本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





常盤とよ子

没年月日:2019/12/24

読み:ときわとよこ  写真家の常盤とよ子は12月24日、誤嚥性肺炎のため横浜市保土ヶ谷区内の病院で死去した。享年91。 1928(昭和3)年1月15日神奈川県横浜市に生まれる。本名:奥村トヨ子(常盤は旧姓、刀洋子とも表記)。45年5月の横浜大空襲で被災し、父はこの時に負った火傷がもとで亡くなった。50年に東京家政学院を卒業し、横浜の通信社でアナウンサーとして勤務する。この頃、のちに夫となる写真家奥村泰宏に出会う。その影響で写真への関心を深め、横浜アマチュア写真連盟やアマチュア女性写真家の団体「白百合カメラクラブ」に参加し、写真にとりくむようになった。 50年代初頭に土門拳が提唱したリアリズム写真運動の影響下、横浜港の米兵や米兵相手の娼婦などにカメラを向けるようになり、また職業を持つ女性に関心を拡げ、56年に初個展「働く女性」(小西六ギャラリー、東京)を開催した。デパートの店員、看護婦、ヌードモデル等14の職業に就く女性に取材したもので、このうち赤線地帯の女性を撮影した写真は同年『カメラ』7月号にも掲載され、20代の女性写真家が赤線地帯における売春の実態を取材したという話題性から、週刊誌にもとりあげられるなど、社会的にも注目された。57年には赤線地帯の取材をまとめた写真と文章による『危險な毒花』(三笠書房)を出版。またこの年、写真評論家福島辰夫の企画による「10人の眼」展の第1回展(小西六ギャラリー、東京)に参加した他、今井寿恵と二人展(月光ギャラリー、東京)を開催、58年には常盤や今井など14人の女性写真家による「女流写真家協会」を結成、第1回展を開催(小西六ギャラリー、東京)し、新進の女性写真家として評価を高めた。 その後も働く女性というテーマにひきつづきとりくむとともに、横須賀や沖縄など、米軍基地のある街にも取材し、カメラ雑誌や展覧会などで発表を続けた。62年から65年にはテレビ映画「働く女性たち」シリーズを制作。74年には横浜市使節団の一員としてソビエト連邦を取材、それ以後、75年の台湾、82年のマレーシアなど海外でも取材を重ねた。また85年以降は老人問題にとりくむなど、一貫して社会的なテーマに関心を持ち、恵まれない境遇の中で懸命に生きる存在に焦点をあてる写真を数多く発表した。 主な写真集に『横浜再現:二人で写した敗戦ストーリー 戦後50年』(奥村泰宏との共著、岡井耀毅編集・構成、平凡社、1996年)、『わたしの中のヨコハマ伝説1954-1956:常盤とよ子写真集』(常盤とよ子写真事務所、2001年)等がある。 1995(平成7)年に奥村泰宏が死去した後は、神奈川県写真作家協会会長および神奈川読売写真クラブ会長を引き継いで務めるなど、地元の写真団体の活動にも尽力した。2003年横浜文化賞(芸術部門)を受賞。18年には横浜都市発展記念館に常盤と奥村の紙焼き写真やネガ、カメラなどが寄贈され、同年「奥村泰宏・常盤とよ子写真展 戦後横浜に生きる」が同館で開催された。常盤の死去をうけ、2020(令和2)年には同館で追悼展示が行われた。

原芳市

没年月日:2019/12/16

読み:はらよしいち  写真家の原芳市は12月16日、ガンのため品川区内の病院で死去した。享年72。 1948(昭和23)年、東京都港区に生まれる。高校卒業後、浪人を経て大学進学を断念し社会人となるが、写真に興味を持ち71年千代田デザイン写真学院に入学、写真の技術を学んだ。約一年半通って同校を中退。以後、月単位でさまざまな短期の仕事に従事しながら、その合間に写真を撮る生活を送るようになる。73年に初個展「東北残像」(キヤノンサロン、東京)を開催。78年には専門学校時代の友人たちとつくり、のち個人で継続することとなった版元「でる舎」から、最初の写真集となる『風媒花』を自費出版。印刷は当時勤務していた印刷会社で行った。70年代半ばからはストリップ劇場の踊り子たちをめぐる撮影を始め、それらをまとめた写真と文章による『ぼくのジプシー・ローズ』(晩聲社、1980年)を刊行し、同作により80年、第17回準太陽賞を受賞した。 その後もストリップ劇場の踊り子等、性風俗関係の女性をめぐる撮影を続け、『ストリッパー図鑑』(でる舎、1982年)や、踊り子やピンクサロン嬢、学生、主婦等さまざまな女性を4×5判の大型カメラで撮影したポートレイトによる『淑女録』(晩聲社、1984年)などを出版する。また各地の盛り場をまわって踊り子たちの撮影を重ねるかたわらで、劇場の舞台や楽屋、その周辺で出会う人や光景などさまざまな対象をブローニー判のカメラで撮りためた写真群を、個展「曼荼羅図鑑」(ニコンサロン、東京・新宿および大阪、1986年)、「曼荼羅図鑑Ⅱ」(ギャラリーK、福島、1987年)等で発表、88年に300点の写真からなる『曼荼羅図鑑』(晩聲社)を出版した。それまでの集大成的な作品となった同作以降は、90年代から2000年代初頭を通じて、主にストリップ劇場の踊り子の撮影の仕事を中心に写真家としての活動を継続した。 2008(平成20)年に写真集『現の闇』(蒼穹舎)を出版、その後『光あるうちに』(蒼穹舎、2011年)、『常世の虫』(蒼穹舎、2013年)、『天使見た街』(Place M、2013年)、『エロスの刻印』(でる舎、2017年)等、写真集の刊行を重ねた。このうちリオのカーニバルのダンサーに取材した『天使見た街』と、93年に個展で発表したのち、版元の倒産により頓挫していた写真集の計画を20数年ぶりに実現させた『エロスの刻印』をのぞく三冊は、いずれも愛読する書物などからタイトルとなる啓示的な言葉を得て、それをモティーフに撮りためられた写真によって写真集を編むという方法で制作されたもので、濃密な気配に満ちたスナップショットによる独特の作品世界が展開され、12年に第24回写真の会賞(『光あるうちに』および『現の闇』に対して)、15年日本写真協会賞作家賞(初期からのストリッパーをめぐる仕事および2000年代以降の作家活動に対して)を受賞するなど、高く評価された。 19年には病を得て入退院を繰り返す中で、学生時代の作品をまとめた『東北残像』(でる舎)と、遺作となった『神息の音』(蒼穹舎)の二冊の写真集および、かつて出版を計画するも見送りとなっていた写文集『時を呼ぶこえ』(でる舎)の出版にとりくんだ。

