本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小磯良平

没年月日:1988/12/16

文化勲章受章者、日本芸術院会員、東京芸術大学名誉教授の小磯良平は、12月16日肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で死去した。享年85。戦前戦後を通じ、清潔、典雅で気品ある婦人像を描き続け、独自の写実の世界を拓いた小磯は、明治36(1903)年7月25日神戸市に貿易商岸上文吉の次男として生まれた。大正14年小磯吉人の養子となり小磯姓を名のる。兵庫県立第二中学校在学中から上級の田中忠雄らと交わり油彩画や水彩画に親しんだ。詩人の竹中郁も同級の友人であった。大正11年東京美術学校西洋画科に入学、同期には荻須高徳、牛島憲之、山口長男らの俊秀が揃い、翌年から藤島武二教室に学んだ。在学中の同14年第6回帝展に「兄弟」が初入選、翌年の第7回帝展では「T嬢の像」で特選を受けるなど早くから画才を発揮し、昭和2年西洋画科を首席で卒業した。卒業制作は中学の同級竹中をモデルにした「彼の休息」であった。卒業の年、同期生らと上杜会を結成、第1回展に「裸婦習作」等を発表した。昭和3年から同5年の間渡仏し、パリでグランド・ショミエールへ通った。この間、山口、荻須、中村研一らと交友、ヨーロッパ各地をしきりに旅行し、制作より美術作品の見学に多く時間を費した。作家では、ドガの作品に啓示を受けたのをはじめ、ロートレック、セザンヌ、マティス、ドランに関心を示した他、古典にも多くを学んだ。同4年、サロン・ドートンヌに「肩掛けの女」が入選。翌5年帰国後、全関西洋画展に滞欧作を特別出品、第11回帝展に「耳飾」を発表、また光風会会員に迎えられた。同7年第13回帝展に「裁縫女」で特選を受け、同9年には帝展無鑑査となったが、同10年の帝展改組に際してはこれに反対する第二部会に所属し、翌11年新文展発足とともに光風会、官展を離れて、同年猪熊弦一郎、脇田和らと新制作派協会(のち新制作協会)を創立、第1回展に「化粧」などを発表した。同13年陸軍報道部の依嘱により中村研一らと上海へ赴き、その後も中国、ジャワなどに従軍し戦争画を描いた。同15年、前年作の「南京中華門の戦闘」で第11回朝日賞を受賞、同17年には前年作「娘子関を征く」で第1回芸術院賞を受けた。同20年6月5日の神戸空襲でアトリエを失い、以後再三の転居を余儀なくされたが、同24年現在の神戸市東灘区住吉山手7-1に住居とアトリエを新築した。戦後は、同25年東京芸術大学講師、同28年同教授となり、翌29年神奈川県逗子市新宿4-1696にアトリエを構えた。制作発表は新制作展の他、日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回展から出品し、同33年第5回現代日本美術展に「家族」で大衆賞を受賞した。また、東京芸術大学版画教室の新設(同33年)にも尽力し、同39年には自ら銅版画展を開催した。同46年東京芸術大学を退官、同大学名誉教授の称号を受け、翌47年住居を神戸市に移した。同48年愛知県立芸術大学客員教授となる。同年、赤坂迎賓館の壁画制作を依嘱され、「絵画」「音楽」を主題に制作着手し翌年完成を見た。同54年文化功労者に選任され、同57年日本芸術院会員となる。翌58年文化勲章を受章した。的確な線描と知的な構成、清澄な色調と静謐典雅な作風を打ち立て、洋画壇で最も人気を集めた作家でもあった。作品は他に、「踊り子」(昭和13年)、「斉唱」(同16年)、「三人立像」(同29年)、「舞妓」(同36年)、「働らく女」(同43年)、「黒い衿の女」(同52年)などがある。また、戦前から石川達三、舟橋聖一らの新聞小説挿絵を手がけ、戦後も山崎豊子『女の勲章』などの挿絵を描いた。国立国際美術館評議員をつとめ、神戸市名誉市民でもあった。同63年8月兵庫県立近代美術館に「小磯良平記念室」がオープンした。存命中の画業展としては、昭和62年1月から兵庫県立近代美術館他で開催した「小磯良平展」が最も新しく、かつ内容の充実した展観としてあげられる。葬儀は、12月19日神戸市の日本基督教団神戸教会で執行された。

