本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





井上三綱

没年月日:1981/05/19

元国画会会員の洋画家井上三綱は、5月19日老衰のため神奈川県小田原市の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年1月15日、福岡県八女郡に生まれ、1916(大正5)年福岡県小倉師範学校に入学、在学中に画家を志し卒業後上京、本郷絵画研究所に学んだのち、23年から同郷の先輩坂本繁二郎に師事する。1926(大正15)年第7回帝展に「牛」が初入選、以後7回帝展・新文展に出品、30年には牧雅雄について彫刻も学び、日本美術院展に彫刻作品を2度(第15、16回)出品した。43年、造形芸術社から『万葉画集』を刊行、45年には「古事記屏風」を制作、翌年から箱根早雲寺に参禅した。50年にイサム・ノグチの訪問を受け、またエリーゼ・グリリー女史を知り制作上の自信を得、同年の第24回展から国画会展に出品、翌年の25回展に「たいくつした牛」「水辺の馬」を出品し国画会会員に推挙された。55年、ニューヨーク、ブルックリン展に前年作の「裸婦群像」「浴後」を出品、57年にはサンパウロ・ビエンナーレ展に「しゃがみかけた牛」(50年作)「驚」(51年作)を出品、またニューヨーク近代美術館における国際水彩展にも出品した。この間、53年の第2回日本国際美術展に「農」他1点、翌54年の第1回日本現代美術展に「第一の日」「牛小屋」を出品、国際展は59年の第5回、現代展は60年の第4回展までそれぞれ出品した。59年、美術出版社から『画集 井上三綱』を刊行する。61年、国画会を退会し、以後無所属となる。74年には、セントラル美術館で屏風絵による個展を開催した。国展への出品作に「海辺の牛」(26回)、「まるまげの女」(30回)、「はたおり」(31回)、「働く女」(34回)などがある。

里見勝蔵

没年月日:1981/05/13

国画会会員の洋画家里見勝蔵は、5月13日心筋こうそくのため鎌倉市の自宅で死去した。享年85。大正から昭和にかけてフォーヴィスムを紹介し、当時の画壇に大きな影響を及ぼした里見は、1895(明治28)年6月9日、京都市四条に生まれた。生地は現在の大丸百貨店敷地内にあたり、かつて近隣に松村呉春、円山応挙も住み、当時は安井曽太郎、梅原龍三郎の家とも四、五丁程度離れた場所であった。京都府立第二中時代は音楽家を志したこともあるが、後に音楽評論家となった野村光一等と東京美術学校日本画科出身の鈴川信一(のち東京美術学校教授)に図画を学び、1913(大正2)年卒業後関西美術院に入り鹿子木孟郎の指導を受けた。翌14年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎に素描を、小林万吾、藤島武二、黒田清輝に油絵を学び、19年に同校を卒業する。渡欧前の池袋時時代では、美校三年生の頃知った安井曽太郎を最も尊敬し、セザンヌにも傾倒、また在学中の17年には鍋井克之の勧めで第4回二科展に「職工」を出品し初入選、同年の第4回院展にも「下濱風景」が入選する。21年にフランスへ留学、マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。渡仏中、前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られ、また、24年には「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。25年に帰国後京都に居住、同年の第12回二科展に滞欧作「マリーヌの記念」など7点を出品し樗牛賞を、27年の第14回展には「裸女の化粧」など6点を出品し二科賞をそれぞれ受賞、28年二科会会友、30年同会員に推挙される。一方、26年に渡仏中交友のあった前田、小島、木下孝則、佐伯祐三と5名で里見の命名による一九三〇年協会を設立、同年5月に日本橋区北槙町の日米信託ビル階上に第1回展を開催し、滞欧作40点を出品した。同展は所期の目的である1930年の第5回展まで続けられて解散し、里見は二科会会員も辞し同年11月児島善三郎、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、翌31年の第1回展に「女(独立記念)」など8点を出品、以後第7回展まで出品を続けた。この間、29年に上京し井荻にアトリエを新築し移住する。54年、独立美術協会を退会し、以後美術団体に所属せず井荻で制作を続けたが、戦後の54年国画会に会員として加わり、同年4月に再渡仏、ブラマンクをはじめガシェ、ザッキンらに再会し、58年に帰国した。翌59年第33回国画会展に滞欧作「ルイユの家」など8点を出品、以後81年の第55回展まで毎年出品する。62年には井荻から鎌倉山に移転、67年に「里見勝蔵近作展」を東京日本橋三越で開催、68年には「里見勝蔵第一回自選展」(10月22日-27日)を同三越で開催した。晩年まで一貫してフォーヴの画風を展開、強烈な色彩と奔放な筆触による独自な画境を拓いた。著書に『ブラマンク』『異端者の奇蹟』『赤と緑』『画魂』など。主要出品目録1917年 4回二科展 「職工」(初入選)1918年 5回二科展 「静物」1919年 6回二科展 「静物」1921年 8回二科展 「肖像」1925年 12回二科展 「マリーヌの記念」「渓谷の春」「静物B」「雪景」「静物C」「プロヴァンス風景」「肖像」(樗牛賞)1926年 13回二科展 「友人の肖像」「静物」「静物」1927年 14回二科展 「軍人の肖像」「横はる女」「静物」「裸女の化粧」「南方の男」「裸女」(二科賞)1928年 15回二科展 「娘の化粧」「「シャボテンと石膏像」「女(一)」「静物」「女(二)」1929年 16回二科展 「女」「静物」「女」「肖像」「肖像」1930年 17回二科展 「女」「女」「女二人」「静物」「女と花」1931年 1回独立展 「マネキンの静物」「静物」「肖像」「男の首」「女(独立記念)」「家族」「静物」「女の顔」1932年 2回独立展 「静物」「画室にて」「女児」「女」1933年 3回独立展 「女」「女」「姉妹」「あじさゐ」「黄衣女」1934年 4回独立展 「少女像」「静物」「女」「水蓮と緋鯉」「少女像」1935年 5回独立展 「題未定」(三点、博覧会目録による)1936年 6回独立展 「肖像」「富士・桜」「荒磯」「女」1937年 7回独立展 「女」「チューリップ」「仏像」「少女」「富士」1959年 33回国展 「ルイユの家」「パンの静物」「赤毛の女」「イビザの岩石」「花束」「老友像」「曠野」「雪山」1960年 34回国展 「グラナダの郊外」「少女像」「マリーヌの早春」1961年 35回国展 「峡谷」「高原」1962年 36回国展 「イビザの田野」「橄欖」1963年 37回国展 「IBIZAの海岸」「イル・ド・フランス」1964年 38回国展 「ヴァルモンドア」1965年 39回国展 「道」「花」1966年 40回国展 「ラ・トゥルイエール」1967年 41回国展 「ペール・ギランの家」1968年 42回国展 「オーベルの農家」1969年 43回国展 「ノルマンディ風景」1970年 44回国展 「農家」1971年 45回国展 「ベアトリス」1972年 46回国展 「女の顔」1973年 47回国展 「アコ」1974年 48回国展 「イビザの山野」1975年 49回国展 「千」1976年 50回国展 「婦人像」1979年 53回国展 「顔」1980年 54回国展 「顔」1981年 55回国展 「風景」

