で遺作展(同53年10月31日-11月19日)が催された。行動展の出品作には、他に「波野」(第10回)、「早春の段々畠」(第18回)、「日の出」(第24回他)などがある。

大久保実雄

没年月日:1977/11/28

洋画会、二紀会理事、武蔵野美術大学評議員大久保実雄は、11月28日悪性リンパ腫のため東京立川市の立川共済病院で死去した。享年66。明治42年2月20日佐賀県伊万里市に生まれ、昭和8年帝国美術学校本科を卒業、同12年第8回独立展に「海浜」が初入選した。戦後は、同25年第4回展から二紀展に出品し同32年同人となり、同35年第14回展に「赤牛の群れ」「黒牛の群れ」を出品し同人優賞を受け翌年二紀会委員となった。同46年第25回展には「サーカスの人たち1」「サーカスの人たち2」を出品して鍋井賞を受賞、翌年二紀会理事に加えられ同50年「冬日」「絵のある部屋で」を出品し菊華賞を受賞した。また、この間武蔵野美術大学評議員をつとめた。二紀展への出品作には、他に「曲馬出場」(第11回)、「対話」(第19回)、「夜の家族」(第26回)などがある。

大舘健三

没年月日:1977/10/14

洋画家、一水会会員大舘健三は、10月14日死去した。享年75。明治35年11月25日東京都に生まれ、大正9年川端画学校に入り藤島武二に師事、同11年東京美術学校西洋画科入学し、在学中太平洋画会、聖徳太子奉讃展に出品、昭和2年同校を卒業する際奨励賞を受け、引き続き研究科へ進んだ。翌3年和田英作教室の制作助手となった。同4年一水会に初入選し、以後同展へ出品を続け、戦後の同21年一水会会員となった。この他、日展、美術団体連合展などにも出品、同44年には山元好信と二人展を開催、5回展まで続け、同46年には六悠会を創立し制作発表した。戦後の一水会への出品作には、「童踊」(第9回)、「ふたり」(第15回)、「二女による構成」(第28回)、「閑庭」(第36回)などがある。

二瓶大三

没年月日:1977/10/11

洋画家、日本水彩画会会員二瓶大三は、10月11日脳血栓のため死去した。享年65。大正元年12月12日福島県岩瀬郡に生まれ、昭和7年福島県師範学校を卒業し、同13年県立相馬女子高校教論となり美術を担当した。同15年日本水彩展に初入選、同31年第33回春陽会展に「二本松雪景」が初入選、同41年春陽会会友に推挙され、同42年には第55回日本水彩展に「沼尻高原」「古城」を出品して会友奨励賞(美術報知賞)を受賞、翌年日本水彩画会会員となった。同46年東南アジアに写生旅行に出かけたのをはじめ、その後、印度、ネパール、イタリア、シルクロード、南フランスへと同51年まで写生旅行を重ねた。代表作に水彩の「月見草の咲く高原」、油絵の「安達太良山の四季」がある。

近馬勘吾

没年月日:1977/09/27

洋画家、太平洋美術会委員近馬勘吾は、9月27日死去した。享年83。明治27年9月21日岡山市に生まれ、同45年上京、翌大正2年に太平洋画会に入り中村不折、岡精一に師事、以後戦前、戦後を通じて同会と共に歩み、戦後は同会展の審査員をはじめ、太平洋美術学校で指導にもあたった。この間、大正11年から翌年にかけてロシアへ渡りアレキサンドルフスクなどに滞在、昭和36年には渡仏巡遊した。戦後の太平洋画会展出品作に、「或る日のエチュード」(52回)、「庭に来る鳥」(56回)、「礎石の人と」(60回)、「妻」(69回)など。