今井憲一

没年月日:1988/11/12

独立美術協会会員の洋画家今井憲一は、11月12日午前4時22分、心不全のため京都市中京区の京都民医連中央病院で死去した。享年80。明治40(1907)年11月13日、京都市に生まれる。昭和3(1928)年津田青楓洋画塾に入り、翌4年第16回二科展に「東山一隅」「百合の花」で初入選し、同8年まで同展に出品する。津田青楓塾が東京へ移るに際し、8年独立美術京都研究所を北脇昇らと共に創立する。10年第5回独立展に「山蔭の杜」で初入選。以後同展に出品を続ける。15年第10回展に「湿地帯」を出品して独立美術協会賞を受賞し23年同会会員となる。京都市展にも出品し、10、13、14年に受賞する。戦前、戦後を通じて京都にあって活躍し、38年より48年まで京都美術大学教授、49年より52年までPL学園女子短大教授をつとめ、52年京都府美術工芸功労者として顕彰される。戦前から超現実主義的作風を示し、風景と静物を組み合わせて独自の画風を示す。

福留章太

没年月日:1988/11/04

国画会会員の洋画家福留章太は、11月4日、急性肺炎のため鳥取県立厚生病院で死去した。享年75。大正元(1912)年12月3日高知市に生まれる。本名福留五郎。昭和27年より山崎姓となる。昭和7(1932)年北神商業学校を卒業し、8年東京美術学校油画科に入学する。南薫造に師事し、13年同校を卒業。15年第15回国画会展に「真鶴風景」で初入選。18年第18回同展に「風景」「蓮」を出品して褒状受賞。22年第21回同展に「ゼリスト」「ゆあみ」「池畔」「茶山花」を出品して国画奨学賞を受賞し、24年同会会員となる。22年より鳥取県に居住し、国画会展のほか県展、市展に出品を続ける。45年欧米を巡遊。46年より61年まで鳥取女子短期大学幼児教育学科教授をつとめた。代表作に「構える」「増幅する」「アントロポス」のシリーズがある。

二重作龍夫

没年月日:1988/10/31

太陽美術協会会長の洋画家二重作龍夫は、10月31日午前5時45分、肺炎のため静岡県富士宮市の国立療養所富士病院で死去した。享年72。大正5(1916)年1月8日、茨城県水戸市に生まれる。熊岡美彦の主宰する画塾に学び、熊岡らの創立になる東光会に出品。昭和11年帝展に「静物」で初入選。14年東光会展で東光賞を、17年国画会展で褒状を受賞する。32年第13回日展に「裸婦と二匹の仔犬」を出品して特選となる。44年ル・サロン展銅賞、ニース・フランス国際展グランプリ賞金メダル、ニューヨーク国際展金賞、45年ル・サロン展銀メダル、46年同展金メダル、47年同展芸術院賞、フランス国際展国際芸術絵画大賞、とフランスを中心に欧米で受賞を続ける。「ベニスの馬」「ベニスの船」「ベニスの宮殿」などベニスに取材した作品で評価され、この他、ドン・キホーテや富士なども好んで題材とする。フランス国際展副会長をつとめ、フランス政府よりシュバリエ・レジオン・ドヌール勲章を受けた。

