本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





熊谷守一

没年月日:1977/08/01

画壇の最長老で、もと二科会、二紀会委員の洋画家、熊谷守一は、8月1日、午前4時35分、肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年97。岐阜県の小村に生まれ、明治37年東京美術学校西洋画科を卒業、同期に青木繁、和田三造、山下新太郎などがいたが、卒業後、政府の樺太調査隊に参加したり、その後は郷里の木曾山中で5年間にわたり樵夫の生活をおくるなど特異な経歴をもち、友人のすすめで上京、大正中期から昭和前期にかけては(1915~20)二科会に所属し、その間、画家の有島生馬、音楽家の信時潔、颯田琴次、山田耕作らと親交し、『陽の死んだ日』(1928)、『有島生馬像』(1935)などの作品を発表した。戦後は、二科会再建にはくわわらず、第二紀会の結成に参加したが、昭和26年(1951)には脱会し、以後、俗界から離れた自由な生活と制作を楽しみ、晩年は“画壇の仙人”などとも称されたが、昭和39年(1964)には、パリのタヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催された。作風も、初期の暗欝な色調から、フォーヴィスム的な表現をへて、晩年は、自然の形象を簡潔な形体に抽象化した素朴で格調ある独自の様式をつくりだした。昭和42年(1967)には文化勲章を辞退し、同47年(1972)には叙勲も拒否して話題となった。略年譜明治13年(1880) 4月2日岐阜県恵那郡に生まれる。父は岐阜市で生糸商を営み、同市の初代市長となった熊谷孫六郎。その第7子で、三男であった。明治16年 生母と死別し、岐阜市で幼少年時代をおくる。明治30年 岐阜中学校3年生のとき上京、正則中学校に転校、その後慶應義塾にも一学期間在学する。このころ画家になることを決意する。明治31年 東京・本郷寿川町にあった共立美術学校に入り、日本画を研修する。明治33年(1900) 4月、東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝、長原孝太郎、藤島武二の指導をうける。同級生に、青木繁、児島虎次郎、山下新太郎と和田三造、高木巌らがいた。明治37年 7月、東京美術学校を卒業。卒業制作。明治38年 農商務省の岸本謙吉博士を首班とする樺太調査隊に参加し、この年の夏から2カ年にわたり漁場調査のため北海の島々をまわり、風景、地形、海産物などを記録し写生する(この時の作品は関東大震災のために消失)。明治40年 樺太から帰り、日暮里、上野桜木町、駒込千駄木町の下宿を転々とする。明治41年 10月、第2回文展にを出品、入選。明治42年 10月、第3回文展にを出品、褒状をうける。明治43年 6月、第13回白馬会展にを出品。実母の死去をきっかけに郷里へ帰り、その後5年間にわたり樵夫、鍛冶工などの生活をおくる。大正4年(1915) 友人斎藤豊作らのすすめで上京、10月、第2回二科展にを出品。大正5年 10月、3回二科展にを出品、会員に推挙される。大正6年 4回二科展大正7年 5回二科展大正8年 6回二科展大正9年 7回二科展大正11年 9回二科展。この年、和歌山県日高郡南部町の素封家大江為次郎次女秀子と結婚する。大正12年 7月、長男黄生まれる(その後、次男陽、長女萬、次女榧、三女茜が生まれている)。10回二科展。大正14年 12回二科展(パステル)。大正15年 13回二科展。昭和2年(1927) 6月、明治大正名作展出品予定は所在不明、は変色甚しいため出品不能、卒業制作のみ出品。9月、14回二科展昭和3年 2月28日、次男陽死亡、を描く。9月、15回二科展。このころから二科会研究所で教える。昭和4年 9月、16回二科展昭和5年 3月、2回聖徳太子奉讃展。9月、17回二科展昭和6年 9月、18回二科展昭和7年 9月、19回二科展。この年、三女茜死亡。東京、豊島区千早町に自宅を新築し、晩年まで過すことになる。昭和8年 20回二科展昭和9年 21回二科展昭和10年 22回二科展昭和11年 23回二科展昭和12年 24回二科展昭和13年 25回二科展。このころから、日本画を描き始め、4回奈良美術家連盟作品展に水墨画30点を出品。昭和14年 26回二科展昭和15年 27回二科展、同時に熊谷守一生誕60年記念陳列とし油彩画41点が特別陳列される。昭和16年 9月、28回二科展昭和17年 8月、長谷川仁編『熊谷守一画集』刊行される。9月、29回二科展昭和22年 9月、第二紀会の結成に参加し、1回展に出品昭和23年 2回二紀展昭和24年 3二紀展昭和25年 4回二紀展昭和26年 5月、16回清光会展10月、5回二紀展記念室に、この年二紀会を脱退、後藤真太郎の主宰する清光会同人となる。昭和27年 5月、1回日本国際美術展、17回清光会展昭和28年 5月、2回日本国際美術展、18回清光会展昭和29年 5月、1回日本現代美術展、19回清光会展。この年、後藤真太郎の死去により清光会は解散し以後、いっさいの団体展から離れる。昭和31年 5月、2回日本現代美術展昭和34年 5月、5回日本国際美術展昭和36年 熊谷守一画集刊行会『熊谷守一』刊行される。昭和37年 1月、洋画商展、以後毎年、洋画商展に出品。4月、白木屋にて回顧展(日本経済新聞社主催)。10月、1回国際形象展。出品、以後毎年出品。11月、「大正期の洋画展」(神奈川県立近代美術館)出品される。昭和38年 1月、洋画商展。9月「近代日本美術における1914年展」(東京国立近代美術館)出品される。10月、2回国際形象展昭和39年 1月、洋画商展。9月、3回国際形象展。パリ、ダヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催される。昭和40年 4月、「近代における文人画とその影響展」(東京国立近代美術館)出品される。10月、国際形象展昭和41年 1月、洋画商展。6月「近代洋画の150年展」(神奈川県立近代美術館)出品される。昭和42年 1月、洋画商展。秋、文化勲章受章者に内定したが、「これ以上人が来るのは困る」といって辞退。昭和43年 1月、洋画商展昭和44年 1月、洋画商展昭和45年 1月、洋画商展。10月、神奈川県立近代美術館において、熊谷守一展開催される。昭和46年 2月、洋画商展。9月、国際形象展。11月、著書『へたも絵のうち』(日本経済新聞社)刊行される。昭和47年 1月、西武渋谷店において、熊谷守一大回顧展(日本経済新聞社主催)2月、洋画商展。9月、国際形象展。この年、文化庁より勲三等叙勲の内示があったが、辞退。昭和48年 2月、洋画商展。12月、『熊谷守一の書』(求竜堂)刊。昭和49年 12月、『熊谷守一』(日本経済新聞社)刊。昭和50年 3月、洋画商展。伊勢丹において「日本の心・熊谷守一九十五歳記念展(毎日新聞社主催)11月、洋画商展。昭和51年 2月、著書『蒼蠅』刊。11月、洋画商展昭和52年 6月末、呼吸困難を訴える。8月1日午前4時35分死去。8月7日、青山葬儀所において葬儀告別式おこなわれる。(本年譜は、ギャラリ・ムカイ「追悼 熊谷守一展」目録に収載の福井淳子編熊谷守一年譜を参考に作成したものである。)