白籏史朗

没年月日:2019/11/30

読み:しらはたしろう  山岳写真家の白籏史朗は11月30日、腎不全のため静岡県伊豆の国市内の病院で死去した。享年86。 1933(昭和8)年2月23日山梨県北都留郡広里村(現、大月市)に生まれる。48年大月東中学校を卒業。家庭の事情で進学を断念し家事を手伝っていたが、写真家を志望するようになり、51年4月に上京、岡田紅陽に師事。内弟子として東京・渋谷のスタジオに住み込み、撮影・暗室の助手をはじめあらゆる雑用をこなしながら写真技術を修得した。55年8月に岡田のもとを辞し、DPE下請け業の手伝いや写真スタジオ勤めを経て、57年8月フリーランスの写真家となる。 初期はバレーの舞台写真、結婚式のスナップ、業界誌のための人物写真撮影等、さまざまな仕事で生計を立てながら山岳写真にとりくみ、山岳雑誌『山と高原』1960年7月号に初めて南アルプス甲斐駒ヶ岳で撮影した作品が掲載される。以後、『山と渓谷』、『岳人』等、主要な山岳雑誌に作品が掲載されるようになり、62年4月に山岳写真家として独立を宣言した。 山岳写真に専念するようになってからは、平均して年間150日以上の入山を重ね、ホームグラウンドとなった南アルプスをはじめ、富士、尾瀬、北アルプス等、国内の主要山域の撮影にとりくんだほか、初の海外取材となった66年のアフガニスタン、ヒンズー・クシュ山脈への撮影行以後は、70年のネパールヒマラヤ、71年のヨーロッパアルプス等、海外渡航を重ね、各地の高峰に取材した。この間、山岳雑誌やカレンダーへの作品掲載のほか、63年には初の個展(新宿画廊、東京)を開催、また同年初の写真集『尾瀬の山旅』(朋文堂)を上梓。以後、半世紀を越えるキャリアを通じ、数多くの展示や山岳写真集、ガイドブック、高山植物を主題とする図鑑や写文集への執筆・寄稿等、山をめぐる広範な仕事を展開した。 白籏は、従来趣味的に見られていた山岳写真を、戦後の登山ブームをうけて拡大した山岳雑誌の口絵などの需要に応える、高度な技術に裏打ちされた専門領域の仕事へと引き上げた最初の世代の一人であり、67年には日本山岳写真集団の結成にも参加している(1982年に退団)。また自身も先鋭的な登山家集団として知られた第2次ロック・クライミング・クラブの同人となるなど、すぐれた登山家であり、高山や雪山等、過酷な環境での撮影は、写真技術だけでなく、高度な登山技術にも裏打ちされていた。 主要な写真集に国内の山を撮影した『わが南アルプス』(朝日新聞社、1976年)、『尾瀬幻想』(朝日新聞社、1980年)、『北アルプス礼讃』(新日本出版社 2001年)、『富士百景』(山と渓谷社、2009年)等、海外に取材したものとしては、いずれも国際出版となった『ヨーロッパアルプス』(山と渓谷社、1978年)、『Nepal Himalaya』(山と渓谷社、1983年)、『The Karakoram:mountains of Pakistan』(山と渓谷社、1990年)、『Rocky Mountains』(山と渓谷社、1997年)等。長く雑誌に連載を持つなど文章も多く発表し、主な著作に『青春を賭けて値するもの』(大和書房、1971年)、『山と写真わが青春』(岩波ジュニア新書、1980年)、『山、わが生きる力』(新日本出版社、2003年)等がある。 また出身地の大月市に2013(平成25)年に開設された白籏史朗写真館のほか、白籏作品を展示する施設に南アルプス山岳写真館・白〓史朗記念館(山梨県南巨摩郡早川町)、白籏史朗尾瀬写真美術館(福島県南会津郡檜枝岐村)、南アルプス白旗史朗写真館(静岡県静岡市)がある。 77年に日本写真協会賞年度賞を受賞(展示及び写真集で発表された「わが南アルプス」、「尾瀬」、「富士山」に対し)、2000年にはスイス、アルベール1世記念財団よりアルベール山岳賞を受賞している。

須田一政

没年月日:2019/03/07

読み:すだいっせい  写真家の須田一政は3月7日、老衰のため千葉市内の病院で死去した。享年78。 1940(昭和15)年4月24日東京市神田区富山町(現、東京都千代田区神田富山町)に生まれる。本名は一政(かずまさ)。暁星中学校、暁星高等学校を経て59年東洋大学法学部に入学。この頃カメラを入手して撮影を始め、神保町の写真店森写真工房に、同店にあった写真集を目当てに通うようになり、写真についての関心と知識を深めた。店主森茂次郎の主宰する写真集団「ぞんねぐるっぺ」に入会、写真に本格的にとりくむようになり、61年大学を中退、東京綜合写真専門学校に入学する。62年9月、同校を卒業し研究科に進むが中退。父の経営する建材問屋を手伝いながら写真を続け、63年には『日本カメラ』1月号月例に応募した「恐山」が特選となる。その後も入選を続け、この年の年度賞月例1部優秀作家賞を受けたが、家業を継ぐためいったん写真から離れた。 67年、この年結成された劇団「天井桟敷」のスタッフ募集広告に応募し、専属カメラマンとなる。これを機に、家業を継がず写真で生きていくことを決意。劇団では舞台や広報用の写真撮影を担当。71年に同劇団を離れフリーランスとなる。実家にスタジオを開設するが翌年にはそれを閉じ、カメラ雑誌への作品掲載を中心に写真家として活動するようになった。 75年から77年にかけて『カメラ毎日』に不定期連載した「風姿花伝」が高く評価され、連載中の76年に日本写真協会賞新人賞を受賞。同作は77年の初個展「風姿花伝」(銀座ニコンサロン、東京他)で展示され、78年には初の写真集『風姿花伝』(ソノラマ写真叢書16、朝日ソノラマ)にまとめられた。その後も雑誌への作品発表や個展の開催を重ね、82年に開催した個展「物草拾遺」(ナガセフォトサロン、東京)により83年日本写真協会賞年度賞受賞、85年の個展「日常の断片」(オリンパスギャラリー、東京)により同年東川賞国内作家賞を受賞した。1996(平成8)年には過去から現在までの未発表作も含む作品を見直し、再編成した写真集『人間の記憶』(クレオ)を刊行、同写真集により97年土門拳賞を受賞している。 須田は初期作「恐山」や、東北や関東一円、北陸など各地に取材した「風姿花伝」といった、旅をしながら撮影する手法の作品で評価を確立し、84年に初の海外渡航で香港を訪問して以降は、台湾やベトナムなどにも撮影地を広げていく。その一方で、生まれ育った地であり87年に千葉市に転居するまで生活の拠点であった神田を含む下町を中心に、東京でも日常的に撮影を重ね、写真集『わが東京100』(ニッコールクラブ、1979年)等、そこからまとめられた作品も多い。そのいずれにおいても、日常的な光景に兆す非日常的なもの、異界への裂け目のようなものに対して、独特の感性を向けるという姿勢は一貫していた。また「風姿花伝」で採用した6×6判の正方形のフォーマットのモノクロ写真は、須田作品の代名詞となるが、80年に『カメラ毎日』に連載した「角の煙草屋までの旅」では35㎜判を、83年から84年にかけて『日本カメラ』に連載し、85年の個展にまとめられた「日常の断片」ではカラーフィルムを使用、90年代初頭にはスパイカメラとして知られる超小型カメラミノックスを使用した作品にとりくむなど、多彩な方法で自らの写真表現の方向性を拡張していった。 91年、神田須田町の新幹線高架下にあった亡父の会社の倉庫を改装し、平永町橋ギャラリーを開設、自身や若手写真家などの発表の場として97年まで約6年間にわたって運営する。また2001年よりワークショップ須田一政塾を開講し、13年まで継続するなど、後進の支援や指導にも尽力した。2000年代には大阪芸術大学教授を務めている。 08年からは慢性腎不全により人工透析を受けながらの作家活動となったが、2010年代に入っても、新作および未発表を含む旧作による写真集の出版は20冊を越え、国内外で多くの個展の開催、グループ展への参加を重ねた。13年東京都写真美術館で回顧展「須田一政:凪の片(なぎのひら)」が開催され、同展および長年の作家活動により、14年日本写真協会賞作家賞を受賞。生前最後の出版となった写真集『日常の断片』(青幻舎、2018年)は、19年写真の会賞特別賞を受賞した。没後も新たな写真集が刊行され、2021(令和3)年にベルギーの写真美術館FOMUで個展が開催されるなど、国内外での再評価が続いている。