中村直人

没年月日:1981/04/22

二科会会員の洋画家中村直人は、4月22日敗血症のため東京港区の東京船員保険病院で死去した。享年75。本名直人。1905(明治38)年5月19日、長野県小県郡に生まれ、神川尋常小学校時代に山本鼎の農民美術研究所(同小学校内)で美術に触れ、山本の紹介で1920(大正9)年日本美術院同人吉田白嶺の内弟子となり木彫を学ぶ。24年第13回日本美術院展に木彫「清韻」が初入選、以後同展へ彫刻作品を出品し、29(昭和4)年第16回院展に「少女立像」を出品、日本美術院院友となり、翌年の第17回展では「道化役者」で日本美術院賞を受賞、36年第23回院展に「鈿女命」を出品し美術院同人に推挙された。37年北支戦線に従軍、翌年春銀座松屋で「北支従軍スケッチ展」を開催、39年聖戦美術展に「工兵」を出品し受賞、42年海軍報道班として従軍、同年岩田豊雄の朝日新聞連載小説『海軍』の挿絵を担当した。戦後の1952年12月にパリへ留学、13年間の滞在中に油絵を学び個展も開催して注目を集め、64年に帰国、同年銀座松屋で絵画作品による「中村直人滞仏絵画展」(10月30日-11月4日)を開催27点を出品した。70年、二科会絵画部会員として迎へられ、「裸婦」「おびえた子供」「巴里の女」を初出品、72年第52回展には「憩」「荒天」を出品し会員努力賞を受け、80年第65回展出品作「会合」で総理大臣賞を受賞した。彫刻から絵画へ転向した異色作家で、多彩でエキゾチックな女性像を得意とした。二科展への出品は他に「呼びこみ」(51回)、「裸婦横臥」(53回)、「裸婦」(56回、青児賞)、「朝」(59回)、「ピエロの一家」(61回)などがある。

御正伸

没年月日:1981/04/13

三軌会代表、洋画家で挿絵でも活躍した御正伸は、4月13日心筋コウソクのため東京都西日暮里の関川総合病院で死去した。享年66。1914(大正3)年12月10日、東京・日本橋に商家の長男として生まれ、31(昭和6)年東京市立京橋商業学校を卒業した。37年から川端画学校、鈴木千久馬絵画研究所に学び、39年劇団「青陽会」を結成、美術監修、舞台装置にもあたり、翌年は築地小劇場での『じゃがたらお春』の舞台装置を担当する。戦後、47年の第33回光風会展に「厨房にて」が初入選、53年光風展会友、57年同会員となる。また、50年第6回日展に「裸婦」が初入選、70年まで同展にも出品する。一方、52年日本経済新聞連載の中山義秀作『朝雲暮雲』の挿絵を担当、以後、富田常作『真昼の人』(54年、東京新聞)、柴田錬三郎『剣は知っていた』(55年、東京新聞)、石坂洋次郎『陽のあたる坂道』(57年、読売新聞)、円地文子『愛情の系譜』(60年、朝日新聞)、舟橋聖一『寝顔』(62年、読売新聞)等、毎年新聞連載小説の挿絵を描き、66年講談社挿画賞を受賞、挿絵画の第一人者となった。その後の挿絵には、舟橋聖一『太閤秀吉』(70年、読売新聞)、有吉佐和子『複合汚染』(74年、朝日新聞)等がある。71年に光風会を退会し、翌年三軌会の会員となり第24回展に「庭」を出品、74年第26回三軌会展出品作「太宰府抄」で文部大臣奨励賞を受け、77年からは三軌会代表となった。子供の頃から芝居に親しんだこともあり、早くから古典舞踊、歌舞伎に深い関心を寄せ、それらを題材にした作品が多く、53年頃からは本格的に歌舞伎の連作に入った。80年に日動サロンで「御正伸展」(6月5日-12日)を開催。三軌会展への出品作に、「連獅子抄」(25回)、「安宅」(28回)、「散華」(29回)、「白鷺抄(A)」「同(B)」(30回)、「道成寺抄」(32回)などがある