小寺健吉

没年月日:1977/09/20

洋画家、日展参与、光風会名誉会員小寺健吉は、9月20日肝臓がんのため東京飯田橋の警察病院で死去した。享年90。俳号村鳥。明治20(1887)年1月8日岐阜県大垣市に生まれる。同39年東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾、和田英作、黒田清輝に指導を受け、同44年卒業。翌年光風会第1回展に「日比谷音楽」「花」を出品、以後同展に出品を続け、大正3年第3回展に「女」など4点を出品して今村奨励賞を受賞、同13年会員となった。また、大正2年第7回文展に「秋近く」が初入選、続いて第8回「浅草の夏の真昼」、第9回「水のほとり」で褒賞を受けた。その後も文展、帝展に入選を重ね、大正12年と昭和2年に各々一年余り渡欧。昭和3年、第9回帝展出品作「南欧のある日」で特選を受け、翌年は無鑑査出品、以後推薦となった。同8年光風会評議員となる。以後、光風会、新文展に出品を続けたほか、同15年の紀元2600年奉祝美術展に「細雨」を出品、同18年第6回新文展出品作「山狭」は黒田子爵奨励資金買上となった。戦後は、光風会、日展、美術団体連合展などで制作発表を行い、同25年第6回日展ではじめて審査員(以後5回)をつとめた。同40年「画業50年記念展」(日本橋・三越)を開催する。同45年日展参与となり、同52年文展以来の永年の出品活動に対して日展から顕彰状が贈られた。同年『小寺健吉画集』(日動出版部)が刊行される。初期は後期印象派風のタッチで装飾性の強い画風を示したが、やがて写生画風に転じた。戦後の代表作に「雪の夜明(蔵王)」(第48回光風会展)、「枝柿と花の静物」(第7回新日展)、「青果市場(シンガポール)」(昭和40年)、「陶器造りの庭」(同42年)などがある。

杉浦一郎

没年月日:1977/09/20

洋画家、旺玄会常任委員杉浦一郎は、9月20日死去した。享年61。大正5年6月15日東京都豊島区に生まれた。戦後の昭和27年旺玄会第6回展に「屋上より」を出品、以後同会に制作発表を行い、同30年第9回展に「大海」「外房風景」を出品して会友、同33年第1回展から通算して第24回展としたこの年の出品「球場盛夏」「未完成画室」で会友努力賞を受賞、翌年会員となった。同37年旺玄会委員となり、同39年には常任委員となった。旺玄会の他、日本山林美術協会会員でもあった。旺玄会常任委員としての出品に「黄色の卓布」(34回)、「回転木馬」(37回)、「シェルブールの窓」(40回)などがある。

亀高文子

没年月日:1977/09/16

女流洋画家の草分けの一人、亀高文子は、9月16日急性心筋こうそくのため西宮市の兵庫医科大学病院で死去した。享年91。明治19(1886)年7月8日、水彩画家渡辺豊次郎(豊州)の子として横浜に生まれる。同35年女子美術学校本科西洋画科に入学、同40年卒業し、この年父豊州のもとに出入りしていた小杉未醒の紹介で満谷国四郎に入門、また太平洋画会研究所に入って中村不折にデッサンの指導を受けた。同年東京府勧業博覧会に「杉の森」、翌年41には太平洋画会第7回展に「音無川」を出品し、同42年第3回文展に出品した「白かすり」が初入選し褒状を受けた。以後文展帝展に出品を続けたが、大正7年与謝野晶子らと女性だけの洋画家集団朱葉会を創立し同会展に制作発表を行った。同12年神戸に移住し、同15年同地に赤艸社女子絵画研究所を創立、昭和4年朱葉会を退会し、翌5年には兵庫県美術家連盟の創立に参加し会員となった。戦時中の同18年赤艸社を閉鎖したが、戦後同24年西宮市に移転して赤艸社を再開した。同37年兵庫県文化賞を、同46年には西宮市民文化賞を受賞した。また、同50年「亀高文子自選展」(西宮市大谷記念美術館)を開催した。戦前の代表作には、第12回文展「ダニエルの話」、第2回帝展「椅子による少女」、第5回帝展「少女と小猫」などのほか、第3回朱葉会展「カナダの少女」などがあり、戦後では昭和46年兵庫県文化賞受賞者展に出品した「風景(六甲連山)」「あじさい」などがある

新保兵次郎

没年月日:1977/09/10

洋画家、日展評議員新保兵次郎は、9月10日直腸ガンのために東京医科大学病院で死去した。享年69。明治41年3月13日に新潟県長岡市に生まれ、日本美術学校を中退、小絲源太郎に師事した。昭和8年第14回帝展に「静物」で初入選、翌15回展には「山荘に於けるM氏」が入選、以後新文展に出品した。戦後は同21年第2回日展に「書窓」、翌年の第3回展に「笛」で連続特選を受賞し、以後出品依嘱となった。また、光風会展にも出品し、戦後会員になるとともに、同27年第38回光風会展では「白石のある風景」で光風特賞を受けた。同36年第4回日展ではじめて審査員をつとめ「早苗饗」を出品、翌年日展会員となり、同43年日展評議員となり同年の第11回日展出品作「森の朝」で内閣総理大臣賞を受賞した。他に日展出品作には改組第1回「帰巣」、同第5回「待春」などがある。