長野重一

没年月日:2019/01/30

読み:ながのしげいち  写真家の長野重一は1月30日、慢性腎不全のため東京都目黒区内の病院で死去した。享年93。 1925(大正14)年3月30日大分県大分市に生まれる。生後すぐに父の叔父の戸籍に入り長野姓となる。小学校一年までは大分の生家(生野家)で育ち、1932(昭和7)年に上京、東京・高輪で養母と暮らし始めた。35年慶應幼稚舎に編入、同普通部を経て42年慶應義塾大学予科に進学。普通部在学中に本格的に写真を撮り始め、仲間と写真クラブを結成する。大学では「慶應フォトフレンズ」に入会し、OBの野島康三らの指導を受けた。47年9月に同大学経済学部を卒業。当初商社に就職するが、慶應の先輩にあたる写真家三木淳の紹介で、名取洋之助が創刊準備を進めていた『週刊サンニュース』に編集部員として採用されることになり、ひと月ほどで商社を辞めサンニュースフォトスに入社した。同社では編集および撮影助手などを務める。49年3月『週刊サンニュース』が廃刊となり、同12月、翌年6月創刊の『岩波写真文庫』に、編集責任者となった名取の誘いで加わり、撮影を担当するようになる。この間、『サンニュース』誌に初めて掲載される予定で養老院を取材したうちの一点を『アルス写真年鑑1950年版』に応募し特選を受賞、これが初の作品掲載となる。『岩波写真文庫』では共作も含め60冊あまりの撮影を担当した他、同社の総合誌『世界』の撮影も担当した。 54年に岩波を辞しフリーランスとなる。当初カメラ雑誌に技法記事を寄稿、その後週刊誌、総合誌等の仕事をてがけるようになった。56年木村伊兵衛と土門拳を顧問とする若手写真家のグループ「集団フォト」に参加、59年まで「集団フォト」展に出品。58年には初の海外取材で香港に渡航、同年初個展「香港」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には東ベルリンで開催された国際報道写真家会議に日本代表として出席するとともに東西ベルリンを取材、その成果を個展「ベルリン-東と西と」(富士フォトサロン)や雑誌で発表、安保闘争における権力側の象徴として機動隊をとらえた「警視庁機動隊」や高度成長期の世相を映す「五時のサラリーマン」等が注目された『アサヒカメラ』での連載「話題のフォト・ルポ」とあわせ、同年の日本写真批評家協会賞作家賞を受賞した。後年、それらの仕事は写真集『1960 長野重一写真集』(平凡社、1990年)にまとめられる。 60年代を通じてカメラ雑誌、一般誌に多くの寄稿を重ね、67年から70年にかけては『朝日ジャーナル』のグラビア頁の企画・編集を担当した。長野は、さまざまな社会事象を写真家自身の問題意識に立脚したドキュメンタリーとして撮影する自らの手法をフォトエッセイと位置づけ、客観性を過度に重視する報道写真とは一線を画した。77年にはそうした自身の方法をふまえつつ、ドキュメンタリー写真のあり方と歴史を考察した『ドキュメンタリー写真』(現代カメラ新書 No.30、朝日ソノラマ)を著している。 59年テレビ用記録映画「年輪の秘密」シリーズ(岩波映画)の『出雲かぐら』の撮影を、制作を手がけた羽仁進の誘いで担当。以後、ムービー撮影を多くてがける。撮影を担当した映画に、「東京オリンピック」(撮影と編集の一部を担当、市川崑総監督、1965年公開)、「アンデスの花嫁」(羽仁進監督、1966年公開)、人形劇映画「トッポ・ジージョのボタン戦争」(市川崑監督、1967年公開)等。また60年代末から70年代にかけコマーシャル・フィルムの撮影を多くてがけ、73年には撮影を担当したレナウン「イエイエ」のテレビCMがADC賞を受賞した。この時期、多くのコマーシャル・フィルムの仕事を大林宜彦とともにしており、後に「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」(1988年公開)、「北京的西瓜」(1989年公開)、「ふたり」(1991年公開)等の大林作品で撮影を担当した。 80年代には東京をモティーフとした写真の撮影を開始、それらをまとめた86年の個展「遠い視線」(ニコンサロン、東京および大阪)で伊奈信男賞(ニコンサロン年度賞)を受賞。その後も「遠い視線Ⅱ」(ニコンサロン、東京、1988年)、「東京好日」(コニカプラザ、東京、1996年)などの個展を開催。1997(平成9)年には「研究・長野重一の写真学 焼け跡から「遠い視線」まで―長野重一の原点を探る 発見して撮り、感じて写す。」(ガーディアン・ガーデン、東京)、2000年には「この国の記憶 長野重一・写真の仕事」(東京都写真美術館)と、回顧的な個展が開催された。 上記以外のおもな写真集に『ドリームエイジ』(ソノラマ写真選書10、朝日ソノラマ、1978年)、『遠い視線』(アイピーシー、1989年)、『東京好日』(平凡社、1995年)等がある。 91年および95年に日本写真協会賞年度賞(それぞれ『1960 長野重一写真集』、個展「私の出逢った半世紀」に対して)。93年に紫綬褒章、98年に勲四等旭日小綬章を受章。06年には長年の功績に対し日本写真協会賞功労賞を受賞した。

平田実

没年月日:2018/11/04

読み:ひらたみのる  写真家の平田実は11月4日、肺炎のため死去した。享年88。 1930(昭和5)年、東京府北豊島郡板橋町(現、東京都板橋区)に生まれる。旧制早稲田中学校4年修了後、貴族院速記練習所(1947年新憲法施行後は参議院速記者養成所)に入所。同所修了後に速記者として採用され、参議院記録部に勤務する。幼少期から絵を描くことが得意で美術方面への進路を志望していたが、家庭の事情等により断念したこともあり、養成所時代から画塾や舞台芸術学院に通うなど、速記者の仕事のかたわら広く芸術への関心を深めており、体調を崩して参議院を退職した後、そうした関心のひとつであった写真に本格的にとりくみ始めた。 当初、独学のアマチュアとして写真雑誌の月例公募などに投稿していたが、53年には『國際寫眞サロン』(朝日新聞社)に作品が入選、掲載され、50年代半ばからは業界誌写真記者を経てフリーランスの写真家として活動するようになる。撮影とともに、記事の執筆もできたことから業界紙や雑誌など各種の仕事をてがけ、その中で、美術家篠原有司男と取材を通して知り合ったことをきっかけに、60年代にはさまざまな前衛芸術家と交遊を深め、その活動を記録するようになった。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センター、オノ・ヨーコ、ゼロ次元などが60年代に展開したさまざまなアクションやパフォーマンスは、平田が撮影した写真が週刊誌などに掲載されることで広く社会に発信されることとなった。 67年には返還前の沖縄に渡航、以後、沖縄各地の取材を重ね、風土や伝統的な琉球文化、また戦後沖縄の変化の様相などを撮影、75年写真集『うるま・美しい沖縄』(読売新聞社)にまとめる。またハンググライダーやパラグライダー、熱気球などのスカイスポーツに早くから関心を持ち、『ハンググライダー』(萩原久雄との共著、講談社、1980年)、『風のくに』(情報センター出版局、1991年)などの著作がある。 速記者としての経験をふまえ、写真による記録の持つ意義を一貫して重視し、とくにその姿勢は1960年代の前衛美術をめぐる仕事において、パフォーマンスなど、物質的な作品の残らない美術表現の貴重な記録を残すことへと結びついた。そうした仕事は前衛美術の再評価とともにあらためて注目され、2000年代に入ってから、『超芸術Art in Action―前衛美術家たちの足跡 1963―1969』(三五館、2005年)や『ゼロ次元―加藤好弘と60年代』(河出書房新社、2006年)などにまとめられた。また没後の個展「東京慕情/昨日の昭和 1949―1970」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィ―/フィルム、東京、2019年)で戦後復興期から高度経済成長期における東京の街や市井の人々を記録したシリーズが紹介されるなど、前衛美術関連以外の仕事への再評価も進みつつある。

