本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1980/01/21 二科会常務理事の洋画家井上覺造は、1月21日食道狭さく症のため兵庫県尼崎市の関西労災病院で死去した。享年75。1905(明治38)年1月13日、大阪市南区に生まれ、天王寺中学を経て1928年神戸商科大学を卒業。信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事し、30年第17回二科展に「海浜風景」が初入選し、以後同展へ出品を続け、39年第26回展に「作品A」など3点を出品し特待となり、九室会に所属する。41年に二科会会友に推挙され、翌年第29回展に「立華」を出品し二科賞を受賞。戦後の45年二科会再組織と同時に二科会会員となり、51年第36回展に「詩人A」「詩人B」で会員努力賞を受賞、55年には二科会理事となる。また、57年にはインド・ビエンナーレ、60年コンパレゾン展、61年にはメキシコ・オーデトリオ・ナショナルに出品する。72年第57回二科展出品作「猟人日記」で青児賞を、77年第62回展出品作「文明批判序説」で総理大臣賞をそれぞれ受賞し、78年から二科会常任理事をつとめる。この間、52年以来20数回にわたって欧米諸國を巡遊した他、高島屋、梅田画廊、フジヰ画廊等でしばしば個展を開催する。
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没年月日:1979/12/30 一陽会創立会員の洋画家野間仁根は、12月30日肺炎のため東京港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年78。1901(明治34)年2月5日愛媛県越智郡に生まれ、1914年今治中学校に入学、19年母と共に上京し、翌年2月川端画学校に入り、4月東京美術学校西洋画科に入学、25年卒業する。在学中の22年に久遠社、翌年伊東廉らと童顔社を結社、24年には第11回二科展に「静物」が初入選する。28年第15回二科展に「夜の床」など3点を出品し樗牛賞を受け、同年拓榴社に入会、29年第16回二科展に「ぜ・ふうるむうん」(The Full Moon)「友達」を出品し二科賞を授賞、30年二科会々友、33年二科会々員に推挙される。また、31年佐藤春夫作『むさしの少女』の挿絵を描いたのをはじめ、坪田譲治作『風の中の子供』(36年)井伏鱒二作『花の街』(42年)などの新聞連載小説の挿絵にも戦後まで腕をふるった。この間、38年から翌年にかけて臨時召集され中国で兵役につく。戦後も二科に出品を続けたが、55年6月鈴木信太郎らと同会を退会し、7月鈴木、高岡徳太郎ら同志と一陽会を結成し、以後同会の主要作家として没年まで制作発表を続ける。きらびやかな色彩と骨太な筆触でユーモラスで幻想的な画風を築いた。画壇きっての釣り師としても有名で、『香馬先生釣日記』などの著書もある。 年譜1901 2月5日、愛媛県越智郡に、父野間五恵、母ダイの長男として生まれる。1907 津倉尋常小学校に入学。1913 津倉尋常小学校卒業。今治第二高等尋常小学校入学。今治市、伊藤ヨウ方に寄宿。1914 今治中学校入学。1915 今中寄宿舎に入る。1918 今治市中浜町、松の屋旅館に下宿。1919 12月25日、母と共に上京、下谷区、三村方に寄宿。1920 2月、本郷春日町、川端画学校に入校。4月、東京美術学校入学。本郷区台町、三国館に下宿。夏季休暇利用し諏訪、甲州に旅行。9月、本郷区に移る。1921 10月、塩原温泉に写生旅行。「秋山景色」を描く。1922 久遠社を結成し美校倶楽部にて第1回展開催。1923 童顔社を結成、伊東廉、中谷健次、一原五常、山本雅彦(彫刻)、斉藤瑞唆(木彫)後、沢健太郎、水野清入社。「娘と人形」を描く。10月、大阪に移住1ヶ月。1924 巣鴨、室谷に下宿。本郷区浅嘉町松井鉄之助方に下宿。「静物」新光洋画展出品。「静物」中央美術展出品。「庭」光風会展出品。第1回個展開催。童顔社、展覧会開催。9月、「静物」第11回二科展出品、初入選。10月、神田竹見屋にて個展開催、約30点出品。谷中天王寺三村に寄宿後、下谷区金杉町192、片岡方借家に移住。1925 東京美術学校卒業。卒業制作百号「裸婦」。「静物」第6回中央美術展出品。9月、二科展落選。10月、片岡方より下谷区、三村方借家に移住。11月、童顔社展覧会、30点出品。12月、香川県善通寺町山隊隊に山砲兵として入隊。1926 11月、山砲兵第11連帯現役満期。9月、「静物」第13回二科展出品。童顔社展、約20点出品。1927 下谷区谷中天王寺町34に住む。9月、「娘と人形」「摘草」など5点、第14回二科展出品。9月、童顔社解散。1928 下谷区谷中三崎町18に移る。1月、拓榴社に入会する。6月、日本橋丸善にて拓榴社展を開催。9月、「夜の床」など3点第15回二科展出品、第15回樗牛賞授賞。作品「壺の中のダリヤ」。1929 1月、紀伊國屋にて展覧会。拓榴社同人となる。「操り人形四種」「玩具の会話」第10回中央美術展出品。9月、「ぜ・ふうるむうん」「友達」第16回二科展出品、二科賞受賞。11月、銀座資生堂の漣洋画展に出品。11月、拓榴社展に出品。作品「アルルカン」「柿」。1930 9月、「龍桜」「濤声」「冬夜の歌」第17回二科展出品。二科会友となる。1931 佐藤春夫作「むさしの少女」に挿絵を描く。9月「La Promenade de l’artiste」「鴎」第18回二科展出品。アンデパンダン展出品。1932 9月、「夏の夜の戯れ」「小鳥は楽しく鳴いている」第19回二科展出品。9月、千駄木、福原平一借家に移住。12月、津倉にて岡山市都窪郡帯江村、長瀬又七長女、志那子と結婚。1933 9月、「画室」「睡れる旅人」第20回二科展出品。二科会々員となる。本郷区駒込千駄木町に移る。作品「麦畑と子供」。1934 1月、長女佳子生まれる。下谷区に移る。銀座画廊にて個展開催。9月、「魔法の森」第21回二科展出品。作品「かぶと虫と話す牛」「ライオンとかぶと虫」。1935 長男伝治生まれる。新宿紀伊國屋画廊にて個展開催。9月、「晩夏交響楽」「海辺」(2点)第22回二科展出品。作品「家族」。1936 本郷駒込坂下町に移る。9月、「花園の友人」「鮒と麦の花」など5点第23回二科展出品。9月、坪田壤治『風の中の子供』(東京朝日新聞夕刊)の挿画連載を始める。作品「夜々の星」「壁」。1937 二男雅二郎生まれる。銀座日動画廊、銀座ラテン画廊にて個展開催。坪田壌治作「三平チャンと善太君」(大阪朝日新聞夕刊)にて挿絵を書く。9月「夏の淡水魚」第24回二科展出品。1938 2月、銀座日動画廊にて熊谷守一と共に個展開催。8月、臨時召集により山砲兵第11連帯に応召、中国へ渡る。9月、「夏園」「田園」第25回二科展出品。作品「薔薇と雀」1939 5月、召集解除。日動画廊にて個展開催。約20点出品。銀座三越にて第1回新水彩展開催。「看護婦の散歩」「花と水鳥」「檳榔樹の並木」第26回二科展出品。1940 1月から千葉県安房郡太海へ、8月伊豆、10月茨城県龍ヶ崎町など写生旅行。第2回新水彩展、第5回京都市美術展、無涯社第1回展などへ出品。「春の海」「朝陽」春季二科展出品(高島屋)。「花実と白鷺」第27回二科展出品。5月、日動画廊で個展開催30点余を出品。『童話集』(小川未明著)『童心の花』(坪田壌治著)『愛児煩悩』(舟橋聖一著)の装幀を行う。1941 4月、妙義山写生旅行。5月、長野県初谷砿泉に写生旅行。5月、三男利根生まれる。6月、日動画廊にて新作油絵展開催。20点余を出品。7月、大阪三角堂で個展開催。仏印巡回絵画展、洋画10作家新作発表展に出品。10月、文化奉公会出征画家展に「広東の回想」出品。台東区桜木町に移る。作品「虫と猫」。『井伏鱒二随筆集』の装幀と表紙、扉画、『ドン氏の行列』(太田博也著)の装幀と表紙と扉画を行う。1942 2月、嵯峨嵯温泉写生旅行。第2回出征美術家展に出品、火野葦平作「ハタノウタ」に挿絵を書く。8月、井伏鱒二の小説『花の街』(東京日々新聞朝刊)の挿画連載を始める。9月、二科展に「越後毛渡沢渓流」「子供勤労」「葛飾の子供」を出品。1944 1月、愛媛県に疎開。二科展解散。1945 再建二科会入会。秋の審査に上京。作品「迷宮物語」。三男博生まれる。1946 9月、「夜釣」「滞船」など6点第31回二科展出品。1948 9月、「銀河」「夜々の星」など4点第32回二科展出品。作品「魚」1948 作品「風景」「瀬戸内の海」1949 作品「田舎の家族」「受胎告知」「処女宮」。9月、「かっぱと花」「壺の花」など6点第34回二科展出品。1950 9月「すばる星と金牛宮」「夜曲夜釣」など4点第35回二科展出品。1951 9月、「魚歌水心」「魚譜」など4点第36回二科展出品。作品「星座」「海」。1952 日展改組に審査員として出席、7月上京。9月、「海の花苑」「川口」など4点第37回二科展出品。「瀬戸内海・南浦風景」芸大文庫買上げ。毎日新聞連載、石川達三作「青色革命」に挿絵を書く。作品「漁火」1953 2月頃家族上京。9月、「漁火」「子供と昆虫」「谷中の森」第38回二科展出品。