本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,073 件)





平田実

没年月日:2018/11/04

読み:ひらたみのる、 Hirata, Minoru※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の平田実は11月4日、肺炎のため死去した。享年88。 1930(昭和5)年、東京府北豊島郡板橋町(現、東京都板橋区)に生まれる。旧制早稲田中学校4年修了後、貴族院速記練習所(1947年新憲法施行後は参議院速記者養成所)に入所。同所修了後に速記者として採用され、参議院記録部に勤務する。幼少期から絵を描くことが得意で美術方面への進路を志望していたが、家庭の事情等により断念したこともあり、養成所時代から画塾や舞台芸術学院に通うなど、速記者の仕事のかたわら広く芸術への関心を深めており、体調を崩して参議院を退職した後、そうした関心のひとつであった写真に本格的にとりくみ始めた。 当初、独学のアマチュアとして写真雑誌の月例公募などに投稿していたが、53年には『國際寫眞サロン』(朝日新聞社)に作品が入選、掲載され、50年代半ばからは業界誌写真記者を経てフリーランスの写真家として活動するようになる。撮影とともに、記事の執筆もできたことから業界紙や雑誌など各種の仕事をてがけ、その中で、美術家篠原有司男と取材を通して知り合ったことをきっかけに、60年代にはさまざまな前衛芸術家と交遊を深め、その活動を記録するようになった。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センター、オノ・ヨーコ、ゼロ次元などが60年代に展開したさまざまなアクションやパフォーマンスは、平田が撮影した写真が週刊誌などに掲載されることで広く社会に発信されることとなった。 67年には返還前の沖縄に渡航、以後、沖縄各地の取材を重ね、風土や伝統的な琉球文化、また戦後沖縄の変化の様相などを撮影、75年写真集『うるま・美しい沖縄』(読売新聞社)にまとめる。またハンググライダーやパラグライダー、熱気球などのスカイスポーツに早くから関心を持ち、『ハンググライダー』(萩原久雄との共著、講談社、1980年)、『風のくに』(情報センター出版局、1991年)などの著作がある。 速記者としての経験をふまえ、写真による記録の持つ意義を一貫して重視し、とくにその姿勢は1960年代の前衛美術をめぐる仕事において、パフォーマンスなど、物質的な作品の残らない美術表現の貴重な記録を残すことへと結びついた。そうした仕事は前衛美術の再評価とともにあらためて注目され、2000年代に入ってから、『超芸術Art in Action―前衛美術家たちの足跡 1963―1969』(三五館、2005年)や『ゼロ次元―加藤好弘と60年代』(河出書房新社、2006年)などにまとめられた。また没後の個展「東京慕情/昨日の昭和 1949―1970」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィ―/フィルム、東京、2019年)で戦後復興期から高度経済成長期における東京の街や市井の人々を記録したシリーズが紹介されるなど、前衛美術関連以外の仕事への再評価も進みつつある。

浜口タカシ

没年月日:2018/08/11

読み:はまぐちたかし、 Hamaguchi, Takashi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の浜口タカシは8月11日、大腸がんのため横浜市内の自宅で死去した。享年86。 1931(昭和6)年9月2日静岡県田方郡(現、伊豆の国市)に生まれる。本名・隆(たかし)。静岡県内の商業学校を卒業後、関西の写真材料商に勤務していた時に写真に関心を持ち、撮影を始める。 55年に横浜に移住。56年には日本報道写真連盟に加入し、写真店を営むかたわら、戦後社会のさまざまな側面にレンズを向けるようになる。59年には皇太子ご成婚パレードにおける投石事件を撮影、その写真が新聞や雑誌に広く掲載される。この頃からフリーランスの報道写真家として、米軍基地、広島と長崎の両被爆地、大学闘争、水俣や四日市などの公害といった多岐にわたるテーマを精力的に撮影、発表するようになった。68年には個展「記録と瞬間」(ニコンサロン、東京)を開催、翌年写真集『記録と瞬間:浜口タカシ報道写真集1959―1968』(日本報道写真連盟、1969年)にまとめ、報道写真家としての評価を高めた。 70年代以降もさまざまな事件、事故、災害などの現場を取材する一方、60年代半ばから12年間取材を重ねた成田闘争や、80年代に入って帰国が始まった中国残留孤児をめぐる取材、70年代初めから10数年にわたって撮影を重ねた北海道の人と自然をめぐる撮影、またライフワークとして30年以上も続けた富士山の撮影など、長期にわたってとりくんだ仕事も多い。2011(平成23)年の東日本大震災の際にも発生直後に被災地に入り、その後も撮影を重ねるなど、晩年まで意欲的に取材活動を展開した。半世紀以上に及ぶ活動や幅広い取材対象は、一人の写真家の仕事としては稀有というべき、戦後日本社会の広範なドキュメントの形成という成果につながった。 写真集としてまとめられた仕事も多く、その主なものに『大学闘争70年安保へ』(雄山閣出版、1969年)、『ドキュメント・視角』(日本カメラ社、1973年)、『ドキュメント三里塚:10年の記録』(日本写真企画、1977年)、『再会への道:中国残留孤児の記録』(朝日新聞社、1983年)、『北海讃歌』(くもん出版、1985年)、『阪神大震災・瞬間証言』(岡井耀毅、照井四郎との共著、朝日新聞社、1995年)、『私の祖国:戦後50年・中国残留孤児の記録』(中国残留孤児援護基金・朝日新聞社、1995年)、『報道写真家の目:ドキュメント戦後日本[歴史の瞬間]』(日本カメラ社、1999年)、『東日本大震災の記録:報道写真家浜口タカシが見た!2011.3.11』(浜口タカシ写真事務所、2011年)などがある。 一貫して報道機関に属さないフリーランスの立場で報道写真に携わる一方で、63年には日本報道写真連盟横浜支部、69年には二科会写真部神奈川支部の設立に中心的にかかわり、それぞれの支部会長を長く務めた他、66年には横浜美術協会にも加入するなど、横浜のアマチュア写真界の指導者として貢献した。また70年代には関東写真実技学校で後進の指導にあたった。 87年には個展「ドキュメント日本:激動の日々35年」(横浜市民ギャラリー)を開催。同展により88年、第38回日本写真協会賞年度賞を受賞。また97年には長年の活動に対し、第46回横浜文化賞を受賞した。晩年には60-70年代の反体制運動を取材した写真による個展「反体制派」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、東京、2015年)が開催されるなど、市井の写真家による戦後史のドキュメントとして、その仕事にあらためて注目が集まっていた。

