本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





宮内義雄

没年月日:1982/04/27

立軌会同人の洋画家宮内義雄は、4月27日心不全のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年55。大正15(1926)年7月1日千葉県銚子市に生まれ、昭和25年東京教育大学芸術科を卒業した。同41年東京・風月堂で最初の個展を開催、翌年立軌会に参加し、以後毎年同展に出品する。同43年安井賞候補展に出品した他、三月会展(同46-56年)、新鋭選抜展(同46年)、太陽展(同52-53年)、国際形象展(同54-56年)などに招待出品する。一連の漁港シリーズで知られ、たびたび個展での制作発表を行い、同56年には東京・銀座、資生堂ギャラリーで個展を開催した。この間、死去の年まで、千葉県立銚子高等学校で教えた。

網谷義郎

没年月日:1982/04/06

新制作協会会員の洋画家網谷義郎は、4月6日午前3時30分、神戸市の神戸大学付属病院で死去した。享年59。1923(大正12)年10月21日兵庫県武庫郡に生まれる。48(昭和23)年京都大学法学部を卒業。在学中の47年、法学を学ぶことに疑問を抱き、新制作協会会員桑田道夫を訪れ絵を学び始める。48年第1回関西新制作派展に出品、受賞、また第12回新制作展に「七階の窓から」で初入選する。以後新制作展に出品を続け55年第19回展では「座る」「立つ」で新作家賞を、59年同第24回展では新制作協会賞を受け、60年同会会員となる。また、57年第1回安井賞候補展に出品、以後7回出品を続ける。68年イタリアを、71年、76年フランスを訪れる。61年以降毎年関西において個展を開催し、79年には水彩画集(フランス、ロマネスクの聖堂)を刊行する。初期には風景を描いたが53年頃より人物を主なモチーフとし、キリスト教を思想的背景として人の存在を見つめた作品を描き続けた。最晩年には画題そのものをキリスト教に求めた作品を残している。

田原輝

没年月日:1982/03/06

日展会員、東京教育大学名誉教授の洋画家田原輝は、3月6日心不全のため東京の板橋区医師会病院で死去した。享年81。本名輝夫。明治33(1900)年3月15日佐賀県佐賀郡に生まれ、大正11年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業。大正14年第7回帝展に初入選、以後、帝・文展に出品し、昭和16年新文展無鑑査となる。また、同14年第3回海洋美術展に「出漁の前」で海軍大臣賞を受賞、同17年東京高等師範学校教授(同24年東京教育大学教授)に就任。戦後は日展に依嘱出品し、同28年第9回展に「吽」で特選、朝倉賞、同30年「寂光」で特選を受け、同34年日展会員となる。その後、主に仏像をモチーフに連作を発表、とくに臼杵の石仏に取材した作品で知られる。日展出品作に「天燈鬼」(同34年)、「臼杵の佛」(同46年)、「大日山石仏」(同52年)などがある。同38年退官後、東京教育大学名誉教授となり、同46年には勲三等瑞宝章を受章する。