高木晴太呂

没年月日:1977/06/08

洋画家、光風会会員高木晴太呂は、6月8日心筋こうそくのため名古屋市の自宅で死去した。享年65。明治45年3月3日名古屋市に生まれる。本名春太郎。大正15年日本陶器株式会社に入社し陶器のデザインにたずさわる。昭和7年第19回光風会展に初入選、同9年第二部会展に入選し、同14年第26回光風会展に出品した「南の浜」がI氏賞を受賞し会友に推され、翌第27回展では同画題の出品でK夫人賞を受け、同17年光風会会員となった。この間、文展にも昭和11年以来3回入選、戦後も光風会展、日展に出品を続け、同26年第7回日展に出品した「漁村」で特選、朝倉賞を受賞、翌年無鑑査となり、同28年から48年まで委嘱出品を続けた。また、同34年第45回光風会展では「一隅」で会員賞を受賞した

和田香苗

没年月日:1977/06/04

洋画家、光風会会員、元工学院大学教授和田香苗は、6月4日急性心不全のため東京都清瀬市の信愛病院で死去した。享年79。明治30年8月4日東京都港区に生まれ、大正9年東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)を卒業した。卒業の年の11月渡米しシカゴに赴き、翌10年8月パリに移った。パリではアカデミー・グラン・ショーミエールに学び、プリネ、ルシアン・シモン、メナールの指導を受け、また、同12年2月までヨーロッパ各地を遊学して3月帰国、同年4月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌13年助教授、昭和6年教授となり、同20年3月退官後講師として同24年まで勤めた。同24年から工学院大学講師、同27年には教授となる。この間、大正9年第二回帝展に「オルガンノソバ」が初入選し、以後、帝展、文展に出品し、同12年文展無鑑査となり、また光風会展にも出品し昭和8年光風会会員となり、のち評議員をつとめた。戦後も日展、光風会展に出品したほか、同22年同士10名と国際観光美術協会を結成、翌23年には同士7名と日本ミニアチュール協会を設立して第1回展を上野松坂屋で開催した。光風会展への主な出品作に、「横顔」(第21回)、「初夏の富士」(第25回)、「カレドニア」(第41回)、「川越風景」(第55回)などがある。

柏原覚太郎

没年月日:1977/06/02

洋画家、行動美術協会会員柏原覚太郎は、6月2日胆道がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治34(1901)年11月10日香川県高松市に生まれ、大正12年東京美術学校図画師範科を卒業。昭和2年第14回二科展に「少女」「裸女」が初入選し、以後戦前は二科展に出品を続けた。同7年から翌年にかけてヨーロッパに留学し、同8年帰国の年の第20回二科展に「横臥裸婦」「少憩」「黒衣婦人」など滞欧作7点が特別陳列された。同12年二科会会友となり、同16年第27回展に「アンコール」「手風琴」を出品して会友賞を受賞、翌年会員に推挙された。戦後は同20年に創立された行動美術協会に参加し会員となり、以後没年まで同会展に出品した。行動展への出品に「アトリエ」(第2回)、「水辺」(第6回)、「岩の群(室戸岬)」(第12回)、「トレド風景」(第20回)、「岬の漁港」(第25回)、「滞船」(第31回)などがある。