笹鹿彪

没年月日:1977/09/08

光風会評議員、日展参与の洋画家笹鹿彪は、9月8日午前10時45分、脳血センのため東京新宿区の河井病院で死去した。享年76歳。笹鹿彪は、明治34年(1901)3月11日、鳥取県米子市に、印刷業を営んでいた父又太郎、母たけの2男3女の次男として生まれ、明治40年(1907)米子市明道小学校に入学、大正2年(1913)同校卒業、一時期、銀行に勤務した。大正元年(1912)米子市錦公園で開催された洋画家香田勝太の個展をみて感動をうけ、銀行勤務のかたわら絵画を独習していたが、大正9年(1920)に上京して代議士三好栄次郎(英之)宅の書生となり、ついで原宿の池田仲博侯爵邸に移り、絵の相手役などをつとめながら、岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所に学んだ。上京した大正9年第8回光風会展に「二本榎の風景」が入選、翌10年第3回帝展に「少女」が入選となり、同年7月(10日~11日)には米子公会堂で個展を開き、また第3回中央美術展に「祖母の像」が入選した。大正12年、関東大震災のために一時郷里に帰り、このとき宮千代と結婚、翌年再び上京し、焼失した本郷絵画研究所の再建に尽力した。また同研究所の展覧会本郷絵画展(のち、春台展)の結成に努力し、その委員長に推薦され、大正14年(1925)第1回展から昭和18年(1943)まで出品した。帝展、新文展にもつづけて入選し、昭和10年無鑑査、11年文展招待展出品、この年、旧満州国に旅行、13年にはサイパン、テニヤン、ロタ、ヤップ、パラオ島など南洋諸島を6ケ月ほど巡遊し、15年師の岡田三郎助の死去にあい、葬儀に際しては門下生代表として弔辞を呈した。昭和16年東亜留学生会館の壁画を制作、旧満州に再遊、ハルピンで個展を展開した。 昭和20年、鳥取県西伯郡天津村阿賀に疎開、翌21年に上京、光風会再建に参加して会員に推挙された。以後光風展、日展で活躍をつづけ、昭和34年(1959)日展会員、同36年日展審査員、同39年評議員、同51年日展参与となった。また、昭和23年(1948)、のフラナガン神父が来日し、戦争孤児の救援活動に尽力している姿に打たれて大作(500号)「フラナガン神父と子供達」を制作して大阪駅に展示し、同題の100号の作品を銀座教会に贈り、それは後にアメリカ、ネブラスカ州ボーイズ・タウンへ送られた。個展歴としては、昭和33年フジカワ画廊、同34年大阪心斎橋画廊、同37年丸ノ内工業クラブ、同42年新宿ステーションビル、ギャラリー・アルカンシエル、同年鳥取市民会館、同45年鳥取県立博物館、同年米子高島屋、同47年小田急美術画廊、同52年(3月22~31日)渋谷ギャラリー・ジェイコにおいてそれぞれ個展を開催した。また、昭和28年から川村学園短大講師、同50年には教授となった。作品略年譜大正9年 第8回光風会展「二本榎の風景」大正10年 第3回帝展「少女」第2回中央美術展「切通風景」大正11年 第3回中央美術展「祖母の像」大正14年 第6回中央美術展「母の像」第6回帝展「室内にて」(鳥取県立博物館蔵)大正15年 聖徳太子奉讃展「ギタリスト」第7回帝展「おさげ髪」昭和2年 第8回帝展「母の像」昭和3年 第9回帝展「窓」昭和6年 第12回帝展「姉と弟」昭和7年 第13回帝展「女と子供」第7回春台展「姉弟」昭和9年 第9回春台展「少女」第15回帝展「3人のコンポジション」昭和10年 第二部1回展「馬車」昭和11年 文展招待展「扇」昭和12年 第12回春台展「稽古着の江口隆義像」第1回文展「セニョリータ・イスラ」昭和13年 第2回文展「少年」昭和14年 第14回春台展「北鮮の印象」第3回文展「港」昭和15年 紀元2600年記念展「某基地の昼食」昭和16年 第4回文展「パイプを持つ男」昭和18年 第18回春台展「踏切番」「シャク帽子の男」昭和19年 戦時特別文展「砂鉄製錬」昭和20年 現代美術展「小鳥屋」(米子市役所蔵)昭和21年 3月第1回日展「サージェント」10月第2回日展「裁縫」昭和22年 第33回光風展「電信草」第3回日展「無題」昭和23年 第34回光風展「けい子ちゃん」第4回日展「靴磨き」昭和24年 第35回光風展「午后の窓」第5回日展「駐車場」昭和25年 第36回光風展「編物」昭和26年 第37回光風展「ザボンのある静物」第7回日展「コスチューム」昭和27年 第38回光風展「壺」第8回日展「N夫人」昭和28年 第9回日展「サンダースホームの子供達」昭和29年 第40回光風展「おやつ時」第10回日展「帽子の店」昭和30年 第41回光風展「椿と壺など」第11回日展「図画教室」昭和31年 第42回光風展「裸婦」第12回日展「マリモと少女」昭和32年 第43回光風展「石工」昭和33年 第44回光風展「窯場」第1回改組日展「帆を乾す」昭和34年 第45回光風展「浜」第2回改組日展「修道女」昭和35年 第46回光風展「若き漁夫」第3回改組日展「宇宙問答」昭和36年 第4回改組日展「プロメテ」(島根県立博物館蔵)昭和37年 第48回光風展「黒潮」第5回改組日展「風車にいどむ」(ドンキホーテ)昭和38年 第49回光風展「網を繕う」第6回改組日展「牛と人」昭和39年 第50回光風展「石馬を刻む」第7回改組日展「白土礪床」昭和40年 第51回光風展「釣人」昭和41年 第52回光風展「押っぺし」第9回改組日展「漁港の女」昭和42年 第53回光風展「網を運ぶ」第10回改組日展「漁港の女達」昭和43年 第54回光風展「ネオンの街」第11回改組日展「朝」昭和44年 第55回光風展「漁港にて」第1回改組日展「小雨降る」昭和45年 第56回光風展「漁港の正月」第2回改組日展「漁港にて」昭和46年 第57回光風展「二月の外房」第3回改組日展「わかめを干す」昭和47年 第58回光風展「熔岩の島」第4回改組日展「わかめ干す浜」昭和48年 第59回光風展「裏阿蘇」第5回改組日展「ネオンの街」昭和49年 第60回光風展「がらくた屋」第6回改組日展「砂丘は暮れる」昭和50年 第61回光風展「屋根の上の小鳥小屋」昭和51年 第8回改組日展「飯坂郊外」昭和52年 第63回光風展「飯坂の秋」第9回改組日展「残雪の鳥々山」

