本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1976/03/23 二紀会監事の洋画家、大兼実は、3月23日午前4時30分、気管支炎のため東京狛江市の自宅で死去した。享年67。大兼実は、明治41(1908)年10月21日、東京に生まれ、大正15年太平洋画会研究所に入所、昭和4(1929)年第16回二科会展に「池畔夏景」が初入選となり、昭和8(1933)年文化学院美術科を卒業、同9年中国の上海、蘇州、杭州、南京などに写生旅行、同12年渡欧した。初めローマの国立美術学校に学び、フレスコ画法を研修、イタリア各地を歴遊したあとパリに移り、アカデミー・グラン・ショミエールで学び、昭和19(1944)年まで滞在した。その間、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール、サロン・ド・チコイレリーなどに出品、昭和18(1943)年にはベルリンで個展を開いた。昭和20(1945)年に帰国し、翌21年第1回日展に出品、一水会会員に推挙され、同22年第3回日展では委員を依嘱されたが、二紀会創設に際してこれに参加し、以後、二紀会に作品を発表すると共に監事、委員として活躍した。二紀会出品主要作品年譜昭和23年2回展「青い服のマネカン」、同26年5回展「ソレント」「古い街」「パリの裏街」「雨後のパリ郊外」、同27年6回展「クロワートル」「ブルタニュ」「ピストロ」「古い街」、同29年8回展「博物館の庭」「ベランダ」「港街」、同31年10回展「窓」「艇庫の一隅」、同33年12回展「商館のバルコン」、同34年13回展「長崎商館のバルコン」「和蘭陀屋敷のテラス」「採光(天主堂の一隅)」、同36年15回展「長崎十二番館」「桜島」、同39年18回展「大和の民家」「大和の村」、同41年20回展「法隆寺の村」「斑鳩の里の小路」、同45年24回展「信濃路」、同47年26回展「今井の露路(橿原)」、同49年28回展「塔のある酒倉」、同50年29回展「石舞台古墳」
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没年月日:1976/03/23 洋画家、日本芸術院会員、独立美術協会会員野口弥太郎は、3月23日午前3時20分脳いっ血で入院中に肺炎を併発し東京千代田区の東京警察病院で死去した。享年76。明治32(1899)年10月1日当時の東京市本郷区に生まれ、大正9年関西学院中学部を卒業後翌10年川端画学校で油絵を学んだ。同11年二科展に「女」を初出品入選、その後も連続入選し頭角をあらわした。同15年1930年協会会員となり前田寛治に傾倒し、昭和4年渡仏、パリのグラン・ショミエールに学び、同6年サロン・ドートンヌに出品した「港のカフェー」は仏政府買上げとなった。同8年3月帰国、二科会会友を辞し、独立美術協会第2回展に滞欧作を出品、同会会員となり、以後林武、高畠達四郎らとともに同会の主要な作家として活躍した。この間、同27年から45年まで日本大学芸術学部教授をつとめたほか、同35年5月から37年4月まで再渡欧し36年6月にはパリのマルセル・ベルネイム画廊で個展を開催、同37年国際形象展に同人として参加、同39年には「セビラの行列」(第31回独立展)および滞欧作品展(38年銀座松屋)の諸作に対して第5回毎日芸術賞を受賞、同47年国際形象展出品作「那智の滝」により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また同50年勲三等瑞宝章を受章するとともに同年11月日本芸術院会員に任命された。パリ留学で身につけた自在なフォーヴ的筆致を日本の風景に適合させ、完成度の高い日本的フォーヴィズムの作風を示した。年譜明治32年(1899) 10月1日東京市本郷区に、銀行家野口弥三の長男として生まれる。明治39年 父の任地朝鮮仁川市の小学校に入学。その後東京市四谷第二小学校、錦華小学校などを経て、父の郷里長崎県諫早市の小野尋常小学校へ転校(明治44年7月~45年1月)、次いで神戸市の諏訪山小学校に転校。大正3年 関西学院中学部入学。成績優秀で人気が高く、絵画に長じ学校の油絵グループ弦月会で活動す。上級生に大森啓助がいた。大正6年 スポーツで身体をいため休学、その間さかんに油絵を試みる。大正9年 関西学院中学部を卒業。父母よりドイツ製油絵具セットなどを与えられ、恵まれた環境のうちに画家となる決心を抱く。このころ澤野菊枝を知る。大正10年 軽井沢に滞在して、画家たらんと強く決心す。この時の宿つる屋には芥川龍之介が同宿していた。のち東京原宿に居住、川端画塾に数週間通い油絵を学ぶ。この頃神田神保町の兜屋画堂で開かれた関根正二や村山槐多の展覧会を見て感心する。大正11年 代々木にアトリエを新築す。近所の初台に児島善三郎が居て交遊した。9月第9回二科展に「女」を初出品入選す。大正13年 9月第11回二科展に「少女と静物」「夏日夕景」「室内裸婦」の3点入選し注目さる。10月万鉄五郎が主宰する二科系新人グル-プ円鳥会第3回展に会員外として出品、万から個性的で近代的傾向の作品として高く評価さる。大正14年 澤野菊枝と結婚し、東京府豊多摩郡に居住す。9月第12回二科展に「室内」を出品。10月第4回円鳥会展に「草上假睡」他4点を出品す。大正15年 5月1930年協会第1回展が開かれたが、6月すすめられて古賀春江、林武らと共に会員となる。前田寛治を知り、その人と作品に深く感銘した。9月第13回二科展に「爪みがく女」「裸婦構図」「六月風景」「大山園風景」を出品。昭和2年 6月1930年協会第2回展覧会に出品、以後出品を続けた。9月第14回二科展に「室内裸婦」「坂の風景」を出品。昭和3年 1930年協会洋画研究所(東京市外代々木山谷160 山谷小学校前)が設立され、里見勝蔵、前田寛治、林武らと数十名の研究生を指導、風景画を担当した。9月第15回二科展に「塔のある風景」「画室の静物」「S嬢肖像」を出品。昭和4年 1月1930年協会第4回展に「男の肖像」「断崖」など7点出品す。大阪で渡欧記念の個展開催す。4月渡欧す。7月パリに到着、アレジアの塔やサクレ-ル寺院の見える部屋に落着く。グラン・ショミエ-ル画塾の自由な雰囲気を好み、自己の制作の方向をつかみ始めた。隣室に木下孝則がいた。ブルタ-ニュ地方に写生旅行す。9月第16回二科展に「水車」「奈良風景」「父母の肖像」を出品。昭和5年 1月木下孝則と南仏旅行し、クロ・ド・カ-ニュに伊藤廉の訪問を受く。間もなくパリに帰る。この年から同7年までサロン・ド-トンヌ、アンデパンダン展に出品した。このころカンバスに代えて紙を使い、絵具は薄塗りで明るく冴えた色感と単純化された造形の近代的感覚を目指した。また一時期、すべての絵具に墨をまぜて色調をととのえ、瀟洒な効果をねらった。11月独立美術協会の創立に際し参加を求められたが態度を保留した。昭和6年 2月リヨンに滞在し、夏ノルマンディに旅行す。この旅行に取材したサロン・ド-トンヌ出品の「ベルク-ル広場」「港のカフェ」は好評を博し、「港のカフェ」は政府買上となり、パリ市庁の美術館に納められた。その後イギリスに旅行す。9月二科会会友に推さる。昭和7年 パリで海老原喜之助、森田勝などと交遊する。富永惣一とロンドン、オランダ、ドイツに遊ぶ。板倉準三を加え、3人でイタリア、シシリ-およびギリシャを旅行す。また、スペインにも旅行し、グレコとヴエラスケスに感動す。サロン・ド-トンスに「巴里の眺」「門」など大作を出品。パリ、ヴィニヨン画廊での個展契約あり、大いに制作中、夏の終り頃左眼の故障を知り、治療す。個展制作を中止す。昭和8年 3月第3回独立展開催中に帰国。二科会会友を辞し、独立美術協会会員となる。昭和9年 3月第4回独立展に「カフェテラス」「門」「トレド風景」「青衣の女」「港のカフェ(下図)」「七月十四日祭(モンパルナス)」の滞欧作6点が特別陳列される。(独立美術15『野口弥太郎特集』以後毎回同展に出品を続ける。都新聞に挿絵を連載する。左眼の治療に専念する。昭和10年 3月第5回独立展に「リヨンの橋」「巴里の眺」(ともに昭和6年作)「カーニュ風景」を出品。3月東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「父母の肖像」(二科出品より自選)を出品。10月独立秋期展に「風」を出品する。昭和11年 4月第6回独立展に「秋の風」「ギリシャ印象」を出品。6月個展を開催(20-24日、大阪・美術新論社画廊)。11月独立秋季展に「日光紅葉」を出品する。