榎倉省吾

没年月日:1977/04/30

洋画家榎倉省吾は、4月30日心不全のため香川県小豆郡内海町の内海病院で死去した。享年75。雅号萬象堂。明治34年7月15日兵庫県加東郡に生れ、神戸県立第一中学校を卒業した。昭和3年第15回二科展「淡路街道」「八月の淡路」が初入選し、昭和9年第21回展「アメリカ村」ほかで特待となり、同12年には会友推薦になった。昭和16年二科会友賞となり、同17年会員推挙となる。昭和18年文展無鑑賞。戦後は昭和21年行動美術協会創立会員となり、日展にも依嘱出品した。作品は専ら風景、静物を多く描いた。作品年譜昭和3年(1928) 「淡路街道」「八月の淡路」第15回二科展昭和5年 「島のバスのりば」第17回二科展昭和7年 「転轍機」「冬」「港」第19回二科展昭和8年 「丘と内海」第20回二科展昭和9年 「アメリカ村」「鎧ケ岳」「ナチス遠望」第21回二科展昭和10年 「Y港」「熊野街道」「切目の丘」「飛驒の谿流」第22回二科展昭和11年 「湖畔」「南紀の丘」第23回二科展昭和12年(1937) 「射的壕」「ダム」第24回二科展昭和13年 「風景」第25回二科展昭和14年 「南苑の戦闘」「船内静物」第26回二科展昭和15年 「北京」「祈年門」第27回二科展昭和16年 「竜城の跡」「北京の秋」第28回二科展昭和17年 「早春」「白鷺城」第29回二科展昭和22年 「港」「雨やどり」「山」第2回行動美術展昭和23年 「蓮池」「樹蔭」「かもめ」第3回行動美術展昭和24年 「湖口」第4回行動美術展昭和25年 「湖口」「合奏」「七夕」第5回行動美術展昭和26年 「朝」「昼」「夕」第6回行動美術展昭和27年 昭和28年 「津軽海峡」「木かげ」「窓」第8回行動美術展昭和29年 昭和30年 「扇」「煙」「月」第10回行動美術展昭和31年 「東京樓街門」「東京港麦秋煙」第11回行動美術展昭和32年 「馬と新芽」第12回行動美術展昭和33年 「冬」(鯱と飛行雲)「秋」(白鷺城解体)「夏」(石垣の歌)「春」(城門の歌)第13回行動美術展昭和34年(1959) 「煙」「木」「浜」「鳥」“長谷川勝人君を悼む”の文あり。第14回行動美術展昭和35年 「稲」「藁」「麦」第15回行動美術展昭和36年 「残雪」「入江」「オリーブの丘」第16回行動美術展昭和37年 「花」「月」「雪」第17回行動美術展昭和38年 「潮」「渚」第18回行動美術展昭和39年 「ミモザの道」「岬」第19回行動美術展昭和40年 「雲」「スモモの花」第20回行動美術展昭和41年 「ミモザとエリカ」「虹」第21回行動美術展昭和42年 「島の秋」「島の春」(梅とエリカ)第22回行動美術展昭和43年 「オレンヂの園」「新緑梅樹」第23回行動美術展昭和44年 「新緑連峯」「蔦もみぢ」第24回行動美術展昭和45年 「暁のオリーブ」「オリーブ園の李花」第25回行動美術展昭和46年 「花すもも」「土讃本線」第26回行動美術展昭和47年 「オリーブの岬」「画室の老梅」第27回行動美術展昭和48年 「画室のオリーブ」第28回行動美術展昭和49年 「北京の秋」第29回行動美術展昭和50年 「北京の冬」「北京の春」第30回行動美術展昭和51年 「北京の夏」第31回行動美術展昭和52年 「スモモの花」(遺作)第32回

伊藤久三郎

没年月日:1977/04/08

洋画家、行動美術協会会員伊藤久三郎は、4月8日脳しゅようのため京都市北区の富田病院で死去した。享年71。明治39(1906)年3月24日京都市下京区に生まれる。大正7年京都市立美術工芸学校に入り、同9年卒業後絵画科本科に入学、同12年卒業。翌13年京都市立絵画専門学校本科(日本画)に入学、昭和3年卒業後間もなく東京駒込に移り、1930年協会洋画研究所に通った。同4年第16回二科展に「ハムのある静物」が初入選、以後同展に出品するとともに、同8年には、佐野繁次郎、佐伯米子、島崎鶏二らと新油絵展を結成し、同11年には新美術家協会に入会、同13年二科会前衛グループによる九室会に参加、同16年二科会会員となった。同20年京都へ戻り、この年行動美術協会結成にあたって会員に迎えられ、翌年の第1回展から同展に出品した。また、同28年「抽象と幻想」展(東京国立近代美術館)に「イカルス」を出品、同30年第3回日本国際美術展に「忘却」、翌31年第2回現代日本美術展に「地表」、同32年代4回日本国際美術展に「作品57」、同年第4回サンパウロ・ビエンナーレに「地表」「猜疑」「イカルス」、同40年「前衛絵画の先駆者たち」展(京都国立近代美術館)に「流れの部分」「合歓の木」「振子」を、同46年「伊藤久三郎、小牧源太郎二人展」に旧作20点を出品した。この間、同28年日吉丘高校講師、七彩工芸嘱託となり、同37年成安女子短期大学講師(40年教授、47年退官後客員教授)となって指導にあたり、同45年府立文化芸術会館、京都府ギャラリー運営委員となり、同46年には京都市美術館評議員となった。同51年京都における抽象絵画の草分けとして、京都府美術工芸功労者に選ばれた。行動展への主な出品作に「遮蔽」(8回)、「猜疑」(9回)、「ラプソディー66」(21回)、「作品70A」(25回)、「773-B(劃)」(28回)、「75a(地)」(30回)などがある。

中谷ミユキ

没年月日:1977/04/03

洋画家、十一会会員中谷ミユキは、4月3日肺炎のため武蔵野市吉祥寺の森本病院で死去した。享年77。明治33年2月10日広島県安佐郡に生まれ、共立女子専門学校を卒業。昭和5年第11回帝展に「静物」で初入選し、以降帝展、新文展に出品、光風会にも出品し、同12年第24回展に「静物」でF氏賞を受け翌年会友となり、戦後の同21年会員となったが同27年退会した。また、同21年11月に創立された女流画家協会の発起人に加わり、創立委員となり翌年の第1回展に「赤い布の静物」など3点を出品してI夫人賞を受けた。同27年光風会退会後二紀会同人となり同年の第6回展に「黄い皿」を発表、同36年まで同展に出品した。また、同33年に結成された十一会にのち会員として加わった。