岩田栄吉

没年月日:1982/02/24

サロン・ナシオナール・デ・ボザール審査員、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン会員の洋画家岩田栄吉は、81年9月パリで肺ガン手術を受けた帰国後、療養していたが、2月24日午後5時20分川崎市立井田病院で死去した。享年53。1929(昭和4)年1月27日東京市大森町に生まれる。慶應義塾普通部に入学し中学時代から示現会会員中村新次郎に素描を学び、画家を志す。しかし、父親の意を汲み、慶應大学工学部電気工学科へ進み、51年同科を卒業する。大学在学中も画業は捨てず、寺田春弌、久保守に油絵を学ぶ。51年慶應大学を卒業した年、東京芸術大学油画科に入学、1-2年は小磯良平、3-4年は山口薫、伊藤廉に師事。55年同科を首席で卒業する。卒業制作「ナルシス」はサロン・デ・プランタン賞を受賞。57年同校専攻科伊藤廉教室を修了し、同校油画科副手となる。同年9月、芸大入学と同時に通学し始めたアテネ・フランセを修了し、フランス政府給費留学生として渡仏する。フランスではパリ国立美術学校スーヴェルビー教室に学び、59年同校を修了する。その間エコール・デ・ルーブルにも通う。渡仏後数年間は風景画を描いていたが、60年「グランマニエールの静物」を描いて以後、静物画に転ず。62年サロン・ナシオナル会員となり、63年以降はサロン・コンパレゾン、サロン・テール・ラティーヌに招待出品する。また、この頃よりフランス人画家アンリ・カディウとの親交を通じてパントル・ド・ラ・レアリテのグループに入り、トロンプ・ルイユの方向へ歩み出す。65年サロン・アンデパンダン会員となり、69年サロン・ナシオナルでドロワ賞、75年同ファルマン賞を受賞。日本においては、70年日本橋三越で個展、70、71年国際形象展、71年安井賞候補展、大橋記念展、76年大橋賞展に出品し、77年セントラル絵画館で第2回個展を開く。73年東京芸術大学油画科、創形美術学校で講師をつとめる。芸大在学中から岡鹿之助を尊敬し、渡仏後親交を結び、また、フェルメールの作風に影響されるところが大きい。代表作に「十字架の人形」(1966)、「赤いジャケットの人形」(1968)、「ローソクと地球儀」(1976)がある。

水谷淳

没年月日:1982/02/24

大調和会創立運営委員の洋画家水谷淳は2月24日午前7時37分、胆管炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年61。茨城県行方郡に1920(大正9)年11月17日に生まれ、工学院大学卒業後、44(昭和19)年、里見勝蔵、武者小路実篤に師事する。61年には、1927(昭和2)年11月に高村光太郎、武者小路実篤らによって設立され翌年10月の第2回展を最後に解散した大調和会を再興すべく創立委員となった。再興大調和会第1回展は翌1962年2月上野公園都美術館において開かれ現在に至っている。66-67年単身ヨーロッパへ写生のため自動車旅行。69年富士短期大学美術部顧問を務めた。71年には群馬県六合村小倉にアトリエを構え制作に没頭し、画風に一転機を画した。73年渡欧、又75-76年香港で制作し、海外の展覧会にも出品している。78年には和光ギャラリーにおいて「画業35年展」が開催された。翌79年、水上勉著作になる新聞小説『椎の木の暦』の挿絵を担当、原画展は81年小田急新宿店に於て開かれた。黒の輪郭線と厚く塗り重ねた原色による明るく輝くような画面には、フォーヴィズム及びルオーを日本に紹介した師里見勝蔵の影響がうかがえる。

佐藤真一

没年月日:1982/02/11

行動美術協会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家佐藤真一は、2月11日午後3時30分、肺ガンのため、東京都狛江市の慈恵医大付属病院で死去した。享年67。1915(大正4)年12月8日、愛知県瀬戸市に生まれ、40(昭和15)年3月、京都大学経済学部を卒業する。京大在学中、美術部に属し、須田国太郎の指導を受け、37年第24回二科展に「黒衣坐像」で初入選する。同展には40年第27回展まで出品し、後、応召。終戦後、47年第2回展より行動美術協会に参加し、翌48年、同会会友に推挙され、52年、同会会員となる。57年渡仏し、パリを中心として1年あまり滞在する。帰国後、人物を主要モチーフとし、垂直、水平に物を配置する従来の構図をさらに充実させ、人間味あふれる作品を描いて画壇における位置を確かなものとする。74年4月より死去するまで武蔵野美術大学教授として教鞭をとる。76年9月、不慮の交通事故にあい、約2年間、制作活動の中断を余儀なくされ、78年ころから後遺症に苦しみながら制作を再開する。「男たち」(54年)、「浜」(56年第11回行動展出品)など、働き、生きることを見つめ、安定した構図と堅牢なマチエールを持つ作風を示す。