森永純

没年月日:2018/04/05

読み:もりながじゅん、 Morinaga, Jun※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の森永純は4月5日、心不全のため埼玉県内の病院で死去した。享年80。 1937(昭和12)年11月11日、長崎市に生まれる。本名・純雄(すみお)。44年佐賀県に移住、同地で育ち56年龍谷高等学校を卒業。同年上京して日本大学芸術学部写真学科に入学、60年に卒業した。61年1月、岩波映画製作所写真部に暗室マンとして入社するが、同年11月に退社、日立製作所の委嘱で同社を撮影するために長期滞在していた写真家W.ユージン・スミスの助手となり、スミスが離日するまで約一年間暗室作業などを担当。その後フリーランスとなる。 60年代半ばには写真雑誌などに作品を発表するようになり、60年代末には渡米、ニューヨークに約一年半滞在。帰国後の69年、ニューヨークで撮影した作品による個展「モーメント・モニュメント」(ニコンサロン、東京)を開催、この展覧会により同年の第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。その後「オリジナルプリント’60~’71」(画廊春秋、東京、1971年)、「都市の眺め」(ニコンサロン、東京、1978年)などの個展を開催。78年に写真集『河―累影』(邑元舎)を出版。大学を卒業した60年から63年にかけ、都内の河川の水面を撮影したモノクローム作品により構成され、ブックデザインは杉浦康平が担当。同作により80年、第30回日本写真協会賞年度賞を受賞した。 70年代後半には、海外に日本の現代写真を紹介する「Neue Fotografie aus Japan」(グラーツ市立美術館、1976年、以後オーストリア、ドイツを巡回)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)などの展覧会にも選ばれるなど、都市風景や海の波などモティーフとする独自の作風により評価を確立し、以降も寡作ながら一貫した作家活動を展開した。 『河―累影』は、川面にレンズを向けた最初期の作品を、撮影から十数年を経て写真集にまとめたものであり、また晩年に刊行された二冊目の写真集『Wave:all things change』(かぜたび舎、2014年)も、前作のテーマを引き継ぎ、70年代から長くとりくんだ海面の波を被写体としている。長く森永がとりくんだこの二つの代表作は、いずれも水面という、つねに流動し形を変える被写体をモノクロームの画面にとらえたイメージの累積によって構成されており、生々しい物質感と抽象性を併せ持ち、深遠な世界観を映像化した仕事として高く評価された。また助手時代にスミスのプリントへの高い要求に応えるべく暗室技術を磨き、その後渡米し、現地でオリジナルプリントの概念に触れた森永は、作品世界の基盤としてのプリントのクオリティを徹底して追究したことでも知られる。こうした森永の写真観の一端は、松岡正剛、佐々木渉との鼎談による『写真論と写心論』(工作舎、1979年)においても語られている。

南川三治郎

没年月日:2018/02/06

読み:みなみかわさんじろう、 Minamikawa, Sanjiro※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の南川三治郎は2月6日、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年72。 1945(昭和20)年9月14日、三重県員弁郡(現、いなべ市)に生まれる。三重県立桑名高等学校卒業。66年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)卒業。株式会社グラフ社に入社、写真部に勤務するとともに67年に開塾した大宅壮一東京マスコミ塾に第一期生として学ぶ。その後勤務先を退社し、一年間のパリ滞在を経て70年よりフリーランスの写真家として活動する。74年、20世紀を代表する欧米の美術家を取材するプロジェクトに着手、マルク・シャガールやジョルジュ・デ・キリコ、サルバドール・ダリらをアトリエに訪ねて撮影した写真による『アトリエの巨匠たち』(朝日ソノラマ、1980年)にまとめた。多くは面会取材自体が困難な海外の芸術家を訪ね、その住まいや仕事場といった創造の空間ごと写真に収めるという、当時は先例のなかった手法によって美術家たちの人物像を描写したことが高く評価され、同写真集により80年、第30回日本写真協会賞新人賞を受賞。また同様の手法により、グレアム・グリーンやマイケル・クライトンら欧米のミステリー作家を取材した『推理作家の発想工房』(文芸春秋、1985年)で86年、第36回日本写真協会賞年度賞を受賞した。代表作となったこの二作の他、広くヨーロッパの文化をめぐる取材を重ね、『ヨーロッパの窯場と焼きもの』(美術出版社、1980年)、『世紀末ウィーンを歩く』(池内紀との共著、新潮社、1987年)、『ヨーロッパの貴族と令嬢たち』(河出書房新社、1993年)、『イコン(聖像画)の道:ビザンチンの残照を追って』(河出書房新社、1997年)、『ヴェルサイユ宮殿』(黙出版、2000年)、『皇妃エリザベート永遠の美』(世界文化社、2006年)など数多い著作にまとめた。 また2004(平成16)年頃より、世界遺産に指定されている日本とヨーロッパの巡礼の道の取材を始め、『世界遺産巡礼の道をゆく 熊野古道』、『世界遺産巡礼の道をゆく カミーノ・デ・サンティアゴ』(ともに玉川大学出版部、2007年)などにまとめた。日本文化の古層に対する関心は、故郷に近い伊勢神宮の取材へと展開し、13年の第62回式年遷宮をめぐって06年から約8年にわたって撮影を重ね、中日新聞に写真と文による「聖地伊勢へ」を連載(2011年4月から2013年12月)、14年に三重県総合博物館で「『日本の心』第六十二回神宮式年遷宮写真展」を開催した。 長年の制作活動に対して15年、第65回日本写真協会賞作家賞を受賞。また16年、第10回飯田市藤本四八写真文化賞を受賞した。

徳川慶朝

没年月日:2017/09/25

読み:とくがわよしとも、 Tokugawa, Yoshitomo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の徳川慶朝は9月25日、心筋梗塞のため水戸市内の病院で死去した。享年67。 1950(昭和25)年2月1日、静岡県静岡市瀬名(現、静岡市葵区)に生まれる。徳川慶喜直系の曾孫にあたり、父慶光は貴族院議員を務めた旧華族(公爵)。父方の伯母は高松宮宣仁親王妃喜久子。母和子は幕末の会津藩主松平容保の孫。 生後まもなく東京・高輪に移り同地で育つ。小学校から高校まで明星学園に学び、72年成城大学経済学部を卒業。中学校で写真部に入るなど、早くから写真に関心を持ち、大学在学中には写真学校に通って技術を修得した。大学卒業後、本田技研工業系列の広告制作会社、東京グラフィックデザイナーズに入社、カメラマンとして自動車の広告写真の撮影などに従事し、約20年同社に勤務した後、フリーランスの写真家となった。 写真を学ぶようになっていた学生時代に、自家に伝わる徳川慶喜ゆかりの幕末・明治期の写真に関心を持つ。慶喜自ら明治期に撮影した写真も多数遺されており、慶喜が使用した写真機材とともに、その整理、保存に努め、のちに『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社、1986年)を監修、出版した。同書の刊行をきっかけとして、松戸市戸定歴史館に慶喜ゆかりの史料類を寄託、幕末明治の徳川家をめぐる調査研究に協力するようになる。またフリーランスになってからは、徳川家ゆかりの建造物や遺構、また徳川慶喜家伝来の遺品や史料類の撮影などをてがけるようになった。 著書に『徳川慶喜家にようこそ』(集英社、1997年、のち文春文庫、2003年)、『徳川慶喜家の食卓』(文藝春秋社、2005年、のち文春文庫、2008年)、『徳川慶喜家カメラマン二代目』(角川書店、2007年)がある。また静岡文化芸術大学で非常勤講師を務めた。 食全般に関して造詣が深く、自ら焙煎を手がけたコーヒー豆の販売や、飲食店の経営などにも関わった。2007(平成19)年には茨城県ひたちなか市に移住し、有機農法の稲作などにもとりくんでいた。