村山知義

没年月日:1977/03/22

大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。

高森捷三

没年月日:1977/03/21

洋画家、元一水会会員高森捷三は、3月21日心不全のため死去した。享年69。明治41年2月22日石川県鳳至郡に生まれる。大正14年画家を志望して上京、林重義に師事、翌年第13回二科展に「風景」2点が初入選、同年から二科展とともに日本水彩画会にも出品を続けた。昭和3年1930年協会研究所へ入り、翌年には同展にも出品したが、同5年日本プロレタリア美術家同盟へ加盟し、同年の第三回展に大作「被告会議」他を出品したが撤回され、翌第4回展には、「東セルの兄弟しっかりやろう」、第5回展「労働者習作」を発表した。同7年日本共産党員となったが同年検挙され同9年出獄、翌10年から再出発して二科展に出品した。同12年からは一水会に出品したが、同5回展以後は展覧会出品を止めた。戦後、同21年同士と現実会を組織したが翌々年解散、同34年には友人と斑会を組織した。また同25年から8年ぶりに一水会にも出品をはじめ、同26年会員となり、同29年第16回一水会展出品作「船のおかみさんたち」で優賞を受けたが晩年は退会し無所属となった。同38年3月から11月まで渡欧、主にパリを中心に各国を巡遊し、翌年滞欧作による個展を開催した(文春画廊)。一水会の出品作には他に、「水の上」(第14回)、「火」(第17回)などがある。

丹野良輔

没年月日:1977/03/21

洋画家、日本水彩画会会員丹野良輔は3月21日死去した。享年77。明治32年11月18日青森市に生まれ、青森県立師範学校卒業後上京し曾宮一念に師事、また同舟社でデッサンを学んだ。昭和23年日本水彩展の出品作で三星絵具賞を受け日本水彩画会会員となり、同25年委員となった。また、光風会展、新槐樹社展にも出品、同36年新槐樹社会員、翌37年同委員となった。日本水彩展の出品作には、「静物」(第39回)「岬の家」(第41回)「外房漁港」(第45回)「曇り日の磯」(第60回)などがある。

柳瀬俊雄

没年月日:1977/01/19

洋画家、日展会員で十柯会創立会員の柳瀬俊雄は、1月19日肺がんのため東京港区白金台の東京医科学研究所付属病院で死去した。享年66。明治43年大阪に生まれ、東京の旧制五中卒業後、日本大学へ進んだが中退、文化学院を経て昭和5年本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、春台美術協会会員となり、のち中村研一の指導を受けた。同8年帝展に初入選し、以後官展に出品を続けた。戦後の同21年光風会会員となり、同26年第5回日展に「仰臥」で特選・朝倉賞を受賞、翌27年光風会評議員、同審査員、日展委嘱となった。同36年ヨーロッパに遊学、同39年新日展第7回展に出品した「開幕」で菊華賞を受け日展会員となった。同42年第10回日展では審査員をつとめた。同45年光風会を退会する。改組日展への出品作には、「樹下聴音」(第1回)、「横臥母子」(第4回)、「オダリスク」(第5回)、「対話」(第9回)などがある。

武藤弘之

没年月日:1977/01/05

洋画家、新構造社会員武藤弘之は、1月5日頸骨々折のため死去した。享年64。明治45年3月3日埼玉県入間郡に生まれる。埼玉師範学校卒業後、昭和6年から岡田三郎助に師事、同8年白日会展に入選し、以後旺玄会、新構造展に出品入選した。同15年渡鮮し京城に在住、同17年第22回朝鮮総督府美術展出品作「街」が総督府買上げとなり、翌年円光会会員となる。同21年引揚げ後挿絵界で活躍、同36年新構造社会員となり、同45年第42回新構造展に「冬の虹」で三村賞を受賞、同48年の第44回展では「壁」で岡田賞を受賞、さらに同51年の第48回展では「武蔵野の森」で東京都知事賞を受けた。この間、同46年に坂戸美術協会をおこし会長となったほか、埼玉県美術教育連盟副連盟長、入間地区美術教育研究会長をつとめた。

土井栄

没年月日:1976/10/31

洋画家、挿絵画家土井栄は、10月31日急性心衰弱のため埼玉県入間市の原田病院で死去した。享年60。本名栄司。大正5(1916)年1月9日山形県飽海郡に生まれ、昭和9年から本郷絵画研究所で岡田三郎助、辻永、中村研一らに師事、同13年菊池寛の小説の挿絵でデビュー以来、主に新聞、雑誌小説の挿絵画家として活躍した。はじめ自由美術協会に属したが、同39年退会し、同年の主体美術協会創立に参加、会員として制作活動を続けた。この間同40年以来3回にわたり欧州・地中海方面へスケッチ旅行にでかけ、たびたび個展を開催した。主体美術展の主な出品作に「牛と馬とA」(第8回)「轍」(第11回)「コンポジション」(第12回)などがある。

名井萬亀

没年月日:1976/09/01

もと二科会会員、無所属の洋画家、名井萬亀は、9月1日午前7時50分、脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。名井萬亀は、明治29(1896)年2月1日、広島市に生れ、広島中学校から海城中学校に編入学、卒業後上京して本郷洋画研究所に学んだ。兵役に服務したあと家事に従事するかたわら絵画にたずさわったが、大正15年(1926)渡仏し、昭和8年(1933)まで滞在しサロン・ドートンヌ、アンデパンダン展など出品した。昭和11年東京上野で滞欧作による個展を開催、翌12年第24回二科会展に「静物」「風景」の2点を出品入選している。戦後は一時二科会に属したが直に脱退した。読売アンデパンダン展にも出品したが、その後は主として個展を開催して作品を発表していた。