池田淑人

没年月日:1981/02/03

画壇から離れ、詩情豊かな作品を描いた孤高の画家池田淑人は、2月3日午後3時57分、老衰のため東京・西荻中央病院で死去した。享年94。前半生を音楽家として活動し、画家としてもほとんど美術団体に所属せず自由な制作を続けた異色の作家であった。1886(明治19)年6月12日秋田市に生まれ、1904年18歳の時に県立横手中学校を3年で中退、英語教師チャンプリンに伴われ渡米する。数年をチャンプリンの故郷ペトロマの学校で過ごした後、1909年サンフランシスコに赴き、詩人オーキン・ミラーの山荘に止宿、ここで同門の野口米次郎、菅野衣川らと共に、ミラーに詩を学ぶ。同時に、サンフランシスコ音楽学校でチェロを、同地のパプキン美術学校で絵画を学んだ。23(大正12)年に帰国し、郷里秋田の各地でチェロ演奏会を開いた後、東京、京都へと移り、演奏活動及びチェロと英語の教授を専らとした。また家が近かった須田国太郎との交遊も、25年頃より始まっている。26(昭和元)年指を痛め、楽器の演奏が出来ないため油絵を制作し、翌年初の個展を開催、絵画のほか英詩8篇を出品している。また28年には須田国太郎のすすめで関西美術院展に出品した。29年上京し、新宿・紀伊国屋画廊で「原人の絵原人の詩」と題した個展を開催したが、中川紀元が芳名録に「非原人」と記帳し話題になったのはこの時である。ここでも油絵のほか英詩10篇を出品している。このほか、後にヘッセらの絶賛を受けた英詩集『流浪のうた』(1952年)も発表するなど、豊かな文学的素養は絵にも大きく影響する。「自画像」や「妻の像」「燃える砂漠」(いずれも27年頃)など、初期の作品は強烈な色彩と強い筆致のフォーヴ的な画風を示すものの、次第に単純化されたフォルムの神秘的な画風へと移り「馬鈴薯」(40~42年)「古代馬」(44年)「双馬」(64年)「黄昏の春」(65年)「天地一体」(65年)「夜明の花」(65年)「ペガサス」(65年)などが描かれる。一方、戦後の48年に自由美術協会会員に推され、以後毎年出品したが、63年に脱退、ヨシトの名をもじって「ヨステ」或いは「鯢山人」と名のり、自宅で個展を開いたり、ほぼ毎年1回のペースで画廊で個展を行なうなど自由な制作を続けていた。79年に新宿・小田急で、80年に高岡市立美術館でそれぞれ「池田淑人展」が行われ、81年没後に遺作展が秋田市文化会館で開催された。

谷内六郎

没年月日:1981/01/23

子供を主人公とし、郷愁をさそう独特の画風で親しまれた童画家谷内六郎は、1月23日午前7時30分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年59。1921(大正10)年12月2日東京・恵比寿に生まれ、6、7歳の頃から喘息に悩まされて病床で過ごすことが多かった。早くから絵が得意で、35(昭和10)年小学校を卒業後、町工場や雑誌社で見習いをしながら漫画やカット等を投稿、16歳の時に報知新聞に半ページの漫画を発表した。しかし持病のため勤めを転々とし、38年には千葉県御宿で転地療養生活を送ったが、ここでの漁港や海辺のスケッチが後年の作品の素地となった。独特の画風で既に一部の人には知られていた彼の童画が注目されるようになったのは、55年3月の文芸春秋漫画読本に「行ってしまった子」10点を発表し、第1回文芸春秋漫画賞を受賞してからである。同年『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)を刊行し、翌56年、週刊誌ブームのきっかけをつくった「週間新潮」が発刊されると、その表紙絵を創刊号から担当、彼の絵は広く知られるようになり、子供を主人公にほのぼのとした叙情的な絵は、深く人々の心を捉えた。没するまで25年間一号も欠かさず描き続けた同誌の表紙絵は、1289号に達し、既に描き終えて没後発表されたものも含めると1303号の多きにのぼった。また彼自身虚弱な幼児期を送った体験から、福祉活動や障害児に対して終始温かい眼を持ち続け、「ねむの木学園」(静岡県浜松町)では77年から子供たちの絵の指導を続けていた。一方、幼児期の郷愁に根ざした作詞や随筆でもすぐれた作品を残し、芸術祭作詩賞を受賞している。56年に初の個展(東京・大丸)を開催し75年にはヨーロッパをスケッチ旅行、また児童出版美術連盟、漫画家協会の会員として、児童画展の開催などにも力を注いだが、その活動は一貫してヒューマニズムに支えられていた。画集・著作に『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)『谷内六郎随筆』(修道社)『染色工芸』(主婦の友社)『幼な心の歌』『遠い日の絵本』『ねむの木』『旅の絵本』などがある。