島あふひ

没年月日:1988/10/30

女流画家協会会員の洋画家島あふひは10月30日、老衰のために死去した。享年91。明治29(1896)年11月3日徳島県小松島市に、石丸桂の二女として生まれる。大正2(1913)年徳島県立高等女学校を卒業し、同年島亮二と結婚。一時、島成園に日本画を学ぶ。12年に上京し翌13年より川端画学校に入る。15年前田寛治の主宰する前田写実研究所に入り、中央美術展、一九三〇年協会展に出品。昭和2(1927)年第14回二科展に「N嬢の像」で初入選し以後12年まで同展に出品する。12年第1回展より一水会展に出品。また同年七彩会を設立する。18年東京・青樹社で個展を開催。戦後は、21年に一水会展に出品して同会会員となるが、翌22年より二紀会に参加。23年女流画家協会が設立されるとその第一回展から出品する。37年第9回同展に「太海」「冬小立」「黄樹」を出品してM夫人賞受賞。同年一水会を退く。38年十一会に入会し以後その同人展に出品を続ける。41、42年東京・資生堂画廊で個展を開き、49年には同画廊で回顧展を開催した。人物、風景を多く主題とし、簡略化された形態と豊麗な色調を示す。女性洋画家の草分けとして活躍した。

渡辺一郎

没年月日:1988/10/27

国画会会員の洋画家渡辺一郎は、10月27日午後7時30分、心不全のため神戸市中央区の神鋼病院で死去した。享年76。明治45(1912)年4月17日、東京に生まれる。東京美術学校に入学し藤島武二に師事。在学中の昭和11(1936)年第1回新文展に「少女座像」で初入選。同12年東京美術学校を卒業ののちフランスへ渡り約2年間滞在。15年第27回光風会展に滞欧作「モレーの寺院」「巴里の裏町」を出品してI氏賞を受賞。また、同年2600年奉祝展に「若き水産学徒の像」を招待出品する。16年第4回新文展に「種蓄場」を出品。戦後は32年より国画会展に出品し、34年同会会友、37年会員となる。戦前は対象に即した写実的作品を描いたが、のち、抽象に転じ、晩年は対象を大胆にデフォルメしたユーモラスで洒脱な具象画を描いた。 国画会展出品略歴第31回展(昭和32年)「工事(コンクリート)」、35回(36年)「建設機械A」「建設機械B」、40回(41年)「作品66-12」、45回(46年)「作品71-J.N.-A」、50回(51年)「Collage歩行者優先」、55回(56年)ちから持ち」

市川加久一

没年月日:1988/10/01

旺玄会常任委員の洋画家市川加久一は、10月1日午前10時59分、脳内出血のため大阪府守口市の関西医大病院で死去した。享年82。明治38(1905)年10月17日、三重県鈴鹿市に生まれる。大正14(1925)年三重師範学校を卒業。昭和3(1928)年上京して太平洋画会研究所に入り、高間惣七に師事する。翌4年国際美術協会国内展に出品。6年槐樹社展に出品する。8年東光会が設立されるとその第1回展から参加するが、11年高問惣七らと共に同会を退き主線美術協会の設立に参加する。14年第1回美術文化協会展に出品。17年第5回新文展に「夏の庭」で入選。戦後は25年から旺玄会に出品し、28年第7回展に「二人」「静物」を出品してクサカベ賞受賞、29年第8回展では古橋会賞を受け、同年旺玄会委員に推挙されるとともに、関西旺玄会を設立する。32年三重県立博物館主催による個展を開催する。36年渡欧。58年『市川加久一画集』を刊行する。初期には写実にもとづく具象画を描いたが、戦後間もなくは立体派に学んだ構築的形体把握から簡略化した画面へと転じ、頭部を楕円で表わし目鼻を描かない独自の人物像を組み合わせた群像を多く描いた。

