本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1974/11/11 独立美術協会の創立会員のひとり、鈴木保徳は胃ガンのため11月11日午後6時、東京世田谷区の自宅で死亡した。享年83歳。鈴木保徳は、明治24年(1891)11月23日、東京蒲田区(現・大田区)に生まれ、大正5年3月、東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中は黒田清輝の指導をうけたが、卒業後の一時期は、生来の生物、特に昆虫好きから生物学にむかおうと悩んだりしたが、二科会展の大正10年(1921)第8回展から出品、昭和3年第15回二科展に「接木と花」「青嵐」他3点を出品して二科賞を受賞、会友となった。 昭和5年(1930)11月、三岸好太郎、高畠達四郎らと二科会のなかの同志、林武、児島善三郎、鈴木亜夫らと共に独立美術協会を設立、翌年1月第 1回展を開催、以後、独立展を中心に作品を発表してきた。その間、昭和8年には独立展開催のために台湾に旅行、また昭和11年にはグループ展のために中国東北部(旧満州)に旅行した。昭和29年(1954)には多摩美術大学教授となり同41年(1966)まで後身の指導にあたり、47年(1972)紫綬褒章をうけた。作風は、明暗の対比のつよい人物像、やや抽象化した形体による構成風の作品から、ふとい筆触による雄大な自然風景、線のリズミカルな表現をみせた静物画という展開をとっている。独立展出品作品年譜昭和6年・「幼児を抱く」「赤い花」「婦人肖像」「驢馬と月」「花」同7年・「冬期のバラ園」「老農婦の顔」「農婦1」「農婦2」「無題」「街上」同8年・「コンポジション」「若き農婦」「少女」「女」「納屋の内」「苅女」「二人」同9年・「後向きの母」「民族の夢」同10年・「鉄砲百合とバラ」「田舎娘像」「柿の実を持てる娘」「立てる小供」「静物」同11年・「国都建設(満州)」「狼の檻を見る婦人達(満州)」「公園建設(新京)」「横たはれる満州土人」同12年・「島にて」「鶴を写す人」同13年・「大陸の人々」「鳥影」同16年・「残雪」「水禽の檻」「雁」同17年・「高原初秋」「吹雪の絶間」「雪の前」「高原の秋」同18年・「朝の山」「夕の山」同19年・「花」「巖の影」同22年「雪後の子供」「泥濘の広場」「屋敷町の跡」同23年・「紫陽花」「遠藤氏像」同24年・「冬景色」「晩高の静物」「少女啓子像」「桃と馬鈴薯」同25年・「冬島」同26年・「明るき道」「奥まれる路」「曇れる道」同27年・「八月の丘」同28年・「老婦人像」「手風琴」「化粧」同29年・「梅雨時」「田園近き所」同30年・「漁港入口」」「蔭」「炎暑の日」同31年・「空地」「七面鳥」「群がる家」同32年・「人は棲む」「積藁」同33年・「乾ける土」「藁と人」「とり」同34年・「遠い鳥」「追はれている鳥」「黙する鳥」同35年・「宿令」「炎日」同36年・「人馬の群」「疎林の中の騎馬」同38年「一馬」「奇馬」同39年・「日輪と馬車」「ハイカーの群」同40年・「樹と人間」「土用波」同41年・「一偶」「鳥」同42年・「夜明けのバラ」「群居」同43年・「少児とペット」「笛と草」同44年・「紅バラ」「羽搏く鳥」同45年・「群と遊ぶ」「乾燥花をいたわる女性」同46年・「バラと馬鈴薯」「室内の季節」同47年・「風の中の湖水(支笏湖)「崖下の騎士」
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没年月日:1974/11/04 尾道市在住の独立美術協会員、小林和作は、11月3日出入りの門下生4名とスケッチ旅行中、車から降りたときにドアに接触して約2メートル下の荒地に転落、広島県三次市の双三中央病院で治療中であったが、11月4日午後9時過ぎ、頭蓋内出血のため死去した。享年86歳であった。 小林和作は、初期の雅号を霞村、後年には燦樹の別号をもっていたが、明治21年(1888)8月16日、山口県吉敷郡に生まれている。父は和市、田畑、塩浜などを有する富裕な地主で、和作は7人兄弟の長男であった。小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったが、遂に父もおれて、明治36年和作をつれて上京、日本画家田中頼璋の門に入ったが、入門した翌日から風邪をひいて寝こみ、直に郷里へ帰った。 明治37年(1904)、京都市立美術工芸学校日本画科に入学、同級に田中喜作、川路柳虹、高畠華宵などがあり、1学年上級に村上華岳がいた。幸野楳嶺、菊池芳文門下の川北霞峰の画塾に入り、明治41年、同校を卒業、京都市立絵画専門学校に入学し、竹内栖鳳の指導をうけた。絵専在学中も霞峰画塾に通い、霞村と号し、明治43年第4回文展に椿を描いた作品を出品して入選した。 大正二年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選、褒状をうけたが、その後出品しても落選し、大正9年(1920)洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などを識った。 大正11年(1922)春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移した。中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原、中川、それに林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品。また、梅原、中川、林らの作品を蒐集した。京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じていったが、大正14、15年とつづけて春陽会賞を受賞し、昭和2年(1927)第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられた。 昭和3年(1928)1月、林倭衛、林重義、ベルリンへ行く弟と4名でシベリア経由でヨーロッパへ赴き、パリへ行き、さらに山脇信徳と共にイタリア旅行、夏にはイギリスへ旅行した。昭和4年(1929)春には約5ヶ月のあいだエクス・アン・プロヴァンスに滞在した。同年5月、再びシベリア経由で帰国の途についた。昭和6年(1931)、経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産を整理、その前年に創立された独立美術協会に林重義を通じて参加を勧誘されたがこれを断り資金援助だけをした。 昭和9年(1934)、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表してきた。戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表、昭和28年(1953)には27年度芸術選奨文部大臣賞をうけ、昭和46年(1971)に勲三等旭日中綬章をうけている。なお、80歳を祝って、梅原、中川、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開かれていた。後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがある。
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没年月日:1974/10/22 創元会会員の洋画家、手島貢は、10月22日午前8時、閉そく性黄だんのため福岡市で死去した。享年67歳。手島貢は、明治33年(1900)4月11日、福岡県三井郡に生まれ、昭和4年(1929)東京美術学校西洋画科を卒業、同年フランスに渡り4年間パリに滞在した。昭和8年帰国し、第10回帝展に出品した。その後日展に出品し、無鑑査となり、審査員をつとめている。昭和16年(1914)、官展内の同志による創元会の創立に参加、昭和27年(1952)~28年、昭和42(1967)にも外遊し、南フランス、中近東風景に佳作を残している。
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没年月日:1974/10/13 日本芸術院会員、二紀会理事長の洋画家宮本三郎は、10月13日午前10時26分、腸閉そくのため東京本郷の東大病院で死去した。享年69歳であった。宮本三郎は、明治38年(1905)、石川県に生まれ、川端画学校で藤島武二の指導をうけ、のち安井曾太郎に師事し、二科会展に出品した。太平洋戦争中には陸軍報道班員として従軍し、「セレベスの落下傘部隊の激戦図」、「山下・パーシバル両司令官会見図」などの戦争画に卓抜した描写力を示し、戦後は二科会の役割は終わったとして同会を離れ、同志と二紀会を結成、その中心的存在となって会の運営にあたった。昭和33年には社団法人日本美術家連盟の初代理事長に就任、会館建設に尽力し、美術家の社会的権利の擁護のためにも活躍した。晩年には的確な写実のうえに華麗な色彩をもった舞妓、裸婦の連作を制作して注目された。すぐれた素描力をかわれて新聞小説の挿画でも早くから活躍し、獅子文六作『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三作『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)などの挿画を担当、広く読者に親しまれた。 年譜明治38年(1905) 5月23日、石川県能美郡(現小松市)に父宮本市松、母みさの三男として生まれる。村は戸数23戸の小寒村であった。大正7年 3月能美郡御幸村日末尋常小学校卒業。学業成績抜群につき校長、担任のすすめがあり中学校を受験する。4月8日、石川県立小松中学校に入学。日露戦争中に生まれ、一族中の軍人の影響による軍人志望と、画家志望の二途に迷う。大正9年 陸軍地方幼年学校を受験したが体格検査で失格する。4月21日、小松中学校を中退し画家志望のため上京する。川端画学校洋画部に籍をおく。石膏部を嫌ってはじめから人体部に学ぶ。在学中藤島武二の指導も受ける。大正12年 4月光風会展入選。6月中央美術展入選。1929まで出品。9月関東大震災のため京都に移る。関西美術院で黒田重太郎の指導を受ける。大正13年 友人、橋本徹郎・小松均とともに東山美術研究所を設立する。