松葉清吾

没年月日:1980/10/25

二科会会員の洋画家松葉清吾は、10月25日急性心不全のため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年80。1900(明治33)年10月13日堺市に生まれ、上京後20年に本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事する。26年渡仏し、32年までパリに滞在、この間アカデミー・ランソンでジョルジュ・ビシェールに師事、また、アンドレ・ロートにもつく。はじめ光風会展、春陽会展、国展に出品したが、その後出品を止め独自で研究にあたる。50年、第35回二科展に「天使の歌ふ」等を出品し二科会会友となり、翌年「叫び」等を出品し会員に推される。以後、同展に制作発表し、九室会にも属した。64年、第49回展に「作品C」等を出品し、二科展会員努力賞を受ける。また、関西女子美術短大で教えた。抽象作品を専らにし、二科展への出品作に「作品B」(53回)、「緑の作品(2)」(59回)、「私の舟」(61回)などがある。

鈴木千久馬

没年月日:1980/09/07

日本芸術院会員、日展顧問の洋画家鈴木千久馬は、9月7日肺炎のため東京港区の東京慈恵会医科大学付属病院で死去した。享年86。1894(明治27)年7月23日、福井市に生まれ、1908年一家で上京、14年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二教室に学び(同級に中村研一、前田寛治)、20年卒業する。卒業の年、第3回帝展に「緑蔭にて」が初入選、25年から27年の第6-8回帝展で連続特選を受賞し、28年帝展無鑑査となるが、同年渡欧しフランス、イタリー、スペインで学び、29年に帰国する。滞欧中、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受けたが、ことにブラマンクのフォーヴィスムに傾倒する。帰国の年、1930年協会第5回展に滞欧作38点を出品。翌年帝展審査員に推挙され出品、以後、帝展、文展の審査員を毎年つとめる。41年、中野和高ら11名の同志と創元会を創立。戦後は、日展、創元会を中心に制作発表を行い、57年第12回日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞、58年には新日展の評議員となる。72年、日本芸術院会員に任命され、74年勲三等瑞宝章を受章する。この間、51年(日本橋三越)、62年(高島屋ギャラリー)に自選展を、69年には日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」を開催する。また、69年に、『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)が刊行される。後年は、伝統的な東洋画の画趣にひかれ、日本的フォーヴとよばれる淡泊な味わいをもつ独特な画境を拓いた。略年譜1894 7月 23日、鈴木小弥太三男として福井市に生まれる。1901 福井市宝永尋常小学校入学。1905 父小弥太没。1906 県立福井中学校入学。1908 一家で上京、日本中学校に転入。1910 日本中学校卒業。1914 東京美術学校入学。1921 東京美術学校西洋画科卒業(藤島武二教室。同級に前田寛治)。第3回帝展「緑蔭にて」初入選。1922 8月、常盤松高等学校図画科教師となる(-27年12月迄)。第4回帝展「卓上静物」1923 日本美術展「卓上静物」入賞。1924 第5回帝展「静物」1925 1月、日本中学校教諭となり図画を教える(-27年12月迄)。8月、西川正子と結婚。第6回帝展「寝椅子の裸婦」特選。1926 第7回帝展無鑑査出品「椅子による裸婦」特選。1927 第8回帝展「椅子による裸少女」「四人の女」特選。1928 絵画研究のため渡欧、主にパリに滞在し、仏、伊スペイン等を巡歴。滞欧中、ブランマンク、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受ける。1929 帰国。1930年協会展第5回展に滞欧作38点を出品。第10回帝展「裸婦」。1930 帝展審査員(以後毎年)となる。第11回帝展「草上の裸婦」。1931 第12回帝展「家族」。1932 第13回帝展「母子」。日動画廊で旧作による個展。1933 第14回帝展「庭先」。1934 第15回帝展「初秋の朝」。1935 帝展第2部会展「小春日和」。1936 文展招待展「小豆島風景」。四元荘設立。1937 第1回文展(新文展)審査員(以後しばしば)となり、「清流」出品。1938 鈴木絵画研究所設立。第2回文展「春」。1939 第3回文展「滝」、政府買上げとなる。四元荘展「早雲山を望む」「姨捨風景」。