昭和12年 3月第7回独立展に「夜のレストラン」「南方の庭」「I氏肖像」を出品。3月独立全会員小品展に「グレコの家」他を出品。4月明治、大正、昭和三聖代名作美術展に「港のキャッフェー(下絵)」を出品する。昭和13年 3月第8回独立展に「スペインの子供達」「蕃人」「夜のレストラン」を出品。昭和14年 3月第9回独立展に「東北の人々」を出品。10月独立秋季展に「静物」を出品する。昭和15年 3月独立第10回記念展に「父の肖像」「港の朝」「札幌の屋根」「利尻富士」「青衣の女」を出品。5月個展を開催(18-21日、銀座資生堂、石原求龍堂、兜屋主催)、「南方の町」「巴里祭」など10余点を出品。10月紀元二千六百年奉祝美術展に委員として「アイヌの家族」を出品する。昭和16年 3月第11回独立展に「婦人肖像」「山と家」「軍人肖像」を出品する。昭和17年 3月第12回独立展に「上海」「Y氏肖像」「仏蘭西租界の眺」「婦人肖像」「黄浦江」を出品。上海に旅行し、7月上海風物個展(19-22日、銀座資生堂)を開催、「上海ガーデンブリッヂ」など25点を出品する。昭和18年 3月第13回独立展に「北越漁村」「S氏肖像」「山村雪景」「街道雪景」「キリン山雪景」を出品。このころ満州に旅行す。昭和19年 2月第14回独立展に「庄内の町」「働く人々」「海辺の神社」を出品。5月独立会員展に「海辺の喜び」を出品。11月個展を開催(20-26日、銀座美交社)。11月戦時特別文展に「田園小憩」を出品。12月川口軌外、中川紀元、児島善三郎らと6人展を開く(9-13日、銀座資生堂)。昭和21年 3月第1回新興美術展に「リヨンの橋」「ベルクール広場」などを出品。4月内田巌、福田豊四郎ら各派進歩的美術家らと日本美術会を創設し、委員となる。昭和22年 4月第15回独立展に「漁村の家」「農家の女」を出品。5月第1回現代美術総合展に出品、以後出品を続ける。6月第1回美術団体連合展に「江の浦風景」「漁村」「農家の庭」などを出品、以後5回展(最終)まで毎回出品す。6月大河内信敏、川端実、朝井閑右衛門らと洋画研究団体新樹会を結成、第1回展を日本橋三越で開催す。昭和23年 3月個展開催(日動画廊)。10月第16回独立展に「函館港」「唐津港」「岩内風景」を出品。10月近作油絵個展を開催す。(丸善画廊)。昭和24年 2月第1回アンデパンンダン展に「長崎の港」「若い女の肖像」などを出品、以後出品を続ける。5月水彩展開催(数寄屋画廊)。10月個展開催(丸善画廊)。昭和25年 1月現代美術自選代表作15人展に出品。10月第18回独立展に「港の広場(釧路)」「上場と山(日鋼室蘭)」「アイヌ老夫婦」を出品。10月個展を開催す(資生堂)。昭和27年 日本大学芸術学部教授となる。5月第1回日本国際美術展に「家と山」「黒ショールの女」などを出品す。以後毎回出品、7月熊谷守一、伊藤彪らと友誼的研究団体の白鳥会を創立、10月第1回展を開催(日本橋白木屋)、「2人の肖像」「波止場」などを出品す。8月阪神風物展(大阪梅田画廊)を開催す。10月第20回独立展に「橋のある風景」「裸女」「海」を出品す。昭和28年 第2回インド国際美術展に出品す。10月第21回独立展に「幼年像」「雲仙」を出品す。昭和29年 5月第1回現代日本美術展に「オランダ坂にて」「国際大通り」など出品。滞欧中を除き毎回出品す。昭和30年 日本橋高島屋で個展を開催、戦後10年の代表作(水彩を含め34点)を展観す。10月第23回独立展に「風景」「裸婦立像」を出品。昭和31年 10月第24回独立展に「花のある静物」「黒と白の静物」を出品す。昭和32年 10月第25回独立展に「アトサスプリ(硫黄山)」「オイナオシ浜」を出品す。昭和33年 第2回国際具象派美術展に「教会のある風景」「硫黄山(黄)」を出品、以後出品を続ける。10月第26回独立展に「目鏡橋(諫早)」「港」を出品す。昭和34年 10月第27回独立展に「諫早の目鏡橋」「日蓮上人像」を出品。11月神奈川県立近代美術館で鳥海青児との二人展開催さる。(美術手帖10月号「野口弥太郎」)。昭和35年 5月再び渡欧。6月第30回ヴェ二ス・ビエンナーレを見てパリに赴く。昭和36年 春スペインに旅行す。6月パリのマルセル・ベイネイム画廊で個展を開催、水彩を含め43点出品、レイモン・シャルメの推薦を受く。8月再びヴェニスに旅行。昭和37年 4月帰国す。国際形象展組織され、同人として参加、「まひるのグラナダ」「カーニュの古城」を出品、以後毎回出品を続ける。昭和38年 4月滞欧作品展および滞欧スケッチ展(銀座松屋)を開催。(画集『野口弥太郎滞欧作 1960-62』)。10月第31回独立展に「おまつり」を出品す。昭和39年 1月第31回独立展出品の「セビラの行列(おまつり)」および滞欧作品展の諸作に対し、第5回毎日芸術賞が授与さる。3月野口弥太郎展(日本橋白木屋)が開催され、初期から第二次滞欧作まで56点が展示される。(三彩3月号「野口弥太郎特集」、美術グラフ5月号「野口弥太郎を語る」)。10月第32回独立展に「長崎の風」を出品す。昭和42年 10月第35回独立展に「三人のアイヌ」を出品。昭和44年 第一次渡欧以来の左眼が再び悪化し治療に専念す。昭和45年 3月バリ島に写生旅行す。昭和46年 4月「近代日本美術における1930年展」(東京国立近代美術館)に「夜のテラス」「ベルクール広場」「フレンチカンカン」が出品さる。10月第39回独立展に「シャトーと馬」を出品。昭和47年 3月「那智の滝」で第23回芸術選奨文部大臣賞を受賞す。9月東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に「オランダ坂」「踏絵」「セビラの行列」が出品さる。10月第40回独立展に「那智の火祭」を出品す。昭和50年 10月第43回独立展に「タンジ-ルにて」を出品。11月日本芸術院会員となる。昭和51年 3月23日没(この年譜は『野口弥太郎画集』(昭和54年5月刊行予定日動出版)所収年譜を参照した。)
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没年月日:1976/02/25 洋画家、日展評議員、一水会常任委員納富進は、2月25日午後7時5分食道ガンのため長崎大学付属病院で死去した。享年64。明治44(1911)年5月12日佐賀県鹿島市に生まれた。昭和10年文化学院美術部を卒業、在学中の同8年第20回二科展に「青根風景」が初入選したが、同12年一水会展に初入選、同18年「北国」で一水会賞を受賞、また、同16年第4回文展に「故郷雨期」が初入選、翌17年文展で「往還」が岡田賞を受賞するなど、以後一水会展、日展を中心に作品発表を行った。戦後郷里鹿島市に居住したが、三鷹市にもアトリエを構え、主に村の風物をモチーフに簡明でおおらかな画風を築いていった。同36年一水会常任委員となり、同41年日展評議員となった。同44年第1回改組日展に出品した「竜王峠」で文部大臣賞を受賞、同45年佐賀県文化功労賞を受けた。また、浮立亭の筆名で随筆もよくした。没後、勲四等瑞宝章が贈られ、同52年には佐賀県立博物館で遺作展が開催された。
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没年月日:1976/01/23 洋画家、二紀会理事森英は、1月23日午後10時14分肝臓ガンのため東京、関東中央病院で死去した。享年68。明治40(1907)年3月31日香川県三豊郡に生まれ、昭和7年東京美術学校西洋画科卒業。同年からニ科会に出品したが、戦後同21年ニ紀会創立に参加し、以後同会の主要なメンバーとして活躍した。この間、同31年渡欧、同36年から38年までは壁画研究のため欧州、アメリカ、メキシコに滞在、帰国後同41年にかけて油絵としては世界最大の高さ3m幅33mの壁画「ル・ソレイユ」を宇都宮市の足利銀行本店に完成したのをはじめ、同45年観音寺市民会館壁画「タクロボ、宇宙賛歌」、同49年新宿住友ビル壁画「太陽」、同年成田ビューホテル壁画「星座」、同51年成城学園講堂壁画「武蔵野早春」など、つぎつぎに巨大な壁画を完成した。このほか代表作に「星座」三部作など。