大正15年 再び上京、川端画学校へ復帰し、前田寛治の指導する湯島写実研究所へも一時通う。昭和2年 9月第14回二科展入選。1944年第30回二科展の解散まで出品。昭和3年 3月、遠藤昇の三女文枝と結婚、目黒区に新居をかまえる。昭和4年 3月4日 長女美音子出生。7月、父市松死去。雑誌「実業之日本」「日本少年」等にカット、表紙デザインの仕事をはじめる。昭和5年 母みさ死去昭和6年 第3回鉦人社展より参加、1936年第8回新美術家協会展(鉦人社改称)まで出品。昭和7年 第19回二科展で二科会会友に推挙される。昭和9年 秋、銀座画廊で素描油絵による初の個展をひらく。朝日新聞紙上で菊池寛の小説「三家庭」の挿画を担当する。昭和10年 7月、現在地世田谷区にアトリエを新築移転する。第22回二科展で推薦賞を受ける。新聞、雑誌の仕事がふえ多忙になる。昭和11年 第23回二科展で二科会会員に推挙される。新美術家協会会員を辞す。日本美術学校、洋画部講師となる。昭和12年 友人、栗原信、田村孝之介の三人で朱玄会を結成、第1回を日本橋三越本店でひらく。第5回朱玄会展まで参加する。昭和13年 過労のため健康を害す。仕事から離れる目的もあって10月に渡仏し、パリでアカデミー・ランソンに籍をおく。昭和14年 1月より3月まで。ルーヴル美術館で模写をする。4月にイタリア、6月にスペイン、8月にはロンドンをおとずれる。9月、第二次ヨーロッパ大戦が始まる。10月、避難船鹿島丸に乗船し英国、米国経由で12月に帰国する。昭和15年 9月、軍の命令で北支方面に従軍し3カ月滞在する。昭和16年 第2回聖戦美術展に献納画「南苑攻撃」を出品。昭和17年 4月、軍の命令で南方戦線に従軍し、陸軍より「香港ニコルソン附近の激戦、海軍よりセレベスの落下傘部隊の激戦図」を命ぜられていた。しかし、シンガポールに待機中同方面軍司令部から、「山下・パーシバル両司令官会見図」の制作を新たに命ぜられた。10月、「香港ニコルソン附近の激戦」と「山下・パーシバル両司令官会見図」完成、第1回大東亜戦争美術展に出品。昭和18年 朝日新聞社より「大本営御親臨の大元帥陛下」の献上画を依嘱され、諸将軍の取材、宮中「一の間」の写生に没頭する。5月に前年発表の「山下・パーシバル両司令官会見図」に対して昭和17年度第2回帝国芸術院賞を授与される。7月、陸軍よりフィリピン方面に従軍を命ぜられる。また前年海軍より命ぜられた「海軍落下傘部隊メナド奇襲」制作のためセレベス方面に従軍。第2回大東亜戦争美術展に「大本営御親臨の大元帥陛下」および「海軍落下傘部隊メナド奇襲」を発表。昭和19年 「海軍落下傘部隊メナド奇襲」に昭和18年度第15回朝日文化賞を授与される。8月、郷里小松市の疎開。盛厚王殿下と成子内親王殿下との御結婚を記念し、砲兵学校から献上の盛厚王殿下の御肖像を制作。12月、戦時特別文展に「シンガポール英軍降服使節」出品。昭和20年 聖戦美術展に献納画「レイテ沖海戦」を出品。8月、「大東亜会議図」未完成のうちに終戦となる昭和21年 金沢市に市立美術工芸専門学校(後の金沢美術工芸大学)が設立され、油画科講師となる。アメリカ駐留軍隊長カール氏より依嘱され、宿舎白雲楼の食堂壁画「日本の四季」を完成する。昭和22年 宮本三郎、熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、正宗得三郎、横井礼市の九名で二紀会を創立、以後リーダーとして1974年第28回二紀展まで活躍、会の発展のために尽力する。10月、第1回二紀展を都美術館でひらく。昭和23年 第1回金沢文化賞を授与される。2月、金沢美術工芸大学教授となる。昭和24年 この年より新聞社主催などの展覧会への招待出品が多くなる。昭和27年 5月、渡欧、スペイン、イタリア、ギリシャを巡遊し、パリ滞在中近郊写生に専念する。昭和28年 3月、ヨーロッパより帰国、滞欧作を第7回二紀展及び個展で発表。東京都美術館参与。大蔵省外国映画優秀作品選考委員。多摩美術大学教授となる。(昭40.3まで)昭和29年 エジプト国際展に出品、褒章を受ける。長女、美音子結婚。昭和30年 東京教育大学教育学部芸術科非常勤講師となる。(昭39.3まで)昭和38年 ユネスコ日本国内委員会委員に就任する。昭和39年 国立競技場にモザイク壁画装飾を完成。昭和41年 1月、日本芸術院会員となる。昭和42年 4月、二紀会が社団法人となり、初代理事長になる。(逝去まで)昭和43年 郵政審議会専門委員となる。昭和45年 東京都美術館運営審議会委員となる。(任期昭和49まで)国立西洋美術館評議会評議委員となる。昭和46年 財団法人ユネスコ・アジア文化センター評議員となる。金沢市立美術工芸大学名誉教授となる。昭和47年 文化庁優秀映画制作奨励金交付候補作品選考委員となる。東京都上野美術館の改築にあたり、東京都新美術館建設委員となる。昭和48年 文化庁芸術文化専門調査会(万博美術館利用問題調査)委員となる。安井賞審査員(評議員兼任)となる。12月19日、文京区の日立病院へ入院、手術をうける。昭和49年 1月29日、日立病院を退院。8月23日、文京区の東京大学医学部附属病院へ入院、再度手術を受ける。10月13日、東京大学医学部附属病院第一外科にて「腸閉塞による心臓衰弱」のため逝去、享年69歳。同日付けにて天皇陛下より祭粢料を賜わり、従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を賜った。10月15日、近親者にて密葬をいとなみ桐ケ谷で荼毘にふす。10月21日、青山葬儀所において二紀会葬が行なわれる。11月30日、七七日忌の法要を世田谷の九品仏浄真寺にてとりおこなう。昭和50年 1月、故人の遺志により、東京国立近代美術館へ作品寄贈。宮本三郎遺作展委員会、朝日新聞社主催、文化庁後援、二紀会協賛で5月13日より25日まで日本橋三越本店七階、6月3日より8日まで大阪三越七階、6月13日より22日まで金沢MROホールで遺作展が開催される。出品点数75点。(西嶋俊親・編)(本年譜は、宮本三郎遺作展目録より転載しました
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没年月日:1974/09/15 文化功労者、日本芸術院会員、一水会会員の洋画家、有島生馬は、9月15日、老衰のため鎌倉市の額田病院で死去した。享年91歳であった。有島生馬は本名を壬生馬また十月亭の別号がある。小説家としても知られ、兄の武郎、弟の里見弴と共に文芸家兄弟として著名であったが、生馬は、初めイタリア文学研究を志し、絵画勉強に転じて藤島武二に師事、イタリア、フランスに留学し、帰国後は雑誌『白樺』同人として西洋美術の紹介につとめ、特にセザンヌの紹介者として大きな影響を画壇に与え、また、二科会創立に際しても活躍した。その後、官展に移り、一水会創立、日展審査員・理事なども歴任し、また日本ペンクラブ創設されたときには、外国語に堪能であったこともかわれて会長島崎藤村のもとで副会長をつとめている。広い知識と洗練された紳士的態度、活動的な性格から各方面で活躍したと同時に、確かな鑑賞眼と経済的に恵まれていたことから、才能に恵まれながらも不遇な例えば関根正二、長谷川利行などの後進に対して陰に陽に援助し指導した。著書も多く、「有島生馬全集」三巻(改造社)がある。 略年譜明治15年(1882) 11月26日、横浜市で生まれる。父、有島武は鹿児島の出身で、当時、横浜税関長の職にあった。明治21年 横浜師範学校附属老松小学校に入学明治24年 父、武が国債局長となり東京に移転、麹町小学校に転校明治26年 5月、父退官、鎌倉に転居明治27年 11月、東京に転居。明治28年 1月、学習院に転入学し、9月中学科に進す。明治30年 この頃から文学書に親しみ、徳富蘇峰、徳富蘆花の著作、島崎藤村の詩などを愛読する。学友10人位と『睦友会雑誌』と題する廻覧雑誌をつくる。その時の同人に志賀直哉がいた。明治33年 3月肋膜炎にかかり、5月鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養する。鹿児島であるカソリックの僧と会いイタリア語に興味をいだく。明治34年 東京外国語学校伊太利語科に入学する。明治36年 友人らと妙義山から小諸に旅行し、島崎藤村を訪ねる。明治37年 東京外国語学校を卒業。卒業試験が終ると直に藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓する。明治38年 5月13日、ドイツ船ゲネラル・ローン号に乗船して横浜を出帆しイタリアへむかう。ナポリに上陸し、ローマへでてアカデミー・ド・フランスに入学、カロリュス・デュランの指導をうける。11月、国立ローマ美術学校に移る。明治39年 イタリア各地を旅行、9月アメリカ留学中の長兄武郎をナポリで迎え、イタリアからドイツ、オランダ、ベルギーを旅行し、パリへ入る。明治40年 2月イギリスへ旅行、武郎と別れ再びパリへ帰る。グラン・ショミエールに通い、ラファエル・コラン、プリネーなどの指導をうける。この年のサロン・ドートンヌで催されたセザンヌ回顧展をみて感動をうけ、学校での指導に嫌悪を感じ、自分のアトリエで研究、制作することになり、作風も印象派的な明るい色調のものへと変る。明治41年 アンジャベンについて半年ほど彫刻を学ぶ。明治42年 1月南フランスに旅行。帝室林野局技師秋山護蔵とイタリア旅行。パリでは藤島武二、湯浅一郎、荻原守衛、高村光太郎、山下新太郎、斎藤豊作、白滝幾之助、南薫造、梅原良三郎らと交友する。明治43年 マルセイユを発して帰国、麹町に住む。4月、雑誌『白樺』創刊され同人として参加し、同誌第1巻第2号、第3号(5月、6月号)に「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表する。セザンヌに関するくわしい最初の紹介であった。7月、上野竹之台において白樺社主催有島壬生馬・南薫造二人展が開催され、滞欧作品70点を出陳する。この展覧会は当時の若い画家たちに大きな刺戟を与えた。11月、原田信子と結婚。この年、「ケーベル博士像」を制作。明治44年 8月。長女暁子生まれる。北海道に旅行し、「宿屋の裏庭」を文展に出品、入選。明治45年 夏、箱根に赴く。秋、白樺社主催により文展で落選した作品による落選展覧会を赤坂三会堂において開催する。