1940 母たま没。紀元二千六百年奉祝美術展に「白」招待出品。白日展「富士」。四元荘展「花と少女」「安茂里」。1941 中野和高ら同志11名と創元会を創立、第1回展に「杏村の春」「太平洋を望む」を出品。1942 第5回文展「子供達と母」。第2回創元会展「母性」「秋酣」。1943 第6回文展「山峡の春」。第3回創元会展「黎明」。1944 戦時特別文展「海浜風景図」。第4回創元会展「梅咲く」。1945 福井市に疎開する。1946 第1、2回の日展に出品せず。創元会小品展「梅咲く家」。1947 帰京。第3回日展審査員となり、「晩夏」出品。1948 第7回創元会展「裸婦横臥」「花」。第2回美術団体連合展に「花」(7回創元会展)を招待出品。1949 第8回創元会展「娘の顔」「三宝柑」。1950 日展運営委員会参事を依嘱される(-58年迄)。第6回日展「卓上静物」。第9回創元会展「岬」「静物」1951 日本橋三越で旧作による自選展。第7回日展「鰈のある静物」。第10回創元会展「室内」「アネモネ」。1952 第8回日展「つゆばれ」。第11回創元会展「凝視」「卓上の花」。1953 国立公園協会より国立公園絵画展への製作を委嘱され「奥秩父」を出品。第9回日展「窓際」。第12回創元会展「オリーブ」「静物」「小豆島小景」。1954 第10回日展「花菖蒲」。第13回創元会展「ナチウルモルトアメロディ」「果物」「薔薇」。1955 第11回日展「初秋」。第14回創元会展「花(ダリア)」「静物」「無題」。1956 第12回日展「てっせん」政府買上げ。第15回創元会展「椅(いいぎり)」「ミモザ」「弾奏」。1957 前年度日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞。第13回日展「朝顔」。第16回創元会展「向日葵」「静物」。第4回日本国際美術展(秀作美術展)に「朝顔」(日展出品作)を招待出品。1958 財団法人日展(新日展)の評議員となり、第1回展の審査員(以後隔年)をつとめ、「雪柳」を出品。第17回創元会展「小菊」「庭の雪」「花」。1959 第2回日展「萩咲き初む」。第18回創元会展「蓮池の一隅」「つゆ萩」。1960 第3回日展「椅子による裸婦」。第19回創元会展「櫛けずる」「アトリエの一隅」。1961 第4回日展「竹」。第20回創元会展「紫陽花」「アネモネ」「庭の隅」。1962 高島屋ギャラリーで自選展。第5回日展「寂」。第21回創元会展「夜桜」。1963 第6回日展「叢」。第22回創元会展「かすみ草」「庭の隅」「水蓮」「肖像」。1964 第7回日展「髪」。第23回創元会展「菫を持つ裸婦」「庭の一隅」。1965 第8回日展「帽子の裸婦」。第24回創元会展「かすみ草」「てっせん」「鏡の前」1966 福井県公民館で個展。第9回日展「拈花(ねんげ)」第25回創元会展「雪原に舞う」(政府買上げ)「薔薇と裸婦」「芒咲く」。1967 第10回日展「支那服の娘」。第26回創元会展「なわとび」(政府買上げ)「庭に咲いた花」「知床」。1968 第11回日展「支那服の娘」。第27年創元会展「薔薇と支那服の娘」(政府買上げ)「グラバー邸グリーンルーム入口」「富士(山中湖)」。1969 日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」(9.2-7)を開催。改組日展の評議員となり第1回展に「浴後」を出品。第28回創元会展「支那服の娘」「庭に咲いた花」。『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)を刊行。1970 第2回日展「双鏡」。第29回創元会展「椅子による女」「木の間富士」「五重塔夜景」1971 第3回日展「阿修羅の流れ」。第30周年記念創元展「舞妓」「牡丹」「黎明松島」。1972 日本芸術院会員に任命される。第4回日展「牡丹」。第31回創元会展「夕涼み」「牧場黎明」「浴」。1973 日展顧問となる。第5回日展「薔薇を持つ少女」。第32回創元会展「夜の海」「支那服の娘」。アートサロン銀座ノバで個展を開催(11.1-20)。1974 勲三等瑞宝章を受章。第6回日展「浴衣」。第33回創元会展「舞妓立姿」「鏡の前」「薔薇」。1975 第7回日展「てっせん」。1976 第8回日展「花束を持つ裸少女」。第35回創元会展「藤咲き初む」「横臥裸婦」。1977 第9回日展「椅子に凭る女」。第36回創元会展「白牡丹」。1978 第10回日展「白いレース」。第37回創元会展「髪を洗ふ」。1979 第11回日展「霞草と裸少女」。第38回創元会展「薔薇(2点)」「果物を持てる女」。1980 第12回日展「横たわる女」。第39回創元会展「仔犬を抱く女」「扇子を持てる女」。9月7日没。東京都港区元麻布の竜沢寺に葬る。法名、禅岳院徹心創元居士。