三浦巖

没年月日:1982/01/30

日本水彩画会会員、パリ、ル・サロン無鑑査の水彩画家三浦巖は、1月30日午後6時、食道ガンのため東京都港区三田の済生会中央病院で死去した。享年65。1917(大正6)年大阪市に生まれ、弘前中学校、第三高等学校を経て、41(昭和16)年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。大学院在学中の42年より本郷絵画研究所に学び、49年第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞し、日本水彩画会会員となった。51-54(昭和26-29)年同会委員を務め、64(昭和39)年渡仏、一年間パリに滞在する。70(昭和45)年「薬師寺の塔」がル・サロンで銀賞を受け、翌71年「パリ風景」が金賞を受賞、以後無鑑査となる。主に風景をモチーフとし、日仏両国で活躍。また、63(昭和38)年以降、文筆にも親しみ、画文集『絵になる時』(63年、七曜社)『大空画室』(68年、美術出版社)『白日夢』(私家版)を著し、77(昭和52)年には『東大石版画集』を刊行、また、技法書として『水彩画法十二ケ月』(80年、渓水社)を出版している。

川端弥之助

没年月日:1981/12/09

春陽会会員、元京都市立美術大学教授の洋画家川端弥之助は、12月9日肺炎のため京都市左京区の自宅で死去した。享年88。1893(明治26)年12月5日京都市に生まれ、京都府立第一中学校を経て1918(大正7)年慶応義塾大学法律科を卒業する。20年第7回二科展に「桃」が初入選、22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシに入学、シャルル・ゲランに師事し、24年サロン・ドートンヌに入選する。翌25年帰国し同年の第3回春陽会展に「エフエル塔」等滞欧作3点を出品、以後同展に出品を続け32年第10回展に「御陵道」等3点を出品し春陽会賞を受賞、35年春陽会会友となり、37年同会員に推挙される。また、40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「琉球ヤンバル船」を出品する。49年京都市立美術専門学校教授に就任、翌年新制大学令により京都市立美術大学となり助教授、56年教授となり、63年定年退官するまで後進の指導にあたった。71年嵯峨美術短期大学教授に就任、79年まで在職する。この間、72年に第1回京都府美術工芸功労賞を、翌73年京都市文化功労賞をそれぞれ受賞した。春陽会展への出品作に、「陽春」(13回)「店頭」(15回)「天主堂」(29回)「疎水」(35回)「坂道」(40回)「白い家」(43回)「木曾御岳」(46回)などがある。

山本直治

没年月日:1981/10/04

二紀会評議員の洋画家山本直治は、10月4日肝臓ガンのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年77。本姓秦井。1904(明治37)年8月30日大阪市に生まれる。24(大正13)年から大阪の信濃橋研究所に入り、小出楢重、鍋井克之に指導を受ける。26年、第13回二科展に「春の雪」「造花等の静物」が初入選、以後同展へ出品を続け35(昭和10)年二科会会友となった。戦後は二紀会に所属、48年二紀会同人、68年同会員に推挙され、73年第27回二紀展に出品した「潮岬」「良夜」で鍋井賞を受賞した。76年二紀会委員、翌年同評議員に挙げられた。この間の二紀会への出品作に「夜の操車場」(7回)「夜の色」(10回)「工場街」(15回)「古き家の窓より」(23回)「夜のプロムナード」(30回)「豊饒」(35回)等がある。