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没年月日:1976/01/05 日本美術家連盟名誉会員の洋画家伊原宇三郎は、1月5日午前9時5分、糖尿病、肺炎のため東京都狛江市の東京慈恵医大病院で死去した。享年81。伊原宇三郎は、明治27(1894)年10月26日、徳島市に生まれ、大正4年大阪府立今宮中学校を卒業、藤島武ニに師事して、大正10(1921)年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中の大正9年第2回帝展に「明装」が初入選、翌10年第3回帝展に「よろこびの曲」が入選した。大正14(1925)年の春に渡欧、フランスに4年半ほど滞在し、帰国後、昭和4(1929)年に第4回1930年協会展に出品、また第10回帝展に出品した「椅子によれる」、第11回展「二人」、第12回展「榻上ニ裸婦」が連続特選となった。昭和9年以降は帝展文展審査員を十数回にわたりつとめた。また昭和5年から7年まで帝国美術学校教授、昭和7年から19年まで、東京美術学校油画科の助教授として後進の指導にあたったが、一方、昭和13年には貴族院に依頼されて「憲法発布50年祝賀式典」の制作、また報道画家として昭和13年には北中国に従軍して「圧倒」、14年中部中国、15年から16年には南中国から東南アジヤの各地に従軍し「サイゴンに於ける艦上の停戦協定」、17年にはマライ、ジャワ、ビルマに従軍し、「マンダレー入城とビルマ人の協力」を制作、18年には香港で「酒井・キングの会見」、同年ビルマの「バーモ長官像」を制作した。戦後は、昭和23年から3年間多摩造形芸術専門学校教授をつとめ、翌24年日本美術家連盟の設立に尽力し、設立後は代表理事、委員長などをつとめ、日本著作権協議会委員としても美術家の権利擁護のために、また昭和26年には国立近代美術館設置準備委員としても活躍した。その後も日本ユネスコ国内委員会、28年には国際造型美術家連盟日本委員会委員長となり、29年ヴェニス・ビエンナーレ日本館建設につくし、ビエンナーレ日本代表として渡欧、約1年間ヨーロッパに滞在した。そのほか、ブリヂストン美術館運営委員、美術家会館建設委員などをもつとめた。昭和35年フランス政府よりオルドル・デザール・エ・レトル勲章をおくられている。戦後の作品には「由利子とミミ」(昭和27年)「丘」(昭和33年)などがある。
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没年月日:1976/01/02 洋画、水彩画家、一水会会員、日本水彩画会評議員別車博資(本名繁太郎)は、1月2日心筋こうそくのため死去した。享年75。明治33(1900)年9月2日神戸市で生まれた。兵庫県立工業学校機械科卒業。大正9年から油彩、水彩画の独習をはじめ、昭和5年から日本水彩画会に出品するとともに、国枝金三、石井柏亭に師事、同7年日本水彩画会第19回展で第一賞受賞、会員に推挙され、また二科会にも出品した。同9年関西水彩画会の創立に参画、同12年一水会第1回展に出品、以後同会に所属し同25年一水会会員となった。また、同49年には、日本水彩画会評議員に推された。水彩による風景を得意とし、神戸をはじめ兵庫県下の風物を多く描いた。同41年には兵庫文化賞を受賞した。
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没年月日:1975/11/26 特異な画風でしられた洋画家の地主悌助(号、白道)は、11月26日午後0時33分、老衰のため神奈川県中郡の自宅で死去した。享年86歳。地主悌助は、明治22(1889)7月12日、山形県鶴岡市に生まれ、明治38年(1905)山形県立荘内中学校を中途退学し、大正元年(1912)上京し、翌2年坂本繁二郎を訪問、師事した。大正3年、(1914)、文部省中等校図画教員検定試験に合格し、大正4年秋田県師範学校教諭となった。大正13年(1924)山口県女子師範学校教諭に転任し、さらに翌14年郷里の山形県立鶴岡中学校教諭に転任し、昭和27年(1952)の退職まで図画教師として勤務した。昭和29年(1954)住居を神奈川県に移して制作に専念、昭和31年(1956)日本橋丸善で最初の個展を開催し、小林秀雄に認められた。以後、毎年、東京画廊、現代画廊、丸善、壺中居、日本橋高島屋、いとう画廊、日本橋白木屋、日動画廊、フジアート・ギャラリー、資生堂画廊で個展を開催、昭和45年(1970)には大阪の梅田画廊阪急三番街店でも開催した。昭和46年(1971)、新潮社の第3回日本芸術大賞を日本画の石本正とともにうけた。同年には秋田市立美術館をはじめ、梅田画廊、せきかわ画廊などで個展、47年(1972)には梅田画廊、銀座美術館で個展、48年梅田画廊、せきかわ画廊で個展を開催した。終始、無所属として個展のみで活躍し、作品の題材も石、瓦、紙、野菜など身辺の限られたものだけを描きつづけて注目された。
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没年月日:1975/11/23 日展参与、示現会代表であった洋画家の奥瀬英三は、23日、午前9時10分、肺気しゅのため浦和市内の浦和市立病院で死去した。享年84歳。奥瀬英三は、明治24年(1891)2月28日、三重県上野市に生まれ、京都市立第一商業学校に入学したが、明治42年(1909)中途退学し、明治45年(1912)5月上京、太平洋画会研究所に入所し、約5年間研修した。大正3年(1914)第8回文展に「植物園」が初入選となり、大正5年第10回文展以降、毎回文展、帝展に出品、入選となり大正14年(1925)第6回帝展に「妍花図」「庭」を出品、「庭」特選となり、昭和2年(1927)8回帝展で「真夏の庭」が再度特選、無鑑査となった。一方、大正6年(1917)には太平洋画会会員となり、大正13年には槐樹社結成に参加した。昭和4年(1929)10回帝展審査員、同16、18年4、6回新文展でも審査員をつとめた。昭和13年、海軍従軍画家として中国の漢口方面に従軍、昭和17年にも海軍報道班員としてジャワ方面に従軍した。戦後は、昭和22年(1947)、石川寅治、三上知治らと太平洋画会を退会して示現会を結成、49年以後代表となりまた日展に出品して33年(1958)には評議員、のち45年参与となった。昭和35年には埼玉文化賞をうけ、同43年には勲四等瑞宝章をうけた。昭和46年2月、傘寿記念奥瀬英三展が開催された。出品作品略年譜大正3年(1914) 8回文展 植物園大正5年 10回文展 路傍の竹林大正6年 11回文展 初秋風景大正7年 12回文展 菜園大正8年 1回帝展 松林の一部大正9年 2回帝展 郊外の初秋大正10年 3回帝展 椎の樹の風景大正11年 4回帝展 母と子大正13年 5回帝展 窓際の静物大正14年 6回帝展 妍花図、庭(特選)大正15年 7回帝展 静物図、緑陰(特選)昭和2年 8回帝展 真昼の庭(特選)昭和3年 9回帝展 春昼昭和4年 10回帝展 伊豆の海昭和5年 11回帝展 春日野昭和6年 12回帝展 室内昭和7年 13回帝展 老松昭和8年 14回帝展 山湖の春昭和9年 15回帝展 静㵎昭和11年 招待展 春(文部省買上げ)昭和12年 1回文展 昼の月、33回太平洋展 土用波昭和13年 2回文展 鰯船昭和14年 3回文展 湖昭和15年 奉祝展 山村初夏(東京府買上げ)昭和16年 4回文展 山村麗日昭和17年 38回太平洋展 丘麓の冬昭和18年 6回文展 稔昭和19年 戦時特別展 八月の海昭和21年 1回日展 早春昭和21年 2回日展 柿昭和22年 3回日展 蔬菜昭和23年 4回日展 磯昭和24年 5回日展 漁村の夕昭和25年 6回日展 松の丘昭和26年 7回日展 みのり昭和27年 8回日展 下田風景昭和28年 9回日展 早春浅間昭和29年 10回日展 渓谷昭和30年 11回日展 浅春昭和31年 12回日展 若葉昭和32年 13回日展 甲斐駒初夏昭和34年 改組2回日展 武蔵野路昭和35年 3回日展 岩壁 13回示現展 妙高初秋。昭和36年 4回日展 雲昭和37年 5回日展 遅日昭和38年 6回日展 五月信濃路 16回示現展 夕月昭和39年 7回日展 麦秋 17回示現展 干潮昭和40年 8回日展 秋立つ 18回示現展 残照昭和41年 9回日展 山村永日 19回示現展 八ヶ岳晴雪昭和42年 10回日展 残雪白馬 20回示現展 伊豆の岩山昭和43年 11回日展 新緑信濃路 21回示現展 春耕昭和44年 再改組1回日展 山村の春 22回示現展 潮昭和45年 2回日展 渓谷初秋 23回示現展 雲と甲斐駒昭和46年 24回示現展 晩秋昭和47年 4回日展 連嶺晩秋 25回示現展 初冬荒磯昭和48年 5回日展 初夏信濃路 26回示現展 荒磯昭和49年 6回日展 遅日 27回示現展 夏山昭和50年(1975) 7回日展 初秋山雲 28回示現展 山村の春