灰野文一郎

没年月日:1977/09/07

洋画家、白日会委員灰野文一郎は、9月7日急性肺炎のため宇都宮市の自宅で死去した。享年75。明治34年12月8日新潟県柏崎市に生まれ、大正14年明治大学商科を卒業、以後宇都宮市立商業学校をはじめ晩年まで、県立宇都宮商業高等学校、作新学院高等部商業科で教鞭をとり商業美術を担当した。昭和6年第8回白日会に初入選、同11年「炭焼く人」で文展に初入選し、翌12年第14回白日会展に「K子像」で会友奨励賞を受賞し会員となった。戦後も白日会、日展に出品を重ね、同30年前後からは那須の山をモチーフに描いた。日展出品作に「霧」(第3回展)、「菊」(第7回展)、「八月の那須山」(第8回展)などがある。晩年は白日会栃木県支部長、栃木県文化協会理事をつとめる。

硲伊之助

没年月日:1977/08/16

洋画家で陶芸家・日本美術会会員の硲伊之助は、8月11日午後10時42分、心臓性ゼンソクのため、石川県加賀市の自宅で死去した。享年81。硲伊之助は、明治28年(1895)東京に生まれ、慶応義塾普通部を中退して、大下藤次郎の日本水彩画研究所に学び、大正元年(1912)のヒュウザン会に参加、会員中最年少者であった。その後、二科会に出品、第1回展で二科賞を受賞。大正10~昭和4年(1921-29)フランス滞在、帰国後は春陽会、ついで二科会に出品、昭和8~10年(1933-35)再渡欧し、マティスに師事した。帰国後は、一水会の創立に参加し、戦後は美術界の民主化を唱えて日本美術会委員長に就任、また、昭和24~25年東京芸術大学助教授をつとめた。昭和28・30年と日展審査員となったが、翌32年には審査方針を批判して日展を脱退した。明るい色彩と知的な構図の近代的な作風で知られたが、昭和26年(1951)ころから陶芸に関心をいだき、三彩亭と号して陶器制作にあたり、とくに晩年は加賀市吸坂に九谷焼の制作に打ちこんでいた。略年譜明治28年(1895) 11月14日、東京市本所区に、硲文七、八重の三男として生まれる。両親は和歌山県出身、父は日本橋木村漆器店に勤務。明治42年 慶応義塾普通部入学。明治44年 慶応義塾普通部を中退する。この年、大下藤次郎の日本水彩画研究所に入所、夜間は暁星学園でフランス語を学ぶ。大正1年 10月、第1回ヒュウザン会展に「雨」(水彩)、「夕暮」「顔」「鈍き太陽」を出品。大正2年 3月、第2回フュウザン会展に「風景」(1~8)、「静物」、「デッサン」2点を出品。大正3年 10月、第1回二科展に「女の習作」を出品、二科賞を受賞。大正4年 第2回二科展「崖」「風景」。大正5年 第3回二科展「水浴」「風景」「男の顔」大正7年 第5回二科展「晴れた日(水彩)」「枯木と家」「冬の竹籔(水彩)」「鵠沼の白い橋」「池袋附近にて」「田舎」「曇り日」「エビス附近」「黄金水仙」「我孫子附近」「男の顔」「冬の田」「春」「湿れる土」「中川堤防附近」「寄りかかれる男の習作」「鵠沼風景」「畔道」「立てる男の前向」「黒い土の畑」「女の背」「竹籔」「林君の横顔(鉛筆)」「男の横顔(コンテ)」「沼に寄れる一本の樹」「冬」の26点を出品、再度二科賞をうける。大正8年 9月、第6回二科展「池袋附近(秋)」「沼の岸」「山路」「目黒にて」、二科会会友に推挙される。大正9年 9月、第7回二科展「大森近く」」「田と畑」「生麦」「肖像」「原釜にて」。大正10年 6月、父文七死去。7月、クライスト丸にて渡欧、坂本繁次郎、小出楢重、林倭衛らと同船。9月、第8回二科展「立って居る男」。パリにてアカデミー・グラン・ド・ショミエールに通う。大正12年 5月、春陽会客員となる。在仏。