小野木学

没年月日:1976/08/24

洋画家、版画家のアート・クラブ会員、小野木学は、8月24日午前3時30分、じん臓がんのため東京・千代田区の九段坂病院で死去した。享年52。小野木学は、大正13年(1924)1月13日東京都杉並区に生まれ、戦中から病弱であったため療養生活にあって絵画を独学独習、昭和28年(1953)第17回自由美術展に初めて作品「民話」を出品入選となった。昭和32年自由美術協会会員に推挙されたが、同38年退会し、以後は主として個展で発表活動をつゞけ、また版画でも国際展に出品授賞するなどの活躍をみせた。沈んだ色彩と簡潔なフォルム、独特の幾何学的な抽象絵画で注目され、また、絵本作家としても知られ、絵本挿画の制作も多いが、文・絵ともに作者の自作による『さよならチフロ』(こぐま社刊)、なかでも『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)は昭和45年度(1970)の第19回小学館絵画賞を授賞した。内外のいくつかの美術館にも作品が収蔵され、今後の活躍が期待されていた。略年譜大正13年(1924) 1月13日、東京・杉並区に生まれる。昭和28年 10月、第17回自由美術展に「民話」入選。大村連、加藤一らとグループ金曜会を結成。昭和30年 10月、第19回自由美術展「説得」出品。昭和31年 5月、村松画廊で第1回個展を開催。5月村松画廊で第2回個展。昭和32年 10月、第21回自由美術展「木馬と少年」、佳作賞を受け、会員に推挙される。昭和33年 8月、第2回シェル美術賞展に入選、佳作賞。10月、第22回自由美術展「装馬」「かほ」昭和34年 6月、村松画廊で第3回個展。10月、第23回自由美術展「戦史」。シェル美術展出品、2等賞をうける。昭和35年 秋山画廊で第4回個展。第4回安井賞展に出品。昭和36年 渡欧。10月、第25回自由美術展「ユニコーン」。昭和37年 渡欧。10月、第26回自由美術展「普通の風景」1、2。駿河台画廊企画展に出品。昭和38年 6月、秋山画廊で第5回展個展。自由美術協会を脱会。グループ金曜会を退会。昭和39年 5月、第6回現代日本美術展コンクール部門に「普通の風景」入選。秋山画廊で第6回個展。この年、埼玉県熊谷市駅前の藤間病院に砂岩によるレリーフの壁画装飾「生成」を制作する。昭和40年 4月、椿近代画廊で早川重章との二人展。7月、秋山画廊で第7回個展。昭和41年 9月、秋山画廊タブローによらない作品展に出品。昭和42年 9月、秋山画廊で第8回個展。昭和43年 7月、秋山画廊で版画展。11月、第6回東京国際版画ビエンナーレ展に「風景―RO」「風景―Y」出品。昭和44年 6月、秋山画廊で第9回個展。この年、第8回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレ展に出品、ユーゴスラビア買上げ賞。この年、アメリカ、シンシナティ美術館に作品収蔵される。昭和45年 アメリカ、ロックフェラー財団に作品収蔵される。自作絵本『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)により第19回小学館絵画賞をうける。昭和46年 5月、第七画廊で第10回個展。7月、ギャラリー・ムカイで版画による個展。ブリュッセル現代日本画展に出品。昭和47年 東京国立近代美術館に版画「風景(点)―A」「風景―706」「風景―S.H.I」購入収蔵される。ポンベイ現代日本版画展、ワルシャワ現代日本版画展にそれぞれ出品する。雑誌『群像』の装幀を年間担当する。11月、第七画廊で第11回個展。昭和48年 横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。11月、みゆき画廊で版画による個展。昭和49年 1月、第七画廊で第12回個展。同月、くぼた画廊で第13回個展“小野木学の軌跡”開催。11月、横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。同月、アテネ画廊版画グループ展“伍人”に出品。メキシコ現代日本版画展に出品。第6回日本芸術大賞候補にあげられる。昭和50年 1月、第七画廊で第14回個展。3月、九州サン画廊(久留米市)作品展に出品。7月、ギャラリー・ココ、スルガ台画廊のグループ展に出品。10月、大分O.B.S美術サロン作品展に出品。この年、文化庁、熊本県立美術館に作品収蔵される。昭和51年 7月、スルガ台画廊のグループに出品。ベルギー・ゲント現代日本版画展に出品。イタリア・フェラーラ現代版画展(南天子画廊企画)に出品。8月24日、東京・千代田区九段坂病院において死去。