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没年月日:1975/07/14 二紀会同人の安部治郎吉は、7月14日心不全のため死去した。享年75歳。明治33年(1900)2月19日、大分県宇佐郡に生まれ、安心院小学校卒業。上京して、在京二科会会員が指導した二科技塾(昭和4年創設)で主として石井柏亭、熊谷守一に学び、昭和4年第16回二科展に「展望街景」が入選、以後、同5年17回展「滞船」、同7年19回展「清流」「裸女」、同8年20回展「石膏」、同9年21回展「湖畔」、同10年22回展「白い孔雀」「鯉」、同11年23回展「熊」、同12年24回展「豹」「二人」、同13年25回展「海風」「緑の庭」、同14年26回展「白い熊」「夏の宵」、同15年27回展「馬と少年」「庭」、同16年28回展「早春」「雨後(金剛山)」この年に会友に推挙され、翌17年29回展「友達」を出品した。太平洋戦後は、昭和22年、第二紀会創設に参加し、同人となった。二紀会出品の主要作品はつぎのとおりである。昭和23年(1948)第2回展「山時雨る」、同25年4回展「秋色」、同28年7回展「雪景」、同29年8回展「月」、同34年13回展「晩秋」、同39年18回展「あぢさいの庭」、同41年20回展「落月」など。晩年は二紀会に所属したままだが、出品はみられなかった。
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没年月日:1975/06/23 独立美術協会会員、東京芸術大学名誉教授の洋画家、林武は、6月23日午後5時41分、肝臓しゅようのため東京西新橋の慈恵医大付属病院で死去した。享年78歳。林武は、本名を武臣、明治29年(1896)、代々国学者であった家に生まれ、父甕臣も国学者で華族女学校(女子学習院の前身)で国語国文学を講じたこともあり、「言文一政会」を組織するなど国語問題に激しく情熱をそそいだ人物であった。後年、武が国語問題に関心を示したのはこの父の影響による。東京市牛込区余丁町小学校の同級生に東郷青児がいた。明治43年(1910)早稲田実業学校に入学したが、家計を助けて苦学し労働のために病気となり在学1年を満たずに退学、大正2年(1913)には歯科医の助手となり歯科医を志望、さらに文学を志し、新聞、牛乳配達などに従事し、大正8年(1819)画家になることを決意し、翌9年日本美術学校入学したが、同年末には退学した。この年(大正10年)、第9回二科展に『婦人像』が初入選となり、同時に樗牛賞をうけた。またこの年に渡辺幹子と結婚している。幹子夫人はその後の武の画業の進展に献身的につくし、その夫婦愛はしばしば世評にあげられたところである。大正10年から昭和5年まで(1921~30)、二科展に出品すると同時に、その間に萬鉄五郎・小林徳三郎を中心とする円鳥会展、前田寛治、里見勝らの1930年協会展に出品している。昭和5年(1930)、独立美術協会結成に参加し、以後、没するまで同会に所属して活躍した。独自の構成理論と絵画に対する烈しい情熱と執着は他の追随を許さない個性的な作品をつくりあげることになったが、また初期から晩年にいたるまで内外の他の画家たちからの影響を多くうけてきたことも事実で、初期には岸田劉生、ついでセザンス、フォーヴィスム、キュービスムの影響をうけ、昭和9~10年(1934~35)の第1回渡欧をへて前半期の様式的完成をみるが、第2次大戦後にいたってもビュッフェ、フォートリエなどから多くを学んでいる。戦後、『星女嬢』『真横向き』など一連の人物像が注目を集め、昭和24年(1949)『梳る女』で第1回毎日美術賞をうけ、同27年には、安井曾太郎・梅原龍三郎のあとをうけて東京芸術大学教授に就任、画壇的、社会的地歩を確立させた。昭和31年第2回現代日本美術展では大衆賞をうけ、同34年には第15回日本芸術院賞、同42年第37回朝日賞を受賞し、また同年秋には文化勲章をうけている。戦後の1940年代後半から60年代にかけて、少女像、十和田湖、浅間山、富士山などの風景画によって一時代を劃した画家であった。年譜明治29年(1896) 12月10日東京市麹町区に生まれる(生年月日については同年11月30日との説もある)。明治42年 牛込区余丁町小学校を卒業。明治43年 早稲田実業学校に入学。過労のため病気にあり1年未満で中退。大正2年 歯科医斎藤信一の助手となる。東京歯科医学校に入学。大正9年 4月、日本美術学校に入学、12月まで修学。大正10年 第8回二科展に『婦人像』入選、樗牛賞を受賞。渡辺幹子と結婚する。大正11年 3、月平和記念東京博覧会に«婦人像»を出品し、褒状を受賞する。9月、第9回二科展に«静物»«本を持てる婦人像»«静物»を出品し、二科賞を受賞する。この年、代々木に移る。大正12年 1月、万鉄五郎を中心に円鳥会が結成され、児島善三郎らと参加。6月、円鳥会第1回展に«静物»«花»«肖像»«風景»«風景»を出品。9月、第10回二科展に«女の顔»«鍋のある静物»を出品。この年、転居したが、関東大震災に遇い、しばらく神戸に滞在して制作する。大正13年 4月、円鳥会第2回展に«静物»を出品。9月、第11回二科展に«静物»«神戸風景»を出品。大正14年 9月、第12回二科展に«静物»«野菜等の静物»を出品。10月、円鳥会第4回展に«婦人像»«姉妹»など5点を出品。大正15年 6月、1930年協会会員となる。9月、第13回二科展に«静物»«落合風景»«文化村風景»を出品し、会友に推される。この年、市外に転居する。昭和2年 6月、第2回1930年協会展に«顔»を出品。昭和3年 2月、第3回1930年協会展に«女の顔»を出品。9月、第15回二科展に«裸婦(1)»«裸婦(2)»«横われる女»«静物»«男の顔»を出品。昭和4年 1月、第4回1930年協会展に«女の顔»«女»«ポートレエ»を出品。9月、第16回二科展に«ブルーズを着た女»«扇を持てる女»«少女坐像»«臥せる裸体»«花(1)»«花(2)»を出品。この年、転居する。昭和5年 1月、第5回1930年協会展に«風景»«静物»など新作3点と旧作をあわせて41点を出品。3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に«花»を出品。9月、第17回二科展に«静物»«花»«肖像»«裸婦»«花と裸婦»を出品。11月、二科会を去り、同志と共に独立美術協会を創立する。昭和6年 1月、第1回独立美術協会展に«婦人像(1)»«婦人像(2)»«裸婦»«静物(1)»«静物(2)»«少女と花»«花»を出品。9月、独立美術協会秋季展に«海»を出品。昭和7年 3月、第2回独立展に«白岸風景»«婦人像»«断崖»«少女像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。10月、独立美術協会第2回秋季展に«静物»を出品。独立美術協会編「独立美術1」、林武特輯(建設社)刊行される。12月、亡父の遺著『日本語原学』を建設社から出版する。昭和8年 3月、第3回独立展に«花»«肖像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。10月、東京日本橋・三越において個展を開催する。昭和9年 3月10日、門司出帆の靖国丸で渡欧し、パリのアトリエで制作するかたわら、ベルギー、オランダ、イギリス、ドイツおよびスペインの各地を見学する。3月、第4回独立展に«花»を出品。昭和10年 4月、東京府美術館開館10周年記念現代綜合美術展覧会に«少女像»«1932»を出品。4月、帰国する。10月、独立美術協会第5回秋季展に«ノートルダム»を出品。この年、中野区に画室を構える。昭和11年 4月、第6回独立展に«コワフューズ»«椅子による裸婦»«立てる裸婦»«ポーランドの女»«踊り子»«裸婦»«梳る裸婦»«ニース»«オランダの娘»«シュールモラン»«スペインの老女»«黄衣»«アッシジ»«カテドラル・ド・シャトル»«ノートルダム»など滞欧作15点を出品。11月、独立美術協会秋季展に«フローレンス»を出品。昭和12年 3月、第7回独立展に«フロレンス»«野外裸婦»«婦人像»«ヴェニス»を出品。4月、明治大正昭和三聖代名作美術展(大阪市立美術館)に«裸婦»(1933)を出品。7月、大阪・松坂屋において滞欧油絵展を開催する。昭和13年 3月、第8回独立展に«ルパシカを着た女»«裸婦»を出品。10月、大阪・美交社において近作個展を開催する。出品22点。独立美術協会秋季展に«海景»を出品。昭和14年 3月、第9回独立展に«室戸岬風景»«室戸岬風景»を出品。10月、独立美術協会秋季展に«ダリヤ»を出品。