大正13年 ブザンソンに6カ月滞在、「村の入口(ブザンソン風景)」らを制作。大正15年 春陽会会員となる。昭和2年 4月、第5回春陽会展「ローマ時代の橋」「萎れた薔薇」「村の入口」「キャニュの秋」「マルティギュの煙突と塔」「玉葱の花」「新聞を読む女」出品。昭和3年 1月、第8回創作版画協会展に出品、4月、第6回春陽会展に、「朝着」「小みち」「松と海」「田舎娘」「マルセイユ近郊」「室内」「丘の家」「夜の祭」「巴里の一隅」などを出品。5月、フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。昭和4年 4月、第7回春陽会展「アデリア」「フラヴィアン橋(2)」「菲沃斯」「赤い着物」「フラヴィアン橋(1)」「南仏の台所」「青縞の前懸」「黒鴨」「サロン町の時計台」「カタラン水泳場」。この年帰国、東京・本郷区駒込浅嘉町49番地に画室を新築する。昭和5年 4月、第8回春陽会展に滞欧作品を特別陳列、「南佛の農家(1)」「ニース別荘町」「松」「初夏」「アルルの女」「豌豆を剥く」「水車小屋」「南仏の星」「肉屋」「南仏の農家(2)」「少女」「サント・ヴィクトワル山」「曇り日」「露台」「篠懸の蔭」「羅馬時代の橋」「マントンの回教寺(版画)」など。11月、雑誌『セレクト』に「東洋の伝統」を執筆。昭和6年 4月、第9回春陽会展「ヴァンサンヌ公園」「金鳳花」「支那壺の花」「田舎娘」。春陽会委員となり財務を担当する。8月、伊伏鱒二著『仕事部屋』(春陽堂)を装幀。9月第1回日本版画協会展に会員として出品。昭和7年 4月、第10回春陽会展「アヴィニヨン街道」「横たわる少女」。7月、南紀芸術社刊雑誌『南紀芸術』6号の表紙を描く。10月、『コロ画集』(アトリエ社)の解説執筆。昭和8年 春陽会を退会し、8月二科会会員に推挙される。9月、第20回二科展に「金魚」出品。再渡仏し、パリにおける開催に尽力し「かえる」を出品。マティスと接触し、師事する。昭和9年 9月、第12回二科展「花つくりの家」。昭和10年 春、帰国する。9月、第22回二科展に滞欧作を特別陳列、「室より」「港」「海水浴場」「望遠鏡」「尼寺」「荷物船」「鐘樓」「漁船」「ニース海岸通り」「夕暮れ」「伊太利の労働者(石版)」「提防(石版)」「大きなパルミエ(石版)」「尼寺(石版)」「台所(石版)」「ニース海岸通り(石版)」「南佛の村(石版)」昭和11年 5月、木下孝則、木下義謙、浜地青松、川口軌外、園部香邦、硲伊之助の6名によるを和歌山市と新宮市で開催。8月、ベルリン・オリンピック芸術部門部員となる。石版画「船を漕く若者」ヒットラーの買上げとなる。9月、第23回二科展「芍菜」「夏の午後」「薄日さす地中海」「南仏の秋」。10月、二科会を退会し、12月、一水会創立に参加。昭和12年 11月、第1回一水会展「砂丘」「少憩」「鵠沼の想い出」昭和13年 11月、第2回一水会展「清宴舫(昆明湖)」「モデルと壺」「あぢさゐ」。『マチス』(アトリエ社)を出版。昭和14年 11月、第3回一水会展「閨秀画家」「鱒釣り」「磯崎」「なの花」「カーネーション」。この年、日本版画協会を退会。昭和15年 10月、2600年奉祝展「I令嬢」。同月、陸軍省嘱託として中支方面に従軍、「臨安攻略」を制作。11月、第4回一水会展「黒い帽子」「ガーベラ」。昭和16年 4月、文化学院美術部長となる。7月『ギュスタヴ・クールベ』(アトリエ社)刊。9月、第5回一水会展「燈火」。昭和17年 9月、第6回一水会展「六月の庭」。10月第5回文展に審査員として「黒服のI令嬢」。この年銀座資生堂において個展。三彩亭の号を用いはじめる。昭和18年 9月、第7回一水会展「ひまわり」。10月、第6回文展「菜園の隅」。