田原桂一

没年月日:2017/06/06

読み:たはらけいいち、 Tahara, Keiichi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の田原桂一は6月6日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1951(昭和26)年8月20日京都市左京区に生まれる。中学生の頃より写真家であった祖父から写真技術を学ぶ。高校卒業後の71年、実験劇団「レッド・ブッダ・シアター」に照明・映像担当として参加。72年同劇団の公演のため渡欧、公演終了後パリに残り、写真家として活動し始める。 パリの自室の窓から撮影した「窓」シリーズ、パリの都市風景をめぐる「都市」シリーズの二つの初期作品で注目され、77年にアルル国際写真フェスティバル新人賞を受賞、評価を確立した。78年からは芸術家のポートレイトのシリーズ「顔貌」、79年からは金属やガラスなどさまざまな素材に落ちた光とそこにつくられる影が織り成す抽象性を帯びた連作「エクラ」などにとりくむ。84年写真集『TAHARA KEIICHI 1973―1983』(ゴローインターナショナルプレス)を刊行、同書により84年日本写真協会賞新人賞、85年第10回木村伊兵衛写真賞を受賞。また85年第一回東川賞国内作家賞、88年にはフランス在住で50歳以下の写真家を対象とするニエプス賞を受賞するなど多くの賞を受ける。1993(平成5)年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章した。 写真集としてまとめられた仕事も多く、主なものに『世紀末建築』(全6巻、三宅理一との共著、講談社、1984年)、『メタファー』(求龍堂、1986年)、『顔貌』(PARCO出版局、1988年)、『天使の廻廊』(新潮社、1993年)などがある。 多彩な写真表現のほか、80年代後半からは光を素材にした立体作品やインスタレーション、環境造形、建築デザインなどにもとりくんだ。その主な作品に89年、北海道恵庭サッポロビール恵庭工場に設置された「光の庭」、2000年、パリ市のコミッションでサンマルタン運河地下水道に設置された「光のエコー」、07年のパリ第七大学新校舎外壁デザインなどがある。04年には写真と立体作品による個展「光の彫刻」を東京都庭園美術館で開催、その後帰国し09年に東京で株式会社KTPを設立、アーティストとしての経験、知見に基づく建築コンサルティング事業、企業のブランディング事業などをてがけた。 14年にはパリのヨーロッパ写真美術館で個展「光の彫刻」を開催、16年には何必館・京都現代美術館で初期から近作にいたる写真作品により構成された「光の表象 田原桂一 光画展」を開催。また同年、写真集『Photosynthesis 1978―1980 光合成 田中泯 田原桂一』(スーパーラボ)を刊行。これは舞踊家田中泯を被写体とした、70年代末にパリやローマ、東京などいくつかの都市で断続的に行われたフォトセッションで撮影され、長く未発表であった作品であり、翌17年にはプラハ・ナショナル・ギャラリーで、同シリーズによる個展「Photosynthesis 1978―1980」を開催するなど、晩年、あらためて写真作品に注力し、精力的に活動を続けていた。東京での個展「Les Sens」(ポーラミュージアムアネックス、銀座)開催の直前に死去。プラハで開催された個展を再構成し、同シリーズの国内での初めての展示となった「田原桂一『光合成』with田中泯」展が、死去の三ヵ月後、原美術館で開催された。

山崎博

没年月日:2017/06/05

読み:やまざきひろし、 Yamazaki, Hiroshi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家、映像作家の山崎博は6月5日、歯肉がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。 1946(昭和21)年9月21日長野県松本市に生まれる。幼少期に神奈川県川崎市新丸子に移り、同地で育つ。日本大学付属高等学校で写真部に入部、この頃より写真家を志す。65年日本大学芸術学部文芸学科に入学。高校時代からの友人で、ともに同じ学科に進んだ萩原朔美(のち演出家、映像作家)の誘いで、寺山修司の主宰する劇団「天井桟敷」に出入りするようになり、舞台監督助手、舞台監督を務める。68年大学を中退。翌年天井桟敷を離れ、フリーランスの写真家となり『SD』や『美術手帖』などで現代美術や舞台などの写真を担当。 この頃、被写体を選ばず、与えられた状況で写真画像が得られることそれ自体をめぐって成立する制作のあり方を模索し、自宅の同じ窓から見える光景や、特徴のない海岸と水平線を、定点観測などの手法で撮影する作品にとりくみはじめる。また72年ごろから16ミリフィルムによる実験的な映画作品の制作を開始した。74年、窓のシリーズや海景のシリーズによる初個展「OBSERVATION・観測概念」(ガレリア・グラフィカ、東京)を開催。以後、同題の個展を76年、77年、78年、79年と継続する。また78年にはゼロックス社のPR誌『グラフィケーション』のために、コピー機で風景を撮影する作品を制作するなど、写真を成立させる根本的な要素である光や時間、カメラの原理などめぐって、さまざまな手法の作品を試みる。こうした姿勢は映画作品にも共通し、主な作品に、時間軸の中でフィルムが回るということ自体を表現する作品「A STORY」(1973年)や、天体観測用の赤道儀にカメラをセットし、太陽を一昼夜追尾して撮影した「HELIOGRAPHY」(1979年)などがある。 独自のコンセプチュアルな制作活動が次第に評価を高め、79年には『ジャパン・ア・セルフポートレイト』(国際写真センター、ニューヨーク)に、当時の日本写真界において注目すべき写真家の一人として選ばれて出品。83年には初の写真集として、太陽の軌跡を長時間露光でとらえた連作による『HELIOGRAPHY』(青弓社)を刊行、また同写真集に収載されている「海と太陽」シリーズにより日本写真協会賞新人賞を受賞した。1989(平成元)年には写真集『水平線採集』(六耀社)を刊行。94年、水平線を撮影した写真によるカレンダー作品で全国カレンダー展総理大臣賞を受賞。2001年の個展「櫻花図」(ニコンサロン、東京・大阪)では、桜の花を被写体とし、夜の屋外でストロボを光源に、フォトグラムの手法を試みた連作を発表、同展で伊奈信男賞を受賞している。 87年から89年まで東京芸術専門学校で講師、89年から93年まで東京造形大学で非常勤講師を務め、93年に東北芸術工科大学の教授となる。2005年に武蔵野美術大学教授に就任(2017年3月退任)。 09年にはそれまでの軌跡を振り返る個展「動く写真!止まる映画〓」(ガーディアン・ガーデンおよびクリエイションギャラリーG8、東京)を開催。また死去の直前、大規模な回顧展「山崎博:計画と偶然」(東京都写真美術館、2017年)が開催された。