朝妻治郎

没年月日:1980/09/05

モダンアート協会会員の洋画家朝妻治郎は、9月5日食道ガンのため東京都港区虎の門病院で死去した。享年64。本名金次郎。1915(大正4)年11月18日、東京市本所に生まれ、東京府立第三商業学校を中退後、35年から翌年にかけて本郷絵画研究所に通う。37年、長谷川三郎の知遇を得て師事し、翌年第2回自由美術展に彫刻作品(ベニヤ板、針金による立体)が初入選、39年自由美術協会会友となり木彫を出品する。戦後、同会会員となるが、50年に退会し、同年創立のモダンアート協会に属し、51年の第1回展に「退屈な関係」などを出品、翌年会員となり以後同展に制作発表を行う。モダンアートの他、49年第3回美術団体連合展に「LA VIE」、翌年の第4回展に「人間」他を、53年、国立近代美術展での「抽象と幻想展」に「祈り」を出品する。また、現代日本美術展(第1回「日本の神話」、第2回「十字の像」、第3回「門跡」他、第4回「モナの十字」他)、日本国際美術展(第3回「仮装」他、第4回「春の像」他、第5回「東方」)にも出品した他、個展もしばしば開催する。銅版画、彫刻作品も手がける。モダンアート展出品目録1951 第1回 「退屈な関係」「像・骰子」1952 第2回 「幕は開いた」「冬眠」1953 第3回 「人間と記念碑(扉の為の三部作)」1954 第4回 「人」「冬の像」「冬の影」「仮面1-9(テラコッタ)」「ナルシス」「果実」「像」1955 第5回 「日本の神話 B」「立っている人」「凍る日」「西方の人」1956 第6回 「十字の像」「風景」「像(休む)」「白の像」1957 第7回 「碑」「春の像」「鐘の像(一)」「同(二)」1958 第8回 「東方の門」「冬の像」「北の窓」1959 第9回 「稜」「握」1960 第10回 「モナの十字」「クロス」「ユミ」1961 第11回 「柱」「双十字」「殷の象」1962 第12回 「人と」「周辺」1963 第13回 「アヤ」「リザの壁」1964 第14回 「ヨーロッパ」「東洋の人」1965 第15回 「ローザンヌの扉」「ヨーロッパ65」1966 第16回 「テスト氏の系図」「シルクロードで」1967 第17回 「風景について(其の1)」「同(其の2)」1968 第18回 「’65JAN.29」「風景について(其の五)」1969 第19回 「辺」「会」1970 第20回 「方丈(A)」「同(B)」1971 第21回 「双」「緑」1972 第22回 「出会い(西方)」「同(東方)」1973 第23回 「景(仏伊国境)」「同(ヨーロッパの壁)」1974 第24回 「内と外と(U)」「同(E)」1975 第25回 「北方飛行」1976 第26回 「朱と緑」1977 第27回 「景の印象」1978 第28回 「薫十字」1979 第29回 「ある人々の紋章」「十字誕生」1980 第30回 「解体した八月の十字」

四方れい

没年月日:1980/08/20

春陽会々員の四方れいは8月20日肺炎のため名古屋市千種区の東市民病院で死去した。享年78。1902(明治35)年3月5日神戸市に生まれ、兵庫県立神戸第一高等女学校を卒業した(旧姓佐々木)。24年四方博と結婚、27年朝鮮京城に住んだ。終戦まで鮮展に出品し、戦後50年「後庭」が第27回春陽会展に初入選し、63年春陽会準会員に、同66年会員になった。作品に「遠い道」「花が咲いた」「道」「子供のいる風景」「とりのくる丘」などがある。

高宮一栄

没年月日:1980/07/31

日展会員の高宮一栄は、7月31日脳いっ血のため東京都港区の自宅で死去した。享年78。1902(明治35)年3月11日福岡県門司市に生まれ、福岡県立門司高等女学校を経て同高女研究科を20年卒業した。岡田三郎助に師事し、36年以来毎年帝展、文展、日展等に出品、37年第1回新文展出品の「水郷の午後」では特選となった。そのほか戦前の作品には2回文展「蓮の実」、3回文展「炉辺」、奉祝展「山のいでゆ」、同4回「西瓜畑の朝」などがある。文展は42年より無鑑査出品となり、日展では49年招待となった。官展のほか光風会にも出品し、44年岡田賞を受賞した。光風会評議員、女流画家協会々員。作品は薄ぬりの絵具で、南画風の自由な描法に特色があった。独身で独り暮しをしていた。

根岸敬

没年月日:1980/07/29

一水会委員の根岸敬は、7月29日急性肺炎のため埼玉県毛呂山町の埼玉医大附属病院で死去した。享年65。1925年6月25日埼玉県秩父郡に生まれ、安井曽太郎に師事した。一水会及び日展に出品し、1959年一水会々員、同77年委員に推挙された。なお日展では第2回展出品の「二人」、第4回展「早矢」が特選となり、以後日展招待となり、ついで委嘱となった。また1980年記念切手童話シリーズの「赤トンボ」原画が絶筆となった。

藤井令太郎

没年月日:1980/06/25

春陽会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家横井令太郎は、6月25日午後4時5分直腸ガンのため東京都三鷹市の杏林大付属病院で死去した。享年66。1913(大正2)年9月18日長野市に生まれ、37年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)油絵本科を卒業。戦後53年の第30回春陽会に「壊れた椅子」ほか2点を初出品し春陽会賞を受賞、翌年同会会員に推挙された。また54年第1回現代日本美術展に「椅子と影」「壁と椅子」、55年第3回日本国際美術展「不安定な椅子」「古風な椅子」、57年第4回日本国際美術展に「アッカドの椅子」(鎌倉近代美術館賞新人賞受賞)と、椅子をテーマにした作品を多く描いている。57年には日比谷図書館ロビーの壁画制作に加わる。一方55年より武蔵野美術大学教授をつとめるとともに60年渡欧、77年安井賞選考委員となった。主な作品は「アッカドの椅子」「ドンキホーテ」「壊れた椅子」「ピエロ達」など。