福井勇

没年月日:1988/09/14

行動美術協会会員、京都精華大学名誉教授の洋画家福井勇は、9月14日午前6時35分、うっ血性心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月17日、京都府何鹿郡に生まれる。昭和3(1928)年京都府師範学校本科を卒業して京都市立下鳥羽小学校教員となり、以後30年間京都府内の小、中学校教員をつとめる一方で制作活動を行なう。昭和8年関西美術院研究科を修了し、同年第20回二科展に「初夏の水辺」で初入選。以後同展に出品を続け、18年同会解散を前に会友に推挙される。また、同6年より全関西展に、同10年より京都市展に出品し、たびたび受賞する。戦後は行動美術協会の結成に参加。21年第1回同展に「傘亭」他を出品し、また、同年より改めて開設された京都市展に出品し始める。京都市展、大阪市関西総合展、京都洋画総合展などで審査員をつとめ、44年より関西美術院理事となり、院の経営、指導に当たる。また、43年より京都精華短期大学で教鞭をとった。外景と室内の静物とを並置し、実景から離れて構図、色彩を造形的に整えた静物画を多く描いた。日常目にするものに詩情を見出した作品が多い。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「麦秋ひなげし」「静物(庭)」「静物(室内)」、第10回(30年)「嵐峡の紅葉」「保津峡の黄昏」、第15回(35年)「松の庭」「魚板の壁」、第20回(40年)「黒い樹と果実」「紅い魚板と花」、第25回(45年)「野川の朝霧」「夏の庭」、第30回(50年)「黒い画像と静物」「白い壁の静物」、第35回(55年)「洋灯と西瓜のある庭」「残雪山麓の見える静物」、第40回(60年)「魚板の庭」

菅沼金六

没年月日:1988/09/09

一水会常任委員、日本水彩画会会員の洋画家菅沼金六は、9月9日午後6時45分、急性心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年84。明治37(1904)年7月1日、東京に生まれ、東京高等工業学校附属徒弟学校電気科を経て日本大学社会科に学び、電気技術者としてディスプレイ用照明を手がけ、ディスプレイ・デザイン、グラフィック・デザインのスタジオを経営。昭和8年シカゴ万国博覧会に際し日本からの出品物展示場の設計、施工を依嘱されて渡米し、同会閉会後もシカゴにとどまって、同地にあるアメリカン・アカデミー・オブ・アートに学び、同11年卒業する。帰国後、15年より一水会に出品し、21年会員に推される。24年より日本水彩展に出品して会員となり、28年第9回日展に「バレースタヂオにて」で初入選。以後同展に出品を続け、32年第13回日展に「白鳥の踊り子」を出品して岡田賞を受賞する。35年一水会委員となる。昭和30年代にはバレリーナを主なモチーフとし、その後も室内の女性像を明るい色彩で描くのを得意とした。

宗像逸郎

没年月日:1988/08/30

国画会会員の洋画家宗像逸郎は、8月30日午後4時10分、急性心不全のため兵庫県宝塚市の雲雀丘クリニックで死去した。享年85。明治35(1902)年11月6日、広島県三原市に生まれる。林重義に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に「国道曇り日風景」で初入選し、以後15年第10回展まで同展に出品を続ける。同15年紀元2600年祝奉展に「六甲山」を出品。18年第6回新文展に「紅蓮」を出品して特選となる。また、同17年第17回国画会展に「亀甲模様」「鶏頭」を初出品してより同展に出品を続け、18年第18回展に「蓮(紅蓮)」「蓮(白蓮)」を出品して国画奨学賞、およびF夫人賞を受賞。同年同会会友となり、34年同会会員となる。対象に即した忠実な写実的描写を守り続け、古雅な趣のあるモチーフを好んで選び、静物画を多く描いた。 国画会展出品略歴第20回展(昭和21年)「筑紫野の秋」「渓谷の見える風景」、25回(26年)不出品、30回(31年)「種子と春蘭」、35回(36年)「野仏」「窓」、40回(41年)「はにわ盾」、46年(45回)「冬日(方丈の石仏)」、50回(51年)ガンダーラ仏頭と椿」