山田實

没年月日:2017/05/27

読み:やまだみのる、 Yamada, Minoru※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の山田實は5月27日、肺炎のため糸満市内の病院で死去した。享年98。 1918(大正7)年10月29日、兵庫県に生まれる。20年、大阪で医師をしていた父が沖縄の養母の家を継ぐことになり、一家で那覇市に移住、同地で育つ。沖縄県立第二中学校(現、那覇高等学校)では美術サークル「樹緑会」に入り絵画にとりくむ。また当時、初めて簡易カメラを入手し撮影・現像を体験した。1936(昭和11)年、同校を卒業、進学のため上京し38年、明治大学専門部商科に入学。在学中、新聞部員として大学新聞の編集にたずさわった。41年、同大学専門部商科本科(昼間部)と新聞高等研究科(夜間部)を同時に卒業、日産土木株式会社に入社し満洲・奉天に配属される。44年、現地で召集され陸軍に入隊、満洲北部でソ連軍と交戦中に終戦を迎え、捕虜となり、二年間のシベリア抑留を経験。47年に復員し、東京の日産土木本社に復職。52年、同社を辞し、沖縄に戻って那覇市内で写真機店を開業した。 本土から輸入したカメラの販売などを手がけるかたわら、自らも写真にとりくみ、54年、琉球新報写真展に出品した作品「光と影」が特選を受賞、新進の写真家として注目されるようになる。58年に二科展沖縄支部が結成された際には、写真部のメンバーとして参加。また山田の経営する写真機店に沖縄のアマチュア写真家たちが集うようになり、59年に沖縄ニッコールクラブを結成、会長に就任した(独立組織であった同クラブは、72年の本土復帰後はニッコールクラブ沖縄支部に移行、山田は引き続き支部長を務めた)。以後、56年に写真部が設立された沖展、二科沖縄支部、沖縄ニッコールクラブの展覧会への出品を中心に、作品の発表を続け、沖縄写真界の中心人物の一人となっていく。72年から76年にかけては沖縄県写真連盟会長を務めた。 山田がレンズを向けた対象は、主に沖縄の人々の暮らしやそれをとりまく風景、また祭礼など沖縄固有の伝統行事である。写真に関わる専門教育を受けていなかったことから、写真機店を始めた頃、カメラ雑誌を情報源として多くを学んだ山田は、当時『カメラ』誌の月例欄を拠点に、土門拳がアマチュア写真家たちに呼びかけたリアリズム写真運動にも大きな影響を受けた。そのことは、戦中に戦場となり、戦後はアメリカの統治下に置かれた沖縄の現実とその変化を、カメラを介して見つめ続ける仕事へとつながった。 また自由な渡航が認められていなかったアメリカ統治下の時代、62年の濱谷浩や69年の東松照明など、本土の写真家の来沖に際し、山田はたびたび身元引受人や案内役を務め、取材の支援のほか、地元の写真家の交流の場を設けるなど、沖縄と本土の写真界の橋渡し役として大きな役割を果たした。 半世紀以上にわたる写真家としての仕事は、「時の謡 人の譜 街の紋―山田實・写真50年」(那覇市民ギャラリー、2003年)や「山田實展―人と時の往来」(沖縄県立博物館・美術館、2012年)などの回顧展で紹介された他、初めての写真集となった『こどもたちのオキナワ 1955―1965』 (池宮商会、2002年)以降、『沖縄の記憶 オキナワ記録写真集 1953―1972』 (金城棟永と共著、生活情報センター、2006年)、『山田實が見た戦後沖縄』 (琉球新報社、2012年)、『故郷は戦場だった 山田實写真集』(沖縄写真家シリーズ1、未來社、2012年)などにまとめられている。 永年の活動とその功績に対し、沖縄県文化功労者表彰(2000年)、地域文化功労者表彰(2002年)、沖縄県文化協会功労者賞(2002年)、沖縄タイムス賞文化賞(2004年)、琉球新報賞文化・芸術功労賞(2009年)、東川賞飛彈野数右衛門賞(2013年)などを受賞している。

吉田大朋

没年月日:2017/02/10

読み:よしだだいほう、 Yoshida, Daiho※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の吉田大朋は2月10日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年82。 1934(昭和9)年5月5日東京に生まれる。53年東京都立石神井高等学校卒業。写真家土方健一に師事。59年準朝日広告賞を受賞し、コマーシャル写真家として頭角を現す。61年『ハイファッション』誌でデビュー、新進のファッション写真家として注目され、多くのファッション誌、女性誌に寄稿するようになる。 文化出版局で『ハイファッション』などを担当した編集者今井田勲の勧めで65年に渡仏、パリに二年間滞在し、日本人の写真家として初めてフランスのファッション誌『ELLE』と専属契約を結ぶ。また欧米の先端的モードを日本に紹介する窓口としても大きな役割を果たした。71年には渡米、ニューヨークに一年間滞在。75年には再びパリに拠点を移し、約三年半の滞在中、『VOGUE』誌などに寄稿するとともに、パリをはじめヨーロッパ各地の土地や人々の撮影にもとりくんだ。この間、70年に『an・an』誌が創刊された際に、エディトリアルデザインを担当した堀内誠一に請われて参画、海外ロケのファッション写真を寄稿するなど、日本におけるファッション写真の第一人者として、長く一線で活躍した。 ファッションの他に著名人のポートレイトをはじめ幅広い撮影をてがけ、とくにパリの都市風景をめぐる写真集『巴里』(文化出版局、1979年)は、モードの最先端に並走するファッション写真の仕事とは対照的に、繊細かつ洒脱な感覚で、都市パリの日常に堆積する歴史や文化を丹念にすくいとった仕事として評価された。79年同題の個展を開催(ミキモト・ホール、東京)。その他の写真集にフランスのファッション・デザイナー、マダム・グレ(ジェルメーヌ・エミリ・クレブ)の作品世界をとらえた『グレの世界』(文化出版局、1980年)や、『地中海夏の記憶』(キヤノン販売キヤノンクラブ、1981年)、『古都京の四季』(朝日新聞社、1982年)などがある。また87年から2001(平成13)年にかけ、東京綜合写真専門学校で講師を務め、後進の指導にあたった。 急逝する直前まで精力的に仕事を続けており、準備中であった箱根写真美術館での個展は、死去後、17年4月から5月にかけて「レクイエム吉田大朋写真展 軽妙洒脱」として開催された。