大正2年 2月、洛陽社より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版する、この時から筆名を、生馬とする。渡仏する島崎藤村を神戸に送り、京阪地方を旅行、夏には甲州に滞在。秋、文展洋画部に二科開設の議を同志と文部省に建言。大正3年 4月、東京美術学校で「セザンヌの建設」と題して講演。夏、甲州滞在。10月、上野竹之台で第1回二科会展が開かれ、会員として「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品。大正4年 6月、『獣人』出版。9月、夏目漱石の推薦と鈴木三重吉の勧めで小説「死ぬほど」を『新小説』に発表、『白樺』以外の雑誌に小説を発表した最初のものである。朝鮮、満州、天津、北京を旅行して10月に帰京。第二回二科展「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」出品。大正5年 5月信子夫人の里方からの提議で離婚問題おこり、10月に落着。6月、第二の短篇小説集『南欧の日』が出版(新潮社)されたが、風俗壤乱のかどで発売禁止となり、部分的に、改変して改版出版、夏、軽井沢に滞在して長兄武郎の肖像制作。第3回二科展「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品。12月4日。父武死去。大正6年 1月、熱海で「山極医学博士像」を描く。6月、小説「父の死」(新潮)。第4回二科展「蚊帳」「釣」「カナリヤ」「金魚」出品。第三短篇集『暴君へ』(新潮社)出版。大正7年 1月から多く鎌倉に滞在。第四『短篇集』出版。大正9年 エミール・ベルナール著、有島訳『回想のセザンヌ』(叢文閣)出版される。昭和3年 夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在する。昭和10年 松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員に挙げられる。日本ペンクラブ創設され、副会長に就任する。昭和11年 12月、前年二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らを加えて一水会を結成する。昭和12年 6月、帝国芸術院官制制定され、芸術院会員となる。12月、一水会第1回展を開催する。この年、国際ペンクラブ大会出席のため会長島崎藤村とアルゼンチンに旅行。昭和20年 長野県に疎開。昭和31年 1月神奈川県立近代美術館において回顧展開催される。3月、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展開催される。昭和33年 社団法人日展創立され常任理事。昭和39年 夏、ローマの日本文化会館長、呉茂一の招きで渡欧する。文化功労者に選ばれる。昭和40年 勲三等旭日中綬賞をうける。昭和49年 9月15日、死去。9月24日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、一水会、二科会の合同葬として葬儀が行われる(葬儀委員長・小山敬三)
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没年月日:1974/07/28 光風会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者の洋画家、辻永は、7月23日午前10時15分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年90歳であった。辻永は、明治17年(1884)2月20日、父の任地広島県に生まれ、水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科に進んでいる。同級生に森田恒友、山本鼎などがいた。黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけ「飼はれたる山羊」(明治43年)、「無花果畑」(明治45)、「椿と仔山羊」(大正5)など、初期には山羊の画家として知られ、白馬会系の描写をさらに進めて、大正9年から10年にかけてのヨーロッパ滞在をへてしだいに風景画家としての明確な方向をとっていった。辻は少年時代からとりわけ植物に対する関心がつよく、樹木、花にひかれて日本各地を旅行し、日本の湿った風土の風景を描くことに専念していった。後年植物草花に対する関心は、『萬花図鑑』(12巻、昭和6年、平凡社)、『萬花譜』(12巻、昭和32年、平凡社)となって結実した。戦後、文展が文部省より離れて日展となり、昭和33年、社団法人日展となってからは、辻は理事長となって会の運営にあたり、日展の法王、と称されるほどに日展の中心的な存在となり、また芸術院においても大きな役割をはたした。昭和34年文化功労者、昭和39年には、勲二等瑞宝章をうけている。 略年譜明治17年2月20日(1884) 父永光の任地広島市に九人兄弟の第七子として生まれる。母はムラ。明治17年10月6日 父の茨城県兵事課勤務(のち土浦、水戸など各地警察署長、郡長を歴任)にともない、水戸に移り住む。明治21年4月 小学校に入学するも怪我のため二日間で退学。明治22年4月 小学校に再入学。明治29年4月 茨城県立水戸中学校に入学。父が結城岡田豊田郡長に赴任のため、親元をはなれ下宿住いをして通学する。明治31年 このころから草花の写生に興味をもちはじめ、やがて植物学者か画家たらんとする希望をもちはじめる。スポーツも好きで、柔道、野球、ボート、水泳にはげむ、特に水泳は日本泳法の一つ水府流に長ける。明治33年 白馬会会員・水戸中学校図画教師丹羽林平の家に同居、油絵の指導をうける。水戸城趾から仙波湖を眺めた4号の作品をはじめて描く。明治34年3月 水戸中学校を卒業。明治34年4月 東京美術学校油画科に仮入学、森田亀之助らと同級になる。選科には和田三造、山下新太郎、青木繁、熊谷守一らがいた。明治35年4月 本科1年に進学、岡田三郎助に師事する。選科に森田恒友、山本鼎らが入学。明治36年 熊谷守一、和田三造、柳敬助、橋本邦助らと下谷区に一戸を借り、共同自炊の気ままな画学生生活をおくる。秋、美術学校の美術祭が催され、熊谷、和田、山下らとパリ美術学生の出しもので多いに気をはく。明治37年9月 第9回白馬会展に風景画を出品。明治38年9月 第10会白馬会展に風景画を出品、美術学校買上げとなる。明治38年12月 和田三造らと伊豆大島に写生旅行、大島で新年を迎える。明治39年3月 東京美術学校西洋画科本科を卒業、研究科にすすむ。夏 福岡の和田三造の家に行き、熊本・阿蘇・長崎を旅行する。父の任地佐賀県で、「父の像」「母の像」や「残暉」を描く。明治39年12月 師黒田清輝の勧めで福井県福井中学校図画教師として赴任する。任期1年。明治40年3月 父を失い、9月兄を失う。夏 北陸地方に写生旅行。年末、任期を終え福井から東京、麻布に母や次弟と住む。このとし、とくに草花の写生に没頭する。明治41年8月 渋谷村(現渋谷区)に居を構え、母や次弟とともに住む。弟は山羊園永光舎をひらき、自らは山羊をモデルにして制作をつづける。明治41年10月 第2回文展に「秋」出品、この頃、黄の色調に関心を示す。このとし溜池白馬会研究所に通い人体の研究もする。明治42年10月 第3回文展に「放牧」を出品。李王家の買上げとなる。明治43年2月 津田青楓、橋本邦助、柳敬助らと信濃上林温泉に行き雪景を写生。明治43年10月 第4回文展に「飼はれたる山羊」を出品。三等賞となる。明治44年10月 第5回文展に「朝の牧場」を出品するも落選、抗議の意図もあって本郷春木町の仏教会館(のちの本郷絵画研究所)で個展をひらき、気をはく。明治45年4月 青山熊治と銚子犬吠崎に写生旅行。大正元年7月 相模吉浜に写生旅行。大正元年9月22日 岡田三郎助夫妻の媒酌で渡辺岩次郎の娘和加子と結婚。大正元年10月 第6回文展に「無花果畑」を出品、三等賞となる。今村繁三に300円で売約、第2回個展を赤坂三会堂でひらく。大正2年 夏 弟光夫婦とハルビンに行き、約1カ月写生にいそしむ。大正2年10月 第7回文展に「満州」を出品、皇后陛下買上げとなる。(戦災焼失)。大正2年12月 日比谷美術館で第3回個展を開催。大正3年3月 大正博覧会に「山羊の牧場」を出品、褒状をうける。夫人同伴で再度ハルビンに赴き、帰途、大連、京城にて個展を開催、6月帰京する。大正3年10月 第8回文展に「初秋」を出品、三等賞となる。第2回国民美術協会展に「牧場にて」を出品。大正3年12月 日比谷美術館で第4回個展を開催。大正4年2月 岡田三郎助と越後五十島に遊び、雪景多数を描く、サンフランシスコ博覧会に「初秋」を出品、銅牌をうける。大正4年10月 第9回文展に「落葉」を出品、三等賞を受賞文部省買上げとなる(関東大震災で焼失)日本橋・三越で第5回個展をひらく。大正5年3月 長男昶生れる。大正5年5月 岡田三郎助と山形県大石田へ写生旅行。大正5年10月 第10回文展に「葡萄実る頃」「椿と仔山羊」を出品、客観的写実からぬけでた新しい自然観照をみせるもので、前者は特選となる。第6回個展を日本橋・三越で開催。「椿と仔山羊」「林檎咲く」文部省買上げとなる。大正6年10月 第11回文展に「丘上」「九月の午後」を出品。大正7年2月 南薫造、太田喜二郎らとともに光風会会員となり、第6回光風会展に「晩春」「哈爾賓の二月」を出品。越後地方に赴き雪景を描く。大正7年6月 次男朗生れる。大正7年10月 第12回文展に「秋」を出品。大正8年2月 越後地方の雪景を写生。大正8年10月 第1回帝展に「剪毛後の或日」を出品、無鑑査に推せんされる。大正9年4月 印度洋経由渡欧の途につく。カイロ、マルセイユ、パリ、ノルマンディー、イギリスを巡遊し、9月から10月にかけて、三宅克己とベルギー、オランダ、ドイツをまわる。のちスペイン、スエーデンに遊ぶ。この間白絵具を用いずに描いたり、筆を用いず、チューブから直に絵具をぬるなど、いくつもの試みをする。大正10年1月 イタリー各地を写生旅行。大正10年2月 パリに戻り、フランス各地で制作旅行をつづける。大正10年7月 帰国。大正10年10月 雑誌『中央美術』に滞欧中の日記の一部を掲載、評判となる。