浜口タカシ

没年月日:2018/08/11

読み:はまぐちたかし  写真家の浜口タカシは8月11日、大腸がんのため横浜市内の自宅で死去した。享年86。 1931(昭和6)年9月2日静岡県田方郡(現、伊豆の国市)に生まれる。本名・隆(たかし)。静岡県内の商業学校を卒業後、関西の写真材料商に勤務していた時に写真に関心を持ち、撮影を始める。 55年に横浜に移住。56年には日本報道写真連盟に加入し、写真店を営むかたわら、戦後社会のさまざまな側面にレンズを向けるようになる。59年には皇太子ご成婚パレードにおける投石事件を撮影、その写真が新聞や雑誌に広く掲載される。この頃からフリーランスの報道写真家として、米軍基地、広島と長崎の両被爆地、大学闘争、水俣や四日市などの公害といった多岐にわたるテーマを精力的に撮影、発表するようになった。68年には個展「記録と瞬間」(ニコンサロン、東京)を開催、翌年写真集『記録と瞬間:浜口タカシ報道写真集1959―1968』(日本報道写真連盟、1969年)にまとめ、報道写真家としての評価を高めた。 70年代以降もさまざまな事件、事故、災害などの現場を取材する一方、60年代半ばから12年間取材を重ねた成田闘争や、80年代に入って帰国が始まった中国残留孤児をめぐる取材、70年代初めから10数年にわたって撮影を重ねた北海道の人と自然をめぐる撮影、またライフワークとして30年以上も続けた富士山の撮影など、長期にわたってとりくんだ仕事も多い。2011(平成23)年の東日本大震災の際にも発生直後に被災地に入り、その後も撮影を重ねるなど、晩年まで意欲的に取材活動を展開した。半世紀以上に及ぶ活動や幅広い取材対象は、一人の写真家の仕事としては稀有というべき、戦後日本社会の広範なドキュメントの形成という成果につながった。 写真集としてまとめられた仕事も多く、その主なものに『大学闘争70年安保へ』(雄山閣出版、1969年)、『ドキュメント・視角』(日本カメラ社、1973年)、『ドキュメント三里塚:10年の記録』(日本写真企画、1977年)、『再会への道:中国残留孤児の記録』(朝日新聞社、1983年)、『北海讃歌』(くもん出版、1985年)、『阪神大震災・瞬間証言』(岡井耀毅、照井四郎との共著、朝日新聞社、1995年)、『私の祖国:戦後50年・中国残留孤児の記録』(中国残留孤児援護基金・朝日新聞社、1995年)、『報道写真家の目:ドキュメント戦後日本[歴史の瞬間]』(日本カメラ社、1999年)、『東日本大震災の記録:報道写真家浜口タカシが見た!2011.3.11』(浜口タカシ写真事務所、2011年)などがある。 一貫して報道機関に属さないフリーランスの立場で報道写真に携わる一方で、63年には日本報道写真連盟横浜支部、69年には二科会写真部神奈川支部の設立に中心的にかかわり、それぞれの支部会長を長く務めた他、66年には横浜美術協会にも加入するなど、横浜のアマチュア写真界の指導者として貢献した。また70年代には関東写真実技学校で後進の指導にあたった。 87年には個展「ドキュメント日本:激動の日々35年」(横浜市民ギャラリー)を開催。同展により88年、第38回日本写真協会賞年度賞を受賞。また97年には長年の活動に対し、第46回横浜文化賞を受賞した。晩年には60-70年代の反体制運動を取材した写真による個展「反体制派」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、東京、2015年)が開催されるなど、市井の写真家による戦後史のドキュメントとして、その仕事にあらためて注目が集まっていた。

森永純

没年月日:2018/04/05

読み:もりながじゅん  写真家の森永純は4月5日、心不全のため埼玉県内の病院で死去した。享年80。 1937(昭和12)年11月11日、長崎市に生まれる。本名・純雄(すみお)。44年佐賀県に移住、同地で育ち56年龍谷高等学校を卒業。同年上京して日本大学芸術学部写真学科に入学、60年に卒業した。61年1月、岩波映画製作所写真部に暗室マンとして入社するが、同年11月に退社、日立製作所の委嘱で同社を撮影するために長期滞在していた写真家W.ユージン・スミスの助手となり、スミスが離日するまで約一年間暗室作業などを担当。その後フリーランスとなる。 60年代半ばには写真雑誌などに作品を発表するようになり、60年代末には渡米、ニューヨークに約一年半滞在。帰国後の69年、ニューヨークで撮影した作品による個展「モーメント・モニュメント」(ニコンサロン、東京)を開催、この展覧会により同年の第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。その後「オリジナルプリント’60~’71」(画廊春秋、東京、1971年)、「都市の眺め」(ニコンサロン、東京、1978年)などの個展を開催。78年に写真集『河―累影』(邑元舎)を出版。大学を卒業した60年から63年にかけ、都内の河川の水面を撮影したモノクローム作品により構成され、ブックデザインは杉浦康平が担当。同作により80年、第30回日本写真協会賞年度賞を受賞した。 70年代後半には、海外に日本の現代写真を紹介する「Neue Fotografie aus Japan」(グラーツ市立美術館、1976年、以後オーストリア、ドイツを巡回)や「Japan:A Self―Portrait」(国際写真センター、ニューヨーク、1979年)などの展覧会にも選ばれるなど、都市風景や海の波などモティーフとする独自の作風により評価を確立し、以降も寡作ながら一貫した作家活動を展開した。 『河―累影』は、川面にレンズを向けた最初期の作品を、撮影から十数年を経て写真集にまとめたものであり、また晩年に刊行された二冊目の写真集『Wave:all things change』(かぜたび舎、2014年)も、前作のテーマを引き継ぎ、70年代から長くとりくんだ海面の波を被写体としている。長く森永がとりくんだこの二つの代表作は、いずれも水面という、つねに流動し形を変える被写体をモノクロームの画面にとらえたイメージの累積によって構成されており、生々しい物質感と抽象性を併せ持ち、深遠な世界観を映像化した仕事として高く評価された。また助手時代にスミスのプリントへの高い要求に応えるべく暗室技術を磨き、その後渡米し、現地でオリジナルプリントの概念に触れた森永は、作品世界の基盤としてのプリントのクオリティを徹底して追究したことでも知られる。こうした森永の写真観の一端は、松岡正剛、佐々木渉との鼎談による『写真論と写心論』(工作舎、1979年)においても語られている。

南川三治郎

没年月日:2018/02/06

読み:みなみかわさんじろう  写真家の南川三治郎は2月6日、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年72。 1945(昭和20)年9月14日、三重県員弁郡(現、いなべ市)に生まれる。三重県立桑名高等学校卒業。66年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)卒業。株式会社グラフ社に入社、写真部に勤務するとともに67年に開塾した大宅壮一東京マスコミ塾に第一期生として学ぶ。その後勤務先を退社し、一年間のパリ滞在を経て70年よりフリーランスの写真家として活動する。74年、20世紀を代表する欧米の美術家を取材するプロジェクトに着手、マルク・シャガールやジョルジュ・デ・キリコ、サルバドール・ダリらをアトリエに訪ねて撮影した写真による『アトリエの巨匠たち』(朝日ソノラマ、1980年)にまとめた。多くは面会取材自体が困難な海外の芸術家を訪ね、その住まいや仕事場といった創造の空間ごと写真に収めるという、当時は先例のなかった手法によって美術家たちの人物像を描写したことが高く評価され、同写真集により80年、第30回日本写真協会賞新人賞を受賞。また同様の手法により、グレアム・グリーンやマイケル・クライトンら欧米のミステリー作家を取材した『推理作家の発想工房』(文芸春秋、1985年)で86年、第36回日本写真協会賞年度賞を受賞した。代表作となったこの二作の他、広くヨーロッパの文化をめぐる取材を重ね、『ヨーロッパの窯場と焼きもの』(美術出版社、1980年)、『世紀末ウィーンを歩く』(池内紀との共著、新潮社、1987年)、『ヨーロッパの貴族と令嬢たち』(河出書房新社、1993年)、『イコン(聖像画)の道:ビザンチンの残照を追って』(河出書房新社、1997年)、『ヴェルサイユ宮殿』(黙出版、2000年)、『皇妃エリザベート永遠の美』(世界文化社、2006年)など数多い著作にまとめた。 また2004(平成16)年頃より、世界遺産に指定されている日本とヨーロッパの巡礼の道の取材を始め、『世界遺産巡礼の道をゆく 熊野古道』、『世界遺産巡礼の道をゆく カミーノ・デ・サンティアゴ』(ともに玉川大学出版部、2007年)などにまとめた。日本文化の古層に対する関心は、故郷に近い伊勢神宮の取材へと展開し、13年の第62回式年遷宮をめぐって06年から約8年にわたって撮影を重ね、中日新聞に写真と文による「聖地伊勢へ」を連載(2011年4月から2013年12月)、14年に三重県総合博物館で「『日本の心』第六十二回神宮式年遷宮写真展」を開催した。 長年の制作活動に対して15年、第65回日本写真協会賞作家賞を受賞。また16年、第10回飯田市藤本四八写真文化賞を受賞した。