作品「漁介」「兄弟と昆虫」「春潮」「嵯峨沢渓流」「房州太海海岸」。1954 東京の自宅を回収。作品「牡丹」「浜離宮」、「5月の花」国際新美術展出品。9月、「昆虫」。「街の散歩」など5点第39回二科展出品。1955 6月、鈴木信太郎らと二科会退会。7月、鈴木、高岡徳太郎らと一陽会結成。9月、日本橋高島屋で第1回展開催、「星座・アンドロメダ」「貝殻」「生物B」「双魚」出品。1956 日動画廊にて近作展開催。8月、「森のニンフ」第2回一陽会出品。「メバル」1957 8月、「渦潮」「裸婦七人」第3回一陽会出品。1958 野間仁根個展開催。9月、「水浴」「水辺の物語」第4回一陽会出品。「外房州天面海辺」。1959 9月「鳥の会話」第5回一陽会出品、「魚と釣師」。1960 第1回谺会出品。野間仁根新作油絵展。秀作デッサン展。9月、「ダリア」「疚太風景」第6回一陽展出品。作品「河童の酒宴」「メバルとヨメガサ」。1961 野間仁根油絵個展を松坂屋で開催。9月、「聖人文壺のダリア」など3点第7回一陽展出品。作品「蜂」1962 野間仁根新作油絵展、野間仁根油絵小品展開催。9月、「浜木綿」など3点第8回一陽展出品。1963 9月、「漁村の岩山」など3点第9回一陽会出品作品「浜木綿」「星座・琴の二重星」。1964 9月、「天河」「薔薇」第10回一陽会出品。「春の星座」。1965 9月、「未来水道」「魚の散歩」第11回一陽会出品。1966 9月、「吉浦漁村」「天面漁村」第12回一陽会出品。1967 千代田画廊にて、田崎広助、鈴木信太郎らと「三人展」開催。9月、「来島水道仲度島付近」「能島水道」第13回一陽会出品。1968 9月、「瀬戸内海・早川」「瀬戸内海・能島鯛崎」第14回一陽会出品。1969 9月、「瀬戸内海石槌山遠望」「瀬戸内海早川の景」第15回一陽会出品。1970 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第16回一陽会出品。1971 9月、「瀬戸内海・仲度島付近」「瀬戸内海漁港」第17回一陽会出品。作品「メバル」「瀬戸内海・釣魚」「神々の集い」。1972 9月、「瀬戸内海伯方島遠望」「瀬戸内海南浦の朝」第18回一陽会出品。作品「露草とカマキリ」「露草とカタツムリ」「山彦」。1973 9月、「常石の眺望」「森の人々」第19回一陽会出品。「アネモネ」1974 9月、「天ノ河」「森の友達」「旧作森の物語」第20回一陽会出品。「蟹」。1975 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第21回一陽会出品。「沼の河童」。1976 9月、「森の猿」「森の妖精」第22回一陽会出品。「水辺の鳥」「森の人々」。1977 9月、「蛙と猿」「ニンフの午睡」第23回一陽会出品。「外房州天面」。1978 9月、「マリオネットの散歩」「森のヒッピイ」第24回一陽会出品。「泊港滞船」。1979 9月「芸術の散歩」「森の楽人」第25回一陽会出品。「富嶽」絶筆「森の鳥たち」。12月30日逝去。78歳。[本年譜は『野間仁根画集』(昭和55年、三彩新社)所載の「野間仁根年譜」に添削を加えたものである。]
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没年月日:1979/12/24 サロン・ドートンヌ会員の洋画家萩谷巌は、12月24日心筋硬ソクのため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年88。1891(明治24)年12月17日、福岡県朝倉郡に生まれ、1908年福岡県立小倉師範学校に入学したが、画家を志望して家出し翌年上京、長尾一平の磯谷商店に書生として住み込み、白馬会葵橋洋画研究所の夜学部に通って石膏デッサンから始める。11年磯谷をやめ新派の喜多村緑郎一座に、翌年大阪で川上貞奴一座に加わり背景画の仕事に携わる。19年第7回光風会展に「筑後川」、翌年の第8回展に「梅林」が入選する。22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室に通い、この頃からキスリング、ドランらと親交を始める。24年サロン・ドートンヌに「モンマルトル風景」が入選、以後同展やアンデパンダン展、サロン・ナショナル・デ・ボザール展などに出品し、26年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。27年帰国し帰朝洋画展(日本橋三越)を開き、翌年から33年まで再渡仏する。帰国後、団体展に所属せずもっぱら個展で制作発表を行う。戦後も三回渡仏し、帰国後滞欧作展を開く。バラの絵が得意で“バラの荻谷”といわれた。79年、米寿社会の回顧展が東京、福岡で開催され、『荻谷巌画集』(日動出版)が刊行された。 略年譜1891 12月17日、福岡県朝倉郡に生まれる。芳吉、アキ長男。父祖代々、秋月藩候に茶道をもって仕えた家柄であった。1898 荷原尋常小学校に入学。幼少の頃から絵を描くことが好きで、小学生時代、習字や算術の時間に絵を描いてよく教師に叱られた。1902 荷原尋常小学校卒業。金川高等小学校に入学。高等小学校の頃、家にあった田能村直入、木下逸雲などの軸ものを模写している。1906 金川高等小学校を卒業。福岡市の予備校、予修館に入学する。画家になりたくて、父に懇願したが許されず、やむなく師範学校に進学することにした。1908福岡県立小倉師範学校に入学。画家になることをどうしても許してもらえなかったので、夏休みを機に家出して、静岡の大叔父萩谷澄人のもとに身を寄せる。静岡に滞在中、静岡出身の額縁製造の草分け磯谷商店の店主長尾健吉の子息一平(当時実家で療養していた)と知り合い、同家に出入りする画家のことや住み込み店員として働きながら世に出た画家の話などを聞き、磯谷商店へのとりなしを長尾一平に頼み込み、ひそかに機をうかがった。静岡の大叔父は、画家志望には理解を示したが、油絵をやりたい本人に日本画の竹内栖鳳に弟子入りすることをすすめたりして、意見が合わなかった。1909 1月、大叔父に無断で上京し、東京市芝区新桜田町19、磯谷商店に住み込みの書生として雇われる。かねて前記の長尾一平と打合わせて決行したことであった。磯谷での仕事は、店の掃除、額縁の配達、集金などで、時に、竹之台陳列館でひらかれる展覧会の搬出入や陳列の手伝いもやらされた。夜は、白馬会葵橋洋画研究所(赤坂区溜池町3番地にあった)の夜学部に通うことが許され、石膏デッサンから絵の勉強を始める。黒田清輝は滅多に姿を見せず、和田三造が主任で時折教えた。同じ時期に研究所に来ていた岸田劉生とは同年だったこともあって直ぐに親しくなり、銀座2丁目の劉生の家(精錡水本舗)に遊びに行ったりした。11月、市川左団治による自由劇場第1回試演(有楽座)の折り、岡田三郎助の下で背景制作の手伝いをする。1910 秋、白馬会会員を中心とする展覧会に日比谷公園のつつじを描いた水彩画が入選する。1911 この年三月に開場した帝国劇場には、パリのオペラ座を模した天井画と壁画が描かれているが、これは和田英作が主任となり、東京美術学校出身の藤田嗣治、近藤浩一路らを助手にして制作したものである。制作中、磯谷からの指示で手伝いに行き、絵具を練ったり、高い所へ運んだり、たまに空の部分を塗らせて貰ったりした。この頃、磯谷商店をやめ、新派の喜多村緑郎一座に加わり、背景主任として各地の巡業について回る。1912 後藤良介一座に加わって朝鮮の釜山にわたったが、明治天皇崩御(7月30日)に際し、一座は解散し、しばらく釜山で同地の名士の肖像画を描いて糊口をしのぐ。帰国後、大阪で川上貞奴一座のために背景を描く仕事をする。1913 大叔父萩谷季雄が校長をしていた大阪府北河内郡南郷小学校で個展をひらき、生駒山で描いた四号の作品四十余点を出陳する。同村出身の代議士西村氏の斡旋による。この時、近藤浩一路が大阪から駆けつけ、似顔絵の席画をして応援してくれた。1914 大正4年にかけて岡山市の親戚中島次郎吉の世話になり、主に県内の名士の肖像画を描いて生活する。後に、井原市西江原町の医師大山恒宅に寄寓する。1917 この頃、福岡に帰る。1919 三月、光風会第7回展に『筑後川』が入選する。1920 五月、光風会第8回展に『梅林』が入選する。1921 三月、大原孫三郎収集の現代フランス名画展(岡山県、倉敷小学校)を見に行き、シャルル・ゲランの赤いスカーフの少女像(「手鼓を持つイタリアの少女」)の暖かい色彩のハーモニーに魅了される。フランスに留学する時にはゲランに師事しようと決めていたと言う。福岡で、松永安佐衛門、弁護士日下部政徳、玄洋社々町進藤喜平太、和田三造の四人が発起人となり、渡欧後援会が組織される。1922 この頃、門司市に移り、三井銀行支店長役宅にて作画に専念する。三井物産支店長島田勝之助、巴組社長中野金次郎、日本製粉支店長八尋俊介、三井銀行支店長大島弥太郎、アサヒセメント支店長宮川総一郎らによって第二次の渡欧後援会が設けられ、留学費を調える。十一月、門司港から日本郵船箱崎丸に乗船し、渡仏の途に就く。パリではカンパーニュ・プルミエール街九番地にアトリエを借りて住む。