第3回帝展に「ブルーヂュの秋」を出品。滞欧作品の個展を日本橋・三越でひらく。大正11年1月 滞欧作展を大阪・三越でひらく大正11年2月 雑誌『中央美術』に「倉敷の名画を見る」を書く。大正11年11月 第4回帝展の審査員となり「雪」を出品(戦災焼失)。このとしハルビンにも赴く。大正12年1月 三男瑆生れる。大正12年2月 赤坂離宮天井絵の補修にたずさわる。大正12年7月 加藤静児と志摩波切村で制作。大正12年8月 アトリエを2階に新築。大正12年11月 彦根松原村で制作。大正13年1月 母失う。大正13年7月 師黒田清輝を失う。大正13年11月 第5回帝展委員となり、同展に「名残の夏」(焼失)「城下晩秋」を出品。大正14年4月 南薫造とともに朝鮮に赴き京城、開城、平壌各地で制作にはげむ。朝鮮総督府から朝鮮美術研究を依嘱される。雑誌『中央美術』槐樹社展評を書く。水戸常総新聞主催、常総洋画展に審査委員として、岡田三郎助、山本鼎らと出席。「水辺の初冬」を特別出品する。大正14年5月 第4回朝鮮美術展を審査をする。大正14年10月 第6回帝展に「新秋(焼失)「大利根の秋」を出品。このとし明治神宮聖徳記念絵画館の壁画揮毫を依嘱される。大正15年2月 第13回光風会展に「大同江畔」「尼寺の前」など6点を出品。大正15年4月 第5回朝鮮美術展審査のため南薫造とともに京城に行く。大正15年5月 聖徳太子奉讃展(第1回)に「赤倉の雪」「微風」を出品。大正15年10月 第7回帝展審査員、同展に開城風景「暮春」を出品(戦災焼失)。昭和2年2月 第14回光風会展に「雪」「田舎道」など5点を出品。昭和2年5月 第6回朝鮮美術展審査員として京城に赴く。昭和2年6月 明治大正名作展に「無花果畑」「ベルギーにて」がえらばれる。夏 岡田三郎助、和田三造、野田九浦らと浜名湖に遊ぶ。昭和2年10月 第8回帝展に「紅帷の室」「晴日」を出品(ともに戦災焼失)。昭和3年3月 第15回光風会展に「浜名湖」「湖辺の秋」など6点を出品。常陸涸沼で制作。昭和3年10月 第9回帝展審査員。同展に「春ゆく頃」を出品。このとし地下鉄上野駅壁画百号大二面「朝」「昼」を制作する。昭和4年2月 第16回光風会展に「春の日」など7点を出品。同展特別陳列故山本森之助の追悼文を読売新聞(4日附)に書く。昭和4年8月 共楽美術クラブを主催していた弟衛を自動車事故で失う。昭和4年10月 第10回帝展審査員。同展に「人形のある静物」を出品(戦災焼失)。このとし昭和御大礼奉祝に保田善次郎献上の「放牧」を描く。同時に献上された和田英作の植物図に対して、この絵は動物図ともいわれる。昭和5年2月 第17回光風会展に「初冬の富士」など10点を出品。昭和5年3月 聖徳太子奉讃美術展(第2回)審査員。同展に「湖畔の秋」を出品。昭和5年10月 第11回帝展に「庭」を出品。三越で個展開催。昭和6年2月 第18回光風会展に「雉子と葡萄」「山羊飼ふ家」など7点を出品。春 岡田三郎助、和田三造らと大島に写生旅行、熱海でも作画する。昭和6年5月 南薫造と三里塚で桐の花を写生。昭和6年10月 第12回帝展審査員。同展に「画房の一日」を出品。このとし30余年間に写生した花の中から約千種をえらんだ『萬花図鑑』全8巻が平凡社から出版される。昭和7年2月 太田三郎、加藤静児と箱根を写生旅行。昭和7年4月 第19回光風会展に「室内」ほか箱根風景数点を出品。昭和7年6月 国立公園協会の依頼で北海道釧路、阿寒地方を写生、「摩周湖風景」「阿寒双湖台より」などを制作する。それまで無名のバンケトー、ベンケトー両湖を望む地を双湖台と命名、雄阿寒雌阿寒の両嶽のみえるところを又嶽台と名づける。昭和7年10月 第13回帝展審査員。同展に摩周湖を描いた「山湖」を出品。約500種の花の写生を収めた『續萬花図鑑』4巻を平凡社から出版。昭和7年12月 志摩地方を写生旅行。昭和8年2月 光風会評議員となる。第20回展に「志摩の朝」「雄阿寒」など4点を出品。昭和8年4月 信濃地方で作画。昭和8年6月 岡田三郎助、和田三造らと十和田湖、佐渡などを写生旅行。昭和8年7月 久留米、阿蘇、鹿児島、青島、別府など写生旅行。昭和8年10月 第14回帝展に「風薫る」を出品。絹や紙に油絵具で日本画風に描いた邦風油彩画花卉小品展を高島屋でひらく。岡田三郎助らと信濃地方を写生旅行。昭和9年2月 第21回光風会展に「信濃の秋」「菅原の晩秋」などを出品。昭和9年4月 信濃地方で制作。昭和9年6月 ハルビンに赴き制作。昭和9年7月 小豆島でオリーブを写す。昭和9年10月 第15回帝展審査員。同展に「哈爾賓風景」」を出品。政府買上げとなる。昭和9年11月 岡田三郎助と箱根に写生旅行。昭和10年2月 第22回光風会展に「天草の辺」「信濃の雪」「哈爾賓の六月」を出品。雑誌『美術』に「片多徳郎の遺作」について書く。東京地方裁判所依頼の風景画を完成、同所に掲げられる。昭和10年3月 東京府美術館10周年記念現代綜合美術展に「春ゆく頃」がえらばれる。昭和10年6月 帝展改組に対し、小林萬吾、石川寅治、金山平三、田辺至らとともに不出品の声明を発表。雑誌『現代美術』に随筆「チビの死」を発表。昭和10年7月 帝展反対の新団体第二部会を結成。昭和10年10月 第二部会第1回展審査員。同展に「若葉の伊豆」「玻璃器などのある室内」を出品。昭和10年12月 藤島武二、岡田三郎助らとともに高知室戸へ制作旅行。昭和11年2月 雑誌『塔影』に「雪を描く」ことの感想を書く。昭和11年3月 制作旅行による土佐風光スケッチ展を藤島、岡田らと松坂屋でひらき、大阪画廊でも土佐風景を主とした小品展をひらく。昭和11年4月 第23回光風会展に「山峡の秋」を出品。昭和11年6月 帝展再改組のため第二部会文展参加を表明。昭和11年7月 岡田三郎助、和田三造、野田九浦らと琵琶湖、奈良、京都方面を制作旅行。昭和11年10月 鬼頭鍋三郎らと蓼科高原で制作。雑誌『現代美術』に滞欧中の「スコットランド日記抄」を掲載。昭和11年文展鑑査展の審査をする。昭和11年11月 同展招待展に「霞む春」を出品。名古屋・丸善で個展を開催。昭和12年2月 第24回光風会展に「浅間の秋」「新秋」を出品。昭和12年4月 大阪市立美術館の明治大正昭和三聖代名作美術展に「無花果畑」がえらばれ出品される。昭和12年6月 邦風油彩画花卉小品展を高島屋で開催。『辻永邦風油彩花卉画集』を美術工芸会から刊行。昭和12年8月 雑誌『塔影』に「花の写生」についてを発表。昭和12年10月 新たにはじまった第1回文展審査員となり、「志賀高原の秋」を出品、京都市美術館買上げとなる。昭和12年11月 大潮会第2回展審査員。昭和13年2月 25回光風会展に「春」「秋」を出品。昭和13年4月 牧野虎雄、熊岡美彦らと常陸袋田滝で制作。昭和13年5月 大阪阪急百貨店で個展開催。雑誌『塔影』に随筆「花卉雑稿」を書く。昭和13年10月 第2回文展審査員。同展に「湖上霊峰」を出品。昭和13年11月 箱根強羅に山荘アトリエをつくる。『辻永作品集第一輯』を美術工芸会から刊行。昭和14年2月 第26回光風会展に「果物」を出品。昭和14年8月 雑誌『教育美術』に「熱と力」を書く。昭和14年9月 師岡田三郎助を失う。昭和14年10月 第3回文展審査員。同展に「新樹匂う(箱根)」を出品。昭和15年2月 第27回光風会展に「湖畔の秋」「夏の朝」を出品。昭和15年5月 名古屋丸善で小品展を開催昭和15年10月 紀元二千六百年奉祝美術展委員となり、同展に「秋映ゆ」を出品。南薫造らと上高地で制作。昭和15年11月 大潮会第5会展審査員。昭和16年2月 第28回光風会展「映ゆる朝」などを出品。南支那、仏領印度支那へ赴くも物情騒然のため直ちに帰国。昭和16年3月 京都市美術館の現代名作絵画展に「山湖」がえらばれ出品される。越後湯沢で雪景を写生。昭和16年10月 第4回文展審査主任。同展に「華氈上の静物」を出品。昭和17年2月 第29回光風会展に「山桜咲く」「高原晩秋」を出品。昭和17年10月 第5回文展審査員。同展に「清秋」を出品(戦災焼失)。台湾総督府美術展審査のため、渡台、台北、台南で制作のうえ11月に帰京。昭和18年2月 第30回光風会展に「山峡の秋」を出品。光風会30周年記念特別陳列に「残暉」「牧場」「無花果畑」「初秋」「椿と仔山羊」「葡萄実る頃」の6点を陳列。昭和18年3月 田村一男と蓼科高原で残雪風景を描く。昭和18年5月 横山大観を会長とする日本美術報国会設立され、木村荘八とともに第二部委員にえらばれる。日本美術及工芸統制協会理事となる。昭和18年6月 第6回文展委員、審査主任。同展に「高原の雪解くる」を出品(戦災焼失)。昭和19年3月 第31回光風会展(非公募)に「山湖の秋」を出品。昭和19年10月 第1回軍事援護美術展に「匂ふ山桜」を出品。戦時特別文展の「箱根の秋」を出品。このとし箱根強羅のアトリエで制作が多い。「雨後」「酣秋」などを描く。昭和20年5月 空襲のため住居を焼失、作品、美術蒐集品、蔵書の多数が灰燼に帰す。昭和20年11月 箱根で制作「二の平の秋」「小涌谷の秋」などを描く。昭和21年3月 文展は文部省主催日本美術展覧会(日展)となり、その第1回展に「錦秋」を出品。蓼科高原で「残雪」などを描く。昭和21年10月 第2回日展審査員。同展に「二の平の秋」を出品。旧岡田三郎助画室を譲りうけ住む。昭和22年2月 第33回光風会展に「雪」「強羅風景」を出品。昭和22年6月 美術団体連合展に「山峡の秋」を出品。昭和22年9月 帝国芸術院会員となる。昭和22年10月 第3回日展審査員。同展に「新樹匂う」を出品。中村研一、鬼頭鍋三郎、田村一男らと知多半島に遊ぶ。昭和23年3月 第34回光風会展に「信濃の雪」を出品。昭和23年10月 第4回日展審査員。同展に「初冬の相模湖」を出品。昭和23年11月 第1回茨城県美術展顧問、「初夏」特別出品。昭和24年1月 岡山三蟠にて制作。昭和24年3月 第35回光風会展に「秋の日」「春を送る」を出品。昭和24年6月 中村研一、耳野卯三郎らと勝浦、鵜原に写生旅行。昭和24年8月 「自画像」及び「妻の顔」を描く。昭和24年9月 国立自然教育園評議員を依嘱される。昭和24年10月 日展運営委員会常任理事となる。第5回日展審査員。同展に「駘蕩」を出品。昭和25年3月 第36回光風会展に「薫風」を出品。中村研一、小絲源太郎と琵琶湖を写生旅行。昭和25年7月 山下新太郎と京都、石山に遊ぶ。昭和25年10月 第6回日展審査員。