金子博信

没年月日:1988/08/17

一水会常任委員の洋画家金子博信は、8月17日肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年90。明治31(1898)年6月5日福岡県久留米市に生まれ、県立中学明善校を経て大正13年東京美術学校西洋画科を卒業する。昭和3年第17回二科展に初出品。以後同展へ出品を続けたが、同11年一水会創立後は同会に所属し、同16年「下町の小学校」「屋上より見た市街」を出品し一水会賞を受賞、のち同会会員、常任委員として活躍した。また、新文展無鑑査展へも出品した。戦後も一水会に制作発表を行う。代表作に「高架電車」(第19回二科展)、「屋上の子供」(第4回一水会展)等がある。

矢橋六郎

没年月日:1988/07/04

モダンアート協会創立会員の洋画家矢橋六郎は、7月4日午前6時20分、脳出血のため岐阜県大垣市の大垣市民病院で死去した。享年82。明治38(1905)年11月16日、岐阜県不破郡に生まれる。県立岐阜中学校を経て大正15(1926)年東京美術学校西洋画科に入学し、昭和5(1930)年に同校を卒業。梅原龍三郎に師事し、梅原らの創立になる国画会に参加。滞欧中も同展に出品を続け7年に同会会友となる。8年、帰国。同年国画会を退会する。11年、山口薫、村井正誠らと自由美術家協会を創立。14年生家の家業である矢橋大理石商店に勤務することとなるが画業もつづけ、25年村井らと共にモダンアート協会を創立する。モザイク作家としても知られ、「海」(37年、大名古屋ビル)、「彩雲流れ」(40年、新東京ビル)、「日月と東海の四季」(名古屋駅新幹線口)、「松と海」(新大阪駅貴賓室)などを制作している。晩年にはステンドグラスも制作。美術教育にも尽くし、武蔵野美術大学、東京芸術大学で教鞭を取ったほか、44年には岐阜県教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与した。41年中日文化賞を受賞、53年東京セントラル美術館で「矢橋六郎画業50年展」が開催された。 モダンアート展出品略歴第5回展(昭和30年)「無花果」「田植の頃」「桃果」「麦刈」「メヌエット」、10回(35年)「田園の冬」「ベニスの橋」、15回(40年)「田園冬日」、20回(45年)「春」、25回(50年)「サンジオルジオベニス」、30回(55年)「ポルトガルの夏」、35回(60年)「砂丘」、38回(63年)「ローマのテラス」

田川寛一

没年月日:1988/06/04

行動美術協会会員の洋画家田川寛一は、6月4日午前9時51分、心不全のため大阪市住吉区の阪和病院で死去した。享年87。明治33(1900)年11月25日、大阪市に生まれる。高等小学校を卒業して大正6(1917)年赤松麟作の画塾に入門する。昭和2(1927)年第14回二科展に「縞の洋服」で初入選し、戦前は同会に出品を続ける。また、全関西洋画協会展にも出品し、同7年同会会員となる。戦後は、行動美術協会に参加し、21年第1回展より出品して会員に推挙される。昭和初年より戦前は赤松洋画研究所講師、同34年からは大阪市立美術研究所講師をつとめ、関西洋画の興振につとめた。明快な色面で構成した風景、人物画を多く制作している。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「秋の夜のものがたり」「鳥影」、第10回(30年)「親舟子舟」「奥多摩の衰愁」「渦潮」、第15回(35年)「千早」「吉野」、第20回(40年)「大阪城遠望」「VICTOR」、第25回(45年)「コクリコ」「長者原」、第30回(50年)「踊り子のComposition」、第35回(55年)「半寿のときに」、第40回(60年)「遠雷」

小貫政之助

没年月日:1988/06/03

元自由美術家協会会員の洋画家小貫政之助は、6月3日、すい蔵がんのため東京都立川市の立川病院で死去した。享年63。大正14(1925)年1月10日、東京都京橋区に生まれる。昭和12(1937)年月島小学校を卒業して月島絵画塾に入り、同16年、太平洋美術学校に入学。19年同校を卒業する。27年西田勝、木内岬、木内廣と絵画彫刻四人展をサヱグサ画廊で開催。同年第16回自由美術展に「女人」を初出品する。28年、瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で個展を開く。31年自由美術家協会会員に推挙され42年に同会を退くまで出品を続ける。以後、フォルム画廊での個展を中心に作品を発表し、47年フジテレビギャラリーで個展開催、53年、銅版画集『小世界』をフジテレビギャラリーより出版する。没後の64年、池田二十世紀美術館で「小貫政之助の世界展」が開催された。