村井修

没年月日:2016/10/23

読み:むらいおさむ、 Murai, Osamu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の村井修は10月23日、急性心不全のため東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年9月27日、愛知県知多郡(現、半田市)に生まれる。愛知県立第七中学校(現、愛知県立半田高等学校)を経て、50年東京写真工業専門学校(現、東京工芸大学)を卒業し、写真の仕事を始めた。初期より建築、彫刻などの撮影にとりくみ、建築雑誌や美術雑誌のための撮影を担当。とくに建築家の丹下健三や白井晟一、彫刻家の流政之、佐藤忠良、澄川喜一らの作品を多く手がけ、57年には流の作品をテーマとした個展「カメラでとらえた彫刻と空間」(新宿風月堂)を開催。67年には『LIFE』誌の連載テーマ「家族」の日本編を担当した。 早くから建築写真の第一線で活躍した村井だが、建築や彫刻といった造型物だけでなく、それらが置かれた空間、さらには風土や暮らしといった周囲の環境にも目を向けた独自の作風は高い評価を受けた。一貫してフリーランスの写真家として、最晩年まで約60年にわたり国内外での撮影にとりくみ、また68年から1990(平成2)年まで母校(東京写真大学・東京工芸大学)の講師として後進の指導にあたった。 その仕事は『旧帝国ホテルの実證的研究』(明石信道著、東光堂、1972年、のち写真・図版版、1994年)以降、単著もしくは写真を担当した共著として書籍にまとめられ、その主なものに『丹下健三 建築と都市』(世界文化社、1975年)、『白井晟一(現代の建築家)』(鹿島出版会、1975年)、『金壽根(現代の建築家)』(鹿島出版会、1979年)、『写真都市』(用美社、1983年)、『世界の広場と彫刻』(現代彫刻懇談会、中央公論社、1983年)、『石の記憶』(リブロポート、1989年)、『前川國男作品集 建築の方法』(美術出版社、1990年)、『そりのあるかたち 澄川喜一作品集』(平凡社、1996年)、『パリ・都市の詩学』(河出書房新社、1996年)、『フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル』(建築資料研究社、2004年)、『京都迎賓館』(平凡社、2010年)などがある。 このうち『世界の広場と彫刻』により83年第37回毎日出版文化賞特別賞、90年には『石の記憶』により第6回東川賞国内作家賞を受賞。また長年の業績に対し2010年日本建築学会文化賞、12年には日本写真協会賞功労賞を受賞した。14年の第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展では韓国館の展示に写真を提供し、金獅子賞をグループ受賞している。 死去の直前に郷里で回顧展「村井修 半田写真展 めぐり逢ひ」(半田赤レンガ建物他、半田市)が開催され、自選の代表作をまとめた写真集『TIME AND LIFE 時空』(赤々舎、2016年)が出版された。

富山治夫

没年月日:2016/10/15

読み:とみやまはるお、 Tomiyama, Haruo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の富山治夫は10月15日、肺がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年2月25日、東京市神田区(現、東京都千代田区)に生まれる。中学卒業後すぐに働き始め、のち都立小石川高校定時制に学ぶが57年に中退。独学で写真技術を習得し、60年『女性自身』誌の嘱託写真家となる。その後朝日新聞出版写真部に移り、嘱託としてさまざまな撮影に従事。64年から『朝日ジャーナル』誌上で連載の始まった「現代語感」の写真を担当。世相を反映した新聞等の記事の見出しから選ばれた漢字二文字の言葉をテーマに、大江健三郎や安倍公房らが担当したエッセーと写真とによる社会時評で、富山はこの連載に発表した写真により評価を高め、65年第9回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞した。また66年「現代写真の10人」展(国立近代美術館、東京)にも同作を出品。この年にフリーランスとなり、以後、国内外でさまざまな取材撮影を行う。それらの成果は主に雑誌、新聞等に発表された他、写真集としてまとめられたものも多い。その主なものに、『現代語感』(中央公論社、1971年)、『人間革命の記録』(写真評論社、1973年、石元泰博との共著)、『佐渡島』(朝日新聞社、1979年)、『京劇』(全2巻、平凡社、1980年、杉浦康平他との共著)、『禅修行』(曹洞宗宗務庁、2002年)、『現代語感 OUR DAY』(講談社、2004年)などがある。 同時代の社会への批評的な視点にもとづく「現代語感」シリーズはライフワークとして続けられ、78年には個展「JAPAN TODAY 現代語感」(インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、ニューヨーク)を開催、90年代には『月刊現代』(講談社)に「新・現代語感」を連載、2008(平成20)年には個展「現代語感OUR DAY:1960―2008」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。その一方で、地方の風土や伝統文化を主題にとりくまれた作品への評価も高く、第9回講談社出版文化賞(1978年、『日本カメラ』連載の「佐渡」に対し)、第30回日本写真協会賞年度賞(1980年、写真集『佐渡島』に対し)、芸術選奨文部大臣新人賞(1981年、写真集『京劇』に対し)などの受賞がある。佐渡の長期取材を通して同地で昭和初期に活動した写真家近藤福男のガラス乾板に出会い、それらをもとに編纂した写真集『近藤福雄写真集:佐渡万華鏡:1917―1945』(郷土出版社、1994年)を出版、同書により第45回日本写真協会賞文化振興賞(1995年、財団法人佐渡博物館と共同受賞)を受賞した。また一連の功績に対し、03年に紫綬褒章、12年に旭日小綬章を受章した。

小川光三

没年月日:2016/05/30

読み:おがわこうぞう、 Ogawa, Kozo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の小川光三は5月30日、特発性血小板減少症のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年3月6日、仏像を専門とした写真家で飛鳥園(奈良市)を設立した小川晴暘の三男として奈良県奈良市に生まれる。兄・光暘は同志社大学教授で美術史家。旧制郡山中学校に在学中、兵役を志願し通信兵となる。画家を志し、47年、大阪市立美術館付設美術研究所で日本画と洋画を学ぶ。48年に晴暘から飛鳥園の経営と撮影を引き継いだ。50年、文化財保護法の施行に伴って、文化財保護委員会(現:文化庁)の委嘱で全国各地の仏像撮影に5年間従事する。57年、初の個展を大阪・阪急百貨店で開催する。 父・晴暘の時代のモノクロ写真とは異なり、カラー写真に求められた正しい発色、そしてインパクトのあるライティングを追求した光三は、試行錯誤の末、鏡を用いて堂内に自然光を巡らせて仏像を撮影する手法にたどり着いた。一冊で一体の仏像を取り上げた『魅惑の仏像』シリーズでは、アングルやライティングの変化によって仏像の多様な表情を引き出している。なかでも興福寺・阿修羅立像の、少年らしい柔和さではなく戦闘神としての厳しい表情を切り取った写真には、造像の歴史的背景や当初の安置方法までも踏まえて仏像を撮影するという、光三独自の視点が反映されている。 主な写真集・著作に『飛鳥園仏像写真百選』(学生社、1980年)、『やまとしうるはし』(小学館、1982年)、『魅惑の仏像』(全28巻、毎日新聞社、1986~96年)、『ほとけの顔』(全4巻、毎日新聞社、1989年)、『あをによし』(小学館、1996年)、『興福寺』(新潮社、1997年)、『奈良 世界遺産散歩』(新潮社、2006年)、『山渓カラー名鑑 仏像』(山と渓谷社、2006年)など。生涯にわたって奈良の風景と仏像の写真を撮り続けた一方で、若い頃から仏像が造られた背景でもある古代史の研究に没頭し、『大和の原像』(大和書房、1973年)や『ヤマト古代祭祀の謎』(学生社、2008年)を刊行する。『大和の原像』では、奈良の桧原神社を基点とした同緯度線上に、祭祀跡や社寺が一直線に位置するという「太陽の道」を提唱した。日本環太平洋学会理事を務めたほか、愛知県立芸術大学や白鳳女子短期大学の講師を歴任。2010(平成22)年、奈良県立万葉文化館で「写真展 小川晴暘と奈良飛鳥園のあゆみ―小川光三・金井杜道・若松保広―」開催。2011年、朝日新聞大阪本社で東日本大震災チャリティー「奈良の仏像」展開催。また、海外でも多数の個展が開催された。