高畠達四郎

没年月日:1976/06/26

独立美術協会会員の洋画家、高畠達四郎は、6月26日午前4時7分、心筋こうそくのため東京都港区の自宅で死去した。享年80。高畠達四郎は、明治28(1895)年10月1日、東京神田の雑穀問屋村新(屋号)に生まれ、東京高等師範学校附属小、中学校をへて慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学したが、画家を志望して中退し、帝展に出品したあと、大正10(1921)年渡欧、昭和3(1928)年までフランスに滞在した。その間、アカデミー・ランソンでモーリス・ドニ、ピエル・ボナールなどに学び、滞仏後半期には、アンドレ・ドラン、モイーズ・キスリングなどの作風に傾倒し、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンに出品した。藤田嗣治、福島繁太郎、辰野隆らと交友し、福島コレクションにも関係した。帰国後、国画会に作品を発表したが、昭和5年、伊藤廉、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、以後、独立展を中心に活躍して作品を発表した。戦後しばらくは疎開先の熱海市に居住し、昭和26(1951)年第5回美術団体連合展に出品した「暮色」で第3回毎日美術賞(昭和27年1月)を受けた。素直な自然観照による素朴な、プリミティヴィスムを感じさせる独自な様式を確立し、以後、ほとんど風景を主として製作したが、昭和28(1953)年の渡欧を皮きりにその後しばしば渡欧し、内外の風景を多く描いた。昭和51年5月、生涯にわたる大回顧展を開催したが、その1ヶ月後に死去した。略年譜明治28年(1895) 10月1日、東京市神田区に高畠新吉・たまの四男三女の末子として生まれる。家業は雑穀問屋、屋号村新。明治32年 4月、東京女子高等師範学校幼稚園に入る。同窓にのちの仏文学者鈴木信太郎がいた。明治35年 4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。同窓に鈴木信太郎、石川欣一、福島繁太郎、荘清彦、岩崎彦弥太がいる。この頃、駿河台、湯島の聖堂、神田明神など行動範囲がひろがる。明治41年 3月、東京高等師範学校附属小学校卒業、唱歌、図画、体操の成績がとくに良かった。4月、東京高等師範学校附属中学校に入学、担任教師諸橋轍次、柔道、水泳、野球などのスポーツに熱中する。柔道初段大正2年 3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。4月、第七高等学校文科、海軍兵学校に合格するも入学せず。大正3年 4月、慶應義塾大学理財科に入学。大正5年 12月、画家志望の念強まり、慶応義塾大学理財科を中退、しばらく本郷洋画研究所に通う。大正8年 2月、光風会第7回展に出品、初入選となる。大正10年 10月、第3回帝展に「Hの肖像」が入選となる。11月、神戸を出帆、渡仏の途につく。12月、パリ着、ト゛ランブル街に落ちつく。大正11年 1月、アカデミー・ランソンに通いはじめる。講師にモーリス・ドニ、ピエル・ボナール、エドワール・ビュイヤールなどがいた。このとし、地震学の石本巳四雄、仏文学者辰野隆、山田珠樹、音楽の加藤成之らと知り合い、観劇や音楽会にともに行く。ベルギー、ドイツ、オーストリー、ハンガリー、イタリアなどにも旅行する。大正12年 このとし、アトリエをロルヌ街に移す。同番地に福沢一郎、中山巍、大石七介がいた。このころアンドレ・ドラン、アンドレ・ロート、モーリス・ドニ、モイーズ・キスリングに傾倒する。秋、友人の福島繁太郎がパリに来、旧交をあたためる。大正14年 10月、第6回帝展に「冬のカッシス」が入選する。滞仏中サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品。このとし、友人の鈴木信太郎をパリに迎える。昭和3年 8月、滞仏7年の生活を終えて帰国、小石川区に居を構える。9月、第15回二科会展に「シャティヨン風景」「プチ・ジャン」「静物」を出品。昭和4年 5月、梅原龍三郎のすすめにより第4回国画会展に滞欧作12展、「厨」「ダルレー広場」「浴女」「裸体」「少女」「シャチオン」「顔」「フォンテンブロー」「肖像」「春日風景」「風景」「静物」を出品、会友に推される。昭和5年 2月、第5回国画展に「静物1」「静物2」「郊外風景」「子供」「女」を出品、会員となる。3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に「老人」を出品。11月、三岸好太郎、児島善三郎、林武、林重義、清水登之、伊藤廉、川口軌外、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、福沢一郎、里見勝蔵、小島善太郎とともに独立美術協会を設立、創立会員となる。昭和6年 1月、第1回独立展に「プチ・ジャン」「コンポジション」「二人少女」など10点を出品。2月、石川文子と結婚す。昭和7年 1月、長男正明生まれる。3月、第2回独立展に「汽車内」「黒衣少女」など6点を出品。4月、父新吉没(84歳)。昭和8年 3月、第3回独立展に「卓上花束」「出稼の群」「雪景」を出品。9月、長女由貴子生まれる。昭和9年 3月、第4回独立展に「レダ」「鶴」を出品。5月、母たま没(78歳)。昭和10年 3月、第5回独立展に「石膏と花束」「漁港」「静物」「店頭」「馬と人」を出品。東京府美術館10周年記念現代綜合美術展に「老人」(1930)がえらばれる。昭和11年 4月、第6回独立展に「薔薇」「金鵄」「海岸」「静物(石膏)」を出品。昭和12年 3月、第7回独立展に「海女」「海幸」を出品。4月、帝国美術学校西洋画科教授となる。昭和13年 3月、第8回独立展に「彫刻室」「鳩」「窓」を出品。7月、日動画廊で初の個展「高畠達四郎第1回近作展」を開催、「石膏と花」「果物」など20展余を出品する。昭和14年 3月、第9回独立展に「夜雪」「ランプと女」「花」「岬」を出品。昭和15年 3月、独立美術協会第10回記念展に「農夫」「働く男」「静物」を出品。7月、二男未明生まれる。10月、紀元2600年奉祝美術展に「夜店」を出品。昭和16年 3月、第11回独立展に「由貴子(八歳)の像」「春野」「漁村」を出品。昭和17年 3月、第12回独立展に「岩村造船所」「花束」「角力」を出品。昭和18年 3月、第13回独立展に「収穫」「富士」「熱海」「静物」を出品。このとし、満州を旅行する。昭和19年 2月、第14回独立展に「新京の関帝廟」「満州の街」を出品。昭和20年 4月、小石川のアトリエ、空襲で焼ける。熱海市の別荘に移居する。このとし、第2次世界大戦終結。昭和22年 4月、第15回独立展に「由貴子の像」「熱海」「バラ」「冬曇」を出品。6月、第1回美術団体連合展に「曇」「麦畠」を出品。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「未明の像」「熱海風景」を出品。10月、第16回独立展に「樟樹」「西野元氏像」「静物果物」「春庭」を出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「街道」を出品。10月、第17回独立展に「風景」「無電局」「冬」「夏」を出品。昭和25年 3月、フォルム画廊で個展を開催。5月、第4回美術団体連合展に「熱海梅園」を出品。10月、第18回独立展に「橋(釧路)」「春(熱海)」「霧(釧路)」を出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「熱海梅園」がえらばれる。2月、第3回読売アンデパンダン展に「静物」を出品。