昭和15年 3月、第10回独立展に«女の顔»«姉妹»«婦人像»«海»«鮭の静物»を出品。10月、紀元二千六百奉祝美術展覧会に«肖像»を出品。昭和16年 3月、第11回独立展に«卓上静物(1)»«卓上静物(2)»«肖像»を出品。昭和17年 3月、第12回独立展に«菊花»«静物»«肖像»«栗»«洋菊»を出品。10月、独立美術協会秋季展に«花»を出品。昭和18年 3月、第13回独立展に«肖像»«静物»«バラ»«小菊»«カーネーション»を出品。昭和19年 2月、第14回独立展に«アネモネ»«茶碗とブドウ»«静物»を出品。西多摩郡に疎開、この前後、構図法の研究に没頭した。昭和21年 1月、中野のアトリエに帰る。4月、独立美術自由出品展に«花(菊)»«花»を出品。昭和22年 4月、第15回独立展に«花(1)»«花(2)»«風景»を出品。5月、柴田ギャラリーにおいて個展を開催する。6月、第1回美術団体連合展に«婦人像»を出品。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に«婦人像»を出品。10月、第16回独立展に«花»«静物»«花»«星女嬢»«静物»を出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に«梳る女»を出品。10月、第17回独立展に«真横向き»«静物(1)»«静物(2)»«卓上花»«K子像»を出品。11月、«梳る女»(第3回美術団体連合展出品)をはじめとする画業に対し、第1回(昭和24年度)毎日美術賞を贈られる。昭和25年 3月、北荘画廊において個展を開催し、«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»などを出品。3月、第1回秀作美術展に«真横向き»を出品。5月、第4回美術団体連合展に«裸婦»を出品。10月、第18回独立展に«静物»«裸婦»«横向婦人像»を出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»を出品。5月、第5回美術団体連合展に«鏡をもつ女»を出品。10月、第19回独立展に«裸婦»«造船所風景»«裸婦»«逗子風景»を出品。昭和27年 1月、第3回秀作美術展に«鏡をもつ女»を出品。3月、東京芸術大学美術学部教授に迎えられる。5月、第1回日本国際美術展に«静物A»«静物B»«静物C»を出品、サロン・ド・メに«静物A»«静物B»«顔»を出品。10月、第20回独立展に«横顔»«A子像»«F子像»を出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に«静物»を出品。5月、第2回日本国際美術展に«粧える女»を出品。9月、国立公園絵画展に«十和田湖»を出品。10月、第21回独立展に«十和田湖»«横向少女»«十和田湖»«静物»を出品。昭和29年 1月、第5回秀作美術展に«静物»«横向少女»«粧える女»«十和田湖»を出品。5月、第1回現代日本美術展に«卓上静物A»«卓上静物B»を出品。6月、東京日本橋・高島屋において個展を開催し、«ネッカチーフの少女»など約50点を出品。10月、第22回独立展に«仰臥裸婦»«裸婦半身»を出品。第30回 1月、第6回秀作美術展に«ネッカチーフの少女»を出品。5月、第3回日本国際美術展に«女»«星女嬢»を出品。10月、第23回独立展に«見高浜»«婦人座像»«今井浜風景»を出品。昭和31年 1月、第7回秀作美術展に«見高浜»を出品。5月、第2回現代日本美術展に«伏目の女»«奈津子の像»を出品し、大衆賞を受賞する。7月、第1回日仏具象派美術展に«月ヶ瀬»«伊豆風景»«村の小学校»を出品。9月、東京銀座・松屋において林武デッサン展(朝日新聞社主催)が開催される。9月、毎日新聞社の依嘱によって原画を制作した大阪毎日会館壁画(大理石モザイク、矢橋六郎制作)が完成する。10月、第24回独立展(創立25周年記念)に«卓上花»«奥日光»«野外婦人»を出品。10月、兜屋画廊において林武壁画エチュード展が開催される。11月、大阪・梅田画廊において林武壁画原画展が開催される。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に«野外婦人»を出品。5月、第4回日本国際美術展に«裸婦»を出品。7月、現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に«梳る女»(1949)を出品。10月、第25回独立展に«赤衣の婦人»«熱海風景»を出品。昭和33年 1月、第9回秀作術展に«赤衣の婦人»を出品。2月、第2回国際具象派美術展に«静物A»«静物B»«熱海風景»を出品。5月、第3回現代日本美術展に«肖像»«裸婦»を出品。8月、第12回新樹会展に«裸婦»を出品。10月、第26回独立展に«婦人像»を出品。10月、東京日本橋・高島屋において回顧新作展を開催し、«ばら»«静物»«川奈風景»«舞妓»«クレロデンドロン»など新作33点、旧作147点計180点を出品。この年、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に«婦人座像»(1959)«十和田湖»(1953)«熱海風景»(1957)を出品、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に«静物»を出品。(共に外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)昭和34年 1月、第10回秀作美術展に«熱海風景»を出品、「戦後の秀作」展(国立近代美術館)に(1953)を出品。5月、第5回日本国際美術展に«座像»を出品。5月、前年開催した回顧新作展に対し、第15回(昭和33年度)日本芸術院賞を贈られる。8月、第13回新樹会展にを出品。10月、第27回独立展に«揺り椅子に坐す女»を出品。11月、毎日美術賞10年記念展に«梳る女»«女の顔»«横浜風景»«静物»«静物»を出品。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に«横浜風景»を出品。4月、第3回国際具象派美術展に«横浜風景»を出品。5月、第4回現代日本美術展に«ボンネットの少女»«座せる少女»を出品。5月、空路渡欧し、パリ、ヴァンスなどで制作を行なう。昭和36年 1月、第12回秀作美術展に«横浜風景»を出品。2月、滞欧作23点を携えて、空路帰国する。5月、第6回日本国際美術展に«ノートルダム»を出品。9月、東京日本橋・高島屋において滞欧作展を開催し、«エッフェル塔»«コペルニック»«サン・ポール»«南仏の家»«ヴァンス»«崖の上の家»などを出品。10月、第29回独立展に«バラA»«バラB»を出品。11月、日動画廊において滞欧デッサン展を開催する。昭和37年 1月、第13回秀作美術展に«ノートルダム»を出品。4月、第4回国際具象派美術展に«女A»«女B»を出品。5月、第5回現代日本美術展に«人物»を出品。8月、第16回新樹会展に«踊り子を出品。10月、国際形象展同人となり、第1回展に«立てる舞妓»«舞妓»を出品。10月、30周年記念独立展に«舞妓»«舞妓»を出品。昭和38年 1月、第14回秀作美術展に«立てる舞妓»を出品。5月、第7回日本国際美術展に«少女»を出品。10月、第2回国際形象展に«アトリエからの風景»«下田風景»«花»を出品、第31回独立展に«人物»«風景»を出品。12月、日動画廊において新作素描展を開催する。12月、東京芸術大学美術学部教授を定年退職する。この年、渋谷区にアトリエを新築転居する。昭和39年 1月、第15回記念秀作美術展に«ノートルダム»(第13回秀作美術展作品)を記念出品。5月、第6回現代日本美術展に«静物»«富士»を出品。9月、第3回国際形象展に«富士山»«静物»«熱海風景»を出品。10月、第32回独立展に«熱海風景»«三味線»を出品。昭和40年 1月、第16回秀作美術展に«富士山»を出品。5月、第8回日本国際美術展に«富士»を出品。10月、第4回国際形象展に«卓上静物A»«卓上静物B»«富士«冬の箱根»«静物»を出品、第33回独立展に«静物»«富士»を出品。著書「美に生きる」(講談社現代新書・60)刊行。昭和41年 5月、第7回現代日本美術展に«海»を出品。8月、第20回新樹会展に«花»を出品。10月、第5回国際形象展に«裸婦»«人物»«伊豆伊浜A»«伊豆伊浜B»«伊豆伊浜C»«花»«妻の像»を出品、第34回独立展に«滝富士»«婦人像»を出品。昭和42年 1月、«裸婦»にいたる具象絵画の業績に対し、第37回朝日賞(文化賞)を贈られる。