徳川慶朝

没年月日:2017/09/25

読み:とくがわよしとも  写真家の徳川慶朝は9月25日、心筋梗塞のため水戸市内の病院で死去した。享年67。 1950(昭和25)年2月1日、静岡県静岡市瀬名(現、静岡市葵区)に生まれる。徳川慶喜直系の曾孫にあたり、父慶光は貴族院議員を務めた旧華族(公爵)。父方の伯母は高松宮宣仁親王妃喜久子。母和子は幕末の会津藩主松平容保の孫。 生後まもなく東京・高輪に移り同地で育つ。小学校から高校まで明星学園に学び、72年成城大学経済学部を卒業。中学校で写真部に入るなど、早くから写真に関心を持ち、大学在学中には写真学校に通って技術を修得した。大学卒業後、本田技研工業系列の広告制作会社、東京グラフィックデザイナーズに入社、カメラマンとして自動車の広告写真の撮影などに従事し、約20年同社に勤務した後、フリーランスの写真家となった。 写真を学ぶようになっていた学生時代に、自家に伝わる徳川慶喜ゆかりの幕末・明治期の写真に関心を持つ。慶喜自ら明治期に撮影した写真も多数遺されており、慶喜が使用した写真機材とともに、その整理、保存に努め、のちに『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社、1986年)を監修、出版した。同書の刊行をきっかけとして、松戸市戸定歴史館に慶喜ゆかりの史料類を寄託、幕末明治の徳川家をめぐる調査研究に協力するようになる。またフリーランスになってからは、徳川家ゆかりの建造物や遺構、また徳川慶喜家伝来の遺品や史料類の撮影などをてがけるようになった。 著書に『徳川慶喜家にようこそ』(集英社、1997年、のち文春文庫、2003年)、『徳川慶喜家の食卓』(文藝春秋社、2005年、のち文春文庫、2008年)、『徳川慶喜家カメラマン二代目』(角川書店、2007年)がある。また静岡文化芸術大学で非常勤講師を務めた。 食全般に関して造詣が深く、自ら焙煎を手がけたコーヒー豆の販売や、飲食店の経営などにも関わった。2007(平成19)年には茨城県ひたちなか市に移住し、有機農法の稲作などにもとりくんでいた。

田原桂一

没年月日:2017/06/06

読み:たはらけいいち  写真家の田原桂一は6月6日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1951(昭和26)年8月20日京都市左京区に生まれる。中学生の頃より写真家であった祖父から写真技術を学ぶ。高校卒業後の71年、実験劇団「レッド・ブッダ・シアター」に照明・映像担当として参加。72年同劇団の公演のため渡欧、公演終了後パリに残り、写真家として活動し始める。 パリの自室の窓から撮影した「窓」シリーズ、パリの都市風景をめぐる「都市」シリーズの二つの初期作品で注目され、77年にアルル国際写真フェスティバル新人賞を受賞、評価を確立した。78年からは芸術家のポートレイトのシリーズ「顔貌」、79年からは金属やガラスなどさまざまな素材に落ちた光とそこにつくられる影が織り成す抽象性を帯びた連作「エクラ」などにとりくむ。84年写真集『TAHARA KEIICHI 1973―1983』(ゴローインターナショナルプレス)を刊行、同書により84年日本写真協会賞新人賞、85年第10回木村伊兵衛写真賞を受賞。また85年第一回東川賞国内作家賞、88年にはフランス在住で50歳以下の写真家を対象とするニエプス賞を受賞するなど多くの賞を受ける。1993(平成5)年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章した。 写真集としてまとめられた仕事も多く、主なものに『世紀末建築』(全6巻、三宅理一との共著、講談社、1984年)、『メタファー』(求龍堂、1986年)、『顔貌』(PARCO出版局、1988年)、『天使の廻廊』(新潮社、1993年)などがある。 多彩な写真表現のほか、80年代後半からは光を素材にした立体作品やインスタレーション、環境造形、建築デザインなどにもとりくんだ。その主な作品に89年、北海道恵庭サッポロビール恵庭工場に設置された「光の庭」、2000年、パリ市のコミッションでサンマルタン運河地下水道に設置された「光のエコー」、07年のパリ第七大学新校舎外壁デザインなどがある。04年には写真と立体作品による個展「光の彫刻」を東京都庭園美術館で開催、その後帰国し09年に東京で株式会社KTPを設立、アーティストとしての経験、知見に基づく建築コンサルティング事業、企業のブランディング事業などをてがけた。 14年にはパリのヨーロッパ写真美術館で個展「光の彫刻」を開催、16年には何必館・京都現代美術館で初期から近作にいたる写真作品により構成された「光の表象 田原桂一 光画展」を開催。また同年、写真集『Photosynthesis 1978―1980 光合成 田中泯 田原桂一』(スーパーラボ)を刊行。これは舞踊家田中泯を被写体とした、70年代末にパリやローマ、東京などいくつかの都市で断続的に行われたフォトセッションで撮影され、長く未発表であった作品であり、翌17年にはプラハ・ナショナル・ギャラリーで、同シリーズによる個展「Photosynthesis 1978―1980」を開催するなど、晩年、あらためて写真作品に注力し、精力的に活動を続けていた。東京での個展「Les Sens」(ポーラミュージアムアネックス、銀座)開催の直前に死去。プラハで開催された個展を再構成し、同シリーズの国内での初めての展示となった「田原桂一『光合成』with田中泯」展が、死去の三ヵ月後、原美術館で開催された。

山崎博

没年月日:2017/06/05

読み:やまざきひろし  写真家、映像作家の山崎博は6月5日、歯肉がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。 1946(昭和21)年9月21日長野県松本市に生まれる。幼少期に神奈川県川崎市新丸子に移り、同地で育つ。日本大学付属高等学校で写真部に入部、この頃より写真家を志す。65年日本大学芸術学部文芸学科に入学。高校時代からの友人で、ともに同じ学科に進んだ萩原朔美(のち演出家、映像作家)の誘いで、寺山修司の主宰する劇団「天井桟敷」に出入りするようになり、舞台監督助手、舞台監督を務める。68年大学を中退。翌年天井桟敷を離れ、フリーランスの写真家となり『SD』や『美術手帖』などで現代美術や舞台などの写真を担当。 この頃、被写体を選ばず、与えられた状況で写真画像が得られることそれ自体をめぐって成立する制作のあり方を模索し、自宅の同じ窓から見える光景や、特徴のない海岸と水平線を、定点観測などの手法で撮影する作品にとりくみはじめる。また72年ごろから16ミリフィルムによる実験的な映画作品の制作を開始した。74年、窓のシリーズや海景のシリーズによる初個展「OBSERVATION・観測概念」(ガレリア・グラフィカ、東京)を開催。以後、同題の個展を76年、77年、78年、79年と継続する。また78年にはゼロックス社のPR誌『グラフィケーション』のために、コピー機で風景を撮影する作品を制作するなど、写真を成立させる根本的な要素である光や時間、カメラの原理などめぐって、さまざまな手法の作品を試みる。こうした姿勢は映画作品にも共通し、主な作品に、時間軸の中でフィルムが回るということ自体を表現する作品「A STORY」(1973年)や、天体観測用の赤道儀にカメラをセットし、太陽を一昼夜追尾して撮影した「HELIOGRAPHY」(1979年)などがある。 独自のコンセプチュアルな制作活動が次第に評価を高め、79年には『ジャパン・ア・セルフポートレイト』(国際写真センター、ニューヨーク)に、当時の日本写真界において注目すべき写真家の一人として選ばれて出品。83年には初の写真集として、太陽の軌跡を長時間露光でとらえた連作による『HELIOGRAPHY』(青弓社)を刊行、また同写真集に収載されている「海と太陽」シリーズにより日本写真協会賞新人賞を受賞した。1989(平成元)年には写真集『水平線採集』(六耀社)を刊行。94年、水平線を撮影した写真によるカレンダー作品で全国カレンダー展総理大臣賞を受賞。2001年の個展「櫻花図」(ニコンサロン、東京・大阪)では、桜の花を被写体とし、夜の屋外でストロボを光源に、フォトグラムの手法を試みた連作を発表、同展で伊奈信男賞を受賞している。 87年から89年まで東京芸術専門学校で講師、89年から93年まで東京造形大学で非常勤講師を務め、93年に東北芸術工科大学の教授となる。2005年に武蔵野美術大学教授に就任(2017年3月退任)。 09年にはそれまでの軌跡を振り返る個展「動く写真!止まる映画〓」(ガーディアン・ガーデンおよびクリエイションギャラリーG8、東京)を開催。また死去の直前、大規模な回顧展「山崎博:計画と偶然」(東京都写真美術館、2017年)が開催された。