この頃、「PIED DE VEAU」「藤」を制作。昭和19年 6月、東京美術学校油画科講師、8月、助教授となる。12月『硲伊之助近作画集』(十一組出版部)刊。昭和20年 東京大空襲により本郷のアトリエ焼失昭和21年 第1回日展「黄八丈のI令嬢」。9月、第8回一水会展「A LA CAMPAGNE」。10月、第2回日展「P氏とI令嬢」昭和22年 6月、第1回美術団体連合展「Monsieur BONATI」。12月、日本美術会委員長に就任。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展「ビアチェンティニ氏」。9月、第10回一水会展「水仙」。第2回日本アンデパンデン展「午後のひととき」。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「アンゴラのセーター」。6月、新制東京芸術大学助教授と認定される。9月、第11回一水会展「O女史之像」昭和25年 7月、東京芸術大学助教授を辞任して渡仏、11月「マチス会見記」(芸術新潮)を発表、マティス展、ピカソ展、ブラック展など開催のため折衝にあたる。昭和26年 帰国、千代田区麹町1番地に移転。5月、第5回美術団体連合展「芝居がえり(春信模写)」。昭和27年 2月、第5回アンデパンダン展「九谷染付上絵羅馬サンタンジェロ城」。9月、第14回一水会展「パウロ君」。同月、『パリの窓』(読売新聞社)刊。昭和28年 10月、第9回日展「湖来」(木版)、文部省買上げとなる。昭和29年 9月、第16回一水会展「釉裏紅瑠璃桃絵皿」「呉須飴釉黍之絵皿」「九谷上絵五位鷺皿」「呉須飴釉白菊皿」「呉須色絵秋景色皿」「九谷上絵雛罌粟皿」「呉須あやめ皿」「九谷上絵双鶴松竹梅皿」「九谷上雛粟皿(黒つぶし)」「九谷上絵鳥之角鉢」「釉裏紅瑠璃絵付飴釉花見皿」「九谷上絵猿猴角鉢」。10月、国慶節出席のため中国訪問。この年三鷹にアトリエを設ける。昭和30年 9月、第17回一水会展「田の草取り」「菜の花」「草花」「箒を持つ女」(以上、陶器)。10月、第11回日展「あやめ」(木版)。『ゴッホの手紙・上』(岩波書店)刊。昭和31年 9月、第18回一水会展「染付中皿みのりの秋」「九谷上絵狗透彫菓子皿」「九谷上絵梅花香炉」「九谷上絵木蓮とふくろ図大皿」「染付飴釉木蓮図九角皿」昭和32年 9月、第19回一水会展「飛青磁角形水滴」「九谷上絵麻の菊」「吸坂手熊」「九谷上絵桜草」「九谷上絵大皿夜」「九谷上絵とくさ」「トルコ青の女」。10月、日展を脱退。昭和33年 9月、第20回一水会展「九谷上絵野草小皿五客」「九谷上絵月見草九角平鉢」「九谷上絵紅梅中皿五客」「青磁熊絵線彫中皿」「九谷染付月見草大皿」、委員回顧室に「燈火」「栗」。この年、港区麻布に移転。昭和34年 9月、第21回一水会展「山吹(九谷染付皿)」。この年、木下義謙、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門らと一水会陶芸部を創設。世田谷区岡本町へ移転。昭和35年 9月、第22回一水会展「九谷染付中皿くちなし」「九谷染付皿の桂」「九谷染付中皿南方の島」。この年、「頬杖をつく公子」「箱根」(以上、素描)、「菊」、「レモンとガーベラ」、「黄色のオーバー」「山つつじ」(以上、油絵)などを制作。昭和36年 3月、渋谷東横百貨店にてを開催。5月、岡山天満屋において開催し「緑のマフラー」「スヰトピー(青の背景)」「スヰトピー」「早春の丘」「河口湖夕照」「馬酔木」「渓流(その1)」「渓流(その2)」。9月、第23回一水会展「九谷染付木蓮大皿」。『ゴッホの手紙・中』(岩波書店)刊。