米田三男之介

没年月日:1981/09/05

現代美術家協会常任理事の洋画家米田三男之介は9月5日心不全のため千葉県夷隅郡の大原病院で死去した。享年68。大正2(1913)年2月26日愛媛県上浮穴郡に生まれ、昭和4年日本美術学校洋画科に入学し大久保作次郎に学び、同8年卒業する。同10年第12回白日会展に出品、この年京都で日本画を学び、関西美術院にも出入する。戦前からシュール・レアリスムの流れをくむ作風を示し、戦後は会員として二科展に出品し、同25年九室会にも所属する。同26年、51年協会に参加、同30年には美術文化協会会員となり、以後同展に出品し常任理事をつとめる。同40年、現代美術家協会会員(のち常任理事)となり、死去の年まで同展に制作発表を行う。二科展に「たそがれ」(33回)、「老樹」(34回)、「火炎樹」(35回)、美術文化協会展に「噴花」(15回)「ジュラ紀」(17回)、「月とピエロ」(19回)、「年輪」(23回)、現代美術家協会展に「誘蛾燈」(23回)、「孤独のくじゃく」(25回)、「太陽と森」(33回)、「波」(36回)などの出品作がある。

志村一男

没年月日:1981/08/21

春陽会、写実画壇会員の洋画家志村一男は、8月21日午前4時10分心臓衰弱のため、東京武蔵野市の西窪病院で死去した。享年73。1908(明治41)年1月1日長野県諏訪郡に生まれ、27(昭和2)年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学した。その後父の死去のため帰郷したが、31年の第9回春陽展に「春光の丘」、第1回独立展に「丘の風景」「富士見駅附近」がそれぞれ初入選し、春陽会研究所で学ぶようになる。この頃1930年協会展や第4回文展(41年)などにも出品しているが、34年の第12回春陽展以後は主に春陽会に出品した。40年、絵に専念する意をかため上京、53年春陽会会員に推挙された。58年には渡欧し、パリのグランド・ショミエールに学び、ヨーロッパ各地を廻っている。72年、写実画壇の結成に発起人の一人として参加し、没年まで出品した。主な作品は「厨房の静物」(48年)「手水鉢」、「河原(夕月)」(73年)など。

渡辺貞一

没年月日:1981/07/29

国画会会員の洋画家渡辺貞一は、7月29日胃ガンのため東京都練馬区の自宅で死去した。享年64。1917(大正6)年3月30日青森県に生まれ、33年青森師範図画専科に入学したが、35年上京し37年まで川端画学校で学ぶ。41年第16回国画会展に「温室」が初入選し、戦後も同展に出品し、52年国画会会友に推され、翌年国画会若手グループで「三季会」を結成、56年第30回展出品作「日蝕」で会友優作賞を受けた。57年第1回朝日美術団体選抜新人展に「森の話」を出品、翌年国画会会員に推挙された。62年には第36回国画会展出品作「囚われの船」が朝日ジャーナルの表紙に用いられる。64年から翌年にかけてヨーロッパを巡遊する。国展出品とともに、56年12月の村松画廊を最初に、しばしば個展を開催して制作発表を行い、主なものに66年の西武ギャラリー、72年の日仏画廊、79年の現代画廊などがある。没後、82年に青森市民美術展示館で「渡辺貞一遺作展」が開催された。国展への主な出品作に、「冬の教会」(23回)「裸婦」(26回)「屋上の幻想」(28回)「極光2」(43回)「川原の風景」(47回)「羅針儀の風景」(49回)などがある。

津田季穂

没年月日:1981/07/23

カトリック聖母献身宣教会修道士、洋画家の津田季穂は、7月23日肺炎のため神戸市立中央市民病院で死去した。享年81。旧姓神吉。隻眼隻脚の絵を描く修道士として知られた津田は、1899(明治32)年11月23日栃木県日光の内科病院長神吉翕次郎の五男として生まれた。1914(大正3)年、事故で右眼を失い、同年叔母の津田姓を継ぐ。19年第6回院展に「山村」が初入選、以後同展に出品したが22年日本美術院洋画部解散にともない団体展から離れた。24年上海に渡航、26年に帰国後漁師になろうとして和歌山県田辺に住む。40年に稲垣足穂の『山風蠱』の装釘にあたり、以後稲垣、石川淳、辻潤らと交友した。43年7月18日洗礼を受け、受洗後は徳島県鳴門市に住む。45年結核性骨髄炎に罹り右足を切断する。48年には鳴門の画会グループによる「ベニウズ」会に参加、以後毎年出品するとともに、67年福岡フォルム画廊での個展を最初に、大阪日動画廊(71年)、日動サロン(72年)、大阪高宮画廊(73-80年)、ギャルリー・ワタリ(76年)などで個展を開催した。この間、70年、77年、78年の3回欧米等に旅行する。80年には高宮画廊から画集が刊行された。遺作に、「雑木林」「教会の見える風景」「十字架の道行」「自画像」「夜明け前」等がある。