山田實

没年月日:2017/05/27

読み:やまだみのる  写真家の山田實は5月27日、肺炎のため糸満市内の病院で死去した。享年98。 1918(大正7)年10月29日、兵庫県に生まれる。20年、大阪で医師をしていた父が沖縄の養母の家を継ぐことになり、一家で那覇市に移住、同地で育つ。沖縄県立第二中学校(現、那覇高等学校)では美術サークル「樹緑会」に入り絵画にとりくむ。また当時、初めて簡易カメラを入手し撮影・現像を体験した。1936(昭和11)年、同校を卒業、進学のため上京し38年、明治大学専門部商科に入学。在学中、新聞部員として大学新聞の編集にたずさわった。41年、同大学専門部商科本科(昼間部)と新聞高等研究科(夜間部)を同時に卒業、日産土木株式会社に入社し満洲・奉天に配属される。44年、現地で召集され陸軍に入隊、満洲北部でソ連軍と交戦中に終戦を迎え、捕虜となり、二年間のシベリア抑留を経験。47年に復員し、東京の日産土木本社に復職。52年、同社を辞し、沖縄に戻って那覇市内で写真機店を開業した。 本土から輸入したカメラの販売などを手がけるかたわら、自らも写真にとりくみ、54年、琉球新報写真展に出品した作品「光と影」が特選を受賞、新進の写真家として注目されるようになる。58年に二科展沖縄支部が結成された際には、写真部のメンバーとして参加。また山田の経営する写真機店に沖縄のアマチュア写真家たちが集うようになり、59年に沖縄ニッコールクラブを結成、会長に就任した(独立組織であった同クラブは、72年の本土復帰後はニッコールクラブ沖縄支部に移行、山田は引き続き支部長を務めた)。以後、56年に写真部が設立された沖展、二科沖縄支部、沖縄ニッコールクラブの展覧会への出品を中心に、作品の発表を続け、沖縄写真界の中心人物の一人となっていく。72年から76年にかけては沖縄県写真連盟会長を務めた。 山田がレンズを向けた対象は、主に沖縄の人々の暮らしやそれをとりまく風景、また祭礼など沖縄固有の伝統行事である。写真に関わる専門教育を受けていなかったことから、写真機店を始めた頃、カメラ雑誌を情報源として多くを学んだ山田は、当時『カメラ』誌の月例欄を拠点に、土門拳がアマチュア写真家たちに呼びかけたリアリズム写真運動にも大きな影響を受けた。そのことは、戦中に戦場となり、戦後はアメリカの統治下に置かれた沖縄の現実とその変化を、カメラを介して見つめ続ける仕事へとつながった。 また自由な渡航が認められていなかったアメリカ統治下の時代、62年の濱谷浩や69年の東松照明など、本土の写真家の来沖に際し、山田はたびたび身元引受人や案内役を務め、取材の支援のほか、地元の写真家の交流の場を設けるなど、沖縄と本土の写真界の橋渡し役として大きな役割を果たした。 半世紀以上にわたる写真家としての仕事は、「時の謡 人の譜 街の紋―山田實・写真50年」(那覇市民ギャラリー、2003年)や「山田實展―人と時の往来」(沖縄県立博物館・美術館、2012年)などの回顧展で紹介された他、初めての写真集となった『こどもたちのオキナワ 1955―1965』 (池宮商会、2002年)以降、『沖縄の記憶 オキナワ記録写真集 1953―1972』 (金城棟永と共著、生活情報センター、2006年)、『山田實が見た戦後沖縄』 (琉球新報社、2012年)、『故郷は戦場だった 山田實写真集』(沖縄写真家シリーズ1、未來社、2012年)などにまとめられている。 永年の活動とその功績に対し、沖縄県文化功労者表彰(2000年)、地域文化功労者表彰(2002年)、沖縄県文化協会功労者賞(2002年)、沖縄タイムス賞文化賞(2004年)、琉球新報賞文化・芸術功労賞(2009年)、東川賞飛彈野数右衛門賞(2013年)などを受賞している。

吉田大朋

没年月日:2017/02/10

読み:よしだだいほう  写真家の吉田大朋は2月10日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年82。 1934(昭和9)年5月5日東京に生まれる。53年東京都立石神井高等学校卒業。写真家土方健一に師事。59年準朝日広告賞を受賞し、コマーシャル写真家として頭角を現す。61年『ハイファッション』誌でデビュー、新進のファッション写真家として注目され、多くのファッション誌、女性誌に寄稿するようになる。 文化出版局で『ハイファッション』などを担当した編集者今井田勲の勧めで65年に渡仏、パリに二年間滞在し、日本人の写真家として初めてフランスのファッション誌『ELLE』と専属契約を結ぶ。また欧米の先端的モードを日本に紹介する窓口としても大きな役割を果たした。71年には渡米、ニューヨークに一年間滞在。75年には再びパリに拠点を移し、約三年半の滞在中、『VOGUE』誌などに寄稿するとともに、パリをはじめヨーロッパ各地の土地や人々の撮影にもとりくんだ。この間、70年に『an・an』誌が創刊された際に、エディトリアルデザインを担当した堀内誠一に請われて参画、海外ロケのファッション写真を寄稿するなど、日本におけるファッション写真の第一人者として、長く一線で活躍した。 ファッションの他に著名人のポートレイトをはじめ幅広い撮影をてがけ、とくにパリの都市風景をめぐる写真集『巴里』(文化出版局、1979年)は、モードの最先端に並走するファッション写真の仕事とは対照的に、繊細かつ洒脱な感覚で、都市パリの日常に堆積する歴史や文化を丹念にすくいとった仕事として評価された。79年同題の個展を開催(ミキモト・ホール、東京)。その他の写真集にフランスのファッション・デザイナー、マダム・グレ(ジェルメーヌ・エミリ・クレブ)の作品世界をとらえた『グレの世界』(文化出版局、1980年)や、『地中海夏の記憶』(キヤノン販売キヤノンクラブ、1981年)、『古都京の四季』(朝日新聞社、1982年)などがある。また87年から2001(平成13)年にかけ、東京綜合写真専門学校で講師を務め、後進の指導にあたった。 急逝する直前まで精力的に仕事を続けており、準備中であった箱根写真美術館での個展は、死去後、17年4月から5月にかけて「レクイエム吉田大朋写真展 軽妙洒脱」として開催された。