昭和37年 9月、第24回一水会展「けしの矢車草」「つばめの魚」「茄子」「菊」「新聞」(以上、陶器)。昭和38年 7月、中国へ旅行。9月、第25回一水会展「九谷上絵牡丹大皿」「九谷本窯月見草大皿」「吸坂手五位鷺皿」「頬杖する公子」(以上、陶器)。昭和39年 9月、第26回一水会展「麦秋」。11月、ヨーロッパ各地を旅行。昭和40年 4月、アルバニアに3カ月滞在、7月帰国。9月、日動画廊でを開催、「メッシ橋」「アルバニアの老人」「ポリクセニ嬢とムカイ氏の会話」「サランダの港」「ジロカステロの古い家」「糸を紡む女」「ドゥルスの眺め」「煙草畑の耕作者たち」「アルバニアの花嫁」「ドゥルスの農家」を出品。第27回一水会展「九谷上絵茄子皿」「九谷染付椿中皿」「九谷染付五位鷺角皿五客」昭和41年 9月、第28回一水会展「九谷上絵大皿農家之内部」「九谷染付大皿渓流之詩人」「九谷上絵大皿麦畑之道」昭和42年 9月、第29回一水会展「吸坂窯大皿砂丘の公子」「九谷染付上絵入大皿アルバニアの老夫人」「吸坂窯台鉢漢代石馬」「吸坂窯台鉢石牛」「吸坂窯瓢形小皿赤いブラウスの公子五客」「吸坂窯瓢形小皿もろこしとえんどう五客」「吸坂窯瓢形小皿夫婦鶴五客」「吸坂窯小判形小皿眠れるチビ公五客」「九谷上絵吸坂釉額皿閨秀画家」「九谷染付絵入額皿備前主窯趾」。11月心臓喘息の発作で入院。昭和43年 9月、第30回一水会展「吸坂窯瓢形空豆之小皿五客」「九谷呉須上絵大皿アルバニアの案山子」「九谷上絵大皿天の橋立之老松」「九谷上絵夜の椿中皿五客」「九谷上絵大皿奇妙な枝ぶりの松」「吸坂窯瓢形白菊之小皿五客」「吸坂窯小判型くちなし皿小客」。昭和44年 9月、第31回一水会展「吸坂焼九谷絵附懐石用銚子」「吸坂焼朝顔手鉢」「九谷上絵大皿長崎港の渡船場」「九谷黒釉花瓶」「九谷上絵紺青夜の月見草大皿」。『浮世絵-春信と歌麿』(日本経済新聞社)刊。昭和45年 9月、第32回一水会展「九谷上絵陶板ドウルスの農家」「九谷染付柿紅葉大皿」。『ゴッホの手紙・下』(岩波書店)刊。昭和46年 9月、第33回一水会展「九谷染付上絵富士と麦畑之陶板」「吸坂象嵌あやめ大鉢」「九谷上絵天橋立老大皿」「九谷瑠璃釉山吹大皿」。『九谷焼』(集英社)刊。昭和47年 10月、第34回一水会展「呉須上絵大皿松の幹(与謝の海を見て)」「吸坂手大皿新緑のなかのひと」「呉須上絵大皿逆光の老松」。この年、外務省主催ヨーロッパ巡回出品。昭和48年 10月、第35回一水会展「九谷上絵呉須男鹿半島ほにょ大皿」「九谷上絵奥入瀬の紅葉大皿」「九谷上絵小皿新聞五客」「吸坂手九谷上絵小菊皿」。この年、中日文化賞を受賞。昭和49年 3月、高岡市立美術館において開催され、陶磁器40点、油彩画19点、版画3点出品される。10月、和歌山県立近代美術館において開催され、陶磁器42点、油彩画45点、水彩画2点、版画17点、素描1点、ほか資料類が展示される。11月、第36回一水会展「吸坂手朝顔八寸皿」。昭和50年 10月、加賀市立図書館において開かれ、陶器29点、油彩画14点、版画3点が出品される。11月、第37回一水会展「九谷上絵鳥越村採石場大皿」「九谷上絵利根之水門角皿五客」「九谷上絵茄子之扇面皿」「九谷上絵朝之北潟扇面皿」「吸坂手栗扇面皿」「吸坂手葉紋瓢形皿五客」。昭和51年 1月、和歌山県文化功労賞を受ける。東京を引きあげて加賀市在住となる。10月、第38回一水会展「九谷上絵月見早黒釉大皿」「九谷呉須上絵老松之大皿」。『硲伊之助画集』(三彩社)刊。昭和52年 10月、第38回一水会展に遺作「室内」(1928)「Monsieur BONATI」(1947)「黄八丈のI令嬢」(1946)が展観される。