金子保

没年月日:1981/07/22

新世紀美術協会委員、日本山岳画協会名誉会員の洋画家金子保は、7月22日老衰のため神奈川県秦野市の鶴巻温泉病院で死去した。享年90。1891(明治24)年7月6日新潟県三島郡に生まれ、麻布中学を経て東京外国語学校スペイン語科専修科へ進んだが中退し、1915(大正4)年東京美術学校西洋画科を卒業、17年同研究科を修了した。はじめ白馬会研究所に学び白馬会展、及び第1回光風展へも出品したが、19年太平洋画会会員となり、同年第1回帝展に「北国の冬」が入選、以後7回まで連続、及び第10回展にも入選、出品作に「猪苗代湖の冬」(3回)などがある。39(昭和14)年の第3回新文展には「海」を無鑑査出品した。この間、太平洋美術学校で教えた他、31年から武蔵高等学校教授もつとめた。戦後は旺玄会に所属し委員となったが、55年大久保作次郎らの新世紀美術協会結成に参加し、同協会委員となる。旺玄会の出品作に「片瀬海岸」(2回)「江の島の春」(5回)など、新世紀への出品作に「出漁前」(1回)「トラピスト」(6回)「海近し」(16回)などがある。

田中道久

没年月日:1981/07/19

国画会会員の洋画家田中道久は、7月19日肝硬変のため東京都清瀬市の結核研究所病院で死去した。享年66。本名武久。1915(大正14)年1月3日新潟県南蒲原郡に生まれ、県立村松中学を経て東京美術学校油画科に入学、小林万吾に師事し39(昭和14)年卒業した。在学中の38年第13回国画会展に「温室」が初入選、以後40年から3年間の兵役期間を除き同展に出品する。43年には松竹映画会社に入り海軍省企画南方宣伝教育映画製作にも従事した。戦後10年間新潟県加茂市に居住、この間、47年第22回国展に「日論」「加茂川」「けし」を出品し国画会賞を受け翌年国画会会友となり、53年国画会会員に推挙される。58年から10年間国画会事務局を担当する。65年にはオランダ、スペイン他にスケッチ旅行を行い、翌年銀座資生堂画廊で個展を開催した。国展出品作に「背面裸婦」(14回)「蓮」(15回)「ほうづき」(18回)「雪の暁」(19回)「つるうめもどき」(21回)「踊子」(38回)「カラコンス」(49回)「メクネスの城塞(モロッコ)」(50回)「ステンドグラス」(51回)「ナザレの漁夫」(53回)等がある