同展に「高原に山藤咲く」を出品。昭和26年3月 第37回光風会展に「森の秋」を出品。鬼頭鍋三郎、中村研一らと京都、大津、石山を写生旅行。昭和26年4月 機関雑誌『光風』創刊号に随筆「春の花」を書く。石川柏亭、有島生馬、中沢弘光らと長野地方を写生旅行。山下新太郎と名古屋犬山で制作。昭和26年5月 岡山牛窓のオリーヴ園で制作、このころから独自の境地をみせる作風となる。昭和26年10月 第7回日展審査員。同展に「オリーヴの丘」を出品。昭和27年1月 鬼頭鍋三郎と三河幡豆で制作。昭和27年3月 小寺健吉、中村研一らと京都、須磨地方を写生旅行。昭和27年5月 岡山玉島で「除虫菊咲く頃」などを描き、能登、高岡をまわって帰京。昭和27年6月 蓼科高原、岡山オリーヴ園、7月須磨、9月琵琶湖などに写生旅行。昭和27年10月 第8回日展審査員。同展に「淡路霞む」を出品。昭和27年11月 山陰地方、12月京都を写生旅行。昭和28年1月 鬼頭鍋三郎と「志摩浜島で制作。昭和28年3月 京都市美術館の近代日本美術回顧展に「志賀高原の秋」を出品される。京阪地方で写生。昭和28年4月 第39回光風会に「高原に藤匂ふ」を出品。夫人同伴で中村研一夫妻と信濃安茂里で杏の写生。昭和28年5月 神戸、奈良方面で作画。昭和28年6月 北海道各地を写生旅行。昭和28年10月 第9回日展審査員。同展に「志摩早春」を出品。昭和28年11月 熊本にて写生、帰路須磨、宇治、琵琶湖などをまわる。昭和29年2月 古稀記念展を高島屋で開催、画業50年をたたえて初期から現在まで150点陳列。『辻永作品集』(辻永作品集刊行会)が刊行される。昭和29年3月 第40回光風会展に「島霞む」を出品。昭和29年4月 須磨、5月紀州、6月須磨、7月北陸地方を写生旅行。昭和29年10月 第10回日展審査員。同展に「川奈風景」を出品。昭和29年11月 古稀の祝賀会が東京会舘でひらかれる。雑誌『アトリエ』に「風景と色彩」についてを書く。昭和30年1月 第6回秀作美術展に「高原に藤匂ふ」がえらばれる。福岡、唐津方面を写生旅行。昭和30年2月 日光で写生。昭和30年3月 第41回光風会展に「一の谷新樹」を出品昭和30年4月 日本芸術院第一部長となる。日本スポーツ芸術協会理事となる。『萬花譜』12巻の刊行が平凡社からはじまる。昭和30年5月 京都に遊ぶ。昭和30年7月 毎日新聞(10日附)に「よき日の学生時代」を書く。昭和30年10月 日展審査主任。同展に「春の日」を出品。日本洋画名作展(みづゑ50年展)に「無花果畑」がえらばれる。昭和30年12月 京都、神戸で制作。昭和31年1月 日光で雪景を描く。昭和31年4月 光風会は社団法人となり、理事になる。久留米、島原、雲仙方面で制作。昭和31年5月 京都で制作。昭和31年6月 日本芸術院第一部長を辞任。雑誌『造形』に「中沢老を讃える」文を書く。昭和31年10月 第12回日展審査員。同展に「つゆの晴れ間」を出品。東京都買上げとなる。昭和32年3月 第43回光風会展に「島浮ぶ」を出品。鬼頭鍋三郎と蒲郡で制作。昭和32年5月『萬花譜』出版完成記念展を東京丸善で開催、同17日東京会舘で祝賀会が催される。昭和32年8月 毎日新聞夕刊(4日附)に随筆「花の香」を書く。昭和32年9月 昭和32年度文化勲章並びに文化功労者年金受賞者選考委員を委嘱される。昭和32年11月 第13回日展審査員。同展に「橋立春雪」を出品。昭和33年3月 産経新聞(29日附)に「大言小言」がのる。昭和33年4月 第44回光風会展に「若葉の頃」を出品。社団法人「日展」の初代理事長となる。岡山オリーブ園で制作。昭和33年5月 神戸、蒲郡、那須で、6月京都、須磨、琵琶湖、7月日光、、8月箱根、9月琵琶湖、10月日光で制作する。昭和33年11月 社団法人第1回日展審査委員長。同展に「内海初冬(淡路橋立)」を出品。昭和34年1月 和歌山地方で写生。昭和34年2月 文化財専門審議会第三分科会専門委員となる。昭和34年4月 第45会光風会展に「日光秋景」を出品、大阪府買上げとなる。昭和34年5月 山崎覚太郎、橋本明治らと川奈に、中村研一、田村一男らと金沢に写生旅行。昭和34年6月 ふたたび日本芸術院第一部長におされる。昭和34年9月 文部省買上作品選考委員を依嘱される。昭和34年11月 文化功労者として顕彰される。第2回日展審査員。同展に「楠若葉」を出品。『辻永作品集』が日展美術刊行会から刊行される。財団法人日本自然保護協会理事に就任。昭和35年1月 花のスケッチ展を松屋で開催、東京新聞夕刊(12日附)に「美術芸談」がのる。中村研一、鬼頭鍋三郎と名古屋犬山に写生旅行。昭和35年2月 比叡山、越後湯沢、3月比叡山で制作。昭和35年4月 第46回光風会展に「春の湖」を出品。9月、文部省買上作品選考委員を依嘱される。北陸地方、須磨、10月戦場ヶ原などを写生旅行。昭和35年11月 第3回日展審査委員長。同展に「淡路島山」を出品。昭和35年12月 須磨、琵琶湖、比叡山などで制作。昭和36年2月 文化財専門審議会第三分科専門委員を依嘱される。昭和36年3月 日展役員満期改選、ふたたび理事長となる。昭和36年4月 第47回光風会展に「山湖萠春」を出品、東京国立近代美術館買上げとなる。昭和36年6月 命名した「淡路橋立」の建碑式出席のため淡路島に行く。昭和36年7月 オリンピック東京大会組織委員会芸術展示特別委員会委員を依嘱される。昭和36年8月 山中湖、9月10日日光周辺で制作。昭和36年11月 第4回日展に「湖上の朝」を出品。昭和37年1月 名古屋、蒲郡、日光、箱根で制作。昭和37年4月 第48回光風会展に「秋日」を出品、琵琶湖、須磨、群馬などを写生旅行。昭和37年6月 日本芸術院第一部長に三選される。北陸地方を旅行。昭和37年11月 第5回日展に「惜春」を出品、東京国立近代美術館買上げとなる。昭和38年1月 有島生馬、山崎覚太郎らと名古屋犬山、蒲郡を旅行。昭和38年3月文化財専門審議会第三分科専門委員となる。日展役員改選、理事長に三選される。昭和38年4月 第49回光風会展「高原微雨」を出品。長野吉野山、神戸などを写生旅行。昭和38年5月 文部省買上作品選考委員を依嘱される。昭和38年6月 日光、琵琶湖に遊ぶ。昭和38年7月 昭和3年制作の地下鉄壁画補修にかかる。9月完成。昭和38年9月 広島、宮島、日光などを写生旅行。昭和38年11月 第6回日展へ「山湖秋日」を出品。昭和39年1月 名古屋、2月日光、箱根、3月日光で写生。昭和39年4月 第50回光風会記念展に「雪しぐれ」を出品。大阪、須磨、姫路などを旅行。昭和39年5月 金沢、鶴木で桐の花を写生。6月日光、熊本、別府、阿蘇、8月琵琶湖、9月日光、箱根などで制作。昭和39年10月 病いに倒れ築地聖路加病院に入院。昭和39年11月 勲二等瑞宝章をうける。第7回日展に「凍解」を出品。昭和40年1月 退院、自宅療養をする。昭和40年4月 第51回光風会展に「秋」を出品。昭和40年8月 箱根、9月日光で写生。昭和40年11月 第8回日展に「春雪」を出品。昭和40年12月 紺綬褒章を受章。昭和41年1月 名古屋、蒲郡で写生。昭和41年4月 第52回光風会展に「新涼」を出品。昭和41年5月 金沢、6月日光、7月須磨に写生旅行。昭和41年11月 第9回日展に「霧の霽れ間」を出品昭和42年4月 第53回光風会展に「丘の小径」を出品昭和42年11月 第10回日展に「朝」を出品。昭和43年4月 第54回光風会展に「水ぬるむ」を出品。昭和43年11月 明治百年記念茨城県特別功績者として茨城県から表彰される。第11回日展に「山湖秋日」を出品。昭和44年4月 第55回光風会展に「春雪」を出品。昭和44年11月 第12回日展に「山湖早春」を出品。昭和45年4月 第56回光風会展に「須磨の海」を出品。昭和45年11月 第13回日展に「湖上の朝」を出品。昭和46年4月 第57回光風会展に「雪後」を出品。昭和46年9月 茨城県立美術博物館で「郷土の生んだ巨匠・辻永展」が開催される。昭和47年11月 第4回日展に「早春(志摩)」を出品。昭和48年11月 第5回日展に「山湖早春」を出品。昭和49年 7月23日午前10時15分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死亡。(本年譜は、茨城県立美術館における「郷土の生んだ巨匠・辻永展」目録より転載、一部を追加いたしました。)
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没年月日:1974/06/26 國画会々員洋画家日向裕は、6月26日食道狭さく症のため長野県南佐久郡の佐久総合病院で死去した。享年62歳。大正元年9月13日上記に生れ、昭和13年東京美術学校油画科を卒業、田辺至、南薫造に師事した。昭和18年「溪谷」「子供」が第18回國画会に初入選し、第20回「早春譜」で國画会奨学賞を得、同23回で國画会々員に推薦された。また28年日本風景画代表作展に「信州風景」を出品、同年日本国際展に「裸婦」「廚舎」を出品した。31年には渡仏し、グラン・ショミェール研究所に学び、翌年梅原龍三郎とピカソを訪ねた。33年現代日本美術展に「南仏サンポール」出品、翌年の日本国際美術展に「飛翔」を出品した。なお44年には、ギリシャ、トルコ等に約半年の旅行をしている。作品は、代表作に「飛翔」「故郷賛歌」などがあり、軟い色調と、フォルムに独特の画風を示していた。
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没年月日:1974/06/19 一陽会会員の洋画家、荻野康児は、6月19日午後5時30分、がん性腹膜炎のため東京杉並区の自宅で死去した。享年72歳。荻野康児は明治30年(1897)3月10日横浜市に生まれ、和歌山県で育ち、京都市立美術工芸学校で日本画を学んだが、中途退学して上京、川端画学校で洋画を研修、白日会展、日本水彩画会展に出品、昭和9年(1934)の日本水彩画会展で日本水彩賞を受賞、同年会員となった。また、昭和8年(1933)第20回二科会展から同15年第27回展まで出品、昭和15年日本水彩画会を退会して同志8名で水彩連盟を結成し同展に専ら出品した。戦後、二科会再建に参加して会員となったが、昭和30年(1955)二科会を脱退、野間仁根らと一陽会を設立した。また、戦前には自宅で水彩画研究所を開設、戦後には水彩画技法書をアトリエ社から刊行している。