1923 アカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室にはいる。ゲラン門下に、早く1920年に渡仏した小山敬三があり、通訳の労をとってくれた。ゲランの教室には一年半通い、その後も絵を見て貰って、絵のつくり方ということについて厳しく教えを受けた。キスリングとはアトリエが近かったこともあってよく往き来し、またドランとも親しく交わった。1924 サロン・ドートンヌに『モンマルトル風景』が入選する。1925 初夏の頃、大阪毎日新聞門司支局において、サロン・ドートンヌ入選を記念する個展が開催され、後援会の人たちも面目が立った。この年、アンデパンダン展に『静物』が入選、サロン・ナショナル・デ・ボザール展にも入選する。1926 3月、第31回アンデパンダン展に『魚のある静物』ほか一点が入選する。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールに風景2点が入選する。9月、日本橋、三越呉服店において個展をひらき、『モンマルトル風景』『リュ・ベロニー』『セーヌ河畔』『魚のある静物』『パンテオンを望む』『田舎娘』など滞欧作約50点を発表する。10月、サロン・ドートンヌに『静物』『風景』が入選する。10月21日、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。この年、ロンドン日本人クラブで個展をひらき、出品作40点を売約する。1927 8月、帰国する。9月、日本橋、三越呉服店において萩谷巌帰朝洋画展が開催される。滞欧作69点、帰国後の作品2点を出陳。11月、大阪朝日新聞社楼上において滞欧作を主とする個展をひらく。1928 この年、日本工業倶楽部で個展を開く。7月、シベリア経由で再度渡仏、リュ・クルヴールのアトリエに落ち着く。1929 ベルギーのブリュッセルにおいて、パリ在住の日本人画家の展覧会が開催されるに当り、柳亮と共に代表者として現地に赴く。同展覧会に出品した薔薇の絵がベルギー王室に買い上げられた。1930 パリで開催された日本人画家展に出品、『南仏風景』がフランス政府に買い上げられる。1933 サロン・ドートンヌ審査員となる。ロンドンの日本人クラブで個展をひらく。1934 4月、帰国する。1936 11月、福岡、岩田屋において個展をひらく。1938 6月、神戸、大丸百貨店において個展をひらく。1939 5月、日本橋、三越において近作個展をひらき、『松間の富士』『静かなる朝』『呉須鉢と支那壺』『東京風景』などに数点の滞欧作を加えた40余点を発表する。9月、大阪、三越において個展をひらく。1940 3月、日本橋、三越において、萩谷巌、林倭衛、木下孝則洋画展が開催される。この年、麹町2番丁に転居し、別に麹町1番丁にアトリエを構える。1942 3月、数寄屋橋、日動画廊において個展をひらく。1945 5月25日、アトリエと住居が同時に戦災に会い総てのものを失った。8月、秋田県大曲町に疎開し、以後4カ年余をここに過ごす。この間、秋田市、大館、能代、船川等で個展をひらく。1950 この年、豊島区千早町1の45に転居する。1952 8月、渡仏する。アメリカのコロンビア美術館で個展をひらき、出品作『花のいろいろ』が同館に買い上げられる。1953 3月から5月にかけて、北アフリカ写生旅行に赴く。6月、パリのテデスコ画廊で個展をひらき、アルジェ、モロッコでの制作のほか静物などをまじえた21点を発表する。10月、帰国する。12月、日動画廊において滞欧作展をひらく。1954 6月、丸の内、日本工業倶楽部において個展をひらく。1955 8月、大阪、梅田画廊において滞欧作品展をひらき、滞欧作品18点、帰国後の作品15点を発表する。出品作品次の通り。『アルゼリー港』『小市場』『コンコールドの広場』『ブルバール・ド・モンパルナス』『アルゼリー風景』『フェーズの寺(モロッコ)』『セーヌ河岸』『街の角(モンマルトル)』『ラ・フネートル(アルゼリー)』『カズバ(アルゼリー)』『モロッコの村落』『パリーの古い街』『チューレリー公園』『モンマルトル風景』『廃屋(アルゼリー』『ポンヌフ(パリー)』『スタチセの花等』(以上滞欧作)『白桃』『ばら(李朝の壺』『豊果』『菊の花』『果物』『ばら(カットグラス)』『あざみ(青磁)』『黄ばら(ペルシャ壺)』『カトレア』『ばら(李朝の壺)』『カーネーション』『ばら(フランスの壺)』『ばら(宗の壺)』『壺と皿』『黄菊白菊』(以上帰国後の作品)1956 1月、日動画廊においてて「静物」油絵展をひらき、『アネモネ』『黄ばら』『菊の花』『黄菊白菊』など花と壺を主とした静物ばかり十九点を発表する。12月、日動画廊において油絵展をひらく。1957 3月、造形ギャラリーにおいて個展をひらき、近作の小品20点を発表する。1695 6月、アラスカの日本商社アラスカ・パルプの依嘱を受け、太平洋岸のシトカやヘインズの町を訪れて風物を写す。帰途、カナダに立ち寄り、ケベック、モントリオールなどで画襄を肥やした後、パリを経て12月に帰国する。1966 6月、日動サロンにおいて近作展をひらき、前年にわたる旅行の収穫(アラスカの部12点、カナダの部10点、パリの部11点、花の部6点)を発表する。1967 11月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1968 2月、福岡玉屋において近作展をひらき、さきのアラスカ、カナダ、ヨーロッパの旅の収穫に花卉などをまじえた約50点を発表する。10月、大阪、カワスミ画廊において新作展をひらき、花を主題にした作品に『関門風景』などの風景画を加えた約20数点を発表する。1969 10月、京都、祇園画廊において個展をひらき、『壺に花』などの新作20数点を発表する。1970 7月、大和新潟店において海外風景展をひらき、『広告塔のある風景』など新作油絵20点を発表する。8月、日動サロンにおいて個展をひらき、薔薇を主にした花ばかりの新作32点を発表する。9月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1971 4月18日、パリへ出発する。戦後3度目、通産5度目である。パリのまんなかのサンルイ島に宿をとり、制作三昧の日を過ごす。80歳を迎えて、やはりパリに行ってみようという気持ちになった。80歳を超えてなお多くの優作を遺した富岡鉄斎にあやかりたい心境も覚えた。1972 9月、帰国する。1年5ヶ月に及ぶパリ滞在中80点の作品を制作した。10月、大和新潟店において滞欧作品展をひらく。1973 3月、銀座、ギンキョウ画廊において巴里風景展をひらき、『朝のポンマリー』『早朝のセーヌ河畔』『朝のコンコルド』『4区の古い家屋』『巴里の朝(サンポール持院)』『秋のサンポール寺院』『マロニエの咲く頃』『モンマルトル公園』など約40点を発表する。1974 6月、福岡玉屋において個展-花と巴里風景-をひらき、巴里風景17点、花25点を発表する。1975 この年、秋月郷土美術館(秋月郷土館に併設、10月開館)のために『秋月風景』を制作する。1976 1月、日動サロンにおいて近作小品展をひらき、『洋らん有田焼』『李朝ばら』『ばらとミモザ』『ノートルダム(サン・ルイ島より)』『街角のレストラン』『ポン・サンミシェル』など静物とパリ風景ほか富士を描いた作品をふくむ40点を発表する。3月、名古屋日動画廊において個展をひらく。5月、大阪、カワスミ画廊において花と風景の個展を開く。1979 米寿記念回顧展(東京・福岡)が開催される。11月、『萩谷巌画集』(日動出版)が刊行される。(本年譜は、『萩谷巌画集』(’79年、日動出版)所載の「萩谷巌略年譜」を転載したものである。)
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没年月日:1979/12/04 洋画家坪内節太郎は、12月4日大腸クローン氏病のため、岐阜市民病院で死去した。享年74。雅号壺人。1905(明38)年9月28日岐阜県稲葉郡那加町に生れ、大阪商業大学を経て天彩画塾で洋画を学んだ。国画会、独立美術協会、春陽会等に出品し、独立展は1932年第2回展「製材所」より連年入選した。1938年独立展に「海」「馬」を出品し美術協会賞となり、同40年協会会友、43年準会員となった。戦後46年行動美術協会第1回展で行動美術賞を受け、同時に会員推挙となった。展覧会作品のほか新聞、雑誌に挿絵、随筆を多く書き、また随想集「絵画人情」(1953、東住吟社)、「歌舞伎画帖」(1963、中日出版局)、「文楽画帖」(東京新聞出版局)、「絵画人情」「水墨画入門」などの著書があり、演劇評論家としても知られる。