5月、第9回日本国際美術展に«人物»を出品。10月、第35回独立展に«裸婦»«赤富士»を出品。11月、文化勲章を受ける。11月、第6回国際形象展に«石廊崎»«富士山»«少女»«花»«静物»を出品。昭和43年 5月、第8回現代日本美術展に«パークウエー富士»を出品。10月、第7回国際形象展に«怒濤»«波»を出品、第36回独立展に«少女»«岩と波»を出品。昭和44年 5月、第9回現代日本美術展第一部門「現代美術20年の代表作」に«梳る女»(1949)«海»(1966)を出品。10月、第8回国際形象展に«ばら»«花帽子の少女»«ばら»«海»«海»を出品、第37回独立展に«婦人像»«富士»を出品。11月、資生堂ギャラリーにおいて「林武のアトリエ」展が開催される。昭和45年 1月、八樹会展(日動画廊)に«ばら»を出品。4月、毎日新聞社主催「日本巨匠二十人展」(大阪・大丸)に«怒濤»(1968)«ばら»(1969)«赤衣の少女»(1969)«富士»(1970)を出品。5月、大阪梅田・阪神百貨店において画業五十年記念「林武展」(毎日新聞社主催)が開催される。1922年から1970年にいたる代表作約120点を出品。10月、第38回独立展に«花帽子の裸婦»を出品。10月、第9回国際形象展に«憩える踊り子»を出品。昭和46年 3月、国語問題協議会会長となる。9月、池袋モンパルナス展(池袋・西武百貨店)に«少女像»(1931)を出品。10月、第39回独立展に«少女»を出品。昭和47年 2月、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌―」展(東京国立近代美術館)に«ノートルダム»(1960)«パークウエー富士»(1968)を出品。9月、第11回国際形象展にを出品。9月、東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に«十和田湖»(1953)«ノートルダム»(1961)«少女»(1963)を出品。10月、第40回独立展に«少女白衣»«花»を出品。昭和48年 3月、日美の流れ展(東京セントラル美術館)に«多摩川上水»(1922)«緑衣の女»(1931)«バラ»(1973)を出品。10月、第41回独立展に«花(薔薇)»«花(向日葵)»を出品。昭和49年 3月、山種美術館特別展「舞妓の美―日本の抒情と造形―」に«立てる舞妓»(1962)を出品。昭和50年 3月29日、滋恵会医科大学付属病院に入院する。6月23日、肝臓がんのため同病院で死去する。従三位に叙され、銀杯一組を贈られた。6月28日、青山葬儀所において、野口弥太郎が葬儀委員長となり、独立美術協会葬が行われる。10月、林武展委員会、毎日新聞社主催により日本橋高島屋において“この不屈の人 林武展”開催される。(本年譜は、「この不屈の人 林武展」目録収載の土屋悦郎編、林武年譜から転載、少し追加した。)
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没年月日:1975/06/08 洋画家の鈴木満は、6月8日午後4時25分、原発性肝ガンのため、東京・築地の国立がんセンター病院で死去した。享年62歳。鈴木満は、大正2年(1913)3月5日、静岡県田方郡に父留吉、母もとの三男として生まれた。船原小学校(のち中狩野小学校)高等科から準教員養成所に入所。準教員養成所時代の図画教師大城鎮雄に画才を認められ、画家を志す。昭和3年、準教員養成所を卒業して上京、太平洋画会研究所に入所、同研究所は翌昭和4年太平洋美術学校となっている。昭和6年、第27回太平洋画会展に「婦人像」が初入選、翌7年28回展「果実を持てる」、8年29回展にも入選、この年太平洋美術学校本科を卒業した。また、この昭和8年第14回帝展に「首飾りの女」が入選となった。昭和9年30回太平洋画会展で奨励賞をうけ、翌10年31回展では「女」「猫と娘」を出品して中村彝賞を受賞し、太平洋画会会友に推挙された。昭和11年には32回太平洋画会展に「春」「恵美ちゃん」「寓話によるコンポジション」文部省美術監査展に「姉妹」が入選した。昭和12年、肺結核を病み、1年間療養生活をしいられる。昭和13年ころ、向井潤吉の第2アトリエを借りて制作をはじめ、昭和16年37回太平洋会展に「画室にて」を出品して受賞し、会員にあげられた。同年4回文展に「妹の肖像」、17年5回文展「青年士官」が入選となった。昭和18年39回太平洋画会展に「暮れゆく冨士」「習作」、陸軍美術展に「坑底に戦ふ」、6回文展に「武人古老」入選、後者は特選となった。昭和19年40回太平洋画会展「第一線」を出品、陸軍美術展に「学徒出陣」を出品、情報局長賞をうける。また文部省主催戦時特別美術展に「神芒」を招待出品。昭和20年敗戦のあと9月に喀血し、郷里の伊豆に帰って療養生活に入る。昭和22年10月、示現会結成に病気療養中ながら創立会員として参加した。(昭和31年に退会)。昭和23年5月、再度上京し、青木純子と結婚、町田市に居住した。静養のかたわら玉川学園出版部発行の図書の挿図などを描いた。昭和26~29年に日展に出品、第7回展「裸婦」、第8回展「路傍」、第9回展「玉葱と女」、第10回展「或る日のA先生」がそれぞれ入選となった。昭和30年には町田市中央劇場の緞帳の原画を制作したが、31年結核が再発し再び療養生活に入り、かたわら自由なデッサンなどをとりはじめる。昭和35年に約1年間入院生活をおくったが、その間の化学療法のために肝炎を併発した。昭和43年3月、2ヶ月間の予定で妻、義妹とヨーロッパ旅行に出発したが、同行者の帰国後もパリに滞在し、パリを根拠地にしてイタリア、スペインなどを旅行し、昭和44年秋に帰国した。帰国後は制作に没頭し、昭和46年3月、向井潤吉の推めで第1回個展を東京日本橋の高島屋で開催、また日動画廊第1回三月会展に「吟遊詩人と城」出品。昭和47年4月第1回八珠会展(織田広喜、中村直人、宮崎進など。日本橋高島屋)に「雪後の母子」「月の出の人々」出品。昭和48年第2回八珠会展「雪後」出品。兜屋画廊で月と母子を主題にした作品により個展開催。昭和49年3月陽炎展(佐野繁次郎、中村直人、野間仁根など。上野松坂屋)に「青い樫と少女」「雪後の母子」「雪後風景」出品。第3回八珠会展「満月と母子」「水辺の女」出品。6月日本橋高島屋で“雪明りの人々”を主題した作品で個展開催。3月から10月までサンケイ新聞の連載小説遠藤周作『彼の生き方』の挿絵を担当する。昭和50年4月上野松坂屋で中村直人との二人展開催、その直前に入院。6月8日、国立癌センターで死去した。)
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没年月日:1975/06/07 洋画家水戸敬之助は、6月7日死去した。明治36年7月9日秋田県に生れ、東京高等工芸学校卒業後太平洋画会研究所に学び、その後文部省中等教員西洋画科検定に合格し、戦前は東京中和国民学校に図画教員として勤務した。太平洋画会々員で、同会に出品のほか文展にも発表し、昭和5年には詩集「氷河」を発刊している。主要出品目録日展少年 昭和22年(1947)聖書の話 昭和29年(1954)ヴァイオリン 昭和35年(1960)オルゴール 昭和41年(1966)室内 昭和46年(1971)ピノキオなど 昭和50年(1975)示現会日蝕の頃 昭和33年(1958)人物 昭和43年(1968)公園 昭和48年(1973)あやつり人形のある室 昭和51年(1976)