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没年月日:1974/06/19 独立美術協会会員の洋画家藤岡一は、6月19日午前6時25分、肝硬変のため福岡市の九大病院で死去した。享年75歳であった。藤岡一は、明治32年(1899)4月29日、福岡県大牟田市に生まれている。父浄吉は石川県金沢市の出身で、大牟田三池鉱業所の所長をつとめ、陶器の蒐集家でもあった。福岡県立中学明善校をへて、昭和2年(1927)東京美術学校西洋画科を卒業、同級に牛島憲之、荻須高徳、加山四郎、小磯良平、中西利雄、山口長男、猪熊弦一郎、岡田謙三、高野三三男などがおり、後に上杜会を結成、藤岡も同会の熱心なメンバーであった。昭和4年(1929)ヨーロッパにわたり、パリに滞在し、昭和8年(1933)帰国した。滞仏時代がエコール・ド・パリの全盛期にあたり、その影響をうけ、フォーヴィスムを基調とした作品を独立美術展に出品、発表した。帰国の年、第3回独立展「赤いベレーの女」でO氏賞をうけ、昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年同会会員となった。昭和23年、共同染工株式会社監査役になり陶器部門を担当しその指導にあたり、また日本大学講師として後身の指導にもあたった。昭和42年(1967)第35回独立展で出品作「波」で児島賞を受賞、具象的形体を残しながら水墨を思わせる抽象的作風をみせていた。東京・資生堂画廊で個展を12回にわたって開催してきたが、ここ数年、糖尿病が悪化していた。独立展出品作品年譜昭和8年第3回展・「テーブルの上の静物」「静物」「静物」「画家室」「パイナップルをのせた静物」「静物」「ココ」「洗面所」「静物」同9年・「静物」「子供と犬」同10年・「司厨婦」「走」「壺」同11年・「アブストラクション」「誕生」「「アブストラクション」同12年・「花甘藍」「マンドリン」「挿花圖」同13年・「相撲(1)」「戦争譜」「相撲(2)」同16年・「支那服」「支那服」同17年・「対話」「対話」 同22年・「海(一)」「海(二)」「海(三)」「海(四)」「雨の熱海」同23年・「竹煮草」「汲便圖」同25年・「バレ(二)」「静物」同27年・「静物」「根府川駅」「千石原高原」同28年・「静物」「裸婦図」「朝鮮扁壺」同29年・「稽古」「三彩とリーチの皿」同30年・「ギリシャの壺」「戦争1」「ひまわり」同31年・「鍋島の御神酒徳利」「半裸体」「炭坑婦」同32年・「merry-go-round」同33年・「朝」「昼」「夜」同34年・「作品(1)」「作品(2)」「作品(3)」同35年・「油絵(1)」「油絵(2)」「油絵(3)」同36年・「油絵第一」「油絵第二」同38年・「舞」同39年・「無題」同40年・「無題」同41年・「草上の裸婦達」同42年・「大洋」同43年・「作品」同44年・「山」同45年・「空」同46年「日出」「日没」
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没年月日:1974/06/03 示現会代表、日本水彩画会名誉会員、日展会員の三上知治は、6月3日午後6時、東京都新宿区の自宅で老衰のため死去した。享年88歳。三上知治は明治19年(1886)12月10日、東京に生まれ、明治35年(1902)9月10日、小山正太郎の洋画塾不同舎に入舎、ひき続き太平洋画会研究所に学んだ。明治40年第1回文展から出品(「松並木」)し、同41年には太平洋会会員となっている。第2回文展「時雨ふる日」、第3回文展「三輪」と連続入選、第3回展では褒状をうけ、さらに第5回展では「初秋」で褒状をうけている。大正3年大正博覧会に「湯ヶ島」出品、褒状、大正11年平和記念博覧会では「豕の母子」で銀賞をうけた。大正13-14年(1924-25)ヨーロッパに遊学し、フランス、イタリアに滞在。帝展には大正12、13年を除いて毎回入選、昭和3年(1928)第10回帝展で特選となり、同5年無鑑査に推薦された。昭和11年、海軍館に「蘇州空中戦の図」を制作、同13年従軍して中国に赴いた。昭和17年、舞鶴海軍館に「マライ沖海戦」「アリューシャン上陸の図」などを制作、その間太平洋美術学校で後身の指導にもあたった。戦後、日展審査員をつとめ、昭和22年に示現会を結成、その代表者の位置にあった。動物を題材とした作品も多い。
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没年月日:1974/04/21 日本水彩画会理事長で水彩画家の水野以文は4月21日胃ガンのため東京荻窪の衛生病院で死去した。葬儀は自宅で日本水彩画会葬をもって行われた。享年83歳。本名準平。明治23年4月23日静岡県浜名郡に生れ、明治40年太平洋画会研究所に、同年新日本水彩画会研究所に移る。大正2年日本水彩画会結成にあたり、創立会員としてこれに参加した。昭和26年同会名誉会員に推され、運営委員長を兼務した。作品はそのほか官展にも送り、第1次文展には第3回~5・7回の入選があり、第2次では招待となった。日展には16回の入選がみられ、また日本橋三越で個展も開催した。代表作「井の頭の池」「善福寺の池」「新緑」「森」等。
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没年月日:1974/04/04 二紀会監事の洋画家佐々木孔は、4月4日脳こうそくのため杉並区の河北病院で死去した。葬儀は6日同区浮雲寺で二紀会葬をもって行われた。享年66歳。明治40年7月14日宮城県栗原郡に生れ、築館中学卒業後、東京美術学校油画科に入学、昭和9年同校を卒業した。つゞいて研究科に学び、同11年母校の嘱託講師となった。昭和18年母校の教職を去り、中島飛行機製作所技手となり、終戦に至る。作品は、はじめ二科会に出品し、戦後は24年二紀会同人となった。その後、42年同会は社団法人となり、その際推されて監事となり、没するまでその役職にあった。代表作「明ける沼べり」「朝やけ」等。
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没年月日:1974/03/15 日本芸術院会員、日展顧問の洋画家、耳野卯三郎は、3月15日午後2時10分、心不全のため東京・中央区の加藤病院で死去した。享年82歳。耳野卯三郎は、明治24年(1891)11月12日、大阪市に生まれ、天王寺中学校をおえたあと、葵橋洋画研究所に学び、大正5年(1916)東京美術学校西洋画科を卒業した。初入選は、大正3年(1914)第8回文展「カフェの朝」で、光風会展、文展、帝展、日展とに出品を続け、昭和8年(1933)光風会会員となっている(のち昭和40年退会)。昭和9年第15回帝展「庭にて」が特選となり、昭和11年「鞦韆」が文部省買上げとなった。昭和14年第3回新文展「少女と猫」、同15年紀元二千六百年奉祝展「緑衣」、同17年第5回文展「少女座像」、同年審査委員、また大正末期から昭和初期にかけては童画や児童雑誌の挿絵でも活躍した。戦後の日展では審査員などをつとめ、昭和36年第4回日展「静物」で同年度の日本芸術院賞を受賞、昭和41年1月日本芸術院会員に選ばれ、同42年勲三等瑞宝章を受章した。
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没年月日:1974/03/08 シベリア・シリーズといわれた虜囚生活を絵画化した作品で知られた、もと国画会会員の洋画家、香月泰男は、3月8日、午前7時10分、心筋こうそくのため山口県大津郡の自宅で急逝した。享年62歳であった。香月泰男は東京美術学校在学中に国画会に入選し、梅原龍三郎の知遇をえ、また福島繁太郎に認められた。郷里の山口県で高等女学校の図画教師となり、召集をうけて満州に従軍、敗戦後ソ連軍の手によってシベリアのセーヤ地区のラーゲルに抑留されて2年間の虜囚生活を送った。飢えと寒さに死んでいく戦友の老兵たちを眼のあたりにし、「軍隊毛布に包んで通夜をし、コーリャンの握り飯を供えた(そのお供えすら夜中に盗まれることもあった)」という極限的な情況を経験した。帰国後、再び郷里に住んだ香月は終生、その地に住み、戦争と敗戦、抑留の体験を昭和24年(1949)、「埋葬」から描き始めてその後約20年間にわたって45点余の作品を制作、それらが“シベリア・シリーズ”と呼ばれている。作風の単調さからある時期には万年新人候補と云われていたが、陶器の肌のような画肌を基調とした色数の少ない色調の画面で、静謐のなかに戦争の暗黒と死者への鎮魂の詩を描きだし、昭和46年(1971)、第1回新潮社日本芸術大賞を受賞した。昭和31年以降は、「地方在住のため、ややもすれば仕事が独善になり小さくまとまる懸念」しばしば海外旅行を試み、ヨーロッパ諸国からアメリカ、南太平洋、ギリシヤ、スリランカなどに旅行した。 葬儀は、3月17日、山口県美術文化葬として三隅町明倫小学校体育館で行われ、政府は15日、勲三等瑞宝章を贈った。シベリヤ・シリーズの45点が山口県に寄贈され山口県立博物館に保管されることとなった。 年譜明治44年(1911)10月25日、山口県大津郡の医師の長男として生まれる。昭和4年 中学校(現・大津高等学校)を卒業して上京し、川端画学校に学ぶ。昭和6年 東京美術学校油画科に入学し、藤島武二教室に学ぶ。昭和9年 第9回国画会展に「雪降りの山陰風景」が初選。昭和11年 東京美術学校を卒業し、北海道倶知安中学校教諭となる。文展に「二人坐像」、国画会展「雪庭」入選。昭和13年 山口県立下関高等女学校教諭に転任、結婚する。国画会展「猫」入選。昭和14年 国画会展「犬」「少年」入選、国画奨学賞を受賞。文展に「兎」特選となる。、このとき、福島繁太郎と初めて会う。昭和15年 国画会展「棚と壺」「枯カンナ」入選、佐分賞を受賞、国画会同人となる。紀元2600年奉祝展「石と壺」入選。昭和16年 国画会展「門石垣」「枝」。昭和17年 国画会展「釣床」。文展「水鏡」。昭和18年 1月、山口西部第4部隊に入隊。4月、満州興安省ハイラル地区第19野戦貨物廠営繕係に配属される。国画会展「砂上」「帰途」。文展「波紋」入選。昭和19年 友人に託して文展に「ホロンバイル」出品。昭和20年 満州鄭家邨地区に転進、敗戦。シベリヤのクラノヤルスク地区に抑留され、森林伐採作業につく。