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没年月日:1979/11/21 民族学の研究家でもとプロレタリア美術運動の画家、橋浦泰雄は、11月21日午前3時、老衰のため東京杉並区の西荻窪診療所で死去した。享年90。橋浦泰雄は、1888(明治21)年11月30日、鳥取県岩美郡の地主の4男に生まれ、1902(明治35)年岩井高等小学校を卒業、家業(桑畑の耕作)を手伝う。1904年「平民新聞」の購読者となり、社会主義思想の影響をうける一方、「明星」の読者で文学に関心をよせた。1908年鳥取歩兵40連帯に入隊し満州遼陽村に駐屯、在役中に弟時雄が孝徳秋水事件に関連して逮捕投獄された。11年満州から帰郷、養蚕、養鶏に従事、白井喬二らの白日会(のち水脈文芸会)の同人となる。1912年『水脈』創刊、また水脈主催美術展を開催する。詩、戯曲、小説などを発表また投稿したが、14年坂田家養子となり上京し、16年有島武郎、秋田雨雀、藤森成吉、足助素一などを知る。1918年養家の妻死去し、このとき画家になることを決意し、1920(大正9)年4月牛込築土八幡停留所前の骨董店で開かれ黒耀会第1回展に参加出品した。黒耀会は、橋浦のほか、望月桂、林倭衛などのほか大杉栄、馬場狐蝶、久板卯之助、荒畑寒村などアナーキスト、サンディカリストらの参加が多く、社会革命と芸術革命の一致を主張した、最初のプロレタリア美術展であった。同年11月京橋星製薬階上で第2回展、翌21年の第3回展を開き、官憲による撤収命令などがあり第4回展のとき解散命令がだされている。橋浦は1920年第2回帝展に出品、落選している。1926(大正15)年11月日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)が結成され、その美術部に所属、28年無産者芸術連盟(ナップ)結成、中央委員となり、11月東京府美術館で第1回プロレタリア美術大展覧会開催され、「早く行っといで」出品。1929年日本プロレタリア美術家同盟(AR、1934年解散)が再組織され中央委員長に選ばれた。橋浦は1925年柳田国男を知り、柳田に導かれて民俗調差に従うようになり1934年以降は民俗学に関する報告、著書を多く刊行しているが、画家としては個展を中心に活動している。1922年7月牛込矢来倶楽部で第1回展を開いたあと、同年11月鳥取市仁風閣、1924年4月札幌豊平館において、25年札幌と函館において、29年長野県松本公会堂、30年鳥取商工奨励館などでそれぞれ個展を開催。戦後は日本美術会、平和美術展などに出品、1960年にはソビエト共産党の招待により訪ソ、71年第4回全日本水墨画協会「黒い海」「高原の湿国」を出品、76年第3回日象展に「大根で道を教える」「牡丹日」「故郷は海日」を出品、79年5月鳥取市福祉文化会館で回顧展を開催した。
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没年月日:1979/11/20 一水会会員の洋画家荻原孝一は、11月20日動脈栓症のため死去した。享年70。1909(明治42)年8月23日長野県佐久市に生まれ、野沢中学校卒業後上京し川端画学校に学び、1929年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し34年卒業する。38年から54年まで野沢中学校、姫路高等女学校、野沢北高校の教壇に立つ。48年第4回日展に「池畔の子供」が初入選。この年小山敬三、有島生馬の賛助を得て佐久美術展を結成する。51年から一水会に出品、同54年一水会々員となる。62年上野松坂屋で最初の個展を開催、64年渡欧する。68年から佐久市民美術展運営委員をつとめる。73年と77年に紺綬褒章を受ける。作品は他に「読書」(49年)「真昼」(52年)「グランドキャニオン」(67年)など。
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没年月日:1979/11/10 洋画家青地秀太郎は、数年来胃、食道等の癌疾により療養中であったが、11月10日死去した。享年64。1915(大4)年岡山市大供表町4-26に生れ、1933年上京し川端画学校で学び、岡田三郎助に師事した。また郷里に帰り小林喜一郎に師事した。1940年紀元2600年奉祝美術展に「夕餉まへ」が初入選し、ついで同42年第7回文展に「冬日」が入選した。戦後は日展に出品し、第2回「夏」、3回「溪間」、4回「城山にて」、5回「秋暮色」などがある。6回「解剖学教室」では特選となった。この年創元会に所属し会員となった。1951年日展無鑑査となり、翌年以後依嘱出品となった。この年創元会では努力賞となり、委員となった。54年中国に渡り、北京に滞在して制作をつづけた。62年日展を離脱し、また創元会も退会して以後無所属として活動した。69年には渡欧し、滞留して制作したが、晩年は上高地の山小屋生活による制作が殆どであった。代表作は上記のほか「上高地」連作がある。
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没年月日:1979/10/04 春陽会会員の洋画家、川上尉平は、10月4日午前11時55分、脂肪肉しゅによる呼吸不全のため、東京板橋区の都立養育院付属病院で死去した。享年62。川上尉平は、1917(大正6)年2月26日、熊本県飽託郡に生まれ、1931年河内尋常小学校高等科を卒業、河内郵便局勤務をへて1935年熊本市の千徳デパート宣伝部に入社、39年上京、翌40(昭和15)年日本電建に入社した。幼時から絵を好み、熊本在住の洋画家寺尾洸二に師事、小学校時代に九州美術展に入選、上京後は勤務のかたわら独学し、1940年第5回独立美術協会展に出品して初入選となった。戦後は1947年第24回春陽会展に出品入選し、春陽会賞を授賞、翌年準会員(会友)、1953年春陽会会員に推挙された。以後、毎回春陽会展に出品すると同時に、1953年銀座ヤナセ画廊で最初の個展を開催し、1960年には八幡市立美術工芸館、65年熊本市鶴屋デパート、65年東京大丸百貨店で個展、同年から76年までには昭和画廊において8回個展を開催し、その間、1974年熊本日動画廊、76年吉祥寺東急美術サロンでも個展を開いている。また、1966年の立秀会第2回展から第12回展まで参加出品、1969年麗日会第1回展に出品し以後第10回展まで出品、1972年に結成された写実画壇(里見勝蔵、中村善策など)には翌年第1回展から没年まで出品した。1973年12月背部腫瘍を手術、78年再発して右手の自由を失ったあとは左手で描いていた。1979年6月肉腫が肺に転移入院、10月4日没。台東区谷中一乗寺に葬られた。
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没年月日:1979/09/27 自由美術協会会員の洋画家鶴岡政男は、9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区の下谷病院で死去した。享年72。鶴岡は、1907(明治40)年群馬県高崎市に生まれ、少年時代から東京で生活し、大正末期から昭和初期にかけて太平洋画会研究所で学び、靉光、井上長三郎らと交友、洪原会、ノバ美術協会などのグループに属して作品を発表、また左翼活動にも参加した。1937年、日中戦争に応召され、騎兵として中支に赴いたが、1940年兵役解除となり帰国、1943~44年、松本竣介、麻生三郎、靉光らと新人画会を結成して三回展覧会を開催したが、終戦の直前に再度応召され、国内で敗戦をむかえた。戦後は、新人画会のメンバーらとともに自由美術協会に所属し、自由美術展、日本国際美術展らに出品、1953年には第2回サンパウロ・ビエンナーレ展にも出品した。戦前派さまざまな職業に従事しながら「髯の連作」(デッサン)のような諷刺的作品を発表、また新人画会はファシズム、戦時下の暗黒の時代に抵抗した例として評価されているが、戦前の作品はほとんど焼失した。戦後は、「夜の群像」「重い手」などの作品が、敗戦後の現実に対する鋭い批判と諷刺をもち、さらに「人間気化」「落下する人体」と混迷する社会と人間の姿を形象化した作品を描きつづけて注目された。その後、「青いカーテン」「視点B」など、ユーモアを秘めた現実諷刺の作品がつづいている。鶴岡は、終始、ヒューマニズムに立ち、さめた眼で現実を把えて鋭く造形化した作品を発表して、戦後の現代絵画の中で重要な地位を占めていた。 略年譜1907年(明治40年) 2月16日、高崎市に、建築金物製造業、木ノ内峯吉・はつの長男(ひとり子)として生まれる。1913年 6歳 4月、高崎市立南小学校入学。1914年 7歳 母は、鶴岡勇吉と再婚。母に連れられ、兵庫県東尻池村に約1年間住み、浜山小学校に通う。(2年生)1915年 8歳 一家で上京し、台東区池の端七軒町に住む。政夫は下谷忍ヶ岡小学校に入る。(3年生)1年後、高崎に引き取られ、南小学校に通ったが、さらに1年後上京。父が、文京区駒込神明町に鉄工所を始めたため、ここから再び忍ヶ岡小学校に通う。(5、6年生)1918年 11歳 鶴岡勇吉の養女として君子(2歳)が入籍。1921年 14歳 3月、文京区本郷高等小学校卒業。このころ読んだゲーテの叙事詩「ヘルマンとドロテア」に感銘を受ける。これが内なるものと芸術との最初の出合いとなり、絵の道に入る契機となる。その後、8、9年の間、絵画制作のかたわら、鏡花、犀星、朔太郎、足穂に傾倒、自らも詩作する。1922年 15歳 太平洋画会研究所に入る。ここにやがて井上長三郎、靉光が入り、交友が始まる。