小川緑

没年月日:1988/05/06

春陽会会員の洋画家小川緑は、5月6日午後4時15分、肺炎のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年81。明治39(1906)年12月29日、北海道小樽市に生まれる。本名義勝。太平洋美術学校卒業後、本郷絵画研究所、前田寛治自由画室に学び、太平洋画会展、中央美術展などに出品する。昭和4(1929)年より6年まで外遊。14年第17回春陽会展に「教会の窓」で初入選し、以後同展に出品を続ける。23年第25回同展で春陽会賞を受賞し会友に推挙され、28年同会会員となる。長崎市の風景やキリシタン遺跡を好んで描き、「聖なる丘」「天主堂」(昭和34年第36回春陽会展)、「殉教者行く道(西坂の丘)」(39年第41回同展)、「異人館」(43年第45回同展)ほかの作例があり、長崎国際文化協会理事、長崎市「中島川を守る会」会長もつとめた。34年長崎県文化功労者として顕彰される。晩年の作品に「寺中仏煙」(50年第52回春陽会展)「追想PAKISTAN」(49年第51回同展)などがある。

和気史郎

没年月日:1988/04/27

独立美術協会会員の洋画家和気史郎は、4月27日午前9時、肺気腫のため大阪市阿倍野区で死去した。享年62。大正14(1925)年8月29日、栃木県塩谷郡に生まれる。昭和12(1937)年栃木県塩谷町玉生尋常高等小学校を卒業。21年宇都宮師範学校本科を卒業する。27年東京芸術大学油画科を卒業。安井曽太郎に師事する。30年第23回独立展に「女」で初入選。以後同展に出品を続け、31年第24回展に「夜の誘惑」「夜の対話」を出品してプール・ブー(奨励)賞、翌年第25回展に「分裂」「抵抗」を出品して独立賞、33年第26回展に「紫野」「翁」を出品して広び独立賞を受け、翌34年同会会員となる。能面や能舞台など能にちなむ主題を多く選び、写実にもとづきながら妖気漂う夢想的世界を描き出した。57年大阪府立現美センターで回顧展が開かれている。

辻利平

没年月日:1988/04/15

日展会員、東光会名誉会員の洋画家辻利平は、4月15日肺炎のため長崎県松浦市の押淵病院で死去した。享年87。明治33年(1900)長崎県松浦市に生まれる。昭和3年東京美術学校図画師範科を卒業、同年から大阪に居住し大谷学園に勤める側ら、斎藤与里に師事した。同8年第1回東光会展に出品し奨励賞を受賞、また、第14回帝展に初入選した。同15年東光会会員となり、第8回東光会展に「黒いショール」を発表する。戦後も東光会展、日展に出品、日展出品作に「玄関」(同23年)、「花咲く庭」(同36年)などがあり、同41年第9回日展出品作「窓ぎわ」で菊華賞を受賞した。同44年改組第1回日展審査員をつとめ、翌年日展会員となった、この間、夙川学院短期大学教授として美術科で教え、同47年同短大名誉教授となる。同50年松浦市名誉市民。同56年『辻利平画集』を刊行、回顧50年記念展を開催した。長崎新聞文化章(同56年)、特別教育功労賞(同57年)、長崎県民表彰(同58年)などを受ける。