5月、第5回美術団体連合展に「暮色」を出品。10月、第19回独立展に「巴里広場」「プチ・ジャン」を出品。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「熱海風景」を出品。12月、フォルム画廊で個展を開催。昭和27年 1月、「暮色」(第5回美術団体連合展出品作)に対して第3回毎日美術賞が贈られる。第3回秀作美術展に同作品がえらばれる。2月、第4回読売アンデパンダン展に「畑」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「春」「麦」「風景」を出品。東京芸術大学講師となる。10月、第20回独立展に「浅間山」「浅間山(夕)」「八ツ岳」を出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「浅間山」がえらばれる。2月、第5回読売アンデパンダン展に「城」「瀬戸内海」を出品。3月、東京芸術大学講師を辞す。渡仏。9月、国立公園絵画展に「琴平宮」を出品。10月、第21回独立展に「ノートルダム」「パリの遊覧船」「河」「戴冠式」を出品。昭和29年 2月、イギリスをまわって帰国。3月、サヱグサ画廊で高畠達四郎滞欧作油絵鑑賞展を開催、16点を出品。5月、第1回現代日本美術展に「コロップの林」「救命船」を出品。10月、第22回独立展に「肖像」「初秋梅園」を出品。昭和30年 5月、第3回日本国際美術展に「裸木と海」「春雪(熱海)」を出品、佳作賞を受賞する。10月、第23回独立展に「家」「静物」「梅園紅葉」を出品。昭和31年 1月、第7回秀作美術展に「春雪」がえらばれる。4月、神奈川県立近代美術館で高畠達四郎・岡鹿之助の二人展が開催され、69展が出品される。5月、第2回現代日本美術展に「梅」「山脈」を出品。10月 第24回独立展(創立25周年記念)に「裸木」「花と浅間」「樹木(熱海風景)」を出品。このとし、居を港区に移す。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「梅」がえらばれる。5月、第4回日本国際美術展に「石垣と木」を出品。10月、第25回独立展に「岬(伊豆赤沢)」「唐松と雲」を出品。昭和33年 1月、第9回秀作美術展に「岬」がえらばれる。2月、第2回国際具象派美術展に「望洋」「樹蔭」を出品。5月、第3回現代日本美術展に「風景A」「風景B」を出品。10月、第26回独立展に「丘(保土ヶ谷)」「山桃と海」「馬車」を出品。昭和34年 1月、第10回秀作美術展に「丘(保土ヶ谷)」がえらばれる。5月、第5回日本国際美術展に「春樹」を出品。10月、第27回独立展に「花と浅間山」「熱海」「道と海」を出品。11月、毎日美術賞10年記念展に「暮色」(1951)、「戴冠式」(1953)、「滞船(江之浦)」(1958)、「自転車」(1959)、「浅間山」(1959)がえらばれる。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「道と海」がえらばれる。4月、第3回国際具象派美術展に「樟と海」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「岬(熱海)」「風景(熱海)」を出品。10月、第28回独立展に「大王崎灯台」「双柿樹」を出品。このとし、親友福島繁太郎没(65歳)。昭和36年 5月、第6回日本国際美術展に「風景」を出品。10月、第29回独立展に「巨樹」「高原と馬」を出品。昭和37年 4月、武蔵野美術大学講師となる。5月、第5回現代日本美術展に「風景(軽井沢)」「漁港鵜原」を出品。国際形象展に創立同人として参加し、第1回展に「漁村(須崎の家)」「高原風景」「石垣の村」を出品。このとし、新橋演舞場のどん帳「双思樹」完成。昭和38年 5月、第7回日本国際美術展に「櫟と空」を出品。7月、北京、上海で開催の現代日本油絵展に「高原と馬」を出品。10月、第2回国際形象展に「蝶を狙う魚」「雪景(軽井沢)」「乗馬高原」「画家と家族」を出品。第31回独立展に「村落(軽井沢)」「窓辺静物」を出品。昭和39年 1月、第15回秀作美術展に「暮色」がえらばれる。2月、武蔵野美術大学教授となる。3月、渡欧。パリ、ベニス、フィレンツェ、マドリード、バルセロナをまわる。5月、第6回現代日本美術展に「白と栗毛」を出品。昭和40年 1月、帰国。6月、「毎日美術賞受賞作家シリーズ・高畠達四郎展―受賞作から滞欧作へ-」が毎日新聞社の主催により東京高島屋、大阪大丸で開催される。10月、第33回独立展に「初秋浅間」「秋果静物」を出品。このとし、大阪中之島住友生命ビルに壁画「幻想のパリ」を完成。昭和41年 1月、第17回秀作美術展に「花のノートルダム」がえらばれる。5月、第7回現代日本美術展に「古寺(ヴェズレー)」を出品。6月、神奈川県立近代美術館の近代日本洋画の150年展に「静物」(1954)がえらばれる。10月、長野県信濃美術館の日本の洋画100年史展に「ノートルダム」(1964)がえらばれる。第34回独立展に「軽井沢風景」「秋果静物」を出品。第5回国際形象展に「ダリアの静物」「初秋浅間高原」を出品。12月、渡欧。昭和42年 10月、南仏、イタリア各地、ポルトガルなどで制作し帰国する。第35回独立展に「オーヴェル古寺」「ニースの冬」を出品。近代洋画名品展(名古屋)に「プチ・ジャン」(1928)がえらばれる。昭和43年 2月、パリで藤田嗣治の葬儀に参列。4月、フランス、イタリア、ポルトガル各地の風景を主題とした滞欧作品展を日動画廊で開催。5月、第8回現代日本美術展に「二重橋」を出品。10月、第36回独立展に「京子の像」「モンテカルロ」を出品。昭和44年 5月、第9回現代日本美術展―現代美術20年の代表作展―に「裸木と海」(1955)がえらばれる。10月、第37回独立美術展に「初秋浅間」「ニース散歩道」を出品。昭和45年 10月、第38回独立展に「エトルタ」「浅間山」を出品。昭和46年 4月、東京国立近代美術館の近代日本美術における1930年展に「プチ・ジャン」(1928)、神奈川県立近代美術館の戦後美術のクロニクル展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第39回独立展に「離れ山」「犬吠埼燈台」を出品。昭和47年 10月、第40回独立展に「サンクルー(パリ郊外)」「ニース夜景」を出品。マントン、べチネア、サンマルコの風景を主とした小品展を日動画廊で開催。新潟県美術博物館の近代日本洋画の巨匠たち展に「暮色」(1951)、「静物」(1955)がえらばれる。昭和48年 10月、第41回独立展に「シシリー・カルタジローネの町」「セーヌ河岸」を出品。昭和49年 10月、第42回独立展に「上高地」「ヴィンチ村」を出品。昭和50年 3月、茨城県立美術博物館の近代日本洋画の巨匠展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第43回独立展に「浅間山」「花」を出品。昭和51年 1月、水彩素描展を日動画廊で開催。4月、日本の四季展に「暮色」(1951)がえらばれる。5月、日本経済新聞社主催「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」が東京・高島屋で開催される。6月26日午前4時7分、心筋コウソクのため東京都港区の自宅で死去。7月3日 東京・青山葬儀所において独立美術協会葬(喪主・妻文子、葬儀委員長土方定一)として告別式が行われる。同日、旭日中綬章を贈られる。(本年譜は、昭和51年5月の「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」目録所収の年譜〔作成・弦田平八郎〕より転載、一部を訂正、追加した)