矢部友衛

没年月日:1981/07/18

戦前の前衛絵画に大きな影響を与えた洋画家矢部友衛は、7月18日老衰のため東京都田無市の第一病院で死去した。享年89。1892(明治25)年3月9日、新潟県岩船郡に生まれ、1918(大正7)年東京美術学校日本画科を卒業する。卒業の年アメリカへ渡航、翌19年パリへ渡り、はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムをはじめ当時の新傾向の絵画に影響を受けて22年に帰国。同年の第9回二科展に立体派の画風による裸婦「習作 其一」「習作 其二」を発表するとともに、神原泰、中川紀元、古賀春江ら二科の前衛作家13名によるグループ「アクション」結成に加わった。24年に「アクション」分裂後「三科造型美術協会」創立に参加、翌年同協会解散後は浅野孟府、岡本唐貴らと「造型」(28年、未来派ロマンチシズムを駆遂し、ネオ・リアリズムを旗印とする「造型美術家協会」に再編)を創立した。26年から翌年にかけてモスクワを訪れ、プロレタリア美術を研究するとともに、「新ロシア美術展」(朝日新聞社主催で27年5-6月に東京、大阪で開催)開催に尽力した。29年にはナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟創立(PPのちJAP)に参加し委員長に就任する。40年に再渡米しニューヨークで個展を開催、この時東西文化の全面的交流による綜合リアリズム運動を提唱する。44年神奈川県湯河原に疎開、ここで「農民百態」シリーズ(生前50態余を制作)を計画する。戦後の46年、岡本唐貴との共著『民主主義と綜合リアリズム』を出しその運動を提唱、同年旧JAPのメンバーと「現実会」を結成した。48年には日本共産党に入党、68年には郷里村上に画室を設け「農民百態」の連作をつづけた。80年に米寿記念『画集 矢部友衛』を刊行する。作品は、滞欧中の「裸婦」(1920)をはじめ、三科出品の「私の名はネオ・ロマンチストです」、プロレタリア美術大展覧会出品の「職場帰り」(1928)、「労働葬」(1929)、「音」(1930)、「凱歌」(1931)などがある。

岡田正二

没年月日:1981/07/08

新制作協会会員、日本水彩画会会員の洋画家、水彩画家岡田正二は、7月8日骨肉しゅのため千葉県我孫子市の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年2月8日東京都京橋区に生まれ、保善商業学校を卒業後、34(昭和9)年蒼原会研究所を経て中西利雄に師事し水彩画を学ぶ。38年新制作協会第2回展に水彩画「滞船」が初入選、日本水彩画会展にも初入選し以後両展に出品を続ける。61年新制作第25回展に「海辺の石」「海辺の岩」各百号の大作を出品、新制作協会絵画部会員となり、その後も大作を出品し注目される。また、63年日本水彩画会賞を受賞し日本水彩画会会員となる。54年国立近代美術館で開催された「日米水彩画展」には自選作品5点を出品、63年には第1回の個展(中央公論画廊)を開催した。64、66年の現代日本美術展に入選し、67年には水彩画「七月の間(海辺)」が国立近代美術館に収蔵された。作品は他に「小屋の見える窓」「夜の都会」「ロードスの月」「遺跡」など。

山田光春

没年月日:1981/06/29

主体美術協会創立会員の洋画家山田光春は、6月29日午後9時25分、肺ガンのため名古屋市中央区の国立名古屋病院で死去した。享年69。1912(明治45)年3月21日愛知県西加茂郡に生まれ、34(昭和9)年東京美術学校を卒業、宮崎県に中学校教師として赴任し、宮崎美術協会創立に参加したのを契機に、瑛九を識る。その後愛知県に戻り、37年の第1回自由美術家協会展に「門」(ガラス絵)等6点を出品して協会賞を受賞、会友に推挙された。以後同展に毎回出品し、40年第4回美術創作家協会展(自由美術改称)出品作「一人」「二人」により、会員に推挙される。またガラス絵に対する関心も深く、48年日本硝子協会の創立に参加、以後毎年出品している。52年には創造美育協会を創立、また64年に自由美術協会を退会して主体美術協会の創立に参加した。美術教育に於ける尽力が大きく、東海地方の多くの美術文化活動に携わったほか、愛知県立女子大学、大垣女子短期大学などで教鞭をとった。著作に「瑛九の会」の機関誌での連載をまとめた『瑛九』(青龍洞76年)、『藤井達吉の生涯』(風媒社)、『よい絵よくない絵』(黎明書房)などがある。没後勲三等瑞宝章を受章