村井修

没年月日:2016/10/23

読み:むらいおさむ  写真家の村井修は10月23日、急性心不全のため東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年9月27日、愛知県知多郡(現、半田市)に生まれる。愛知県立第七中学校(現、愛知県立半田高等学校)を経て、50年東京写真工業専門学校(現、東京工芸大学)を卒業し、写真の仕事を始めた。初期より建築、彫刻などの撮影にとりくみ、建築雑誌や美術雑誌のための撮影を担当。とくに建築家の丹下健三や白井晟一、彫刻家の流政之、佐藤忠良、澄川喜一らの作品を多く手がけ、57年には流の作品をテーマとした個展「カメラでとらえた彫刻と空間」(新宿風月堂)を開催。67年には『LIFE』誌の連載テーマ「家族」の日本編を担当した。 早くから建築写真の第一線で活躍した村井だが、建築や彫刻といった造型物だけでなく、それらが置かれた空間、さらには風土や暮らしといった周囲の環境にも目を向けた独自の作風は高い評価を受けた。一貫してフリーランスの写真家として、最晩年まで約60年にわたり国内外での撮影にとりくみ、また68年から1990(平成2)年まで母校(東京写真大学・東京工芸大学)の講師として後進の指導にあたった。 その仕事は『旧帝国ホテルの実證的研究』(明石信道著、東光堂、1972年、のち写真・図版版、1994年)以降、単著もしくは写真を担当した共著として書籍にまとめられ、その主なものに『丹下健三 建築と都市』(世界文化社、1975年)、『白井晟一(現代の建築家)』(鹿島出版会、1975年)、『金壽根(現代の建築家)』(鹿島出版会、1979年)、『写真都市』(用美社、1983年)、『世界の広場と彫刻』(現代彫刻懇談会、中央公論社、1983年)、『石の記憶』(リブロポート、1989年)、『前川國男作品集 建築の方法』(美術出版社、1990年)、『そりのあるかたち 澄川喜一作品集』(平凡社、1996年)、『パリ・都市の詩学』(河出書房新社、1996年)、『フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル』(建築資料研究社、2004年)、『京都迎賓館』(平凡社、2010年)などがある。 このうち『世界の広場と彫刻』により83年第37回毎日出版文化賞特別賞、90年には『石の記憶』により第6回東川賞国内作家賞を受賞。また長年の業績に対し2010年日本建築学会文化賞、12年には日本写真協会賞功労賞を受賞した。14年の第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展では韓国館の展示に写真を提供し、金獅子賞をグループ受賞している。 死去の直前に郷里で回顧展「村井修 半田写真展 めぐり逢ひ」(半田赤レンガ建物他、半田市)が開催され、自選の代表作をまとめた写真集『TIME AND LIFE 時空』(赤々舎、2016年)が出版された。

富山治夫

没年月日:2016/10/15

読み:とみやまはるお  写真家の富山治夫は10月15日、肺がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年2月25日、東京市神田区(現、東京都千代田区)に生まれる。中学卒業後すぐに働き始め、のち都立小石川高校定時制に学ぶが57年に中退。独学で写真技術を習得し、60年『女性自身』誌の嘱託写真家となる。その後朝日新聞出版写真部に移り、嘱託としてさまざまな撮影に従事。64年から『朝日ジャーナル』誌上で連載の始まった「現代語感」の写真を担当。世相を反映した新聞等の記事の見出しから選ばれた漢字二文字の言葉をテーマに、大江健三郎や安倍公房らが担当したエッセーと写真とによる社会時評で、富山はこの連載に発表した写真により評価を高め、65年第9回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞した。また66年「現代写真の10人」展(国立近代美術館、東京)にも同作を出品。この年にフリーランスとなり、以後、国内外でさまざまな取材撮影を行う。それらの成果は主に雑誌、新聞等に発表された他、写真集としてまとめられたものも多い。その主なものに、『現代語感』(中央公論社、1971年)、『人間革命の記録』(写真評論社、1973年、石元泰博との共著)、『佐渡島』(朝日新聞社、1979年)、『京劇』(全2巻、平凡社、1980年、杉浦康平他との共著)、『禅修行』(曹洞宗宗務庁、2002年)、『現代語感 OUR DAY』(講談社、2004年)などがある。 同時代の社会への批評的な視点にもとづく「現代語感」シリーズはライフワークとして続けられ、78年には個展「JAPAN TODAY 現代語感」(インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、ニューヨーク)を開催、90年代には『月刊現代』(講談社)に「新・現代語感」を連載、2008(平成20)年には個展「現代語感OUR DAY:1960―2008」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。その一方で、地方の風土や伝統文化を主題にとりくまれた作品への評価も高く、第9回講談社出版文化賞(1978年、『日本カメラ』連載の「佐渡」に対し)、第30回日本写真協会賞年度賞(1980年、写真集『佐渡島』に対し)、芸術選奨文部大臣新人賞(1981年、写真集『京劇』に対し)などの受賞がある。佐渡の長期取材を通して同地で昭和初期に活動した写真家近藤福男のガラス乾板に出会い、それらをもとに編纂した写真集『近藤福雄写真集:佐渡万華鏡:1917―1945』(郷土出版社、1994年)を出版、同書により第45回日本写真協会賞文化振興賞(1995年、財団法人佐渡博物館と共同受賞)を受賞した。また一連の功績に対し、03年に紫綬褒章、12年に旭日小綬章を受章した。

小川光三

没年月日:2016/05/30

読み:おがわこうぞう  写真家の小川光三は5月30日、特発性血小板減少症のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年3月6日、仏像を専門とした写真家で飛鳥園(奈良市)を設立した小川晴暘の三男として奈良県奈良市に生まれる。兄・光暘は同志社大学教授で美術史家。旧制郡山中学校に在学中、兵役を志願し通信兵となる。画家を志し、47年、大阪市立美術館付設美術研究所で日本画と洋画を学ぶ。48年に晴暘から飛鳥園の経営と撮影を引き継いだ。50年、文化財保護法の施行に伴って、文化財保護委員会(現:文化庁)の委嘱で全国各地の仏像撮影に5年間従事する。57年、初の個展を大阪・阪急百貨店で開催する。 父・晴暘の時代のモノクロ写真とは異なり、カラー写真に求められた正しい発色、そしてインパクトのあるライティングを追求した光三は、試行錯誤の末、鏡を用いて堂内に自然光を巡らせて仏像を撮影する手法にたどり着いた。一冊で一体の仏像を取り上げた『魅惑の仏像』シリーズでは、アングルやライティングの変化によって仏像の多様な表情を引き出している。なかでも興福寺・阿修羅立像の、少年らしい柔和さではなく戦闘神としての厳しい表情を切り取った写真には、造像の歴史的背景や当初の安置方法までも踏まえて仏像を撮影するという、光三独自の視点が反映されている。 主な写真集・著作に『飛鳥園仏像写真百選』(学生社、1980年)、『やまとしうるはし』(小学館、1982年)、『魅惑の仏像』(全28巻、毎日新聞社、1986~96年)、『ほとけの顔』(全4巻、毎日新聞社、1989年)、『あをによし』(小学館、1996年)、『興福寺』(新潮社、1997年)、『奈良 世界遺産散歩』(新潮社、2006年)、『山渓カラー名鑑 仏像』(山と渓谷社、2006年)など。生涯にわたって奈良の風景と仏像の写真を撮り続けた一方で、若い頃から仏像が造られた背景でもある古代史の研究に没頭し、『大和の原像』(大和書房、1973年)や『ヤマト古代祭祀の謎』(学生社、2008年)を刊行する。『大和の原像』では、奈良の桧原神社を基点とした同緯度線上に、祭祀跡や社寺が一直線に位置するという「太陽の道」を提唱した。日本環太平洋学会理事を務めたほか、愛知県立芸術大学や白鳳女子短期大学の講師を歴任。2010(平成22)年、奈良県立万葉文化館で「写真展 小川晴暘と奈良飛鳥園のあゆみ―小川光三・金井杜道・若松保広―」開催。2011年、朝日新聞大阪本社で東日本大震災チャリティー「奈良の仏像」展開催。また、海外でも多数の個展が開催された。