昭和22年 5月、復員。下関高等女学校に復職する。昭和23年 出身校の大津高等学校に転任。国展「雨」「風」、毎日連合展「蝶々」。昭和24年 国展「埋葬」「水浴」、シベリヤ・シリーズ第1作である。毎日連合展「施療」。サロン・ド・プランタン賞受賞。4月、東京フォルム画廊で第1回個展、11月、第2回個展、以後毎年同画廊で個展を開催する。昭和25年 毎日連合展「頭骨」、国展「朝」「昼」。第1回朝日秀作展「ホロンバイルの落陽」。国画展中堅会員による型成派結成され、同人となる。昭和26年 朝日秀作展「白木連」、毎日連合展「水仙」「折尺」、国展「室内」「卓上」。ロックフェラー夫人「白木連」買上げ、初めて作品が海外に出る。昭和27年 第1回日本国際美術展「仕事場」、パリ第8回サロン・ド・メ展に「人と籠」「裸鶏」出品。カーネギー国際美術展「朝」(1950年作)。昭和28年 第2回日本国際美術展「ペンキ職人」「電車の中の手」、国展「休憩」「散歩」。萩焼窯元で陶画を始める。昭和29年 第1回日本現代美術展「鳩と青年」「青年」。国展「牡牛」「盥舟」。昭和30年 第3回日本国際美術展「新聞」「二人」、国展「遊泳」「山羊」。初めて地方での個展を開催。昭和31年 第2回日本現代美術展「左官」、国展「路傍」「砂上」、第3回インド国際美術展に「埋葬」(1949年作)出品。個展出品作「ヒューザンス」がメルボルン近代美術館に買上げとなる。10月29日、第1回渡欧、6ヶ月にわたりフランス、スイス、イタリア、スペインを旅行する。昭和32年 4月パナマを経由して帰国する。第3回サンパウロ・ビエンナーレ展に「鳩と青年」他2点を出品。第4回日本国際美術展「太陽」、渡欧作品展を東京、大阪、長府、下関、福岡で開催。昭和33年 第3回日本現代美術展「乗客」、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「遊泳」「左官」「砂上」。個展「告別」「奇術」など。銅版、古材などで人物、動物の玩具をつくりはじめる。昭和34年 ヒューストン美術館日本美術展「鳥籠」「えい魚」「ダモイ」。第5回日本国際美術展「1945」。個展「北へ西へ」「ダモイ」。西日本秀作美術展「人と梟」「北へ西へ」。中国新聞文化賞を受賞。昭和35年 学校を退職し、教員生活をやめて制作に専念する。第4回日本現代美術展「ホロンバイル」。個展「避難民」「六掘人」、国際具象派展「運ぶ人」。昭和36年 日本洋画商展「湿地」、第6回日本国際美術展「涅槃」。国展「流雲」、カーネギー国際美術展「冬田」。日本橋高島屋において「埋葬」以後の作品52点による香月泰男展開催される。昭和37年 第5回日本現代美術展「アムール」。国画会を退会する。パリのノドラ画廊で個展が開かれる。昭和38年 第7回日本国際美術展「雪」。個展「雪(窓)」。昭和39年 第6回日本現代美術展「餓」。個展「鋸」「神農」「伐」など。「久原山」文部省買上げとなる。昭和40年 第8回日本国際美術展「凍土」。個展「★囚」「朝陽」。昭和41年 第7回日本現代美術展「星、有刺鉄線」。「海冬」。個展「マポルカ」「凍河」「エニセイ」など。ジャパン・リサイティの招きでアメリカに旅行する。昭和42年 第9回日本国際美術展「復員タラップ」。4月神奈川県立近代美術館において香月泰男、高山辰雄二人展開催され、シベリヤ・シリーズを中心とする57点が出陳される。画集『シベリヤ』(求竜堂)刊行される。滞米スケッチ展を東京、大阪、名古屋、福岡で開催。銀座松屋において香月泰男(戦争、虜囚、人間愛)展開催される。NHK教育テレビ「沈黙の画集」放映される。昭和43年 第8回日本現代美術展「別」「私の地球」。個展「雨」「雲」。谷川俊太郎との詩画集『旅』刊行される。NHKラジオ「私の戦争画」、12チャンネル・テレビ「私の昭和史・執念の画集」でシベリヤ・シリーズの作品について語る。西日本文化賞を受賞。昭和44年 第1回日本芸術大賞(財団法人新潮文芸振興会)を受賞。第9回日本現代美術展特別陳列「アムール」。個展「麦の太陽」「護」「煙」。初めて版画・リトグラフを発表。日本橋高島屋でを開催。昭和45年 東京芸術大学非常勤講師を依嘱される。個展「朕」「業大」「奉天L」「奉天R」。北九州市立美術館・香月泰男シベリヤ・シリーズ展、日本橋高島屋・版画と玩具による香月泰男展、山口県立博物館・県出身作家現代美術展。自伝『私のシベリヤ』(文芸春秋社)刊、『香月泰男のおもちゃ筐』刊。リトグラフ版画集『動物シリーズ』1、2。エッチング版画集制作。昭和46年 第10回日本現代美術展「-35°」「バイカル」、個展「点呼L」「点呼R」。安井賞選考委員を依嘱される。三隅町明倫小学校の壁画を制作。タヒチ島へ旅行。『シベリヤ画集』(新潮社)刊、『海拉爾通信』(新潮社)刊。石版画集(母子、裸婦、パリーの屋根、北海道)を制作。昭和47年東京セントラル美術館で「香月泰男シベリヤ・シリーズ展」開催される。個展「日本海」「雪山」「滝」。九州一周、北海道、山陰から京阪・奈良・山陽道をそれぞれ自動車でスケッチ旅行。春、ギリシャへ旅行。11月、スペイン・モロッコ・カナリヤ諸島へ旅行。『ギリシャ風物版画集』刊。香月泰男スケッチ集(ニューヨーク、パリ1、パリ2、タヒチ)刊。昭和48年 個展「デモ」「絵の具箱」「海拉爾」「道」。セーシェルズ・モーレシャス・レュニオン・スリランカ旅行。第2回タヒチ島旅行。ニース旅行。木版画集「タヒチ」、石版集「ギリシャ小品集」「モロッコ」。昭和49年 三越で陶画・色紙展。3月8日、心筋こうそくのため自宅にて死去する。木版画集「ニース」、石版画集「グランカナリア」、随想集「画家のことば」刊。シベリヤ・シリーズ45点山口県に寄贈される。昭和50年 4月20日~5月11日山口県立博物館、7月15日~8月17日東京国立近代美術館、8月23日~9月21日京都国立近代美術館、9月27日~10月19日北九州市立美術館において香月泰男遺作展が開催される。
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没年月日:1974/01/29 特異な作風で注目を集めつつあった難波田史男は、九州旅行の帰途、1月29日未明、小倉発神戸行きのフェリー「はりま」より転落、溺死した。遺体は1月以上あとの3月7日、香川県三豊郡の粟島沖2キロ附近で底引き網操業中の漁船によって発見された。難波田史男は、抽象画の画家、難波田龍起の二男で早稲田高等学院卒業後、村井正誠、山本蘭村などの指導をうけたが、独自に内的世界を探索し、曲折をへたあと早稲田大学文学部美術科に入学、在学中、大学紛争を経験、その苦悩の傷痕をひきづりながら制作し、卒業論文を執筆した。数度にわたり個展を開催、パウル・クレー風の思考の痕跡を刻みつけるような作品は一部の鑑賞者、批評家の注目をひきつけていた。フェリーからの転落は、事故によるものか、自殺であったか詳かではない。 略年譜昭和16年 4月27日、父龍起、母澄江の次男として東京都世田谷区に生まれる。昭和20年 3月、東京空襲が激しくなり母の出生地山口県へ母、兄紀夫、弟武男と疎開する。11月、経堂の家へ帰る。クレヨンで幼時の戦争恐怖のイメージにつながる飛行機や火を吐く戦車などを描いている。昭和23年 4月、世田谷区立桜丘小学校へ入学。小学校時代に描いたものでは、スケッチ板の油絵「自画像」「赤い家のある風景」「動物園のキリン」(1949)などがある。52年にも油絵「自画像」や「静物」があるが、それは図工の教師勝田寛一氏(モダン・アート協会員)のすすめで描いたものらしい。昭和29年 4月、世田谷区桜丘中学校へ入学。真面目に諸学科に励んで優等生だったが、先生や親に叱られるのを極端に嫌う性質があった。昭和32年 3月、中学校卒業。都立青山高校にも合格したが、本人の希望で早稲田高等学院に入学。しかし、早稲田に抱いていた憧憬の夢が消え、一学期にしてすでに煩悶し、単身東北に旅する。昭和33年 このとし読書が旺盛になる。日記にヒルティの「幸福論」の読後感があり、『こういう良いものを知らずに死ぬのはいやだ。人間自身を知らずに死ぬのはいやだ。読むんだ。読むんだ。生きるんだ。生きるんだ。』と記す。ベートーヴェンの言葉にも大変感動し傾倒する。学院では絵画よりむしろ音楽を好んで選択している。昭和34年 8月、外房に避暑に行き一週間ほど泊り、無報酬で宿の営む海辺の売店を少女と一緒に手伝う。少女の面影は史男をとらえる。11月、学友が九州の修学旅行中にホテルにて自殺したショックは大きく、自分は彼の倍は生きたいと日記に記す。昭和35年 このとし自分の好きな本を読み、内面の聲を聞くと、正規の学業はむなしくなったらしい。将来を考えてせめて高校だけは卒業しなければいけないという両親の忠告に従い、3年の3学期に猛烈に勉強し卒業に漕ぎつける。大学進学はあきらめ、父のごとく絵画の道を志向する。4月、文化学院美術科に入学。村井正誠、山本蘭村の両先生の指導をうける。石膏デッサンにはあまり興味を示さなかったが、デッサンの重要性を考えて、神田の街の建物をスケッチしたり、自由に抽象的な線描をノートにたんねんに描き、片面には自分の詩や尊敬する作家の言葉を書きつけ、次第に芸術の思考を深める。7月、北海道恵庭の牧場で自ら二週間余働き、労働の苦労を知る。小品の油絵をボール紙や板、キャンバスに描く。昭和36年 ベートーヴェンの音楽を聴きながら、曲を絵巻風にデッサンすると、造形力に富んだ美しいハーモニーの絵巻、三本ができた。このとし、全紙のグワッシュ画が多くなる。昭和37年 文化学院を中退してから、さらに独自の制作活動が盛んになる。クラシック音楽のレコードをかけては内部のイメージを誘い出し、作画に没頭する。交友の機会も殆んどなく、孤独の時間を過ごしていた。このとし、全紙の彩色画を多数描いた。昭和38年 このとし、「土竜の道」(全紙10枚連続)その他多数のペンによるデッサン及び彩色画を制作。昭和39年 このとし、「イワンの馬鹿」(全紙2枚つづき6面)を制作。たまたまイトウ画廊(現在はない)の壁画を見て、宿題の絵巻風の作品の陳列が可能として個展を希望したので、父の紹介する伊藤氏に作品を見せたところ、新人として世に出ても生活がむずかしいから、むしろその前にイラストに進んだ方がいいと忠告された。そこで史男は記憶を頼って相撲のデッサンを描き、大相撲シリーズ(横長19枚連続)を制作する。だが、結局イラストの作品には入り込めずに終った。