新道繁

没年月日:1981/06/10

日本芸術院会員、光風会理事長、日展常務理事の洋画家新道繁は、6月10日心筋コウソクのため東京都板橋区の都養育院付属病院で死去した。享年74。昭和30年代以来、「松」一筋に描き続ける画家として知られた新道は、1907(明治40)年3月25日福井県板井郡に生まれ、1924(大正13)年東京府工芸学校を卒業した。在学中から水彩画に親しみ、25年の第6回帝展に水彩画「早春」が初入選しデビューした。翌年の第7回帝展に油彩画「麗園」が連続入選し洋画家の道へ進み、帝・文展へ出品を続け、41年文展無鑑査となった。この間の新文展出品作に「白衣」(2回)「少女」(3回)「西湖雪」(5回)があり、40年の紀元二千六百年奉祝記念展には「白服の女」を出品した。また光風会展へも出品し34年に光風会員に推される。41年から翌年にかけて中支・北支を旅行する。戦後も日展、光風会展を中心に制作発表を行い、58年、社団法人日展発足とともに評議員となり、同年の第1回展出品作「スペインの水売り」で文部大臣賞を受賞、ついで60年には第3回日展出品作「松」で日本芸術院賞を受けた。この頃から松をテーマにとりくみ、「松の作者」として注目され始めた。この間48年には光風会の同志鬼頭鍋三郎、田村一男、森田元子らと青季会を結成し、展覧会を開催した。日展常務理事、光風会理事長も歴任した。日展出品作1946年 第1回 「花の村」1947   3 「紅葉」(招待)1949   5 「室内」(依嘱)1951   7 「唐の微笑」1952   8 「古風な椅子」1953   9 「ふくろ」1954  10 「冬の日」1957  13 「南仏の家」1958 社団法人日展第1回「スペインのみづうり」(評議員)1959        2 「スペインの旅」1960        3 「松」1961        4 「松」1962        5 「修学院林泉」1963        6 「伊豆の松山」1966        9 「松島」1967       10 「松」1968       11 「松」1969 改組第1回日展 「松」(理事)1970    2 「松」1971    3 「松」1972    4 「松」1973    5 「松」 (評議員)1974    6 「松」1975    7 「松」 (理事)1976    8 「松」1977    9 「松」1979   11 「松」1981   13 「松」

坂井範一

没年月日:1981/05/27

新制作協会会員の洋画家坂井範一は、5月27日気管支炎のため岐阜県の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年2月14日岐阜県加茂郡に生まれ、1922(大正11)年岐阜県師範学校卒業後、翌年東京美術学校図画師範科へ進み26年卒業する。卒業と同時に岐阜県女子師範学校に奉職、同年の第7回帝展に「憩へる女」が初入選。1931(昭和6)年再上京し東京美術学校研究科に入り藤島武二に師事、35年の第二部会に「青い静物」が入選、翌36年新制作派協会第1回展に「浴後」「裸婦」を出品し新作家賞、37年の第2回展には「海辺」等で新制作派協会賞、39年第4回展でも新作家賞をそれぞれ受賞し、40年新制作派協会会員に推挙された。また、同40年の紀元二千六百年奉祝展には「船の制作場」を出品する。45年に岐阜市に疎開し、戦後は同地に定住、49年岐阜大学学芸学部芸術科の教授に就任す。新制作協会展に作品を発表する側ら地域の美術教育に積極的に関与し、52年には岐阜県造形教育連盟を組織し初代委員長に就任した。この間、51年にイサム・ノグチが岐阜を訪れ、坂井家を拠点に堤燈のデザインを行ったのに影響され、現代デザインにも関心を示すようになる。62年、岐阜大学を定年退官後も、愛知女子短期大学、東海女子短期大学に教えた。また、71年に岐阜日日賞を受け、81年には紺綬褒章を受章する。新制作への出品は他に、「洲の暁」(6回)、「渓流」(24回)、「船A」(29回)、「古い物語A」(34回)などがある。

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