横井礼以

没年月日:1980/06/22

二紀会名誉会員の洋画家横井礼以は、6月22日肺炎のため名古屋市千種区の自宅で死去した。享年93。本名礼一、初号礼市。1886(明治19)年10月1日愛知県海部郡に生まれ、三重県立第二中学卒業後上京、白馬会洋画研究所に学び、1908年東京美術学校西洋画科に入学、12年に卒業する。14年第8回文展に「遊歩場」が初入選、翌年の第9回展に「水浴の後」が入選するが、17年から二科展に出品し、19年第6回二科展に「王麥の畑」「向日葵」など5点を出品して二科賞を受賞、23年に二科会会員に推挙される。28年眼疾のため名古屋に移住、30年に緑ケ丘洋画研究所を起す。戦前の二科展出品作には、「高田馬場郊外風景」(第8回)「室内静物」(第12回)「河鹿」(第29回)などがある。戦後の47年、熊谷守一、宮本三郎ら旧二科会員九名と第二紀会(のち二紀会)を創立、以後同会委員として運営並びに制作発表を行う。50年、中日文化賞を受賞、54年には眼疾快癒を機に号を礼市から礼以と改める。60年に「横井礼以自選画集」(三新社)を刊行、67年には勲四等瑞宝章を受章する。77年、れい夫人の死去と同時に「孤独と不安の明るい自画像」を完成、これが二紀会最後の出品となる。二紀会初期の出品作に、「正月」(第2回)「姉妹」(第5回)「姥子」(第10回)「水の侵触」(第12回)などがある。眼疾に病されながらも、ぼうようとした俳画的な作風に独自な展開を示した。

米原二郎

没年月日:1980/06/09

独立美術協会会員の洋画家米原二郎は、6月9日心不全のため東京都目黒区で死去した。享年68。1912(明治45)年2月26日大阪市に生まれる。独立美術協会美術研究所創設時に学び、須田国太郎に師事する。38年第8回独立展から出品し、以後同展に出品を続ける。61年に中南米を経てヨーロッパに遊学、パリのサロン・ドートンヌにも出品する。63年と翌年の第31、32回の独立展に「屋根と煙突」と「屋根と壁」他で連続独立賞を受賞、65年に独立美術協会会員に推挙される。68年から翌年にかけて中南米、北米に、73年にはコルシカ島に取材旅行を行う。独立展の他、東京、大阪、静岡、秋田で73年以降毎年個展を開催する。

渡辺浩三

没年月日:1980/06/08

日展参与、東光会委員の洋画家渡辺浩三は、6月8日午後8時34分。脳出血のため熊本市の熊本大学付属病院で死去した。享年82。1897(明治30)年8月9日秋田県仙北郡に生まれ、1917年京城中学校を卒業、24年東京美術学校西洋画科を卒業した後、6年間パリに留学しロジェ・ビシェールに師事した。帰国後の30年「静物」が帝展に初入選、翌年の第8回槐樹社展で槐樹賞を受賞した。33年の第1回東光展で東光賞を受賞し翌年会員、34年第15回帝展で「室内」が特選となる。以後、文展・日展・東光会を中心に出品を続け、また43年には大潮展審査委員、46年日本アンデパンダン展創立準備委員もつとめている。戦後、日展では47年から73年までの間に5度審査員をつとめ、49年から依嘱出品、58年に会員、64年評議員、74年参与となった。この間、52年秋田市立工芸美術学校校長に就任、56年から岡山大学教育学部教授をつとめ、63年から翌年にかけ主にフランス・スペインを旅行している。静物画を得意とし、主要作品は上記のほか「扇を持てる女」(27年)「リュー・エルヌの横町」(29年)「楽器のある静物」(79年)「椅上静物」(80年)など。日展出品目録1930 第11回帝展 「静物」1931 第12回帝展 「静物」1932 第13回帝展 「微睡」1933 第14回帝展 「横臥せる裸婦」1934 第15回帝展 「室内」1937 第1回新文展 「草上」1938 第2回新文展 「静物」1939 第3回新文展 「静物」1940 紀元2600年奉祝美術展 「静物」1941 第4回日展 「盛夏静物」1943 第6回日展 「晩夏静物」1947 第3回日展 「静物」 審査員1949 第5回日展 「静物」 依嘱出品1950 第6回日展 「初秋静物」 依嘱出品1951 第7回日展 「静物」 依嘱出品1952 第8回日展 「裸婦」 依嘱出品1853 第9回日展 「静物」 依嘱出品1954 第10回日展 「静物」 依嘱出品1955 第11回日展 「日向葵」 審査員1956 第12回日展 「朝顔」 依嘱出品1957 第13回日展 「静物」 依嘱出品1958 第1回新日展 「静物」 会員1959 第2回新日展 「卓上静物」 会員1960 第3回新日展 「紫陽花」 会員1961 第4回新日展 「静物」 会員1962 第5回新日展 「静物」 審査員1963 第6回新日展 「静物」 会員1964 第7回新日展 「静物」 評議員1965 第8回新日展 「静物」 評議員1966 第9回新日展 「静物」 評議員審査員1967 第10回新日展 「鏡のある静物」 評議員1968 第11回新日展 「卓上提琴」 評議員1969 第1回改組日展 「卓上提琴」 評議員1970 第2回改組日展 「静物」 評議員1971 第3回改組日展 「静物」 評議員1972 第4回改組日展 「六月の花」 評議員審査員1973 第5回改組日展 「静物」 評議員1974 第6回改組日展 「静物」 参与1975 第7回改組日展 「静物」 参与1976 第8回改組日展 「卓上提琴」 参与1977 第9回改組日展 「卓上提琴」 参与1978 第10回改組日展 「椅上提琴」 参与1979 第11回改組日展 「楽器のある静物」 参与1980 第12回改組日展 「青・黄・ブラウン(遺)」