1924年 17歳 大阪新興美術院に油彩画「静物」を出品。1928年 21歳 第3回1930年協会展に入選。井上長三郎ら約20名とともに、保守的な研究所当局に反発し、除名処分となる。翌年これらの者が洪原会(こうげんかい)をつくる。1929年 22歳 2月、洪原会第1回会合(神田・大同洋行)。会員は鶴岡のほか、大竹久一、関川譲、岩倉具方ら19名。7月、第1回洪原展開催。「裸婦A」~「裸婦F」、「自動車練習場」の計7点を出品。1930年 23歳 7月、第2回洪原展に「女A」~「女D」の4点を出品。11月、NOVA(ノバ)美術協会発会式(神田、カフェーブラジル)。洪原展会員岩倉具方のフランス遊学を機に同会は解散。同会中心メンバーにより、ノバ美術協会が設立される。会員は鶴岡のほかに井沢秋雄、山田直一郎、岩倉具方、大竹久一、関川譲など10名。1931年 24歳 1月、第1回ノバ美術協会展(東京府美術館)に「カジノフォリー」、「海」、「楽屋裏」を出品。7月、雑誌「モダン日本」に漫画執筆。この頃から父の仕事がうまくいかなくなり、応召までの7年間、様々な仕事に手を染める。すなわち、機械工具店勤め、図案社(印刷の版下)、鏡野面取工、漫画、焼鳥屋、メリヤス会社の意匠など。1932年 25歳 1月、第2回ノバ展に「布良」、「風景B」、「風景C」、「風景D」、「水道橋」、「物置場」などを出品。この頃左翼活動に参加。しかしやがてこの運動に失望し、離れていく。1933年 26歳 1月、第3回ノバ展に「煙草を呑むO君」、「へうたん」、「ブドウと花とテーブル」、「夜の女」、「肉屋」、「踊り」、「紙と花」、「鏡の中の顔」の8点を出品。1934年 27歳 1月、第4回ノバ展に「金の卵を持っている(彼は金の卵を生む鳥を持つ)」、「習作(直線による)」、「あなたをうつ」の3点を出品。1935年 28歳 1月、第5回ノバ展に「移転」、「偶像」、「リズミカル・オルガニゼーション(リズム)」を出品。5月、個展(団子坂・リリオム)6月、個展(新宿・ノバ喫茶店二階)「髯の連作」(デッサン)を出品。1936年 29歳 1月、第6回ノバ展に「西方の聖」、「髯の連作」など10点を出品。4月、アバンギャルド芸術クラブに参加。1937年 30歳 1月、第7回ノバ展に「母性」、「轟く砲音(広瀬中佐銅像)」その他旧作を出品。特高警察の干渉が強くなり、ノバ展はこの回で解散。3月、工藤もとと結婚。9月、応召して兵役に服す。支那事変により中支へ騎兵として出征したが、ヒューマニスティックなものと戦争との矛盾に絶えず悩まされ、暗澹たる日々を送る。絵をかくためにではなく、自分の拠りどころとして、水彩絵の具を常に身につけていた。1938年 31歳 1月、長女ひろ子誕生1940年 33歳 兵役解除、以後終戦まで徴用で工場に通い、警備召集にもつく。1941年 34歳 4月、第2回美術文化協会展に「春風のドンキホーテ」、「りんご」を出品。9月、第28回二科展に「窓より」を出品。1943年 36歳 新人画会結成に参加。会員は靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8名。4月、第1回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に「中国人」、「盧山と果実」など5点出品。11月、第2回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に出品。1944年 37歳 4月、次女美直子誕生。9月、第3回新人画会展(銀座・資生堂画廊)に出品。1945年 38歳 3月、東京大空襲により、ほとんど全作品を焼失。6月、再度応召。湘南より松代大本営に至る電話ケーブルを地下に敷設する作業に従事。群馬県の安中町で終戦を迎え、召集解除。1947年 40歳 新人画会のメンバーは自由美術家協会に合流、会員となる。6月、第1回美術団体連合展に、「顔(1)」、「顔(2)」、「友よ手をあげろ」を出品。7月、第11回自由美術展に出品。1948年 41歳 2月、自由美術新作展(銀座・三越)に「5つの像」を出品。5月、第2回美術団体連合会展に「二人は唄う」、「若い男」、「咆える獣」、「おしゃべりな鳥」、「喰いつくもの」、「水底」を出品。10月、第12回自由美術展に「死の静物」、「獲物」、「幼時と乳」を出品。11月、第2回日本美術会アンデパンダン展に「馬」を出品。1949年 42歳 1月、個展(日本橋・北荘画廊)、「風景」、「男と女」、「ガラス鉢の金魚」、「二人」、「窓による女」、「パイプの男」、「神々のアクロバット(アクロバット)」、「怒れる家畜」など油彩画20点、素描ほか32点を出品。5月、第3回美術団体連合展に「涙と月」、「泣いている女」を出品。6月、三女真知子誕生。10月、第13回自由美術展に「夜の群像」、「青い裸婦」、彫刻「作品(1)」~「作品(5)」を出品。1950年 43歳 3月、第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「夜の群像」が出品される。5月、第4回美術団体連合展に「魚と玉網」を出品。7月、個展(日本橋・北荘画廊)、「重い手」「物乞う人」など出品。8月、自由美術家協会分裂、退会派はモダンアート協会を結成。10月、第14回自由美術展に、「外国の女」、「街の女」などのデッサン、「芽」、「首」などの彫刻計11点を出品。1951年 44歳 1月、第2回秀作美術展に「めばえ」(芽)が出品される。5月、第5回美術団体連合展に彫刻「セラミック」などを出品。8月、自由美術札幌講習会(札幌市西高校)に講師として参加。10月、第15回自由美術展に「マリオネットのドンキホーテ(ドンキホーテ)」「凶兆」を出品。12月、個展(高崎、珍竹林画廊)。12月、アトリエを新宿余丁町林檎園に移す。1952年 45歳 1月、第3回秀作美術展に「凶兆」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「黒い行列」を出品。7月、個展(札幌・藤井大丸)。10月、第16回自由美術展に、「はじまり」、「鳩」(彫刻)を出品。11月、第3回群馬県美術展に「作品」を出品。12月、東京国立近代美術館第1回展=日本における近代絵画の回顧と展望=に「黒い行列」(1952)を出品。1953年 46歳 1月、第4回秀作美術展に「はじまり」が出品される。5月、第2回インド国際現代美術展に「凶兆」(1951)などが出品される。(3月、同展国内展示)5月、第2回日本国際美術展に「港町」、「夜」を出品。7月、自由美術7月展に「白い港町」を出品。10月、第17回自由美術展に「人間気化」を出品。10月、鶴岡政男デッサン展(タケミヤ画廊)「男B」、「対話」、「生物」、「刺す」、「街の聖」などのデッサン18点、ガラス絵数点出品。12月、第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「夜の群像」(1949)、「天使」(1951)、「重い手」(1950)が出品される。(7月、同展国内展示-銀座・松屋)12月、抽象と幻想展-非写実絵画をどう理解するか-(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「芽」(彫刻、1951)が出品される。1954年 47歳 2月、「事ではなく、物を描く」姿勢の表明をする(「美術批評」1954.2月号掲載)。3月、具象と抽象展(養清堂画廊)に出品。5月、第1回現代日本美術展に「落下する人体」(佳作賞受賞)、「死と雲と人」を出品。8月、水彩と素描展(東京国立近代美術館)に「踊り」(1953)、「おかしな生理」(1948)が出品される。6月、ZERO展(タケミヤ画廊)に「ジャンプ」を出品。10月、第18回自由美術展に「雨」、「喰う」を出品。1955年 48歳 1月、第6回秀作美術展に「落下する人体」が出品される。2月、19人の作家=戦後の絵画・彫刻=(東京国立近代美術館)に「アクロバット」(1949)、「喰」(1954)、「馬」(1953)、「死と雲と人」(1954)、「落下する人体」(1954)が出品される。3月、個展(なびす画廊)。デッサンを出品。3月、個展(日本橋・白木屋)戦後作品の回顧。4月、自由美術春季展に「ねむる人」を出品。5月、第3回日本国際美術展に「形態A」、「形態B」を出品。11月、第6回群馬県美術展「たたかい」を出品。1956年 49歳 5月、第2回現代日本美術展に「死者を運ぶ」、「二人」を出品。10月、第20回自由美術展に「釣舟と魚」を出品。11月、第7回群馬県美術展に「眠る人」を出品。11月、日本の風刺絵画展(東京国立近代美術館)に「雨」(1954)が出品される。1957年 50歳 3月、転居(世田谷区)5月、第4回日本国際美術展に「射的」を出品。7月、現代美術10年の傑作展(渋谷・東横)に「落下する人体」(1954)が出品される。10月、第21回自由美術展に「恐怖する人」を出品。1958年 51歳 4月、転居(世田谷区太子堂)5月、第3回現代日本美術展に「海のあやかし」を出品。10月、第22回自由美術展に「銀座をゆく4人の画家」を出品。