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没年月日:1975/05/31 国画会会員の洋画家、伊藤弥太は、5月31日午前0時5分、秋田県大館市で死去した。享年83歳。伊藤弥太は、明治25年(1892)4月6日秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館中学校を卒業後、明治44年(1911)に上京した。明治45年ころ友人らと美術雑誌『美の廃墟』を発行、6号までつづいたが、その後、岸田劉生に師事し、大正3年二科第1回展に入選、大正4年(1915)、現代の美術社主催第1回美術展(草土社第1回展にあたる)に「自画像」「風景1」「風景2」を出品した。劉生筆鉛筆デッサン「若き男の頭」(“Head of ayoung man, Riusei Kishida, 16th Feburuary 1915” の記入がある)のあることが知らされている。このころ、家財道具一切を盗難にあい、それが原因となって岸田劉生とのあいだに誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。昭和2年(1927)若山牧水らにうながされて再出発を決意し、上京、国分寺村に住み、同年の第8回帝展に「秋景」入選、翌3年9回帝展「山村風景」入選、同4年には千葉県に転居、さらに同5年には秋田市に転じ、同年11回帝展に「フォートイユによりて」を入選となった。昭和6年郷里の大館市に転じ、翌7年第2回独立美術展に「少女と金魚鉢」「室内裸婦(意匠風なる)」「窓に椅る人」入選、以後、3回展「紫姿」、4回展「肖像」「裸婦」、5回展「婦人像」、6回展「ピアノ」を出品入選となった。昭和14年(1939)からは国画会展に出品し、昭和33年32回展のとき会友、同39年に会員に推挙された。昭和44年(1969)秋田県文化功労賞をうけた。また、昭和24,25年ころから水墨画を描きはじめ、昭和46年には『伊藤弥太郎水墨画集』が出版されている。国展出品作品年譜昭和14年(1939)13回展「窓辺婦人」、14回展「楽人(夕映の部屋にて)」、15回展「裸婦花模様」、16回展「秋庭」、17回展「山」、18回展「駿河の春」、19回展「鶏」、昭和21年20回展「雪の森吉山を望む」「農夫」、21回展「炉辺」、24回展「梟」「村のNさん」、25回展「壜と枯向日葵」、26回展「梟と女」、27回展「画家と梟」、28回展「作品A、C」、29回展「絵画」、30回展「作品」、31回展「作品」、32回展「昆虫」「魔鳥」、33回展「作品1、2」、34回展「作品」「わが幼き日」、35回展「舞楽」、36回展「伝説の岩」「白い座」、37回展「考える木立ち」「石」、38回展「絵画」、明治40年39回展「ある天体」「作品」、40回展「男鹿夕瀬崎」、41回展「口野漁港」、42回展「北国の街」、43回展「松と岩」、44回展「長津呂港」、45回展「北国の街その2」。
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没年月日:1975/04/17 一水会会員、日本美術会員の洋画家、また漫画家、漫画研究家の須山計一は、4月17日午後11時58分、脳出血のため東京世田谷奥沢の大脇病院で死去した。享年69歳。須山は、明治38年(1905)7月17日、長野県下伊那郡に生まれ、昭和5年(1930)東京美術学校西洋画科を卒業。在学中は藤島武二教室に属し、一方、松山文雄にさそわれて麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画連盟に参加、昭和2年(1927)、柳瀬、松山の紹介でプロレタリア文芸連盟美術部に加盟し、学内では研究会五月会にはいって活躍した。その間に発表した作品には宇野計の名で出品した昭和3年(1928)第1回プロレタリア美術展「トーマを排撃せよ」、翌4年第2回プロ美術展「戦争」「宗教」「社会民主主義者A、B、C」、5年第3回展には無産者新聞連載の漫画「アジ太プロ吉世界漫遊記」、6年第4回展「アムステルダムの手先共」、7年第5回展「祖国」「村」などがある。美術学校卒業制作は「労働者」(のち、昭和38年“昭和初期洋画展”神奈川県立近代美術館、昭和46年4月“近代日本美術における1930年”展に出品された)であった。昭和8年ヤップ(日本プロレタリア美術家同盟)書記長、コップ(日本プロレタリア文化連盟)書記局員などをつとめ、同年12月検挙され、治安維持法違反で起訴、約1年間の未決生活をおくり、懲役3年執行猶予5年の判決をうけた。昭和16年(1941)第5回一水会展に「宿駅」入選、その後毎年出品し、昭和21年一水会会員となった。また、昭和12年には満州・朝鮮旅行、また、昭和17年には石井柏亭が主宰した双台社の同人となっている。戦後は、一水会展に出品すると同時に、昭和22年日本美術会会員となり同会主催日本アンデパンダン展に毎回出品、昭和34年には同志と草炎会を結成した。昭和36年にモスクア、レニングラードで開催された現代日本美術展に「伊那の山村」「出漁の朝」を出品、同40年には招待されて新中国を旅行した。一水会展への出品は一時中断したが、昭和46年以後再出品している。漫画評論、漫画史研究にもたづさわり、『現代世界漫画集』(昭和11年)、『ドーミエ、政治風俗漫画』(昭和28年、青木書店)、『漫画の歴史』(昭和30年、美術出版社)、『日本漫画100年』(昭和31年、鱒書房)、『日本の戯画』(昭和35年、社会思想社)、『漫画博物誌・世界、日本』2冊(昭和47年、番町書房)などの著書がある。一水会展出品作品略年譜昭和16年(1941)5回展「宿駅」、17年6回展「山の道」、18年7回展「仕上げの女達」「伊那谷の初夏」、22年9回展「志賀の渓流」「山池」、23年10回展「街」、24年11回展「ミシンをかける妻」、25年12回展「焼跡工場から」、26年13回展「姨捨駅」、27年14回展「絵をかく子供」「伊那谷の生家」、28年15回展「六郷橋畔」「造船所付近」、29年16回展「瓦斯橋の辺り」「南信駒場の宿」、30年17回展「南信の夏」「伊那の山村」、31年18回展「峠の部落」「大平街道」、32年19回展「馬籠への道」、33年20回展「荷揚げ場」、46年33回展「竜門石窟」、47年34回展「奥信濃の火祭」、48年35回展「天竜渓谷の村」、49年36回展「白樺林とつつじ」。
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没年月日:1975/04/16 洋画家野村光司は、4月16日死去した。享年81歳。明治29年9月23日福島県に生れ、第一高等学校を経て大正11年(1922)東大農学部を卒業した。大正13年(1924)にブラジルに渡り、同国官吏として農事試験場に勤務し、後拓務省官吏として総領事館に勤務した。ブラジルに約9年、北アメリカに約1年滞在した。帰国後一水会の中村琢二に師事し、一水会、日展等に出品、昭和22年(1947)一水会々員、同35年(1960)委員となり、同46年(1970)日展審査員、翌年会員となった。この間、昭和28年(1953)第9回日展「店頭」では特選及び朝倉賞を得、同37年(1962)第5回日展「ある洋品店」では特選となった。そのほか、主要作品としては、「ヨットハーバー」(第32回一水会)、「晩秋の伯耆大山」(第30回一水会)、「白鳥のある店」(第31回一水会)、「那須高原の秋」(第34回一水会)、などがある。
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没年月日:1975/03/30 洋画家高島常雄は、3月30日急性心不全のため死去した。享年53歳。大正11年(1922)1月10日高知市に生れ、昭和19年(1944)東京高等師範学校芸術科を卒業した。卒業後直ちに海軍予備学生として軍務に服し、昭和29年(1945)復員、同23年(1948)上京し、翌年創元会に初入選した。以来出品を重ね、昭和27年(1952)「母子像」で創元会賞を得、翌年「群像」で創元会準会員賞となり、この年会員に推挙され、同29年(1954)には運営委員となり、以後会の運営に当った。また、日展にも出品し、昭和26年(1951)「磯」が初入選以来、毎年日展に出品し、昭和30年(1955)「水禽舎」で特選となった。そのほか、昭和33年(1958)以後、同36(1961)、38(1963)、45(1970)年には安井賞展への出品がみられ、46年(1971)「時計」は、彫刻の森美術館買上げとなった。この間、屡々渡欧し、昭和40(1965)年には南欧、同47年(1972)には主としてスペイン南フランスに、翌48年(1973)には主として北欧に旅している。また昭和39年(1964)以後7人会に参加し、個展も開催し、昭和43年(1968)にはサンフランシスコで個展を開いている。昭和50年(1975)創元展出品の「精華」が絶筆となった。
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没年月日:1975/03/29 洋画家前川博人は、3月29日心筋梗塞のため死去した。享年52歳。大正12年広島県福山市に生れ、独学で絵を学んだ。戦後、第6回日展に「青い顔の女」を出品、翌年第15回自由美術展に「昇天」をはじめて出品、翌第16回には「はばたき」「冬」「人々」を出品し、自由美術家協会々員となった。昭和30年代には写真も手がけ、「世界主観主義写真展」(西独)、「抽象の感覚展」(ニューヨーク近代美術館)等の出品がある。昭和36年(1961)第15回自由美術展に「宇宙の顔」を出品したが、同39年には自由美術家協会を退会し、主体美術協会に参加し、同協会々員となった。昭和41年(1966)第2回主体展に「脱却」を出品、49年(1974)第10回主体展に「赤い雲」を出品した。主体美術展の主もな出品はつぎの通りである。「飛ぶもの」1回(1965)「木」3回(1967)、「立っている木」5回(1969)、「樹と山」7回(1971)、「無題」(1973)等。