永田一脩

没年月日:1988/04/09

プロレタリア美術運動に参加し釣り史研究家としても知られた洋画家の永田一脩は、4月9日午前5時35分、肺線維病のため横浜市の神奈川県立長浜病院で死去した。享年84。明治36(1903)年11月11日、福岡県門司市に生まれる。大正12年東京美術学校西洋画科に入学。同期生であった大月源二らと共に前衛美術運動に参加し、未来派美術協会展などに出品。昭和2(1927)年東京美術学校を卒業し、同年11月に結成された前衛芸術家連盟(前芸)に参加する。3年3月全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成に参加。同年11月の第1回プロレタリア美術大展覧会に出品された「プラウダを持つ蔵原惟人像」は現存する数少ないプロレタリア美術の作例のひとつである。5年一斉検挙にあう。16年東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。戦後は日本美術会会員となり日本アンデパンダン展などに出品する。33年毎日新聞社を停年退職。48年に初めて個展を開催。著書に『プロレタリア絵画論』『ドオミエ/クールベ/ゴッホ』のほか、釣り史研究による『江戸時代からの釣り』などがある。42年に創立された東京勤労者つりの会の会長を長くつとめた。

郭仁植

没年月日:1988/03/03

“モノ派”の先駆的役割を果たした現代作家郭仁植は、3月3日午後8時15分、肺ガンのため東京都板橋区の誠志会病院で死去した。享年68。大正8(1919)年4月18日大韓民国慶尚北道に生まれる。19才の時来日し、昭和16年第11回独立美術協会展に「未完成」が初入選する。戦後26年第36回二科展に「ドリーム」が入選して以後毎回入選、また美術文化協会展にも32年第17回「連作・反逆」などを出品する。同32年新エコール・ド・トーキョー創立に参加するが、34年退会。以後無所属で個展や内外の国際展を活動の場とする。この間、31年第7回読売アンデパンダン展に「進む」「現代」「新しい生」を出品。海外の美術の動向に鋭敏な反応を示していたが、35年頃よりガラスや真鍮、鉄板などを切断したり縫合した独自の作品を探究。素材自体に語らせようとする試みは1970年前後の“モノ派”の先駆的な作品として注目される。40年の第8回日本国際美術展に韓国から招待出品として「作品65-301」「作品65-401」「作品65-402」を出品。44年より和紙を使った作品を制作、和紙にノミをあて円を使った「物と言葉」などを制作する。1970年代末頃からは和紙に彩墨の色斑を施した作品を制作し、「work86-うM」「work86-SK」などを発表、東洋的自然観を現代美術に表現する試みを続けた。44年サンパウロ・ビエンナーレ、51年シドニー・ビエンナーレの代表となり、52年「韓国現代美術の断面」に出品。また版画やガラス、木の立体作品も制作している。59年ギャラリー上田で回顧展が開催された。作品集に58年『郭仁植の世界』などがある。

中村琢二

没年月日:1988/01/31

日本芸術院会員、一水会運営委員の洋画家中村琢二は1月31日午前8時4分、急性心筋こうそくのため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去した。享年90。明治30(1897)年4月1日、新潟県佐渡相川町に生まれる。洋画家中村研一の実弟。福岡県立中学修猷館在学中、兄の影響で油絵を始める。大正5(1916)年第五高等学校理科に入学。健康上の理由により同校を中退し第六高等学校英法科に入学する。同13年東京大学経済学部を卒業。フランス留学から帰った兄に画家になることを勧められ昭和5(1930)年第17回二科展に「材木座風景」で初入選。同年より安井曽太郎に師事する。12年一水会が創立されると同会に参加し、13年第2回同展に「母と子」ほかを出品して岩倉具方賞を、14年第3回展に「ボレロの女」ほかを出品して一水会賞を受賞し、17年同会会員となる。また、16年第4回新文展に「女集まる」を出品して特選となる。28年第15回一水会展出品作「扇を持つ女」で芸能選奨受賞。37年第5回日展出品作「画室の女」で文部大臣賞を受賞。同作品および同年第24回一水会展出品作「男の像」により38年日本芸術院賞を受け、56年日本芸術院会員となる。風景、人物を主な題材とし、明快な構図、軽妙な筆触を示す。著書に『一日で描く風景画』(共著、58年)、作品集に『中村琢二画集』(59年)がある。

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