田中光常

没年月日:2016/05/06

読み:たなかこうじょう、 Tanaka, Kojo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  動物写真家の田中光常は5月6日、肺炎のため死去した。享年91。 1924(大正13)年5月11日、静岡県庵原郡蒲原町(現、静岡市清水区蒲原)に生まれる。本名・光常(みつつね)。祖父は土佐藩出身の明治の政治家田中光顕。第一東京市立中学校(現、千代田区立九段中等教育学校)を経て、1944(昭和19)年函館高等水産学校養殖学科(現、北海道大学水産学部)を卒業。海軍航海学校を経て海軍に任官、終戦により除隊する。戦後すぐの時期には小田原で漁業に従事するが体をこわし、その療養中に写真に興味を持つ。写真家松島進が主宰する研究会などで技術を習得し、53年頃からフリーランスの写真家として仕事を始めた。 初期は科学雑誌や園芸雑誌などのための撮影に従事、しだいに動物写真を専門とするようになり、63年より2年にわたって『アサヒカメラ』誌に「日本野生動物記」を連載。これにより64年第14回日本写真協会賞新人賞、第8回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞するなど、動物写真家としての評価を確立した。66年からは「続・日本野生動物記」を同誌に連載、これらは68年『日本野生動物記』(朝日新聞社)としてまとめられる。以後、国内だけでなく65年のアフリカ取材をはじめとした世界各地での動物の撮影にとりくみ、その仕事は数多くの著書にまとめられた。その主なものに、『カラー 日本の野生動物』(山と渓谷社、1968年)、第21回日本写真協会賞年度賞の受賞作となった『世界動物記』(全5巻、朝日新聞社、1970-72年)、『日本野生動物誌』、『ガラパゴス』、『オーストラリア』、『アフリカ』、『野生の家族』(いずれも教養カラー文庫、社会思想社、1976年)、『野生の世界』(ぎょうせい、1984年)、『狼:シベリアの牙王』(潮出版社、1990年)など。また動物や自身の撮影をめぐる文章をまとめた『世界の動物を追う:動物撮影ノート三十年』(講談社、1979年)、『動物への愛限りなく:世界の野生動物紀行』(世界文化社、1991年)などがある。 科学雑誌の仕事をきっかけに家畜などの飼育されている動物から始まり、試行錯誤を重ねながら野生動物の自然な姿や表情をとらえる生態写真へと発展していった田中の仕事は、機材や情報の限られた時代にあって、まさにこの分野のパイオニアワークであり、同時期の岩合徳光とともに日本の動物写真家の先駆的存在として、後進にも大きな影響を与えた。 日本パンダ保護協会会長、(財)世界自然保護基金(WWF)日本委員会評議員などを歴任し、自然保護活動にも尽力した。長年の功績に対し、1989(平成元)年には紫綬褒章、95年には第45回日本写真協会賞功労賞、2000年には旭日小綬章を受けた。

白岡順

没年月日:2016/03/17

読み:しらおかじゅん、 Shiraoka, Jun※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の白岡順は3月17日、肝細胞がんのため死去した。享年71。 1944(昭和19)年3月28日、愛媛県新居浜市に生まれる。67年信州大学文理学部自然科学科物理学専攻を卒業。同年より関東学院大学工学部で実験助手を務める。勤務のかたわら、東京綜合写真専門学校に学び、72年同校研究科を卒業した。 写真学校卒業を機に、勤めを辞め、シベリア鉄道経由でヨーロッパを放浪する旅に出る。73年アメリカに渡航。以後、ニューヨークを拠点に79年まで滞在する。同地ではコロンビア大学の語学プログラムで英語を学び、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ、インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツなどで写真を学ぶ。リゼット・モデル、ネーサン・ライオンズ、フィリップ・ハルスマン、ジョージ・タイスらに師事。79年からはパリに拠点を移し、同地で写真家として活動する。2000(平成12)年帰国。01年に東京造形大学デザイン学科教授に就任、写真を教える(2009年に退任)。08年には新宿区市ヶ谷に、レンタル暗室・ワークショップ・ギャラリーの機能を持つ複合施設「カロタイプ」を開設し、後進の指導・育成にとりくんだ。 作家活動はニューヨーク時代から始まり、80年の初個展「野分のあと」(銀座ニコンサロン、東京)以後、ヨーロッパを中心に国内外で数多くの個展を開催。また89年の「ある芸術の発明」展(写真発明150周年記念、フランス国立近代美術館・パリ国立図書館共同開催、ポンピドゥー・センター、パリ)に出品するなど、グループ展にも多く参加した。 90年パリ写真月間参加企画として開催された「午後の終りの微風」(ギャラリー・ジャン=ピエール・ランベール、パリ)により、ヨーロッパ写真館グランプリを受賞。パリから帰国した2000年には、川崎市市民ミュージアムで個展「秋の日」が開催された。この際に同館で同時開催された「陰翳礼讃」展でもその作品が展示された。同展はフランス国立図書館の写真キュレーターを長く務め、早くから白岡の作品を評価したジャン・クロード=ルマニーの企画によるもので、谷崎潤一郎の同題の随筆に着想を得て、「陰翳」をテーマに企画されたこの写真展に選ばれたことにも現れているように、白岡の作品は暗く深みのあるモノクロプリントを特徴とする。ほぼ一貫して35mmフィルムによるモノクロ作品にとりくんだ白岡の仕事は、いわゆるスナップショットの方法で撮影されながら、独特の静謐さと密度をあわせ持つ作風で知られる。そのクオリティの高いプリントワークによって完成される作品世界の故か、白岡は写真集というかたちで仕事をまとめることがなかったが、一方でその作品は、国内外の主要美術館にコレクションされるなど、国際的に高い評価を受けた。