南政善

没年月日:1976/04/28

洋画家、光風会理事、日展評議員南政善は、4月28日午後0時36分心筋こうそくのため東京世田谷区の自宅で死去した。享年67。明治41(1908)年5月3日石川県羽咋郡(現羽咋市)に生まれ、昭和10年東京美術学校油画科卒業。在学中藤島武二に師事し、卒業の年第二部会に出品した「アコーデオン」で特選、以後官展、光風会展などに出品、同14年「赤いチョッキ」、同16年「霜鬢」で文展特選、同13年、17年の聖戦美術展では「砲列布置」「輸送船団」で夫々陸軍、海軍大臣賞を受けた。戦後も日展、光風会展で活躍、人物画を得意とし、写実的で堅固な作風を示し、同40年日展出品作「青衫の女」で文部大臣賞を受賞した。この間、同22年には光風会同志と新樹会を創立、同30年日展会員、同38年日展評議員となったほか、日展審査員等をつとめた。また、同44年光風会出品作「印度の女」は東京都美術館の買上げとなった。

高畠陽雲

没年月日:1976/04/26

仏像彫刻家、洋画家高畠陽雲は、4月26日午前11時膀胱腫瘍のため大阪市の厚生年金病院で死去した。享年52。本名猪之吉。大正12(1923)年11月30日大阪市に生まれた。昭和20年8月6日の広島への原爆投下を体験し、仏像彫刻家の修行を始めたが、そのかたわら原爆投下の悲惨な光景を再現し後世に伝えようと油絵制作に取り組み、試行錯誤ののち同46年完成した「その瞬間」を広島市に、翌47年の「原爆炸裂」を長崎市に寄贈した。また、同50年には700号大の大作「原爆一号」を携えて渡米、国連ビルで展示するなど話題をよんだ。この間、数千枚にのぼる地獄絵を描き続けたほか、同45年原水爆物故者供養促進委員会を組織、同48年には福井市真宗三門徒派本山専照寺御影堂に被爆者の冥福を祈る「余間蓮華化生の図」を完成した。

瀬尾暹

没年月日:1976/04/05

洋画家、二紀会同人瀬尾暹は、4月5日結腸腫瘍のため死去した。享年70。明治39(1906)年3月4日名古屋市生まれ、明倫中学卒業。昭和6年二科展に「田代風景」が初入選し、以後同展に出品同17年会友となったが、戦後は同22年第1回二紀展に出品、翌23年二紀会同人となり同展に出品を続けた。また、同10年第1回愛知社展で愛知賞受賞、同12年汎太平洋博美術展で特選、同15年紀元二千六百年奉祝展で特選を受けた。同33年度中部在野美術団体連盟委員長をつとめたほか、東海学園で美術を担当、同45年以後愛知県私学協会美術研究主任として私学美術の振興にも尽力した。代表作に「五百羅漢堂」(昭和23年)「サンマルコ寺院」(昭和48年)など。

村田宏治

没年月日:1976/03/25

洋画家、東光会委員村田宏治は、 3月25日死去した。享年71。本名枝川広治。明治38(1905)年5月10日茨城県筑波郡に生まれ、茨城師範学校卒業後、熊岡美彦に師事して洋画を学んだ。第2回文展に「読書」が初入選以後、東光会展を中心に作品を発表し、昭和38年同会会員、同50年委員となった。この間、同44年3月から5月まで南欧に取材旅行し、帰国後滞欧作の個展(東京銀座銀彩堂画廊他)を開催した。

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