1959年 52歳 1月、戦後の秀作展(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。2月、グルッペ・ナーベル展に「男と女」、「黒い天使」、「とんがり頭と丸頭」などの彫刻を出品。5月、第5回日本国際美術展に「雨の夜」を出品。10月、第23回自由美術展に「台風」を出品。1960年 4月、超現実絵画の展開(東京国立近代美術館)に「天使」(1954)が出品される。5月、第4回現代日本美術展に「物体」を出品。10月、第24回自由美術展に「人(1)」、「人(2)」を出品。1961年 54歳 1月、第12回秀作美術展に「人(1)」が出品される。4月、鶴岡政男代表作品展(回顧展)(日本橋・白木屋)。「アクロバット」(1949)、「重い手」(1950)など28点出品。5月、第6回日本国際美術展に「刺客」を出品。7月、東京テレビ「美術サロン-心の深層を探る・幻想による美術実験」(構成・江原順、指導・島崎敏樹)に出演。LSDの注射を受け、わきあがる幻想を100号のカンバスいっぱいに黒、グレー、赤、青などで表現した。10月、第25回自由美術展に「突(つく)」を出品。1962年 55歳 5月、第5回現代日本美術展に「作品U1」「作品U2」を出品。6月、近代日本の造形(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。9月、個展(東京・大丸)。テーマ(パステル展)。「紫の光線」、「香り」、「食卓の人」、「宇宙飛行士」などを出品。10月、第26回自由美術展に「微笑」、「母子」を出品。1963年 56歳 1月、第14回秀作美術展に「紫の光線」が出品される。2月、個展(ロンドン・モントル画廊、飯田画廊主催)パステル画を出品。5月、個展(飯田画廊)。ポコシリーズ、「忙しいポコ」、「ポコブルー」、「やけどしたポコ」、「妖精の棲むポコの巣」など出品。5月、今日の画家たち展(フォルム画廊)に出品。5月、第7回日本国際美術展に「夜の祭典」を出品し、優秀賞を受賞。10月、第27回自由美術展に「妄執」を出品。12月、昭和初期洋画展(神奈川県立近代美術館)に「母性」(1937・1962復元)が出品される。1964年 57歳 1月、第15回秀作美術展に「獣と女」が出品される。1月、個展(飯田画廊)パステル「鳥の帽子の女」、「花の表情」、「猫」、「ドンキホーテ」など出品。4月、第6回現代日本美術展の審査委員をつとめる。5月、第6回現代日本美術展に「仮面のおどり」、「水泳ターン」を出品。7月、山下菊二、前田常作、田口武雄と恐山へ旅行。9月、個展(飯田画廊)恐山シリーズ「光る湖」、「赤い家のある風景」、「深い眠り」、「祭の女」、「祭のオブジェ」、「湖のオブジェ」など20点出品。10月、第28回自由美術展に「うそをつかないという人」を出品。自由美術協会分裂、森芳雄ら38人が新たに主体美術協会をつくる。鶴岡政男、井上長三郎らは残る。1965年 58歳 1月、第16回秀作美術展に「仮面のおどり」が出品される。5月、第8回日本国際美術展に「青いカーテン」を出品し、東京国立近代美術館賞を受賞。5月、近代日本の裸体画(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)が出品される。10月、第29回自由美術館に「出口はどこ」を出品。1966年 59歳 1月、第17回秀作美術展に「青いカーテン」が出品される。1月、個展(村松画廊)。油彩画「船をなめる幽霊」、「めがね」、「夜の運び屋」、「柄的人間」など大作10点を出品。1月、個展(飯田画廊)。パステル画「微笑」、「夜の幻想」などを出品。3月、アトリエ転居(目黒区上目黒)5月、第7回現代日本美術展に「視点A」、「視点B」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。10月、東京国際美術展に「柄的人間」(1966)、「青いカーテン」(1965)を出品。10月、第30回自由美術展に「ゴルフ」を出品。1967年 60歳 4月、むさい展(ときわ画廊)に「ねじ」、「しめる」を出品。5月、第9回日本国際美術展に「MEDO」を出品。5月、個展(京都・あづまギャラリー)。油彩、パステル画を出品。6月、個展(広島県福山市・バンカム)。パステル画「顕現」、「夜の散歩者」など出品。7月、近代日本の水彩と素描画展(東京国立近代美術館)に「とうもろこしの人」(1951)が出品される。10月、第31回自由美術展に「クラゲ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1968年 61歳 3月、転居(杉並区善福寺)。3月、個展(日本橋・日本画廊)。副題「風景」、「標識と指」、「逆づり」、「引っ張る」、「ライフルマン金(ライフルマン)」など8点出品。3月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル小品展「二人の顔」、「石になった二人」、「青い人」、「求心」、「映像」、「黒いめがね」、「桃」、「ネオンバード」などを出品。5月、第8回現代日本美術展に「涙する人」を出品。7月、むさい展(ときわ画廊)に「ふたりは唄う」を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1969年 62歳 個展(新宿・カドー画廊)。パステル画を出品。4月、転居(大田区大森山王)個展(盛岡)。パステル画を出品。6月、個展(高崎・ファウンデーションギャラリー)。パステル画、油彩画を出品。7月、アトリエ転居(葉山一色)。8月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル画を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。1970年 63歳 4月、個展(渋谷・画廊代々木の森)。パステル画「ひとつ星」など36点を出品。1971年 64歳 4月、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に「青いカーテン」(1965)が出品される。5月、第10回現代日本美術展に「地表」を出品。1972年 65歳 2月、戦後美術の展開・具象表現の変貌展(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「人間気化」(1953)、「青いカーテン」(1965)が出品される。1973年 66歳 5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望-に「射的」(1957)、「青いカーテン」(1965)、「涙」(1968)が出品される。1975年 68歳 9月、パステル展(ドイツ・ミュンヘン、K.MORI GMBH主催)。1976年 69歳 1月、4人展(鶴岡政男、藤沢匠、溝田コトエ、山口長男)(港区・愛宕山画廊)に「帰りみち」、「眠る人」、「春の野」、「街灯」、「夜のみち」を出品。5月、戦前の前衛展(東京都美術館)に「リズム」(1935・1949復元)「髯」(1935)が出品される。9月、個展(渋谷・キッドアイラック コレクシオン ギャルリ)に「夜あけ」などのほかデッサンを出品。9月、腹膜炎手術で入院(35日間)。1977年 70歳 3月、肺真菌症のため東大医科学研究所病院に入院。5月、群馬秀作美術展(群馬県立近代美術館)に「夜の群像」(1949)など6点が出品される。6月、現代美術のパイオニア展(東京セントラル美術館)に「リズム」(1935)、「髯」(1935)が出品される。12月、戦後美術の出発展(東京都美術館)に「重い手」(1950)、「二人」(1949)、「夜の群像」(1949)、「化石」、「凶兆」(1951)、「ドンキホーテ」(1951)、「天使」(1951)、「はじまり」(1951)、「黒い行列」(1952)が出品される。1978年 71歳 8月、パステル展(フマギャラリー)。1960年代のパステル画、約30点が出品される。1979年 72歳 7月、パステル展(フマギャラリー)。8月11日~9月24日、群馬県立近代美術館において、鶴岡政男の全貌展開催され、油彩、水彩、パステル、ガラス絵など172点、参考資料6点が出品展示された。9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区下谷病院において死去。
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没年月日:1979/09/26 洋画家山本正は、9月26日呼吸不全のため東京港区の虎ノ門病院で死去した。享年64。1915(大4)年岡山県吉備郡水内村に生れ、1933年京華中学を卒業した。はじめ里見勝蔵に、のち野口弥太郎に師事した。1931年中学在学中独立美術第1回展に「雪景」「風景」が入選し、以後連続同展に出品した。1947年「東京駅前」「ヂェムスコールマン氏像」「長尾嬢」「T夫人像」を第15回展に出品し独立賞を受け、翌年「顔」「K嬢」「兄の肖像」で岡田賞となり、49年には会員に推挙された。戦時中43年8月より46年5月までジャワに滞在し、専らインドネシヤ人を描き、戦後も独立展で上記のように人物画を多く描いた。しかしその後一時期を抽象画に転じ、戦後の盛大な抽象画派展開の中で活躍した。晩年は再び具象に戻り、練達な筆致による渋い画調の人物、風景を得意とした。代表作に上記のほか「大和路」「薪能」などがある。