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没年月日:1975/03/16 水彩画家、日本芸術院会員の小堀進は、3月16日午後零時2分、ガン性胸膜炎のため東京都北区の大蔵省印刷局東京病院で死去した。享年71歳。明治37年1月22日茨城県に生れた。大正11年3月千葉県立佐原中学校を卒業。翌年上京して葵橋洋画研究所に入り晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。中学時代から土地柄の水郷風景などを水彩で描いていたが、昭和7年の第9回白日会展「うすれ日」、第19回日本水彩画会展「画室の一隅」「盛夏の海」などの公募団体展への初入選は共に水彩画で始まっている。以後、終始一貫して水彩画家として大成したことは周知の通りである。昭和9年1月の第11回白日会展では受賞して会友に推せんされ、同年2月の第21回日本水彩展ではキング賞を受けて会員に推挙された。同じく昭和11年第13回白日会展では新会員となった。一方同時期には二科展にも作品を発表し、昭和8年第20回展に「高原」が初入選以来昭和14年第26回展「遊覧船」まで毎年出品した。その間の出品作の画題は、「蒼原」(21回展)、「斜陽」(22回展)、「山麓」(23回展)、「海」(24回展)、「陶業の町」(25回展)である。 昭和15年5月には、洋画界の中に占める水彩画の位置の極めて不安なこと、しかも日本水彩画会のような保守的な行き方に慊らず、故に水彩画の向上発展を期して、荒谷直之介、春日部たすくら同志8名とともに水彩連盟を結成、同年12月、第1回展を東京・銀座三越で開催した。以後第5回展まで東京・大阪の三越で開催。戦後22年2月の第6回展からは一般公募展となし東京者美術館で開催、現在に及んでいるが、彼はその水彩画新開拓運動に挺身してきた中軸的存在であった。戦中の第5回文展(昭和17年)に「初秋水郷」、第6回文展に「水が咲く」が入選した。同19年より郷里へ疎開したが、同22年に再上京、第3回日展に「驟雨」が入選した。日本芸術院・日展運営会の共同主催となった昭和24年第5回日展に無鑑査で「湖畔」を出品、以来死去前年(同49年)の改組第6回日展「晨」にいたるまで1回も休むことなく連続出品、精力的な発表を重ねた。その間、第7回展(26年)・第11回展(30年)・第2回新日展(34年)・第5回展(37年)・第8回展(40年)・第11回展(43年)に審査員を歴任した。同32年には、日展が社団法人と改組されその評議員となり、更に同44年再改組日展理事に就任した。この改組日展第1回展の出品作品「初秋」によって、昭和44年度(第26回)の日本芸術院賞を受賞した。その授賞理由として、「氏は、その表現技法の洗練とともに、内面描写の領域にまで深厚な観照を加え、昭和水彩の一典型ともいうべき新技法の画風を確立して、広く後進に影響を与えてきた。この作品は、その集大成ともいえる独得の賦彩処理と水郷風景の把握にその充実した力量を示した優作であると認める」と発表されたが、殊に戦後の四半世紀をこの画家が、すぐれた現代感覚と創意・工夫を重ねて樹立した独自な作風の特色を正に語り得て妙というべきであろう。昭和49年11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員に選ばれたが、その後数ヶ月を経ずして病魔に倒れたことは誠に惜しまれる。他に、同36年に結成された日展水彩作家協会の顧問や、同45年来名古屋芸術大学教授をつとめていた。
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没年月日:1975/02/11 二科会会員の洋画家末永一夫は、2月11日午前2時30分、敗血症のため名古屋市の聖霊病院で死去した。享年63歳。末永一夫は、明治44年(1911)7月20日、岐阜市に生まれ、旧姓安岡(昭和16年まで)、昭和7年(1932)岐阜師範学校専攻科を卒業した。昭和16年第28回二科展初入選、翌17年北川民次に師事、以後毎回二科展に出品入選、昭和26年36回展出品の「瀬戸の山」「海」で特待賞をうけた。昭和31年二科会会友に推され、同37年(1962)に会員に推挙されて、同43年二科会員努力賞をうけている。その間、昭和34年丸栄画廊での個展をはじめ、同49年日動画廊名古屋支店、41年丸物画廊、44年日動画廊名古屋支店などで個展を開催した。また、昭和49年(1966)フランスのサロン・ド・コンパレーゾン、42、45年サロン・ドートンヌなどにも出品して昭和44~45年メキシコに写生旅行している。一方、名古屋市立汐路中学校をはじめ教職にあって、戦後の創造美術教育運動に参加し、昭和33~34年にはCBCテレビで児童画についての放映に出演している。二科展出品作品略年譜昭和16年(1941)28回展「工作」、29回展「お掃除」、30回展「待避壕」、昭和21年31回展「水産市場」「靴工場」、32回展「石炭のある風景」「森のある風景」、昭和25年35回展「瀬戸風景」、36回展「瀬戸の山」「海」、37回展「瀬戸風景」、38回展「堀川風景」、39回展「瀬戸の山」、40回展「瀬戸風景」「陶土採掘」、41回展「陶土採掘場」、42回展「陶土採掘場」、43回展「石炭石採掘場A、B」、44回展「石炭岩の山」、45回展「瀬戸の山B」、46回展「団地造成」、48回展「北陸の海A、B」「瀬戸風景」、49回展「団地造成」「崖」、昭和40年50回展「早春の箱根」「丘陵の畑A、B」、51回展「珪砂工場のある風景」「瀬戸風景」、52回展「団地のある丘」「陶土の山」、53回展「みかん山A、B」、54回展「削ずられていく蜜柑山」「樹のある蜜柑山」、55回展「ハカランダの咲く丘(タスコ)」「タスコの丘」、56回展「タスコの丘」、57回展「タスコの丘」、58回展「シャボテンと岩山」、59回展「海」。
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没年月日:1975/02/09 春陽会会員の洋画家、石井光楓は、2月9日午後6時30分、心不全のため横浜市の自宅で死去した。享年82歳。石井は、本名を政二、光楓は号である。明治35年(1892)3月10日、千葉県夷隅郡に生まれ、日本美術院研究所に学び、大正4年(1915)第2回院展洋画部に「夏の終り」「木曾の雪」が初入選、大正10年第3回帝展に「牛の蹄を切る」が入選した。大正10年(1921)絵画勉強のためにアメリカへ渡り、カリフォルニア・アート・スクール、ついでシカゴのアート・インスティテュートに学んだ。その間、1922、23、25年(大正11、12、14)ワシントン・アート・エキジビション、1924年ノース・ウェスト・アート・エキジビション、1925年メープル・アート・エキジビションに出品、大正14年(1925)フランスへ渡り、パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。1925、29、31年サロン・デ・ザンデパンダン、1926、27年サロン・デ・ナショナル・デ・ボザール、1927、28、31年サロン・デ・ザルティスト・フランセーズ、1927、28、30年サロン・ドートンヌに出品した。昭和4年(1929)再びアメリカへ渡り、さらに昭和6年(1931)再度フランスへ渡り、昭和11年(1936)11月帰国した。昭和15年までに、陸軍省嘱託として中国の中部南部方面に従軍し、昭和15年(1940)第18回春陽会展から出品し、昭和22年第24回展で春陽会賞をうけて会友、同24年26回展のとき会員に推挙された。昭和26年には千葉県立長生第一高等学校教諭となり、また、駐留米軍の通訳としてもはたらいている。15年間にわたる欧米滞在によって、フランス・ボルドー美術館、ベルギー・ブリュッセル美術館、アメリカではニューヨークのブルックリン美術館、オクラホマ州メッドフォード市カウンテアットニー図書館などに作品が所蔵されている。
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