加納辰夫

没年月日:1977/08/15

洋画家加納辰夫は、8月15日脳血せんのため島根県安来市の日立病院で死去した。享年73。号莞蕾。昭和6年独立美術協会の創立 に際し、第1回展に「静物」を出品し、同18年の第13回独立展では「四十八人の群像」で受賞するなど戦前は洋画家として活躍したが、戦後中央画壇を離れて帰郷し、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯108人の釈放を求めて当時のフィリピンのキリノ大統領に嘆願書を送り続け、同28年7月の戦犯釈放実現に尽力した。その後再び絵筆をとり水墨画に転向、莞蕾と号して独自の画風を示した。同52年3月画集『莞蕾墨彩』を刊行した。

水谷清

没年月日:1977/08/15

洋画家、春陽会会員水谷清は、8月15日心不全のため死去した。享年75。明治35年1月8日岐阜県郡上郡に生まれ、大正9年早稲田大学商科に入学したが同年退学し、以後小杉放庵に師事、また川端画学校に学んだ。大正15第4回春陽会展に「裸女群浴」他1点が初入選し、翌昭和2年の第5回展に「秋日」他2点を出品して春陽会賞を受け無鑑査に推され、同4年の第7回展でも「海女」他4点を出品して春陽会賞を受賞、同年渡仏し、パリのグラン・シュミエールに学んだ。同5年にはサロン・ドートンヌに出品、同年春陽会会友に推され、翌6年帰国の年の第9回春陽会展に滞欧作「五月の小庭」など15点を出品、翌7年にも「セビラのカルナバル」など5点の滞欧作を発表した。同8年春陽会会員となり、同10年秋にはインドに遊学し翌年春に帰国、同年同志と文芸日本協会を興し「文芸日本」を発刊した。また、同15年春陽会の文展参加に際し、審査員をつとめた。戦後も春陽会に制作発表したほか、現代日本美術展などにも出品、また、同32年にはサンパウロ、ビエンナーレ展日本側委員として出席しメキシコに滞在、翌33年にはメキシコ芸術院主催の個展をベヤス・アルテスで開催した。また、同31年から同42年まで金沢大学教授をつとめたほか、同34年からは早稲田大学講師もつとめた。戦後の春陽会出品作に「闘牛」(第36回)「佐藤春夫先生像」(第40回)、「琉球」(第43回)「鬼子母神縁起」(第50回)などがある。著書に『素描スケッチの描き方』(昭和7年春陽堂)、『印度回想』(昭和18年文林社)。

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