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没年月日:1979/08/24 洋画家野村守夫は、8月24日急性肺炎のため、杉並区下高井戸のロイヤル病院で死去した。享年75。1904(明37)年広島市的場町に生れ、川端画学校出洋画を学んだ。藤島武二に師事し、1924年第14回二科展に「花などの静物」を初出品して1941年会友となった。その後も専ら二科展に出品をつゞけ、戦後46年には二科会再建に際して会員に推された。49年には「潮の眠るとき」で二科会々院努力賞を受け、73年57回二科展出品の「丘にある街」で日本芸術院恩賜賞を受賞した。また同年ブラジル政府からコメンタ・ドール・オフシャル章を受けた。代表作に「教会のある街」「サクレクール」「黄色い街と家」などがあり、そのほか38年頃より北京、ハルピン、大連等を巡遊した際の制作である「吉林省」「大陸の建設」「北京西牌楼街」「太陽島にて」の作品などがある。作品は都会的に洗練された、叙情味のある画面に特色を示した。
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没年月日:1979/08/20 日展参与、光風会理事の洋画家緒方亮平は、8月20日脳卒中のため東京杉並区の杉並組合病院で死去した。享年78。本名勝。1901(明治34)年3月19日広島県沼隅郡に生まれ、1920年本郷絵画研究所で岡田三郎助の指導を受ける。1927年第8回帝展に「裸婦」が初入選し、34年第15回帝展に「室内」で特選を受け、同36年の文展に無鑑査出品した「画室にて」は政府買上げとなる。一方光風会にも出品し、30年光風会会友、34年会員、35年評議員となる。戦前の文展出品作には「静物」(2回)、「閑庭」(4回)、「庭」(6回)などがある。戦後も日展、光風会展に制作発表し、58年日展会員、64年日展評議員、76年日展参与となる。日展出品作品昭和25年 「静物」(依嘱)昭和26 「瀬戸」(依嘱)昭和27 「室内」(審査員)昭和29 「港」(依嘱)昭和30 「港の見える室」(依嘱)昭和31 「柿の木のある庭」(依嘱)昭和33 「鞆の浦風景」(会員)昭和34 「南の室」(会員)昭和37 「庭」(会員審査員)昭和38 「港」(会員)昭和39 「船着場」(評議員)昭和41 「道越風景」(評議員審査員)昭和42 「港」(評議員)昭和43 「柿の木のある庭」(評議員)昭和44 「鞆風景」(評議員)昭和46 「南の室」(評議員)昭和47 「紫陽花」(評議員審査員)昭和49 「二人像」(評議員)
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没年月日:1979/08/13 洋画家で岩手県会議員をつとめた橋本八百二は、8月13日脳こうそくのため岩手医大付属病院で死去した。享年76。1903(明36)4月21日岩手県紫波郡に橋本善太、キンの四男として生まれた。1913年小学校担任教師に萬鉄五郎と交遊のあった大川英八がいて、この教師より少なからぬ影響を受けた。1921年盛岡農学校卒業後、農業の傍ら大川教師に油絵を学び、師のすゝめで上京し、川端画学校に入学した。1924年東京美術学校西洋画科に入学、在学中に白日会、槐樹社等に出品して受賞し、29年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。この年第10回帝展に「鉱夫作業」が初入選し、以後帝展に毎年出品し、無鑑査となった。32年斉藤与里、高間惣七、堀田清治らとともに東光会を創立した。戦中の44年岩手県黒沢尻町に疎開し、そのまゝ郷里にとゞまり、47年兄の後継者として県議に出馬し当選した。戦後渡欧し、滞欧作の多くを制作し展覧会を開き、75年には盛岡市岩山に盛岡橋本美術館を建設し、その館長となった。代表作「交替時間」(1930)「昼休」(31)「金券配布」(32)「凱旋門」(59)「岩手山」(73)「天に響く」(75)略年譜1903年(明治36年) 岩手県紫波郡に生まれる。橋本善太・キンの四男。1913年(大正2年) 日詰尋常小学校4年のときの担任は萬鉄五郎と交遊のあった大川英八教師で、この師から少なからぬ影響を受ける。1921年(大正10年) 盛岡農学校を卒業後、農業の傍ら大川教師に油絵の手ほどきを受け師のすすめで上京、川端画学校に入学。1924年 東京美術学校西洋画科入学1925年(大正14年) 白日会第2回展に「静物」を出品、白日賞受賞。1926~28年 槐樹社展に「静物」等を出品、田中奨励賞や槐樹社賞を受賞。1929年(昭和4年) 東京美術学校西洋画科本科を卒業、第10回帝展「鉱夫作業」入選。1930年(昭和5年) 第11回帝展「交代時間」(特選)1931年(昭和6年) 第12回帝展「昼休」(特選)1932年(昭和7年) 斎藤与里、高間惣七、堀田清治らとともに東光会を創立。第13回帝展「金券配布」帝国美術院推せんを受け無鑑査となる。1933年(昭和8年) 第14回帝展「馬市」無鑑査出品。1934年(昭和9年) 第15回帝展「収穫」無鑑査出品。1935年(昭和10年) 第4回東光会展「雲海」ほか3点を出品。1936年(昭和11年) 文展招待展「沼畔」世田谷の自宅に橋本八百二絵画研究所を開設する。1937年(昭和12年) 東京朝日新聞社ホールで個展を開催。大作を中心に約100点を展示。第1回新文展「春」出品。1938年(昭和13年) 第2回新文展「再建」。1939年(昭和14年) 神奈川県大和村に転居。第3回新文展「鉱煙」50号。1942年(昭和17年) 陸軍省の委嘱により藤田嗣治等とともに南支、仏印、海南島方面に従軍、戦争記録画を制作。1943年(昭和18年) フィリピン、ニューギニア方面へ従軍。1944年(昭和19年) 「ニューギニア作戦」完成。神奈川県から岩手県黒沢尻町に疎開。戦時特別展「鉄鉱と戦う盛岡中学報国隊」無鑑査出品。1946年(昭和21年) 紫波郡日詰町に転居。第2回日展「梅」。1947年(昭和22年) 兄善太の後継者として推され、県議選に立候補、当選。岩手美術連盟の美術研究所開設に尽力。1948年(昭和23年) 県立美術工芸学校の創設に尽力。1957年(昭和32年) 盛岡市川徳デパートで個展を開催、50余点を展示。1959年(昭和34年) 渡欧。パリを中心に各地で制作。1961年(昭和36年) 盛岡市県公会堂で滞欧作130余点を展示。1962年(昭和37年) 岩手県紫波町に橋本美術館を着工。64年完成、自らの代表作を一般公開。1965年(昭和40年) 盛岡市県公会堂で近作展を開催100余点を展示。1966年(昭和41年) 第9回日展「南部盛岡チャグチャグ馬コ」入選。1968年(昭和43年) 東京大丸百貨店で開催の太平洋戦争名画展に「加藤健夫中佐肖像」出品。1970年(昭和45年) 岩手日報文化賞受賞。1971年(昭和46年) 盛岡市岩山に盛岡橋本美術館を計画、着工。1972年(昭和47年) 橋本八百二画集刊行。岩手県民会館で画業50年記念展を開催。1975年(昭和50年) 盛岡橋本美術館を開館、館長となる。1976年(昭和51年) 河北文化賞受賞(50年度)河北新報社。1977年(昭和52年) 盛岡橋本美術館を財団法人に組織変え。(50年度)1979年(昭和54年) 東北の風景を描き続け、8月13日没。
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没年月日:1979/08/09 独立美術協会会員の洋画家、樋口加六は、8月9日0時4分、赤白血病のため東京文京区東大病院で死去した。享年75。樋口加六は1904(明37)年7月2日宮城県宮城郡に生まれ、1923年ころ太平洋美術研究所、ついで川端画学校に学び、林武に師事し1927年青山学院英文科を中退した。1929年第16回二科会回展に「横浜風景」「荻窪風景」が初入選、翌17回展に「横浜風景」が入選した。1931年独立美術協会第1回展から出品、以後、没するまで毎回出品し、1937年第7回展に発表した「庭」「舟」で独立協会賞を受賞し、翌年会友に推挙された。1946年(昭21)独立美術協会会員となり、1962~63年ヨーロッパに滞在、1965年第33回独立展に出品の「風景A」「風景B」でG氏賞を受けた。また、1965年からは毎年国際形象展に招待出品した。