江口良

没年月日:1980/06/01

独立美術協会会員の洋画家江口良は、6月1日脳出血のため東京都中野区の小原医院で死去した。享年53。本名良晴。1926(大正15)年10月1日、佐賀県佐賀郡に生まれ、48年佐賀師範学校を卒業。唐津市で教職につくが、間もなくレッドパージで辞職、50年に上京し、その後鈴木保徳に師事する。53年、第21回独立展に「自画像」が初入選。以後同展に出品を続ける。58年第26回独立展に出品した「作品E」「作品C」で独立賞を受賞、60年第28回展に「Module(28)」等を出品、61年独立美術協会会員となる。同年、同志とアールヌーボォを結成し第1回展に「沈黙の彼方」を出品するが、63年退会する。その後の独立展出品作に、「警的鳴らせ」(33回)、「変な男」(36回)、「灯台のある風景」(39回)、「白い旋律のある岩場」(41回)、「入江」(46回)、「双子山」(48回)などがある。また、65年「卍」展(クリスタル画廊)、73年「海と花と山高帽」展などの個展を開催する。79年には一艸会を結成する。

池島勘治郎

没年月日:1980/05/24

独立美術協会会員の洋画家池島勘治郎は、5月24日脳出血のため大阪市天王寺区の大阪警察病院で死去した。享年82。号超軒。1897(明治30)年11月12日大阪市東区に生まれ、1912年大阪府立市岡中学を卒業。独学で洋画を始め、33年第3回独立展に「手袋と鉢」で初入選、以後同展へ出品を続ける。34年に関西水彩画会を結成する。44年第14回独立展に「救護訓練」「土と闘ふ」を出品して独立賞を受賞、47年第15回独立展に「西横堀」「復興の街」を出品し準会員、翌年の第16回展に「曇日」を出品し会員にそれぞれ挙げられる。また、67年、第35回展に「ががく・けんじゃらく」「ががく・えんぎらく」を出品し、G賞を受賞する。この頃から舞楽などをモチーフに、東洋的な幽玄な世界を抽象的水彩画で表現する特異な画風を展開した。

鈴木新夫

没年月日:1980/05/10

新制作協会会員の洋画家鈴木新夫は、5月10日喉頭ガンのため東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年65。1915(大正4)年3月17日、福島県平市に生まれ、福島県立磐城中学を経て、東京美術学校に入学し南薫造に師事、36年同校図画師範科を卒業する。翌年第2回新制作協会展に「標本のある静物」を出品、以後同展に出品を続け、44年新制作協会協友となる。47年、第11回新制作展に「機関車」「筏のある風景」「河岸」を出品し、新制作協会賞を受賞、同年、第1回美術団体連合展に出品する。48年、新制作協会新人選抜七人展に出品、同年鳥井敏文らと研究団体ユマニテを結成する。55年、新制作協会会員に推挙される。58年、現代写実百人展に出品、67年、具象画家40名による新具象研究会の結成に参加、71年まで研究会誌「画家」(季刊)を16号まで発行する。71年からは三月会展に第5回展まで出品する。この間、49年以来しばしば個展を開催、75年の第1回以来、新制作精鋭選抜展にも出品を続ける。また、74年には、第33回新制作展出品作「働く人」が福島県美術博物館に収められる。新制作展への出品作に、「赤い鉄骨」(19回)、「狭い家」(29回)、「誕生」(39回)、「うずくまる人」(41回)などがある。

中村博

没年月日:1980/04/01

国画会会員の洋画家中村博は、4月1日急性心不全のため高知市の自宅で死去した。享年75。1904(明治37)年11月28日、高知市に生まれ、20年高知県立第一中学校を4年で中退し上京、太平洋画会研究所、川端画学校で学ぶ。29年に渡欧し、仏、伊、ベルギー、スペイン、オランダ等を歴訪し研究を重ね、32年に帰国する。33年。第8回国画会展に「登り坂」等3点を出品し国画会会友となり、以後同展に出品を続け、37年同人(のち会員)となる。44年、高知県洋画家協会を設立、47年には山脇信徳と高知県展を創設するなど郷里の美術振興にもつとめ、56年高知県文化賞を受賞する。55年、高知県美術振興会の設立委員に加わる。国展への出品作に、「ポン・クロア」(9回)、「静物」(12回)、「庭」(22回)、「花A」(30回)、「城山」(46回)、「山頂日輪」(47回)などがある。

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