福島菊次郎

没年月日:2015/09/24

読み:ふくしまきくじろう、 Fukushima, Kikujiro※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家・ジャーナリストの福島菊次郎は9月24日脳梗塞のため山口県柳井市の病院で死去した。享年94。 1921(大正10)年3月15日、山口県都濃郡下松町(現、下松市)に生まれる。太平洋戦争末期に二度にわたり陸軍に召集され、終戦まで従軍。戦後復員し、郷里で時計店を開業。戦争末期、広島の部隊に配属されるも、原爆投下直前に九州方面に配置されたことで被爆を免れた経験を持ち、戦後広島に通い、被爆者の撮影を重ねるようになる。写真雑誌への投稿などを通じ評価を高め、1961(昭和36)年、10年以上にわたって被爆者の一家族を撮りためた写真により『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞社)を刊行。これにより同年、第5回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞、またこの年上京、フリーランスの写真家となる。以降、ライフワークとしてとりくんだ被爆地広島の他、全共闘運動(『ガス弾の谷間からの報告』M.P.S.出版部、1969年)、兵器産業(『迫る危機 自衛隊と兵器産業を告発する』現代書館、1970年)、三里塚闘争(『戦場からの報告 三里塚1967-1977』社会評論社、1977年)、公害(『公害日本列島』三一書房、1980年)など、多岐にわたる社会問題にとりくみ、多数の写真集、著作を発表、また雑誌等に多く寄稿した。 80年代には瀬戸内海の無人島に入植し、ジャーナリストとしての活動を離れるが、昭和の終焉にあたって、あらためて戦争責任を問うために活動を再開、取材の他、執筆、講演、また自身の仕事を写真パネルに仕立て、各地の展示に貸出すなど、広く問題提起を続けた。 晩年は2011(平成23)年に発生した東日本大震災における原発事故を取材、常に反権力、反戦の立場から徹底した取材と発言を重ねてきた姿勢があらためて注目され、その活動を追った映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(長谷川三郎監督、2012年)が制作され、代表作をまとめた写真集『証言と遺言』(デイズジャパン、2013年)も刊行された。15年に死去した後も『ピカドン ある原爆被災者の記録』(復刊ドットコム、2017年)が復刻されるなど、再評価が進んでいる。

中平卓馬

没年月日:2015/09/01

読み:なかひらたくま、 Nakahira, Takuma※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の中平卓馬は9月1日肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年77。 1938(昭和13)年7月6日、東京市渋谷区原宿に生まれる。63年東京外国語大学スペイン科卒業。同年、現代評論社の総合誌『現代の眼』の編集部に入る。写真家東松照明に映画批評の寄稿を依頼したことをきっかけに、写真に関心を持ち、同誌に写真ページを設け、編集を担当、自らも撮影するようになる。65年現代評論社を退社、日本写真家協会主催の「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展(東京・西武百貨店池袋店、1968年)の編纂作業に携わる一方、『現代の眼』、『アサヒグラフ』などに作品を発表、写真家、批評家として活動を展開する。 66年には森山大道と共同事務所を開設。68年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として季刊誌『PROVOKE』を創刊(2号より森山大道が参加、3号で終刊)。同誌などに発表した作品により69年、第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。既成の写真美学を否定し、「アレ・ブレ・ボケ」と評された過激な写真表現が注目され、写真集『来たるべき言葉のために』(風土社、1970年)、雑誌等に寄稿した文章による評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社、1973年)など、実作、批評の両面から写真表現にラディカルな問いを発する活動を展開、当時の写真界に特異な存在感を示した。69年および71年には「パリ青年ビエンナーレ」、74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。 77年に急性アルコール中毒で倒れ記憶の一部を失うが、療養の後、写真家として再起。83年には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を発表。1989(平成元)年には『Adieu a X』(河出書房新社)を刊行、翌年同写真集に対し第2回写真の会賞を受賞。97年には個展「日常 中平卓馬の現在」(愛知・中京大学アートギャラリーC・スクエア)を開催。その後、2010年代初めまで活動を続けた。 73年にそれまでの作品を自己批判、プリントやネガの大半を焼却したとされていたが、当時の助手のもとにかなりのネガが残されていたことが判明し、それをきっかけとして03年には横浜美術館で大規模な個展「中平卓馬:原点復帰-横浜」が開催された。また同年ドキュメンタリー映画「カメラになった男-写真家中平卓馬」(小原真史監督)が制作され、評論集『見続ける涯に火が…批評集成1965-1977』(オシリス、2007年)、写真集『来たるべき言葉のために』(1970年の写真集の復刻、オシリス、2010年)、初期の雑誌掲載作品の集成『都市 風景 図鑑』(月曜社、2011年)が刊行されるなど、晩年あらためてその仕事に注目が集まり、再評価が進んでいた。

丹野章

没年月日:2015/08/05

読み:たんのあきら、 Tanno, Akira※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の丹野章は8月5日急性肺炎のため八王子市内の病院で死去した。享年89。 1925(大正14)年8月8日、東京に生まれる。1947(昭和22)年、大内写真工房に入社、大内英吾のもとで広告写真にとりくむ。日本大学専門部芸術科で写真を専攻、49年卒業。51年に独立、フリーランスとなる。57年、戦後に出発した若手写真家による展覧会、第一回「10人の眼」展に連作を出品。同展の主要メンバー東松照明、奈良原一高らと59年自主エージェンシーVIVOを結成(1961年に解散)。初めての写真集として『ボリショイ劇場』(音楽之友社、1958年)を刊行するなど、舞台写真から身体表現へと関心を広げ、その他の写真集に70年代から長くとりくんだ主題による『壬生狂言』(イメージハウス、1990年)、『壬生狂言』(光陽出版社、1992年)、『日本で演じた世界のバレエ1952-1972』(イメージハウス、1995年)などがある。また炭鉱や基地問題など社会的主題の取材にもとりくみ、日本写真リアリズム集団にも参加、1989(平成元)年から2001年まで理事長を務めた。98年、第48回日本写真協会賞功労賞を受賞。死去の翌月、初期作品による写真集『昭和曲馬団』(禅フォトギャラリー、2015年)が刊行され、刊行記念の個展(東京・禅フォトギャラリー)が開催されるなど、晩年その仕事への再評価が始まっていた。 また日本写真家協会の著作権委員として著作権法の改正について70年、国会で意見陳述し、71年の日本写真著作権協会の創設に尽力、写真の著作権保護期間延長に関する活動に長く携わった。その功績に対し、99年、著作権制度百年記念功労者として文部大臣表彰を受けた。また2000年代に入り、03年には新たに創設された日本写真家ユニオンの初代理事長に就任、また個人の肖像権保護意識が高まる中、『撮る自由―肖像権の霧を晴らす』(本の泉社、2009年)を著すなど、社会的存在としての写真家の権利と自由について発言を続けた。