田中光常

没年月日:2016/05/06

読み:たなかこうじょう  動物写真家の田中光常は5月6日、肺炎のため死去した。享年91。 1924(大正13)年5月11日、静岡県庵原郡蒲原町(現、静岡市清水区蒲原)に生まれる。本名・光常(みつつね)。祖父は土佐藩出身の明治の政治家田中光顕。第一東京市立中学校(現、千代田区立九段中等教育学校)を経て、1944(昭和19)年函館高等水産学校養殖学科(現、北海道大学水産学部)を卒業。海軍航海学校を経て海軍に任官、終戦により除隊する。戦後すぐの時期には小田原で漁業に従事するが体をこわし、その療養中に写真に興味を持つ。写真家松島進が主宰する研究会などで技術を習得し、53年頃からフリーランスの写真家として仕事を始めた。 初期は科学雑誌や園芸雑誌などのための撮影に従事、しだいに動物写真を専門とするようになり、63年より2年にわたって『アサヒカメラ』誌に「日本野生動物記」を連載。これにより64年第14回日本写真協会賞新人賞、第8回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞するなど、動物写真家としての評価を確立した。66年からは「続・日本野生動物記」を同誌に連載、これらは68年『日本野生動物記』(朝日新聞社)としてまとめられる。以後、国内だけでなく65年のアフリカ取材をはじめとした世界各地での動物の撮影にとりくみ、その仕事は数多くの著書にまとめられた。その主なものに、『カラー 日本の野生動物』(山と渓谷社、1968年)、第21回日本写真協会賞年度賞の受賞作となった『世界動物記』(全5巻、朝日新聞社、1970-72年)、『日本野生動物誌』、『ガラパゴス』、『オーストラリア』、『アフリカ』、『野生の家族』(いずれも教養カラー文庫、社会思想社、1976年)、『野生の世界』(ぎょうせい、1984年)、『狼:シベリアの牙王』(潮出版社、1990年)など。また動物や自身の撮影をめぐる文章をまとめた『世界の動物を追う:動物撮影ノート三十年』(講談社、1979年)、『動物への愛限りなく:世界の野生動物紀行』(世界文化社、1991年)などがある。 科学雑誌の仕事をきっかけに家畜などの飼育されている動物から始まり、試行錯誤を重ねながら野生動物の自然な姿や表情をとらえる生態写真へと発展していった田中の仕事は、機材や情報の限られた時代にあって、まさにこの分野のパイオニアワークであり、同時期の岩合徳光とともに日本の動物写真家の先駆的存在として、後進にも大きな影響を与えた。 日本パンダ保護協会会長、(財)世界自然保護基金(WWF)日本委員会評議員などを歴任し、自然保護活動にも尽力した。長年の功績に対し、1989(平成元)年には紫綬褒章、95年には第45回日本写真協会賞功労賞、2000年には旭日小綬章を受けた。

白岡順

没年月日:2016/03/17

読み:しらおかじゅん  写真家の白岡順は3月17日、肝細胞がんのため死去した。享年71。 1944(昭和19)年3月28日、愛媛県新居浜市に生まれる。67年信州大学文理学部自然科学科物理学専攻を卒業。同年より関東学院大学工学部で実験助手を務める。勤務のかたわら、東京綜合写真専門学校に学び、72年同校研究科を卒業した。 写真学校卒業を機に、勤めを辞め、シベリア鉄道経由でヨーロッパを放浪する旅に出る。73年アメリカに渡航。以後、ニューヨークを拠点に79年まで滞在する。同地ではコロンビア大学の語学プログラムで英語を学び、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ、インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツなどで写真を学ぶ。リゼット・モデル、ネーサン・ライオンズ、フィリップ・ハルスマン、ジョージ・タイスらに師事。79年からはパリに拠点を移し、同地で写真家として活動する。2000(平成12)年帰国。01年に東京造形大学デザイン学科教授に就任、写真を教える(2009年に退任)。08年には新宿区市ヶ谷に、レンタル暗室・ワークショップ・ギャラリーの機能を持つ複合施設「カロタイプ」を開設し、後進の指導・育成にとりくんだ。 作家活動はニューヨーク時代から始まり、80年の初個展「野分のあと」(銀座ニコンサロン、東京)以後、ヨーロッパを中心に国内外で数多くの個展を開催。また89年の「ある芸術の発明」展(写真発明150周年記念、フランス国立近代美術館・パリ国立図書館共同開催、ポンピドゥー・センター、パリ)に出品するなど、グループ展にも多く参加した。 90年パリ写真月間参加企画として開催された「午後の終りの微風」(ギャラリー・ジャン=ピエール・ランベール、パリ)により、ヨーロッパ写真館グランプリを受賞。パリから帰国した2000年には、川崎市市民ミュージアムで個展「秋の日」が開催された。この際に同館で同時開催された「陰翳礼讃」展でもその作品が展示された。同展はフランス国立図書館の写真キュレーターを長く務め、早くから白岡の作品を評価したジャン・クロード=ルマニーの企画によるもので、谷崎潤一郎の同題の随筆に着想を得て、「陰翳」をテーマに企画されたこの写真展に選ばれたことにも現れているように、白岡の作品は暗く深みのあるモノクロプリントを特徴とする。ほぼ一貫して35mmフィルムによるモノクロ作品にとりくんだ白岡の仕事は、いわゆるスナップショットの方法で撮影されながら、独特の静謐さと密度をあわせ持つ作風で知られる。そのクオリティの高いプリントワークによって完成される作品世界の故か、白岡は写真集というかたちで仕事をまとめることがなかったが、一方でその作品は、国内外の主要美術館にコレクションされるなど、国際的に高い評価を受けた。

福島菊次郎

没年月日:2015/09/24

読み:ふくしまきくじろう  写真家・ジャーナリストの福島菊次郎は9月24日脳梗塞のため山口県柳井市の病院で死去した。享年94。 1921(大正10)年3月15日、山口県都濃郡下松町(現、下松市)に生まれる。太平洋戦争末期に二度にわたり陸軍に召集され、終戦まで従軍。戦後復員し、郷里で時計店を開業。戦争末期、広島の部隊に配属されるも、原爆投下直前に九州方面に配置されたことで被爆を免れた経験を持ち、戦後広島に通い、被爆者の撮影を重ねるようになる。写真雑誌への投稿などを通じ評価を高め、1961(昭和36)年、10年以上にわたって被爆者の一家族を撮りためた写真により『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞社)を刊行。これにより同年、第5回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞、またこの年上京、フリーランスの写真家となる。以降、ライフワークとしてとりくんだ被爆地広島の他、全共闘運動(『ガス弾の谷間からの報告』M.P.S.出版部、1969年)、兵器産業(『迫る危機 自衛隊と兵器産業を告発する』現代書館、1970年)、三里塚闘争(『戦場からの報告 三里塚1967-1977』社会評論社、1977年)、公害(『公害日本列島』三一書房、1980年)など、多岐にわたる社会問題にとりくみ、多数の写真集、著作を発表、また雑誌等に多く寄稿した。 80年代には瀬戸内海の無人島に入植し、ジャーナリストとしての活動を離れるが、昭和の終焉にあたって、あらためて戦争責任を問うために活動を再開、取材の他、執筆、講演、また自身の仕事を写真パネルに仕立て、各地の展示に貸出すなど、広く問題提起を続けた。 晩年は2011(平成23)年に発生した東日本大震災における原発事故を取材、常に反権力、反戦の立場から徹底した取材と発言を重ねてきた姿勢があらためて注目され、その活動を追った映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(長谷川三郎監督、2012年)が制作され、代表作をまとめた写真集『証言と遺言』(デイズジャパン、2013年)も刊行された。15年に死去した後も『ピカドン ある原爆被災者の記録』(復刊ドットコム、2017年)が復刻されるなど、再評価が進んでいる。

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