この頃、大学に行かないことのコンプレックスを感じるとともに、自己の絵画論の確立の必要を痛感して、早大入学を志し受験勉強を始める。昭和40年 4月、早稲田大学第一文学部美術科に入学。青柳正廣教授や大沢武雄教授等の指導をうける。大学祭のために「早大行進曲」A(全紙5枚連続)とB(全紙4枚連続)を制作する。1年は楽しく過ごして制作も進んだ。昭和41年 大学紛争が始まり、過激派と一般学生の間にあって苦しみ、しばしば興奮状態に陥った。その傷痕はあとまで続いた。昭和42年 1月、史男の作品を認めて下さった岡本謙次郎氏のすすめで第一回個展を第七画廊で開催する。「土竜の道」「ある日の幻想」「終着駅は空間ステーション」(1963)「イワンの馬鹿」(1964)「太陽讃歌」(1967)などの全紙の作品と水彩の小品多数出品。油絵「夢の国の人々」(100号)「夢」(10号)その他を制作する。昭和43年 「太陽の国境線」「夜の太陽}など一連の“太陽シリーズ”をテンペラで数多く制作する。このとし、「太陽をデッサンする」「世界をデッサンする」「水の街角」「東洋美術―実存主義と仏教―」等の随想を書く。昭和44年 6月、学園紛争の悩みは続いていたが、第七画廊で第二回個展を開催する。油絵「サン・メリーの音楽師」(100号7枚連続)同盟の水彩全紙(11枚連続)その他全紙の水彩、デッサン等を出品。諸新聞に批評が掲載されて好評であった。9月、ギャラリーオカベ「テンペラ画展」は“太陽シリーズ”として、「七色の虹の彼方に、太陽の花々は開く」の文章を掲載する。12月、神戸トアロード画廊で個展を開催。昭和45年 3月、早稲田大学第一文学部美術科卒業。「青春の思索」を窪田般彌仏語教授へ提出レポートとして書く。卒論は「現代美術における小説の役割―現代フランス小説―」であった。北海道旭川梅鳳堂で個展を開催。12月、東邦画廊で個展を開催。昭和46年 6月、第1回新鋭選抜展(三越)に選ばれて、中版の水彩4点を出品。7月、北海道の牧場で働いて、晴耕雨読の生活をしようと本のいっぱいつまった重いバッグをさげて出かけ、洞爺湖の知人宅に滞在するも、適当な牧場が見つからず帰京する。11月、東邦画廊で個展を開催。昭和47年 6月、第二回新鋭選抜展に油絵「幻花」(50号)その他3点出品。11月、東邦画廊で油彩と水彩の個展を開催。油絵「海」(15号)は多くの人に注目された。このとしフジテレビのミュージックギャラリーに出演、作品が紹介された。昭和48年 6月第三回新鋭選抜展に油絵「神話」(50号)その他3点出品。7月、旭川画廊にて、龍起・史男の油絵と水彩の親子展開催。北海道を楽しく旅行する。この年油絵、水彩多数制作するほかエッチングの習作20点を作成。美術雑誌「日本美術」(99号)の対談「制作日記」には史男の絵画思考と人間観が語られていて、終わりに「自分の心にうまれてくるもの、それを自由に表現していきたい。キャンバスは自分の世界観を表現する唯一の場なのである」とある。昭和49年 1月29日、九州の旅行の帰路、瀬戸内海にてフェリーより転落溺死す。32歳であった。遺体は3月6日香川県三豊郡箱崎沖にて漁船により収容される。第四回新鋭選抜展に水彩小品1973年作「ひとり」「彼方」「女神」「空」「星空の下」の5点を父の選択により出品。入賞す。昭和50年 11月、難波田史男遺作展がフジテレビギャラリーで開催され、60余点が出品される。昭和51年 2月、ある青春の挫折の歌・難波田史男遺作展が新宿・小田急百貨店≪本館≫11階グランドギャラリーで開催され、作品170余点が展示される。(難波田龍起・編)(本年譜は、難波田史男遺作展目録より転載いたしました)
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没年月日:1974/01/26 独立美術会会員の洋画家、高間惣七は1月26日午後零時5分、心筋硬ソクのため横浜市の自宅で死去した。享年85歳。高間惣七は、明治22年(1889)7月25日、東京、京橋に生れ、大正5年(1916)3月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。美校在学中の大正2年(1913)第7回文展に「午前の日」が入選、翌第8回展では「養鶏場」入選、褒状をうけた。その後大正4年「漁師町」、同6年「浮雲」が入選、同7年第12回展「夏草」が特選となった。続いて大正8年第1回帝展から無鑑査となり、「幽村の春」、第2回展「海浜」「裏庭」、第3回展「花園の鶏」と連続特選となり、大正14年には帝展委員にあげられた。その後も帝展、新文展で委員、審査員をつとめ、戦後も第9回日展まで審査員をつとめた。その間、大正13年(1924)3月には、牧野虎雄、斎藤与里らと槐樹社を設立(昭和6年12月解散)、昭和7年(1932)東光会創立に参加してのちに顧問、そのほか新光洋画会、主線美術協会などにも関係した、昭和30年(1955)、突如、官展系との関係を絶って独立展に出品。勇気ある行動として話題となったが、同年独立美術協会会員となって、以後、独立展を中心に主要な作品を発表してきた。昭和34年(1959)第5回日本国際美術展では「海風」を出品して優秀賞を受賞、昭和39年には渡米してマイアミ近代美術館で個展を開催し、同48年4月勲三等瑞宝章をうけた。鳥類を好み、自宅にも多数飼育して鳥を題材とした作品も多く暖色系の明るい色調を特色とした作風で知られた。独立展出品作品年譜昭和30年第23回展・「二羽の鳥」「鳥」「月」同31年・「花咲く庭」「鳥「月とハンマー」同32年・「凪」「赤と青と」同33年・「九月」「八月」同34年「海」「蝶」同35年・「作品(A)」「作品(B)」同36年・「奔泉」同38年・「解放」「解放」同39年・「鳥B」「鳥A」同40年・「白い鳥」「白い太陽」同41年・「赤の中の鳥」「南国の鳥と花」同42年・「とり」同43年・「藍と黒」「赤の中に遊ぶ色」同44年・「紅綬雞」同45年・「A赤い鳥と黒い鳥」「B白い鳥と朱の鳥」同46年・「飛鳥」
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没年月日:1974/01/26 独立美術協会会員で、映画美術監督としても著名であった久保一雄は、腸閉そくのため、1月26日、東京世田谷の木下病院で死去した。享年73歳。久保一雄は明治34年(1901)2月16日、群馬県藤岡市に生まれ、群馬県立藤岡中学校を卒業して、川端画学校で洋画を学び大正12年(1923)に修了、東京向島の日活映画撮影所に入所したが、関東大震災の後、京都日活に移った。労働運動、政治運動に参加し、昭和3年(1928)3月15日のいわゆる3・15事件で5年の刑をうけた。昭和8年東京に移り、映画P.C.Lに入社、同11年東宝映画株式会社創立と共に東宝に移った。昭和23年の東宝争議の時には従業員の先頭にたって活躍したが、その後、東宝を退社、フリーの美術監督として独立プロダクションの仕事を多く担当し、昭和27年(1957)には今井正監督の映画『どっこい生きている』の美術を担当し、毎日映画コンクールの美術賞をうけている。そのほか、『妻よバラのように』、『人情紙風船』、黒沢明監督の『素晴らしき日曜日』、『樋口一葉』、山本薩夫監督『太陽のない街』、『真昼の暗黒』、『松川事件』『荷車の歌』などの美術を担当した。そのかたわら、昭和13年第8回独立展に初入選してから以後、出品を続け、昭和19年第14回展に「雪の石狩牧場」を出品して独立賞をうけ、昭和22年独立美術協会準会員、翌23年(1948)同会会員に推挙された。晩年は健康を害して映画の仕事からも遠ざかり、専ら絵画制作に熱中し、「小さなタワーのある港」など港や船、サーカスを題材とした作品や、花の小品を多く描いた。
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没年月日:1974/01/12 新制作協会会員の洋画家、西田勝は、1月12日午前10時50分、脳卒中のため川崎市の自宅で死去した。享年55歳。西田勝は、大正7年(1918)2月19日、神奈川県川崎市に生まれ、神奈川県立川崎中学校をへて、昭和17年(1942年)帝国美術学校西洋画科を卒業した。在学中の昭和14年(1939)、第4回新制作派協会展に出品した「男の肖像」が初入選となった。以後昭和16年同会の第6回展に「ひなた」「画室」入選、第7回展「ブランコ」「お勝手」入選し、新作家賞を受賞した。昭和17年から敗戦まで兵役にあり、復員後、新制作派協会展に出品、昭和21年10回展に「泣虫小僧」「ひとり」「上野の子供達」を出品、子供たちの姿をとおして敗戦後の現実を表現、新作家賞を受賞、翌22年第11回展においても岡田賞を受賞、昭和26年第15回展では「電車ごっこ」が15周年記念賞をうけ、昭和28年新制作協会員にあげられた。昭和42年ニューヨークに行き、2年間滞在して帰国した。
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没年月日:1973/12/02 春陽会々員の洋画家伊藤善は、12月2日死去した。大正5年1月12日宮城県黒川郡に生れ、東京美術学校に学び、昭和18年帝國美術学校西洋画科を卒業した。終戦まで海軍航空隊に従軍、昭和21年第1回日展に「冬の日」及び第24回春陽会展に出品した。春陽会には以後毎年出品をつづけ、昭和26年準会員、同28年会員となった。そのほか東京大丸、資生堂、兜屋等で屡々個展を開催し、20数回に及ぶ。また昭和38年より40年にかけ北アフリカ諸国及び欧州9ヶ国を歴遊し、主としてイタリアに滞在した。春陽会出品主要作品―「女とパイプ」(26回)「木の葉」「化石」「手をくむ三人」(29回)など。
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没年月日:1973/11/13 一水会会員の洋画家、木村辰彦は、11月13日、死去した。木村辰彦は、大正5年(1916)9月6日、東京、銀座に生まれ、昭和8年(1933)東京都立第四中学校を四学年で中途退学し、二科会美術研究所に入所、同12年以降は安井曽太郎に師事し、昭和13年一水会展に初入選、以後、毎回出品、昭和16年には岡田賞を受賞した。昭和18年文展無鑑査となった。
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