大竹省二

没年月日:2015/07/02

読み:おおたけしょうじ、 Otake, Shoji※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の大竹省二は7月2日、心原生脳塞栓症のため死去した。享年95。 1920(大正9)年5月15日、静岡県小笠郡横須賀町(現、掛川市)に生まれる。1933(昭和8)年東京に転居。中学時代から写真を撮り始め、写真雑誌のコンテストに入選を重ねるようになり、すぐれた少年アマチュア写真家として知られるようになる。40年上海の東亜同文書院に入学。42年陸軍に応召。対外宣伝誌のための写真撮影や、北京大使館報道部付として同大使館の外郭団体、華北弘報写真協会の結成に協力するなど、情報関連の軍務にあたり、終戦は東京で迎える。 46年連合軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となる。アーニー・パイル劇場に配属され舞台や出演者の撮影を担当。その後『ライフ』誌やINP通信社の専属を経て、50年フリーランスとなる。その間、同世代の秋山庄太郎、稲村隆正らと49年日本青年写真家協会を結成。50年には日本写真家協会の設立に参加、また同年三木淳らと集団フォトの結成にも参加した。53年には二科会写真部の創設会員となった。 51年から5年にわたり来日した音楽家のポートレイトを撮影、『アサヒカメラ』誌上に連載し、最初の写真集として、その仕事をまとめた『世界の音楽家』(朝日新聞社、1955年)を出版、また54年に来日したマリリン・モンローを撮影するなど、人物写真の名手として評価を確立する。とくにモダンで洗練された女性写真やヌード写真で知られ、56年には女性写真の分野で活躍する写真家たちのグループ、ギネ・グルッペの結成に参加。71年からは5年にわたり、日本テレビの番組「お昼のワイドショー」で一般から募集したモデルのヌードを撮影する「美しき裸像の思い出」という企画で撮影を担当、話題を呼んだ。この企画から写真集『ファミリー・ヌード』(柴田宏二との共著、朝日ソノラマ、1977年)が刊行された。 上記以外の主な写真集に、『照る日曇る日』(日本カメラ社、1976年)、『101人女の肖像』(講談社、1982年)、『昭和群像』(日本カメラ社、1997年)、『赤坂檜町テキサスハウス』(永六輔との共著、朝日新聞社、2006)など。文筆家としても優れ、終戦後の混乱期の経験をつづった回想記『遥かなる鏡 ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)がある。 83年には戦前に撮影した写真をまとめた写真集『遥かなる詩 大竹省二初期写真集』(桐原書店)を出版、翌年同題の個展(東京・ミノルタフォトスペース)を開催し、知られざる初期作品に注目が集まった。 1992(平成4)年、第42回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

大倉舜二

没年月日:2015/02/06

読み:おおくらしゅんじ、 Okura, Shunji※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の大倉舜二は2月6日、悪性リンパ腫のため死去した。享年77。 1937(昭和12)年5月2日、東京市牛込区袋町(現、東京都新宿区袋町)に生まれる。母方の祖父は日本画家川合玉堂。56年独協高校卒業。幼少期より昆虫に興味を持ち、とくに蝶に親しむ。高校在学中、近所に住んでいた画家・植物写真家の富成忠夫に写真の基礎を学び、富成の仕事を手伝う。その成果は後に、富成との共著『蝶』(ぺりかん写真文庫、平凡社、1958年)として刊行された。この経験をきっかけに写真家を志し、高校卒業後、兄の紹介で写真家三木淳の事務所に短期間通い、その後佐藤明の助手を約三年務めた後、60年に独立する。 60年代は主に『装苑』や『婦人画報』などでファッション写真を手がけつつ、『カメラ毎日』などに自らの作品を発表するようになり、71年最初の写真集『emma』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社)を刊行。同シリーズから写真集を出した立木義浩や沢渡朔らとともに気鋭の写真家として評価を確立する。一方、60年代末には料理写真に仕事の領域を広げ、日本の料理を、器や配膳、作法など文化的背景もふまえて撮影し、高く評価された。72年、ファッション・料理に関する一連の写真に対し第3回講談社出版文化賞を受賞。その後、78年、『ミセス』誌での連載をまとめた『日本の料理』(文化出版局)刊行。また1993(平成5)年には、前作が料亭などの「ハレ」の料理であったのに対し、日常の和食を対象とした『日本の料理』(セシール)を刊行した。 また70年代の半ばから約10年をかけて日本に生息する24種のミドリシジミ蝶の生態の撮影を重ね、86年『ゼフィルス24』(朝日新聞社)を刊行、これにより87年、第37回日本写真協会賞年度賞を受賞した。他に80年代には、『ONNAGATA 坂東玉三郎』(平凡社、1983年)、『七代目菊五郎の芝居』(平凡社、1989年)など一連の人物写真の他、生け花の撮影など、コマーシャル写真家としての豊富な経験と卓越した技術に裏打ちされた、多彩な仕事を展開した。 90年代後半からは東京をめぐって『武蔵野』(シングルカット、1997年)、『Tokyo X』(講談社インターナショナル、2000年)、『Tokyo Freedom』(日本カメラ社、2005年)の三部作を発表、世紀転換期の東京の様相と社会に対する批判的な視点を提示した。 2002年にはその仕事を振り返る個展「大倉舜二展:仕事ファイル1961-2002」(東京・ガーディアン・ガーデン、クリエイションギャラリーG8)が開催された。

木之下晃

没年月日:2015/01/12

読み:きのしたあきら、 Kinoshita, Akira※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  写真家の木之下晃は1月12日虚血性心不全のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月16日、長野県諏訪郡上諏訪町(現、諏訪市上諏訪町)に生まれる。55年長野県諏訪清陵高校卒業。日本福祉大学社会福祉学部卒業後、中日新聞社、博報堂に勤務、広告写真などに携わる。音楽好きで演奏会に通ううちに、勤務地の名古屋で開催される音楽演奏会の記録撮影の仕事を得、それをきっかけに、音楽をめぐる写真の撮影を行うようになる。70年『音と人との対話 音楽家 木之下晃写真集』を自費出版、これにより71年日本写真協会賞新人賞を受賞。73年、フリーランスの写真家となる。 初期は主としてポピュラー音楽の演奏会を対象に、広告写真での経験を生かし、ブレやゆがみなどの効果を駆使し「音の映像化」というテーマを追求したが、80年代にはクラシック音楽を対象に、音楽家の演奏中のポートレイトにとりくむ。その後、オフステージの音楽家たちの肖像や、音楽の歴史をたどる紀行、世界各地のコンサートホールや歌劇場など、音楽をとりまく幅広いテーマに仕事の領域を展開し、音楽写真家として国際的に高い評価を受けた。85年、『世界の音楽家』(全3巻、小学館、1984-85年)により第36回芸術選奨文部大臣賞、2005(平成7)年第55回日本写真協会賞作家賞、07年第18回新日鐡音楽賞特別賞を受賞。 上記以外の主な写真集に『SEIJI OZAWA―小澤征爾の世界』(講談社、1981年)、『巨匠 カラヤン』(朝日新聞社、1992年)、『渡邊暁雄』(音楽之友社、1996年)、『朝比奈隆―長生きこそ、最高の芸術』(新潮社、2002年)、『カルロス・クライバー』(アルファベータ、2004年)、『武満徹を撮る』(小学館、2005年)、『マエストロ 世界の音楽家』(小学館、2006年)、『ヴェルディへの旅』(実業之日本社、2006年)、『MARTHA ARGERICH』(ショパン、2007年)、『石を聞く肖像』(飛鳥新社、2009年)、『最後のマリア・カラス』(響文社、2012年)、『栄光のバーンスタイン』(響文社、2014年)など。 個展での発表も多く、06年には茅野市に代表作104点を寄贈したことを記念して「木之下晃写真展 世界の音楽家」(茅野市美術館)が開催された。

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