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没年月日:1979/06/30 一水会委員、日展参与の洋画家、高野三三男は、6月30日午後7時10分、肺気シュのため東京品川区の昭和大学医学部附属病院で死去した。享年79。高野三三男は、1900(明治33)年3月10日、東京都深川区に生まれ、東京府立第一中学校を卒業し東京高等商船学校に入学したが中途退学し、東京美術学校に入学した。1924年(大正13)に中退してフランスへ渡り、1940(昭和15)まで滞在した。その間、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・チュイルリーに出品し、1930年パリのベルネーム・ジュン画廊にて個展を開催した。1928年から二科会展に出品、29年二科賞を受賞、31年二科会会友に推挙されたが、37年二科会を脱会して一水会に会員として参加し、以後、一水会を中心に作品を発表した。1940年、第1次大戦のため帰国、文展のち日展にも出品、文展無鑑査、審査委員・日展評議員、参与をつとめた。 主要作品年譜二科会展:1928年15回展「女と猫」「化粧」、16回展「脱衣」「コメディ・イタリエンヌ」「裸婦」「ビストロにて」「街の女」、第17回展「若き獅子」「調髪」「人形と女」、第18回展「ヴイナスの誕生」「レダ」「伊太利喜劇」「掛合ひ」、 一水会展:1938年第2回展「女と猫」「カルナヴァル」「巴里の女」「裸婦」「夢」第3回展「白衣夫人」「芍薬」「ヱチゥド(一、二、三)」第7回展「雪のマルヌ河」「運河よりスエズ遠望」「メッシナ海峡よりシチリア島の一部を望む」1947年第9回展「シャンダイ・ヂョーン」「裸婦」「ファンム・アン・ヴェール」、第10回展「肖像」「白」、第12回展「白交響曲第三楽章」「白のエチュード」、第13回展「ヴィナスの誕生」、第14回展「ダンスーズA」「アルルキンとユロムビン」「Hサン」「アルルキンとピエレット」「ダンスーズB」、第15回展「素踊」「ターキー」、第16回展「淳子嬢B」「淳子嬢A」、第17回展「花柳昌子さんの羽衣」、第18回展「勢獅子」、第19回展「赤い服」「緑衣」、第20回展「幸運を待つシンデレラ」、第21回展「道化師のセレナート」「一億光年の彼方」「上原美佐さん」「庭の一陽」「アンドロメーダ」、第22回展「道化師B、緑衣」「嬉遊曲B」「道化師A」「道化師C」、第23回展「紅い芍薬」「白い芍薬」、第24回展「桜島(旧島津邸より)」「白の諧調」「枯葉」「桜島(城山より)」「白い芍薬」、第25回展「白い芍薬」「磯A」「磯B」「白い芍薬A」、第26回展「白い芍薬」「花」、第27回展「泰山木」「黄色のシャンダイ」、第28回展「イタリア狂言A」「泰山木」「イタリア狂言B」、第29回展「泰山木」、1968年第30回展「青い鳥」「人は真実を怖れる」、第31回展「花と少女」、第32回展「やすらぎ」、第33回展「白のコンチェルト」、第34回展「ファンテジー」、第35回展「泰山木」、第36回展「白のバラードA」「白のバラードB」、第37回展「白のバラード」、第38回展「シューマンのカルナヴァル」、第39回「赤と黒のエチュード」
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没年月日:1979/06/06 日展会員、光風会評議員山口猛彦は、6月6日肺ガンのため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年76。1903(明治36)年1月1日佐賀県伊万里市に生まれ、県立佐賀中学校を経て上京し、川端画学校に学ぶ。1923年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し28年卒業する。その後長野県松本中学校の教諭をつとめたが、30年再上京し制作活動に専念し、33年第14回帝展に「黒い風景」が初入選する。また、光風会に出品し、同年会友、40年会員となる。43年から陸軍報道班員としてシンガポール、スマトラに従軍、46年帰国する。戦後も光風会、日展に発表し、49年第35回光風会展に「春」「早春」で光風特賞、51年第7回日展に「黒い椅子の部屋」で特選を受け翌年依嘱となる。63年日展会員となり、65年と72年に審査員をつとめる。この間、61年から翌年にかけて第1回の渡欧を行う。また、文芸春秋画廊(63年)、日動サロン(67年)、資生堂画廊(70年)、ギャラリー・ジェイコ(道74、75、78年)で個展を開催する。日展への出品作に「秋果」(48年)「アッシジ風景」(63年)「古本屋」(69年)「街頭」(77年)など。没後、81年4月、佐賀県立博物館で遺作展が開催された。
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没年月日:1979/05/31 洋画家野本昌男は、5月31日死去した。享年64。本名正男。1914(大正3)年12月13日埼玉県加須市に生まれ、40年埼玉師範学校専攻科美術科を卒業。47年東京美術学校で寺内万治郎に師事し、同年紅士会を創立、日本橋三越で第1回展を開催する。48年から光風会に出品し、51年第7回光風会展出品の「陳列館」「S議事堂」でS賞を受け、54年光風会会友、58年同会員となる。この間、50年第6回日展の「陳列館」以来、日展にも入選を続け、56年から翌年にかけて渡欧、アカデミー・ド・ラ・グランショミエールで学び、57年三越で滞欧作品展を開催する。68年光風会を退会後無所属となる。作品は他に「白壁の家」(第10回日展)など
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没年月日:1979/05/11 自由美術協会会員の洋画家西八郎は、5月11日肝硬変のため東京立川市の川野病院で死去した。享年50。1929(昭和4)年10月24日京都府舞鶴市に生まれ、46年大阪市立美術研究所油画部に学ぶ、49年第13回自由美術展に「若い男」を初出品、以後没年まで同展に制作発表し、57年自由美術会会員となる。65年と73年に安井賞展出品、67年第1回靉光賞受賞、71年現代の幻想絵画展(朝日新聞社主催)に出品、翌72年から新鋭選抜展(三越)に出品し3回優秀賞を受ける。74年から77年まで雷典に毎年出品、また、同59年の夢土画廊を最初に、日本画廊(同69、70、78年)、ギャラリーヤエス(73年)などで個展を開催した。自由美術展への出品作に「人」(29回)「陽影の風景」(31回)「食卓」(32回)「冬」(35回)「群れ」(39回)「森」(40回)「森の貌」(41回)などがある。
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没年月日:1979/03/26 日展参与、光風会名誉会員の洋画家河井清一は、3月26日肺ガンのため横浜市港北区の自宅で死去した。享年86。1891(明治24)年2月1日奈良市に生まれ、1916年東京美術学校西洋画科を卒業する。在学中の14年第8回文展に「幻想」が初入選、以後、文展、帝展、日展に制作発表を行う。22年第4回帝展出品作「こかげ」、28年第9回帝展出品作「休みの日」がいずれも特選を受け、33年帝展無鑑査となる。この間、光風会展に出品し、17年今村奨励賞、25年光風賞を受賞し、26年光風会会員となり、戦後も光風会で活躍する。また、32年から翌年にかけてフランス、オランダ、スペインに遊学し、帰国後の33年に資生堂で滞欧作記念展覧会を催す。46年日展会員となり第1回展に「T嬢の像」を出品、56年と64年の二度審査員をつとめる。66年日展評議員となり、70年日展参与となる。 日展出品目録1946年 T嬢の像(1回特選) いこい(2回)1947年 腰かける女(招待)1948年 更紗の前坐像(依嘱)1949年 熱海の冬(作嘱)1950年 安田氏像(作嘱)1951年 立てる少女(作嘱)1952年 朝のレッスン(作嘱)1953年 脚を拭く女(作嘱)1954年 朝(作嘱)1955年 休みの朝(作嘱)1956年 姉妹(審査員)1957年 女(依嘱)1958年 緑陰少女(会員)1959年 夏野朝(会員)1960年 洋子(会員)1961年 少女(会員)1962年 明るい部屋(会員)1963年 夏休みの朝(会員)1964年 麦秋(審査員)1965年 ひととき(会員)1966年 白樺の木陰(評議員)1967年 洋子座像(評議員)1968年 読書(評議員)1969年 お人形と少女(評議員)1970年 雪後白馬三山(参事)1971年 お花畑(参事)1972年 夏衣(参事)1973年 丘のながめ(参事)1974年 花もよう(参事)1975年 昼さがりの窓(参事)
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没年月日:1979/03/14 二紀会同人の洋画家渡辺孝は、3月14日心筋硬ソクのため福島県伊達郡の自宅で死去した。享年52。1926(大正15)年7月21日福島県伊達郡に生まれ、1945年福島県立川俣工業学校染織科を卒業し教職に就く。49年から二紀会同人丸樹長三郎に師事し、51年同二紀展に「酒屋裏」が初入選、没後まで同展に制作発表を行い、62年二紀会同人となる。また、同68年からは新作家展にも出品を続ける。66年渡欧する。二紀展への出品作に「菓子工場」(6回)「砂による絵画群・無土著文化7」(第15回)「原始の祭祀」(18回)「蒼の季節A」(33回)などがある。
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